投稿者「木原 康明」のアーカイブ

アメリカ艦船が南シナ海を航行

10月27日、米艦船が、中国が埋め立てを強行し主権を主張する南シナ海を航行した。この米海軍の航行は明らかに中国に対するけん制であるが、米軍はこの「航行の自由作戦」を数週間から数か月続けると言い、これをきっかけに米中間の緊張が一気に高まることが懸念される。

それにしても、このタイミングでの米軍の行動はどういう意味があるのだろうか。つい最近、中国・習近平主席がアメリカを訪問したばかりであり、それと強い関連があることは容易に推測できる。そして先日、韓国・朴クネ氏がアメリカを訪問し、米オバマ氏から中国の行為に対して強く非難するように求められた。この韓国関係も無関係ではないだろう。米国は南シナ海航行に対して韓国の出方を観ている節がある。そしてもう一つ、先日の習近平主席のイギリス訪問に際しての英国の歓迎ぶりにもしびれを切らしたもかもしれない。この様に最近の動きだけを考えても、米・韓・英の相互関係が見て取れる。

韓国にしてみれば、先日の米国訪問が裏目に出た結果だ。韓国の態度表明にもう一刻の猶予もないことは明らかだ。米国は迫っている。米・中のどちらの付くか決断しなけばいけないが、もし優柔不断な態度をとり続ければ、米中の狭間で自滅する可能性もある。

今回の、そしてこれからの米軍の「航行の自由作戦」によって東アジア情勢がどのように転ぶか、日本の一般市民としては断言できないが、いくつかのストーリーは想像できるであろう。それとも予想もしない状況に陥るか、日本としても非常に気になるところだ。

高級ブランドとは。フェラーリがNY株式取引所上場

10月21日、イタリア高級スポーツ車メーカー、フェラーリが、ニューヨーク株式取引所に上場した。そこでフェラーリの経営陣は投資家に対して、「フェラーリとは車メーカーというより、プラダやエルメスのような高級ブランドだ」と発言したそうだ。確かにフェラーリは高級ブランド車メーカーである。これに異論がある人はいないだろう。そしてフェラーリはこの高級ブランド路線で大きな成果を上げてきた。

フェラーリの対極にあるのが日本メーカーといえるだろう。トヨタ・ホンダをはじめ、日本メーカーは「ものづくり」ということを非常に大切にしてきた。そして日本メーカーも大きな成果を上げてきた。しかしフェラーリも単なるブランド屋ではない。フェラーリはもともとレーシングチームであり、そのための研究開発に非常に大きな力を入れている。収益に対する研究開発費率は他メーカーに対して突出している。

しかし車市場が飽和状態に近づいていく中、各車メーカーはブランド性を重視するようになった。その代表例がトヨタのレクサスであろう。ではそもそも「ブランド」とはいったいなんだろう。これに一言で答えることはできないが、あえて一言で言えば「信頼性」であろう。高級ファッションブランドには、現物以上のブランド料がつけられることがよくある。ではこのブランド料は全くの無駄なのか?このブランド料こそ信頼性に対する対価であろう。ブランドが品質の高さを表し、万が一壊れた時には万全なサポートが受けられる。

しかし、ブランドというものは一夜では作れない。長期間の信用ある実績が信頼の形成に結び付くのである。しかしフェラーリは意図的にブランドを形成することにさらに一歩踏み込んだ。生産台数の制限である。フェラーリはこれからも年間9000台以上は生産しないという。稀少性を出すためである。この稀少性という手法は、ファッションブランドでもエルメスなどが行っていることでも有名だ。言わばフェラーリは車界のエルメスになったのである。しかしこの手法は収益規模の限界を作る行為でもある。今回のNY市場上場で投資家が最も気になっているところだ。

フェラーリというブランドはどこまで高められるのか。高級ブランドとしてのフェラーリのさらなる歩みが始まる。

良くも悪くも韓国の存在感がデカい

韓国、朴クネ氏が大統領になってから、韓国の存在感が非常に大きくなっている。良くも悪くも。その原因は一番に韓国の二股外交にある。世界で1番2番目に影響力のある米中間で二股外交を繰り広げる朴韓国は巧みだ。しかしその二股も決着をつける時が迫っているのかもしれない。

10日ほど前、朴氏はアメリカを訪問し、オバマ氏と会談を行った。朴氏としては米韓の絆をアピールしたかったのであろう。そこでオバマ氏から提示されたのは踏絵であった。東シナ海問題に対する踏絵である。オバマ氏は米韓の親密さをアピールしたければ、中国に対して反発せよと迫ったのだ。朴氏は何も反応できなかった。これは二股外交の限界を物語っている。

朴氏の胸中はわからない。経済面で考えれば、現在の中国と親密にすることは非常においしい。しかし安全保障面では米国に属してきた。軍事面ではおいそれと中国に乗り換えることは、親中の朴氏でも相当ためらいがあるのだろう。経済面ならともかく、軍事面でも中国に属すればアメリカの怒りは計り知れない。

現在の韓国の状況を一番喜んでいるのは中国であることに間違いない。韓国が困れば困るほど、中国はおいしいのである。

朴氏はかなりの親中派だ。しかしこれから軍事面を含めて米中どちらに付くのか、それは朴氏の大統領在任期間中に結論が出るほど簡単ではない。おそらく次期大統領も巻き込んでの判断になることは間違いない。

朴氏の表向きの指針は今や明確であるが、次期大統領にどのような方向性を持った人物がなるか、そろそろそちらの方も気になりだしてきた。

世界大学ランキングにこだわるな

毎年、世界の大学ランキングが発表される。最近では、カリフォルニア工科大学の評価が非常に高く、イギリスのケンブリッジ、オックスフォードなどが上位に位置し、数学・理論物理系では圧倒的な存在感を見せるプリンストン大学・プリンストン高等研究所も高評価だ。

今年、日本で話題になったのは、日本の大学が軒並み順位を下げたことだ。東大が43位、京大が88位だ。その結果に多くの人、そして多くの日本人も毎年一喜一憂している。

ところでそもそも大学ランキングとはいったいなんだろうか?大学ランキングの評価基準が明らかになっていない。論文の提出数・引用数が考えられるが、たとえそうだとしても毎年一喜一憂するようなランキングではないはずだ。問題は大学そのものではなく、個人及び組織の意識、そして才能である。もちろん高評価の大学には優秀な人材が多いのだろうと考えられる。しかしランキングにこだわることにどれだけの意義があるのだろうか。

今年、ノーベル賞を受賞された、化学賞の大村さんは山梨大学、物理学賞の梶田さんは埼玉大学出身だ。自分の所属・出身大学の評価が高くないから自分も評価されないと思っている人は、所詮その程度の人間だということだ。真に実力・意欲のある人物は、学歴などほとんど気にしないはずだ。それは地方大学出身でも東大出身でも同じだ。それを大村さん・梶田さんが証明してくれた。

大学ランキングなどはお笑いのネタ程度に思っていればいい。偏差値で学歴を評価するなどは、お遊び程度のことであって、ビジネスで真剣に考えるようなことではない。しかし日本(他国ではもっとひどいところもあるが)では今でも学歴至上主義的な風潮が根強く残っている。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、「学歴を見て人を見ず」とは決してあってはならない。

孔子平和賞、まだ存在していたのか。ジンバブエのムガベ大統領が受賞

今年の孔子平和賞にジンバブエのムガベ大統領が決まった。孔子平和賞は5年前にノーベル平和賞が中国の反体制活動家、劉 暁波氏に与えられたことに中国が反発して作られた賞だ。

まず今回のムガベ受賞を聞いてびっくりしたのは、まだ孔子平和賞が存在していたということだ。中国にしてみれば西洋文化に対する必死の反発であろうが、我々から見れば一種のパロディであり、お笑いのネタを提供してくれる。今回のムガベ受賞に対して、ジンバブエ野党はムガベ氏のことを、「平和の使者の顔をした殺人鬼」と表現している。それはともかく、孔子平和賞を与えた中国はムガベ氏を、ジンバブエ経済に多大な影響を与え貢献したと言っている。確かにムガベ氏はジンバブエ経済にとてつもなく多大な影響を与えた。超ハイパーインフレという影響を。これこそもうお笑いのネタでしかない。

それにしても気の毒なのが、偉大な思想家、孔子様である。孔子様は歴史上の偉大な人物である。しかしその孔子様もこのような賞に名前を無断でつけられることは予想していなかったであろう。孔子様も今頃はあの世で涙を流しているかもしれない。

いつまでこの賞が存在するか予測不能だが、来年はどのようなネタを提供してくれるのだろう。

20年前の死亡事件の放火容疑、再審決定、自白に対する感情と論理

10月23日、大阪高裁で20年前の放火事件容疑で懲役判決を受けた、二人の元被告に対する再審決定がなされた。20年間事件の犯人として扱われてきたわけであるが、三日後に二人は解放される見通しとなった。

この事件に対しては以前から自白強要が疑われていたが、事故の再現実験では弁護側はもとより、事件を立証しようとした検察側の実験でさえも元被告の関与を否定する結果となった。

私がこの事件に対して罪を判断することは全くできないが、もしこの事件の判決が自白強要によるものであれば検察・裁判官によって作られた犯罪となる。自白強要により無罪の人物に罪を着せた検察の罪は非常に大きい。法治国家としては決してあってはならないことだ。

以前から取り調べの可視化については大きな声があがっている。しかし可視化への動きは一向に進まない。これでは検察側が意図的に自白強要を隠そうとしていると思われても仕方がない。今回の再審決定で無罪判決が出れば、逆に言えば検察側の行為が有罪であり、検察側の責任者は罪に問われるのが筋かもしれない。そこまでいかなくても取り調べの過程を調べなおし、なぜこのような結果になったのか国民に説明責任を果たしてほしいものである。

国民にとっては、検察・裁判所から出てくる情報が全てであり、感情的に事件をとらえてしまうことは仕方がないかもしれない。しかし取り調べのプロである検察官が事件の罪を決めつけ、感情的に自白強要を迫ることは決してあってはならないことであるが、検察側では無実の人物であろうが取り調べ対象人物を強引にでも有罪に持っていくことが検察の功績となる。そのような風潮を根本から覆さなければまた同じような悲劇を繰り返してしまうだけである。

政治家に求められる政治に対する真摯な姿勢

最近、自民党の石破茂氏(現地方創生担当大臣)の著書を読んでいるが、著書から一番感じるのは政治に対する真摯な姿勢である。こんなことを書くと石破かぶれと思われるかもしれないが、実際に僕は石破かぶれかもしれない。政治家としての、そして人間としての石破氏が好きだ。とはいえ会ったことも何にもないので本当は僕の知らない顔もお持ちかもしれないが、少なくとも僕の知っている範囲での石破さんは支持するのに値する人物だと思っている。

政治家が政治のことを一番に考えなければならないことは当たり前だと思うが、実際にはそれができていない政治家が非常に多い。とにかく選挙に勝てばいいとそれだけを考えている政治家、ただやみくもにポストだけ追いかけている政治家、このような政治家は多い。しかしこのような政治家は短期間で消えていく運命にあるだろう。

少し前に国民の議論を二分した安保法案の原点は、どうやら石破氏に由来するように感じる。石破氏が集団的自衛権を含む国防、そして国際貢献の必要性を感じていたのはもう数年前、いやもっと前のようだ。防衛庁長官を務めていた時の経験から、そのような法案の原案を構築したようだ。しかし再び今度は自分が防衛大臣になり、その法案の推進は一度棚上げされる。しかし石破氏の心の中にはいつも国防・軍事的国際貢献に対する熱い思いがあるようだ。

戦後、日本は平和憲法と平和主義を掲げ、日本の平和の維持に成功してきた。しかしその平和は何もしないで得られた結果ではない。現に現在も一年間に何百回という戦闘機のスクランブル発進によって中国軍などの越境行為に対処している。そしてアメリカの核に傘に守られているのも事実である。しかし日本人の中には、日本が軍事的行為を全く行っていないから平和なのだと勘違いしている人があまりにも多い。学校でも自衛隊の災害派遣などに対する貢献は教えても、肝心な国防に対する貢献に関することは見て見ぬふりである。

安保法案の賛否、軍事的組織に対する好き嫌いにかかわらず、日本人はもっと国防の現実、そして世界が最も必要としている国際貢献は何かを直視し、もっと思考すべきである。安易な主張ではなく、熟考して判断することが国民には求められている。

「科学的根拠」にだまされるな!

迷信・超能力など明らかに非科学的なことを信じる人は現在でももちろんいるが、数としては少なくなってきたように思う。その理由としては、当たり前のことであるが「科学的ではない」ということである。ところが最近はその「科学的根拠」に騙される人が多いように感じる。

科学的根拠があるかどうかの判断として、話を訴えている人が「これは科学的根拠がありますよ」と言っているかどうかだけに対して反応している人が多いように思う。あるいはその科学的根拠を論理的に説明されると無条件に科学的だと信じてしまう人が多い。

科学的素養がある人から見れば、その論理は明らかに飛躍が合ったり、科学的でないことが含められていたりしてすぐにデタラメだと気付くのだが、科学的思考に慣れていない人にとってはそれだけでも十分に信じるに堅い科学的根拠となる。

例えば以前、「某占いは科学的だから正しい」と主張してきた人がいる。しかし科学的素養のある人からみればそれは二つの点で明らかにおかしいと判断できる。

まず、占い自体科学的でもなんでもないしデタラメだといことである。もしかしたら占いにも正しいものがあるという人はいるかもしれない。しかしこの占い自体を間違っていると判断するセンスは、物理学でいう「熱力学の第二法則」的な論理に似ている。熱力学第二法則ではあるもの(永久機関)はどんなに努力しても絶対に作ることはできないという主張だ。この法則は目的が間違っていることを科学的論理をする以前に否定する。しかしこの法則が認知されるまでには約100年の時間がかかった。

もう一つは、前に述べたように説明が論理的でないということだ。

最近、この「科学的根拠」というものを逆手にとって商売をしている似非科学者たちがいる。その一つに以前ブームになった脳科学ばあちゃんがいる。彼女の言うことは全て科学的だ、科学的に証明されている、ということを前面に押し出している。しかし科学的に冷静に思考できる人間から見ると疑問に感じることが多々ある。しかもたちが悪いことに一部に本当に科学的な事も混ぜられているのだ。だからその一部の科学的部分だけを見て全てが科学的だと信じ込む人が大勢いる。

なにも日常の全てを科学的に考えなければいけないなんていう考えは毛頭ない。常にそんなことを考えていたら逆に頭が凝り固まってしまう。しかし重要な判断が必要なときは、しっかりと科学的判断を下さないと間違った情報に振り回されてしまうということを言いたい。

「何もかも男女平等」は本当に正しいのか?

某ネットサイトでこんな記事を読んだ。

元グラビアアイドル「一番後悔していることは子供を産まなかったこと。2億年前から人類が受け継いできたバトンを放棄してしまった。」

女子アナウンサー「出産適齢期は仕事が一番面白くなってくる時期にあたる。」

このやり取りを見て一番思ったのは、全て何もかも男女平等にするのは本当に正しいのか、ということである。最近は男女平等が極度に強調され、男女の違いを発言するだけでバッシングされるのをよく見かける。しかし男女の違いというものは存在する。その決定的な違いは体のつくりだ。出産は女性にしかできない。このことについては男女平等にすることは100%無理なことだ。しかしそのことに言及せずに女性の仕事・社会進出について男女平等を叫ぶことは危険だ。

前出のアナウンサーが言うように、出産適齢期と仕事が面白くなる時期が重なることがある。そうなった場合に男女で違いをつけるべきではないか。しかし違いをつけるといっても男女を差別するわけではない。「配慮する」と言った方が適切かもしれない。何しろ先ほど言ったように男女には動かしがたい決定的な違いが存在するのだから。それを無視して男女平等ばかり唱えていると、前出の元グラビアアイドルのように後悔してしまうことになるかもしれない。

「全てを平等にする」ということは実は全く平等ではないのだ。本当の平等は全ての人にそれぞれにあった最も適切な配慮をすることだ。今盛んに叫ばれている男女平等は表面的な平等に過ぎない。体のつくりが違えば働き方もおのずと変わってくるだろう。もちろん男女に昇進の差をつけろとか、そんなことを言っているのではない。もうそろそろ「平等」という言葉に異常に反応するのは止めて、「適切な配慮」ということに目を配るべきではないかと思う。

日本のパクリ暴き文化

最近、何かとパクリ疑惑が多い。ついこのあいだの東京オリンピックエンブレムのパクリ疑惑は記憶に新しいが、今度は東京都エンブレムがパクリだと指摘され、舛添東京都知事が釈明した。そこで桝添氏は他のエンブレムと酷似することはありえ、パクリではないと主張した。

僕はこの主張はもっともだと桝添氏の主張を支持したい。もちろん東京都エンブレムがパクリかオリジナルかを判断・断言することはできない。しかしエンブレムやロゴなどは世界に何万・何億と存在するのである。酷似するロゴが全くないという方がおかしいかもしれない。今回は東京オリンピック・東京都のロゴという非常に目立つエンブレムであったために注目を浴びたのかもしれない。とはいえ、パクリを支持するつもりは毛頭ない。しかし現在パクリ疑惑はともかく、パクリ暴き文化ともいえるこれらの風潮は非常にネガティブであるし感心できない。

パクリ疑惑はパクリを認定・確定したものではない。東京オリンピックエンブレムの佐野氏を罵る国民・ネット住民は多いが、佐野氏がどうであれネット住民が匿名でバッシングするのは非常に卑怯だ。もしバッシング・否定するのなら、自分の名前を堂々と名乗ってほしい。

僕は現在のパクリ問題以上に、パクリバッシング文化という非常に陰湿な風潮の方を憂慮している。