投稿者「木原 康明」のアーカイブ

物事の相互作用。

物事が上手くいかない時、取り組むことを絞ろうと考えることはよくある。絞ることによって、一つの事に割く時間と気力を増やすのだ。

しかし、全く逆の事も時には効果がある。一つの事に上手くいかない時、あえて複数の事に取り組む。このことは一見逆効果にも思えるが、物事というものは意外と互いが絡み合って相互作用しており、他の事に対するアイデアが元の事に生きることがよくある。複数の事に取り組むことが突破口になるのだ。

もちろん、他の事に取り組むことによって頭がリセットでき、固定観念にとらわれない発想が生まれるという効果もある。

「選択と集中」とは何かにつけてキーワードとされることがあるが、「複数を選択する」という判断をするのも、物事を解決する一つの手段として有用ではないかと僕は考えている。

科学の研究とは?

「科学の研究とは、世界で一番を取ることである。」もちろんそうは言っても、これは科学の一側面を表したものに過ぎないが、科学の研究に二番煎じ三番煎じは存在しないのは確かだ。二番三番は研究ではなく勉強である。

ただ、テーマは様々あるので、一番と言っても色々な一番がある。大きな一番から小さな一番。ただ、二番は存在しない。

科学では一番乗りが全てを取るのだが、なぜそうなるのかは理由は簡単だ。二番三番はただ一番の成果を追試すれば自動的に結果が出るからだ。もちろん事実はそんなに簡単ではないが。

ただ、ビジネスではもちろん話は違う。ビジネスでは初めから二匹目のどじょうを狙う戦略も重要だ。

科学の研究というものにも流行というものがあり、一部の研究者、いや結構多くの研究者はいかに流行を追うかということに全力を尽くしている。それはいかがなものかとも感じるが、ただ他の研究者が口出しするようなことではないのかもしれない。

他の研究者がやっていない独創的なテーマに取り組んでいる研究者の結果は、いつか必ず大きな評価が下される。ただ、流行の研究が即評価されやすいのに対して、独創的研究は評価されるのに時間がかかる。

しかしそんなことを考えずに、自分が重要だと思う研究に打ち込めばいいだけなのかもしれない。

大人になるほど嘘をつく。

多くの人は、大人になるほど嘘をつき、大人になるほど目が曇る。妙に周りの空気を読み、都合の良い解釈をし始める。

最近の大手企業の不正とその後の釈明会見を見ると、つくづくそう感じる。しかしもちろんそのようなことは、不正企業の経営陣だけでなく、多くの大人に言えることだ。

なぜ急にこのようなことを書こうと思ったかというと、テレビで、ある二十歳前後の少女の、あまりにも率直で世論を気にしない意見を聞いたからだ。この少女の意見は世論の風潮とは逆を行くものであったが、僕には少女の意見の方が正論に思えた。この少女は以前、不条理な世論の逆風を浴びていた人物でもある。この少女にはこれからも、透き通った眼で物事を見続け、率直な意見を述べ続けてほしいと思っている。

大人というものは、良くも悪くも大人だ。子供の嘘は可愛いが、大人の嘘は時には卑劣である。透き通った眼をいかにして持ち続けることができるか。それには自分の信念をどこまで維持できるかにかかっている。

単独でするのが良いか?共同で行うのが良いか?

「一人でできる」と言えば格好いいが、実は「一人でしかできない」というのが正しいこともある。僕自身、人と協調することが苦手で、一人で物事に取り組むことが多い。一人でしかできないということは、利点でも欠点でもありうる。

勉強というものは、人に教えてもらうものという意見も多いだろうが、僕自身は過去に、授業で習うよりも独学でやる方が圧倒的に吸収できて効率的であると感じてきた。そういうこともあって、高校を中退して一人で大学を目指して取り組んだ過去は自分に合っていたのかもしれない。ただ、教えてもらうことと自分で独学ですることは、どちらが良いということではなく、自分のスタイルに合った方を選べばいい。

研究の世界では、多くの研究者が共同研究という形を取っている。新たに出る最新の論文を見渡すと、単著(一人で書く)論文よりも、共著論文の方が圧倒的に多いように感じる。

単著でも共著でも内容が良ければそれでいいのだが、ある研究者は、「共著論文の実質的な成果の九割は一人の研究者が負っていることが多い」と言っていた。実際、僕が周りで観察していた例では、一人の研究者が成果を出して、他の研究者が執筆を担当しているように感じたものもあった。

単独研究と共同研究のどちらが優れているかということは、研究分野・テーマにもよるであろうが、数学・基礎物理などのような基礎的分野では単独研究の影響力の方が大きく、応用・実用分野では共同研究が幅を利かせているように感じる。

日本では協力することの美徳が称賛されるが、単独で物事を進める醍醐味も非常に大きな魅力である。

複雑化と単純化。

世の中には二つの大きな流れがある。複雑化と単純化だ。それは科学においても言えることだ。大雑把に言えば、基礎科学の大きな流れは単純化であり、応用科学は複雑化であると言える。

複雑化の代表的なものは生物、特に人間であると言える。人間は膨大な数の細胞からなっており、複雑化の集大成である。しかしその複雑化の結果、マクロなレベルで非常に秩序のとれた単純化の様相も持っている。この様に一概に単純化か複雑化かとは一方には決められない。

基礎物理は単純化の作業の代表例である。特に素粒子論などの分野では、その単純化の作業を「還元主義」と表現される。この還元主義は科学の体系全体にも言えることであり、

マクロ生物学→分子生物学→化学→物性物理→素粒子物理

という還元的体系を構成している。従って、一番根本的な位置にある素粒子論を理解することは、還元主義的には科学全体を理解することにあたる。

複雑なことを理解することは個々の事象の理解につながるが、単純化をして理解することは物事の本質の理解につながる。単純化と複雑化はどちらが偉いというわけではなく、双方が両輪となって科学の理解は深まっていく。

トランプをめぐる、アメリカ軍指揮系統の麻痺。

先日、アメリカ軍の司令官が、「トランプ大統領が核攻撃を指令しても、それが違法なら従わない」という趣旨の事を発言したという。これはアメリカ軍の指揮系統の一部が麻痺状態であることを意味している。

この発言の重要な所は「違法なら」という部分であろう。何をもって違法と言うかは微妙で難しいところだ。そしてトランプ大統領の核攻撃の指令を否定するために、司令官が違法性を作り上げることもできる。

とは言え、このような状態は、アメリカにとって不利益な事であり、トランプアメリカと密接な関係にある日本にとっても不利益極まりない。その一方、北朝鮮にとっては願ったりかなったりであろう。

確かに、トランプ氏自身に問題があることは否めない。しかし一度選挙という民意によって作り上げた指示系統を内部の人間が否定することはそれ以上に危険だ。

アメリカ大統領という存在は非常に強力な権威・権力であり、「任期付の独裁者」とも言われる。この独裁的なシステムが吉と出るか凶と出るか、我々日本人は吉と出ることを願う他はない。

選んでばかりはいられない!

大事なものを優先的にやる。物事に優先順位をつける。この二つの事は非常に重要なことだ。しかし優先順位にこだわりすぎて前のめりになれないのなら、それは考えなければいけないのかもしれない。

現在の自分は選べる立場ではない。選べる立場になった時に、じっくりと選べばいい。今はやれること、やるべきことに、全力で打ち込むべき時かもしれない。手当たり次第に目の前にある課題を片づけなければいけない。

人生、そんな時は誰でもあるのかもしれない。とにかく全ての事に全力で取り組もう。

“ちょいワルオヤジ”がちょうどいい。

某雑誌のキャッチフレーズにもなっている「ちょいワルオヤジ」。実はこのちょいワルオヤジは、実に理にかなった存在である。

人間、生きていれば何かとグレーな部分が出てくるもので、時には意に反してそれがクロとみなされることもある。しかしそれは悪いことでもなんでもなく、むしろ自然な成り行きだと言える。

グレー、そして‘‘ちょいクロ’’以上に危険なのが「スーパーホワイト」だ。あまりにもホワイトであることにこだわりスーパーホワイトになってしまえば、身動きが取れなくなる。そしてスーパーホワイトは言い換えれば、「何も行動を起こしていない」ということである。何も行動を起こさずに、身動きも取れない状態は、人間の危機であると言える。

極悪になってはいけないが、ちょいワルオヤジはホワイトオヤジよりもはるかに豊かな産物を生み出し、リラックスムードを生み出してくれる。そんな自分の理想とするちょいワルオヤジになりたいと思う今日この頃である。

「体が資本」の意味。

「体が資本である」という言葉をよく聞く。この言葉は何かに打ち込み、その道を極めようとする人にとって、非常に共感する言葉である。そしてたとえ極めようというレベルではなくても、何かに取り組むにあたって、全ての基本はそこにある。

とあるファッション関係の人が、こんなことを言っていた。「お洒落に格好よく見せるのに一番必要なのは、健康的な体だ!」と。イケメン俳優もいいが、どんなイケメン俳優よりも、強靭な肉体を持ったプロ野球・大谷翔平の方がはるかに格好よくスマートに見える。しかもとてつもない結果を出しているのだからなおさらだ。

少し話はそれたが、自分という存在は肉体の存在が前提になっている。精神だけの存在などは現実問題としてあり得ない。

学生時代に数学の研究仲間と、研究をするには必要なものは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものだ。理論系の学問でもそう感じるのだから、実験系の学問ではなおさらであろう。

勉強や仕事に打ち込むのは非常に良いことだが、その前に少しだけ筋トレをすることを日課にするとか、資本である体に目を向けるのもいい。

健康的な肉体を構築することも必要だと感じ、毎日筋トレに励む今日この頃である。

わかりやすいところ、美味しいところだけ取ればいいのか?先端より根っこが大事である。

勉強と言えば、本を読むことを想像する人が多いかもしれない。もちろん本を読むことは勉強のツールとして非常に重要である。

本を読むためには本を手に入れなければいけない。そして本を手に入れるためには本を買わなければいけない。本を買うためには買うためのお金を稼がなければいけない。もちろん図書館で借りるという手もあるが。

学生なら話は別だが、本を読んで勉強するということ以上に、「本を買うお金をどう捻出するか」ということに社会を知る鍵が隠されている。「本を読む」という先端部分より、「本を買うお金を稼ぐ」という根っこに大きなヒントがある。

学問の研究でもそうだ。学術書を買うお金を捻出するためには、研究結果を出してお金を手に入れなければならない。

「投資する(買う)」→「実行する(読む)」→「結果を出す」という‘‘ループ’’を上手く回すことができれば、物事は上手く進むようになる。

根っこが大事なのはIT社会でも同じだ。いくらITツールを上手く使ってビジネスをしても、ITビジネスの手綱はプラットフォームを創出しているgoogleやアップル、マイクロソフト、facebookなどの‘‘根っこの企業’’が握っている。

末端にいそしむことは非常に分かりやすいが、ある意味それは対処療法だと言える。根本的な所に立ち返り、根っこを握りループを作り上げることが非常に重要である。