投稿者「木原 康明」のアーカイブ

自分が追い込まれたとき、それを劇薬として現状突破するためには

人間生きていれば、楽しい時ばかりではなく、苦しい時、精神的に追い込まれる時が多々ある。マスコミなどでは絶対に死んではいけないとよく流されるが、実際に死ぬかどうかは別として、ほとんどの人は何度も死にたいと思ったことがあるだろう。しかしそこで死んだらゼロである。死ぬなら人生で成すべきことを成し遂げてから死ななければならない。

もし自分が追い込まれたとき、自分はどう解釈するであろうか。確かに精神的に追い込まれずに快適に過ごせることができれば、それは非常に素晴らしいかもしれない。しかし僕はそれが理想的だとは思わない。人それぞれ考えは違うだろうが、僕は自分が追い込まれたとき、背水の陣の状態になった時、その状況・精神的状態が飛躍的進歩の原動力になると考える。もちろん追い込まれて折れる人も多々いるかもしれない。そこは人それぞれの物事のとらえ方次第である。そして本当にどうにもならない状況になる人も現実にいるだろうし、僕の考えが全てに当てはまるとは思わない。

それから、自分を意図的に追い込んでコントロールするという手法もある。苦境は必ずしも悪ではない。もちろん悪であることもあるであろう。しかし苦境を逆に自分のコントロールに利用する、ある意味、苦境や精神的窮地は劇薬かもしれない。この劇薬を自分の飛躍に利用できるか、劇薬で倒れてしまうか、それは自分次第である。

自分を快適な環境において快適に物事に取り組むことを求めている人が多いが、もし自分が苦境に追い込まれたときそれを毒とせずに薬にしてしまう、そのような思考が劇的な現状突破の原動力になるのではないかと僕は考える。

オバマ大統領、広島訪問。17分間のスピーチ

27日の午後、アメリカのオバマ大統領が被爆地広島を訪問した。唯一の原爆投下国が、唯一の原爆被爆国の被爆地を訪れるという、歴史的な出来事であった。

オバマ大統領のスピーチは予定では数分であったが、実際には17分にも及ぶ長いものとなった。オバマ大統領の核兵器廃絶への強い思いを感じさせるものであった。

オバマ大統領が謝罪をするのかということが論点にもなっていたが、オバマ氏のスピーチは謝罪という次元の話ではなく、非常に未来志向のスケールの大きな、また、強い信念を感じさせるものであった。

スピーチの内容は、太平洋戦争、原爆投下などの限られた話題ではなく、人類の歴史から古代から続く人類同士の紛争から始まり、科学技術の発展、そしてなぜ現在も不幸な争いが世界で続くのか、そして核兵器廃絶への絶対的必要性、そしてもちろん広島・長崎での不幸な出来事への言及、戦争で対峙し合った日本とアメリカが現在では日米同盟という形で強く結び付いていることなど、多岐にわたった内容となった。

現職のアメリカ大統領として被爆地を訪れることは非常に覚悟のいる事であり、それを実行したオバマ大統領には敬意を表したい。

スピーチが終わった後、オバマ氏が被爆者の代表者とハグを交わしたことは、非常に印象的であった。

話しは変わるが、現在アメリカでは次の大統領選の予備選挙が続いている。そこで過激発言などでトランプ氏が非常に大きな勢いを保っている。本選ではトランプ氏とヒラリー氏の対決になるものと思われる。トランプ氏の台頭には非常に危機感を覚えるが、今回オバマ氏が強い覚悟をもって広島を訪れ、未来に向けての強い意志を表し、核兵器廃絶と世界の平和を約束した行為を、次期大統領にも何が何でも継承してもらいたい。

本音が言えない、建前社会

某歌手の歌詞が女性蔑視であると批判されているという。そこで実際にその歌詞を見てみた。確かに女性蔑視かという観点から見れば、女性蔑視であることは否定できない。

しかしそこで、この歌詞について二つのことを感じた。

一つは、女性を貶めるような悪意を持った歌詞ではないように感じる。

もう一つは、この歌詞は社会一般思想に対する表現というより、一人の男性の想い、タイプの女性について描いているに過ぎないのではないか?

ということである。

一つ目については保留することにして、二つ目について少し考える。もしこのような観点で書かれた歌詞が女性蔑視と批判されるのなら、好みの女性のタイプを持つ全ての男性が女性蔑視ととらえられかねない。

政治家の発言は慎重に慎重を期すべきで、軽い発言を公の前ですべきでないと思う。なぜなら政治家は巨大権力を持ち、政治家の個の力をもっても社会に対する影響力は絶大であるからだ。

しかし個人か個人的にどう思おうが、民主主義自由主義社会では自由なはずだ。思想の自由は保障されている。かといって、女性蔑視が許されるものではないが。

とはいえ、今回の事例にしても、女性蔑視の観点から悪質であるというより、女性蔑視を足掛かりにして批判してやろうという意図が大きく感じられる。今回の問題は女性蔑視であったが、このような思想規律を厳密に運用しようとするとどうなるか?すぐに分かるように本音が言えない社会になってしまう。ささいなことで言えば、好きな女性のタイプを言うだけで差別だと批判されれてしまうであろう。まさしく心の多様性が抹殺されてしまうのである。

この様な本音が言えない建前社会の度が過ぎるとどうなるか、おそらく社会は均一的・共産主義的になり、国家の衰退も免れることはできないであろう。

欧米人はグレーゾーンを上手く利用するという。しかし日本人はグレーゾーンの利用が下手だ。今回の事例がまさしくそうであろう。今回の事例は女性蔑視かと言えば完全に否定できない。まさにグレーゾーンと言える。このグレーゾーンを日本的な画一的運用にこだわれば、先に述べたように共産主義的廃退が待っているであろう。

一億総評論家時代。もっと行動を!

最近何かと問題が起きると、著名人から一般市民まであらゆる人間が評論家と化す。数か月前からの芸能人スキャンダルから、現在進行中の東京都・舛添知事の問題まで、あらゆることが評論、あるいは批評の対象になる。もちろん舛添知事の問題などは深刻な問題であり、批評されるのもやむ負えないと思われるが、それはさておき、批評されている中にはメディアや一般市民がそこまで躍起になって批評することもないだろうと思われることが多い。

この様にいたるところで些細なことが批評の対象になっている原因は、もちろんネットの普及によるものであろう。一市民でも家に居ながらキーボードをたたけば不特定多数の人に批評を公開することができる。

しかし僕が気になっているのは、行動を起こす人間に対して、何も行動を起こさない人間が批評だけを行っている構図だ。もちろん行動を起こしつつ、それをもとに批評を行っている人も少なくないであろう。しかし口だけの人があまりにも多い。挙句の果てには、批評することがメインの仕事になっている有名人もいる。

別に僕は批評すること自体が悪いとは思っていない。しかし思ったり口を動かす前に、まず行動を起こすことが必要なのではないだろうか。しかし皮肉なことに、行動を起こす人間が、行動を起こさない人間に批判されている。もっとも、行動を起こす人間は、ネットで批判する暇などないであろう。

この様にくだらない論評を書いている僕も、くだらない素人評論家になっているかもしれないが。とにかくまず行動を起こすことを考えよう。

パナマ文書問題の報道について

少し前から、パナマ文書問題がメディアを賑わしている。このパナマ文書にあるタックスヘイブンでの行為は、良いか悪いかで言うと確かに良くはない。しかし完全に悪いかと言えば一概にそうとも言えないのではないか。

このパナマ文書に関する問題の本質は、タックスヘイブンの利用者や企業ではなく、タックスヘイブンおよびそれらに関わるシステムにある。メディアではタックスヘイブンの利用者に対してあたかも犯罪者のように扱っているが、彼らは犯罪を犯しているわけではない。(もちろん中には法を犯しているものもあるであろうが。)法を犯さずに脱税まがいのことができる事が問題なのだ。彼らは法を犯していないので、犯罪者扱いをするのは少し違う。もちろん一国の首相が、政治家が自国に税金を払わずにタックスヘイブンを利用していたとなれば、これはモラル上大問題である。元首としての資質を問われ辞任を迫られるのはやむを得ないだろう。

誰がタックスヘイブンを利用したかということは一般市民の興味をひき、それが故にメディアはそれを血眼になって情報を集め報道するのであろうが、本来はタックスヘイブンのシステムの問題に焦点を当てるべきである。

この様に、世間メディアの焦点が少しずれていることが非常に気になる。もう少し問題の本質に焦点を当てるべきではないかと思う。

シリア難民空爆、正義と悪というような一元的な見方でとらえられるような問題ではない

5月6日の報道ステーションで、シリア難民キャンプが空爆に遭い、28人が死亡したというニュースが流れた。もちろんこのことは大問題である。もしヨーロッパで20人も死亡するようなテロが起きると、数日間はその問題が流れ続けるであろう。しかし、今回のシリア難民空爆事件のニュースを取り上げたメディアは、報道ステーション以外(少なくとも僕が調べた範囲内では)見当たらない。大手新聞サイトにも掲載されていないのである。本当にこのような空爆事件が起きたのか、疑ってしまうほどである。

パリのテロが起きた時には、世界中のメディアが何週間にわたって報道し続け、被害者の悲しみを綿密に伝え続けた。しかし今回のシリア難民空爆事件は被害者の悲しみどころか、事件そのものさえほとんど取り上げられないのである。人権と平等が世界で叫ばれている現在、このような報道格差、あるいは感情格差は建前に大きく反しているのではないだろうか。

新興国が裕福になってきている現在でも、その流れに取り残されている発展途上国はまだまだ存在し、シリアの現状などは「発展途上」という言葉さえも使えないひどい状態になっている。

そして今回のシリア難民空爆事件、報道ステーションによるとアサド政権によるものかロシア軍によるものだと推測されているが、現状ははっきりしない。(悪とされる)イスラム国によるテロは逐一報告されている一方、(正義側とされる)欧米諸国による殺害は「ミス」の一言で済まされる。明らかに誰が見てもおかしい。しかし多くの人がそのことについて深く考えずに流してしまう。特に日本人は、欧米のすることは正しいと無条件に信じ込んでいる節があり、疑問を持たない。

今の世界の現状は、正義の欧米と悪のイスラム国という単純な一元的視点でとらえられるようなものではない。今一度、公平な目で問題を分析し、深く考察することが我々一般市民にも求められているように思われる。

他人のアドバイスを聞くだけではなく、自分の頭で考えて生きることが重要だ!

とにかく日本では、他人の意見を聞くこと、アドバイスを聞くことが非常に重要視される。自分で考える前に、いきなり他人に意見を求める人も多いのではないだろうか。もちろん他人の意見がもっともなことも多いが、他人の意見を聞くばかりに、自分で考えることを放棄してしまう。本末転倒だ。

自分の考えに基づいて行動を起こし失敗したら、どう思うだろうか。周りの人は、やはり人の意見を聞くべきだったというかもしれない。しかし失敗してもそれでいいのである。失敗することは悪いことではない。失敗は次への糧である。例え他人の意見を聞いたとしても、それで成功する保証は全くない。他人の意見に従って失敗したら、果たして納得できるであろうか。

成功することは非常に重要である。もちろん失敗はしない方がいい。しかし失敗は悪ではない。成功や失敗ということ以上に、自分の頭で考えて導き出し行動したかということの方がはるかに重要である。失敗も自分で考えて行動した結果であるからこそ、糧となるのである。

自分で考えたことに対しては、自分で責任を負わなければいけない。それくらいの覚悟は必要である。しかし自分の頭で考えない、そして覚悟もない、そんな人間が非常に多い。もちろんそんな考えや覚悟はなくても普通に生きていけるかもしれない。しかしそんな人生にいったいどれだけの価値があるだろうか?

人生は有限である。有限であるから人生は価値があるのだ。永遠の命などには価値はない。この有限の人生をどれだけ価値あるものにできるか、その一つに、自分で主体的に考え生きていくということが必要だと言えるのではないだろうか。

「やらぬ善より、やる偽善」、熊本地震で行動を起こし、寄付するタレント紗栄子さん

初めに断わっておくが、僕は紗栄子さんの行動を偽善とは思わない。本当の「善」からの行動だと思っている。

タレント紗栄子さんが、熊本地震被災者の支援として、500万円の寄付をしたという。貢献のかけらもしていない僕にとっては尊敬の念しか出てこない。

よく「やらぬ善より、やる偽善」という。この言葉は、あれこれ考えるより、とにかく行動を起こすことが大事なんだと言っているものだと僕は思っている。とにかく行動を起こせば、あるいはわずかでも寄付をすれば、間違いなく被災者の助けになるだろう。しかし一人であれこれ考えているだけでは、何の役にも立たない。今回の紗栄子さんの行動は百人力である。

しかし残念なことに、今回の紗栄子さんの行動を批判する人が多いらしい。紗栄子さんは今回の寄付をブログで公表したという。そのことに対して偽善だと批判されているという。僕からすれば、ブログに載せることは偽善でもなんでもない。紗栄子さんは正真正銘、多額の寄付を行い多くの被災者を助けた。それだけが事実なのである。もちろん1億円を寄付した人物が、500万円は少ないというのなら、少しは分からなくもない。もちろんそれだけの寄付をする人物は、そんなことを言うような心の狭い人間であるはずはないが。

実際は、やる偽善でさえもない「やらぬ偽善」という人間が多いのかもしれない。僕自身はどうなのかと言われると、僕自身弁解できない。僕はやる偽善さえできないダメな人間かもしれないが、せめて「やらぬ善」レベルは保ちたい。紗栄子さんを応援するのもそういう気持ちからだ。今回の紗栄子さんの行動を批判する人は、間違いなく「やらぬ偽善」だ。やらぬ善であれば、被災者の役には立てないが、人間失格の烙印だけは免れるかもしれない。

とは言え、いつかは「やる偽善」レベルの人間に昇格したいものである。たとえ少額でも、する機会と場所があれば、僕も微力ながら何かの力になろう。僕もまだまだダメな人間であることを思い知らされた。

 

高須院長の被災地支援と行動力

熊本での大地震被災者に対する支援が動き始めている。支援は公的機関によるもの、私的なもの、様々だ。実際に行動を起こし支援している人たちには、頭が上がらない。

美容外科の高須クリニック、高須克弥院長が、支援の表明をした。私的財産を投じ、ヘリで物資を届けるという。我々一般市民には到底まねのできないことだ。そして高須院長の行動力にはいつも驚かされる。

高須院長は災害支援以外にも、様々な支援活動を行っている。マイナーで資金に困っているスポーツへの支援、そして賛同する活動へのスポンサーなど、高須院長の社会的影響力は大きい。

本業の美容外科に関しては、新しい治療を自分の体を実験台にして確かめるなど、本業に関しても抜かりはないどころか、常に他者の数歩先を行っている。

高須院長には「知行合一」という言葉が似合っているかもしれない。考えるだけではなく、常に行動を起こし実行に移している。

考えるだけで、口にするだけで、全く実行に移さない人も多い。それが日本人特有のものか、人間の特性なのか、僕にはわからないが、言うより先に実行に移す高須院長の行動力に、我々は習わなければいけない。考えているだけでは何も動かない。とにかく少しでもいい。少しでも実行に移すことが世の中を変える原動力の一部になる。

高須院長の支援がいかされることを祈るばかりである。

熊本で大地震。気象庁および地震学者の、お粗末な後付見解

14日から熊本地方で大きな地震が相次いでいる。16日未明には、14日の地震より規模が大きい、マグニチュード7.3の地震が起きた。被害者の安全を祈るばかりである。

いつものことながら、気象庁及び地震学者の見解があまりにもひどい。はっきり言って素人レベルだ。もちろん専門家はある程度の根拠をもって言っているのであろうが、それから導き出される発言がこのレベルかと思うと情けないばかりである。

さらに14日の地震が起きた後、「震度6弱の余震が起きる可能性があるので注意してください」と気象庁及び地震学者は発言していた。この様な余震の予想などははっきり言って素人でも判断できるレベルだ。

そして現実は、16日にさらに大きな地震が起きることになる。すると気象庁及び地震学者はコロリと発言を変え、16日の地震が本震で、14日の地震は前震だったと論を覆した。全く持ってお粗末な後付見解である。

地震学という学問はもちろん基礎科学的な性質を持ち、実学一辺倒ではない。ですから地震学の全てを社会に還元しなければいけないとは思わない。しかし他の学問よりも社会への影響の大きな学問でであることは言うまでもない。地震学の主目的は防災・予知である。残念ながら地震予知に関してはまだ地震学はそれが可能なレベルには達していない。しかし防災に関しては現段階でも十分できる事はあるはずだ。

これも素人の僕の後付意見になるが、なぜ地震学者は14日の地震が前震で、後に本震が起きる「可能性」を指摘しなかったのか?このことに関してプロである地震学者は説明責任を負うべきではないだろうか。地震が起きるたびに毎回発言される地震学者の後付発言にはもううんざりである。一般市民は、現在の地震学はどれほど進歩していて、また何ができないか判断できない。今一度地震学者たちは、現在の地震学の状況を国民に正確に説明する責任があるのではないだろうか。