投稿者「木原 康明」のアーカイブ

原理がわかれば怖くない!

何かに対して怖がっている時、その大きな理由は無知から来るものである。世の中不思議なことはたくさんあるが、原理を正確にしっかりと理解すれば、大概の恐怖や悩みは解決する。

例えば「幽霊は存在するか?」という問いにどう答えるか?「そんなことは科学的ではない」と否定する人は多いが、そんな理由は理由にもなっていない。そもそもそんな答えは科学的でも論理的でもない。

僕ならば、原子レベルから論理的に非存在を答える。原子論によって幽霊の存在を論破することができる。

今、科学的社会になりながら非科学的なことが横行しているのは、原理を理解しようとしないで何もかもがブラックボックス化されていることが大きな理由だ。

原理を論理的に理解することは、現代の多様な日常を生きる上では欠かせない要素になっている。

一流、二流の判断は誰が下すのか?

世間は格付けが大好きだ。どの世界にも一流や二流の格付けは存在する。しかしこの一流、二流の格付けの判断は誰が下すべきなのか?

判断の種類を大きく分けると、玄人による判断と素人による判断に分かれる。しかし多くの場合玄人による判断が幅を利かすのだが、素人による判断も決して無視はできない。

料理を例にとると、どの料理が美味しいかという判断を下すとき、ミシュランのようなプロによる判断が絶対的に思われる風潮もあるが、単純に素人が食べて美味しいかどうかということは非常に重要である。なぜなら料理を日常的に食べるのはほとんどが素人であり、先入観のない素人が美味しいと思えないような料理は美味しい料理とは言えない。

このような例はいたるところに存在する。音楽、そして小説などは、素人による素朴な判断が重要になる。音楽も小説も、一般市民に受け入れられ、多く売れたものが良いものだというのは重要な判断基準である。

玄人の判断が世界を極め、素人の判断が世に広める。どちらも次元の違う重要な判断基準である。

リスク対効果。

物事の判断を下すとき、リスクばかりに目が行ってしまうことがよくある。確かにリスクを評価することは大事だが、リスクばかりを評価し、メリットを評価できないでいては正しい判断ができない。リスクとメリットを比較して判断を下すこと、すなわち「リスク対効果」を評価することが重要である。

リスクだけを見ていると、そのリスクがたった1%しか起こらない事案であってもそれを過剰に評価してしまう。極端な例で言うと、交通事故に遭う確率はかなり低いが、交通事故に遭うことを怖がって外出しなければ、それによる人生の損失は計り知れない。

費用対効果という言葉があるが、費用も一種のリスクと考えれば費用対効果もリスク対効果の中に含まれるだろう。すなわちリスク対効果はより広い概念であると言える

リスク対評価をすることによって物事を正確に判断することができ、また自分の行動の自由度もかなり広がり可能性が飛躍的に大きくなる。

リスクを冒して挑戦するということは、そのリスクに勝るメリットがあるということである。リスク対評価を行動原理とし、リスクに挑戦し続けたいものである。

「科学」、それは普遍的なもの。

なぜ科学を研究するのか?そして科学の価値とは何なのか?それの一つの答えは「科学の普遍性」である。

多くの人にとって、科学の理論よりもエベレストの登頂の方が夢を感じるかもしれない。あるいは社交パーティーのような華やかな世界の方が憧れるかもしれない。確かに世界一高い山への挑戦は非常に分かりやすい。それも人間の挑戦の一つとして価値があるだろう。

では科学世界への挑戦はどうとらえられるだろう。科学は実験室の世界の話に過ぎないのか?あるいは単なる紙上の計算に過ぎないのか?その上辺だけを見れば科学は非常に小さな世界の話である。

しかし科学の最も大きな特徴は「普遍性」である。どう普遍なのか?それは机の上で計算して出した理論は、宇宙のどこに行っても通用する。即ち、机の上で、あるいは実験室の中から宇宙全体を達観しているのである。このスケールの大きさは半端ではない。そう考えるとエベレストも地球上の小さな世界の話である。

この科学のスケールの大きさと普遍性に気付けるかどうか?それに気付けることができた時、世界観は大きな変貌を遂げるだろう。

他人からの評価。

「人間」という言葉があるように、人は人の間で生きている。したがって他人からの評価が気になるのは当然である。他人の評価なんて気にするなとは言われても、社会の中で生きている限り他人からの評価からは逃げられない。自分一人だけの評価で生きようと思えば、もう仙人にでもなるしかない。

とは言え、他人の評価を過剰に気にしすぎるのも良くない。自分の価値観を確立し、自分の物差しを持つことは重要である。自分の評価というものをしっかりと持たないと、他人に振り回されるだけだ。

自分の観る世界と他人が観る世界は違う。同じものを観ても色が違う。だからこそ同じ世界に生きていても多様な価値観が生まれるのである。多様な価値観は世界を実り豊かなものにする。多様な価値観を認める世界は懐が深い。単一的な価値観だけで物事を進めても、どこかで行き詰ってしまう。そのような限界を突破するためにも他人の評価というものは必要である。

自己評価と他人からの評価、その双方からの評価をもとに、バランスのとれた実行力を身に付けることが必要だ。

最も小さく、最も大きな夢。

「素粒子」、それは最も小さい世界の話であり、最も大きな夢の話でもある。

素粒子の定義は時代によって変わる。百年以上前の素粒子とは分子・原子であったが、時代が進むにつれ、原子核・電子、そしてクォーク・レプトンへと微小になっていく。最近はもっと小さい世界の話もある。

素粒子の世界を記述するのが「素粒子論」。素粒子の科学は、理論が実験を先行している。その大きな理由は金銭的理由だ。素粒子実験の施設である加速器は建設するのに数百億円、数千億円かかると言われている。それに対して実用的対価は事実上ゼロ。そんな科学の存在を世間は簡単に認めない。

素粒子物理の実用化は考えられないが、素粒子物理は人間の知的活動の集大成だと言える。素粒子への挑戦は、人間の知性への挑戦である。

この最も小さい世界への、最も大きな挑戦に、科学の壮大な夢が存在する。

日本に居ながら世界一を目指す!

日本に居て日本一を目指すのは、全ての分野で可能だ。スポーツであっても学問であっても、あるいは芸術・お笑いであっても、日本国内で一番になれば日本一である。しかし多くの分野で日本に居ながら世界一を目指すのは不可能だ。

例えばプロ野球では、日本でどれだけ結果を出してもそれは世界一とは認められない。王貞治はホームランの本数が世界一だと国内ではよく言われるけど、アメリカではそんなことは誰も口にしない。イチローが世界一と言われるのは、メジャーリーグに渡って結果を出したからこそだ。王さんが海外で世界一と認められないのは、王さんの実力が足らないというより、そもそも舞台が違うということによるものだ。

このように世界一を目指すには、日本国内に居てはまず世界の舞台に立てないということから、原理的に世界一を目指すのは不可能だ。

しかし、分野によっては日本に居ながら世界一を目指すのは可能だ。その最たるものが学問であろう。現代では海外の情報は即時に手に入る。そして日本国内で出した結果であろうが、アメリカで出した結果であろうが、良い物は良いのである。学問に国境はない。

芸術だってそうかもしれない。海外でスキルを身に付けるかどうかという問題はあるが、日本で作り上げた作品が優れていれば、それは世界で評価される。

日本人は舶来信奉主義的な考えにとらわれている。同じものでも欧米で出たものの方が優れているという幻想に包まれている。しかし今必要なのは、日本発でも世界一になれるんだということを証明することではないだろうか。

セルフマネジメント。

最近強く感じているのが、「自分をどうマネジメントしていくか」ということだ。自分のマネジメントを甘くしてしまうと、どうしても油断ができ、ついだらけてしまう。もちろん僕がそういう人間だからなのかもしれないが、目標に向かって進んでいる身としてはセルフマネジメントをしっかりと行い、課題をこなしていくことが必要である。

セルフマネジメントの中で特に重要なのは時間の管理だ。無料の娯楽があふれている現代において、少しでも油断をしてしまえばずるずると娯楽にはまってしまう。そうなれば時間の浪費はあっという間だ。

時間のマネジメントは大事だが、その一方で自分の人生は束縛することなく解き放ったほうが良い。人生を計画で固めるのは面白くない。ある程度の方針は立てたほうが良いが、人生に自由度を持たせることは大事である。

セルフマネジメントは、しっかりとした展望を持たせながら、かつ、思考や行動に幅を持たせることが肝である。

「回り道」が近道。

目の前の課題に対して、それは無駄ではないかと思い避けてしまうことが多い。「他に何か近道はないか?」と最短ルートを模索してしまう。もちろん最短でたどり着くことができれば最もいいのかもしれない。しかし最短ルートだと思う道が本当に近道かどうかはわからない。

目の前の課題に対して地道に取り組むことが、近道への一歩だ。目の前に飛び込んできた課題というのは多くの場合無駄ではない。特に先が見えない時は、まず目の前の課題を乗り越えるとよい。

僕は今までたどってきた道に対してほとんど後悔することはないが、ただ一つだけ後悔していることがある。それは英語を避けてきたことだ。英語という目の前の課題を避けてきたばかりに、かなりの遠回りを強いられてきた。やはり目の前の課題にしっかりと取り組むことは大事だ。

そして、自分の行動、自分のやるべきことを自分でしっかりと考えて導き出すことも近道への一歩だ。他人に言われたことしかやらなければ、自分という人間の基盤は築けない。

自分の考えたことをやると言えば、他人の言うことを無視して自己中心的だと見えるかもしれない。しかし「自分のやりたいことしかやらない」という自己中心的な考えと、「自分の考えたことをやる」という意志は全く違う。自分の意志を持って人生を切り開いていくことが大事なのだ。

近道を通るということは、かなり強い意志を持つことが必要である。そして自分で自分の人生を構築していくこと、それが人生の近道と言えるのかもしれない。

「紅白歌合戦」は落ち目なのか?

2017年の紅白歌合戦の視聴率が、ワースト3を記録した。この事実だけを見ると紅白歌合戦が落ち目になっているような印象を受けるが、それは本当だろうか?

かつての紅白歌合戦は視聴率50%越えは当たり前。国民全員が大晦日には紅白を観ていたと言っても過言ではない。しかし2017年の紅白の視聴率は40%を切っている。

紅白の低視聴率化の原因として真っ先に思いつくのは、国民の興味の多様性とネットの台頭であろう。「大晦日は紅白」という固定観念から、お笑い・格闘技へと興味の分散が広がった。そしてネットの普及により、テレビで見なくても「後でYou Tubeで好きな歌手の所だけを観ればいいや」ということになってしまう。

そして僕が一番大きいと思うのが、紅白の4時間ぶっ続けというのが、お手軽社会である現代ではあまりにも長すぎるのではないかということだ。現在のネット動画の主流は10分程の短編動画だ。僕自身も1時間のテレビ番組はほとんど観ないが、You Tubeの13分程の釣り動画は毎日チェックしている。

現代では何もかもが手軽に済ませることが好まれる。先ほどのネット動画もそうだが、小説でも大部なものより短編が好まれる。また数学や物理などの学術書でも大部なものは敬遠され、コンパクトにまとまったものが人気を集めている。

紅白の低視聴率化の理由はいろいろ思い当たるが、これは紅白だけの問題ではなく社会全体の性質の変化が表面的にあぶりだされているのではないかと思う。

紅白に対する考え方の変化は、日本人の国民性の変化を映す鏡ではないだろうか?