投稿者「木原 康明」のアーカイブ

「資本主義」の次。

現在様々なところで、資本主義の次、つまり「ポスト資本主義」が模索され提言されている。資本主義の次が模索される理由は、多くの人が現在の資本主義体制に対して限界を感じているからだ。では現在の資本主義のどこが限界なのか?一つは格差の拡大である。これについては現在様々なところで取り上げられているが、いまいち決定打となる解決策は見出されていない。もう一つはITの急激な発達、ネット社会の急激な拡大であろう。ITの発達はボーダーレス化を促進させ、つまり国境という概念が希薄になって来ている。日本にいながら世界のどこにいる人とも瞬時にやり取りができ、ネットで世界の様々なコンテンツにアクセスできる。

このような事から、これまでの資本主義体制が限界を表し、否応にもポスト資本主義を考えざるを得ない状況を生んでいる。しかしこれは、中国のような共産主義が正しいと言っているわけでは全くない。確かに中国は急速な発展を遂げている。しかし中国の状況は資本主義国家よりもひどいと言える。その最たる例は、国家による国民の監視である。皮肉なことに、ITの発達は国家による監視を極度に容易にすることとなった。一見、ITの発達は大きな自由度をもたらしたように思える。しかしこれは「檻の中の自由」だと言える。しかし檻の中にいる自由人は、自分が檻の中にいることに気づいていない。

これまで我々は、資本主義こそが正義だと教えられてきた。確かに資本主義はこれまで様々な富を多くの人にもたらしてきたのかもしれない。これは逆に言うと、現在の資本主義の限界は富の力の限界だと言える。極論を言うと、昔は金さえあれば何でもできるという面があった。しかし現在はお金の価値の限界が露呈している。例えば、AIが発達するにつれ、人間性というものが重要視されてきているのではないかと思う。明らかに人間性はお金で手に入れられるものではない。コンピューターが発達するにつれ、自分の人間性というものを強く自覚する必要が出てきた。これまでは自分が人間であることなど、あえて考えなくても無意識に自覚する事が出来た。しかし効率性重視の現代社会では、それさえも難しくなってきている。

僕は幸運なことに、数理物理という人生を懸けるものに出会うことができた。それによって自分の意思が簡単に揺らぐことはほとんどない。自分の人間性を確立するためには、人生を懸けて取り組むものを見つけることが重要ではないだろうか?すなわち、人生の軸を作るのである。もし軸がぶれてしまえば、自分のやっていることなど瞬時にコンピューターに取られてしまう。そして怖いことは、それに自分が気づかないことである。もちろん、人間というものは千差万別である。だから個人的なアプローチの仕方は様々ある。しかしどの人間も、国という土地とシステムの中に生きている。だからどのような国であるかが非常に重要であり、それが個人の生き方にも大きな影響を与えることになる。なので資本主義が限界を表している現在、その次を真剣に考えることが非常に重要になって来ている。

たまにお酒を飲むのがいい(かも?)。

お酒は体や脳に良いのか?と問われると、現在では99%(100%?)良くないと言われている。昔は少量のお酒ならむしろ健康に良いとも言われていたが、最近の研究の結果によると、少量のお酒でも健康に良くないということが明らかになっている。少量のお酒は薬になるという言葉は、お酒を飲む人が自分を正当化するために言われた言葉かもしれない。

しかし時には、お酒を飲むことは気分転換になる。そのためにお酒を飲むという人も多いだろう。確かに健康には99%(100%?)良くないかもしれないが、たまにお酒を飲んで気分的に調子が良くなるのならばそれもありであろう。特にストレスがたまっている時などは、お酒で気分をやわらげようとしたくなる時もある。それはそれでありだと思う。

しかし「お酒は飲んでも飲まれるな!」とよく言われる。これが非常に重要である。お酒に溺れて依存になれば、100%悪い方向へと進む。だからある程度自制をかけることが必要である。僕自身はお酒はかなり好きな方だが、現在はお酒を飲まない日の方がだいぶん多いし、たまに飲むときも缶ビール一本か二本くらいで抑えている。そのおかげで、体も精神的にも良い状態を維持できている。

体と精神は、自分でコントロールすることが必要である。そのためにはお酒は極力飲まない方が良いかもしれない。しかし人と飲むことは非常に楽しいものだし、それで付き合いが円滑に進むのならば飲まない手はない。ここでもやはりリスク対効果という考えが重要だ。健康面でのデメリットと、それ以外の面でのメリットを比較してみる。そう考えると、たまに飲むのはメリットは大きいのではないか?ということで、一週間に一度(か二度)くらいはお酒を飲むのは悪くないと思うがどうであろうか?

未来はとてつもなく明るい!

明るさの評価には二通りの方法がある。一つは絶対的な明るさ、もう一つは相対的な明るさだ。絶対的な明るさというものは、測定器を使って正確に測ることができる。人間の人生の明るさで言えば、例えばお金だとかであろう。もちろん、お金だけで明るさを測れる訳でなく、あくまで一側面を評価したに過ぎないが、お金は数値で厳密に測ることができる。相対的な明るさは、つまりコントラストである。それは同じ一万円を所持していても、お金持ちが持つ一万円と貧乏な人が持つ一万円では全く価値が変わるということである。

人間の人生を測るとき、どうしても絶対的なものにこだわりがちだ。しかし実際に感じる明るさは、相対的なものの方がより感じやすいように思える。では、絶対的な明るさと相対的な明るさのどちらを重要視すべきか?もしこの質問に迷うのなら両方手に入れればよい。しかしそうは言っても、これは簡単な事ではない。もしかしたら普通に平凡に暮らすことを望む人もいるだろう。そこはそれぞれの人の価値観の違いである。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。

今僕は、非常に明るい未来が見えている。未来が楽しみで仕方がないのである。しかし現在はまだ光の中にはいない。だから自信はあるが実感は全くない。今の僕を支えているのは明確なビジョンである。このブログでも何度も引用している山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ワークハード)」、全てはこの言葉が表している。従って、後はワークハードをするのみである。いや、ビジョンもどんどん更新して進化させていかなければならない。

リスクには目に見えるリスクと目に見えないリスクがある。目に見えないリスクというものは、誰もが無意識に取っているものだ。しかし目に見えるリスクは多くの人は避けようとする。例えばお金に関するリスク、あるいは人生に関するリスクなどだ。しかしこの目に見えるリスクを取れるか取れないかが意外と人生を大きく左右する。リスクを取り続けている時、大概人生はどうしても暗くなりがちだ。しかし未来の人生は非常に明るいように思える。これだけの未来の明るさを感じれるのは、人生において挑戦し続ける者の特権かもしれない。あとはそれを実現するのみである。

最近、僕が社会評論をしていない理由。

僕は最近、ブログで社会評論をほとんどしていない。いや、やり切れていないと言った方が良いかもしれない。その理由は、ポジティブな理由とネガティブな理由がそれぞれある。

ポジティブな理由は、評論者ではなく実行者になることが重要だと思っているからだ。例えば、政治家を批判しようと思えばいくらでもできる。しかし自分自身は政治家ではない。批判するだけして自分は何もしないというのはフェアじゃないと言える。もし政治家を本気で批判しようと思うのならば、自分自身が政治家になろうというくらいの覚悟が必要なのではないか。少なくとも自分が選挙に立候補するというくらいの行動力が必要かもしれな。もちろん政治家に対して国民が審査することは必要だ。そういう意味で、国民が政治家を批判することは非常に重要な意味がある。権力を放置してしまうと、自然独裁化をたどってしまう。しかし矢面に立たされているのは政治家であることも理解しなければならない。

ネガティブな理由は、自分が弱気になっているということである。現在、自分の人生に対しては積極的に強気に出ていることは間違いない。しかし社会の中で自分というものを考えると、なんだか評価を気にしているところがあるように思える。もちろん、社会での評価というものは重要かもしれないが、少なくとも僕自身は周りの評価などに行動を左右されるべきではないと思っている。僕の目指しているところはそういうところにある。その一環として、社会評論、政治評論をもっとすべきであるはずだ。しかし現在、それができていない。もちろん準備はかなりしている。なので、自分の気持ちの整理がつくと、また積極的に評論していきたいと思っている。

他人に対して自分の価値観を押し付けるのはおそらく間違っている。しかし自分の価値感を主張することは必要だと思う。政治や社会に対しても様々な価値観があるはずだ。だからそれぞれの人が様々な価値感に基づいて様々な評論をすることは必要だ。政治に対して、社会に対して、そして科学に対しても様々な価値感をぶつけ合い、正しい道を探っていくことが必要である。

社会は疑っても、人間は信じる。

人生が上手くいかない時などは、どうしても人を疑ってしまうことが多い。いや、人生が上手くいっていても、人を疑うことは多いかもしれない。しかし人を疑ってばかりいると、ますます疑心暗鬼になってしまう。なので、信じるべき人に対しては絶対的に信じるということも非常に大事だ。そのように信じるべき人がいることは、自分にとって非常に大きな財産だ。

しかし社会は明るい部分と暗い部分がある。社会とは疑ってかかることが前提になっているようなところがある。社会や政治、ビジネスなどは慎重に疑ってナンボみたいなものである。しかしその中にあっても、味方は信じなければならない。確かに味方であっても、打算的に味方になっている人も多い。しかしそのような打算的に味方になっている人に対しても、信じて付き合うか、疑って付き合うかによって、これからの展開は大きく変わる。

何だか現代においては、疑って生きる人が騙されにくく、賢い人間だと思われているようである。しかし僕は疑う人が賢いとは全く思わない。もちろん疑うべきところでは疑うことは必要だが、信じるべきところで信じることができる人、そのような人が賢い人間であると思う。確かに信じることによって失敗することもあるだろう。しかしそれ以上の成功を挙げればよいだけの話である。

失敗しないように生きるか?成功を挙げるために生きるか?これは同じことのように思えるが、根底は全く違っている。なぜなら成功を挙げるためには、その十倍の失敗が必要である。大成功を挙げるためには、その百倍の失敗が必要かも知れない。失敗をネガティブに捉えるか?ポジティブに捉えるか?そのような事が人間性であると思う。ポジティブになればなるほど、正しく人を信じることができる。そして正しく疑うこともできる。すなわち、ポジティブな判断を下し続けることによって、正しい判断力が養われるのである。

「面白い」という視点。

やはり面白くないことよりも面白いことをやりたい。誰もがそう思うだろう。そしてその「面白い」という感性は、物事を進めるうえで大きな原動力となる。それは数学や物理の研究を進めるうえでも同じだ。面白い方へ進めるのは正しい進め方であることが多いように思う。いや、面白いことを強引にでも正しい方向へ結び付けることが必要なのではないだろうか。

数学は大きく、代数・幾何・解析と分けられることが多い。しかし現在は、学際的な時代だ。そのような区分に固執していれば大きな成果を挙げられない。そもそも数学というものは全てどこかでつながっているはずだ。最近はそのような認識も強固になって来ている。ということは、好きなことに取り組んで、それを自分の専門分野に結び付けるということが可能になる。何がなんでも強引にでも結び付けるという意識があれば、何らかの応用はできるのではないだろうかと僕は思っている。

最近、僕は代数幾何に興味を持っている。初めはグロタンディークのスキーム理論に興味を持っていたが、そこから極小モデルプログラムと言われる森重文博士らが発展させた理論に興味を持っている。面白いと思ったのならば、どんどん取り組むべきだと思っている。森理論が数理物理に応用できるかどうかなんて分からない。でも取り組む価値のある理論だ。誰もやっていないのなら自分がやればいい。そこに価値が生まれる訳である。

皆それぞれ、面白いと感じることは様々である。「飯を食っていかなければならないから、そんなことはできない」という人もいるだろう。そのような人に強引に挑戦的なことに引きずり込むことはできない。そのような人は、飯を食うために日常を過ごせばよいのである。しかし僕は挑戦をしたくてうずうずしている。だから今はかなり苦しくても挑戦という道を進んでしまう。しかし苦しいのは今であって、将来まで苦しいわけではない。いろいろな面で将来に大きな希望を持っている。今が面白いのは「上級」、そして将来が面白いのは「最上級」なのである。

知識と知恵。

知識とはインプットであり、知恵とはアウトプットである。知識と知恵のどちらが重要か?と問われれば、僕は知恵だと答える。しかし、知識と知恵は全く関係のないものではなく、双方が連動して大きなパフォーマンスを発揮する。

勉強の大部分は知識である。しかし勉強によって得られる知識の多くは知恵へとつながる。いや、つなげなければならない。何かを成し遂げられるかどうかは、知識を知恵へとつなげられるかどうかだということである。

学校で行われる勉強は、知識の習得であることが多い。しかし、このような勉強の強要は、知識を知識で終わらしてしまう可能性が高い。無理やり押し付けた勉強が実を結ばないのは、知恵への昇華という視点が欠けているからだ。受験も同じである。受験勉強のためだけの勉強は、ほとんど意味をなさない。大学受験だと、受験は一瞬であるが、大学生活は4年の時間があるのである。さらには、卒業後の時間の方が圧倒的に長い。勉強というものは、このような長期的視点を持って意味を見出すことが重要なのである。

僕は学歴というものは基本的に重要視していない。人間を評価するときには、学歴ではなく人間そのものを見て評価しなければならないと思っているからである。そこでの判断基準の一つが、「知識を知恵へと昇華できているか?」ということである。高度情報化社会の現在、知識を習得するだけならネットを使っていくらでも簡単にできてしまう。しかしそれぞれの人によって知性の差が大きく生まれる。それは知識ではなく知恵の差である。思考の差である。もし知識の収集に明け暮れながらも現状を打開できないのならば、知識から知恵へと軸を移すことを考えなければならないのではないだろうか。

僕はバカな生き方をしたいんだ!

僕は常々バカな生き方をしたいと思っている。しかしこのバカな生き方というものは、簡単にはできない。そしてバカな生き方をするためにも、知性をつけて理性的にならなければいけない。何も考えないで生きるのがバカな生き方ではない。ある意味常識を超える生き方、それがバカな生き方というものだ。

バカにバカな生き方はできない。それはバカがおバカタレントになれないことからも明らかだ。賢い生き方をしようと思う人は多いが、僕は賢い生き方というものに全く価値を感じないし、魅力も感じない。自分の調子が悪い時、少し賢い生き方をしようと思ってしまう。それは余裕がない証拠だ。心に余裕がないと、バカな生き方をしようと思うことはできない。

クイズ番組で立て続けに正解を出すタレントと、面白いおバカ回答を出すタレントのどちらが面白いか?僕はおバカ回答をするタレントの方が圧倒的に面白いと思うし、魅力を感じる。それと同じだ。おバカ人生を生きる人間の方が自分も他人も圧倒的に面白いし、愉快な気持ちになれる。賢い生き方をしている人は、「賢いね」の一言で終わってしまう。ただそれだけである。人生は楽しくないといけない。愉快でないといけない。僕はそう思っている。

今僕は、50%くらいバカな生き方をできているのではないかと思っている。ということは、まだ50%足りない。僕は何でも100%というものは狙わない方が良いと思っている。なのであと45%くらいバカになって、人生をシンジョイしたいと思っている。(シンジョイとは、新庄(元阪神タイガース選手)並みにエンジョイするという言葉である。)

石破茂氏が言うのなら。

現在、日韓関係は最悪の状態である。責任はどちらにあるのか?という押し問答が繰り返されているが、やはりどう考えても発端は韓国側にあるように思えてならない。僕が日本人だからなのかとも思うが、冷静に分析しても原因は韓国側にある。

しかし、やはりどこかで落としどころを見出せなければ一向に解決しない。だからと言って日本側から譲歩すれば、韓国側はそれに乗じて高圧的に出てくるのは目に見えている。これまでの過去はその繰り返しである。

しかし、自民党・石破茂氏は日本側の責任を述べている。他の政治家がそのような事を言ったのならば僕も反発してしまうが、他ならぬ石破氏の言うことである。石破氏は出まかせで物事を言う人ではない。いろいろと分析し考え抜いて出た言葉だと思う。このような意見を石破氏が言うのならば、僕も一度その言葉に耳を傾けようと思う。僕は特に自民党の支持者と言う訳ではないが、石破氏には絶大の信頼を置いている。

今、自民党内で安倍首相に異論を唱えられるのは石破氏しかいない。首相に異論を唱えることによって党内での立場は微妙な状態ではあるが、このような石破氏の存在は貴重である。もちろん、このように持論を周りの顔を窺わずに主張できる人がもっと出てこなければならないが、現状では石破氏しかいないように思える。もしかしたら、これから小泉進次郎氏がこのような立場になり得るかもしれないが、どちらにしても圧倒的な少数派だ。しかしそのようなポジションを取り得るかどうかは、総理の器かどうかにかかっている。そういう意味で、現在次期総理の有力候補だと言われている政治家は何人かいるが、僕はそれらの政治家が総理の器かと言われればそのようには感じない。

セオリーを破る。ただし結果が全てだ!

セオリーというものは強力だ。セオリーとは言い換えるとマニュアルともいえるが、このようなマニュアルがあるからこそ俊敏に迷わず判断を下すことができる。しかし、セオリー通りに物事を進めるだけだと、誰がやっても同じ結果にたどり着くだけだ。もちろん、それがセオリーというものだが、何かを打破しようとするとき、時にはセオリーを破らなければならない時も出てくる。

セオリーを打破しようとするとき、必要なのは勇気ではない。冷静沈着な判断力と、その先にある展望だ。これを見誤ると、必ずと言っていいほど失敗する。セオリーを破る人の多くは、結果として失敗をすることになる。しかしこのことは、決してセオリーを破るなということではない。時には失敗する確率が高くても挑戦すべき時があるのだ。

なぜ、失敗する確率が高いのに挑戦するのか?と疑問に思う人も多いだろう。そこで、この失敗というものについて考えなければならない。確かに失敗はする。しかし、その失敗は短期的な、単発的な出来事だ。物事は大局的に捉えなければならない。重要なのは、その失敗がこれからの糧になるかどうかだ。発展の見込めない失敗はすべきでない。しかし、栄養になる失敗は積極的に得て行かなければならない。

セオリーを破ることも同じだ。セオリーを破ることによって新しい可能性が見えてくる。新しい戦術が見えてくるのだ。セオリーを破ることは、新しセオリーを作ることに結び付く。新しいセオリーを作ることこそ、挑戦者たちの目標なのである。数学や物理学においても、新しい理論(セオリー)を作ることが最終目標なのである。

セオリーを破ることによる失敗は決して無駄ではない。そしてセオリーを破ることでしかたどり着けないところがある。ただし、現実は結果が全てである。セオリーを破るのなら、その先にある「新しいセオリーを作るところ」まで行かなければならない。