投稿者「木原 康明」のアーカイブ

孤独がいい。

僕は集団行動が苦手だ。もしかしたら嫌いなのかもしれない。基本は独りで行動するのがいい。だから普段は自分一人で考えて行動している。とは言え、もちろん常に一人でいるわけではないが、集団の中にいると、息苦しい。

「みんな仲良く」とか、「力を合わせて」とかよく言われるが、そういうのも大嫌いだ。

日本人は協調性が高いと言われる。しかしその反面、日本人は独りで行動するのが苦手のように感じる。日本人は孤独をネガティブにとらえる人が多いが、僕は「孤独ってものは、なかなかいい」と感じている。

集団の中で協調性をとり、それでいて個人でも上手く行動できる、というのが理想なのかもしれない。しかしその両者を上手く使い分けられる人は多くない。ならば、片方だけでも最高に上手く持っていきたいものである。

それは、僕の場合は、最高の「孤独力」を身に付ける、ということかもしれない。

「昔」と「今」の境目。

昔、神戸市内を走っていた神戸市電に関する記事を見た(神戸新聞NEXT)。1971年に廃止されるまで、神戸市内を神戸市電が縦横無尽に走っていた。そして廃止から6年後、神戸市営地下鉄が開通した。その間たった6年だが、僕にはこの間に断層が走っている。断層とは、僕が生まれた1976年のことだ。

僕にとって、神戸市営地下鉄が走っているのは明らかに「今」であり、神戸市電が走っていたのははるかかなたの「昔」である。その差たった6年なのに。

やはり誰でも、生まれる前というのは”昔”であり、生まれた時から”今”が始まるのではないか。

僕が生まれたのは1976年。そこから数えると、第二次大戦終戦は31年前である。僕が生きてきた年月よりも短い!第二次大戦とは、そんな近い過去に起きていたのかと驚いてしまう。

生まれる前の第二次大戦は昔だが、実際神戸で体験した阪神大震災は、大学受験真っ最中の時期であり、今も今である。しかしその後に生まれた人にとっては、阪神大震災もはるかかなたの昔なのであろう。まさしくジェネレーションギャップである。

「今を生きる」とよく言うが、正確には「生きているのが今」というのが正しいのかもしれない。

「何をすればいいか?」を自分の頭で考えることが大切だ。

ここ近年、ハウツー本や自己啓発本がブームだ。しかし、それらの本を読んで実行した人はどれだけいるだろうか?ゼロとは言わないが、ほとんどいないだろう。なぜそれらの本を読んでも実行できないのか?それは自分の頭で考えた結論ではないからだ。

どうすれば上手くいくか?どうすれば向上するか?それらの手法ばかり目が行く人が多いが、本当に重要なのは、「どうすべきか?」を自分の頭で考えて導き出すことだ。

自己啓発本には威勢のいいことばかり並べられているが、それらをどう考えて導き出すか、ということはほとんど書かれていない。結論ばかり並べられて、道筋が書かれていないのだ。

そのような結論が書かれた本ではなく、思考を深めるための中身の濃い書物を手に取ってみよう。そして、自分の頭で考えることを心がけることが大切だ。

知る権利?

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」(2015年出版)について、購入を控えた神戸市立中央図書館に関する記事(神戸新聞NEXT)を見た。

この加害者による手記に関しては、様々な問題があると思うが、「プライバシーと知る権利のバランスをどう図るか」というのが一番の争点だと思う。

最近は「知る権利」という言葉がよく出されるが、この加害者の手記に関しておかしいのは、被害者のプライバシーに関しては公にされて、加害者に関しては名前が明らかにされていない(当時は加害者は少年だったため名前が公開されず、この手記の著者名も”元少年A”となっている)ことだ。事件当時、少年だった加害者の名前が伏せられるのは法に則ったものだが、手記を出版するにあたって知る権利が叫ばれる中、著者名だけが伏せられているのは明らかに矛盾している。

この著書に限らず、最近世の中のあらゆるところで知る権利が無差別に主張されていることには、疑問を感じてしまう。そもそも知る権利とは、「公的情報に関して市民が知る権利がある」という趣旨がメインだったはずだが、今では個人のプライバシーまで知る権利を押し付けられようとしている。

知る権利があるなら、「知られない権利」もあるはずだ。知る権利が法で定められていると主張するなら、そもそも法をしっかりと勉強しなければいけない(僕自身も法に詳しいわけではないので、あまり強く言えないが)。中身を吟味せずに”知る権利”という法のタイトルだけを用いて主張を押し付けるのは、明らかに間違っている。

社会的に汚い存在ということと、人間的に汚いということは、全く違う。

社会的評価というものは、自分の意図しないところで作られることが多い。いくら品行良く生きていても、周りの評価はそれに比例しない。最近、投資家の村上世彰氏を見ていてそう思った。

社会的評価と人間性は別物だ。村上世彰氏や、あるいはホリエモンもそうかもしれない。社会的立場にある人間は、表舞台にさらされている分、一挙手一投足によって社会的評価が左右される。時には前衛的でありすぎるが故に、刑務所に入れられてしまうことがある。本人は潔白であっても、社会的には汚い存在とされてしまう。

社会的評価というものは、社会の気まぐれであるので、社会的評価を気にしすぎる必要はない。別に社会的に汚い人間でもいいではないかと思う。自分が一人の人間として信じる道を歩けばいい。周りは周り、自分は自分と思えばいい。社会的評価を気にしすぎると、自分を縛り付けてしまうだけだ。

周りから汚いと思われようがどうでもいい。むしろある程度汚い方が生きやすいし、潔癖な人間よりもむしろ健全かもしれない。周りに合わせるのではなく、前衛的に道を切り開くことが大事だ。自分に自信を持って、信じる道を貫くことが大事だ。

選択と集中。

物事には優先順位を付けることが大事だ。そして、優先順位を付けるには、物事の本質を見抜き、どれが重要かを判断しなければいけない。

「選択と集中」が大事だとよく言われるが、選択して集中するためには、まずは広く物事を見通さなければならない。そのためには、幅広い知識が必要だ。大学で言うと、3年次・4年次での専門課程に入る前に、1年次・2年次で一般教養の訓練を受けることにあたる。

社会では、スペシャリストか、ジェネラリストか、という選択を迫られる。しかし重要なのは、スペシャリストでありながら一般的な見識を持つこと、またはジェネラリストでありながら専門的知識を持つことである。

自分を解き放つ!

自分に対して何か制限を課していないだろうか?例えば僕だったら、「一日一つのブログ記事を書く」ということも、一つの制限だった。元はと言えば、毎日ブログを更新しようということだったが、最近では「一つ”しか”更新しない」という制限になっていた。そういう制限を取っ払って、「書ける時はいくつでも書こう」というスタンスに変えることにした。

そこで今日も、この記事で4つ目のブログ記事だ。思ったら、考えたら、どんどんブログ記事を書いていこうと思う。書けるときは、一日に複数の記事をどんどん書いていく。

自分に対する制限は、何もブログ記事だけではない。筋トレの腹筋の回数、数理物理の研究に打ち込む時間帯、など様々ある。

しかし、怠慢している時間はどんどん制限して抑えなければいけない。本屋での立ち読みも制限しないといけないかもしれない。

とは言え、自分に対する積極的前進と向上のためには、制限を課すことは無意味だ。思いっきり暴れまくって、自分を解き放たなければならない!

ホリエモンロケットは、挑戦者の証だ!

ホリエモンこと、堀江貴文氏の立ち上げた会社が、7月30日午後4時半ころ、ロケットを打ち上げたという。このロケットはかなり本格的なもので、全長10メートル、重量は1トンにもなるという。今回の打ち上げは失敗したそうだが、いろいろな意味で注目すべき打ち上げだ。

このロケットの一番の特徴は、完全に民間企業だけで製作・打ち上げしているという点である。ロケットという巨大プロジェクトではどうしても公的な機関・開発研究施設の力を借りないと困難が伴うが、今回のプロジェクトが完全民間であるということの意味合いは非常に大きい。

堀江氏はご存じのとおり、考えたことは実行に移す人だ。あまりにも積極的に行動したためか、刑務所にも収監されたが、そんな逆風にも倒れず、出獄した後もこれでもかというくらい積極的に様々なことを実行している。今となれば、堀江氏の刑務所収監は、実行力の塊である彼の”勲章”でもあるように思える。

僕自身もかなり実行力には自信があるが、堀江氏と比べればかすんで見えないくらいにちっぽけに感じてしまう。

今回のロケット打ち上げは失敗したが、彼は確実に再挑戦するであろう。ロケット打ち上げは堀江貴文氏の挑戦の証である。

これまでボクシング王者挑戦(あるいは防衛)戦について思っていた、一つの疑問。

先日中国で、無名の日本人ボクサー(世界7位)が、世界王者の中国人ボクサーに挑戦し、下馬評を根底から覆す勝利を収めた。その日本人ボクサーの名は木村翔(28)という。僕はボクシングを観ることは好きなのだが、木村ボクサーの名前は全く知らなかった。この勝利の結果はニュースで知ったのだが、このニュースの一番の注目点は、中国という完全アウェーでの勝利だということだ。

これまでボクシングのベルト(王者)をかけた試合に関して、いつも疑問に思っていたことがある。それは、日本人が戦う王者戦がほぼ例外なく日本国内で行われているということである。心理戦でもあるボクシングの試合で、ホーム開催は圧倒的有利である。なので、日本人の戦う王者戦は圧倒的有利な環境で行われていることになる。そのことに疑問と不満を感じていた。

今回、日本人ボクサーが”敵地”中国という完全アウェーで勝ったことの価値の大きさは、非常に大きなものである。

今回の試合中、中国人王者が木村ボクサーに拳をタッチするだけで大いに歓声が沸き、木村ボクサーのパンチが当たってもシーンと静まり返っていたという。この様な状況の中で勝利した木村さんのメンタルは凄いものである。

しかし、このような状況は、これまで日本人ボクサーが外国人ボクサーにやってきたことそのものである。日本で行われる王者戦は、(当たり前のことだが)いつも日本人ボクサーの肩を持つものであった。そのような試合ばかりで、中立的に考えて圧倒的有利なホーム試合での日本人ボクサーの勝利にどれだけの価値があるか、疑問に思っていた。

しかし、今回の木村翔さんの勝利は、このような疑問を吹っ飛ばしてくれるものだ。外国で勝って王者になったボクサーの価値は非常に大きい。

ちなみに、日本人ボクサーが海外で世界王者を奪取したのは、1981年以36年ぶりだそうだ。

闇に包まれても。

闇に包まれている時は、いつ闇から抜け出せるか不安だ。闇からの出口はまだまだ遠いのか、それともすぐそばなのか。闇からの出口というものは出てみるまで分からない。

しかし闇に包まれていても、出た時の準備を怠ってはならない。闇から出た時、最大限に羽ばたけるように、抜かりない準備をしておかなければならない。

ただ、その場に留まっていれば、出口は永久に現れない。だから最低限の前進はしなければならない。なんなら、もがき苦しむのも悪くない。何もしないよりましだ。ただ前を見てもがき苦しまなければならない。

出口から出た時、どんな輝く光を浴びられるか。それを考えるとわくわくする。そんな気持ちを「希望」というのかもしれない。