投稿者「木原 康明」のアーカイブ

理論の力。

科学においても社会においても、理論なしで物事は語れない。もちろん、理論だけで語れないことも多いが、科学においては理論と実験は両輪であり、社会においても理論と実行は両輪である。

科学の研究を行いたいと思う時、どのような事を想像するだろうか?おそらく多くの人は、試験管をグルグル回しながら実験している姿を想像するのではないだろうか?そして実験などしようにも、施設も実験器具もないし、大金もないので、できないに決まっていると思い込んではいないだろうか?そこでだ。科学は実験だけで成り立っているのではない。実験結果から理論を構築し、そして理論を実験で確かめる。すなわち理論があるではないか!実験ができなければ理論を行えばよい。基本的に理論はお金がかからない。とは言え、もちろん専門書を購入したり、論文を入手するためのパソコンとプリンターがいる。専門書は一般書に比べてもかなり高額である。しかしその気になれば理論はいつでも研究ができる。だから科学研究をしたければ、理論をすればよい。

理論は一般の人が思うより威力がある。よく理論を「机上の空論」だと言う人がいるが、確かに現実社会における生活においてはそのような事も多いが、科学においては多くの場合、理論は実験よりも強力である。その最たる例がアインシュタインの相対性理論であろう。

また、数学を行うのもかなり良い。専門的数学分野を研究するためにはかなり高度な知識がいるが、しかし現代社会においては、その気になればそこまで到達できる道は開けている。あとはどこまで頭脳を使って考えるかである。なにより、数学はペンと紙だけで出来る。ペンと紙で宇宙を網羅することができるのである。

実験と観察の科学だと思われている生物学においても、理論は非常に重要だ。最近、進化学の本を読んでいるが、進化学というのは、自然淘汰に基づく数学(特に統計学と確率論)だと言って過言ではない。数学を駆使しないと進化さえも語れないのである。

理論は皆が思うよりも強力である。ならば理論をものにしない手はない。もし科学に対する興味と実行力があれば、今すぐペンと紙を用意して理論に取り組むのはどうであろうか?理論に魅了された一人として、理論の威力(と魔力?)を多くの人に感じ捉えてくれればと強く思う次第である。

スランプの克服。

先日、大スランプだという記事を書いたばかりだが、ここ数日、大スランプ脱出のヒントを得られた(かもしれない)。スランプ脱出の一番難しいところは、そのスランプの原因がはっきりしていないことだ。だから何を改善すれば良くなるのかということがなかなか絞り込めない。しかし場合によっては、数個の要因まで絞り込めることがある。もしそこまで絞り込めたのなら、とにかく試行錯誤して探っていくことが必用だ。

僕もここ数か月、様々な試みを行って改善を図ってきた。しかしなかなか改善の糸口が見つからない。そのうち、状況は少しづつ悪化してきている。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けることによって、一つの原因を突き止めた(と思っている)。その原因はあまりにも身近にあり、また長年抱えていた悩みでもあった。しかし、その改善を行うことは普通の人なら簡単な事であるが、僕にとっては究極的に難しいことである。しかしその点を改善することにより、状況は確実に良くなってきている。

スランプを克服するために必要なことは、一つは「実行力」、そしてもう一つは「思考力」である。僕は徹底的に考えた。スランプの原因は何なのか?時間は少しかかったが、その原因を突き詰めることができたようだ。それができたら、次は実行である。思考と実行は物事を成し遂げるための両輪であり、それはスランプ脱出においても例外ではない。プロ野球選手がスランプに陥るという話はよく聞く。そこから脱出できるかどうかは、その両輪を機能させることができるかどうかだと思う。プロ野球選手だから、実行力はずば抜けてあるだろう。なので後は頭を使うことができるかどうかだ。イチローがスランプに陥ったと言う話はほとんど聞かなかった。それはイチローが極度に頭を使って野球に取り組んでいたからではないだろうか。

僕もスランプの原因にもっと早く気づき実行していたのならば、一年早く結果を出せていたかもしれない。しかしそんな過ぎ去ったことを言っても仕方がない。これからスパートをかけて、一刻も早く結果を出すことが求められている。しかし妥協は絶対にしない。これからが非常に楽しみである。

物理学の形式主義。

近年、物理学は、ますます形式主義に傾いてきているように思える。このような形式主義を批判する人も多いが、その一方、形式主義は多くの恩恵をもたらしてくれる。では物理学の形式主義とはどういうことか?それは「数学的形式」だと言える。そもそも、物理学はその誕生時から数学と密接に結び付いている。ニュートンが力学を打ち立てた背景には、ニュートン自身による微分学の定式化がきっかけとなっている。物理学は数学的定式化を成功させて初めて成り立つのである。

物理学の中でも、数学に対する依存度は様々である。物性理論よりも素粒子論の方が圧倒的に数学的である。さらには、数理物理のような物理学の数学的定式化自体を目的にしたものもある。物理学から数学を遠ざけることはある意味退化だと言える。しかしそれが退化だとしても、それに意味を見出し生き残っていく可能性は大いにある。しかし物理学の進化は数学の発展を用いて初めて成し遂げられることが多い。

20世紀中ごろ、数学界では構造主義という考えが吹き荒れていた。フランスの数学者集団ブルバキが強く推し進めていた考えであるが、僕はこのような思想は今の物理でこそ威力を発揮するのではと考えている。今の数学や物理学におけるキーワードは「多様化」であると僕は感じている。なのでそれらの学問を一つの思想の下でまとめることは不可能である。しかし僕は、物理学の構造主義を大きく推し進めて行きたいと考えている。

現在、学問の多様化を推し進めるあまり、全ての分野において平等化が起きているように思える。しかし多くの理論の中には、重要なものもあればそうでもないものもある。これらを一律に並べることは避けるべきである。なぜなら、一律に並べる、すなわち重要度を判断しないということは、物事の本質を掴めていないということである。しかし、まだ開花していない取り組みを評価することは非常に重要である。しかし、現在の評価基準は全く逆転している。ビジネスでベンチャー企業を支援することが重要であるように、科学でも可能性のあるベンチャー研究を支援すべきである。山中伸弥教授のiPS細胞は、そのような大きな可能性のあるベンチャー研究を支援することにより花開いたのである。

現在、科学の世界は多様化しているが、構造主義的に推し進めることは最も大きな可能性を秘めているのではないかと僕は強く感じている。

大スランプ。

年単位で考えれば、調子が良い時と悪い時がどうしてもある。このような調子の波をなくすことは、多くの人の課題であろう。一時的に調子が良いだけではなかなか目標を達成することはできない。一番大事なのは持続である。持続的に取り組み、持続的に成果を挙げていく。それによってさらに上にある目標も達成できる。

僕は現在、大スランプに陥っている。なかなか浮揚策が見出せないでいる。焦りもあるが、ビジョンはしっかりと保持しているので、そこは少し安心している。浮揚策を見出すために、様々な試みをしている。例えば筋トレやジョギングをして体を動かしたり、コーヒーやお酒を飲む量を制限したりとかだ。これとスランプの何が関係あるのか?と思われそうだが、意外とこのようなことが関係していたりする。だから些細な事でも、それが良い方向へとつながると感じれば取り組むことにしている。

もちろん、根拠のない取り組みはしない。では根拠とは何か?一つ目は科学的根拠であり、もう一つは経験的根拠だ。科学的根拠を判断するときには、疑似科学には注意しなければならない。世の中には疑似科学(エセ科学)が蔓延している。僕は数理物理という科学に取り組んでいるので見分けることができるが、本質を見抜くことができないと疑似科学に振り回されることになる。そしてお金も健康も失ってしまう。

現在の大スランプを脱出できるかどうかは、僕の実力にかかっていると思っている。そして常に自力本願を心がけている。険しい関所ではあるが、乗り切れる自信は大いにある。

「記憶」か?「思考」か?

記憶が良くて、思考も深い。これが一番理想かもしれないが、僕は記憶力が悪い。短期的記憶も長期的記憶も、どちらもかなり良くない方だ。しかし、記憶力が悪ければ思考でカバーすればよい。確かに記憶力が悪いことはかなり不便ではあるが、致命的ではない。しかしこの逆に、記憶力は良いが思考ができないとなると、数学や物理においては致命的だ。いや、記憶力が悪いだけでもかなり致命的かもしれない。しかし、思考力で何とかカバーしている。

世の中を見ていると、記憶力でものを言わしている人はかなり多いように見受けられる。しかし思考力でものを言わしている人にはほとんど出会わない。そもそも思考力があれば、ものを言わすという発想自体不必要なのかもしれない。「ものを言わす」という言葉は、自分の実力以上の威厳で押さえつけるという意味合いがある。しかし、思考力自体がその人自身の実力だと言える。だからものを言わす必要がないのだ。

数学を記憶力だけで進めることができるのか?確かに高校数学くらいなら記憶力でかなりカバーできる。いや、大学数学だってカバーできる。いや、既存の理論を理解するくらいなら記憶力で乗り越えられるかもしれない。しかし、新たな理論を作るとなると話は別だ。新しい理論の構築は、99%思考に依存している。だから思考力なしで理論の構築はできない、しかし記憶力があれば非常に便利だ。それは僕もひしひしと感じる。しかし記憶力が悪ければ、それはそれでよい。むしろ、記憶力が悪いからこそ思考の方に頭を使おうと努力できる。

最近、生物学に興味があり、ちょっとした生物学書を読むことが多い。とは言え、生物学の専門家でない僕の取り組みなど大したことはない。しかし生物学の論文くらいは読みたいものである。少し前、山中伸弥教授のiPS細胞の原論文に目を通したが、やはり専門用語などが分かり辛い。特に、遺伝子などの様々な名称が理解できなかったりする。生物学は昔から暗記の割合が大きい学問だと言われている。しかし現在の生物学はかなり論理的、化学的、物理学的になり、思考の割合が増えているように思える。博物学的な側面が強かった時代から見れば隔世的だ。しかし最低限の記憶は必要だ。記憶力の悪い僕が、副々専攻としての生物学をどこまで究められるか?これはある意味一つのちょっとした挑戦だと思っている。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

東電を廃炉に特化した企業にすればどうか?

電力会社とは、一言で言えば電気を売って儲ける会社だ。しかし現在の東京電力の置かれた立場は複雑だ。今東電が抱えている最も大きな課題は、誰が見ても福島第一原発問題であろう。もちろん福島第一原発は廃炉にするしかないが、この原子炉の廃炉は非常に困難な作業だ。原発を作ることは今ではそんなに難しい作業ではないかもしれないが、原発を廃炉にする作業は技術的にもまだ確立されているとは言えない。さらに、震災で被害を被った福島第一原発の廃炉作業は、その何十倍もの困難が伴う。そもそも廃炉が上手くいくかどうかもわからない状況だ。

そこでだ。この東電が抱えている一番の問題である廃炉作業を、東電のメイン事業にするのはどうかと僕は思っている。東電が置かれている立場の一番の困難は、福島問題を解決しながら発電事業を行わなければならないということではないだろうか。そのような事に対して、「発電事業=ビジネス(利益)」、「廃炉作業=負債(損失)」と捉えられているかもしれないが、その廃炉作業をビジネスにしてしまうのはどうかと僕は考えている。廃炉には非常に高度な技術が必用であり、世界的にもこのような廃炉をビジネスとして行っている企業は僕は知らない。もしかしたら僕が知らないだけで、廃炉をビジネスにしている企業は海外にあるのかもしれないが、今廃炉を待っている原発は世界にたくさんあるはずだ。

今東電は、否が応でも廃炉を実行しなければならない。もし東電が廃炉技術を確立させビジネスにできると、この先数十年は非常に大きな利益を得られるのではないだろうか。そしてそこで得た利益を、福島の被災者の賠償にも回すことができる。それは東電に対しても、福島市民に対しても、そして原発のある世界各国に対しても、全ての利益になるのではないだろうか。廃炉というものをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えていくという思考的変換が必要である。

現在、小泉進次郎氏が環境大臣になり、原発問題に大きく取り組もうとしている。父の小泉純一郎元首相は、原発ゼロを声高に発信している。進次郎氏が父の意志を継ぎ、原発ゼロを遂行するためにも、東電の廃炉ビジネス化は大きな力になるのではないだろうか。そして廃炉を負債と捉えるのではなくビジネスと捉えることは、東電社員の意欲を大きく向上させるのではないだろうか。これからは原発建設の時代ではなく、廃炉の時代だ。東電が廃炉のビジネス化に成功すれば、巨大なビジネスになるはずだ。そしてそれは回り巡って、福島の被災者のためにも大きな力になるはずだ。

まず攻めがあって。

僕は人生をとことん攻めて行くとよく言っているが、だからと言って守りを考えない訳ではない。防御に関しても最強である必要があるが、しかしそれらの防御は攻めがあって成り立つものでなければならない。だからここぞという時は丸腰でも攻めて行くことにしている。一番危険なのは、自分を守ることが第一条件になってしまうことだ。

時には、人を守るために攻めて行かなければならない時がある。「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、攻めの姿勢のない防御は崩れ去るのも早い。そして攻めのない防御は、その場しのぎでしかないことが多い。つまり長期的視点に欠けている。長期的視点とは、「今損をして、将来得をする」ということである。そしてそれによって利益を最大化することができる。しかし、その戦法が常に功を奏すとは限らない。つまりリスクがある。ではどう考えればそのようなリスクのある行動に出られるのか?

そのためには、一度損得勘定を抜くことが必用だ。損得勘定以外の事、つまりリスクさえもスリルと考えて楽しむとか、また長期的構想の構築自体を楽しむとか。つまり全ての事を楽しむのである。究極的には苦しみさえも楽しみにすればいい。そしてその苦しみを乗り越えれば、達成感を感じるのもいいと思う。意外と窮地に陥っている時の方が、人生が充実していることも少なくない。今の僕の人生はそのようなものである。

とは言え、僕でもくだらない守りに入ることもよくある。そのような時は、そのような自分に落胆する訳ではあるが、同時にそのような自分をどう変えていくべきかということを徹底的に考える。それによって自分を変えるにはそれなりに長い時間がかかるが、75%くらいのことは変えられているように思える。「本当の自分」とは、今のありのままの自分である必要は全くない。自分を自分の思う方向へと変えることができれば、それも本当の自分なのである。本当の自分を常に変革するためにも、常に人生を攻めて行くことが必要である。

科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

図書館“も”利用する。

少し外出したついでに、久しぶりに市の図書館に足を運んだ。僕はこれまでは基本的に、読みたい本は全て買うことにしていたが、やはり読みたい本を全て買っていれば財布の中身が厳しい。図書館に足を運んで新刊本コーナーを眺めていると、少しではあるがなかなか面白そうな本が置いている。そこで面白そうな本をまとめて借りる手続きをすることにした。

面白そうではあるが、一回読めば繰り返し読みそうな本ではない。仮に繰り返し読みたければ、その時その本を買えばよい。とは言え、必要な専門書はこれからも基本全て購入する方針だ。しかし一般書籍はむしろ図書館で積極的に借りる方が良いのかもしれない。それで浮いたお金を専門書の購入に充てることもできる。

「図書館‘‘を’’利用する」ではなく、「図書館‘‘も”利用する」と言った方が正しい。そもそも、市の図書館に専門書が置いているわけではないので、そこは利用しようにもどうにもならない。そして、専門書は手が届くところにあって、手を伸ばせばすぐに取り出せることが重要だ。

これからも、必要だと思われる専門書は湯水のごとく?購入しそうだ。もしかしたら、書籍エンゲル係数だけは誰にも負けないかもしれない。