投稿者「木原 康明」のアーカイブ

短絡的な統計は、最低の手法だ。

「統計学は最強の学問」というタイトルの本を以前見かけたことがあるが、使い方を誤れば「統計学は最低の手法」に成り下がってしまう。統計学はただ単に正確なデータを集めればいいわけではない。問題は集めたデータをどのように処理・解釈するかだ。同じデータでも解釈の仕方によって正反対の結果を導いてしまうこともある。

僕が最も短絡的だと感じているデータは、地震・火山による災害データだ。よく「前回の地震から何十年経っているから、もうそろそろ危ない」といった話をよく聞く。確かに歴史的に見ればそのような見解はあながち間違いではない。しかしそのようなデータは科学を全く無視している。そのような見解は歴史学でしかない。時として統計は科学的見地と融合させることによって絶大な威力を発揮する。

そして統計の誤用の身近な例は、「今まで負け続けたから、次は勝つ頃だ」という使用例だ。これは数学的・確率論的に言えば全く根拠がない。

統計に盲信すれば、統計に騙され誤った判断を下してしまう。常に正確な判断を下すためには、統計の本質を理解し、正確に運用しなければならない。

必要なことではあるが、重要なことではない。

必要な事をするのは意義がある。それに必要な事は誰かがやらなくてはいけない。ただし、必要な事と重要な事は違う。必要とされている事は、調査をするなりして把握することは可能だ。しかし重要な事は何かということは、物事の本質を理解しないと把握できない。

社会では、役に立つかどうかという物差しで判断されることが多いが、突破口となる一撃を撃つためには根っこがどこにあるかということを把握して、そこを狙い撃ちしなければならない。

重要な事を攻めることができる一部の人間になれるか?それとも小さいが必要なことをするのか?どちらが良くてどちらが悪いという問題ではないが、どちらにしても自分がどこに意義を感じて何を取り組むべきかということを熟考することが求められる。その際、物事の全体の構造を把握しないと的確な判断からずれてしまうことになる。

自分で自分の事を語れるか?

意外と自分の事を語れる人間は少ない。周りにいる人、あるいは有名な人で凄い人の事を語る人は多いが、自分に関してはそこまで語れるところまでたどり着いていないのかもしれない。

自分を語るうえで重要なのが、過去の自分を語るのではなく、未来の自分を語ることだ。過去の栄光にいつまでも浸ってはいけない。そして過去の「もしも」に取りつかれてもいけない。未来に対するビジョンを明確に持ち、それを実行したうえでたどり着く未来の自分について語らなければならない。

自分の事を語れる自分になるためには、今何をすればいいか?それに対する自問自答を繰り返しながら少しでも前進することが重要である。

お風呂でアイデア。

ノーベル賞物理学者の益川敏英博士は、ノーベル賞につながった理論のアイデアを入浴中に思いついたという話を以前耳にしたことがある。それが本当かどうかは分からないが、お風呂では何かとアイデアが思い付くものだ。

僕自身も、その日のブログに書くテーマはお風呂で考えることが多い。お風呂はリラックスできるので、いろいろとアイデアが浮かぶのかもしれない。

昔、「風呂単」というものが流行った。文字通り、お風呂で覚える英単語帳のことだ。お風呂で覚えるということ以上に、水に濡れても大丈夫という紙の方に興味が行ってしまうが、お風呂を利用して商機を見つけようという風呂単製作者のアイデアには脱帽だ。

細部を詰めるのは机の上でしかできないかもしれないが、その突破口となるアイデアを見つけたい時には、お風呂の時間を利用するのが非常に有効かもしれない。

スポーツ選手への報奨金は高いのか?安いのか?

オリンピックが終わり、世の中も少し落ち着きを取り戻した感がある。競技が終わった今話題になっているのが、メダリストへの報奨金だ。特に金メダル2個を獲得した高木菜那選手への報奨金が話題になっている。

高木菜那選手への報奨金は、日本オリンピック委員会とスケート連盟から計2000万円。その他に所属企業から4000万円が出るらしい。そこで気になるのが税金だが、オリンピックの報奨金は、日本オリンピック委員会などから出る一部の報奨金に関しては非課税であるらしい。しかし所属企業から出る4000万円にはもちろん課税される。

非課税で有名な賞金と言えばノーベル賞の賞金であるが、ノーベル賞以外にも非課税報奨金(オリンピック報奨金)があることは、今回初めて知った。メダリストがこのお金をどんなことにつぎ込むのか、はっきり言って余計なお世話であるが、勝利の対価として得る何千万円は決して高くはないように感じる。

最近、僕が評論をしなくなった理由。

最近の僕のブログを見て、気付かれた方もいるかもしれない。それは、最近あまり評論を書かなくなったことだ。なぜ評論を書かなくなったかと言うと、それは実行者への敬意を表するためだ。

はっきり言って、評論をするだけなら何とでも言える。誰でも好き勝手に言える。しかし本当に必要なのは評論者ではなく実行者なのである。政治で言えば、政治評論家ではなく政治家であると言えよう。

もちろん、政治に関して言えば評論者・評価者の存在は非常に重要である。それが無ければ政治家は暴走してしまう可能性がある。しかし評論家以上に政治家が重要なのは当然であろう。重要であるからこそ、大きな責任を背負い、その対価として権力が授与されていると言えなくもない。

政治の話はひとまず置いておくとして、何に関しても実行者の存在が一番重要である。だからこそ僕自身も、評論者ではなく実行者でいたいと思っている。そして実行者として実績を残そうと何とかもがいている。

評論をしている暇があれば、少しでも実行して当事者になる心構えが非常に重要である。

国会開会中、首相は忙しい。

現在、衆議院で国会が開会されている。一般人にはなかなか国会の仕事は分かりづらいし、具体的に総理が何をしているかは把握しづらい。しかし便利なことに、毎日「首相動静」というものが伝えられる。

2月28日の首相動静を見ると、総理の多忙さが目に見て取れる。1分刻みでスケジュールが進行し、多数の政治家との面会もこなしている。午後11時を過ぎても衆院本会議場にいる。もちろん国会開会中に忙しいのは首相だけではなく他の国会議員も同じだと思うし、それを取材するメディアも多忙であろう。

28日に総理が面会した有力政治家は、首相動静に載っている名前の数を数えると17人。もちろんそれ以外の政治家とも多数接しているだろう。有力政治家との強い連携が想像される。

公人中の公人である総理の仕事を知れば、日本がどのように動いているか、その一端が垣間見れる。

自分の頭の中身と考え方。

「今までできなかったから、次もできない」と考えるか、それとも「今までできなかったけど、次はできる」と考えるか。どちらのように考えるかで自分の将来は大きく変わる。

次もできないと考えると、次へのアクションを起こせなくなる。アクションを起こさなければ、できる可能戦はゼロである。次はできると考えてアクションを起こせば、できる可能性は100%でなくてもゼロでは決してない。さらに成功への展望がはっきりとしていれば、可能性はぐっと上がる。

人間の頭の中身は他人には見えない。しかし自分では頭の中身が見えることは多々ある。自分の頭の中身が見えていれば、次への道筋がおのずと見えてくる。従って自分の可能性は自分が一番把握しているはずだ。可能性の判断を、決して他人任せにしてはいけない。

頭脳ゲーム。

先日の五輪カーリングの試合を観ていて、カーリングとは非常に頭脳を使うゲームであると知った。ストーンをどこに置きに行くかを読むことはもちろんだが、コーチは三投先まで読んでいるらしい。カーリングは頭脳スポーツであると言えよう。

頭脳ゲームと言って真っ先に思いつくのは、将棋であろう。先ほどのカーリングと同じで、次の手を読む「短期的展望」、そして試合全般を読む「長期的展望」が必要になる。この二つの展望は、人生についても同じである。“今どう生きるか”という短期的展望と、“どのような人生を歩むか”という長期的展望だ。人生と将棋とのこのような類似点は、人生が将棋と同じ頭脳ゲームであることを示唆しているのかもしれない。

頭脳ゲームと言って絶対に外せないのが数学である。数学は言うまでもなく学問であり、ゲームとは離れたところにあるように思う人もいるかもしれない。もちろん、数学者の数学に対する姿勢も様々かもしれないが、数学をゲーム、あるいは遊びと捉えている数学者も少なくない。そして意外と数学をゲームや遊びと捉えている数学者の方が大きな実績を挙げている。とある偉大な数学者は、数学に対して「この遊びはやめられない」と述べている。

身の周りには頭脳ゲームがあふれている。一時のお遊びのようなものもあれば、人生を懸けるに値する頭脳ゲームもある。人生を共に歩む頭脳ゲームを持つことは、あらゆる側面で人生に刺激を与えてくれるに違いない。

強い人間ほど、己の無力を認められる。

多くの人はなかなか自分の無力を素直に認めようとはしない。そしてその中の一部は虚勢を張ろうとする。自分が弱いからこそ、その弱さを隠そうと虚勢を張るのだ。

逆に強い人間は己の無力を素直に認められる。なぜなら自分の強さに裏打ちされた自信があるから、虚勢を張る必要がないからだ。そして強いからこそバカにもなれる。

自分の強みと弱みを自身で把握しておくことは重要だ。しかし弱みは決して直さなければいけないものではない。弱みを直すのではなく、それを強みに変えるのだ。強みに変えることは直すことよりも圧倒的に威力を発揮する。さらに強みをより強くすることができれば盤石だ。

己の無力を認められない時は、自分が弱くなっている証拠だ。いかに弱みをさらけ出してバカになれるか、それができれば自身はより強くなれる。