投稿者「木原 康明」のアーカイブ

生命の誕生は偶然か?必然か?

宇宙のある領域に生命が誕生する確率は何%なのか?この問いは地球上に住んでいる人間には難問である。なぜなら、少なくとも地球上には生命が100%存在しており、さらに知的生命体(人間)さえも100%存在している現実を毎日見せられている我々は、どうしてもこの確率を高く見積もってしまう。逆に地球上に存在する生命の現実を知らされていなければ、生命の存在、さらには知的生命体がその領域に誕生する確率は確実に0%と断定するだろう。しかし地球上に生命体、そして人類が存在する事実から、0%とは断言できない。

もし地球と同じ環境の惑星が存在すれば、そこには生命が誕生するであろうか?この答えは三種類ある。一つは100%、二つ目は0%、三つ目はその中間。この答えを出すために実験を行うことは不可能なので、人それぞれ言いたい放題である。しかしこのことの考察は、生命誕生のメカニズムを探るサイエンスにおいて非常に重要な問題である。近年は実験室で原始生命体を作ることに成功したとかいう話も聞くが、実験室と自然環境では設定に大きな隔たりがあり、実験室の結果をそのまま地球型惑星に拡張することはできない。

宇宙のある領域に生命、さらには知的生命体が誕生するかという問いは、「猿はタイプライターでシェイクスピアを打つことができるか?」という問いに似ていると僕は感じる。もし時間が無限にあれば、猿はいつかはシェイクスピアを打つことはできるであろう。しかし時間や宇宙空間は有限である。従って猿はシェイクスピアを打てる確率は限りなく0%に近い。生命誕生の問題も、時間や宇宙空間が無限であれば無限に生命体が誕生する。しかし時間や宇宙空間は有限である。さらにはこの問題の設定に「宇宙の“ある領域”」という制限まで付け加えた。この制限を設定に付け加えた理由は、地球上の知的生命体である人間が地球外生命体と接することが可能であるケースを想定するためである。

とは言え、地球上に生命体が誕生したことは奇跡であることは間違いない。さらには知的生命体である人間が誕生したことは、さらにそれとは比べ物にならないくらいの奇跡である。しかし、現在の人間が進もうとしている道はおかしくなってきていると僕は非常に危惧している。明らかにここ数年で人間の進化のパラダイムは大きな変化を遂げている。この変化が正常進化か?それとも異常への始まりか?このような事を危惧するのは僕が旧人類であるからだろうか?100年後の未来を開拓していく新人類の正常進化に大いに期待している。

突き詰めないと味わえない楽しさがある!

物事を突き詰めるのには多大な労力がいるし、それが好きな事であっても決して楽しい事ばかりではない。時には非常に苦しく、そのような幾たびの試練を乗り越えなければならない。そかしその先にある景色は、それを乗り越えた人にしか見えない。それは決してお金で買えるものではなく、また他人にやってもらうということもできない。

しかし物事を突き詰めた先には、その人にしか味わえない快感があるのだ。その快感を味わうために努力していると言っても過言ではない。それはある意味、アマチュアとプロとを隔てる岸壁とでもいうものだろうか。自分のレベルというのは、連続的に変化していくのではない。途中で必ず断層が生じるのだ。しかしその断層を乗り越えると、意外とその先はスムーズに行くことが多い。

現在は大学に行く人もかなり多くなってきた。しかし、目的意識を持たずに進学することほどもったいないことはない。お金を出して進学するからには、明確な目標を持って勉強に打ち込み、遊びも謳歌しなければならない。勉強をし続けることは生きていく上で非常に重要だが、勉強以外にも生きていく上で重要なことはたくさんある。そのようなこと全てに全力で打ち込み体当たりをすることが重要なのである。

物事を突き詰めた先にある景色を見るために、日々の課題をクリアし次のステージへと進んで行く。人生とはそのようなアクションの繰り返しだと思う。しかしこの繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングな挑戦である。

視点の遠近法。

物事を解決するためには二つの視点が大事だ。一つは視点を近づけて物事を拡大してみる方法。もう一つは視点を引いて物事の大局的構造を見渡す方法だ。

物事を解析する時に、多くの人は視点を近づけて見ようとしがちだ。もちろんその方法も非常に有効であり、物事を拡大することによって細部が明らかになり、より詳細な解析が可能になる。しかしそれと同時に視点を遠ざけて全体を見渡すことの重要性を忘れてはならない。

多くの数学分野では、専門をより細分化し詳細な計算を実行するということが行われている。もちろんそのことによって多くの未知の事柄が明らかになり、研究が進むことであろう。しかし新しい分野というのは多くの場合、大局的に物事を捉える事から生まれる。もちろん詳細な計算はどの数学分野でも必須だが、大局的に捉えることなしに重要な結果はなかなか生まれない。

物事を捉えるときは、多くの場合複数の視点を持つことが重要になる。複数の視点を持つことによって物事の本質が立体的に浮かび上がる。三つ、四つの視点を持てればそれに越したことはないが、まずは遠近二つの視点を持つことを心がけなければならない。

物事を解析する目的は、何も数値をはじき出すことではない。数値を出すということは手段であり、最終的な目的は物事の本質を捉える事である。そこを勘違いすると永久に最終的な答えを出すことはできない。

自分には何が必要で、何が必要でないか?

生きていく上で絶対に欠かせないものはいくらかある。そのようなものは何が何でも手に入れなければならない。その一方、必要でないものもたくさんある。そのような必要のないものをいくらか持つことはある意味ゆとりとなるが、無駄なものを極力持たないということは非常に大事な事かもしれない。

僕が一番危険だと思う考えは「もらえるものは何でももらう」ということだ。これがなぜ危険なのか?それは「何が必要で何が無駄であるか」ということを全く認識していないからだ。タダでもらって損をすることはないと思われがちだが、実はもらって損をすることはたくさんある。逆に持たないことによって身軽になることもたくさんある。だから僕は道端でのティッシュ配りも極力もらわないようにしている。

ただ、無駄という曖昧さをいくらか作ることは非常に重要な事である。例えば浪費は極力しない方が良いかもしれないが、いくらかの浪費には意味がある。意味のある無駄と意味のない無駄を判断することが重要だ。

これまでの話に反するようだが、実は僕自身はかなり無駄の好きな人間だ。バカなことが好きであるし、賢い生き方はしたくないと考えている。それはなぜか問われれば、面白い生き方をしたいからである。賢い生き方を否定するわけではないが、面白い生き方をするためにはある程度バカになり切らなければならない。どこまでバカになり切れるか?そういうところにも人間の度量というものが大きく試されている。

身体と精神を高いレベルで保つ。

身体と精神は人間の両輪となって、生きていく原動力となる。しかし体力も精神も歳を取るにつれ老化するのが自然の摂理というものかもしれない。しかし生き方によっては、身体と精神の若さを保つことは不可能ではない。とは言っても、最近話題のアンチエイジングとかいう類のものではなく、身体の基礎体力、そして基礎的精神力をいかにして高いレベルで保つかということだ。

身体の若さを保つための特効薬はない。体力を高いレベルで保つためにはトレーニングをするしかない。ただしジムに行く必要は全くない。むしろジムなどというものには行かないということが重要な秘訣かもしれない。筋トレなどのトレーニングは、家でいくらでもできる。ダンベルさえあればいくらでも腕を鍛えることができるし、腕立て伏せ・腹筋をすればほぼ盤石である。さらに電車に乗る時に、駅の階段を二段飛ばしでダッシュすれば下半身も鍛えられる。プロスポーツ選手であればお金を払いジムに行って何時間も鍛える意義はあるが、我々一般人がトレーニングするに当たっては、いかに隙間時間を使って効率的にトレーニングするかとういうことが重要になる。そう考えればジムなどには行かない方が良いことは明らかだ。

精神の若さを保つためにはどうすればよいか?これも特効薬はない。しかし体力を保つためにトレーニングが必要なように、精神力を保つためにもトレーニングに当たるものがある。それは「挑戦」だ。常に未知のものに挑戦し、前に進むか。精神力を保つためにはこれしかない。多くの人は老化によって挑戦を避け守りに入ってしまう。しかし挑戦こそが最大の防御だとも言えるので、挑戦することにデメリットはほとんどない。確かに挑戦にはリスクというデメリットは付きものであり、挑戦せずに立ち止まるか、挑戦をして三歩進んで二歩下がるか、どちらを選ぶかは人それぞれであるが、僕は常に後者を選択することを心がけている。

今の僕は身体も精神もかなり若返っている。体力と精神力のどちらが欠けても最高のパフォーマンスを発揮することはできないと僕は考えている。確かに身体と精神力を高いレベルで保つためにはそれなりのトレーニングが必要だが、特別困難な事ではないと僕は思っている。自分の思考パターンの改善一つで身体と精神を高いレベルで保つことが可能になる。

数字ではないデータ。

現在のプロスポーツの世界はデータ社会である。その最先端を行っているのがプロ野球の世界であろう。投手の球速は昔から測定されているが、メジャーリーグの大谷翔平選手のニュースを見ていると、打球の飛んだ角度から打球の速さまで、様々なデータが紹介されている。その他にも、投球の回転軸や回転数までもが測定されている。

あらゆるデータを測定し活用することはもちろんメリットが大きいが、僕は必ずしもメリットばかりではないと感じている。例えばメンタル的な部分も大きな要素を占めるし、生きていく中では知らない方が良かったという情報も多々ある。大事なのは、自分がどのような情報を手に入れ、逆にどのような情報をシャットアウトするかという明確な基準を持つことだ。

そして大事なのは、データの中には数値で表せられない要素もたくさんあるということだ。さらに、数値的データも必ずしも完璧ではない。もし数値的データが完璧ならば、全ての人が上手くいっているはずだ。しかし現実はそうではない。

多くの人は「目に見えること」で評価しようとするが、それ以上に大事なのは「目に見えない部分を見る」ということだ。数字ではないデータをどれだけ把握しそれを基にコーディネートしていくか。そのことの重要性を理解していないと、数値的データに振り回されることになってしまう。

精神が勝つか?現実に負けるか?

精神的に瀬戸際に立たされている人は、世の中には少なからずいるだろう。そのような苦しい時には誰かに助けてもらいたいと思ったりもするが、精神的な苦しさは金銭のように数値的に明確化することもできないので、その苦しさを自分の中に抱え、自分で解決することが求められる。精神的な苦しさにセーフティーネットなどというものは存在しない。

何かに挑戦している時、結果が出る直前が一番苦しいのかもしれない。そこでもし結果が出なければもう後はない。しかしそのような崖っぷちに立たされているからこそ、通常以上の力を発揮することができるのかもしれない。

人それぞれ得意不得意があるので、他人が簡単にできる事ができなかったりする。逆に他人には絶対にできないことが自分にできることがある。もしそのようなことがあれば、それに人生を懸けるのも非常にエキサイティングである。ただし他人にそのような事を薦めてはいけない。そのような挑戦は非常にリスクが高く危険すぎる。

今年もあと約1カ月半。来年の中頃には平成という時代が終わる。次の年号がどうなるかはわからないが、自分自身の進むべき道を突き通し、何とか次の時代も生き延びたいものである。リスクのある危険な状態にあるにもかかわらず、ドキドキと非常に期待感を持っている自分もいる。自分の状況は非常に危機的な状況であるが、まあ大丈夫であろう。

万年筆。

僕は普段から万年筆を愛用している。はっきり言って、百円ボールペンやシャーペンでもほとんど不自由することはないのかもしれない。むしろ持ち歩くには、百円ペンの方が便利かもしれない。しかし僕が使っている万年筆は、すでに体の一部となり僕の人生に必要不可欠の一本となっている。

僕の万年筆は特に高価な物という訳ではないが、やはり愛用の一本にするためにはそれなりのものでなければならない。100円のペンではいくら長く使用していたとしても、なかなか愛用の一本にはなりえない。そういう意味では、初めの一本を選ぶときにはかなり吟味した方が良い。

万年筆には太文字のものが多く、店頭で人気なのも太文字の方が多いようだ。確かに太文字の万年筆の方が圧倒的に味がある。太文字の万年筆は、力加減によって様々な表現を出すことができる。しかし僕の万年筆は細文字だ。普段非常に小さい文字を書くことが多いので、細文字の万年筆は重宝している。例えばアインシュタイン方程式を書くには、テンソルの添え字がかなり小さい文字になるので、太文字のペンでは使い物にならない。とは言え、次の一本を買う時は、味のある太文字にしようかとも思っている。

作家などの文筆家は、やはり仕事道具となるペンにこだわる人が多いとは思うが、ただそれが飛びっきり高級なものであるとは思えない。やはり芸術品レベルの超高級万年筆は、実用的観点から見ても仕事ではあまり使い物にはならなさそうだ。僕自身も超高級万年筆が欲しいわけではない。それよりも自分の手足となって酷使に耐えることのできる一本が欲しいのだ。

今、ひそかに欲しいと思っている万年筆がある。しかしその万年筆を手に入れたとしても、現在使用し続けている手に馴染んだ万年筆は、壊れない限りは一生使い続けると思う。

学問を極める。

学問を研究している人の多くは、専門を定めてその専門分野を極めることを目標にしている。しかしトップクラスの研究者の多くは、専門分野以外の学問に対しても極めている人は少なくない。学問というものは一見関係のない分野に見えても、その基盤においてはかなり共通するところが多く、一つの分野を極めることが他分野を極めることにつながることが少なくないのだ。

学問に対する姿勢は人それぞれ違うが、一つの姿勢として学問なら何でもアリというのも非常に意味のある有効な手段だ。逆に一つの細分化された分野にこだわり過ぎると思想のたこつぼ化を招き、広い視野が保てなくなる危険性がある。

学問を究める事は非常に楽しくエキサイティングだ。万人がそのように感じるわけではないかもしれないが、少なくとも僕自身はそう感じているし、これまでそのようなエクスタシーに浸っている研究者を何人も見てきた。学問の発展はそのような人のエクスタシーから生まれるのだと僕は思っている。

学問の本質は専門化や細分化にあるのではなく、むしろ何でもありの複合化にある。少なくとも理系・文系などと隔離するのはナンセンスでしかない。とは言え、得意不得意があるのは仕方がないことだが、そこを克服するのも学問の研究には不可欠だ。という僕自身は“英語”という呪縛から全く抜け出せないでいるが、それも僕自身に課せられた試練なのかもしれない。

論。

論が立つのと、論の根っこを押さえるのは違う。論が立つ優秀な人は多い。論を立てるためにはかなりの知識を要するが、多くの知識を網羅し物事を解析できるからと言って、論の根っこを押さえられるものではない。論の根っこを押さえるとは、物事の要所を押さえることだ。つまり論を押さえるためには、知識を身に付けるだけではなく本質を掴まなければならない。

テレビ番組「朝まで生テレビ(テレビ朝日)」を見ていると、そのことがよくわかる。出演しているパネリストを見ていると、皆非常に論が立つ。多くの事を様々な方向から解析して見せる事には皆非常に長けている。しかし田原総一郎氏はそれだけではない。彼は論の根っこを常に押さえている。逆に言うと、非常に優秀な多くのパネリストたちは、論が立っても論の根っこを押さえていない人が多い。この番組は論の根っこを押さえている司会者・田原総一郎氏がいなければ成り立たないのだ。

ビジネスでもプレイヤーとしては優秀でも、管理職に昇格した途端平凡なマネージャーになってしまう人が多いとよく聞く。それは先ほどの論の話と同じで、マネージャーは物事の根っこを押さえる事が重要だが、それができていないからだと思われる。プレイヤーとマネージャーには異なった資質が要求される。

論を立てるためには勉強すればいい。しかし論の根っこを掴むためには単に勉強すればよいというものではない。勉強する論の奥にある本質を見抜かなければならない。では物事の本質を見抜くためにはどうすればいいか?そのための明確な訓練があるかどうかはわからないが、とにかくただ単に知識を吸収するだけではなく、とことん考え抜くことが必要だということは明らかだ。