投稿者「木原 康明」のアーカイブ

今年のスポーツを振り返って。

スポーツ界でも、今年一年いろいろあった。その中で特に印象に残ったのは、陸上100m・桐生祥秀選手の9.98秒だ。一昔前ならば、9秒台は世界でトップレベルのタイムだが、それを日本トップ選手が記録したことは感慨深い。とは言え世界的に見れば、一昔前のカール・ルイスから今年引退したウサイン・ボルトへと飛躍的にタイムは伸びてきている。桐生選手がこれからどこまで記録を伸ばすのか、注目だ。

そして、今年は満足のいく結果を残せなかったが、元日本ハム、現エンゼルスの大谷翔平の潜在能力には人を惹きつけるものがある。来年メジャーでどこまで二刀流を極めるか、これも注目だ。

逆に個人的に残念なのが、阪神タイガースだ。今年の阪神は成績的には決して悪くはない。しかし日ハム・大谷とは対照的に何か惹きつけるものがない。そして今年のドラフトでも清宮などの注目選手の獲得に失敗し、来年に対してもあまりワクワク感がない。昔の新庄剛志のような華のある選手が出てきて、グラウンドを思いっきり“シンジョイ”してほしいものである。(僕は阪神ファンである)

そして来年初めには冬季五輪が開催される。女子ジャンプ・高梨沙羅がリベンジを果たすのか?フィギュアスケート・羽生結弦が五輪二連覇を果たすのか?いろいろ見所があるが、自分にゆかりのある選手も気になる。同じ神戸市民の女子フィギュア・坂本花織選手、同じ出身大学のスピードスケート・小平奈緒選手などである。

いろいろ挙げてみたが、来年一番気になるのはやはり大谷翔平だ。彼の規格外レベルの二刀流がメジャーでどこまで通用するのか?いや通用するというレベルではなく暴れまわってほしい。そして日本人と米国人の度肝を抜くような活躍を期待している。

「日韓合意破棄」は、韓国が国家としての体を成していないことを意味する。

慰安婦問題の日韓合意で「最終的かつ不可逆的な解決」としたことに関して、韓国・文大統領は「この合意で慰安婦問題は解決されない」という見解を述べた。まだ日韓合意が破棄されたわけではないが、もし破棄となれば、それは現在の韓国が国家としての体を成していないことを自ら宣言するものであると言える。

いくつもの問題を抱えながらもこれまで日本政府が対韓関係を重視してきた理由は、一番に「隣国である」という揺るぎない事実からだ。日本という国は韓国との関係なしには成り立たない。しかしこれには「韓国が国家として成り立っている」という前提があってのものだ。しかし日韓合意が破棄となればこの前提は崩れ去る。日韓合意破棄により韓国が国家と見なされなくなれば、対韓関係は大幅に見直さざるを得ない。

現在、朝鮮半島は、北朝鮮問題という非常に大きな問題を抱えている。もちろん日本もこの問題に対して無関係ではない。今、日韓関係は非常に重要な局面にあるのである。

韓国、そして日本もだが、国家の問題に対して優先順位をはっきりとさせないといけない。今優先すべき課題は何か?冷静に考えればそれは明確に見えてくるはずだ。

「被害者も悪い」の論理はおかしい!

犯罪・事故などが起きて必ず出てくるのが「被害者も悪い」という声だ。時には加害者以上のバッシングを受けることもある。はたして「被害者も悪い」は正しいのだろうか?

確かに被害者にも落ち度があることは多い。いや、落ち度がないなんてことはほとんどない。しかしそれは、落ち度がある被害者が悪いというものではなく、落ち度などは探せばどうにでも見つけられるということだ。

普段の行動において、全く落ち度がない人などいるのだろうか?おそらくいない。交通事故などはその典型的な例だ。自動車は走っている(完全に止まっていない)限り、ほとんどの場合被害者にも責任が生じる。時には殺人事件の被害者に対しても、こじつけのような悪意の感じられる責任を押し付ける声を聞くことがある。

人間は落ち度を持ちつつ暮らしている。したがって人間の落ち度を過度に指摘するのはナンセンスだ。ましてや事件の被害者の落ち度を追及するのは、ほとんどの場合社会的に間違っている。

現代の日本社会では「自己責任」という言葉だけが独り歩きしている。

たった一回の人生に何を懸けるか?

当たり前の話だが、人生はたった一回しかない。そのたった一回の人生に何を懸けるか?

もちろん何かを懸けるとかそんな覚悟なしに、流れに身を任すという人生もあるだろう。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。それはそれぞれの人生のスタイルと言えるのかもしれない。

ただ、人生は一回しかないのだから、複数の事を掛け持ちするのにも限度がある。そして人生の軸というものははっきりとしておいた方が良い。その「人生の軸」が懸けるものであろう。

人生の軸などというものは、時にはぶれる時もあるだろう。しかしそのような時にどう立て直すか?その時、何かに懸ける強い思いが方向性を明確にしてくれるに違いない。

防衛力と攻撃力の狭間で。

自衛隊の護衛艦「いずも」を空母化するというニュースが流れた。そこで問題になっているのが、「攻撃型空母」は保有できないという政府見解だ。

憲法第九条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という条文がある。したがって日本国は建前上、軍隊を持てないということになっている。だから日本の軍事組織は軍隊ではなく「自衛隊」と呼ばれている。したがって自衛する軍備は持てるが、攻撃力は持ってはならないということになっている。おそらく今回の「いずも」の空母化に関しても、そこが問題になっているのだろう。

“攻撃力”と“自衛力”とを区別して使っているが、そもそも攻撃力と自衛力は表裏一体であり、明確に区別できることではない。攻撃することは自衛することにもつながる。また、攻撃は最大の自衛であるとも言えるかもしれない。そのようなことから、軍事に関する問題では、事あるごとに憲法に引っかかり、足かせになっている。安倍首相が九条改正に前向きなのも、そのようなことが一番大きな理由である。

最近の北朝鮮問題では、北朝鮮のミサイル施設を攻撃することが日本の自衛につながるかという論争がされている。これは攻撃か?自衛か?こんなことはいくら議論しても結論は出てこない。

まさに攻撃力と自衛力の狭間で揺れているが、唯一の解決方法は九条改正しかない。九条を改正するのが良いのか?九条を改正せずに毎回議論するのが良いか?近い将来にあると思われる憲法改正の国民投票に、国民の意思表示が問われるところである。

実感はないが、自信はある。

何かを成し遂げようと取り組んでいる時、自信があるかないかによって結果も大きく変わる。自信はないよりかはある方が絶体によい。根拠に基づかない自身もある程度あってもよいが、根拠のある自信は非常に大切である。

根拠のある自信を持つためには、大局的な展望が必要だ。目の前にある課題をクリアしていくことももちろん大事だが、それと同時に長期的な展望に基づく計算とアイデアが必須である。

自信はあっても、まだ成し遂げていないからには、実感がないのは当たり前である。実感がないので本当にできるのかどうか不安だが、それは全く問題ない。実感などは達成した後に感じればいい。

実感はないが、自信はある。そんな気持ちで前に進もうとする毎日である。

神戸から世界の舞台へ!フィギュアスケート・坂本花織さん。

24日夜、フィギュアスケート・五輪代表が発表された。全日本選手権の結果が重要視される選考であったが、女子代表は宮原知子選手に次ぐ二人目の枠に、2位の坂本花織選手と4位樋口新葉選手のどちらが選ばれるか、発表があるまで全くわからないという状況だった。結果を出した坂本選手か、実績の樋口選手か、固唾をのんで発表を聞いていたが、坂本花織選手が選ばれることになった。

坂本花織選手と、有力視されながら今回の結果が振るわなかった三原舞依選手は、二人とも神戸の同じリンクを拠点とするライバルだ。三原選手が選ばれなかったのは残念だが、坂本選手が選ばれたことは、同じ神戸市民としては非常にうれしい。

はっきり言って、今回の選考までは、三原選手の方に期待しており、坂本選手は神戸二番手という意識だった。もちろんどちらが選ばれても非常にうれしいのだが、三原選手ではなく坂本選手が出てきたことは、非常に失礼な言い方だが意外であった。

坂本選手が選ばれた現在は、坂本選手を思いっきり応援しようと思う。神戸から世界へ!坂本選手には思いっきり暴れまわってほしい。

とは言え、坂本選手の活躍を全く他人事だとは僕は思っていない。坂本選手が世界で暴れるのなら、もちろん僕も負けずに自分の専攻分野で暴れるつもりである。

神戸から世界の舞台へ!

考える行為、悩む行為を飛ばしていいのか?

現代はネットの発達によって“即答”社会になっているのではないだろうか?疑問や問題があればネットで検索し、すぐに答えが出てくる。答えを出すこと自体が目的ならば問題ないが、そこには考える行為、悩む行為が飛んでしまっている。それが一回や二回ならいいが、人生の中で何年もそのようなことを繰り返していれば、かなり大きな弊害が出てくるような気がしてならない。

確かにネット検索は便利だが、答えを即答しても大概の場合は何も生まれない。多くの場合、考える行為、悩む行為から新しいことが生まれてくる。考える行為、悩む行為は創造の源なのである。

世の中のブラックボックス化によって、益々考える行為の省略化が進んできている。もちろん些細な調べものをネットで検索して調べるのは非常に便利で時間の短縮化にもつながるが、じっくりと時間をかけて思考する行為も、物事、そして人生を創造していくうえでは絶対に欠かせない。

周りをブラックボックス化していけば、いずれは自分の人生そのものをブラックボックス化してしまうことになりかねない。そうなれば、自分の人生を制御しているようで、自分の人生を制御しきれない状況になってくる。

ネット検索は使いようによっては非常に便利で、それを使いこなすことは有益ではあるが、自分の人生を実り豊かに創造していくためにも、考える行為、悩む行為を大切にし、そのような行為を通じて人生を創造していかなければならない。

なぜ数学を勉強するのか?

「なぜ数学を勉強するのか?」これは多くの人、特に数学が嫌いな人にとって何度も考えたことのある疑問であろう。この問いに対して多くの人が答えているが、この問いの答えを明確に答えた人を僕は聞いたことがない。何とか苦し紛れに答えたり、一側面だけを答えたり、万人が納得する答えをほとんどの人は持ち合わせていない。僕自身はこれまで数学に関わってきた人間として明確な答えを持っているので、万人が納得する答えではないかもしれないが、そのことについて述べようと思う。

数学とはその名の通り「数の学問」である。なので、数の計算、数の扱いを考える学問だと思っている人は多いが、実際はもっと深い考察のいる学問である。その深い考察とは、「数の世界の奥に潜む構造・体系」である。まずその一例を取り上げよう。

小学校で掛け算を学んだ人は、2×3と3×2は同じ答えになることはすぐに分かるであろう。すなわち2と3を入れ替えても答えは変わらない。小学校で習う掛け算のこのような性質を、専門用語で「可換」という。可換とはその名の通り「交換可能」という意味である。すなわち掛ける順序を変えてもよいというわけである。

そして小学校で習う掛け算が「可換」であるように、進んだ数学では「非可換」、つまり順序を変えてはいけない掛け算がある。すなわち、小学校で習う掛け算の奥には、可換という非常に重要な構造が潜んでいるのである。

ここで「なぜ数学を勉強するのか?」という問いに戻るが、その一番の理由は「本質を見抜く力をつける」ということである。数学の法則、規則の裏側にある本質を見抜くことによって、本質を見抜く目を養うのである。

もし数学以外の学問、いや学問以外でもよいが、それによって本質を見抜く目を付けることができるのならば、別に数学でなくてもよいのである。国語や社会、ビジネスなどで本質を見抜く目を付けることができれば、それは非常に価値のあることである。

しかしなぜ数学なのか?それは数学が本質を見抜く力を付けるのに一番適した題材であるからである。数学は本質の塊であると言える。数学の構造は本質を見抜くのに一番適している。数学で身に付けた本質を見抜く目は、他のあらゆる分野に適用できる。数学はある意味万能なのである。

これらの事は、小学校・中学校の教師でさえもなかなか認識していない。いや、高校の教師でも認識していない人は多いであろう。

結論を言うと、数学にはあらゆる本質が詰まっていて非常に実り豊かな学問である。そういう意味では数学は勉強をするに値する学問だ。しかし他の学問で本質を見抜く力を付けることができるのならばそれはそれでよい。自分が価値を見出した学問に打ち込むことが一番大事なのである。

新幹線に関する二つの話題。

現代日本において新幹線の存在は象徴的であり、常に何らかの話題を提供してくれる。そこで今日は新幹線に関する二つの話題を取り上げようと思う。

一つ目は、来年3月17日のダイヤ改正で、 東京~博多間、東京~広島間の「のぞみ」計5本の所要時間が3分短くなるという話題だ。この3分間をどう見るか?数字だけを見ると微々たる短縮にしか見えない。たしか「のぞみ」がデビューした時は、速度向上により20分ほどの短縮を行ったはずだ。

では昔の20分と今回の3分は何が違うのか?それは「技術とシステムの成熟」に尽きるだろう。成熟した技術下では、それなりの技術の向上があっても表面的にはそれほどの差は表れない。今回の3分は技術の成熟を示すものである。

ではこれから大きく数値を変えるためにはどうすれば良いか?それは成熟ではなく「飛躍」することである。リニア技術はその典型であろう。これまでの新幹線技術の熟成とリニア技術の飛躍は、多くの事柄に対するモデルになりうる。新幹線モデルは一つの成功モデルである。

二つ目は、最近ニュースになっている悪い話題だ。12月11日に発生した新幹線の台車に亀裂が入った事故。このニュースは新幹線の安全神話に浮かれている日本人にとっては衝撃である。

この事故で衝撃的だったのは、台車に亀裂が入ったという事実以上に、トラブルが発生した後も通常どおり事故車を走らせていたことだ。そしてこのような事実は日本だから起こったとも言える。

日本の鉄道は、非常に精密な運行をすることで世界的に知られている。そしてそれは運行をコントロールする側としても大きなプレッシャーであるに違いない。遅延などした場合には、世間・乗客から猛烈な非難を受けることは間違いない。このような日本特有の社会状況もあり、不備を認め運行停止にするという判断が下せなかったのであろう。目の前の小さなリスクばかりに目が行き、その先にある大きなリスクに目が行かなかったと言える。

この様な状況を変えるには、鉄道会社の意識だけでなく国民全体の意識を変えることが必要だ。安全性を高めるためには、運行の正確さを犠牲にせざるを得ないこともある。このような判断を国民、そして利用者が寛容に受け入れられるか?時間に厳しい日本人にとっては簡単なことではないと思うが。

阪神大震災の時には、新幹線の線路が崩れ落ちたところもあった。しかし幸いなことに時刻的に一番列車が走る前であった。このことは安全性によるものでなく「運」でしかない。しかしこのような幸運から新幹線の安全神話は継続されることになった。

今回の新幹線台車亀裂事故が明らかにしたのは「日本人の鉄道に対する意識のガラパゴス化」ではないだろうか?やはり意識というものは極端に一方を追求するのではなく、ある程度の余裕と寛容さが必要なのではないだろうか。