投稿者「木原 康明」のアーカイブ

社会や思想の民主主義化。そして教育の多様化へ。

9月1日、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)を見た。この回のテーマはAIと社会に関することであったが、見ながら気になることが一つあった。それはほとんどの話がビジネスベースで考えられていることである。もちろんこの番組の根底にはビジネスを主体にするという暗黙の了解があるからなのかもしれないが、もう少し違う切り口があるのではないかと感じた。

AIが社会に広く浸透すると、もちろん教育の在り方も変えていかなければならない。もちろんどのように稼ぐか?ということも重要であるが、人間が人間らしく生きるためにはどうすればいいか?ということを真剣に議論しなければならない。そのためには全てがビジネスベースという前提を外さなければならない。

教育とは何か?この問いの答えは様々である。もちろん将来お金を稼ぐための力を付けるというものもあるだろうし、学問に打ち込み研究力を付けるというものもある。しかし現在の一般市民の教育に対する期待は、「いかに安定した職に就いて、いかに安定的に収入を得るか?」というところに偏っている。「たくさん稼いで金持ちになる」ということですらないのだ。多くの人が現状維持を望み、社会や企業もいかにして現状を維持するかというところに注力している。

過去の歴史を見ても、現状維持を望んで現状維持を保ったケースはほとんどない。現状維持は没落への始まりである。ではなぜ日本という国が曲がりなりにも現状維持をできているように見えるのか?それは国全体が現状維持を目指しているからである。全体が現状維持のため、現状維持をしていると錯覚しているのである。しかし世界的に見ると、現在の日本は全ての面で明らかに低下している。

思考がそのような方向に行くのは「国民性だ」と言われるかもしれないが、国民性を形成するのは教育であり、国家体制である。日本は政治システム上は紛れもなく民主主義であるが、日本社会はとてもじゃないが民主主義と言えるものではない。横並び思想で、みんな仲良しで、皆と違うことをすれば仲間外れにする。それは個人レベルでも企業などの社会レベルでも同じだ。社会主義国家である中国でさえ、日本は中国以上に社会主義であると言っている。

今日本に強く求められているのは、民主主義という看板を掲げた社会主義ではなく、思想や社会、そして教育の民主主義化を進める事ではないだろうか?

真剣に生きようとする人をバカにしてはいけない。

理解できないことだが、世の中には真剣に生きようとする人をバカにする人がいる。あるいはそのような風潮がある。誰だって順風満帆な訳ではなく、様々な困難を抱えながら生きている。もちろん何の困難もなく順調に生きている人もいるが、順調に生きている人も困難に立ち向かいながら生きている人も、それぞれ真剣に生きているのである。

日本に限ったことか、それとも世界的にそうなのかわからないが、普通と違う感じの人をバカにする風潮がある。逆に言えば多くの人は普通に生きようと思っているのかもしれないが、世の中の多様性を考えれば皆普通とは違うという状況の方が普通なのかもしれない。

日本の科学の世界では「異能流出」という言葉があり、以前から問題になっている。僕はこの言葉を、ノーベル賞科学者の中村修二教授に関してのことで聞いたのだが、中村教授は明らかに普通ではない。しかしもし中村教授が普通だったのならば確実にノーベル賞は取れなかったであろう。もちろん中村教授が最高の才能を持ち合わせた人であることは言うまでもないが。

異能を持ち合わせた人は、なぜ異能と言われるのか?それは最高に真剣に生きているからだと思う。真剣に生き、異能になり得るような人をバカにする風潮がある日本の行く先は、はっきり言って暗いとしか言いようがない。世の中を変えるのは、普通の人ではなくて異能なのだから。

思想としての数学。

数学というものに対して、誤った認識を持っている人が多い。数学とは一見、ルールと論理に則ったガチガチの体系のように見える。しかし数学は論理だけでできるものではなく、数学者の思想、さらには性格までが反映する非常に人間的なものでもある。

例えば、ある定義から始めて数学的論理を構築していくと、全ての数学者が同じ結果にたどり着くかというと、全くそうではない。同じところから出発しても、違うところにたどり着くことは多々ある。右にも進み得るし、左にも進み得る。数学の多様性はそのように起こり得るのである。

数学者一人ひとり、数学というものに対してのスタンスは様々であるが、数学を一つの思想だと捉えている数学者も少なくないように思える。数学理論には数学者の思想が色濃く反映されているのである。そこが数学の面白い所であり、一筋縄ではいかないところでもある。

数学の歴史の原点とも言える古代ギリシャでは、数学は思想であり、宗教でもあった。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、ギリシャ時代の新興宗教の教祖であったという話は有名である。数学とは無味乾燥な無機物ではなく、非常に人間的な有機物なのである。

とは言え、数学の非常に大きな特徴は“普遍性”である。地球上の人間が考え出した数学理論は、遠く離れた恒星シリウスの惑星に住む知的生物にも同様に発見されるであろう。もちろん数学にどのような思想を見出すかは様々であるが。

数学的思想は、数学研究を前進させる原動力である。思想無き数学は大抵取るに足らないものであることが多い。重要な数学理論の根底には、数学的思想が脈々と流れている。数学理論の豊かさを感じ取るためには、数学的思想を持つことが非常に重要なのである。

まだまだ修行は続く。

何かを極めようとするとき、基礎的な部分の習得は必要だ。基礎無くして応用はありえない。しかしいつまでも基礎的事項の習得にはまってしまうのも得策ではない。ところが、この基礎から応用への移行をいつ行うか?これがなかなかの悩みどころである。

基礎を修得したからといって、突然応用に移行するわけではない。応用に移行した後でも、基礎の習得は常に行わなければならない。修行はエンドレスに続くのである。

最先端の事柄ばかりに目が行ってしまえば、そこからできる事は枝葉の継ぎ足しでしかない。大きな事柄を遂行しようと思えば、最先端の事柄に加え、過去の基礎的事項を徹底的に見直すことが必要である。意外に重要なポイントは、最先端の知識より過去の基礎的事項の中にあることが多い。

もちろん、過去の結果を全て記憶することは不可能であるし、そのような事を全て記憶する必要はない。そのために書物というものが存在するのだ。書物を見て確認できる事は、そもそも記憶する必要性はないのである。もちろん記憶していれば便利ではあるが。

細部にこだわりすぎて、全体が見えないようでは話にならない。しかし大局観を掴むためには、細部を修得することも必要である。この塩梅が微妙で難しいところである。これらの感覚を掴むためにはとことん修行するしかない。

孤独を愛する。

多くの人と群れてわいわいするのは楽しい。僕も人と話などをして楽しくするのは大好きだ。しかし基本は独りでいたいと思っている。多くの人と楽しむこともできるが、一人で楽しむことにも長けているというのが理想かもしれない。

どうやら世界的に、孤独というものに対してあまり良くないイメージが広がっているみたいだ。日本でも孤独死が問題になるなど、何かと孤独というものに対してネガティブなイメージが付きまとう。しかし僕は、問題は孤独にあるのではなく、孤独を楽しみ満喫できないことにあるのではないかと考えている。実際に、孤独を満喫することができれば、一人でいることに非常に落ち着きが持てるし、自分の時間というものを大切にすることができる。

僕自身は数理物理の研究に打ち込んでいるが、理論系の研究というものは基本一人で構築していくものであり、一人でいることを満喫できないようだと理論系の研究などはできない。

「孤独を愛する」と言うと、バーで独りでお酒を飲むという風景をイメージする。実際僕も、バーでゴッドファーザーというカクテルを飲みながら満喫する時間が好きだ。孤独を愛するための入り口として、バーを満喫するのは非常に良い手かもしれない。

現代社会ではコミュニケーション能力ばかりがクローズアップされ、独りを満喫する能力が完全に無視されている。理想は人とのコミュニケーションを取りながら、独りの時間もしっかりと満喫するということだと思う。しかしこれを実行できる人は多くはないようだ。

社会があらゆるところで繋がっている現代だからこそ、孤独というものについて振り返ってみることが必要だと強く感じる。

やるなら徹底的に、プロレベルを目指して!

僕はかなり多趣味だ。しかし“趣味”という言葉はあまり好きではない。なぜなら、興味を持ったことは徹底的に極めて、趣味の域を超えることを心がけているからだ。もちろん、専門外のことを極めたところでプロレベルになるのは難しい。というよりまず不可能だ。しかしそこまで行かなくても、趣味の域を超えるくらいの事はできる。

例えば、山中伸弥教授のiPS細胞に対して興味を持ったとする。そこで山中教授の書いた一般向けの本やiPS細胞の解説書を読めば、おおよその事は分かるであろう。しかしそこを一歩越えて山中教授の原論文を読むところまで踏み込んでみたい。山中教授のiPS細胞発見の原論文(英文)はネットで簡単に手に入る。実際僕もこの原論文をプリントアウトした。しっかりと読めたかどうかは非常に怪しいが。

「広く浅く」か?「狭く深く」か?という問いはいろんなところで問われる。しかし欲を言えばその両方に挑戦したいものである。専門の事に関しては徹底的に深く、そして専門以外の事に関してもそれなりの深さで広く、というふうに。軸足をしっかりと持ちつつも、あらゆるところに触手を伸ばせるフットワークの軽さを身に付けたいものである。

目指すところは「多趣味の専門家」というところであろうか?僕の場合、数理物理という専門に関しては徹底的に深く、かつ荒野を切り開き新しい知見を確立していく。そして専門外の生物学や哲学、さらには興味のある時計やスーツに至るファッションまで、広く突き詰めていきたいと思っている。

少し欲張りかも知れないが、欲張りでないと物事は追究できないし、欲張りなくらいがちょうどいいと思っている。

目には見えない自然則。

科学研究とは根本的には「自然則を見出す」ということに尽きる。自然則とは科学の根本的原理の事で、ニュートンの運動方程式や一般相対性理論のアインシュタイン方程式がこれに当たるだろう。さらに言えば、光速度不変の原理などはさらに根本的な自然則になる。

自然則の確固たる定義はない。なのでそれぞれの科学者がどこを土台に置くかによってそれは変わる。意識の科学研究においては客観的現象と主観的な意識の現象を結び付ける原理が自然則になる。

自然側は自然現象を高度に抽象化したものであるので、目には見えない。この「目には見えない」ものを見るのが科学者の腕の見せ所である。当たり前のことであるが、物体の運動が見えても、自然則が見えるわけではない。しかしそれを抽象的に抽出して数式として表現するのが科学者の仕事である。

科学研究においてはかなりセンスが問われる。ただ新しいことを発見すればそれでいいのか?もちろんそれも広義の意味での科学といえる。しかし現象を支配する原理を探究するのが科学というのならば、科学とは言えないことを研究している科学者は非常に多い。そんな科学界に一石を投じることができるような研究を行うことができるかどうか?科学者としてのセンスと力量が問われるところである。

自分との戦い。

生きていれば、悩みを抱えることも多々ある。僕も色々な事でしばしば悩むことがある。そして時には周りの環境が悪いのではないかと考えることもあるが、冷静になって考えれば問題の本質は自分にあることに気付く。

他人との戦いならば、努力して勝っていくということができる。しかし自分との戦いは、自分の精神力を強くするということでしか克服できない。精神力を強くすることは簡単な事ではないし、さらにエンドレスでもある。

以前、ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーが話題になった。スポーツではメンタル面の微妙な変化が結果に大きく関わることが少なくない。日本代表ともなると、技術も体力も、さらにはメンタルにおいても頂点を極めることが求められるのでなおさらだ。このようなスポーツ選手ほどではないにしろ、我々一般市民も様々な局面でメンタルが強くあることを求められる。

ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーは、メンタルはトレーニングによって強化できると言っている、しかし具体的に何をすればメンタルが強くなれるかというノウハウは我々素人には分かりづらいが、自分自身で試行錯誤することによってある程度の所までは作り上げることができる。そして一番重要なのが、“自分で”というところである。

自分との戦いはエンドレスに死ぬまで続くのかもしれない。死ぬまで学び続け、死ぬまで考え続ける。この様な事を当たり前にできるメンタルの強さが大きく成功するためには一番重要なのかもしれない。

脳は緻密で曖昧だ。

最近、「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)という本を読んだ。意識とはこれまで心理学などの非科学的分野の範疇を出なかったが、最近、意識とは何かということを科学的に定義し、科学的に解明するような研究が行われているようだ。

そもそも意識とはこれまで非常に捉えどころのないものであり、厳密に定義することさえ難しいものであった。しかし、まずは意識とは何かということを定義しなければ解析することもできない。そこに意識を科学することの難しさがある。

著者の渡辺博士は、意識の科学を「一人称の科学」と表現している。これまでの科学は、人間が自然を実験、観測するという意味で「三人称の科学」であった。しかし意識の科学に踏み込んで、科学者は初めて一人称の科学というものに遭遇した。意識を科学することの難しさは、この「一人称」であることに由来する。

僕はこれまで、実験科学というものに縁がなかった。数学や理論物理という理論系の科学にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は科学実験の難しさを強く示唆するものであった。

この本にも書かれているように、人間の脳に電極などを差し込んで実験することには限界がある。というより、倫理的に無理な話である。そのような困難をどう掻い潜るかという挑戦が書かれているのも、この本の見どころである。

そして、意識というものを解明することは、近年のコンピューターの発展と連動するものである。人間の脳は一種のコンピューターともみなせるからだ。さらにこれからのコンピューター科学の発展において、脳の機能、意識の本質と無縁でいることはできない。

この本は非常に挑戦的で革命的な本である。著者の渡辺博士は、自身の意識を機械に移植することが夢だと書いている。そのようなコンピューターに対する前衛的な期待が、これらの意識研究を前進させる原動力になっているのかもしれない。

この著書は、最先端の科学を理解したいと思う人には非常にエキサイティングな本であるし、コンピューター科学技術に関わる人にとっても非常に得るものがある一冊となっている。

経験から学ぶこと。

僕自身ははっきり言って経験豊富とは言えない。しかし最近、これまではあまりしなかったことを経験し、やはり経験は大事だなと実感している。

しかし経験はそれだけでは、単なる経験でしかない。経験を基に学び、考えることが重要なのである。それは仕事でも学問でも同じだ。考えることによって経験が昇華するのである。

苦しいことを避けるのは誰にでも出来るが、そこをあえて自分から買って出るのも手だ。自分から買って出ることによって、それだけ経験が増える。僕は最近はあえて苦しいこと、力のいることを買って出ることを心がけている。

自分の専門とは全く違う他分野の事において様々な経験をすることによって、それらの経験は専門分野でも生きてくる。特に他分野において苦しく忍耐のいることを経験した後では、精神力も強くなり、専門分野においても力を発揮することができる。

今僕は、数理物理の研究に力を注ぎこんでいる。とは言え、僕の精神力はあまり強くないということも認識している。少しでも強くなり、研究においても全力で力を発揮するためにはどうすればよいか?今はいろいろと試行錯誤している途上である。