投稿者「木原 康明」のアーカイブ

弱さを見せれる人になれ!

弱さを見せられるのは、強さの裏返しである。本当に弱い人は、弱さをひた隠しにしようとする。いかに弱さを見せられる人間になれるか、そこに人間としての器が試されている。

弱さを見せて、それが相手に受け入れられるようになれば、もう十分に強い。自信を持って見せる弱さには、強さがにじみ出ているからだ。逆に弱さを隠すために見せる強さは虚勢でしかない。虚勢を張っても、見る人によってはすぐに見抜かれる。自分がそこまで強くなくても、少しずつ弱さを見せいていけばいい。弱さを見せることによって本当の自分を自覚し、自分がどの方向に進めばいいのかが見えてくる。

弱さを見せて強くなる。そんなことが自然にできれば、意識しなくても一歩ずつ理想への階段を昇って行けるであろう。

もはや震災後ではない?

太平洋戦争後、1950年代だろうか?「もはや戦後ではない」という言葉が流行ったらしい。これは戦後のネガティブな意識から脱却して、次の時代へ向かおうという未来志向な意識の表れだと思う。戦後ではないとは言っても、必ずしも戦争を忘れるということではない。

3.11、東日本大震災から7年経った。震災を風化させてはいけないが、「もはや震災後ではない」という意識も大事なのではないだろうか。もちろん東北の現地の住民は十分に未来志向の意識を持ち、次へ進もうとしているのだと思う。いつまでも震災後ではいられない。

歴史も人生も、過去を教訓にしながら未来を見据えて進むものだと感じる。過去を忘れてはならないが、過去を引きずってはならない。人生で言えば「もはや過去の自分ではない」という未来志向の意識が大事なのだと思う。

歴史も社会も人生も、常に過去を乗り越え、そして未来の自分を構築するために時には過去の自分を捨てないといけない時もあるのかもしれない。今重要なのは、過去ではなく未来なのだから。

健康であるということは、最大の実力だ。

人間一生、常に健康であるということはありえないだろう。誰しも調子を崩したり病気になったりすることはある。しかし健康をいかにして維持するかということは非常に大事である。

健康を崩して思い通りにいかなかったということはよくあることだ。しかし、「実力はあるけど調子を崩して上手くいかなかった」という言い訳は極力するべきではない。なぜなら、健康を維持できるかということも、非常に大きな実力の一部であるからだ。健康であることは、大きな才能である。

そんな僕も過去に大きく調子を崩したことがある。それが故に思い通りにいかなかったことも多々ある。しかしそれも人生の重要な一部分であり、調子を崩して上手くいかなかったのは実力が足りなかったからだと思っている。

しかしそのように上手くいかなかった過去を覆して挽回できれば、それも大きな実力である。全ての事は実力だと僕は思っている。

過去は変えられない。だから過去を悔やんでも仕方がない。しかし未来は思い通りに変えられると僕は思っている。あるいは、未来を思い通りに変えられるかということも実力に大きく関わってくるのかもしれない。一番重要な実力は、自分の未来を変える力であると言えよう。

睡眠は善か?悪か?

僕は自他共に認める超ロングスリーパーだ。しかし日常においてロングスリーパーであることによるメリットはほとんどなく、デメリットでしかない。しかも睡眠リズムは非常に不規則だ。

ところで睡眠は善なのか?悪なのか?よく「寝ているのは死んでいるのと同じだ」と言われる。確かに寝ている間は社会生活を何もしていないので、そういう意味では死んでいるのと同じと言えるかもしれない。しかし当たり前の話だが、睡眠を取らずに生活を送っていれば、生活や社会活動の質は圧倒的に落ちてしまう。そういう意味では起きている時の質を上げるためにも睡眠は欠かせない。

タレントの武井壮さんは1時間しか寝ないらしい。実際テレビ番組で武井さんの睡眠の検証をしていたが、(真実は分からないが)本当であるらしい。僕には考えられないことだが、社会には3時間ほどしか寝ない超ショートスリーパーがいる。かのナポレオンも3時間しか寝なかったという話は有名だ。社会生活において、取り組む時間の長さが鍵を握る仕事をしている人にとってはショートスリーパーであることは非常に重要だ。

その一方、圧倒的に質が重要な仕事も存在する。もしかしたら学問の研究もそうかもしれない。相対性理論で有名な物理学者・アインシュタインもロングスリーパーであり、一日10時間寝ていたという話は有名だ。

通常の日常生活・社会生活を送る上では適切な睡眠時間、あるいは適度に短い睡眠時間で規則正しく生活することが一番理想的でメリットが多いかもしれないが、特殊な例では睡眠の多さが鍵を握る活動を行っている人もいる。ただしこれらの人は社会的には非常に厳しい立場に置かれることが多いようだ。

アマチュアにも夢がある、天体観測の世界。

先日、超新星の爆発の瞬間を偶然撮影したアルゼンチンのアマチュア天文家が話題になった。超新星爆発の瞬間は全く予測できないので、プロだから撮影できるというものではない。従って在野にいる多くのアマチュア天文家の力が必要になる。もちろん撮影データの解析はプロがするのだが、撮影に成功したアマチュア天文家の功績は絶大だ。

多くの分野ではプロとアマチュアでは力の断層があり、トップアマチュアでも普通のプロにはかなわない。それは昨今話題になっている将棋の世界でも明らかだ。将棋ではアマ四段が奨励会(プロへの登竜門)六級程度と言われ、さらにプロは奨励会三段を切り抜けた四段からだ。

しかし天文の世界のアマチュアは面白い。アマとプロが協力体制を敷いているのだ。今回の重要な発見に関するネイチャー(一流論文雑誌)に掲載された論文の著者には、プロの名前に混ざってアマチュアの天文家の名前もある。

アマチュアとプロとの役割の違いはあるが、アマが論文に名前を連ねることができる天文の世界は、アマにとっても非常にエキサイティングである。

裏は見せるべきではない。

人間はいろいろなことに対して裏も知りたいという欲求があるが、多くの事に関して裏はあまり知らないほうが良い。特にエンターテイメントにおいては、それを仕事にしない限り裏の事は知らないほうが良い。

19世紀に活躍した大数学者ガウスは、社会に結果を公表するときには完成した建造物(数学理論)だけを見せるべきであって、建造物を構築する際に作った足場(理論構築の過程)は見せるべきではないと言い、そのことを自身の美学としていたという。それは理論としては洗練しているが、他の数学者からすればガウスがどのように考えていたかがつかみにくいところである。

しかしただ単に楽しみたい時には、数学にしてもエンターテイメントにしても、表面的な事をなぞるだけの方が面白いことが多々ある。裏にある現実を見ると、あまりにも生々しく冷めてしまう危険性があるからだ。

仕事に関しては徹底的に裏を知る必要があるが、日常生活を普通に楽しみたいのならあまり裏に深入りしないほうが良いだろう。

短絡的な統計は、最低の手法だ。

「統計学は最強の学問」というタイトルの本を以前見かけたことがあるが、使い方を誤れば「統計学は最低の手法」に成り下がってしまう。統計学はただ単に正確なデータを集めればいいわけではない。問題は集めたデータをどのように処理・解釈するかだ。同じデータでも解釈の仕方によって正反対の結果を導いてしまうこともある。

僕が最も短絡的だと感じているデータは、地震・火山による災害データだ。よく「前回の地震から何十年経っているから、もうそろそろ危ない」といった話をよく聞く。確かに歴史的に見ればそのような見解はあながち間違いではない。しかしそのようなデータは科学を全く無視している。そのような見解は歴史学でしかない。時として統計は科学的見地と融合させることによって絶大な威力を発揮する。

そして統計の誤用の身近な例は、「今まで負け続けたから、次は勝つ頃だ」という使用例だ。これは数学的・確率論的に言えば全く根拠がない。

統計に盲信すれば、統計に騙され誤った判断を下してしまう。常に正確な判断を下すためには、統計の本質を理解し、正確に運用しなければならない。

必要なことではあるが、重要なことではない。

必要な事をするのは意義がある。それに必要な事は誰かがやらなくてはいけない。ただし、必要な事と重要な事は違う。必要とされている事は、調査をするなりして把握することは可能だ。しかし重要な事は何かということは、物事の本質を理解しないと把握できない。

社会では、役に立つかどうかという物差しで判断されることが多いが、突破口となる一撃を撃つためには根っこがどこにあるかということを把握して、そこを狙い撃ちしなければならない。

重要な事を攻めることができる一部の人間になれるか?それとも小さいが必要なことをするのか?どちらが良くてどちらが悪いという問題ではないが、どちらにしても自分がどこに意義を感じて何を取り組むべきかということを熟考することが求められる。その際、物事の全体の構造を把握しないと的確な判断からずれてしまうことになる。

自分で自分の事を語れるか?

意外と自分の事を語れる人間は少ない。周りにいる人、あるいは有名な人で凄い人の事を語る人は多いが、自分に関してはそこまで語れるところまでたどり着いていないのかもしれない。

自分を語るうえで重要なのが、過去の自分を語るのではなく、未来の自分を語ることだ。過去の栄光にいつまでも浸ってはいけない。そして過去の「もしも」に取りつかれてもいけない。未来に対するビジョンを明確に持ち、それを実行したうえでたどり着く未来の自分について語らなければならない。

自分の事を語れる自分になるためには、今何をすればいいか?それに対する自問自答を繰り返しながら少しでも前進することが重要である。

お風呂でアイデア。

ノーベル賞物理学者の益川敏英博士は、ノーベル賞につながった理論のアイデアを入浴中に思いついたという話を以前耳にしたことがある。それが本当かどうかは分からないが、お風呂では何かとアイデアが思い付くものだ。

僕自身も、その日のブログに書くテーマはお風呂で考えることが多い。お風呂はリラックスできるので、いろいろとアイデアが浮かぶのかもしれない。

昔、「風呂単」というものが流行った。文字通り、お風呂で覚える英単語帳のことだ。お風呂で覚えるということ以上に、水に濡れても大丈夫という紙の方に興味が行ってしまうが、お風呂を利用して商機を見つけようという風呂単製作者のアイデアには脱帽だ。

細部を詰めるのは机の上でしかできないかもしれないが、その突破口となるアイデアを見つけたい時には、お風呂の時間を利用するのが非常に有効かもしれない。