投稿者「木原 康明」のアーカイブ

このブログは2ちゃんねるじゃない。それから僕は荻上チキのような社会評論家が大嫌いだ。

先日、驚くべきコメントが来た。何に驚いたかというと、そのコメントの文章の言葉使いだ。具体的には、

「~~~なんじゃないかにゃ?m(ΦωΦ)/」

「~~~したからぢゃにゃくって♪」

「~~~あったんぢゃにゃいかにゃ?」

このコメントのどこに驚いたか、説明するまでもないだろう。このコメント作者に言いたい。「このブログは2ちゃんねるじゃない!」

内容が合っている間違っている以前の問題として、人間性が問われるのではないか?そして僕のブログのタイトルを見てもわかるように、僕は本名・素性を明かしている。なぜ明かしているかというと、自分のコメントしたことに責任を持つことと、扱っている事柄に真正面からぶつかるためだ。もちろん僕の書いた内容に間違いがあるかもしれないし、不完全であるかもしれない。そういうことにはできるだけ気を付けているつもりではあるが。

以前コメントいただいた方は、自分を明かし、丁寧なメールだったので、こちらからも懇切丁寧に返信のメールを出さしていただいた。もちろんネットの一番の特性は匿名性にある以上、匿名で書き込む方がむしろ常識なのかもしれない。しかし匿名でいい加減な言葉使いで(ネット言葉?)いい加減な書き込みをしたければ、2ちゃんねるでしたいだけすればいい。少なくとも僕はそんないい加減にブログを執筆しているつもりはない。たしかにたいしたことを書いているわけではないが。

そしてついでに言うと、僕は荻上チキのような社会評論家が大嫌いだ。彼のようにペンネーム、すなわち本名を明かさずに社会世論を転がして面白がり、本名を明かしてまともに議論しようとしている人を批判するのは、あまりにも不誠実だ。もしメディアなどで正面から論戦したければ、まず本名を名乗るのが先だろう。自分を明かさない時点で責任を認めずすでに逃げ腰であり、彼と議論する価値はない。

 

中国の術中にはまった韓国

最近、韓国外交があらゆる側面で行き詰っている。中国傾斜でアメリカとの関係が悪化したうえ、北朝鮮の核実験の際には中国は韓国と何の策も取らず、韓国を見捨てた形だ。それを受けて国内各紙は朴クネ大統領の親中政策に対して批判の嵐が吹いているという。

韓国の現状はまさしく中国の術中にはまったとしか言いようがない。中国がこれをはじめから目論んでいたとすれば、中国の戦略はしたたかだ。

数か月前、韓国の外交官は、「中国からもアメリカからもラブコールを受けるのは祝福すべきことだ」と言い放った。しかしその数か月後の現在、韓国は中国からもアメリカからも見捨てられる形になった。

そして経済面では約一年前に韓国側から一方的に破棄してきた日韓通貨スワップを、今になって再開してくれと懇願してきている。もともと日韓通貨スワップは、韓国経済が危機的状態に陥った時に日本が助けると意味合いが深く、韓国に大きなメリットがあっても日本には何のメリットもないシステムだった。それを日韓関係悪化を理由に(もちろん韓国はこんな理由だと言っていないが、これは明らかだ)、一方的に破棄を行い、この一年間で韓国経済が急激に悪化したのを受けて今度は一方的にスワップ締結を懇願してきた。韓国にとっては何とも都合のいい話である。安倍総理はどういう判断を下すかわからないが、多くの日本人のはらわたは煮えくり返っているのではないかと思う。

おそらく人の良い安倍首相は韓国を助けようとするであろう。そして冷静に日本の国益を考えれば、その安倍首相の判断は正しいのかもしれない。しかし日本国民の感情として、もうこれ以上韓国とはまともに付き合えないというのが本音ではなかろうか。安倍首相が韓国を助けようとしても、日本の世論がそれを許すかどうか。とは言え、朴クネ大統領の任期も少なくなってきた。次期大統領になれば今までしてきたことに対して何食わぬ顔でまた反日、あるいは今韓国世論で言われている「用日」を掲げて日本に対峙してくるだろう。しかし同じことがまた同じように通じるかどうか、常識ある知識人なら考えるまでもなくわかるであろう。

プロテニスプレーヤーの40%が1ポンドも稼げていない。「プロ」に対する僕の持論

プロテニスプレーヤーの約40パーセントが、1ポンド(167円)も稼げていないらしい。それに対して現在世界ランク7位の錦織圭選手は年間23億円稼げており、錦織選手は非常に恵まれているという声がある。さらに言うと、フェデラーは18年間で115億円稼いでいるという。野球に目を移すと、最近のメジャーリーグ選手の年棒の異常な高騰に賛否両論がある。

これらの状況について僕の結論を先に言うと、これらのプロスポーツ選手の現状に賛同する。

プロスポーツ選手は会社員・サラリーマンではない。彼らは「プロ」なのである。プロであるからには、結果を出してナンボ、結果を出さなければ何のリターンもないのは当然である。そういう意味では非常に高リスクな道を歩いている人たちである。そして高リスクである彼ら・彼女らには、結果を出せば莫大なリターンを得るのも当然である。正直言って、世界ランク何百位というプロテニスプレーヤーに対して、プロとしての価値はほとんどないのである。確かに世界で何百位と言うのは非常にレベルの高いプレーヤーだ。しかしこれは一般アマチュアから見た目であって、プロの世界では彼らの上には何百人ものプレーヤーが存在するのである。

サラリーマンと「プロ」を同じ目で見てはいけない。「プロ」に対していくつかの定義がある。もちろん社会的な定義としては、プロテストに合格して、その競技で飯を食っている人たちと言える。しかし僕はプロとは「プロ意識」を持っていることが必須だと思う。プロたちは高リスクを覚悟の上でその世界に飛び込んでいる。最近、プロテニスの下部のプレーヤーの賞金を上げようという話があるらしいが、プロの世界に何百位というプレーヤーの存続にほとんど意味はない。僕の持論として、プロとは常に世界トップを目指す人たちであるべきである。初めから100位を目指しているプロなんて存在しなくていい。100位を目指して、金もそこそこくれなどと言うのは勘違いも甚だしい。しかし世界でトップのプレーヤーには莫大な賞金(成功報酬)を与えられるべきである。であるから、錦織選手が23億円稼ぐのも、フェデラーが115億稼ぐのも当然のことなのである。なぜなら彼らは「世界トップ」の選手なのだから。

プロはスポーツだけとは限らない。学問の世界でも同じだと思っている。数学のプロならば世界から注目を浴びるレベルの成果をあげなければならないと思っている。そしてそれだけの成果をあげた数学者はトッププロテニスプレーヤーと同じくらいの報酬を与えるべきだ。

ところが現状は、既存の結果にちまちまと継ぎ足して論文を量産している学者があまりにも多い。言うならば、「サラリーマン学者」とでも言うべきであろうか。もちろん彼らの多くは大学などの教育機関で教育に従事している。報酬はそれらの教育に対する対価と見るべきではないかと思う。

最後に僕自身のことであるが、僕自身は研究で稼いである金額はゼロである。しかしそれは当然のことだと思っている。まだ結果を出していないのだから。かと言ってサラリーマン学者を目指そうとは思っていない。なぜならば、僕は数理物理に対して「プロ意識」を持っているから。今は報酬などゼロでいい。しかし大きな結果を出すことに成功した暁には高リターンを求める。プロとはそういう世界だと思っているから。

ソマリア海賊がマグロ漁師に

面白い記事を見た。

アフリカ北東部、ソマリア周辺では、各国の船舶はソマリア海賊に悩まされてきた。その対処策として各国は艦隊などを派遣して海賊を撃退すると同時に、航行船舶の護衛に努めてきた。日本でも数年前に海賊対策のための自衛隊による船舶護衛の法案が可決したような記憶がある。ところが記事によると、ここ三年ほどは海賊が激減して、派生件数はほぼゼロなのだそうだ。

では海賊をやめた元海賊は現在何をしているのか?マグロ漁師になっているという。しかもその仕掛け人は、日本のすしざんまいの木村社長だそうだ。

もちろん海賊が激減したのは、国連やNATOをはじめとする各国艦隊であることは言うまでもない。しかし他に職がなければ海賊たちは隙を見てまた戻ってくることは想像に難くない。そこでそれらの元海賊の受け皿として、すしざんまいの木村社長は彼らにマグロ漁師への道しるべを付けたというのだ。

この木村社長の活動は非常に本質を突いたものだ。各国が力にものを言わせて攻撃しても、もぐらたたき状態になるのは目に見えている。各国艦隊に追われたソマリア海賊を、木村社長はうまく支援したのだ。

各国艦隊と木村社長、どちらがなくても上手くいかない。両者の働きが非常に上手くかみ合ったのだ。とは言え、艦隊で撃退することは誰でも思いつく。しかし受け皿としてマグロ漁師に仕立て上げる、これは木村社長の非常に機転の利いた発想だ。もちろん木村社長はビジネスで動いたのであろう。しかしそのビジネスが国際貢献に非常に寄与することとなったのである。

木村社長は現地アフリカの政府から勲章をいただいたという。この勲章は木村社長の国際貢献の賜物だ。

大学院卒(修士・博士)は頭が凝り方寄っているって?学部卒は頭が柔軟?

大学院卒よりも学部卒の学生が欲しいという企業が多いという記事を見た。その理由は、大学院卒は専門で頭が凝り方寄っており、学部生の方が頭が柔軟だということらしい。まぁ、こんな意見は昔からあったことであって、いま聞いたからと言って何も驚くことはないが。

しかし大学院生の方が頭が凝り方寄っているという意見にはどうも納得いかない。確かに学部生より大学院生の方がはるかに専門的な事に取り組んでいることであろう。しかし専門的な事に取り組んでいれば頭は固いというという理屈はどこから来るのであろう。

確かに頭が凝り方寄っている大学院生は少なからずいる。しかしそのような頭の凝り方寄った大学院生などは大学院での研究でもしっかりした成果は出せないであろうし、学部生でも頭の凝り方寄った学生は少なくない。

逆に言えば、成果の出している大学院生は、非常に柔軟な頭を持っているといえる。頭が柔軟でないと研究を遂行することはできない。

とは言え、大学院生は専門性にこだわっているという面は確かにあるかもしれない。しかしこだわりと頭の固さは全然別次元の話だ。

僕が見た記事に載っている企業の仕事は、おそらく誰でもできる仕事が多い企業なのだろう。それならばわざわざ大学院生を取らなくても学部生を取った方が経済的だし、年齢も若い。しかし専門的な研究を追求しようとする大学院生の専門性は他の分野でも大いに役立つものだし、大学院で本気で研究しようとした大学院生の専門性と情熱は何物にも代えがたい。もちろん単に就職状況だけを考えて大学院に進学するような学生は話にならないが。記事に載っていた大学院生の話は後者のことだろうか。それならば前者の研究熱心な真面目な大学院生にはとんだ災難なはなしである。

なぜ努力すべきなのか?

なぜ努力すべきなのか?その答えに回答できる権利があるほど僕は努力をしていない。努力をしようと思っても、なかなか努力が続かない。しかし努力しようという気持ちは常に持ち続けているし、自分のできる限りの努力はしているつもりだ。

努力したからと言って、必ず成功するとは限らない。努力が報われるとは限らない。しかしそれは努力をしないことの理由にはならない。どうしても努力をしたくない人、常に楽して生きようと考えている人に対して努力を強制しようとは思わない。まあ、そういう生き方もあるのだなと思っている。

しかし僕は努力をしたいのだ。非常に努力をしたいのだ。しかし努力をしたくてもできない時がしばしばある。そういう時には非常に悔しいし、ふがいない自分が情けない。

もちろん努力する理由は、自分の目標としていることを達成するため、そして自分が目標としている人間になるためである。

繰り返し言うが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。しかしその逆、つまり成功した人は絶対に努力した人だと思っている。もちろん例外もいるだろうが、そんな努力をしないで成功した人のような例外を見て、どうこうしようとは思わない。

努力というものは苦しいものと思っている人が多いかもしれない。確かにほぼ例外なく苦しい。しかし努力は苦しいだけではない。努力にやりがいを感じたり、達成感を感じたり、喜びを感じたりすることもしばしばあるのだ。だから努力にはまればやめられないのである。

しかし何の分野にしてもプロとしてやっていくためには結果を出さなければいけない。プロの世界は結果が100%なのだ。結果を出した人に対して努力が評価される。結果を出していない人の努力など、プロの世界では何の評価もされないのだ。

しかし努力をする価値は非常に大きい。一人でも多くの人たちに努力の快感を味わってほしい。努力は絶対にするに値するものだ。

初めはみんな初心者だ。スキーバス事故で

ここ数日、長野でのスキーバス事故のニュースが大きく扱われている。最近この事故について様々なことが明らかになり、ずさんな管理体制が浮き彫りになってきた。

その中の一つに、今回のバスを運転していた運転手が大型バスの運転に関して初心者だったということが問題になっている。確かに初心者と聞けば不安になるのも仕方がない。しかしどんなベテランの運転手も初めはみんな初心者だ。僕も免許を取ってかなりなるが、免許取りたての頃に初心者だからと言って運転させてもらえなかったことは一度もない。今回のバスの運転手は中型バスメインの運転手で、大型バスの経験は少なかったという。しかし経験を付けるには実際に運転するしか方法がない。初心者だから運転禁止と言えば、この国から大型バスの運転手はいなくなる。

今回の事故はいろいろな要因はあるもの、運転手が初心者だったという点に限っては不運だったとしか言いようがない。このことを過剰に反応すればますます運転者不足に拍車がかかり、さらに危険な状況が増していく。

今回の事故原因は複合的なもので、これから一つ一つ解決しいかなければいけないが、運転手の経験に関しては過剰に問題視するのはやめてほしいものだ。

僕が現在取り組んでいる研究(勉強?)の報告

「ブレークスルーを作り出せ!」僕が15年ほど前に読んだ本に書いてあった、2014年ノーベル賞物理学者・中村修二博士の言葉だ。中村博士と言えば、青色発光ダイオードの研究で量産化に成功し、裁判では中村博士に対する発明対価は600億円というとてつもない判決を勝ち取った男だ。

研究と言ってもさまざまである。大きいものから小さいもの、基礎から応用、そして物理・化学・数学のような様々な分野がある。僕は物理・数学関係の基礎理論に興味がある。実用的なものにはあまり興味はない。こう言うとヘンコツとでも言われそうだが、数学を研究している人に実用を視野に入れている人はほとんどいない。

数学的な物理ということでしばしば「数理物理」と言われるが、この数理物理学という言葉が僕は大好きなのである。数理物理学とは分野の名前というより手法の名前であり、同じ数理物理研究者同士でも全く違う研究をしている人も多い。

現在取り組んでいる武器に「リッチフロー」というものがある。時間と空間の曲率の変化を表す方程式である。リッチフローはポアンカレ予想の解決時に大きく活躍した。多くの数学者が位相幾何学で解決しようというところに、ペレルマンはリッチフローという微分幾何学の手法で解決させ数学界を驚かせた。

そしてもう一つの武器として情報理論、特に「エンタングルメントエントロピー」という概念を習得しようとしている。これは時間の概念を理論的に明らかにするために有用だと僕は考えている。

おおざっぱに言えば、僕は幾何学の人間だ。しかし現在は分野の境界もあいまいになり、多くの研究者は幅広く深い理論を駆使して研究を行っている。

最近、世界の大学ランキングなどという非常にくだらないものが出回っており、そのランキングでは東大・京大という日本の大学のランキングは非常に低い。しかし数学・物理に限ると、東大・京大共に10位以内には確実に入ると言われている。さらに最近は名古屋大学からノーベル賞学者が何人も出ているのは有名な話だ。しかしはっきり言うと、大学名とノーベル賞は関係ないものと僕は思っている。東大に行ったからと言って、本来取れない人が取れるようになるわけでもない。

さあ、僕もナンバー1を目指して頑張るとするか。

1.17 歴史的記憶へと移りゆく阪神・淡路大震災

今日2016年1月17日は阪神・淡路大震災が起きてからちょうど21年目にあたる。毎年この日には大震災関連のイベントが行われるが、年々その扱いは小さくなってきているように思う。もちろんその一番の原因は、5年前に起きた東日本大震災という未曽有の大災害が起きたことであることは言うまでもないが、それと同時に21年という月日が阪神・淡路大震災を歴史へと追いやったことも一因かもしれない。しかしこれは、阪神・淡路大震災は「歴史」の一部となるほどの大災害であったことを物語っている。

今の十代の日本人はすでに誰一人として阪神・淡路大震災を体験していない。何とも不思議な感覚である。21年前の大震災がついこの間の出来事のように思えるのだが。もちろん阪神・淡路より東日本の方が時間的に近いし、災害規模も桁違い、それに加えて震災に誘発されて起きた福島第一原発事故問題は現在も進行形である。

僕は神戸の実家のベットの中で大震災を体験した。あの日のことを鮮明に覚えている。そういえば昨日・今日(16日・17日)は、大学入試センター試験が行われている。大震災の時、僕はセンター試験が終わり、一息ついたところだった。センターが終わり、二次試験に向けて頑張るぞ!という時に震災は起きた。

大学受験に向かう道程で、電車が寸断された区間は歩いて次の駅を目指した。途中、焼け野原になった須磨区と長田区の境目あたりは、木の板が立てられ、その板にはそこにあったであろう家の住民の安否が書かれてあった。三宮では代替バスに乗るため、おそらく千人以上であろう人たちが数時間も並んでバスを待っていた。そして代替バスは倒れた高速道路のすぐ下の道を、渋滞でのろのろと走っていた。

今、日本は大災害時代に入ったと言われている。東日本大震災は桁違いとしても、土砂災害・洪水災害・地震災害・火山噴火災害と次々と災害が起きている。そして「想定外」を想定することが当たり前になってきた。もちろん想定外を認識するきっかけになったのは東日本大震災だ。

今年はまだ17日しかたっていない。あと348日残っている。この348日を日本人は無事切り抜けられるか、その保証はもちろんない。世界ではISの地獄の嵐が吹いている。この国外からの脅威と、国内の災害、今年の日本はこの外に対する目と内に対する目を気にしながら対処していかなければならない。

なぜフリージャーナリストは危険地帯に赴くのか

フリージャーナリストの後藤健二さんがISに拉致・殺害されて1年が経つ。後藤さんのようなフリージャーナリストが犠牲になった後も、危険地帯に自ら赴くフリージャーナリストは後を絶たない。それに対して日本国内でも批判の声は大きい。たしかにその批判はわからなくもない。もしフリージャーナリストが拉致でもされれば、日本国首相や政府をはじめ、救出のために多くの人が動かざる負えなくなる。それだけではない。身代金も何十億という桁違いの金額だ。

しかしフリージャーナリストは日本人にとってはた迷惑な存在なのだろうか?フリージャーナリストの意義を考えるときに、テレビ・新聞社などの組織ジャーナリストとの対比抜きには語れない。このフリージャーナリストと組織ジャーナリストはお互い補完し合う存在なのだ。例えばフリージャーナリストにオバマ大統領などの指導者を取材することはほぼ不可能だ。オバマ氏を取材するには組織ジャーナリストの力が不可欠だ。

では組織ジャーナリストが万能かというとそうではない。組織ジャーナリストにはできなくて、フリージャーナリストにしかできないことがあるのだ。その典型が後藤健二さんであった。

組織ジャーナリストには組織の責任が伴う。そのため、シリアなどの超危険地帯には組織ジャーナリストは踏み込めないのである。そこで活躍するのがフリージャーナリストなのである。フリージャーナリストは小回りが利く上に、自己の責任の上で取材を進める。戦場の最前線、そして現地の社会を取材するにはフリージャーナリストの存在は欠かせないのである。そういう意味で組織ジャーナリストとフリージャーナリストは補完し合う関係なのである。

とは言え、日本人の中には、そんな危険な所のニュースなど関係ないよ、という人は多いかもしれない。しかし現地の生の情報がなければ、そのことを議論しても空論で終わってしまう。ドラマ・映画の「踊る大捜査線」風に言うと、「戦争は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」ということなのである。その現場の真の姿を伝えてくれるのがフリージャーナリストなのである。

確かにフリージャーナリストの危険に対する対価は大きい。しかしフリージャーナリストの情報は、現代社会を生きる我々には不可欠なのである。その情報を得るため、フリージャーナリストは命をかけて日々行動している。