投稿者「木原 康明」のアーカイブ

借金と投資。

日本人は借金を過度に恐れ罪悪視する傾向がある。しかし借金とは使いようにもよるが、投資と言う意味合いも強くある。従って、借金を全くしないとは、自分の成長に対する投資を否定することでもある。もちろん、服やカバンに散財するようなことは決して良いとは言えないが、しかし男ならスーツ(とそれに合わせる靴)にはそれなりの投資をすべきである。なぜなら、スーツは仕事の武器にもなるし、人付き合いの武器にもなる。だから無理をしない程度にお金をかけるべきである。そしてその威力を存分に発揮し、何百倍にしてリターンを得ればよいのである。

子供が大学に行こうとするとき、「お金がないから行くな」と言う親もいるらしいが、それは誰が見ても適切でないと感じるだろう。お金がないなら借金をすべきである。学校に行かせたければ、教育ローンや奨学金と言う選択肢がある。それこそ正しい借金の仕方だと言えるであろう。おそらくそれらの借金をして大学に行った子供は、大学で猛勉強をし、将来その何百倍ものリターンを得ることであろう。

日本では子供のころから、貯金の仕方については繰り返し言及されるし、貯金が非常に良いことだと教えられる。しかし、お金の使い方に関してはほとんど教えられることはない。しかし本当に重要なのはお金の使い方の方なのである。なぜなら、ビジネスとはお金を儲けることであるが、お金を儲けるためにはお金を使わなければならない。お金を使い、それ以上のリターンを得るのがビジネスと言うものである。学問をするのにも、書籍にお金をつぎ込むことが必用だ。しかもそれに本気で取り組むとなると結構な額になるものだ。しかしそれは金銭的にも人間的にも何百倍になって帰ってくるはずだ。お金の有効な使い方をする者が勝者であり、無思考にお金を貯める者は敗者であると言える。もちろん、何かの準備のために貯めると言うことはあるが、その場合には結果的にお金を有効に使うと言うことに結び付く。

お金は貯めているだけでは何の効果も発揮しない。せいぜいお金を貯めていると言う、ちょっとした満足感とちょっとした安心感だけである。もちろん、散財したり意味のないものにつぎ込むのは論外であるが、お金を使ったり、時には借金することは決して悪いことではないのである。ビジネスの成功者は例外なく借金の仕方が上手い。そしてビジネス以外でも、人生を上手く運べる人は借金を有効に使う。もし自分に明確なビジョンがあるのなら、それを実現するために思い切って借金という投資をするのも非常に意味のある大きな手であるはずだ。

新庄剛志の挑戦。

“元”プロ野球選手の新庄剛志さんが、最近再びプロ野球に挑戦すると宣言して話題になっている。それに対する反応はまちまちであり、バカにする人も多いが、僕はこの究極に新庄らしい宣言に対して非常に好感を持っている。元監督の野村克也氏は、「究極のアホ」と言い放っているが、これも元教え子の新庄さんに対する一つの愛着の表れではないかと僕は思っている。もっとも、本気で新庄さんがプロに戻って来ると思っている人はほとんどいないようだが。(僕を除いて。)

そもそも、歳を取ると衰えるから無理だと考えることには何の根拠があるのか?いや、はっきりと根拠がある。科学的医学的に考えれば、歳を取ってプロ野球選手になることは不可能だ。しかし、新庄さんは“まだ”47歳である。まだまだ十分行ける!新庄なら!歳のせいにして不可能だと言うのは、ある意味単なる言い逃れでしかない。スポーツも学問も、生涯プロを目指すべきだ!

新庄剛志の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史だ。阪神タイガース時代、スター選手として活躍したが、突出していたと言う訳ではない。なので、大リーグ挑戦を宣言したとき、誰もが失敗すると言い放っていた。しかしいざアメリカに行くと、数字的にも日本と変わらない成績を残すことに成功している。そして何よりも、日本人初の大リーグでの4番打者になっている。松井秀喜よりも前に4番打者になっているのである。まさしく「奇跡を呼ぶ選手、クレヨンしんちゃん」なのである。

僕だって、他の選手がそんなことを言うのなら、絶対に無理だと思ってしまうだろう。(イチローは別格であるが。)しかし、新庄なら本当にやってしまうのではないかと心のどこかで思ってしまう。普通なら0%だ。しかし新庄なら3%くらいあるのではないか。僕はその3%に期待しているし、ワクワクしている。新庄はおバカキャラだけど、バカではない。新庄こそ究極の挑戦者であり、究極のエンターテイナーではないだろうか?

無限小の地球。

世界は広いとよく言われる。それは本当に正しいのか?科学技術の発達した現代では、世界を見ることは身の回りの物を見るくらい容易であるし、飛行機で回っても一日もかからない。さらに宇宙全体から見れば、地球上の世界などはっきり言って無限小だと言ってよい。なので広い視野を手に入れるためには、地球上の知見だけで終わらせるのではなく宇宙を理解しなければならない。

では宇宙を理解するためにはどうすればよいか?それは数学と物理を理解すればよいのである。数理は宇宙のかなたまで視野を広げさせてくれる。では、初めて宇宙を見た(理解した)のは誰か?これは疑いようもなくニュートンだと言える。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したと言われている。これは何を意味するのか?じつはこのことの真意を理解している人は少ない。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て、地上の重力と宇宙の星の運動を支配している力が同一のものだと見抜いたのである。すなわち、ニュートンは地上の世界と宇宙の世界を統一した初めての人物なのである。それに比べると、現代の身の回りの狭い科学技術にとらわれている人間がどれだけ小さいかが理解できる。

科学(サイエンス)は万能であっても、科学技術(テクノロジー)は万能ではない。科学は奥に潜む真理を明らかにするが、科学技術は表面的なものしか明らかにしない。すなわち世界(宇宙)の本質は科学にあるのに、ほとんどの人間の眼中には科学技術しか入っておらず、表面的な事しか見えていない。例を挙げると、科学(物理学)によって宇宙の果てまでもが理解できるが、科学技術(テクノロジー)はせいぜいロケットで月や火星に行くくらいが限界だ。世の中を本気で理解しようと思えば、宇宙の果てまでもを理解しようと言うくらいでなければならない。

科学技術の価値は誰でも理解できる。なぜなら科学技術と言うものは非常に即物的だからだ。しかし科学の本当の価値を理解している人は少ない。それは科学と言うものが非常に本質的であり、抽象的であるからだ。しかし現代の教育は技術の方に傾き過ぎている。その結果、人間の視野を非常に狭いものにしている。プログラミング教育もいいが、何か本質的なところをないがしろにされているように思えてならない。

何が確かで、何が不確かか?

世の中の常識は時代ごとに変わるし、学問の内容も変遷していく。しかし数学において、昔正しかったことがその後になって間違っていたなんてことはほとんど聞かない。もちろん高度にはなって行くが、新しい数学と言うものは、過去の結果を基に積み重ねられて行くものだ。

しかし生物学や医学となると話は全く別だ。医学において、過去の常識が実は間違っていたなどと言うことは日常茶飯事だ。生物学や医学の進歩とは、ある意味過去の結果を否定することによって進んで行くと言える。もちろん全てが間違っていると言う訳ではないが、大部分が間違っていると言えるようである。

そのような事を考えると、「何が確かで、何が不確かか?」と言うことを明確にすることは、多くのことに対して難しく、時には不可能であると言える。確実に言えるのは、今確かだと言われていることは今の“常識”であって、それらの常識が正しいと言う保証は全くないのである。

人生においてもっとも価値があるのは、過去の常識を覆していくことだ。常識を容認することは誰でもできる。なので、常識を知っている人間などは何の価値もないのだ。ただし、非常識が良いと言っているのではない。次の時代の常識を作ることに価値があるのだ。医学や生物学などの科学でさえ間違いが山ほどあるのだから、社会や人間の行動や考えが間違っていることなど膨大にあると言える。なので、今の常識が正しいか?と言うことにとらわれるのではなく、次の時代の常識を開拓していくことが必要なのではないだろうか。

魔教育。

魔教育とは、特に小学校で行われている子供の将来をぶち壊しにする教育だ。そしてその原因は、小学校教師の極度なレベルの低さにある。

魔教育は、特に小学校の算数の授業で実行される。例えば
・例1、掛け算の交換法則を理解していない。
・例2、イコールの付け方に意味のない規則を教える。
・例3、筆算の棒を定規で書かせる。
・例4、「3=3.0」を理解していない。
などである。

例1については、面積の公式を「縦×横」は正解だが、「横×縦」は間違いだと言う嘘を教えることだ。
例2については、イコールを横に次々と並べてはいけないと嘘を教えることだ。
例3については、そのままである。
例4については、そもそも数字(算数以前の問題として)を理解していない。
もう、これらがなぜダメなのかという低レベルな事はここでは述べない。しかし、実際の小学校ではこのような魔教育が行われているようである。

僕は大学時代、教育学部の友達が多かったので、このような話をよく聞く。そしてそれらを指摘された教師は恐るべきことに、ネットで検索して調べるようである。しかもWikipediaで。そしてそのような小学教師であるほど、小学校の授業で算数が一番簡単だと言っているようなのである。

このような魔教育の根源は、「生徒のための教育」と言う意識が軽薄で、「教師(自分)のための作業」をこなしていると言う意識があることによるものではないかと思われる。魔教育は間違いなく子供の将来をつぶす。教師が人間として低レベルなのはどうでもよいが、子供にそのような低レベルな人間の作業に引きずり込むことは害悪でしかない。しかしこれらのことがあまり世の中の問題にならないのは、まさかそこまで低レベルな教師がいるとはだれもが想像していないからである。しかし実際は相当数の超低レベルな教師がいるようなのである。

まず、敵を知ること。

物事に取り組む時、味方を集めるだけでなく敵を知ることも大きな力になる。敵を知ることによって問題点がさらけ出され、攻めて行くポイントが明白になる。それは学問においても言えることだ。

例えば数学において、佐藤超関数で攻めて行きたければ、シュワルツの超関数を知ることは重要だ。別にシュワルツの超関数が敵なわけでも何でもないが、その周囲を知ることによって本丸が見えてくる。そして本丸が見えてくれば、それを攻略するためにどのような武器(理論)が必用かと言うことを見定め、武器を集めればよい。ただし武器を集めるにはやはりお金が必用だ。何事にも本気で取り組もうとすると、どうしてもある程度のお金は必要になる。お金をかけずに取り組むと言うことは、ある意味まだ遊びだと言えるのかもしれない。学問においても、専門書を買うのにはある程度のお金がかかる。

そしてお金と同時に時間も必要だ。取り組む対象にそれだけの時間をつぎ込む覚悟はあるのか?本気で取り組むほど、初めはあらゆることを犠牲にする必要がある。お金だって初めはだいたい赤字になる。それが人生投資と言うものだ。しかし明るい将来が見えているこそ、今のあらゆる犠牲に耐えられる。そしてそれを成し遂げた後に気分を解放させればよいのである。

とは言え、現在の僕自身、そのような事が完全に実行できているかと言えばそうではない。完全に実行できていれば、今頃ある程度の結果を出せているはずだ。しかし言い方を変えれば、時間の問題だとも言える。さあ、今苦しんで、明日を思いっきり楽しもう!

ビジョンを持って失敗する。

人間は大きく二つに分けられる。失敗する人と失敗しない人だ。そこで多くの人は失敗しない人になろうと思うかもしれない。しかし失敗しない人と成功する人とは同義ではない。同義ではないどころか全く正反対である。

失敗しないとはどういうことか?それはほとんどの場合挑戦しない人と言うことだ。そして失敗する人こそが成功する人だと言える。しかしそのためには継続性が重要になる。「継続は力なり」とはよく言うが、失敗してもなおも挑戦し続け、そしてさらに失敗を繰り返し続ける。そのことによって大きな成功はもたらせられる。僕はそう考えて全ての物事に取り組んでいる。

そして大事なのが、「ビジョンを持って失敗する」ことである。ただやみくもに「数打てば当たる」と思っていても、実際には一つも当たらない。なぜならそこにビジョンがないからだ。ビジョンを持たずに矢を放っても、本質的なところには一つも当たらない。もちろん実際の弓矢は百本放てば一本くらいあたる確率はある。しかしビジョンなき矢放ちは間違いなく一本も当たらない。「ビジョン+挑戦」が成功へと導くのだと僕は強く考えている。

では、これまで述べてきたことは本当に正しいのか?このような事を述べたからには僕がそれを証明しなければならない。そしてそれを証明する準備は整いつつある。後は細部を埋めて行くだけだ。その結果は近い将来出るはずである。

強さと弱さ。

誰もが強さと弱さの二面性を持っている。もちろん圧倒的に強い人もいれば、圧倒的に弱い人もいる。多くの人は強い人間になりたいとは思っているだろうが、しかし弱さが存在することによって気づくことも多々あるし、大事なのは強さと弱さの相乗効果なのである。

強さには大きく二種類ある。一つは肉体的な強さ、もう一つは精神的な強さである。しかしこの二種類の強さは独立してあるものではなく、肉体的強さが精神的強さをもたらし、そして精神的強さがさらに強い肉体をもたらす。例えば、プロスポーツ選手にとって鋼のような肉体は不可欠であるが、そのような強靭な肉体を手に入れるためには強い精神力によって鍛えなければならない。そして学問とはある意味精神活動の極限だと言えるが、そのような精神活動を推し進めるためには健全な肉体は非常に頼りになるものである。数学とは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものである。

僕は最近、かなり強くなっていると自分では感じている。しかしそれと同時に弱い側面もかなり大きくなっている。ある意味、人間性が強烈になって来ていると言える。しかしそれは自分の望むところであり、今僕はかなり自分らしく生きていると感じている。しかし好不調の波はある。そこが僕の一番の課題ではあるが、それを克服するのも時間の問題だと思っている。

自分はどこまで強くなれるのか?そしてそれは現在の弱さを抱えたままでも行けるのか?これは自分自身における挑戦である。しかし他人から見た目と言うものも気にしてしまう。それははっきり言って、現在の自分の弱さだ。自分自身の挑戦は、自分の内部の思考によって推し進めるべきだ。そしてそれ以外の面では他人の目を気にするのも良いと僕は思っている。いや、気にすべきところは気にしなければならない。服装や身だしなみを、そんなものは関係ないと気にしないのは単なる独善である。自分自身の挑戦に打ち込みながらも、意外とそんなところも気にする僕である。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

良い問題を設定することの大切さ。

もし学生ならば、教師から出された問題を解くことに全力を尽くすかもしれない。確かに問題を解くことは重要である。社会においても、様々な問題が山積し、それらの問題を一つ一つ解決することが求められている。しかしそれらの問題が存在すると言うことは、誰かがそれらの問題に気付いたと言うことである。問題が設定されなければ解決も何にもない。実は問題を設定すると言うことは問題を解くこと以上に重要な事なのである。

例えば数学を例に挙げると、今から百年ほど前に、ポアンカレ予想と言う問題が設定された。設定者は名の通りポアンカレと言う数学者である。ポアンカレ予想は約百年後の21世紀初め、ロシアのペレルマン博士によって解決された。ペレルマン博士の業績はもちろん偉大なものであるが、現在でも「ペレルマンの定理」と言われることは少なく「ポアンカレ予想」と呼ばれている。これはやはり問題を設定したポアンカレの業績が大きく評価されていることの表れだと考えられる。

研究とはまず問題を設定するところから始まる。問題を与えられて、「はい、解きなさい」と言われるのは学生までだ。もちろん世の中には未解決問題がたくさんあり、それらの問題に取り組むのも一つの手だ。しかし大問題を解く過程では、様々な問題を見つけることが要求される。極論を言えば、研究とは問題を見つける作業だと言える。

良い問題を見つけるためには、ある程度センスがいる。与えられた難しい問題を解く才能と、良い問題を見つける才能は、重なるところはあるが別物だと言える。だから難しい入試問題が解ける人が必ず優秀な研究者になれるとは限らない。もちろん、研究者レベルでなくても身の回りには様々な問題が横たわっている。良い問題を見つけるセンスを身に付けるためには、そのような身の回りの小さな問題を発見するところから始まるのかもしれない。