投稿者「木原 康明」のアーカイブ

一次情報を握ることの大切さ。

物事を判断するうえで重要になるのが、一次情報を握ることだ。一次情報とは、自らが直接関わって得た情報、もしくは情報源に非常に近いところから得た情報のことだ。

一次情報を得るのに一番手っ取り早いことは、仕事をすることだ。仕事とは一次情報との接触だと言えるからだ。

最近は、ネット上に情報が氾濫しており、知りたいことがあると手軽にネットで検索して簡単に情報を手に入れられる時代だ。しかしネット上に氾濫している情報のほとんどは二次情報・三次情報である。SNS上の情報などはその最たるものだ。

とは言え、ネットでもより一次情報に近い情報を得ることもできる。例えば首相官邸サイト、省庁のサイトなどには、非常に信頼できる情報が開示されている。

また他の例で言うと、研究する時に一次情報になるのは原論文である。解説書ではなく原論文に当たることの大切さはそこにある。解説書は原論文と併用して用いるのが効果的である。

何かを論じる時には、信頼性の低い二次情報ではなく、自ら苦労して得た信頼性の高い一次情報をもとに見解を述べるべきである。又聞き情報とも言える二次情報に依存するのは、非常に危険な行為である。

とは言え、全てのことに対して一次情報を得るのは現実的に不可能である。そのときは持っている情報を非常に吟味して判断しなければならない。

科学と哲学を分けるもの。

現代学問において、哲学と科学は全くの別物と考えられることが多いが、この両者には通じるものも多い。とは言え、似て非なるものと言える。実際に科学は理系、哲学は文系と区別されることからもわかる。

しかしこれらの源流をたどれば、両者は共通の起源にたどり着く。「ギリシャ哲学」である。

古代ギリシャ時代、数学や科学(もどきと言うべきか)はまだ細分化されておらず、これらは哲学の一部とみなされていた。当時、哲学者とは学問における万能者であった。アリストテレスもアルキメデスも現代では数学における成果で有名だが、彼らは哲学者であった。さらに日本では三平方の定理と言われている数学で一番有名な定理である「ピタゴラスの定理」(こちらの名前の方が世界標準の名称である)のピタゴラスに至っては、新興宗教の教祖だったという。ピタゴラスは無理数を発見したが、これは神の過ちによってできたものだと考え、信徒達に口止めさせていたと伝えられている。

では、科学と哲学が分岐した時代、すなわち中世に話を飛ばす。厳密な科学は15世紀に芽生えた。一般には物理学を創始したニュートンが本格的科学の祖と言えるが、それまでの道筋はケプラーの精密な天体運動の観測に始まり、ガリレイの地動説、同じくガリレイの相対性原理を経て、ニュートン力学、そしてニュートンの万有引力の法則が生まれた。

そして18世紀の産業革命によって科学は急速な進歩を遂げる。化学(化け学)は当時の錬金術に対する試みによる知識の蓄積と言える。残念ながら錬金術は全て失敗したが、その副産物として化学(化け学)は大きな進歩を遂げた。

そして20世紀。この世紀は「物理学の世紀」とも言われるくらい物理学が驚異的な膨張を見せた。それは1900年のプランクの量子仮説に始まり、1905年のアインシュタインの特殊相対性理論、1916年の一般相対性理論、そして1925年頃のハイゼンベルグ・シュレーディンガーらによる量子力学の完成によって土台が整う。

この様に科学は哲学とは独立の道を突っ走り始める。しかし哲学も科学もその根本には思想と論理が横たわっている。哲学はこれだけでいいのかもしれない。しかし科学にはこれに加えて「数学的構成」を行わなければいけない。

約100年前、アインシュタインが相対性理論を発表し世の中の注目を浴び始めた頃、とある哲学者がこう言ったという。

「私は相対的主義者だ。だから私に数学的才能があれば私が相対性理論を発見したであろう」と。しかしこの数学的構成力こそが科学の核であるのだから、「数学的才能があれば」などと言うのは見当違いも甚だしい。しかも相対的な理論ならアインシュタインを持ち出すまでもなく1600年頃にガリレイが相対性原理を完成させている。

哲学と科学の関係を歴史的視点から書いてきたが、これらを見ると

「科学者は哲学者であるが、哲学者は科学者ではない」

と言えるのではないだろうか。

福島に対する眼。今、放射線以上に怖いのは正確な情報の枯渇かもしれない。

21日、TBS「ニュース23」で、福島第一原発の特集をしていた。その中で、解説者が福島県立福島高校の男女学生8人と、福島第一原発へ視察するというコーナーがあった。福島第一原発敷地内は、今でも18歳以下の未成年の構内立ち入りは禁止されているのだが、今回は放射線の線量も下がってきたこともあり特別に許可されたそうだ。とは言え、現場に出るのは危険が伴うため、バス内からの視察となったようだ。

高校生らは「福島県民」という「当事者」として、原発を含めた福島の現実を伝えなければいけないという使命感もあり、そのための正確な現状を知るためにも原発視察に参加したようだ。十代の若者たちがそこまで考えていることに、これらの8人の高校生には本当に脱帽してしまう。それに対して福島の正確な現状も知らずに、風評被害に恐れている自分が本当に情けない限りである。

そしてこのように情けない自分を通して一つ感じたことは、放射線ももちろん怖いが、福島の正確な情報・福島県民の生活状況をほとんど知らないことは更に怖いことだということである。そのことに番組に出ていた福島で生活している高校生に、そしてそれらの高校生が使命感を持って福島第一原発を視察しているのを見てひしひしと感じさせられた。

現在のネット社会では、我々はわからないことがあればすぐにネットで検索して調べてしまう。しかしネットというものは意外といい加減なもので、調べる内容によっては正しい情報が少なく間違った情報ばかり出てきてしまうことがある。ネットは非常に便利なものであるが、本当の情報を知るためにはやはり本などの紙の情報に当たることも必要であり、時には現場に自ら足を運ぶことも必要だ。

このことから、今必要なのは情報の量ではない。いくら多くの情報を持っていても間違った情報ばかりでは意味がない。どれだけ質の良い正しい情報を見出せるか、簡単にネットで検索できる現代社会だからこそそのことが重要になってきているのではないかと福島の高校生を見ながら感じた次第である。

心の浄化。

気が滅入った状態になると、心が廃れてくるものである。そのようなときには、心を浄化して綺麗になることが必要である。心を浄化する手段はいろいろある。広く一般にされているのは、禅とか瞑想かもしれない。それらも良かろうが、僕は「哲学書」を読んで思考力から浄化することをお勧めする。

哲学書と言っても様々で、最近本屋さんの店頭に平積みされているような入門解説書から本格的なものまでいろいろある。その中でも僕は歴史ある原著を読むことをお勧めする。岩波文庫などはその最たるものであろう。

岩波文庫に並べられているような名著は、ほとんどが少なくとも百年以上の歴史がある。ギリシャ哲学物であれば、二千年以上の歴史があることになる。そして名ある哲学者のほとんどは人格者でもある。そのような人格者に名著を通じて心を浄化してもらうのはなかなか良いものである。しかしそれは簡単ではない。哲学書と一字一句格闘しなければならないからである。

哲学書の原著の一番良いところは、解釈は自分次第であるということである。だから人それぞれによって解釈は全く異なってくることも多々ある。しかしそれは誰かが間違っているのではなく、全て正しいのである。重要なのは「自分の頭」で考えて解釈を導き出すという過程なのである。

個人的にはローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの「自省録」などが良いと思う。ローマ時代の哲学者であり、ローマ皇帝でもある人物である。ローマ時代には哲学者が皇帝になるのが一番理想的であると言われたそうだが、それが唯一実現したのがこの人物なのである。

最近の僕は数理物理で結果を出さなければと焦るあまり、哲学が疎かになっていた。心が廃れていた。そこでもう一度心を浄化して再生させるために、今一度哲学書を再読しようと思った次第である。

数学が最も自由な学問だと言われる訳。

「数学は非常に自由な学問である」と言っても、ほとんどの人はその言葉に反対し抗議するであろう。なぜならば、ほとんどの人がやってきた(やらされた?)小学校の算数から高校までの数学は、ガチガチに決まったルールがあり、決まった解き方があり、ただ一つの答えがある。おそらくそういう印象を持っている人が多いだろう。

では、数学の自由性とは何か?これにはいくつかの理由がある。最も認知されている自由性は、「解き方はいくつもある」ということではないだろうか。これに関しては高校数学レベルの問題でも感じられる自由性だ。

しかし数学者たちはそれよりももっと大きな自由性を感じている。それは「ルールは自由に変えることができる」というものだ。このことに関しては、大学で数学を学ぶレベルでないとなかなか実感しづらいことであるが、これこそが数学の神髄なのである。

数学者は取り組むテーマに応じて設定(つまりルール)を変えており、時にはルールを強め、時にはルールを弱めたりして、それに対してどのような結果が出るのかと探っている。ルールは非常に自由に変えられるものなのである。

例えば誰でも当たり前だと思っている、

1+1=2

という足し算。こんな式でさえも数学者たち(特に代数学者)は

1+1=0

と考えることがよくあるのである。ちなみにこのような足し算の世界は専門用語で「標数2の世界」と言う。

余談であるが、物理などは数学よりも自由性が少なく、縛りが強い。なぜなら物理の場合は、物理学者がどんなことを主張しようが、自然(宇宙)がその主張する法則と違えばその主張は間違っていることになるからである。

数学の自由な世界、そのような世界に数学者は魅了されているのである。

役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる。

とある科学雑誌で、今年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典さんの特集をやっていた。その中で、大隅教授の弟子の研究者が、最近の学生は「役に立つ科学をして社会に貢献したい」ということを強く主張するということに嘆いていた。

僕も以前のブログで、科学では、「役に立つかどうかということ以外の物差しを持つことが大切だ」と書いた。これはどういう意味か。

役に立つかどうかということは誰が見ても非常によくわかりやすい。しかし「科学的価値」というものは役に立つかどうかということとは全く別であり、それを理解できる人は意外にも非常に少ない。

役に立つ科学とは、科学技術など工学や医学のことであって、純粋科学の価値と役に立つかどうかとは無関係である。もちろん去年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村さんなどは、発明した薬によってアフリカを中心とする多くの人々を救った。この様に、役に立つということは非常に素晴らしいことは言うまでもない。

しかし、基礎科学・数理科学に取り組んでいる人にとって「それは何の役に立つのですか?」という問いほど悲しいものはない。なぜならそのような問いは科学的価値が全く認識されていない表れだからである。

現在、山中伸弥教授が発見したiPS細胞が医療や創薬において非常に大きな力を発揮し、役に立つ科学の代表のように言われている。そのようなことからiPS細胞は役に立てるために開発されたと勘違いしている人が多い。しかし山中教授がiPS細胞を開発した本来の目的は、「各臓器に分化した細胞にも、分化する前の受精卵と同じ全ての情報を無くさずに保持している」ということを示すことであった。その証拠に、2012年のノーベル医学・生理学賞での山中教授の他のもう一人の受賞者であるガートン博士は、そのことをカエルで証明したことを評価されての受賞である。山中教授はそれをマウス、そして人間でも同じであることを示したのである。

話しは変わるが、20世紀初めに打ち立てられた物理の量子論は、純粋に自然の根本的な仕組みを理解するためだけに研究された。量子論のような原子レベルの理論が人間の役に立つと思った人は、当時は皆無であったであろう。しかし科学技術の基に成り立っている現代社会において、量子論を利用することは必要不可欠である。そういう意味で「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」と言えるのである。

真の科学的価値を判断できるセンスを持った人が少しでも増えることを願うばかりである。

生き方。・・・今を見ることと、人生全部を見渡すこと・・・

人生とは?と言うと非常に堅い話になるが、人間ならおそらく何度も考えることだと思う。

人生とはどういうものか?僕はこう思う。

「人生とは彫刻のようなもので、生まれた時には切り取った丸太のようなもの。その丸太に時間をかけて掘っていく。そして人生が終わるときに出来上がった彫刻作品がその人の人生である。」

その時の一瞬一瞬を全力に生きる人、人生長い目で見てペース配分を考えながら生きる人、などいろいろな生き方・信条を持っている人がいると思うが、どちらが正しいのか?僕はどちらも正しいと思う。タイトルにも書いたが、今を見て今を打ち込むことと、人生長い目で見て信念を貫くこと、どちらが欠けても不完全なものになってしまう。

では僕はというと、長い目で見て悠長に構えるところがあって、それが欠点のような気がする。自分では結構情熱的で熱い方だと思うが、その割には先を見て考えてしまう。

自分が生きる意味は何か?その意味を常にしっかりと意識できると、何度失敗しても立ち直れる。そして常識とは異なる生き方をしていても、自分の生き方を貫ける。たとえ人からバカと言われ続けても、自分の生き方を貫ける。ただし非常にきつい生き方ではあるが。

人生のことを書いたが、何事にも部分を見る目と、全体を見る目、その両方・複眼的な見方をすることが大切である。

「自分の人生」という作品がどのようなものになるのか、楽しみである。

日本国民、特に若者と自衛隊のかかわりはどうあるべきか。稲田防衛大臣の発言について考える。

少し前、稲田朋美防衛大臣の「若者全員、自衛隊に触れる制度を」という発言が取り上げられ、議論になった。この発言にはいろいろ反対意見もあると思うが、僕はこの稲田発言には非常に重要な意味があると思う。

この発言に反対する人は、

自衛隊 → 軍国主義 → 戦争

というステレオタイプな考えに陥る人が多いような気がする。もちろんもし本当にそんなことになるのならば何が何でも反対しなくてはならない。この思考に関しては、共産党議員が防衛費に関して「人殺し予算」と発言したことにもつながるだろう。このようなステレオタイプ議員の発言の方がはるかに恐ろしいと思うのは僕だけであろうか?

この問題に関しては、「静」と「動」の状態について考えるのがいいのではないか。自衛隊の存在を敵視する人は

自衛隊の存在 → 他国(中国など)といさかいを起こす → 「動」の状態になる。

と考えているのではないか。逆に言えば、自衛隊が無くなれば「静」の状態になり、平穏(平和?)な世の中になる、と。

しかし実際は、

自衛隊の存在 → 他国に対する抑止力 → 「静」の状態になる。

ではないだろうか。普段日本に住んでいると、日常生活を送るうえで軍事的紛争とは無縁であり、「静」の状態にあるように感じる。しかし実際は年間数百回という自衛隊機のスクランブル発進(緊急発進)により中国・ロシア軍の侵入の試みを防いでいるのである。即ち、自衛隊の「動」によって、我々の日常生活上の「静」の状態が保たれている。

改めて稲田防衛大臣の話に戻るが、自衛隊が陰に陽に日本国民の生活と関わっているのは明らかだ。日本国民はもっと自衛隊の存在に目を向けるべきである。自衛隊の存在から目をそらすのは、現状から目をそらすことである。そういう意味で、日本国民、特に若者が自衛隊と触れ合う場を作り、自衛隊の存在について熟考するきっかけを作ることは必要である。

このことを誤解している人は、

自衛隊と触れ合う → 自衛隊に加わる → 徴兵

という論理になっているように思える。確かに自衛隊への参加を強制することは避けなければならない。しかし現実として、自衛隊は日本国家という機構の一部、それもかなり大きな一部を担っている。

自由主義国家日本において、自衛隊の存在に関して反対するのは自由かもしれない。しかしイメージから反対するのではなくて、自分の頭でしっかり熟考したうえで判断を下してほしいものである。

ジャーナリスト・立花隆氏を想う

初めに書いておくが、立花隆さんはまだご存命である。(2016年現在、76歳)

僕がまだ大学生の頃、若者を中心に立花隆ブームが起こっていた。その頃は立花隆さんはジャーナリストというよりもノンフィクション作家として幅を利かしており、「脳を鍛える」という本が非常に面白かったような記憶がある。

しかし立花隆さんと言えば何と言っても「田中角栄研究・人脈と金脈」という論文記事で、当時の怪物的首相・田中角栄を失脚へと追い込んだことが一番の仕事で、これ抜きには語れない。首相の金銭スキャンダル記事を書くと言う行為は命を懸ける行為であり、記事が公になる前に知られれば確実に命はない。

しかし現在のジャーナリストのスクープ記事を見ると、何とも不甲斐無いものばかりだ。どれを見ても女性スキャンダルばかり。雑誌も女性スキャンダルをすっぱ抜いて首を取ったような気でいる。それが芸能人のものならまだわからなくもないが、政治家の女性スキャンダルをすっぱ抜いてどうする。その前に金銭スキャンダル・権力スキャンダルをすっぱ抜いてみろと言いたくなる。一昔前までは大手メディアは、政治家の下半身のスキャンダルは無視するという暗黙の了解があったそうだが、いまはどうやら・・・

立花隆さんのような、命を懸けたジャーナル記事を見たいものである。

立花さんの田中研究の裏にはアメリカのCIAがついていたという陰謀説もあるようだが、このような自分の頭で物事を考えられない人間の「何でも陰謀説」には本当に辟易する。物事の原因を陰謀説になすり付けると、追及はそこで終わり、考える頭を思考停止させる。

それから、立花さんの記事が出たときなどにも、他の記者から「自分達も知っていた」という声が多かったという。しかし記者が知っているだけでは何の意味もない。それを執筆して世に出すと言う行為が大仕事なのである。またそこに命が懸っている。

最近、命を張って現状を伝えているジャーナリストと言えば、真っ先に戦争ジャーナリストが出てくるが、政治ジャーナリストも仕事によっては命を懸けた重要なものになることにもっとに広く気づくべきだ。

気概のあるジャーナリストの出現を望む。

なぜ自然(宇宙)は「古典」ではなく、「量子」を選んだのか?

物理学をやっている人がまず思うことは、「なぜ自然(宇宙)は量子の論理に支配されているのか」ということではないだろうか?

ここで言う「古典」と「量子」とは、古典力学と量子力学(広く一般に量子論)のことである。古典力学とはいわゆるニュートン力学のことで、1600年代に誕生し、もう300年以上の歴史がある。それに対して量子力学が誕生したのは1925年、プランクの量子論仮説までさかのぼっても1900年なので、高々100年ちょっとの歴史しかない。

ちなみに、1905年に特殊相対性理論、1916年に一般相相対性理論がアインシュタインにより打ち立てられている。しかし相対性理論は新しい理論だが、論理的には「古典論」の部類に入る。

なぜ「自然が量子の論理であるか」ということに不思議を感じるのか?それは古典論に比べて量子論は複雑、そして一見して非常に不自然に見えるからであろう。しかし量子論は非常に豊富な内容を含んでいる。最近で言うと、超伝導やボース・アインシュタイン凝縮、もっと単純に原子が壊れずに存在するのも量子論のおかげである。

物理学の歴史を単純化すると、

古典論 → 量子論 → 未来の理論(統一理論?)

ということになるだろうが、これはアインシュタイン流に言い直せば、

単純 → 複雑 → 美的

ということになると推測される。

ここで「美的」と書いたが、かのアインシュタインは、根本的基礎理論は美しくなければならないと言い、「美しいかどうか」ということを指導原理にしていた。量子論が現在非常に複雑であるのも、美的への途中過程だからだと思われる。

量子というと一般人には遠い世界に感じられるかも知れないが、今の電子機器製品には量子論は欠かせないし、近い未来には量子コンピューターというとんでもないものができると言われている。

しかし、「なぜ自然(宇宙)は量子なのか?」という問いは、神のみぞ知るということなのか、それともそれ以上の答えを人間は用意できるのか。現在の人間はそれを知る由もない。