投稿者「木原 康明」のアーカイブ

お金ではない付加価値。

付加価値と言えば、普通の物とは違う価値、特に金銭的価値を考えるかもしれない。車で言えばフェラーリなどは付加価値を盛り込むことが非常に上手いと言われ、実際に金銭的にも国産普通車の十倍以上の価格が示されている。さらにフェラーリの中でも、ラ・フェラーリやエンツォ・フェラーリと言った車種は価格もさることながら、お金があれば買えると言うものではないらしい。人間で言えば、サッカーの久保建英選手は十代ながら20億円の市場価値があると言う。

そのような金銭的な付加価値を上げることと同時に、お金ではない付加価値を作ることも非常に重要である。久保建英選手のような才能を一夜で身に付け数十億円もの価値を身に付けることはすぐにはできないが、お金ではない付加価値は意識の持ちようで誰にでも付けられるチャンスはある。しかし誰にでもチャンスはあるが、誰にでも身に付けられるものではないからこそ価値があるのである。具体的には、人間性や思想、そして外見もそれらの付加価値の一部になるであろう。そしてそれらの付加価値の最も重要な事は、張りぼてではないことである。表面的な事ではなく、芯から発する魅力を身に付けなければならない。

では、張りぼてではなく芯から発する人間性・魅力とは何か?そのような人間性・魅力は、窮地に立たされた時に最も表現される。人間とは窮地に立たされた時に本性が表れるものである。普段は優しく人を守るふりをしても、いざとなれば平気で人を裏切り自分の保身に突っ走ってしまう。そのような優しさは張りぼてであり、最も信用できない人間とみなされる。僕自身だって、時には人を裏切ることもあるかもしれない。しかし一つ断言できることは、僕は絶対に保身に走らない。いや、そのような人間であろうと思っている。僕は保身と言うものが根っから大嫌いだ。だから保身に走る人を軽蔑するし、もし自分が保身に走ろうものならそのような自分を捨て去ってやりたい。

そのような保身という醜い行為の対極にあるのが人間的な付加価値だと思う。人間と言うものは、いつかは死ぬ運命にある。百年後には今いる人間全てが入れ替わっていると言う当たり前の事を指摘していた本もあった。なので、限られた人生のうちの微々たる部分を延命するために保身をする意味はほとんどないと思っている。そのような醜い保身による延命を図るくらいなら、今ある人生をいかに太くするかと言うことを考えた方が良い。そのような人生を太くすることこそが、人間的付加価値を付けることだと思う。ほとんどの人は自分がいつ死ぬかなんて予測できない。そしてそれをコントロールすることもほとんど不可能だ。しかし人生を太くすることはいくらでも自分でコントロールできる。ならばそちらに力を注ぐべきではないか。それができる人が付加価値のある人間と言うものである。

何を目標にするか?

結果を出せるかどうかは、初めに目標を立てるところから決まっている。良い目標を立てることができると良い結果につながるし、良くない結果を立ててしまうとどれだけ頑張って取り組んでも良い結果を出すのは難しい。なので、良い目標を立てるセンスと言うものはある程度必要だ。

大きな目標を立てて成し遂げることができると、もちろん大きな評価を得ることができる。しかし大きな評価を立てても、それを成し遂げることができなければその評価までたどり着けない。しかし評価は、百か?ゼロか?ではない。結果を出す過程で様々な副産物が得られたり、また結果を出す過程自体が評価されることも少なくない。しかし、そのような過程がどのようなものになるかは取り組む本人にもやってみない事にはわからない。なので、どうすべきか?と延々悩んでも仕方がないので、まずは取り組んでみることが重要だ。動くか動かないかは天と地ほどの違いである。動かないで出来ないと言うのは、才能がないのと同じである。

学問に取り組む際にも、目標とする問題を明確にするのと、単にどの分野(理論)に取り組もうと言うのでは、自意識が大きく違ってくる。僕は前者(取り組む問題を設定する)方が圧倒的に良いと思っている。例えば、最新の理論に取り組もうと言う意識では、研究と言うより勉強になってしまう。問題を解くことはそれ自体研究なのである。僕自身も、ターゲットを理論から問題に変えることによって飛躍的に内容が良くなった。

問題を設定したら、まずは準備をしなければならない。しかしもちろん、準備に終始してはいつまでたっても始まらない。常に先端を見据えながら、足元も固めて行かなければならない。必要な専門書を集めることも必要だ。専門書はないよりあった方が絶対に良い。だから他人から「本を集めてばかりだ」と言われるくらいがちょうど良い。物事はお金ではないかもしれないが、お金をかけることは非常に重要である。お金を有効に活用することによって、目標へのスピードは少しずつ速くなっていく。

良い目標を立てるためには、広い視野が必用だ。そして同時に圧倒的な専門的知見も必要だ。そして目標となる問題は、必ずしも一つだけにする必要はない。複数の問題に取り組むことによって、複眼的かつ余裕を持ったアプローチをすることができる。究極の目標は、スペシャリストレベルのジェネラリストだ。

世界が小さく見えてくる。

もし自分が学生ならば、数学の世界についてどのように感じるだろうか?おそらく数学と言うものは得体の知れない部分が多く、どこに限界があるのか想像がつかないであろう。数学でなく物理や化学、あるいは経済学であってもそう感じるに違いない。しかしそれらの分野を極めることによって、それらの世界がどんどん小さくなってくる。あれほど得体の知れなかった数学の世界が非常に小さく見えてくるのだ。そうなれば数学の世界が窮屈になり、殻を破ろうとするであろう。殻を破る、すなわち新しい世界を構築するのだ。

世界が小さく見えるとは、その世界の全貌を見渡せている証である。しかし実際は、その全貌を見渡せていないまま重箱の隅を突くような研究をしている人も少なくない。その結果、全貌を見渡せている人と見渡せていない人では結果の質が大きく変わってくる。

そして他分野、隣接分野を理解することも大きな武器になる。数学に取り組んでいるのならば、数学内の隣接分野を、さらには化学、生物学などに取り組むのもいいだろう。そして重要なのは、専門外の分野だから知識を仕入れるだけでいいとは思わずに、その分野でも何か新しい結果を出そうとすることが重要だ。それが僕の言うジェネラルサイエンティストへの唯一の道である。

しかし、現在まだ結果を出せていないことを悲観することは全くない。しかし明確なビジョンを持てていないのならばかなり悲観的である。まずは到達点をはっきりとさせ、それを基にビジョンを構築することが必用である。時間をかけることが必ずしも良いことだとは思わないし、早く結果を出すことに越したことはないが、大きな目標を掲げているのならばじっくりと時間をかけるのも重要である。結果を出すまでは外野がうるさいであろうが、そんなことは結果を出せば全て解決することである。じっくりと腰を据えて、大きく深く問題に取り組むことにしよう。

古本の活用。

本を一冊買うくらいなら何の問題もないが、十冊二十冊と買っていくとやはりそれなりの出費になる。さらに専門書となると一冊一万円以上するものも多く、そのようなものを毎月これでもかと買っていくと懐が痛くなる。

そこで最近は、書物を買うときは古本をフルに活用することにしている。書物はブランド品と違って、価値が落ちることは全くない。確かに紙としての本は古くなり値段も安くなるが、本と言うものの本質は紙ではなく、その中に書かれている情報だ。だから本が古くなったからと言って中に書いている情報が劣化すると言うことはない。

Amazonなどで見ていると、専門洋書の原版よりも日本語翻訳版の方が高いことが多い。最近見た本では、洋書原版が一万一千円、それに対して日本語翻訳版が二万四千円。じつに日本語版の方が倍以上高いのである。そこで僕は、洋書原版のさらに中古の状態の良い本を六千円で注文した。おそらく明日くらいに届くであろう。お金が湧き出るようにあれば新品の本をどんどん買えばよいが、資金に制限があるときは古本をフルに活用して、さらに日本語版ではなく英語版を買うと言った対策を取った方が良い。

僕はAmazonや明倫館書店(自然科学書専門の古本屋)のサイトを頻繁にチェックしているが、意外と掘り出し物があるものだ。掘り出し物とはある人には価値がないが、ある人には大きな価値があると言うものだ。人の価値と自分の価値は全く違う。自分の価値感をしっかりと把握していれば、自分にとって非常に価値がある掘り出し物の古本が見つかるに違いない。繰り返し言うが、本の価値は紙ではなく中の情報にある。そこを認識していると、古本を最大限に活用し、思い通りの結果を出せるに違いない。

ストレスがたまるぜ!

日本と言う国は、本当にストレスがたまるぜ!いや、僕の場合、海外に住んだとしてもストレスはたまるだろう。どうしたらストレスフリーな生活を送れるのか?僕の永遠の課題である。

しかし誰でも、大なり小なりストレスはたまるものかもしれない。しかし僕の場合はあまりにもストレス耐性が弱い。そのくせに強固なる絶対的な意志を持っている。意志を貫けば貫くほど、どんどんストレスがたまっていく。それはもう僕の運命だと言うしかない。ストレスフリーになるのはあきらめて、これからどうストレスと共存していくかと言うことを考えた方が良いかもしれない。

ジェネラルサイエンティスト。

ジェネラリストとはどのような人のことを言うのか?いろいろな事をまんべんなくできる人のことをジェネラリストと言われる事がある。しかしそれはジェネラリストでも何でもなく、単なる普通の人でしかない。僕が定義するジェネラリストとは、あらゆることに対してスペシャリストレベルである人である。なので、ジェネラリストになるためには、まずスペシャリストになることが必用だ。

最近はあらゆる分野において細分化が進んできている。それは科学においても例外ではない。物理学者であっても分野が違えば、同じ物理学のことでも全く分からないと言うことも少なくない。そのような研究者を物理学者と呼べるだろうか?そのような人はもはや物理学者でさえない。

では、科学を志しているのならば究極的にはどこを目指すべきなのか?僕は「ジェネラルサイエンティスト」だと考えている。すなわち、科学のどの分野に対してもスペシャリストレベルであると言うことだ。細分化が進んでいる現在において、そのような事は本当に可能なのか?僕は可能だと考えている。もちろん、誰もができることではない。だからこそ挑戦すべきではないだろうか。

ジェネラルサイエンティストになるためには、全ての科学に対してスペシャリストレベルでなければならない。その中でも少なくとも一つの分野では世界でトップレベルにならなければならない。そのようなジェネラルサイエンティストは世界でも数えるほどしかいないだろう。しかし、ある分野で世界でトップを極めている科学者は、他分野に関してもスペシャリストレベルであることも少なくない。もし科学を極めたいのならば、ジェネラルサイエンティストを目指すことは最も挑戦的な取り組みに違いない。そしてそこから科学以外の分野にはみ出していくことも非常に面白いだろう。

学問的野望。

僕は人間と言うものはどの分野を志していても野望は持つべきだと思っている。そしてその野望を達成する原動力は何であっても良いと思っている。むしろ、自分の中にある欲求や夢をいかに上手く原動力にして、いかに事を成し遂げるかと言うことが重要なのである。

タイトルに「学問的野望」と書いたが、そもそも学問的野望とは何か?何も成果を出して大金を得ることが目的ではない。いや、もし大金を得ることが原動力になるのならばそれも良い。しかし学問的野望はビジネスとは違ってお金だと割り切れるものではない。そもそも、ほとんどの研究者は学問が大好きで、その面白さに魅了されて学問に打ち込んでいるのである。金銭的利益は付属品でしかない。

科学と言うものは階層的に分類されている。科学の一番基盤的なところに位置するのが物理であり、そこから化学、生物学、地学へと積み重ねられていく。すなわち還元主義的に考えると、物理学を制覇すれば全ての科学を制覇したことになる。さらに物理の中でも素粒子論は最も根っこに位置するので、素粒子論は科学全ての源泉だと言える。

しかし、物理(素粒子論)を理解すればそれで満足できるのか?以前の僕ならばそれで満足していたかもしれない。しかし今は違う。数理物理を軸にしながらも、化学や生物学・地学などの全ての階層を理解し制覇したいと思っている。さらに現実世界(我々の住んでいる宇宙)の理解だけにとどまらず、さらに強固な世界である数的宇宙(数学)も制覇すべきだと思っている。そのように全ての階層の数理と科学を制覇することこそ、究極の学問的野望だと思っている。

今、僕はいくつの問題(テーマ)に取り組んでいるのか?とふと思った。そしてそれらを紙に書き表してみると、八つもあることに気づいた。それらは数学・物理はもちろん、あるものは(理論的な)生物学、脳科学、コンピューター科学などと多岐にわたる。昔なら物理の問題だけで満足していたであろう。しかし今の僕の知への欲求は、それだけでは満足できないのだ。そしてもちろん、それらを知ることが目的ではない。解明して新しい知見を出すことが目的なのである。

僕の学問的野望はどこまで広がるのか?それはとどまることを知らない。

学問的哲学は、何一つとして真理を明かさない。

哲学は有用なのか?不要なのか?この問いに対して僕は明らかに有用だと答える。それどころか、哲学のない人生、そして哲学のない科学などは取るに足らないと僕は考えている。しかし、我々が生きて行くうえで考える哲学とは別に、大学などで行われている「学問的哲学」と言うものがある。例えば、カントやショーペンハウアーのようなドイツ哲学などだ。僕自身も、そのようなドイツ哲学を中心とする学問的哲学に取り組んでいたことがある。しかしそこでたどり着いた結論は、「学問的哲学は不毛であり、何一つとして真実を明らかにしない」と言うことである。はっきり言えば、学問的哲学とは哲学者の自己満足な遊びでしかない。

ではわれわれはどのような哲学を追求すべきなのか?それは「いかにして生きるべきか?」と言うことを追求することである。哲学とは生きることに対して求めるべきであって、単なる論理学のくだらない哲学遊びを求めても仕方がないのである。とは言え、古代のギリシャ哲学は十分に意味があった。古代ギリシャ哲学は現代科学の源泉でもあるし、宇宙の真理を真剣に追究している。それに対して近代ヨーロッパ哲学はひどいものである。それらの哲学からは何一つとして真理が浮かび上がらない。

科学とは、まず目の前の事を真実として直視することから始まる。しかし近代哲学は人間が特別なものであると言うところから始まる。人間の存在など、確かに特殊性は帯びているが、生物学的には特別でも何でもない。もし人間が特別だと言うならば、根本的に同じ生物システムを保持しているアメーバだって特別である。いや、そうであるべきである。生物とは宇宙的に見ても特別であり、生物学とは特殊科学の極限なのである。

そして数学はこの宇宙で最も確かなものなのである。そしてそれを突き詰めていくと、当たり前のものが当たり前でないことに気づく。1とか2という自然数を哲学者はどう捉えるのか?おそらくくだらない論理にもなっていない論理もどきを持ち出して論破しようとするであろう。しかし、最も厳格である数学の基礎であるツェルメロ・フランケル集合論を用いて論じれば、自然数と言うものが最も確実な存在ではあるが、最も自明ではない存在であることがわかる。そこに、数学を用いて迫る真実の最もエキサイティングな真理が存在するのである。

理論と計算。

物理学と数学は究極的な理論的学問、計算的学問だ。数学を計算抜きで考える人はいないと思うが、では数学者や物理学者が日常生活においても全て計算に基づいて行動しているかと言えば、そうではない。もちろん、全てにおいて計算と理論に基づいて行動している人も少なくないとは思うが、理論的計算的に行動することが正しいかと言えば全く別問題である。

僕は数理物理学と言う学問に取り組んでいるが、そのような究極的に理論的計算的学問に取り組んでいるからこそ、日常生活や人間関係においては逆に計算では動かないように心がけている。そして周りの人間が計算的に動くのを見て、全く的外れだと思うことも多々あり、だからこそ計算に基づいて動くことが利益を最大化するとも思えないのである。

しかし、僕自身も少しは論理的に日常を捉え、もう少し計算をしても良いのではと最近少し思うようになっている。とは言え、100%計算に基づいて行動しようとは今でも思わないし、そういうのは好きではない。日常を純粋に楽しみ、面白いことを面白いと純粋に笑い、苦し事を苦しいと感じることも必要ではないだろうか。しかしそのような苦しさから脱出するためには、少しは戦略的に物事を進めることも必要である。

世の中には、このような僕の考えに逆行している人がたくさんいる。日常生活などでは徹底的に計算で動き、逆に数学を論理的に考えることができない人たちだ。そのような人たちは間違いなく的外れな解釈を行っている。日常の本質と数学の本質が別のところにあることを理解していない。だからこそ、世間で「理論的に証明されている」と言えば何の疑いもなく信じて実行しようとする。そこには思考と言う作業が組み込まれていないのだ。数学を突き詰めている人ほど、日常の常識に立ち向かうことができる。常識を知っている人が偉いのではなく、常識が本当に正しいか判断できる人になることが重要なのではないだろうか。

肩書と実力。

日本は肩書社会だとよく言われる。だからと言って外国は完全な実力社会かと言えばそうでもないとは思うが、日本国内から見ても海外の方が圧倒的に実力社会であるように思える。

では学問の世界はどうか?学問の世界の肩書の一つに「博士」と言うものがある。実力社会のように思えるアメリカであっても、日本以上に博士と言う肩書が重要視されているようだ。ノーベル賞受賞者の中村修二氏は、若いころアメリカで修業したそうだが、博士号を持っていないがためにほとんど相手にされなかったと言っている。これはアメリカに問題があるのか?学問の世界に問題があるのか?はっきりと断定はできないが、どちらにも問題があるように思える。

肩書重視の弊害は、あらゆるところで見られる。その一番の弊害は、再チャレンジの機会が存在しないと言う事であろう。もしくは例えそのチャンスがあったとしても、既得権益者が行うよりも圧倒的に難しい状況に追われる。しかしそのような事は、どこの国どの社会であっても同じことであると思う。三倍難しければ、五倍の実績を挙げればよい。十倍の結果を出せば誰も文句は言わないだろう。それで文句を言う人は単なるバカである。

歳を取ればとるほど実績を出すのは難しくなる。そして実績を認められるのはそれ以上に難しくなる。しかし前述したように、十倍の実績を出せば誰も文句は言わない。ならば十倍の実績を挙げれば良いだけの話である。これが難しいか?可能か?それは本人次第であるが、僕は十分に可能だと考えている。どう出過ぎた釘になるか?そこを突かないと、実力主義だと言われるアメリカであっても認められるのは難しいと思う。しかし、どう認められるかと考えているようでは、出過ぎた釘にはなれない。なぜなら、出過ぎた釘とは評価をする側に回ると言うことであるからである。