投稿者「木原 康明」のアーカイブ

お金は必要だよ。でもそれが全てではないんだよ。

あるタレントが「お金が全てだ」と言い張っていたのを見て、いろいろと感じるところがあった。おそらく多くの人は、お金が全てだと言う言葉に対して反論したいであろう。僕だって同じである。しかし、そのように言い切る彼女に対して、ある種のたくましさを感じたりもするのである。確かに反論したいところはいろいろある。しかし人間の本音として間違っていないのではないかと思うところもいろいろあるのである。

生きるためにも遊ぶためにも、お金は絶対に必要である。そしてお金はないよりかはある方が圧倒的に良い。しかしだからと言って、お金が全てではない。お金で買える幸せは、現実問題として沢山あると思う。しかしお金では買えない幸せもあるのも事実である。だから本当の幸せとは、お金によってもたらされる幸せとお金では買えない幸せの両方手に入れることかもしれない。健康もそうである。お金があれば最先端の検診を受けて予防したり、最先端の治療を受けることによって病気を防ぐことができる。しかしお金ではどうにもならない健康もたくさんあるのも事実である。

お金が全てではないことはほとんどの人にとっては明らかだが、お金に対する割合がいくらかと言うことは人それぞれ違うと思う。お金が90%だと言う人もいれば、10%と言う人もいるだろう。前出のタレントにとっては、お金が100%だと思っているのだろう。しかし一度健康を害するようなことがあれば、それが正しくないことがわかると思う。

とは言え、お金を稼ぐことに精を出すことは悪くないし、むしろ仕事に精を出すことによって人生に活力が生まれるものだ。このような活力も幸せのうちの一つである。同じ一億円でも、宝くじで当たった一億円と努力して稼いだ一億円は全く価値が違うものである。このように努力して稼いだ一億円によって人生が活力に満ち溢れ、心身ともに幸せと健康になるものだと思う。なので、お金が全てではないが、お金を最大限有効的に幸せにつなげることが必要なのではないか?そうすれば例え現在は沢山のお金があるわけではなくても、費用対効果として最大限の幸せを手に入れられる。そしてそれが将来の大きなお金にもつながってくるのかもしれない。

僕が司法・検察に対して厳しい意見を言う理由。

僕はこれまで幾度か、司法・検察に対して厳しい意見を言ってきた。昨日のブログでも、検察、そして元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に対して、これでもかと言うくらいにこき下ろした。僕がこのように検察に対して厳しい意見を言うのには理由がある。ゴーン氏が言っていたような検察批判に同調するわけではないが、現在の検察の在り方・体質に対して疑問に感じるところが少なくないからだ。

まず初めに述べたいことは、冤罪事件と言うのは司法・検察、そして国家による犯罪だと言うことである。不当に逮捕・拘留すればそれは国家による逮捕・監禁罪であるし、もし冤罪人を死刑に処すればそれは国家による殺人罪である。しかし、このような非常に単純な論理を、検察は全く認識していないように感じられてならないからだ。そんな事件追及は、正義でも何でもなく単なるエゴでしかない。

このような事を象徴するのが、冤罪に巻き込まれた袴田巌さんである。確かに、検察とは言え何かの間違いを起こすことはあるとも言える。しかし、実際に殺人を犯した殺人犯は裁判所でどう発言するだろうか?ほとんどの殺人犯は反省の弁を述べるだろう。しかし、袴田さんの冤罪に関して、検察は一向に謝罪の弁を述べないばかりか、自分たちを正当化して保身に走るばかりである。これはどう考えても、反省の弁を述べる殺人犯よりも悪質だ。袴田さんは年老いて何とか自由の身にはなったが、冤罪を証明されずに死んでいった囚人もいることは想像に難くない。

僕は検察を否定したいわけでは全くない。検察組織は社会にとって必要不可欠だ。しかしその在り方が問題なのである。体質とでも言うのだろうか?現在の強権的な(検察が強権的であるのは当たり前だと言えるが)検察が、その強権の使い方が明らかにおかしい事案が散見されることを僕は問題視しているのだ。検察側にとっては単なる間違いと言う一言で済ませることでも、冤罪犯にとっては命がかかっているのである。そのような認識を検察側が持つまでは、僕の厳しい意見は終わらないだろう。

ゴーン氏の会見に関して。

久しぶりにニュースを見てブチ切れた!何に対してか?news zero(日本テレビ)に出ていた若狭勝・元東京地検特捜部副部長(前衆議院議員)に対してだ。番組では、ゴーン氏の会見について報道され、それに対してアナウンサーらが意見を言っていた。そしてそれに対する若狭氏の見解があまりにも低レベルで幼稚すぎるのだ。

まずは、ゴーン氏が指摘していた、日本の裁判での有罪率99.9%問題(これについては1月2日の僕のブログでも触れた)についてだが、若狭氏は日本は外国とは違って確実に有罪を取れる場合しか起訴しないからこの数字になるのだと言っていた。小学生レベルの弁解である。そして検察側のこのような認識は、非常に恐ろしいものであるとも思った。それは、検察側は取り調べを行う際、99.9%(すなわちほぼ確実に)有罪であるという思い込みのもとに取り調べを行っているとも受け取れる。このような認識こそ、まさしく冤罪の温床である。有罪となった99.9%の中には、相当数の冤罪事件があると言うことも想像に難くない。

そして、ゴーン氏の会見に対する若狭氏が言った総括が「逃げ得」である。これもまた小学生レベルの意見である。このような若狭氏の幼稚な意見から感じられるのは、このような低能低レベルな人間が率いる検察と言うものは、相当低レベルな組織なのではないかと言うことである。そして検察は権威をバックにして強権的な取り調べをしていると疑われても仕方がない。

今回のゴーン氏の会見は、皆が言うように確かに内容が薄かったことは明白である。しかしそこから日本の司法が反省すべき点もいくつかあったように思える。しかし当の日本の司法側が保身に走っているようでは、反省によって改善されると言う期待は持てない。若狭氏のような存在は、そのような検察の問題の氷山の一角を表しているのではないだろうか?

たまには旅行に。

週末、信州松本まで旅行に行ってきた。と言っても夜行バスでの弾丸旅行だ。僕は以前のブログでも書いたように、特に旅行が好きなわけでもなく、今回の旅行も旅行自体が目的ではなく、大学時代の同級生たちとの飲み会が目的だ。しかしそれとは別に、もう一つの目的もある。それはあらゆることに関しての気分転換だ。最近はなかなか調子が乗らないので、そこを何とか変革しようということである。

それにしても旅行は本当に疲れる。特に格安ホテルでの宿泊が非常に疲れる。高級なホテルに泊まれば快適に過ごせるのかどうかわからないが、余裕ができた時にはもう少し高級なホテルに泊まりたいものだ。

こんなに旅行が好きではないとか言いながら、今回の飲み会を企画したのは僕自身である。孤独でいるのは大好きだが、みんなと一緒にワイワイするのも大好きなのである。しかし今帰ってきたばかりで疲労が激しく、書いている文章もおぼつかない。また明日から研究に邁進し、マシなブログ記事も執筆していかなければならない。まあ、今日はこれくらいにして休むことにしよう。

セルフブランディング。

ブランドと言うものは、何も鞄や時計などのいわゆるブランド品だけではない。人間自身をブランド化することも非常に重要である。ブランドとは付加価値であるが、そこには長年積み重ねてきた信頼なども含まれる。そして忘れてはならないのは、ブランドを築くことは時間もお金も非常にかかるが、失うのは一瞬だと言うことである。

では、具体的に人間のブランドとは何か?それは外見、内面、そして才能などすべてに関する総合力の評価である。例えば、日本においてその最高峰にあるのは、イチローさんや山中伸弥教授であろう。もちろん、それらの人は自分で自分のことをブランドだなんて全く思っていないだろう。またそこが素晴らしいところであるが、そのように無意識にブランディングできているところがすごい所である。そのように、ブランディングは意識をすればできると言う簡単なものではない。しかし、意識をしてセルフブランディングをすることも、戦略として重要な事である。

ビジネスマンであれば、自分の市場価値と言うものを強く意識するであろう。そしてそのような市場価値を上げるためにセルフブランディングすることは不可欠である。先ほど書いたように、人間のブランディングには内面、外見、才能など多岐にわたって関係してくる。才能などはすぐに身に付けられるものではないが、しかし努力によって向上することはできる。外見に関しては、そこだけ熱心に力を入れても張りぼてだと言われるかもしれないが、しかし何も意識しないよりかははるかにマシである。外見、内面、才能の全てを磨けば、単に三倍になるのではなく、相乗効果で何十倍、何百倍もの魅力になる。なので、もし自分に才能が有り人間としても素晴らしいのならば、そこに外見まで気を配れば百人力である。

ブランディングにおいて外見は非常に鍵となり、またそこを見ればかなり判断をすることができる。それは、外見を磨いてもそれが魅力的に見えなければそれは張りぼてであり、外見の素晴らしさが相乗効果でより一層魅力的に感じることができればそれはその人の価値あるブランドである。なので、自分をブランド化することを目標にすることは、非常に良質な目標である。しかしもちろんそれは簡単な事ではない。しかし努力と戦略によっては決して不可能ではないはずだ。

ゴーン氏国外脱出。僕はゴーン氏の主張にかなり賛同している。

年末になり、元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏が国外脱出したと言うニュースが飛び込んできた。ゴーン氏がどのように脱出したかはまだはっきりとはしていないようだが、日本の検察側、裁判所側にとってはとてつもなく大きな失態だ。日本のメディアはゴーン氏の国外脱出を“逃亡”と表現し非難をする論調が強いようだが、僕はゴーン氏側の声明に対してかなり大きな共感を持っている。

では、ゴーン氏側の主張の何に共感しているか?それは、検察側の「有罪ありき」の取り調べ、そしてそれに呼応する裁判所側の姿勢だ。日本では起訴されると、有罪決定率が99.9%(この数字は比喩的に表現されたものと思われるが)にもなると言う。確かに起訴された人間が罪を犯している確率は高いであろうが、しかしその確率が99.9%と言うのは、明らかに常軌を逸している。その数字が主張しているのは、警察・検察は99.9%ミスをしないと言うことである。しかしこれまでいくつもの冤罪事件が明るみになってきた。その代表は殺人罪に問われて冤罪だとほぼ確定している袴田巌さんの件であろう。しかしこの袴田巌さんの件においても、検察側は自らのミスを認めていない。

では捜査・取り調べ・裁判とはどうあるべきか?それは有罪か無罪かを精査することである。すなわち、明らかに疑惑性が低い件はしっかりと無罪を導き出すべきである。しかし一度起訴されてしまうと、日本においては99.9%有罪になってしまう。どんなに疑惑性が低くても有罪の判決が出るのである。これは、一度起訴された件に関しては、検察側が何があっても自らのミスを認めないと言うことに原因がある。これは非常に恐ろしいことである。事件の被害にあうことは恐ろしいことであるが、何も犯罪をしていない人が拘束され犯罪者に仕立て上げられることはさらに恐ろし事である。しかし日本の現状はそのような事が横行しているとまでは言わないまでも、度々発生しているのである。

今後、ゴーン氏は日本の司法制度に挑戦してくると言われている。僕はこのことに対しては大いにゴーン氏に賛同する。この際、徹底的に日本の司法制度のおかしい部分を掘り下げ、改革の火を付けてもらいたいものである。そういう意味で、長い目で見ればゴーン氏の国外脱出、日本の司法への挑戦は必ず日本及び日本国民の安全と自由にとってプラスになるはずである。今回の件に関して、単に感情的に「逃亡はけしからん、ゴーン氏は悪だ」と捉えるのではなく、ゴーン氏の主張を吟味し、日本国の司法の在り方を見直すべきである。

では、これからゴーン氏の事件に対して日本はどのような姿勢を取るべきか?僕はゴーン氏の身の安全と自由を保障し、ゴーン氏の主張と日本の司法側の主張を真っ向対決させるべきだと思う。もうゴーン氏が有罪か無罪かと言う問題では全くない。世界の司法の常識と日本の司法の常識との対立である。僕はゴーン氏の今後の動きに大いに期待をしている。これは必ず日本のおかしな現状を変えるきっかけになるはずだ。

科学は宗教であってはならない!

現在、地球温暖化が世界で大きな問題になっている。そこでよく言われているのが、地球温暖化問題は科学か?宗教か?と言うことである。実は地球温暖化を厳密に分析することは非常に難しい。あるモデルに則って論じても、不確定要素、想定外要素が沢山あるからである。言ってしまえば、出たとこ勝負であると言うことである。何十年後に何度上がると計算で出ても、果たしてその通りになるかどうかは科学者も分からない。そうなると、科学的にどうなるか?と言うことではなく、そうなることを信じるかどうか?と言うことになる。つまり気候問題が宗教問題と化してしまうのである。

確かに、将来の気候問題を正確に論じることは誰もできないかもしれない。しかしだからと言って、気候問題を宗教問題にしてよいはずがない。厳密にその通りになる保証はないが、科学によって方向性はかなり正確に示すことができる。少なくとも、科学的に論じることは宗教的に論じるよりも数百倍マシなのである。

ガリレイやニュートンが現れる前、全ての事柄は宗教的に論じられていた。宗教が絶対であった時代なのである。そしてそのような時代に大きな迫害を受けたのが科学であった。物事を100%正しく論じることは非常に難しい。しかし宗教的に論じるよりは数百倍正確なのである。科学が70%正しいが、30%間違っている可能性があるからと言って、それを宗教的に論じてよいはずがない。気候問題は首尾一貫して科学的に論じるべきなのである。

そして一般市民が、科学的に正しいと言われているから盲目的に従うと言う姿勢をするのも間違っている。科学的に導き出された結果を市民も一緒になって考察すべきなのである。そのためにはある程度の教養が必用である。大学では最初の二年間教養課程として過ごす。なぜ大学に教養課程が必用なのか?専門の事だけを教えていれば良いと言う人も多い。しかし全ての物事を科学的、論理的に的確に論じるためには教養が必用なのである。そうでなければすぐに宗教的思考に走ってしまう。

宗教が全く必要ないと言うつもりはない。しかし科学的に論じるべきことを宗教問題にしてはならない。間違っても科学を宗教にしてはならないのである。最近では人間の心までが科学的研究の対象になっている。しかし、人間の心の拠り所が宗教であっても全然かまわない。しかし科学が宗教になってはならないのである。そのような事を、現在の地球温暖化問題が明確に示しているように思えてならない。

僕が本を買いまくる理由。

僕は今、いや、昔から本を買いまくっている。とは言え、冊数ベースで言えば僕と同じくらいの数の本を買っている人はそれなりにいるだろう。しかし金額ベースで言えばおそらく日本国民の上位1%に入るだろう。さらに収入からの割合で言えば、完全にホンゲル係数王(エンゲル係数をもじっている)であることに間違いはない。なぜ僕はこれまでに本を買い続けるのか?その理由を書いてみたい。

研究者には二つのスタイルがある。一つは完全に頭の中だけで完結する人。もう一つは多くの専門書を駆使して考える人。前者の人はかなり記憶力が良い人だと考えられるが、僕は記憶力が良くないので後者にならざるを得ない。そのような僕にとって、本は生命線でもある。なので、本にどれだけお金をかけるかが結果にも跳ね返ってくると強く思っている。

そして何より、本が大好きなのである。本屋には毎日のように顔を出しているが、最近は雑誌や一般書はほとんど買わない。それらは全て立ち読みで終わらせる。その分を専門書に回しているが、最近はこれまで僕の専門外だった生物学などの専門書なども積極的に買っている。これが意外と面白いのだ。これまでは数学バカ、物理バカで来たが、生物学や数理脳科学、化学なども取り組んでみると非常に面白く魅力的なのである。そして大事なのは、取り組むからには新しい結果を出さなければならない。単なる趣味では終わらせないと強く心に思っている。

本は財産だと昔から言われているらしいが、この言葉をどれだけの人が理解しているだろうか?本は人間の第二の脳なのである。言わば拡張人体とでも言うべきであろうか?一冊数千円で第二の脳が身に付けられるのならば、これは非常に安いのではないだろうか?稼いだお金で第二の脳を買いまくるのも、意外と悪くないものだ。

科学とゲーム。

科学は大なり小なりゲーム的な要素がある。そして科学をゲームと捉えられている人は絶対に強い。科学者とはある意味、プロゲーマーと言えるだろう。とは言っても、娯楽的に時間を潰すためのゲームでは決してない。人生を懸けたゲームなのである。

ゲームと対照的な位置にあるのが勉強だと言えるだろう。よく小学生などが親から「ゲームばかりしないで勉強をしなさい」と言われるシーンがある。これはある意味、ゲームと勉強を対照的物事と捉えている点で本質をついていると言える。しかし大事なのは、科学を勉強としてやるのではなくゲームとして取り組むことなのである。だから親たちは「勉強ばかりしないでゲーム(科学)をしなさい」と言うべきである。

科学を勉強として取り組んでいる間は、まだまだ四流五流である。科学をゲームと捉えることができれば一流の手前の二流と言えるかもしれない。しかしその先がある。その先(一流)が何なのかと言うことは人それぞれ違うし、僕が言うことでもない。なぜならそれが何なのか?それは自分で考えるべきことだからである。

大人の夢には命がかかっている!

子供のころにいろいろな夢を持っていたと言う人は多いだろう。しかし大人になるとそれらの夢をあきらめ、夢を持たなくなったと言う人が多いように思う。それどころか、大人が夢を持つなんてことがカッコ悪いと言う人さえいる。果たして大人も夢を持つべきなのか?それとも現実的に考えて夢など持たない方が良いのか?

僕は夢を持たない大人は、実は夢を“持てない”のではないかと考えている。そしてそれらの人達は、夢を持つ覚悟がないのではないだろうか?大人が夢を持つからには、単なる夢見る乙女(中年?)ではなく、それを何が何でも成し遂げなければならないし、そうでないと生きていけない。そう、大人の夢には命がかかっているのである。命をかけてまで夢に取り込もうとする人は非常に少ないのではないだろうか。だから多くの大人たちは夢を持てないのである。

自分の夢を実現しようと前に進んでいる人は、いくつかのことを犠牲にしなければならない。普通の人と同じような事をしたいなどと思っているようでは、突き抜けた夢を実現することはできない。将棋の藤井聡太七段は、大学進学を断念し将棋に専念することを決心したと言う。圧倒的な才能が有り将来有望な青年でさえそのような犠牲を受け入れなければならないのに、大人が夢を追求するのに犠牲を覚悟しないで出来るはずがない。あらゆることはトレードオフである。何かを手に入れたければ、何かを手放さなければならない。なので、自分は何を手に入れるべきか?また何がいらないか?と言うことを明確に自覚していなければならない。

夢を追求している人を笑う人たちがいる。僕はそのような人たちを逆に笑ってやりたい。何せ、それらの人は夢を持つ覚悟も才能もないのだから。現代の多くの人間の寿命は50年を優に超える。平均寿命が短かった昔なら、25歳くらいまでには夢の大まかな形を作り上げていなければならなかったかもしれない。しかし今では、50歳を過ぎてから夢を成し遂げることも可能である。だから中年だけでなく、高齢の人達も夢に取り組むことに遅いことはない。大人の夢を笑う人間は、前時代的な観念にとらわれている人間なのである。

確かに皆が皆夢を追いかけていては、それはそれで社会が成り立つかどうかわからない。しかし確実に言えることは、現在の日本では夢に取り組む大人が圧倒的に少ない。なので夢に取り組める大人たちがもっともっと必要である。現在日本は経済的にも下り坂のように思えるし、何だか表面的な事を繕っているように思える。建前万能主義社会の中で、堂々と胸を張って夢を追求する大人こそが今の世の中には必要なのである。