投稿者「木原 康明」のアーカイブ

熊本で大地震。気象庁および地震学者の、お粗末な後付見解

14日から熊本地方で大きな地震が相次いでいる。16日未明には、14日の地震より規模が大きい、マグニチュード7.3の地震が起きた。被害者の安全を祈るばかりである。

いつものことながら、気象庁及び地震学者の見解があまりにもひどい。はっきり言って素人レベルだ。もちろん専門家はある程度の根拠をもって言っているのであろうが、それから導き出される発言がこのレベルかと思うと情けないばかりである。

さらに14日の地震が起きた後、「震度6弱の余震が起きる可能性があるので注意してください」と気象庁及び地震学者は発言していた。この様な余震の予想などははっきり言って素人でも判断できるレベルだ。

そして現実は、16日にさらに大きな地震が起きることになる。すると気象庁及び地震学者はコロリと発言を変え、16日の地震が本震で、14日の地震は前震だったと論を覆した。全く持ってお粗末な後付見解である。

地震学という学問はもちろん基礎科学的な性質を持ち、実学一辺倒ではない。ですから地震学の全てを社会に還元しなければいけないとは思わない。しかし他の学問よりも社会への影響の大きな学問でであることは言うまでもない。地震学の主目的は防災・予知である。残念ながら地震予知に関してはまだ地震学はそれが可能なレベルには達していない。しかし防災に関しては現段階でも十分できる事はあるはずだ。

これも素人の僕の後付意見になるが、なぜ地震学者は14日の地震が前震で、後に本震が起きる「可能性」を指摘しなかったのか?このことに関してプロである地震学者は説明責任を負うべきではないだろうか。地震が起きるたびに毎回発言される地震学者の後付発言にはもううんざりである。一般市民は、現在の地震学はどれほど進歩していて、また何ができないか判断できない。今一度地震学者たちは、現在の地震学の状況を国民に正確に説明する責任があるのではないだろうか。

STAP疑義、真相は?日本の報道姿勢は正しいか?若山教授に対する疑惑は?

最近、STAP問題がある方向へ傾き始めた。発端は、小保方晴子氏が出版した手記「あの日」と、小保方氏が立ち上げたホームページ「STAP HOPE PAGE」だ。そこで、現在まで責任を一身に背負ってきた小保方氏だが、最近は小保方氏の共同研究者で元上司の若山照彦・山梨大学教授への疑義が強まっている。

小保方氏の手記やホームページに対して「いい訳だ」と批判する声が強いが、僕自身は言い訳はしっかりするべきだと思う。真相はどうなのか、どこが正しくてどこが間違っているのか、それを知るためには本人の言い訳なしでは判断できない。

我々専門外の市民は、どうしてもマスコミからの一方的な報道に頼らざる負えない。そこで、張本人からの直接的な情報は貴重である。

今回の小保方氏からの情報発信によって、新たな疑惑が浮上してきた。若山氏への疑義だ。僕自身、直接この問題に関わっている訳ではないので、これ以上憶測で書くのは止めるが、ただどうやらSTAP問題の責任は小保方氏一人で背負うような単純な問題ではなさそうだ。しかもこの問題に関して、笹井氏の自殺という悲劇が起こっている。

今必要なのは、「日本の常識である、空気を読んだ検証」ではない。「厳密なる中立な検証」だ。STAP問題はすでに終わった問題となっているようだが、もう一度あらゆる可能性を考慮して、先入観のない厳密に中立な第三者による再検証が必要かもしれない。その検証を実行するためにも、小保方氏の立ち上げた「STAP HOPE PAGE」は大きな役割を果たすかもしれない。

小保方氏ホームページ立ち上げ。そもそも科学とはどうあるべきか

4月の初め、STAP細胞の小保方晴子氏が「STAP HOPE PAGE」というタイトルのホームページを立ち上げた。「”HOPE” PAGE」と名付けたように、小保方氏にとってはわずかな希望にでもつなげるサイトなのであろう。

この「STAP HOPE PAGE 」は、世界中の研究者に対して小保方氏のSTAP細胞研究の正当性を示すのが目的で、もちろん全文英文で書かれている。内容の重点は、STAP細胞製作の手順、すなわちレシピを公開するもので、専門的な内容まで(おそらく厳密に)書かれている。

これを見て専門外の僕がどうこうと批評できるものではないが、もしかしたらというささやかな期待も少しある。

ところでそもそも科学の世界で成果をあげるとはどういうことか?ほぼどの分野でも「こうだ!」と主張しても何の成果にもならない。数学なら厳密な証明が必要だし、生物学なら実験で証明されなければならない。

例外として、数学では「予想」というものが存在し、それを証明して初めて「定理」になるのだが、しばしば証明した学者よりも予想した学者の方が圧倒的に有名であったりする。

フェルマー予想(フェルマーの大定理とも呼ばれる)はフェルマーが予想してから360年後の1995年にワイルズによって証明され、「ワイルズの定理」となったが、今でも「フェルマーの大定理」という名称の方が主流だ。ペレルマンの証明した「ポアンカレ予想」もそうであろう。

この様に理論的証明、あるいは実験証明の伴わないものは、基本的に科学とは言わない。(フェルマー予想のような一部の例外を除いては。)小保方氏が今回ホームページ上で厳密な実験レシピを示したことは、科学者としての責任を最低限果たしたものといえるだろう。

巨大な組織力は、飛び抜けた個の力から生まれる

今日本で巨大な組織、あるいは巨大な産業と言えば、車産業・電気電子産業など様々あるが、その中の一つにロケット産業がある。ロケット産業は言うまでもなく巨大であり、非常にすそ野の広いプロジェクトである。そこに関わる組織はJAXA・三菱重工などをはじめ、重厚広大な企業から中小の町工場まで、すべてを把握するのは不可能であるとも言える。

しかしこの重厚広大な日本のロケットプロジェクトも、その原点をたどると糸川英夫博士のペンシルロケットにたどり着く。「ペンシル」と言う言葉通り、シャーペンほどの大きさの非常に小さいロケットだ。当時、この糸川博士のペンシルロケットを子供のおもちゃ同然とバカにする者も多かったという。しかしこのペンシルロケットの系譜上にあるのが、今日本の技術の最先端かつ巨大なH2Aロケットなのである。

この様に現在の日本の巨大ロケットプロジェクトは、糸川博士という一人の飛び抜けた個の力から生まれたのである。

どのような分野でも同じことが言えるのかもしれないが、科学技術の分野ではこのような歴史がいくつも生まれている。

20世紀の二大物理理論である、「量子力学」と「相対性理論」はその最たる例であろう。

量子力学は完全な個とは言えないかもしれないが、ボーア、ハイゼンベルク、シュレーディンガーといった個人の才能が大きな力になったことは言うまでもない。そして現在、科学技術と言われるほぼすべての技術に、この量子力学理論が応用されていると言っても過言ではない。

そして相対性理論に至っては、アインシュタインという大天才一人の力によって創造された。ここで相対性理論といった場合、一つ注意しなければいけない。相対性理論と呼ばれる理論は二つ存在する。1905年の「特殊相対性理論」と、1916年の「一般相対性理論」である。もちろん両方ともアインシュタインの個の力によって生まれた。特殊相対論の方は早くから応用され、特殊相対論なしでは科学理論は語れない。

しかし一般相対論は、あまりにも重厚広大すぎて、技術への応用はかなり遅れた。しかし現在ではGPSなどに使われるなど、しっかりと現在の科学技術に根付いている。

個の力は時には組織の力を大きく超えることがある。しかもブレークスルーは個の力から生まれることが多い。このブレークスルーを生み出すような個の力が生きていける社会を作り、維持することも、国家の役割ではないかと思う。

報道ステーション、終了。古舘さん、お疲れ様。

3月31日で、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」が終了した。12年間の長きにわたる放送だった。改めて、12年間メインキャスターを務められた古舘伊知郎さんには「お疲れ様」と言いたい。

この報道ステーションは、久米宏さんがメインキャスターを務められた「ニュースステーション」の後番組として始まり、久米さん・古舘さん共に高視聴率を維持し、最も注目を浴びるニュース番組として存在感を発揮した。

では、報道ステーションと他のニュース番組では何が違ったのか。報ステでの古舘さん個人の影響力は非常に大きく、いい意味で独裁的であった。古舘さんは可能な範囲で、自分の意見を自分の言葉で最大限表現しようとした。それが視聴者の反発を食らうこともあったであろう。しかし古舘さんは自分のスタンスを崩さずにやり通したことが、支持された一番の理由ではないだろうか。

古舘さんは、今回報ステのキャスターを降りるにあたって、「この12年間は非常に窮屈であった」と述べられている。公共放送であるテレビニュース番組では制約も大きく、また一定の中立性も求められる。その中でいかにして古舘色を出していくか、苦労されたのだと思う。

テレビニュース番組の中では最もメインキャスターの個人色の強い番組であったことから、おそらく好き嫌いがはっきり出るニュース番組であったと思う。僕は個人的には古舘さんの報ステは好きだった。もちろん細かいことの好き嫌いを言い出せばきりがない。しかし古舘さんの発言には、古館さん個人の思いも含め、基本的に支持してきた。

古舘さんは今後、しゃべりたいことをしゃべりたいように表現すると言っている。報ステで制約を受けてきた反動で、火炎放射のごとく喋り捲るのではないか。

今後の古舘さんの活躍を、そして制約のない言語表現を期待したい。

学歴は、全肯定するものでも、全否定するものでもない

昔から、学歴を評価すべきか、学歴に関わらず実力を評価すべきかと言う議論は絶えない。そこで問題になるのはいつも、学歴至上主義すなわち学歴を全肯定するのか、学歴を完全無視すなわち全否定するのかの二択になっていることだ。しかしこれらは両方とも適切でないと僕は思う。

言うまでもなく、学歴だけで人を評価するのは間違っている。学歴とはその人の評価の一部なのである。だから、その人物の一側面として学歴を評価するのが正しい。何々大学卒と言うことならば、その人物はその何々大学で学び、卒業要件を満たしたことを示し、卒業研究にも取り組んだことであろう。そのことはしっかり評価しなければならない。もちろんレベルの高い大学なら、レベルの高い要件をこなしてきたことであろう。

就職活動では、学歴フィルターと言うものが話題になる。これも良いか悪いかの二択ではなく、柔軟に利用していけば企業もより質の高い採用が可能になるであろう。

しかしそもそも、学歴を作ることを目的に大学に行くのは完全に間違っている。大学では様々な経験ができ、また自分がその気になれば勉強も研究も思う存分できる。しかし逆もありで、遊び呆けようと思えばいくらでもサボれる。大学を就職予備校のようにとらえている人が多いが、そのような考えで大学生活を送るのは精神的にも非常にもったいない。

周りの大学生・大学院生を見渡すと、研究に没頭している純粋な学生が社会で評価されていないのが非常に残念だ。よく社会ではコミュニケーション力が一番大事だと言う。それが大事なのは確かであろう。ではコミュニケーション力が一番大事とか言いながら、なぜ血眼になって大学に行くのだろうか?僕はコミュニケーション力も人間の一側面として評価すべきだと思う。もちろん職によってはそれが非常に大事なものもあるであろう。

まとめると、人間の評価と言うものは多角的に行わなければいけないと言うことである。一つの側面だけを見て、百かゼロかという判断をするのはほとんどの場合、的外れな結果をもたらす可能性を高くする。

民進党政調会長に、待機児童問題追及の山尾志桜里氏

民主党と維新の党が合流してできた、民進党の政調会長に、待機児童問題書き込みで与党を追及した山尾志桜里氏の就任が決まった。山尾氏は当選二回だが、待機児童ブログで安倍首相らを追及し、存在感を示したことが評価されてのことだと思われる。

今さらながらであるが、待機児童書き込みをめぐっては賛否両論がある。「日本死ね」と言う表現はいかがなものかと思うが、この書き込みは今の日本の現状を本質的に表しており、書き込みが本当かどうかということは本質ではない。この問題を安倍首相らに突きつけ、迫った山尾氏は、非常に大きな役割をしたと評価されるべきだろう。

新政党となる民進党の旧母体・民主党は、今まで与党に対して本質的な追及ができず、悪く言えば足元をすくうような突込みしかできないふがいない政党であったが、最後の最後で山尾氏は核心に迫った形だ。

山尾氏は元検察官出身で、立ち位置としては弁護士出身の自民党・稲田朋美氏に近く、民主党の稲田的な存在感が求められるのかもしれない。

とにかく、岡田党首・枝野幹事長らが横滑りする中、新政党・民進党の執行部に新鮮な顔が現れたことには期待したいものである。

推定無罪の原則は働いているか

犯罪を裁くとき、原則は推定無罪であることが求められる。確実な証拠がない、あるいは不確実なとき、原則として被告の有利なように働きかけることになっている。自白に関しても、最近自白強要の実態があらわになっており、無批判に自白を採用することには、国民の間でも抵抗が出てきているのではないか。

今、元自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏の横領疑惑が問題になっている。この様な事件の情報は、我々市民にとってはマスコミからの一方的な情報に頼らざる負えず、その内容もだいたいは疑惑の当事者に不利な情報であり、多くの市民は疑惑の当事者を犯罪者と決めつけてしまう。今回の田母神氏を現時点で犯罪者と見ている人は少なくないのではないかと思う。

僕はこのようなニュースに対して、できるだけ否定的に見るようにしている。従って、警察・検察の主張を疑うことが多い。もちろん警察・検察が決定的な証拠を提出している時は別だが、大体は証拠もあいまいなものが多い。最近では強姦事件のDNA鑑定のずさんさにより、有罪判決が覆ることも存在する。DNA鑑定自体は非常に信頼性の高いものだが、それを扱う人間の方に問題があるのだ。

現在の日本は、国家が犯罪者を殺す権利を認められている。死刑制度に賛成か反対かと言う問題はここでは論じないが、ただ確実に言えることは、無実の人間が死刑判決を受けると言う実例が存在することである。袴田事件の袴田巌さんは数十年の時間が経った後、何とか無実が認められたが、無実でありながら国家に殺された人間がいることは想像に難くない。

検察は被告を疑ってかかるのが仕事だから、被告にとって不利な証拠を突きつけることは当たり前である。しかし一つ勘違いしていることがある。検察の仕事は被告を犯罪者に仕立て上げることではない。弁護側との対立姿勢によって裁判のバランスを取り、裁判官が正当な判決を下せる状況を作ることである。検察の目的が被告を犯罪者に仕立て上げることになると、無実の者でも犯罪者として仕立て上げてしまうことになる。この様な意識が自白強要にも結び付いているのだろう。

日本の市民は、推定無罪の意識が低い。しかし、裁判の当事者を含め、もっと推定無罪の原則を徹底しなければ、新たな冤罪犠牲者が出ることになるだろう。

選挙権18歳へ引き下げの意味

21日(月)の報道ステーションで、選挙権18歳への引き下げ、特に高校生が選挙権を持つことについて特集され、意見を交わされていた。番組では現役高校生へのインタビューもされ、意見をもつ高校生の貴重な発言が流されていた。

ここで特に問題にされていたのが、高校による生徒の政治活動に対する管理についてだ。どうやら多くの高校では、生徒が政治活動を行う場合に、学校への報告を義務付けるような校則が制定されるようだ。学校側の言い分は、生徒の安全を守るためと言うが、この生徒の安全を守るとはいったいどういうことだろう。そこまで気にすれば、24時間生徒を監視するしかないのではないかと思う。

選挙権を持つということは同時に、選挙活動の自由も与えられるということだ。自由な活動権がないと、自由な発言、自由な意思表示ができないことは容易に推測できる。学校側の政治活動管理は、生徒の政治行為・意志表示の制限である。

そもそも18歳に選挙権を与えると言うことは、18歳を大人として認めることである。その一方で、18歳の政治活動を管理すると言うのは、18歳を大人と認めないと言うことではないのか。

現在、若者の選挙投票率が著しく低下し、相対的に高齢者の選挙発言が非常に強くなっている。当然政治家は高齢者重視の政策を訴え、若者は犠牲になっている。高校社会科の授業などではもちろん政治についてもしっかり習うと思うが、今までは高校卒業してから選挙権を得るまでの2年間の間に政治意識が冷めてしまっているのではないかと感じる。そういう意味ではその2年間のブランクを無くすことで若者の政治意識を喚起するのは非常に意義あることだ。

この選挙権18歳への引き下げを意義あるものにするためにも、高校生の政治活動の自由は何が何でも死守しなければいけない。

過ちを犯した人間を全否定する日本の狂気

日本という国はどうも過ち・失敗を犯した者に対して寛容でない。過ちを犯した人間に対して、徹底的に潰しかかろうとする。

最近テレビでは、清原氏・ベッキー氏・そしてショーンK氏が社会の、マスコミのバッシングを受けている。清原氏に関しては法に触れる犯罪行為を犯し、批難されるのは致し方ないし、僕自身も清原氏のしたことに対しては許すべきではないと思うが、しかし清原氏のこれまでの業績を全否定するのは少し違うと思う。そしてベッキー氏、ショーンKに対してもほとんど全否定状態だ。ベッキー氏に関しては犯罪行為を起こした訳でもなんでもなく、個人的交友関係のもつれでしかない。もちろん印象は悪いだろう。しかしこれをきっかけにあることないこと全てほじくりだし、全否定しかかっているのは異常だ。

この三人に対する対応は日本社会を象徴しているものであり、一般の人に対しても日本では「失敗」と言うものに対して非常に厳しい。その結果、日本はどうなったかと言えば、無難な生き方をし、履歴に空白がない人間が好まれることになっている。失敗覚悟で難問に挑戦する人が非常に少ないのである。皆が平均的な事をそつなくこなす、そんな社会にブレークスルーが生まれるはずがない。

アメリカではむしろ失敗を経験した人間の方が好まれるらしい。失敗は挑戦の証である。100回失敗しても、101度目で成功すればいいのである。しかし日本では1回の失敗を長く引きずることになる。極端に言えば、アメリカでは失敗は善であり、日本では悪なのである。

今、日本政府は、一億総活躍という政策を掲げている。もし国民総活躍を目指すのなら、失敗を経験した人間の知恵を生かし、失敗しても何度でも挑戦しなおせる社会にしなければならない。