投稿者「木原 康明」のアーカイブ

企業の研究に、独創性はいらないのか?

タイトルをこのように書いたが、もちろん企業における研究でも独創的な研究はいくらでもある。しかし僕が最近感じているのは「独創的なテーマの選定」の必要性だ。

最近、大手企業をはじめ、AI研究所なるものが続々でき、AI研究に対して巨額の予算が投じられている。もちろんそれだけの予算が投じられる背景には、将来ビジネスとしてそれを上回る利益を回収できる見込みがあるからだろう。

企業は大原則として利益追求のためにあるのだから、儲かる研究に資金を投じるのは当然である。しかし大手企業が新しい独創的テーマを選定できないことに、多少危機感を覚える。それで次世代ビジネスの世界で戦っていけるのかと。

分野が違うと、意外と本質は見えないものなのかもしれない。しかし本質の中には分野を問わず共通基盤的なものもある。そのような共通基盤的な本質を把握することは、どのような対象を専攻するにあたっても必要だと思うのだが。

リスクを取らない人間に魅力はない。

人生とはリスクを取り続けることだと思っている。リスクを取ることを止めた時、人生は意味をなさなくなる。なぜなら人生の活力源はいつの時代でもリスクによってもたらされるからだ。

物事を前に進めようとするとき、最も手っ取り早いのはリスクを取ることである。しかしリスクを取ると言っても金銭的なリスクではない。人生のリスクである。とは言え、リスクという名の通り、リスクをとれば必ず成功するとは限らない。失敗の可能性もあり得るからリスクと言うのである。

安全地帯に居ながら利益だけを享受しようという考えももちろんある。それができれば最も効果が高いと一見感じる。しかしそれは、長い人生をトータルで考えると最も非生産的な考えである。

人生が上手くいけば、何も魅力的な人間になる必要はないのかもしれない。どのような生き方を選択するかは人それぞれだ。しかし、リスクを取るべきところでリスクを取って、人生に意味を持たせたいと考えてしまう。

批判を恐れてはいけない。

最近何かと批判・炎上が話題になるが、批判に対して過敏になりすぎている世論・メディアに疑問を感じる。

例えば、批判が100件あったと言ったら単純に多いようにも思えるが、日本人口を単純に1億人と考えれば100人はたった0.0001%に過ぎない。100万人でやっと1%なのである。もちろん批判的な人たちが皆、批判的行動を起こすとは限らないので何とも言えないが、メディアが十人・百人の批判に過敏になるのは行き過ぎだと思う。

一般論に変わるが、どんなことに対しても批判的な勢力は一定の割合で存在する。だから100%支持されようと考えるのはナンセンスだ。確かに批判の割合が多ければそれは考え直すべきなのかもしれないが、一つ一つの批判に対して過敏になる必要はない。

それに新しいこと、革新的な事を行う場合は、ある程度の批判は付きものだ。これらの批判を気にしすぎていては革新は生まれない。批判を覆すほどの結果を出せば、何も問題はないのである。

小保方晴子氏を知りたい。

雑誌で小保方晴子氏が書かれたコラムを読みながら、ふと思った。「小保方晴子氏を知りたい!」

なぜ小保方氏を知るべきなのか?それはいくつか理由がある。その中でも一番の理由は、小保方氏を知ることによって、生物学の研究の世界のあり方、常識が理解できるからだ。

小保方氏の生物学での足跡は、言うまでもなく悪しき足跡だ。本人に悪意があったか無かったかは僕には知る由はないが、悪意の有無に関わらず小保方氏の責任は重い。STAP騒動以降、小保方氏には暗い影が落ちている。その中でも一番の闇は、笹井氏を亡くしたことであろう。

小保方氏の実験ノートが公開されていたが、素人の僕から見てもひどいものであった。小保方氏の行った実験の在り方を反面教師として、生物学の実験とはどうあるべきなのかということが見えてくる。

同じ科学でも、物理学や数学の世界と生命科学の世界では全くしきたりが異なる。小保方氏を通して生命科学の世界を少しでも覗いてみたいと強く感じる。

不幸にも、科学は人間の役に立ってしまった。

このタイトルは書き間違いではない。“不幸”にも科学は人間の役に立ってしまったのである。

ある物事が人間の役に立つことは悪いことではない。ほとんどの人は、いかに人間の役に立てるかということを考えて物事に取り組んでいるのであろう。

ではなぜ、人間の役に立つことが不幸なのか?

現代において、科学はあまりにも人間の役に立ってしまったので、科学は人間の役に立てるものと誤解している人が多い。いや、ほとんどの人はそう思っているであろう。しかし、ニュートンが物理学を打ち立てたのは役に立てるためではないし、アインシュタインだってそうである。20世紀初めに、相対性理論を人間の役に立てるなどと言ったら、ほとんどの人は鼻で笑っていたであろう。

科学は人類の知見であり、人間のレベルを指し示すものと言ってもいいだろう。人間が人間らしく生きる知恵であり。極端に言えば人間そのものと言える。そのような思想の絶頂期はギリシャ時代であった。アリストテレスもアルキメデスも、人類の知見と思想を高めるために数学や科学の研究に打ち込んでいた。また、それがギリシャ時代の知識人の常識であった。

この様な考えは現代人にはとうてい受け入れられるものではないかもしれない。しかしそれはギリシャ人より現代人が進化した結果だとは言えない。むしろ思想的には大きく退化している。

確かに現代では科学的知識は大きく進歩した。しかし人間の本質的部分では、現代人がギリシャ人から学ぶところは決して少なくない。

目的とするところから逆算して取り組む。

勉強に取り組むとき、多くの人は基礎的な所から順番に積み上げていくという方法を取るであろう。そのやり方は全く間違ってはいない。そもそも基礎ができていないと先には進めない。基礎から順番に取り組んでいくのは、勉強段階では非常に効率的だと言える。

しかし実戦として取り組む、あるいは即戦力として求められている時、基礎から順番に取り組んでいくのは非効率である。まず最終目標となる所に当たり、何をすべきなのかを理解し、そこから逆算して取り組んでいくのが非常に有効的である。もちろんこの手法で取り組むときは、すでにある程度の基礎事項は習得していることが求められる。逆算して取り組むことによって、非効率な重複も避けることができる。

効率だけが全てではないが、効率を求められている時には逆算的手法が非常に威力を発揮するであろう。

先入観を排除せよ!

先入観とは、良く言えば“経験”であるが、悪く言えば“思い込み”である。経験をもとに先入観を構築していくことによって知識は体系化されていくが、壁にぶつかり飛躍が必要になった時には先入観を排除する必要がある。

物理学の歴史で言えば、一番大きな先入観の排除につながったのは、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時であろう。アインシュタインは、それまでの経験的常識であった“ガリレイの相対性原理”を否定することによって、既存の理論を大きく変えることになった。

20世紀の科学における二大発見は、“相対性理論”と“量子力学”である。しかしその成り立ちは大きく違う。量子力学が時間をかけて多くの研究者が構築していったのに対し、相対性理論はアインシュタインが突然世に出した。量子力学の成り立ちが“連続的”ならば、相対性理論は“断層”である。しかし双方に共通するのは、先入観の排除だと言えよう。

科学を例に取り上げたが、これらの教訓はあらゆることに対して言える。既存の事柄の継続を行うのなら先入観によって進めるのが手っ取り早いが、飛躍を望むのならば先入観を排除しなければならない。

一度染みついた先入観を排除するのは容易いことではないが、それを乗り越えた時、その先にはエキサイティングな世界が広がっている。

違う道を通らなければならない。

過去に多くの人を退けた難問に取り組むならば、過去に取り組んだ人間と同じ道を歩んではならない。同じ道を歩めば、同じ壁にぶつかることは分かっている。同じく壁にぶつかるならば、違う壁にぶつからなければならない。

一億円の懸賞金が懸けられた数学のミレニアム問題であったポアンカレ予想の解決への道筋は、まさしく良い例だ。ポアンカレ予想は長くトポロジー(位相幾何学)の問題だと考えられ、ほとんどの数学者はトポロジー的手法によってポアンカレ予想に取り組んでいた。しかしペレルマンは分野違いの微分幾何学的手法によって解決した。

学問でもビジネスでも、大きな問題に取り組むのは良いことだが、それよりも理想的なのは自分で問題を大きくすることだ。さらに言えば、自分で問題を発見するのが最高である。世間では問題を解くことだけがクローズアップされがちであるが、問題を見つけることはそれ以上に重要である。

理想がないと、実現はない。

理想論をバカにする人がいるが、理想論は非常に重要である。理想を掲げることによって、理想に一歩でも近付けるように努力できる。

では、理想はどのくらいの高さに設定するのが良いか?それは自分が最高に達成できるであろう高さ、あるいはそれよりも少し高い所に設定するのが良い。社会に対する理想は完璧を求めがちであるが、そこに穴を作っておくことも非常に重要だ。穴を作ることによって逃げ場を作る。逃げ場のない理想論は非常に危険である。

そして他人に対してはあまり理想を求めないほうが良い。もちろんある程度の理想を求めるのは良いが、ある程度の寛容さも必要である。

全てにおいて完璧な人間はいない。そして理想を求めることは、完璧を求めることとは違う。完璧でないことが理想でありうる場合もあるからだ。厳しさと寛容さを持ち合わせた理想主義者になることが理想なのかもしれない。

自然は驚くほど、整合性が取れている。

なぜ科学というものが存在するのか?それは自然が驚くほど整合性が取れているからである。もし自然が非常に無秩序で何の法則性もなければ、科学というものは存在しえない。

特に興味深いのが、数学と物理学の密接性である。物理理論は必ず数学的な形を取っており、数学的探究によって前に進んで行く。物理とは自然の一番根本に存在する理論であり、それは自然を追及すると必ず数学的な姿をまとっていると言える。

物理を追及することによって自然の理解を深めることができるが、それは自然が数学的整合性を保っているからである。アインシュタインが「なぜ人間は宇宙(自然)を理解できるかがわからない」と言ったそうだが、それは「自然はなぜ整合性が取れているのか?」という問いに言い換えられる。

物理学を創始したニュートンの一番偉大な発見は、「自然は整合性が取れている」と言うことができるかもしれない。ニュートン以来、科学者が行ってきたことは、自然の整合的法則の発見、整合的理論の構築だと言える。