投稿者「木原 康明」のアーカイブ

大学の過度なキャリア教育について。

2016年3月卒の大卒者の一年後の離職率は11.3%であるという。これが高いのか低いのかは別として、就活における現在の「キャリア教育」というものには違和感を感じる。

キャリア教育によって、自分はどんな職業が向いているのか?そしてどのようなキャリアを構築していくのか?ということをディスカッションによって発見したり、またデータを機械分析して判断していく。しかし、キャリア教育によって自分の進路判断を狭めたり、可能性を狭めたりしていないかと僕は杞憂している。

もちろんキャリア教育によって適切な進路を発見・助言してもらうという利点はあるので、一概に悪いものであるとはいえない。しかし現在のキャリア教育は行きすぎな感がする。

キャリアとは働き出す前に構築するものではなく、社会に出て徐々に構築していくものである。現在の大学等でのキャリア教育は、キャリア概念の固定化を招くものではないかと感じる。

最後に、人生とは予想外の出来事の積み重ねであると言っても過言ではない。そんな中、レールの上に固定され、行き先が一つだけに定められている状況、しかもそれを自分ではなく周りの人間に定められるのは、人生を自己表現の一つと考える時、それは少し違うのではないかと思う。

横一線ではいけない!

平等とは言い換えると、横一線ということである。最近は何でも横一線にしようという力が働く。しかし人間にはそれぞれ個性があり、多様性があるからには、横一線に並べるということは平等にしているようであって平等ではない。

「機会は平等に与えるが結果は平等ではない」ということは以前から言われているが、機会、すなわちチャンスの与え方もそれぞれに合った最適な形で与えるべきである。悪しき平等意識が逆にそれぞれの人の芽を摘んでしまうことになりかねない。

特に日本においては、長く続いた総中流社会のせいか、横一線意識が強い。その一方、多様化に対する対応は大きく後れを取っている。みんなと同じことをしないと不安になる人も多いだろう。しかし今必要なのは、みんなと違うことをしようという意識を持つこと、そして社会が脱横一線の意識を持つことである。

物は同一商品大量生産型から、小生産多品種型へと変わってきた。これは何も物だけではない。人間も皆同じではなく、それぞれが他とは違う独自性、オリジナリティを発揮することが、現代社会を生き抜いていくのには必須である。

個性は内面から出すべきだ。

多様化した現代では、画一性よりも個性が重要視されつつある。ただ個性と言っても様々あり、だからこそどのような側面から個性を出すのかは工夫のしどころである。

個性を大きく二つに分けると、外見の個性と内面の個性に分けられる。外見とは身だしなみや服装、身体の外見である。内面は性格、思想、生き方である。

では外見と内面のどちらから個性を出すべきか?僕は外見にも気を遣いつつ、内面からアピールすべきだと思う。外見は他人に大きく印象付けられる。だから個性というよりどう印象付けるかということを意識すべきだ。

例えば大人の基本的な服装であるスーツは、きっちりと着こなせば好印象を与えることができるが、スーツのディティールにはかなり制約があり、奇抜な個性とは対照的な位置にある。その制約下でいかに整えるか、そこがスーツの深くて面白いところでもある。

外見を整えれば、後は内面の独自性を思いっきり出していこう。当たり前の話であるが、内面はその人の人間そのものである。だから個性は内面から出さなければならない。

とは言え、内面は意外と外面にも表れるものである。仕草一つとっても内面がそのまま外面に表れている。

内面の個性と内面から醸し出される外見。その二つを主張できれば社会の中で“人間”としての存在感を主張でき、一目置かれる存在になるだろう。

“ナンバー1”という名のオンリー1。

「ナンバー1でなくてもオンリー1でいい」ということを歌った歌があるように、最近はオンリー1を目指す人は多い。もちろん周りと同じことをして埋もれるよりかは自分だけのオンリー1を持った方が断然良い。オンリー1になることは非常に大事なことである。しかし、オンリー1が注目を浴びる中、ナンバー1の価値が見過ごされているように感じる。

オンリー1はナンバー1ではないが、ナンバー1はオンリー1でもある。ナンバー1を目指してオンリー1になるということが現在の社会に欠けているのではないだろうか。

オンリー1を突き詰めれば、それはナンバー1にもつながってくる。ナンバー1を目指すということは、人と同じことをして競争することではない。手段は自分独自のものでなければならない。

ナンバー1なんてなれないと初めからあきらめる人も多いが、「我こそは絶対にナンバー1になるぞ!」と名乗りをあげるような頼もしい人がどんどん出て来てほしいものである。

歴史から何を学ぶ?

よく「歴史から学ぶ」という言葉が使われる。歴史を学ぶ理由はいろいろあると思うが、過去の歴史を教訓として現在の状況を考えるというのも一つの理由であろう。とは言え、過去の歴史がそのまま現代に当てはめられるわけではない。

織田信長は現代においても注目の人物であるが、彼はご存じのとおり何万という人間を殺りくしてきた。だからと言って彼を殺人者呼ばわりする人は少ない。それは過去と現代、あるいは歴史と現実を区別して物事を考えているからだろう。

歴史をそのまま捉えるのではなく、現代にマッチするように解釈をアレンジすることが大事だ。歴史からどれだけの事を学べるか?それには深い考察と時代解釈が要求される。

世の中の動きの当事者と、経済の解析屋。

当たり前の事であるが、世の中を動かしているのはビジネスなどのプレイヤーであって、決して解析屋ではない。解析屋とは経済学者や評論家のことである。

解析屋の言うことをまともに受けてはならない。なぜなら当事者でない彼らには責任が全くかかっていないからだ。責任がないから好きな事、言いたいことを何でも言える。その結果、それが間違っていても彼らはそれが無かったかのように次にまた言いたいことを言うだけだ。

では当事者はどうだろう。彼らが判断を誤れば、即刻自分の立場が危うくなる。従って行動や発言も慎重に慎重を重ねるだろう。その結果、当事者の発言や行動は、解析屋の発言よりも圧倒的に信頼がおける。

科学の分野では科学者が当事者であるが、経済、あるいは文学の分野では当事者は経済学者・文学者ではなく、経営者・小説家である。従ってこれらの分野では、学校で習うことは現実社会ではほとんど役に立たない。実践を積み重ねることによって才覚を磨いていくしかない。

考えるより即行動。世の中は動いてナンボの世界である。

バカな生き方が面白い!

多くの人は、賢い生き方をしたいと思っているのかもしれない。しかし僕は賢い生き方などはしたくないと思っている。常にバカでいられるか?バカを突き通せるか?そんなことを思っている。

賢い生き方は無難かもしれないが、バカな生き方の方が断然面白い。賢い生き方は「賢いね」で終わるが、バカな生き方は笑いが取れる。笑いを取ることにどれだけ意味があるかはわからないが、僕はそっちの方に生きがいと面白さを感じる。

人間らしいバカでいられるかどうか?自分が人間である以上は、そんなことを考えバカな生き方を貫いていきたい。

苦しんでいる人が偉いわけではないけれど。

好きなことを貫いて実行するということは、楽しいことであり、その一方非常に根気のいる苦しいことでもある。好きなことをやっている限り決して言い訳できないし、逃げる道もない。全責任は自分にある。

苦しんでいる人が偉いわけでは決してないが、苦しい状況にいる自分に対して何か解釈を見つけようとしてしまう。本当は楽しく思い切ってぶち当たりたいが、実際は苦しく思い切ってぶち当たるというところだ。

問題は、楽しいか、苦しいか、ということではなく、取り組んでいることの中身とそれに対するアウトプットだ。

苦しければやめてしまえばいい。他人にはそう言える。苦しまずに楽しく生きれば一番いい。しかし苦しさの中にも何か生きがいを見出すことがある。他人から押し付けられる苦しさは避けたいが、自分から進んで飛び込んだ中にある苦しさはドンとこい!

とは言え、やはり限界があるので、早く次のステージに進まなければならない。

人間は考える葦である。

「人間は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉であるが、広大な宇宙の中の小さな人間の存在を考えるとき、全くその通りで上手く言い表しているなと感じる。

現代の物理学では、マクロに宇宙を見通し、ミクロに原子よりはるかに小さいスケールを見通している。「見る」と言えば望遠鏡で宇宙のかなたを観測することを想像するかもしれない。あるいは顕微鏡で小さな世界を覗くことを想像するかもしれない。

しかし「見る」とは何も目で観測することだけを意味するのではない。理論的に理解することも、それらの世界を見ていることになる。その際に望遠鏡や顕微鏡に相当するのが数式である。数式は世界を理解する道具としては万能である。人間は宇宙の大きさに比べれば米粒より何十桁も小さな存在であるが、机上の計算によって宇宙を包み込んである。

人間は宇宙スケールの物理を理解し、ミクロの世界の物理も理解しているが、それらの二つのスケールの物理の融合(量子重力理論)はまだ成し遂げられてはいない。

人間の理解には限界はあるのか?それとも宇宙の全てを理解してしまうのか?人間が手にした道具(数式)の威力は非常に強力であり、少なくとも理論的には理解できる可能性を大きく秘めていると感じる。

セルフコントロール。

自分をコントロールするのは半分は自分であるが、半分は周りの環境である。自分の人生を自分の目標とするところへ導くためには、できる限り自分で自分をコントロールしなければならない。

自分の人生を特徴づけるもの、言い方を変えると“個性”と言えるかもしれないが、それらを彩るためには自己思想を構築しなければならない。そのためには外的要因を可能な限りなくすことが重要である。

自分で自分を完全に操るということは、意外に難しいものである。しかしセルフコントロールを完全に実行するということは、自分の人生をものにするということを意味する。

周りに影響され長い物に巻かれるか?それとも自分を完全にコントロールし周りを巻くか?そのどちらを選ぶかはそれぞれのスタンスにもよるが、生産的な人生を構築するためにはどちらを取るべきか?それは言うまでもない。