投稿者「木原 康明」のアーカイブ

批判されてナンボ

最近、世の中全体が批判の恐怖におびえているように思う。有名人のネット炎上から、一般市民の周りからのバッシング。そんな僕も一時期批判されることに臆病になっていたことがあった。

しかし、ネットが発達したコミュニケーション社会では、むしろ、誰にも非難されないことの方が珍しいのかもしれない。もし誰にも何も批判されないのならば、それは自分が何もやっていない証拠、あるいは何も行動を起こしていない証拠。批判されないことはむしろ恥ずべきことなのかもしれな。

批判されることが普通であると考えれば、少しは気分が楽になるのかもしれない。しかし間違った批判・誤解には誠心誠意対応しなければならない。しかし低レベルな批判まで対応する必要はない。相手が対応すべき誠実な人か、論理が通じる人かを見分けなければならない。

いっその事、批判大歓迎・バッシング大歓迎くらいの割り切った気持ちを持つことができればいいが、自分を含めてそこまで心が広い人はなかなかいない。心が広くない自分が恥ずかしい。しかし、批判されることが普通で、誰からも批判されないことなどまずないと心に銘ずることは、生きていくうえで大事なことだ。

「批判されてナンボ」これくらいの気持ちで生きていけば、オリンピックに出ても動揺しないような?強い心を持てる(かもしれない)。

オリンピックもいよいよ終盤に。頑張れニッポン

リオデジャネイロオリンピックもいよいよ終盤戦に入ってきた。連日、日本人のメダル獲得に、日本中が沸いている。特に柔道では男子の全階級でメダルを獲得するという快挙に盛り上がった。

男子柔道の全日本の監督と言えば、井上康生監督だ。井上康生監督の指導手腕は僕には判断できないが、今回のオリンピックでしっかり成果を挙げたという事実が、井上監督が名監督であることを証明している。

井上康生の現役時代と言えば、勝つこと以上に「一本」にこだわった非常に男気のあるスタイルが有名だった。勝負である以上、勝つことが最高の価値を持つと言えるが、しかし井上康生の一本という勝ち方に対するこだわりは勝つこと以上の価値を持っているのではないかと僕は思う。

確かに井上康生の現役時代は、一本にこだわるが故、それがあだとなって負けることもあった。しかし井上康生の一本には金メダル以上の輝きがある。もちろん最高は一本を貫き優勝することだ。

どのような分野でも、柔道で言う一本にこだわる姿勢は、選ばれし者しか持てない。なぜならそのような勝ち方・姿勢にこだわるためには、すでに世界一であることが前提条件になるからだ。井上康生も例外なく世界一だった。

オリンピックで優勝する選手は超一流だが、その勝ち方・姿勢にこだわって勝つ選手は超超超一流である。

この後には、金メダル大大大本命の吉田沙保里選手も登場する。吉田選手が既定路線通り金を取るのか、大波乱が起きるのか。勝つものと思っているが、負けて話題になるのは大物の証拠である。そういえば、先日亡くなった千代の富士関も負けが話題になる大横綱だった。

あと数日、日本人選手の活躍を応援しよう!

結論ありきではなく、真理を追究する裁判を。女児焼死裁判再審無罪で。

8月10日、1995年に起きた小学6年女児焼死事件で無期懲役とされた母親ら二人の再審審理が行われ、無罪が言い渡され、検察は控訴を断念し、二人の無罪が確定した。

冤罪事件については、袴田事件の袴田巌さんの件など僕のブログでも数回取り上げたが、今回再び警察・検察の強引な自白誘導事例が明らかになった。検察側は完全に疑義が取り払われたわけでないと謝罪を拒んでいるようだが、このようなことから警察・検察の歪んだ体質が読み取れる。

確かに100%有罪を立件するのは簡単ではない。しかしそれ以上に一度立件された被告の無実を証明するのは難しい。というよりほぼ不可能に近い。検察側にすれば、一度立件すれば、必ず有罪判決を得なければならないという使命感があるようだ。しかし本当にそのようなことを国民は望んでいるのだろうか?国民・市民が本当に望んでいるのは、事件が事実なら罪を裁き、事実でないならば潔白を証明することだ。つまり裁判は真理を追究しなければならない。

もちろん、検察は有罪につながる証拠を血眼になって立証するのが使命だ。しかし証拠もなく、事実でない自白をでっち上げることが間違っていることはだれの目から見てもわかる。

裁判では可能性が焦点になる。黒に近いか、それとも白に近いか。しかし事実は完全な黒か、完全な白しか存在しないのである。もちろん法に触れるか触れないかというグレーゾーンも存在しないことはないが、少なくとも殺人事件でグレーは存在しない。

とは言え、裁判を進める裁判官・検察・弁護士らは事件の当事者ではないので、どうしても可能性を考慮しての判決になってしまう。しかしあくまでも原則は推定無罪である。しかし実態は推定有罪になることも非常に多い。今回の女児焼死事件もその最たるものだ。

以前のブログでも述べたが、事件に巻き込まれる社会は恐いが、無実の人間が突然犯罪者に仕立て上げられる社会はそれ以上に恐ろしい。

この様な冤罪を一刻も早く撲滅するためにも、取り調べの可視化、そして推定無罪の原則を徹底的に進めてほしい。

憲法改正、賛成か反対か、論理的・理性的に考えよう

昨晩、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」で、改憲についての是非が討論されていた。真夜中の番組とあって、僕は数十分しか見なかったが、今日本国民は憲法について真剣に考える時ではないかと思う。

国会で衆参両院で改憲勢力が改憲可能な三分の二を超え、改憲の是非を問う国民投票が現実的になった。ある意味、改憲勢力がここまで勢力を伸ばすことを許した国民の総意ともとれる。とは言え、改憲に対して非常に抵抗がある国民も多いことは間違いない。

現時点で改憲に賛成と決めている人、反対と決めている人、まだ決めかねている人、それぞれいると思うが、もしかしたら自分の感情や思い込みだけで決めてはいないだろうか?例えば、賛成の人は「現憲法は敗戦後にアメリカ駐留軍が勝手に作ったものだからけしからん」とか、反対の人は「改憲すれば、戦前の軍国主義に戻り、再び戦争を起こしてしまう」というふうにだ。

僕も以前は自分の中でどちらかに決めていたが、冷静に理性的に考えるとそんなに単純な問題でないと思い、現在は賛成・反対を決めかねている。一国民として正しい判断をするために、それぞれ最低限のことは勉強しなければいけない。

僕は法律の専門家でないので厳密な議論はできないが、しかし専門家ではないからと言って考えることを放棄していいわけではない。

今一度「論理的・理性的」に憲法改正について考え直してみよう。

勝負の世界では、ただ一人の勝者のみが全てをつかみ取るべきだ

間もなく、リオデジャネイロオリンピックが始まる。われわれ一般人にとってはスポーツの祭典であり、テレビで楽しむくらいだが、出場するアスリートにとっては4年に一度の大舞台であり、最大・最高の勝負の舞台である。

オリンピックには上位3人にメダルが授与される。2位や3位に入って銀メダル・銅メダルを獲得して喜んでいる選手も多い。もちろん2位も3位もすごいことなのかもしれない。しかし僕はその喜びに違和感を感じる。なぜなら、勝者は1位のみだと思っているからである。2位は敗者なのである。そして勝者のみが全てを手に入れるべきなのである。銀メダルを取って喜んでいるうちは(もちろん非常にレベルの高い選手であることはわかるが)そのレベルの選手なのだということである。本当に勝ちを狙っている選手は、2位では絶対に喜ばないはずだ。

分野は変わるが、物理や数学などの学問の世界は勝負の世界ではないのかもしれない。それに単純に1位2位を付けられない。(もちろん、学校のテストの点数などのような次元の話をしているわけではない。)しかし、僕は学問の世界でも世界一の成果を出すことが重要だと考えている。あえて物理や数学の世界も勝負の世界だと考えている。だから学問の世界でも勝者のみが全てをつかみ取るべきだ。

学問の世界を含めて、オンリーワンであることが大切だと言われることが多い。しかしオンリーワンであることなどは当たり前のことであって、わざわざオンリーワンであることを強調するほどのことではない。ナンバー1はオンリー1でもある。しかしオンリー1は必ずしもナンバー1ではない。だから、ナンバー1を目指すべきなのである。ナンバー1になれば、オンリー1は必然的についてくる。

僕は現在は、数理物理の世界でも完全に敗者の方にいる。立ち位置としては底辺にいるといってよい。しかし、僕が目指しているのは学問の世界で食っていくことではない。ナンバー1の成果を出すことである。だから、まだ全然結果の出していない現在は、何一つ要求することはない。今は無でもいい。しかしナンバー1の結果を出すことに成功すれば、すべてをつかみ取ろうと思っている。

もちろん、何かを取るために研究しているのではない。数理物理の研究は生きがいであり、ライフワーク、人生におけるミッションである。そして、解決を目指しているテーマも、明確に定めている。しかし人生をかけて取り組むからには、絶対にナンバー1になるというくらいの覚悟は必要だ。

勝者は一人だけなのである。間もなく始まるオリンピックの選手も2位ではなく、「勝つ」ことを目指してほしい。

日本にとって忘れられない、71年前の8月。いかに核兵器廃絶の道を作っていくか。

今年もいよいよ夏本番、8月に入った。8月と言えば、日本では終戦関連の行事がたて続く。6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、15日の終戦だ。唯一の被爆国としての世界平和に対する日本の役割は重要だ。

今年の5月には、オバマ氏が現職の大統領として初めて広島を訪問した。その心には何としても核兵器を廃絶したいという思いがあったに違いない。しかし、核兵器廃絶はアメリカだけが行えばいいというものではない。アメリカ単独の核兵器廃絶は世界のパワーバランスを大きく乱し、さらに危険な状況に陥ると考えることは容易だ。和平を保ちながら廃絶するには、世界同時に徐々に廃絶に向かっていくしか方法はない。一昔ならその主な対象はアメリカ・ソ連(ロシア)であったが、いま一番問題なのは中国であることは間違いない。中国の覇権主義をどう牽制し、どのように世界の和平を保ちながら軍縮に進むか、世界が抱えるこれからの課題だ。

一部の近隣諸国を省いて、日本が放つ反核兵器メッセージはインパクトのあるものである。日本には委縮せずに核兵器廃絶を訴えることが求められている。そしてこの役割をリードするのは、世界でも日本にしかできない。

とは言え、先ほど書いたように、単に何も考えずに核兵器廃絶・軍縮を行えばいいというものではない。これらの作業は非常に慎重・繊細かつ計算が必要な困難な作業である。

自国から軍(日本なら自衛隊)を無くせば平和になるという、単純平和主義者がいる。先日の都知事選の主要候補者にもそのような人がいた。それらの人は、自衛隊機がどれくらいスクランブル発進(緊急発進)をしているか把握しているのだろうか?平成26年の自衛隊機のスクランブル発進の回数は、943回である(統合幕僚監部・報道発表資料による)。その内訳は、中国とロシアに対するものが半々、すなわちこの二国は毎日隙あらば日本を狙おうとしているのである。自衛隊は他国が攻撃してきたときに守るためだけにあるのではない。その存在だけでも大きな抑止力になっているのである。さらにこれらのスクランブル発進などによる抜け目ない警戒活動によって日本は守られている。しかし残念ながら、このような実態を認識していない日本人も多いらしく、自衛隊の存在意義が正確に認識されていない。

改めて日本の8月の話に戻るが、8月は日本人にとって戦争というものに対して再考する時期である。将来は核兵器は世界から廃絶しなければならない。少なくとも理想論としてはそうあるべきである。原爆投下から71年経ち、広島・長崎での惨劇の記憶が遠くなる中で、オバマ氏が広島を訪問してくれたことは、非常に感謝しなければいけない。これをきっかけに、日本一国だけの核廃絶論ではなく、日米二国を起点として、世界全体に核兵器廃絶の風を巻き起こさなければいけない。

魂が宿る本を読め

普段、地下鉄に乗ることが多く、だいたい地下鉄の中で約30分間、本を読んでいる。今日は、マルクス・アウレーリウスの「自省録」を読んでいた。神谷美恵子さんが訳した岩波文庫版である。

マルクス・アウレーリウスはローマ帝国時代の皇帝であり、哲学者でもある。もちろん遠い過去に亡くなっている。しかし、自省録を読んでいると、マルクス・アウレーリウスが目の前に生きているような錯覚に陥る。なぜそのように感じるのかというと、この自省録という300ページばかりの紙の本の中に、マルクス・アウレーリウスという人物の魂が所狭しと宿っているからだと思う。僕はマルクス・アウレーリウスの肉体ではなく、魂を感じて、その人物となりを感じていたのである。

概して名著と言われる書物には、著者の魂が宿っている。魂が宿っている本を見つけるのは簡単ではないかもしれないが、もしわからなければ岩波文庫を選べばいい。岩波文庫には、過去の名著と言われた古典本がずらりとそろっている。岩波文庫であれば、まずはずれはない。

それから、たくさんの本を速読するより、魂の宿る良本をじっくりと繰り返し読む方がいいと僕は思っている。僕が最近繰り返し読んだ本と言えば、これも岩波文庫であるが、新渡戸稲造の「武士道」である。この本は薄い本であるが、非常に深くて濃い本である。新渡戸稲造と言えば、前の五千円札に描かれた人物として有名だが、非常に志高き思想家・教育家である。

ちなみに、武士道の原著は「BUSHIDO  THE SOUL OF JAPAN」という英文で書かれた本である。新渡戸はアメリカで日本の精神を伝えるためにこの本を書かれた。つまり、日本語版「武士道」は英文からの翻訳本である。

岩波書店は非常に保守的な出版社で、最新の革命的な本が出ることはほぼないが、古典的名著に関しては右に出るものはいない。今一度「魂の宿る本」を繰り返し読むことの重要性を主張したい。

iPS細胞臨床実用への先駆者、理化学研究所・高橋政代先生

最近、非常に気になる一人の科学者がいる。理化学研究所・多細胞システム形成研究センターの高橋政代先生だ。彼女はノーベル医学・生理学賞を受賞された山中伸弥教授が発見したiPS細胞を初めて臨床に応用した、眼科を専門とする医学者だ。

山中先生がiPS細胞を発見された時は、その成果は基礎科学の成果としての意味合いが近かった。しかしその後、iPS細胞の研究は基礎から臨床などの応用へ軸足を移しつつ、すそ野は非常に広がっていった。僕は医学の専門ではないのでその世界のことは詳しくはわからないが、医学の基礎研究を応用して臨床までもっていくには、研究的にも金銭的にも非常に膨大な労力が必要で、非常に困難な道のりであるらしいということは、いろいろな情報から聞こえてくる。

2014年、高橋政代先生は、眼の網膜に関連する「加齢黄斑変性」という病気の治療にiPS細胞から作った組織を移植し、世界で初めてiPS細胞の臨床に成功した。その成功はiPS研究の応用の到達点ではなく、スタートである。この高橋先生の臨床の成否はこれからの全てのiPS細胞の臨床の行方を左右するものであり、高橋先生へのプレッシャーも並大抵なものではなかったようだ。

そして何より忘れてはならないことは、iPSは「日本発」の研究・技術であること。山中先生が発見されたiPS細胞の研究を、世界で初めて「日本」で臨床に成功したことは、日本の医療研究・臨床、そして産業にとって非常に大きな意味がある。

ところで、高橋政代先生の旦那さんも京都大学iPS細胞研究所で教授をされている医学者である。夫婦そろって日本の、いや世界のiPS細胞研究をリードされているのであろう。

医学者と言えば機械的に患者と接しているというイメージを持つ人もいるかもしれないが、ある記事によると高橋政代先生は非常に感情的な方で、自分の研究のことを話すときに患者さんのことを思い出し、途中で涙を流すこともあるそうだ。そういえば山中伸弥先生も非常に患者想いの研究者である。このような人間味豊かな研究者が、基礎研究を本当に役に立つ臨床応用へと発展させているのかもしれない。

僕は度々、科学というものに対して、役に立つかどうかという物差しだけではなく、「科学的価値」というもので評価することが大事だと繰り返し述べてきた。しかし高橋先生、山中先生のような人間の命さえも救ってしまう「究極に役に立つ科学」には、底知れぬ価値を感じてしまう。

これからのiPS研究の臨床の成功を祈るばかりである。

普通の人の生活向上も大切だが、はたして創造的異端者が暴れまわれる環境は日本にあるのだろうか

最近、政治家たちがこぞって「普通の人がより良い生活をできるような社会にする」ということを叫んでいる。もちろんそれはもっともな話であり、国民の大部分が普通の人である限り、それを政策の目玉にするのはもっともなことである。

しかし、日本では昔から「出る杭は打たれる」という格言があるように、異端者に対する風当たりが厳しい。もちろんそれで結果が出た後はまだ良いが、結果が出るまでの過程上は非常に厳しいものがある。

日本は異端者、特に「創造的異端者」をあまりにも冷遇しすぎているのではないか。創造的異端者には限りない可能性が秘められている。しかし判断が難しいのは、異端者が本当に結果を出せるところまでいけるのかということ。普通でない限り、普通の人と同じようにコンスタントに結果が出せるとは限らない。

アメリカでは、多くの人が「いかに出る杭になるか」ということを考えているらしい。しかし日本では「いかに目立たずに無難に過ごすか」ということが美化されている節がある。この様な風潮の中で、異端者が暴れまくるのは物理的にも精神的にも苦しいものがある。

しかしそれでも多くの異端者は暴れることをあきらめようとしないだろう。なぜならそれが異端者であるが所以だからである。

現在の発展した社会は、多くの普通の人の地道な努力と、「異端者の爆発的飛躍」によって築き上げられてきた。そして現在、中国・インドなど新興国が猛烈な勢いで発展してきている。その一方、超大国アメリカはなんだかんだと言われながらもあらゆる分野で世界ナンバー1を維持している。

では日本はどうだろうか。最近はどうも芳しい話はあまり聞かない。いかに発展するかということより、いかに後退を防ぐかということに力がそそがれているように感じる。この様なときにこそ、創造的異端者の爆発力が求められているのではないだろうか。

異端者が異端であり続けられる国にすることこそ、これからの日本の飛躍の原動力になるのではないだろうか。

最高の技術と、最高の人格

つい先日、イチロー選手が日米通算4257安打を記録し、ピート・ローズのもつ世界記録を超えたことは記憶に新しい。イチローは言わずと知れた「世界最高の技術を持ったヒットメーカー」だ。それと同時にイチローは人格者としても知れ渡っている。

今回、イチローが世界記録を樹立した際、元記録保持者のピート・ローズ氏が全く認めなかったことを、大人げないという人は多い。とは言え、別にピート・ローズ氏の人格が低いわけではない。ピート・ローズ氏の反応の方が普通なのだと言える。

しかし、ピート・ローズ氏とは比べ物にならない「最低の人格」と言われた偉大な大リーガーが20世紀初頭に存在した。野球好きなら一度は聞いたことのある名前かもしれない。「球聖」タイ・カッブだ。彼の通算安打数は現在ではイチロー、ピートに次ぐ三位だ。彼は間違いなく最高の野球選手であった。しかし彼の悪行は有名で、野手の顔に目がけてスライディングしていたことは有名だ。まさしく「最高の技術と、最低の人格」を持った人物だ。

イチローが、最高の技術と同時に、「最高の人格」を持っていることは、同じ日本人として誇らしい。まさしく、日本を象徴する人物だと言ってもいいだろう。それから野球に対するストイックな姿勢もイチローの大きな魅力だ。

人間の寿命は有限である。その短い人生の中でどのように自分を表現するか、すなわち「いかにして生きるべきか」という問いを全ての人は持つべきだと思う。おそらくイチローもそのような問いに常に向き合っているのだと思う。

イチローは記録を樹立した時、「ジーターのような人格者に記録を抜いてもらえればうれしい」と語った。このことからも、人間としてどのようにふるまうかということを重要視していることがわかる。

「最高の技術と、最高の人格」を持つためにどうすればいいのか。今の僕には遠い言葉かもしれないが、一歩でもその言葉に近づくために、常に人生に対して問い続けなければならない。