投稿者「木原 康明」のアーカイブ

デジタルとアナログ。

現在の世の中はデジタルなシステムで溢れており、これからもますますデジタル化が進むものだと思われる。では、アナログは不要なものになってしまうのか?僕はそうは全く思えない。

デジタルとアナログの対比として、スマホと紙が挙げられる。最近のスマホは非常に高度なシステムになって来ており、身の回りの簡単な事はだいたいスマホで代用することができる。英語がわからなくてもスマホアプリで瞬時に翻訳できるし、最近はスマホを通じてAIと会話もできるらしい。しかし、一つ間違ってはいけないことがある。スマホでいろいろな事ができるが、何でもできるわけではない。これからもスマホにはできないことがどんどん出て来るであろう。

そして非常に原始的な事であるが、スマホにできなくて紙にしかできないことがある。例えば一冊の本を読むだけならば電子書籍の方が圧倒的に便利だが、研究で専門書を活用しようと思えば紙の本の方が圧倒的に効率的であることもある。そして何よりも、紙に字を書くと言う行為は非常に重要である。もちろん今ではタブレット端末にデジタルペンで書き込むと言うことは容易にできるが、まだまだ万年筆で紙に書き込むと言う行為には及ばない。僕もこれからデジタル機器を存分に活用して行こうと思っているが、そうすればするほどアナログの長所が見えてくるものだと予想している。

これからの時代を生き抜くためには、次の二つのどちらかを徹底する方が良いと思っている。一つはデジタルで出来ることはデジタルを十分に活用するが、アナログでしかできないことはその長所を徹底的に活用する。もう一つは完全にデジタルで武装する。スマホを使って適度にアナログも取り入れると言う中途半端な意識が一番危険なように思える。なぜならば、それだとデジタルの進化に取り残され、アナログでも戦えないからだ。僕はこれからアナログもデジタルも徹底的に活用して武器にしようと思っている。なのでアナログを捨てることはまずない。紙を常に持ち歩き、万年筆を武器にする。それは研究でも人付き合いでも同じだ。しかしデジタル化の効果の方が大きいと判断すれば、即座にデジタルを取り入れるつもりである。

デジタルか?アナログか?と考えた時、単に便利かどうかと言う視点だけで判断するのは危険だ。セキュリティ面での対策も考えなければならないし、数値化されにくい大局的な効果も総合的に考えなければならない。そして人の心がどう動くかと言うことも考えなければならない。そのような事を考えた時、意外とアナログの効果は大きいものである。つまり、視野を広く張り巡らすことが重要になる。なのでテストの点数ばかりにこだわる盲目的な人間にだけはなってはならない。

意味がないと言うことを見出すことも大事だ。

全ての事に意味があると言う人もいるが、現実には全ての事に意味があるわけではない。あることに意味を見出すことは非常に重要だが、意味のないことに対して意味を見出そうとしても完全に無駄である。そのような事に対しては、意味がないと素早くジャッジすることが重要になる。意味がないと見出すこと自体が、意味があると言える。

それは学問に対しても言える。全ての事に対して意味を見出そうとするとどういうことが起きるのか?重要な事も重要でないことも同列に扱おうとしてしまうのである。そしてそれは物事の本質を見抜けていないことを意味する。本質を見抜くための第一段階は、それに意味があるかどうかを判断することであると言える。

ただ、何のカテゴリーで判断するかによって意味があるかないかと言うことが変わってくることがある。僕たちの普段の何気ない行動やちょっとした好みに関してはそんなに意味があるようには思えない。しかしそれが何十万人の統計となると、ビッグデータとして非常に重要な意味を持つ事になる。現代社会においてはビッグデータが非常に重要になって来ており、それらのビッグデータはビジネス的にも多額のお金によって取引されている。過去に意味がないと思われたことが、現代では非常に大きな意味を持っているのである。

意味がないことを素早くジャッジすることによって、本当に意味のあることに労力を割くことができる。全てに意味を見出そうとすると、本質を見失ってしまうことになる。しかし一見意味のないような事に物事の本質が潜んでいることがある。そのような本質を見抜くためにも、表面の裏にある多様体を探っていかなければならない。

哲学が知とは思えない。

哲学は知を愛する学問だと言われている。僕も以前はそう思っていた。しかし今は全くそうは思えない。僕は哲学とは「人間の意志だ」と考えている。「いかにして生きるべきか?」と言うことを考え追究していく。それによって人間の意志と言うものが作り上げられていく。

しかし学問的哲学は全くおかしな道を迷走している。それは意志である哲学を知だと勘違いしていることにあると僕は考えている。もし「本質的な知とは何か?」と言うことを考えるのならば、それは哲学ではなく科学・数学だと僕は思っている。科学・数学は人間の圧倒的な知である。哲学などはその足元にも及ばない。そして科学・数学と哲学の決定的な違いは、それを検証できるか否かと言うことである。科学はどんなに立派に作られていても、それが実験や観測に合わなければ正しいとは認められない。数学ならば厳密な証明がなされているかどうかだ。しかしほとんどの哲学は証明も実証もされないまま継ぎ足されていく。だから間違った方向へと進んでいても、それを誰もが気付かずに無批判に進んで行くことになる。哲学は批判が大事だと言われているが、はっきり言ってその批判さえも甚だおかしく、おかしい批判の連鎖になるだけである。

学問的哲学がなぜほとんど世の中の役に立たないかと言えば、その根源は正しいかどうかを検証できないからであろう。科学ならば一歩一歩実証され、そしてそれを基に次の段階へと進んで行く。確かに実証待ちの科学理論も存在する。例えば物理学の超弦理論などがその代表だと言える。実証がされないまま突き進んで行く様は、哲学のそれとよく似ている。しかし数学的論理的に進んでいることはほぼ間違いないので、哲学と超弦理論を同じように扱うことはできない。

知とは意志によって論理を築き上げて行くことであると僕は考えている。そしてそれを次々に実証していく。しかし哲学はそれを満たさないまま突き進んでいるだけのように思える。何がおかしいかと言えば、哲学的意志を理論に結び付けるときに、そこに明らかに詭弁としか思えないような論理が介在していることである。そのような論理が果たして知だと言えるだろうか?ただ単に論理的であればそれは知なのか?決してそうではない。やはり知の本質を追究するにあたっては、科学と数学を避けては通れないはずだ。

自力本願。

他力本願と言う言葉はあるが、自力本願と言う言葉を使うことは少ないかもしれない。しかし僕はこの自力本願と言う言葉をよく使う。なぜなら、僕は基本的に自分で考え自分で行動すると言うことに強いこだわりがあるので、それを一言で表すとなると自力本願と言う言葉がピッタリだと思うからだ。

自力本願とはもちろん自分の力で乗り切ると言うことだが、言葉を変えると「手段にこだわる」と言うことだと僕は考えている。ビジネスならば一番の目的はお金を稼ぐことだから、手段を選んでばかりではいられないし、手段など関係ないと言う人も多いだろう。しかし人生においては手段は非常に大きな意味を持つ。ただ結果さえ良ければ良いとは僕は考えていない。どのような手段を取り、どのような道をたどってきたかと言うことが結果に大きな付加価値を付ける。だからこそ、僕は手段に非常にこだわるし、どのような道を選ぶかと言うことにこだわるのである。

そしてそのような事は学問にも言えると僕は考えている。もちろん、同じ結果であれば同じような評価をされるものではあるとは思うが、それでも僕は手段を選ぶことにこだわっている。これはある意味自己満足だと言えるかもしれないが、しかし「学問を究めること=人生」だと思っている僕にとっては重要な事である。しかし計算などをするときに手段にこだわる必要はない。時には泥臭く計算することも必要だ。そんなところに手段にこだわってはいけない。手段にこだわるのは人生を学問に投射するときに限る。

僕が自力本願にこだわるのは、基本的に一人で生きることが好きだからかもしれない。もちろん人と飲んだりして楽しむことも大好きだ。しかし数学や理論物理は基本一人で完結するものだ。もちろん他人と全く関係ない訳ではないが、他の学問、他の業種に比べると、圧倒的に自分の内部から沸き立つものによって極めることができる。社会では人の力を利用することの重要性ばかりが強調されるが、自分の力で考え抜いて今を切り抜けるということの重要性が軽視され過ぎではないだろうか?

いくつかの目標。

僕にはいくつかの目標がある。いや、目標と言うよりノルマと言う方が良いかもしれないが、それらの目標に向かって今は前進している。

では、目標とは何に対する目標か?やはり一番は研究に関する目標。そして金銭的な目標。そして私生活における目標。そのように大きく三つに分けたが、そうは言っても研究に関する目標を達成しないことには他の二つの目標も達成できない。いろいろと難しいポジションにいるが、やはり僕の人生から研究を省くことはできない。

それらの目標に向かうことは、非常にチャレンジングな事だ。研究に関する目標はそれを達成すると誰も異論がないと思うが、金銭的な目標と私生活における目標は、それに異論を唱える人もいるであろう。しかし人間の価値感と言うものは様々であって、他人の価値感に振り回されていては自分の進むべき道に進むことはできない。

よく他人の意見に耳を傾けるべきだと言う人がいるが、他人の意見が自分の考えている事よりも優れているとは限らない。だから自分の考えが正しいと思うのならば、自分の考えを貫くべきだ。もちろん、他人の意見が正しいと判断したのならば、他人の意見に従うのも手ではあるが。

プロ野球の世界でも、コーチの意見に振り回されて結局型を崩す人がいる。そのような選手は結局自分で考える能が欠けているのだと言える。まずは自分で考え、そして実行するのが鉄則だ。だから初めから周りの意見ばかりに振り回されるのは僕は間違っていると考えている。

自分に大きな目標があるのならば、まずは自分を信じてみよう。そして自分の進むべき道に進むべきだ。もちろん、あきらめて妥協して現実に合わせるべきだと言う人がいるが、そのようにしたい人はそのようにすればよいと思う。しかし意志を持って自分の信念を貫く人間も少なからず必要だ。しかし周りを見渡してみると、そのような人は非常に少数派のように思えてならない。ならば自分がそのような少数派の一人になれば良いと思うことも非常に大事である。

トランプ、安倍、習近平。トリプルドミノは起こるのか?

現在、日米中のそれぞれのトップが危機に瀕している。とは言ってもそれぞれこれまでの政策や言動、行動が起こした結果だと言えるが、この三者の誰が失脚してもおかしくない状況だ。トランプは次の大統領選を乗り切れるかどうか、安倍首相は野党の追及、そして国民の追及を乗り切れるかどうか、そして習近平は降ってわいたような新型肺炎ウイルスに対する対応のまずさだ。

それぞれ国のトップに就任してから数年の年月が経つ。そして現在の危機は、その数年における行為に対しての当然の帰結だと言える。トランプの何がまずいのか?改めて言うまでもないだろう。そして安倍氏の最近の答弁はもう理詰めでも何でもなく、小学生レベルの言い訳にしか聞こえない。安倍氏が乗り切れるかどうかでなく、仮に乗り切ったとしたらこれからの日本は非常に危機的である。やはり総理総裁三期制度に対する弊害だと言わざるを得ない。

そして今一番社会問題となっている新型肺炎ウイルス問題である。中国政府の初動は明らかに誤った。しかし問題は、たまたま初動を誤ったと言うことではない。これまで習近平が押し進めて来た情報統制、国民統制、そして徹底的な隠ぺい政策の当然の帰結として、今回のウイルス対策の誤りが生まれたと言える。そしてこれらの問題は現在進行形である。もしこれからウイルス問題が長引き国民の不満が爆発すれば、習近平の立場は危ういと僕は考えている。

確かに日米中のそれぞれのトップが全て失脚する可能性は低いかもしれない。しかしゼロではないと僕は考えている。では、どれが一番可能性が高いかと言えば、安倍首相の失脚だと僕は考えている。今年まだ始まったばかりだが、この一年は激動の一年になるのではないだろうか?

有無を言わさぬ結果。

普段取り組んでいることに関して、自分の結果が認められないと愚痴や悩みを抱えている人は少なくない。ではなぜ結果が認められないのか?その理由は様々であろうが、ただ一つ、100%認めさせることができる方法がある。それは「有無を言わさぬ結果を残すこと」である。有無を言わさぬくらいだから、周りや組織も認めざるを得ない。それでも認められないのなら、即刻その組織から出た方が良い。

では、有無を言わさぬとはどれくらいの結果であろうか?それも人によって様々であろう。学生ならクラスで一番、学校で一番などと言うであろう。ビジネスで言えば10億円、100億円稼ぐことだと言う人もいるかもしれない。では研究においてはどうであろう。何らかの賞を取るとか、何らかのポジションに就くとか言うレベルもあるかもしれない。しかし「有無を言わさぬ」のだから、それくらいのレベルでは弱い。過去の人物で言えば、数学者ならリーマンやグロタンディーク、物理学者ならばニュートンやアインシュタインなどが絶対であろう。

このような事を言うと、そんなレベルは誰もが不可能だと言うかもしれない。しかし、誰もが不可能なのではない。その人が不可能なだけだ。実際、そのレベルの結果を成し遂げた人物が数人いるのだから、不可能なはずはない。まずは誰が挑戦するか?そしてそれらの挑戦者のうち誰が成功するかだ。まずは挑戦しないことにはそれらの候補にはなり得ない。

最近の若者は「悟り世代」だと言われることが多い。僕には何に悟りを開いているのかさっぱりわからないし、ただ単に初めからあきらめているだけだと思える。(もちろん、老人の中にもこのような人は多い。)しかしそれはそれでいい。なぜならそのように悟ることはその人の勝手だからだ。しかしそのようなくだらない悟りを他人にまで押し付けることはやめてほしい。悟って自分にはできないと思うのは自由だが、だからと言って他人もできないはずだと考えるのは非常に愚かで迷惑だ。実際に挑戦して成功しようと取り組んでいる人たちのなかに、このようなくだらない悟りを開いている人は一人もいないはずだ。

有無を言わさぬ結果を出すことに挑戦することは、人生を懸けるに値することだと僕は強く思っている。人生死ぬまで挑戦し続ける、そして挑戦を繰り返すことによって人生が作られるのだと僕は考えている。

急がば回れ!頭脳と筋トレ。

最近、研究の方が少し不調な事もあり、いろいろと試行錯誤している。例えばビールを飲む回数を調節したり、コーヒーを飲む量を調節したりとしているのだが、決定的解決とはなっていない。そこで最後に残ったのが筋トレだ。筋トレはもうかれこれ10年ほど続けているが、ここ一年程筋トレをする回数が減っていた。そしてそれとセットで行っていたジョギングも、面倒くさいとか思いながら走る回数が圧倒的に減っていた。思い返せば、ジョギングを毎日していた時期は非常に調子が良かった。そしてジョギングが減った時期と上手くいかない時期がほぼ重なっている。二年前くらいはジョギングをほぼ毎日行い、調子も上向きだった、しかし去年からジョギングの回数が減り、調子も下降気味である。頭脳と筋トレが繋がっているのかどうかわからないが、明日からまた筋トレ&ジョギングを日課にしようと思う。

筋トレ&ジョギングのセットに本気で取り組もうと思えば、一日一時間くらいの時間投資が必用だ。しかしその一時間の投資のおかげで調子が上向きになれば、それを実行する価値は大いにある。急がば回れである。そして筋トレ&ジョギングをすることによって、体系も引き締まる。外見も変えることができれば一石二鳥である。僕は特に太っているわけではないが、ジョギングをして引き締まっている頃に比べれば今は少し緩んでいる。また外見も内面も引き締めようと思う。

人間性に外見は関係ないと言う人もいるが、僕は外見と人間性は非常に関係あると考えている。だからこそ、体形的にも引き締めようと思うのである。僕が非常に尊敬しているiPS細胞の山中伸弥教授は毎年フルマラソンを完走され、体も顔も非常に引き締まっていて凛々しい。そのような山中教授は僕の憧れでもあり目標でもある。

さっそく、明日から毎日の筋トレ&ジョギングを再開しようと決めた。天気が悪い日以外は毎日ジョギングをし、走った後に筋トレを行う。もちろん、僕の最終的な目的は頭脳の活性化である。しかし体を引き締めるのももちろん目標である。今週、さっそく体脂肪計でも買おうかと考えている。

自分のパーソナリティとしてのブランド化。

ブランドと言うものは、そのブランドが示す統一感と言うものが重要になってくる。例えば車で言うなら、レクサスのスピンドルグリル、BMWのキドニーグリルなどが典型である。車の前面のグリルを見ると、何の車か瞬時に判断できる。車以外でも、ブランドのロゴ、形、色など、それぞれに統一感を持たせることが一つの重要な戦略となってくる。

それらの統一感は、人間にも言える。イメージカラーや服のタイプの傾向、そしてもちろんその人の人間性なども、その人自身を瞬時に印象付けるには非常に重要だ。もちろん、人間と物は違う。だからブランド品の戦略をそのまま人間に当てはめることはできないかもしれないが、それでも自分のイメージカラーなどを決めることによって、その人のパーソナリティが生まれてくる。

例えば僕ならば、イメージカラーはネイビーだと決めている。もちろんそれ以外の色の服を着ることも多々あるが、これからは自分に統一感を持たせて行こうと考えている。こんなことを考えていると、「内面は疎かにしていいのか?」と言われそうだが、もちろん内面があっての外見であるので、内面を磨くことは前提条件である。そして内面に自信がある人は、それに加えて外見も整えて行くといいのではないだろうか?

人間をブランドに例えると、それは決して家柄や血筋だとは全く思っていないし、それは違うと思う。自分で自分自身の内面と外見を磨いてこそ、自分のブランドができてくる。間違ってもブランド品を身に付けると自分がブランド化されると言う話ではない。ブランドと言う言葉に拒否反応を示す人もいるかもしれないが、自分をブランド化することは非常に重要である。自分が何に打ち込み、いかに努力しているか?そのような事が自分のブランド化へとつながってくる。そしてそれは自分をどこまで高められるかと言うことへの挑戦でもある。

流行の新型肺炎ウイルス。

現在、中国に端を発した新型肺炎ウィルスが世界的に問題になっている。今日現在の感染者数は数千人、死者は現時点で133人となっている。死亡率は単純計算で3%ほどで、普通のインフルエンザなどに比べてもかなり高い数値となっている。とは言え、普通の感覚で言えばそんなに恐れるほどでもないと思っている人も多いのではないだろうか。この新型肺炎ウイルスの何が恐ろしいのか?それを正確に理解するためには生物学、特に分子生物学や分子遺伝学を正確に理解しなければならない。

話は変わるが、季節性のインフルエンザウイルスに対するワクチンはほぼ瞬時に開発されるのに(流行以前からの開発にもよる)、エイズウイルスに対するワクチンは数十年たった今でも一向に完成する気配がない。その理由はなぜなのか?これもやはり分子遺伝学を理解すればその一部が理解できる。遺伝子の活動は基本的にDNA→RNAへと一方通行である。しかしエイズ(HIV)ウイルスはウイルスのRNAからDNAが作られ(つまり逆転写される)そのDNAが宿主(つまり人間)の遺伝子に組み込まれる。そこが決定的な違いである。もちろんこれだけがワクチンの開発を困難にしている原因では決してないが、困難の一つだと言える。

現在、医学・医療は非常に発達してきている。しかしそれらの正確な理解がないと、風評や誤解に振り回されることになる。なので現代に生きる人間にとって生物学、特に分子的レベルによる生物学を理解することは非常に重要である。しかし容易にわかるように、これらの知識を持ち合わせている人は少数派であろう。しかしこれらの知識や学を持ち合わせているかどうかで行動の範囲と質が劇的に変わり、時には自分の命の行方さえも左右するであろう。現在の社会の現状は、表面的な知識に終始しているようである。もちろん、表面的な知識だけでも持ち合わせている方がマシだとも言えるが、それだけだと誤解や間違った行動につながってしまう恐れがある。なので、科学的(分子レベル)から生物学を理解することが重要なのである。

学問は決して一部の人間(学者や専門的学生)のものではない。一般の人たちが学問を理解する意義は非常に大きい。だからこそ国は教育に力を入れ、それが国力に(そして時には国民の命に)直結するのである。くだらない不倫叩きに精を出す暇があるのなら、少しはウイルスの生物学的原理の理解に取り組む方がはるかに意義があるのではないだろうか?