投稿者「木原 康明」のアーカイブ

20年後の情報社会のリーダーになりたいのなら、「量子情報技術」に注目だ!

現在、情報社会を生き抜くため、あるいは高いポジションに就くためには、情報技術・コンピュータースキルは欠かせないと言われている。特に最近の親たちは、子供たちにコンピュータープログラミングのスキルに力を入れることに必死になっているようだ。コンピュータースキルの重要性は明らかだ。

しかし、一般の市民がコンピューター(パソコン)を買えるようになった1980年代はどうだったであろうか?当時パソコンは一部のマニアの間での機器でしかなかった。それに当時数十万円するパソコンに価値を見出せる人はほとんどいなかった。それから30年以上経ち、一般家庭にパソコンが行き届き、さらにスマートフォンのようにコンピューターが携帯できる時代になり、ようやく市民も情報技術・プログラミングスキルの重要性に気づき始めた。とは言え、それらの人たちも情報技術・プログラミングそのものの知識をどれだけ持っているかと言えば多少疑問であり、「プログラミングブーム」に流されている感もぬぐえない。

20世紀中ごろ、コンピューターの黎明期にあったような状況が、現在も起きているのではないかと僕は思っている。それは何かというと「量子情報・量子コンピューター」の分野である。はっきり言ってこれまでの「古典的情報・コンピューター」は成熟の域に達し、原理的部分は完成しきっており、市民はパッケージングされたソフトやアプリなどの末端的操作のスキル向上に励んでいる。

しかし量子情報・量子コンピューターは全く違う。量子分野では基本的素子を作る技術でさえまだまだ初歩的段階であり、現在は技術より理論が大きく先を行っている。逆に言うと、量子的な技術はこれから爆発的に発展する可能性があり、今から量子情報・量子コンピューター技術に取り組めば二世代先のトップランナーになれる可能性があるのである。その頃になっておそらく一般市民は量子の重要性に気づき、「量子プログラミングブーム」が起きるかもしれない。しかし現在は20世紀中ごろのコンピューターと同じように、市民はほとんどその可能性に気づいておらず、子供に量子情報技術を身につけさせようという親は全くといって存在しない。

現在ほとんどの人が可能性に気づいていないからこそ、量子情報技術の分野には大きなチャンスがある。さらに黎明期から取り組めば、根本的技術に対する知識の理解度も全く違うので、他と大きく差を付けられる。

もちろん、現在はまだ量子コンピューターは存在しない(量子コンピューターもどきと言われるものは存在する)。量子コンピューターを完成させるという大きな夢を持てるのも、現在の子供たちの大きな特権だ。

これから20年後・30年後には必ず量子の時代がやってくる!

努力することは素晴らしく、何かを成し遂げるためには必須だが、美化されるものではない。

何かで成功を収めるためには、何かで勝つためには、努力は避けて通れない道だ。多くの分野において、努力は必須のものである。もちろん個人差はあるが、努力は成功の出発点だ。

とは言え、努力をしたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言える。つまり「成功した人は必ず努力をしている。」

もうずいぶん前の話になるが、当時中学生だった岩崎恭子さんがバルセロナオリンピック競泳で金メダルを取った時は衝撃的だった。しかし岩崎さんに大人から浴びせられた言葉は冷たかったという。「努力をしないで金を取っても価値がない」「苦労もしないで」というような類の言葉を浴びせられたという。少し考えれば、岩崎さんが「努力をしないで」なんてことはありえないということくらいはわかるはずである。なんと愚かな大人たちであろうか。努力というものは、人に見せるものではない。人の見ていないところでコツコツとすることが努力である。

努力したからと言って、必ず結果がついてくるとは限らない。そこが単純ではないところであるが、しかし努力をしないと出発点にも立てないのである。

岩崎さんに冷たい言葉を浴びせた愚かな大人たちは、おそらく努力を本気でしたことはないのではないかと疑ってしまう。それとも「苦労」を努力と勘違いしているのか。愚かな大人たちには、努力の大部分は他人には見えないと言うことくらいはわかって欲しいものである。とは言え、努力そのものは美化されるべきものではない。成功者に対して後から勝手に美化されているだけなのである。

それから最後に一言、

「努力をバカにするな!」

オバマ氏、フィリピン大統領に一本取られたか。自首の順番待ち状態。

「現在、フィリピン大統領が国内の麻薬撲滅運動で、殺害も含む非常に激しい取り締まりを行っている。その激しさに、人権問題に敏感なアメリカのオバマ大統領が注文を付け、それに激怒したフィリピン大統領がオバマ氏を激しく罵った。それに対して、オバマ氏はフィリピン大統領との首脳会談をドタキャンした。」

上記のようなニュースが現在メディアを沸かせている。確かにフィリピン大統領の強引かつ残虐な取り締まりには、人権的に問題がある。しかし取り締まりのあまりの激しさに、フィリピンでは麻薬取引関係者の自首が殺到し、自首の順番待ちが起きているという。半分笑い話のようだが、フィリピン大統領の劇薬は非常に強烈な効果があったようだ。

確かに麻薬取引関係者に対する見境のない殺害はどうかとも思うが、麻薬取引関係者・マフィアによる治安悪化を考えれば、取り締まりによる治安向上による一般住民のメリットは非常に大きいかもしれない。おそらく麻薬関係マフィアによって多数の市民が毎年殺害されていることが推測されるからだ。

これに対してオバマ氏は内政干渉ともとれる注文を付けたが、現在の自首の順番待ち状態はフィリピン大統領の政策の劇的効果を表し、オバマ氏も一本食らわされた感がする。

「毒をもって毒を制する」という手段に出たフィリピン大統領、どこか次期アメリカ大統領候補のトランプ氏と似た臭いがするが、二人の写真を並べると顔もそっくりに見えるのは僕だけであろうか?

保育園建設問題。幼児が幼害なのか、老人が老害なのか、それとも・・・

近年の保育所待機児童問題に関連して、最近、保育園建設問題が各地で発生しているようだ。保育園建設予定地周辺住民が、幼児の声が騒音になると建設を反対しているようだ。もちろん周辺地域の幼児を抱えている親たちにとっては保育園建設にはすがる思いを抱いているようだが、多くの住民、特に静かな環境で生活したい老人たちには「騒音問題」以外の何物でもないようだ。

確かに幼児の甲高い声はうるさいととらえられるかもしれない。実際、子供の声は非常に気になる周波数の音らしい。しかしだからと言って幼児・子供の存在を「幼害」ととらえるのはいかがなものだろうか。

これからの未来を背負って立つのは現在の子供たちである。老人たちは確かに現在の発達した社会の創生には貢献したかもしれない。しかしだからと言って、子供の未来をないがしろにしていいのだろうか。子供の存在を敵視する老人たちははっきり言って「老害」である。

問題なのは、幼児・子供の存在の小さなマイナス面だけとらえて、大きなプラス面を全く無視していることだ。子供の存在は地域に活性を与える。さらに園児を送り迎えする親たちのコミュニティが生まれる。地域が活性化されコミュニティが生まれることによって、緊急時・災害時に老人たちを支えるバックアップ体制も生まれるだろう。そして何よりも治安の向上にもつながる。

そして個人的な事だが、僕は子供が大好きだ。変な言い方かもしれないが、昔から大人が嫌いだった。正確に言うと「大人の考え」が嫌いだ。園児の声がうるさいのは否定しないが、何よりも子供の明るい声には心が癒される。街が明るくなる。老人だけの街に明るさがあるだろうか。

最近始まったことではないが、高齢者が社会であまりにも力を持ちすぎ、若者の声がなかなか通らない。しかしこの原因は明らかだ。「選挙の投票率」である。若者より高齢者の投票率の方が圧倒的に高い。それに伴い、為政者たちは票になる高齢者の声を取り上げ、若者の声を軽く扱う。しかし裏を返せば、若者たちが選挙を軽く見、投票に足を運ばないわけであるから、選挙に行かない若者の方にも責任がある。

即ちこのような現状を打破するには、若者が投票に足を運ぶしかない。声を出す前に一票を投ずる。たかが一票されど一票。政治家が国を変えるのではなく、国民が政治家を変えるのである。

将来ある子供たちの明るい未来を創るのは、われわれ大人の「義務」である。そのために必要なのはお金だけではない。「気持ち」なのである。

マンションのクワガタムシ

8月の最後の日、マンションの高い階で、一匹のクワガタムシを見つけた。コクワガタだ。それにしても、街中の高層マンションに、今では見つけるのも難しいクワガタがいたことには驚いたものだ。見つけたコクワガタはYシャツの胸ポケットに入れて家に持ち帰り、今日一夜を共にして山に返すつもりだ。

クワガタの中でも「黒い宝石」とも言われ、何万円もするオオクワガタは数年越冬するそうだが、コクワガタが越冬できないのは知っている。即ち、このコクワガタは長く見積もってもあと数か月の命なのだ。

このコクワガタと出会ったのも何かの縁、今晩だけはコイツに満足してもらおうと、梨の小片を与えてやることにした。それにしてもクワガタがこんなにペロペロとおいしそうに梨を舐めまくるのにはびっくりした。クワガタの舌は意外と長い。

出会いとは何も人間だけではない。虫との出会いもなかなかいいものだ。コイツと出会えて何だか幸せな気分になってきたぞ。明日山に帰って、元気に生きぬいてこい!

最後の巨大フロンティア、アフリカ。援助からビジネスに軸足を移す意義は。

安倍首相がアフリカ訪問から日本へ帰ってきた。台風10号の日本接近を考慮して、1日早い帰国となった。安倍首相のアフリカからの帰国に伴って、アフリカでのビジネスが話題になっている。

これまでアフリカに対しては、援助一辺倒の感があったが、今回の安倍首相の思惑はアフリカへのビジネスについての可能性を広げる意味合いが強い。アフリカを援助の対象からビジネスの対象へと軸足を移すものだ。

ではなぜ今、援助をビジネスへと移さないといけないのか?それには日本、アフリカの双方の立場があるが、どちらにしても双方にとって非常に意義あるものだ。ビジネスへ乗り込む日本にとってはビジネスチャンスの拡大という大きな利がある。そしてアフリカにとっても日本と同じようにビジネス創生という大きなメリットがある。

しかしそれだけではない。日本がアフリカで関わるためには、その基盤を作らなければならない。治安の改善、医療・保健の確立などである。しかしこれらのことは日本に対してだけではなく、アフリカ諸国自身の発展、アフリカ市民の生活の発展のためには不可欠なものだ。

そしてアフリカでのビジネスにとって非常に大切なことは、win・winの関係をつくること。お互いに利があってこそ飛躍的な発展が期待できる。

それから援助からビジネスへと移すことは、アフリカの自立にとっても欠かせないものだ。ビジネスに移すことによって、アフリカ市民の意識も変わる。援助とは強者が弱者に行うものだ。しかしこれからはビジネスによって「対等」な関係を結ぶことが必要なのである。

ヨーロッパは成熟期を過ぎ、アジアはこれから絶頂期を迎えようとしている。それに対してアフリカは取り残された大陸であった。しかしだからこそこれからの大きな発展が期待できる「最後の巨大フロンティア」である。

これからの日本の対アフリカビジネスの成功と、アフリカ市民の生活の発展を祈るばかりである。

リオで突き抜けた安倍首相。これがこれからの日本のあるべき姿だ!

リオデジャネイロオリンピックが閉幕してから数日経つ。恥ずかしながらリオの閉会式を今まで見ていなくて、今日YouTubeでリオの閉会式、そして東京への引き継ぎセレモニーを見た。

今回の東京への引き継ぎセレモニーを見て、ある種の爽快感を感じた人は多かったのではないか。日本特有の文化を保ちながら、新しいクールな日本を前面に打ち出すという、非常に高度なセレモニーだと感じた。特に、何かと前例主義にとらわれる日本に対して、セレモニーでは全く新しい、突き抜ける日本の姿を感じた。それはセレモニーにサプライズで現れた安倍首相もそうだったのではないかと思う。

このようなセレモニーに政治家が現れることに難色を示す人もいるが、今回のセレモニーは安倍首相あってのものだった。安倍首相の登場は派手なものではなかったかもしれないが、非常に突き抜けたものだと感じた。日本と言えば「出る杭は打たれる」と言われるように、目立たずにひっそりとすることが美徳とされているが、安倍首相をはじめとする日本のセレモニーは「とにかく突き抜けろ」と訴えているようにも感じた。これこそこれからの日本のあるべき姿ではないか!

継承していくべき文化や美徳を大切にしながらも、新しいことに挑戦して突き抜けていく、海外で言われている「クール」な日本。それを日本のトップの安倍首相が示した意義は大きいのではないか。

安倍首相の政策は成功したのか失敗したのかよくわからないものが多い。しかし政策の行方などは長い年月をかけて動いていくもので、すぐに結果を求めるのもおかしな話なのかもしれない。まだよくわからなくて当たり前なのだ。

安倍首相の最大の功績は、これからの日本の方向性を示したことだと僕は思っている。その方向性が成功するかどうかはわからない。しかしいつも前例主義で停滞していた事柄を前進へと向けたことは明らかだ。

出る杭を打つ社会から、出る杭をさらに突き抜ける日本へ、そんな変化の予兆をリオのセレモニーで感じた。

AI(人工知能)への依存と危険性。人類はいつまで存在できるのであろうか。

最近、何かと話題になるAI(人工知能)。AIには大きな可能性を秘めており、ここ2、3年の間に、AIの利用、AI技術に対する投資が飛躍的に増えた感がする。具体的に挙げると、自動車の自動運転から医療における診断まで、様々な分野へAIは進出しようとしている。

確かにAIによる高度な技術に対する自動化は非常に魅力的である。しかし、AIの大きな可能性は破壊的な可能性も秘めている。このことは今でも多くの人が気付いているようだが、便利な可能性への成果が目に現れてきている現在、なかなか話題になることはない。

このAIの破壊的な可能性とはどういうことか。例えて言うと、映画「ターミネーター」のような世界と言うとわかりやすいだろうか。ターミネーターでは、人工知能をもつ殺人アンドロイドが人類を滅亡させようとしている。以前は所詮映画の中の世界に過ぎないと多くの人が思っていたが、今では非常に現実味のある話である。

もちろん、そのようなターミネーターを作ろうとしている研究者は(おそらく)いないだろう。しかし、AIの一番恐ろしいことは、コンピューターが「自我」を持つことである。自我をもったAIは人間の制御から解放され、暴走していくだろう。もちろん人類を敵にまわすAIが出てくるのも時間の問題だ。

なぜ研究者はAIを作ろうとするのか?それはもちろん人類の役に立てるためということもあるだろうが、一番の理由は単にAIの研究が面白いからというものであろう。

AIの研究が危険をはらんでいることは誰にでもわかるが、しかし誰もそれを制止することができない。まさに科学技術はパンドラの箱なのである。

はたして人類はいつまで存在することができるのであろうか。

捨てなければいけないプライドと、持ち続けなければいけないプライド

よく、「プライドを捨てなければいけない」という人がいる。では、プライドとはいったい何なのだろうか?

僕はプライドには2種類あると思っている。

一つは、過去の栄光に対するプライド。

もう一つは、「これから絶対に結果を出して活躍してやる」というプライド。

一つ目の、過去の栄光に対するプライドは捨てた方がいいのかもしれない。しかし過去の栄光も次へのステップのきっかけになることがあるので、すべてを捨て去る必要はない。しか余計なものは捨てて、身軽になった方がいいのかもしれない。

そして二つ目の「これから何が何でもやってやる」というプライドは、絶対に捨ててはならない。自分は誰にも負けないんだというプライドは、トップを目指す者にとっては必要不可欠なプライドだ。

「握りこぶしの中に しまっておいた勇気と わずかなプライド握りしめたら」

という歌詞を歌ったシンガーソングライターがいる。僕はこの歌詞を常に胸の中に秘めている。

プライドの塊ではダメだけど、努力やビジョンに基づいたプライドは絶対に持ち続けなければならない。

勝負に立派な負けなど存在しない。吉田沙保里選手の論

こんな記事を見つけました。

「よく、試合後に負けはしたけれど強敵相手に善戦できて満足みたいなコメントをする人がいますが、冗談じゃありません。勝負は勝たなければダメ。」

(プレジデントオンライン、吉田沙保里の言葉より引用)

そうです。勝負に立派な負けなど本来は存在しないのです。

僕もオリンピックを見ていて、日本人選手が銀や銅メダルを取ると正直うれしい気持ちはあります。しかし銀は敗者なのです。銀や銅の選手に対しても「頑張った」と褒め称えるのは優しさかもしれません。しかしその一方、これは吉田沙保里選手のように勝つことが全てとストイックに戦っている選手に対する侮辱ではないかとも思うのです。

吉田沙保里選手のような論を、なにもサラリーマンに対しても当てはめろとは全く思いません。しかし何かしら「勝負」の世界で生きている人間にとっては、吉田沙保里選手の言っていることが一番の正論だと思います。

吉田選手は「勝負に優しさは邪魔」とも言っています。

普段の生活で吉田選手の言っているようなことを言うと、非常に冷酷な人間ととらえられるかもしれません。しかし勝負の世界は別、吉田選手は勝負の世界の何たるかを教えてくれているのです。

このような論に、吉田選手の並外れた強さの秘訣が隠れているのかもしれません。

とは言え、日本人が銀メダルも銅メダルを取るとうれしいけど・・・