投稿者「木原 康明」のアーカイブ

好きだ!でも苦しい!でも努力はやめない!

僕は子供の頃から好きなことを続けている。それをやめるつもりはない。おそらくやめる時は死ぬ時であろう。とにかく数学と物理が大好きだ!

しかし、「好きなことをやっている=楽をしている」わけではない。好きなことをずっと続けるということは、多くの場合、非常に苦しいものだ。しかし苦しいからと言って、やめようとは思わない。これほど続けていると、苦しさも快感になってくる。

お金を儲けるだけが目的ならば、人に言われることをやるのが手っ取り早いかもしれない。好きなことで儲けるのは、一部の人を除いて至難の業である。

努力したからといって、必ず成功するとは限らない。しかし成功するためには努力することが不可欠だ。「成功するかどうかわからないけど努力する」そういう人の中から成功者が生まれるのだと思う。

12月27日、テレビ番組で元広島カープの投手・黒田博樹さんのインタビューがあった。あれだけの成功者でありながら、現役時代は楽しいと思ったことがなかったそうである。引退後になって振り返った時、楽しかったと思えたそうだ。しかし、僕の勝手な感かも知れないが、黒田選手は野球が大好きだったに違いない。嫌いなことに世界トップクラスの努力はできないはずだ。しかし、好きと楽は違う。好きだからこそ、自分にムチを打って追い込むことができる。

そんな黒田選手の発言を聞くと、僕なんかはまだまだ甘いと反省させられる。「それだけ好きだったら、もっと追い込んで努力しろよ」と。努力したくても、頭が回らない時がある。体がついてこない時がある。しかしそんなことも、自分に甘い言い訳に過ぎないのか。

僕には目標がある。しかしそれを達成するためには努力は不可欠だ。だから今の一番の課題は、目標を達成することではない。努力することである。努力もしないで目標だけ言っても、単なる甘々である。とにかく努力がしたい。

そういえばそのテレビ番組では、水泳の北島康介選手も出ていた。北島選手もとんでもないくらい努力したそうだ。世界のトップを極めた人が、とんでもない努力を自分の口から言うからには、本当に想像を絶するくらい努力したのであろう。

スポーツは、医療のように直接何かに役に立つというわけではない。しかし現代社会では、スポーツ選手の存在は人類を活気付けるために不可欠なものになっている。北島康介選手の努力を聞いて、自分ももっと努力しないと、と我に返る。

なんだか努力努力と言って暑苦しくなってしまったけど、自分を戒めるためにも努力についてしつこく書いてみた。

安倍首相はただものの政治家ではない。僕はそう思う。

12月18日(日)、午後10時からの情報テレビ番組「ミスターサンデー」に安倍総理が出演していた。最近は安倍首相は積極的にテレビ番組に出ている感があるが、僕はそれは良いことだと思う。国のトップがテレビを視聴している一般大衆に現状を伝え、これからの展望を述べる、民主主義国家にとって非常に大切なことだ。

先日、安倍首相は地元山口に、ロシア大統領プーチン氏を招き、首脳会談を行った。その成果に対して否定的な意見が非常に多い。もちろん、今回の成果だけをピックアップして眺めていれば、安倍首相の一人負けの感がする。ロシアに食い逃げされたと評する人もいる。

もちろん、安倍首相が普通の首相なら「負けた」と評して終わりかもしれない。しかしこれまでの実績、戦略、実行力からみて、これで終わる総理ではないと僕は思っている。今回の首脳会談でプーチン大統領が大幅に遅刻して予定が狂ったと騒ぐメディアもあるが、プーチン大統領が遅刻するなどということは確実に想定内であって、おそらく安倍首相をはじめとする日本政府もそれを前提とした対策を取っていたことであろう。待ちぼうけをしている間、前日の国会が長引いて寝不足の安倍首相は、温泉につかり休憩をとっていたという。その余裕感は頼もしくも思える。

そして本題のプーチン大統領との会談内容であるが、もちろん安倍首相が話している内容が全てであるなんてことは誰も思っていないであろう。プーチンに食い逃げされただけだと評するのは、まさしく愚の骨頂だ。僕はそう思う。なぜなら安倍首相は普通の総理ではないからだ。安倍首相は確実に二手・三手先を読んでいる。そしてロシアに対しても何かを仕掛けている(良い意味で)に違いない。

ミスターサンデーの番組内で、キャスターの宮根氏と評論家の木村氏は安倍首相を「猛獣使い」だと評していた。プーチンやトランプという猛獣を上手く操っている。しかし、その猛獣に襲われないように気を付けてもらいたい。

そして僕が安倍首相が信頼できる首相だと確信している理由の一つに、何を問われてもまず「安全保障」を真っ先に挙げて重要視していることだ。普通の政治家なら、国民の顔色をうかがって、金銭的・福祉的政策など国民がすぐさま実感できるような政策をばら撒く。安全保障はいざ危機的状況に陥ると誰もが危機感を持つが、普段の平穏な時代には身をもって感じることがなく、ほとんどの国民が自分に関係ないことだと思い、気を留めない。しかし安全保障は国家の根本的土台だ。ビジネスも教育も、安全保障機能のしっかりした土台がないと成り立たない。そういう意味で、安全保障を真っ先に訴える安倍首相は信頼に足る首相だと思う。

もともと石破茂かぶれだと言われてきた僕だが、こんなことを書くと安倍かぶれと言われるかもしれない。しかしそれも、安倍首相がただものの首相ではないと確信しているからだ。これからも一国民として安倍首相に期待している。

世の中はお金だけでまわっているのではない。人間はお金を稼ぐためだけに生きているのではない。深みのある人間になろう!

今日、某記事で、日本の教育について批判する記事を見た。勉強することに優先順位を付けろというものだ。それだけなら僕自身も思うことがある。しかしその順位が僕とは全く正反対なのである。

その記事の著者は、数学なんて役に立たない。買い物の時の値段の計算さえできれば事足りる。鎌倉幕府がいつできたなんてどうでもいい。そんなくだらない教育より、株の売買の仕方やビジネスの仕方など、どうすればお金を稼ぐできるかということを教える方がはるかに実利にかなう、というものだ。

僕は空いた口がふさがらなかった。

現在、日本は世界の先進国のトップレベルの基準を満たしている。経済が不景気だと言っても世界第三位の経済大国だ。経済だけではない。最近、海外で注目されている日本人の文化水準の高さもそうだ。これらは長い年月をかけて作り上げてきた高度な教育文化の賜物だ。経済大国になったのも、株やビジネスに知識を全てつぎ込んだからではない。その根底には幅広く高度な教育が横たわっている。株やビジネスで儲けることは、その上澄み液をすくい取ることに過ぎない。高度な教育と幅広く深い教養人が積み上げてきた知恵がなければ、ビジネスの土台さえおぼつかない。

もちろん、ビジネスに打ち込むビジネスマン、金融エリート、経営者を否定しようなんて毛頭思っていない。しかし今まで出会った優秀なビジネスマンはほぼ例外なく勉強熱心で、興味の幅も広く、様々な知識に対して貪欲だ。金さえ儲けられれば他はどうでもよいという考えのビジネスマン、経営者に一流はいない。

現在、世界はスペシャリストの時代に入った。何か一つのことで飛び抜けた知識や技術を求められている。しかし同時にジェネラリストの時代であるとも僕は考えている。スペシャルな知恵や技術は、ジェネラルな土台に裏付けられていることが多い。実際、分野のトップを走る人間は博学かつ哲学的でもある。それはスポーツであっても例外ではない。プロ野球の大谷翔平選手の人間性を見ても良くわかる。イチロー選手も然りだ。

お金だけ儲けてそれだけで満足ならば、中学で勉強をやめ、投資やビジネスに打ち込めばよい。それで成功するならの話だが。しかし僕はそんな薄っぺらい人間になってほしくない。今日見た記事を書いた著者のように、薄っぺらい大人が薄っぺらい次世代の大人を作ってしまう。

今の子供たち、青年たちには、人間として深みのある教養人になってほしい。そして深みのある国を支え、深みのあるスペシャリストになる、そのような土台を作ることが、現在の大人の仕事のうちの一つでもある。

一次情報を握ることの大切さ。

物事を判断するうえで重要になるのが、一次情報を握ることだ。一次情報とは、自らが直接関わって得た情報、もしくは情報源に非常に近いところから得た情報のことだ。

一次情報を得るのに一番手っ取り早いことは、仕事をすることだ。仕事とは一次情報との接触だと言えるからだ。

最近は、ネット上に情報が氾濫しており、知りたいことがあると手軽にネットで検索して簡単に情報を手に入れられる時代だ。しかしネット上に氾濫している情報のほとんどは二次情報・三次情報である。SNS上の情報などはその最たるものだ。

とは言え、ネットでもより一次情報に近い情報を得ることもできる。例えば首相官邸サイト、省庁のサイトなどには、非常に信頼できる情報が開示されている。

また他の例で言うと、研究する時に一次情報になるのは原論文である。解説書ではなく原論文に当たることの大切さはそこにある。解説書は原論文と併用して用いるのが効果的である。

何かを論じる時には、信頼性の低い二次情報ではなく、自ら苦労して得た信頼性の高い一次情報をもとに見解を述べるべきである。又聞き情報とも言える二次情報に依存するのは、非常に危険な行為である。

とは言え、全てのことに対して一次情報を得るのは現実的に不可能である。そのときは持っている情報を非常に吟味して判断しなければならない。

科学と哲学を分けるもの。

現代学問において、哲学と科学は全くの別物と考えられることが多いが、この両者には通じるものも多い。とは言え、似て非なるものと言える。実際に科学は理系、哲学は文系と区別されることからもわかる。

しかしこれらの源流をたどれば、両者は共通の起源にたどり着く。「ギリシャ哲学」である。

古代ギリシャ時代、数学や科学(もどきと言うべきか)はまだ細分化されておらず、これらは哲学の一部とみなされていた。当時、哲学者とは学問における万能者であった。アリストテレスもアルキメデスも現代では数学における成果で有名だが、彼らは哲学者であった。さらに日本では三平方の定理と言われている数学で一番有名な定理である「ピタゴラスの定理」(こちらの名前の方が世界標準の名称である)のピタゴラスに至っては、新興宗教の教祖だったという。ピタゴラスは無理数を発見したが、これは神の過ちによってできたものだと考え、信徒達に口止めさせていたと伝えられている。

では、科学と哲学が分岐した時代、すなわち中世に話を飛ばす。厳密な科学は15世紀に芽生えた。一般には物理学を創始したニュートンが本格的科学の祖と言えるが、それまでの道筋はケプラーの精密な天体運動の観測に始まり、ガリレイの地動説、同じくガリレイの相対性原理を経て、ニュートン力学、そしてニュートンの万有引力の法則が生まれた。

そして18世紀の産業革命によって科学は急速な進歩を遂げる。化学(化け学)は当時の錬金術に対する試みによる知識の蓄積と言える。残念ながら錬金術は全て失敗したが、その副産物として化学(化け学)は大きな進歩を遂げた。

そして20世紀。この世紀は「物理学の世紀」とも言われるくらい物理学が驚異的な膨張を見せた。それは1900年のプランクの量子仮説に始まり、1905年のアインシュタインの特殊相対性理論、1916年の一般相対性理論、そして1925年頃のハイゼンベルグ・シュレーディンガーらによる量子力学の完成によって土台が整う。

この様に科学は哲学とは独立の道を突っ走り始める。しかし哲学も科学もその根本には思想と論理が横たわっている。哲学はこれだけでいいのかもしれない。しかし科学にはこれに加えて「数学的構成」を行わなければいけない。

約100年前、アインシュタインが相対性理論を発表し世の中の注目を浴び始めた頃、とある哲学者がこう言ったという。

「私は相対的主義者だ。だから私に数学的才能があれば私が相対性理論を発見したであろう」と。しかしこの数学的構成力こそが科学の核であるのだから、「数学的才能があれば」などと言うのは見当違いも甚だしい。しかも相対的な理論ならアインシュタインを持ち出すまでもなく1600年頃にガリレイが相対性原理を完成させている。

哲学と科学の関係を歴史的視点から書いてきたが、これらを見ると

「科学者は哲学者であるが、哲学者は科学者ではない」

と言えるのではないだろうか。

福島に対する眼。今、放射線以上に怖いのは正確な情報の枯渇かもしれない。

21日、TBS「ニュース23」で、福島第一原発の特集をしていた。その中で、解説者が福島県立福島高校の男女学生8人と、福島第一原発へ視察するというコーナーがあった。福島第一原発敷地内は、今でも18歳以下の未成年の構内立ち入りは禁止されているのだが、今回は放射線の線量も下がってきたこともあり特別に許可されたそうだ。とは言え、現場に出るのは危険が伴うため、バス内からの視察となったようだ。

高校生らは「福島県民」という「当事者」として、原発を含めた福島の現実を伝えなければいけないという使命感もあり、そのための正確な現状を知るためにも原発視察に参加したようだ。十代の若者たちがそこまで考えていることに、これらの8人の高校生には本当に脱帽してしまう。それに対して福島の正確な現状も知らずに、風評被害に恐れている自分が本当に情けない限りである。

そしてこのように情けない自分を通して一つ感じたことは、放射線ももちろん怖いが、福島の正確な情報・福島県民の生活状況をほとんど知らないことは更に怖いことだということである。そのことに番組に出ていた福島で生活している高校生に、そしてそれらの高校生が使命感を持って福島第一原発を視察しているのを見てひしひしと感じさせられた。

現在のネット社会では、我々はわからないことがあればすぐにネットで検索して調べてしまう。しかしネットというものは意外といい加減なもので、調べる内容によっては正しい情報が少なく間違った情報ばかり出てきてしまうことがある。ネットは非常に便利なものであるが、本当の情報を知るためにはやはり本などの紙の情報に当たることも必要であり、時には現場に自ら足を運ぶことも必要だ。

このことから、今必要なのは情報の量ではない。いくら多くの情報を持っていても間違った情報ばかりでは意味がない。どれだけ質の良い正しい情報を見出せるか、簡単にネットで検索できる現代社会だからこそそのことが重要になってきているのではないかと福島の高校生を見ながら感じた次第である。

心の浄化。

気が滅入った状態になると、心が廃れてくるものである。そのようなときには、心を浄化して綺麗になることが必要である。心を浄化する手段はいろいろある。広く一般にされているのは、禅とか瞑想かもしれない。それらも良かろうが、僕は「哲学書」を読んで思考力から浄化することをお勧めする。

哲学書と言っても様々で、最近本屋さんの店頭に平積みされているような入門解説書から本格的なものまでいろいろある。その中でも僕は歴史ある原著を読むことをお勧めする。岩波文庫などはその最たるものであろう。

岩波文庫に並べられているような名著は、ほとんどが少なくとも百年以上の歴史がある。ギリシャ哲学物であれば、二千年以上の歴史があることになる。そして名ある哲学者のほとんどは人格者でもある。そのような人格者に名著を通じて心を浄化してもらうのはなかなか良いものである。しかしそれは簡単ではない。哲学書と一字一句格闘しなければならないからである。

哲学書の原著の一番良いところは、解釈は自分次第であるということである。だから人それぞれによって解釈は全く異なってくることも多々ある。しかしそれは誰かが間違っているのではなく、全て正しいのである。重要なのは「自分の頭」で考えて解釈を導き出すという過程なのである。

個人的にはローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの「自省録」などが良いと思う。ローマ時代の哲学者であり、ローマ皇帝でもある人物である。ローマ時代には哲学者が皇帝になるのが一番理想的であると言われたそうだが、それが唯一実現したのがこの人物なのである。

最近の僕は数理物理で結果を出さなければと焦るあまり、哲学が疎かになっていた。心が廃れていた。そこでもう一度心を浄化して再生させるために、今一度哲学書を再読しようと思った次第である。

数学が最も自由な学問だと言われる訳。

「数学は非常に自由な学問である」と言っても、ほとんどの人はその言葉に反対し抗議するであろう。なぜならば、ほとんどの人がやってきた(やらされた?)小学校の算数から高校までの数学は、ガチガチに決まったルールがあり、決まった解き方があり、ただ一つの答えがある。おそらくそういう印象を持っている人が多いだろう。

では、数学の自由性とは何か?これにはいくつかの理由がある。最も認知されている自由性は、「解き方はいくつもある」ということではないだろうか。これに関しては高校数学レベルの問題でも感じられる自由性だ。

しかし数学者たちはそれよりももっと大きな自由性を感じている。それは「ルールは自由に変えることができる」というものだ。このことに関しては、大学で数学を学ぶレベルでないとなかなか実感しづらいことであるが、これこそが数学の神髄なのである。

数学者は取り組むテーマに応じて設定(つまりルール)を変えており、時にはルールを強め、時にはルールを弱めたりして、それに対してどのような結果が出るのかと探っている。ルールは非常に自由に変えられるものなのである。

例えば誰でも当たり前だと思っている、

1+1=2

という足し算。こんな式でさえも数学者たち(特に代数学者)は

1+1=0

と考えることがよくあるのである。ちなみにこのような足し算の世界は専門用語で「標数2の世界」と言う。

余談であるが、物理などは数学よりも自由性が少なく、縛りが強い。なぜなら物理の場合は、物理学者がどんなことを主張しようが、自然(宇宙)がその主張する法則と違えばその主張は間違っていることになるからである。

数学の自由な世界、そのような世界に数学者は魅了されているのである。

役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる。

とある科学雑誌で、今年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典さんの特集をやっていた。その中で、大隅教授の弟子の研究者が、最近の学生は「役に立つ科学をして社会に貢献したい」ということを強く主張するということに嘆いていた。

僕も以前のブログで、科学では、「役に立つかどうかということ以外の物差しを持つことが大切だ」と書いた。これはどういう意味か。

役に立つかどうかということは誰が見ても非常によくわかりやすい。しかし「科学的価値」というものは役に立つかどうかということとは全く別であり、それを理解できる人は意外にも非常に少ない。

役に立つ科学とは、科学技術など工学や医学のことであって、純粋科学の価値と役に立つかどうかとは無関係である。もちろん去年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村さんなどは、発明した薬によってアフリカを中心とする多くの人々を救った。この様に、役に立つということは非常に素晴らしいことは言うまでもない。

しかし、基礎科学・数理科学に取り組んでいる人にとって「それは何の役に立つのですか?」という問いほど悲しいものはない。なぜならそのような問いは科学的価値が全く認識されていない表れだからである。

現在、山中伸弥教授が発見したiPS細胞が医療や創薬において非常に大きな力を発揮し、役に立つ科学の代表のように言われている。そのようなことからiPS細胞は役に立てるために開発されたと勘違いしている人が多い。しかし山中教授がiPS細胞を開発した本来の目的は、「各臓器に分化した細胞にも、分化する前の受精卵と同じ全ての情報を無くさずに保持している」ということを示すことであった。その証拠に、2012年のノーベル医学・生理学賞での山中教授の他のもう一人の受賞者であるガートン博士は、そのことをカエルで証明したことを評価されての受賞である。山中教授はそれをマウス、そして人間でも同じであることを示したのである。

話しは変わるが、20世紀初めに打ち立てられた物理の量子論は、純粋に自然の根本的な仕組みを理解するためだけに研究された。量子論のような原子レベルの理論が人間の役に立つと思った人は、当時は皆無であったであろう。しかし科学技術の基に成り立っている現代社会において、量子論を利用することは必要不可欠である。そういう意味で「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」と言えるのである。

真の科学的価値を判断できるセンスを持った人が少しでも増えることを願うばかりである。

生き方。・・・今を見ることと、人生全部を見渡すこと・・・

人生とは?と言うと非常に堅い話になるが、人間ならおそらく何度も考えることだと思う。

人生とはどういうものか?僕はこう思う。

「人生とは彫刻のようなもので、生まれた時には切り取った丸太のようなもの。その丸太に時間をかけて掘っていく。そして人生が終わるときに出来上がった彫刻作品がその人の人生である。」

その時の一瞬一瞬を全力に生きる人、人生長い目で見てペース配分を考えながら生きる人、などいろいろな生き方・信条を持っている人がいると思うが、どちらが正しいのか?僕はどちらも正しいと思う。タイトルにも書いたが、今を見て今を打ち込むことと、人生長い目で見て信念を貫くこと、どちらが欠けても不完全なものになってしまう。

では僕はというと、長い目で見て悠長に構えるところがあって、それが欠点のような気がする。自分では結構情熱的で熱い方だと思うが、その割には先を見て考えてしまう。

自分が生きる意味は何か?その意味を常にしっかりと意識できると、何度失敗しても立ち直れる。そして常識とは異なる生き方をしていても、自分の生き方を貫ける。たとえ人からバカと言われ続けても、自分の生き方を貫ける。ただし非常にきつい生き方ではあるが。

人生のことを書いたが、何事にも部分を見る目と、全体を見る目、その両方・複眼的な見方をすることが大切である。

「自分の人生」という作品がどのようなものになるのか、楽しみである。