投稿者「木原 康明」のアーカイブ

研究費削減で、モチベーション保てない?

毎日新聞デジタルに、国立天文台の観測所の予算が大幅削減されると言うニュースが載っていた。そのことに関して、ブラックホールの撮影に成功して有名になった本間希樹教授が、「予算削減で、研究者のモチベーションが保てない」と言うコメントをしていた。はっきり言って、「ふざけるな!」っていう話だ。

研究費削減で思うように研究ができないと言う話なら十分にわかる。実験系の研究では、研究費が結果に直結する。なので研究費が非常に重要な事は分かる。しかしそれとモチベーションは全く別の話だ。研究費が削減してモチベーションが下がるなどと言うことは僕には全く理解できない。もちろん研究費が削減されることは残念だが、それならそれでその研究費内で工夫してやるだけの事だ。それに我慢ができないのなら、実績を出して海外に行けばいいだけの話だ。

もちろん、そのような理由で優秀な研究者が海外に流れるのは国としても大きな損失だと思う。しかし「研究費=結果」という世界が、理論系の僕にはいまいち理解できない。もちろん、研究費獲得も実験系研究者にとっては大きな仕事であろう。今回の研究費削減は、もしかしたら新型コロナも影響しているのかもしれない。もしそうだったら、そのような状況は海外に行っても同じだと思う。

研究費にモチベーションが左右されるような人間は、研究者としては三流だと僕は思う。もちろん、本間教授は世界的に一流研究者と見られているとは思うが、ただそのようなことでモチベーションが左右されるのなら、言い換えるとモチベーションも研究自体も経済状況と政治判断に左右されると言うことだ。これは物理の巨額な加速器を必要とする実験においても共通するところだと思う。しかしどう考えても、お金で研究に対するモチベーションが左右されるのは理解できない。そのような人は研究ではなく、ビジネスの世界に行った方が成功するのではないだろうか。

慎重と楽観。

僕は最近、慎重になりすぎることが多い。慎重になることは良いことだと思っている人も多いが、過度に慎重になってしまうと行動力が落ち、やるべきこともできなくなってしまう。なので、最近は意識をできるだけ楽観的な方に持っていこうとコントロールすることが多い。

しかし現在のコロナ対策を見ていると、世の中の人々は楽観的である以上に甘く考え過ぎているのではと感じることが多い。特にマスクもせずに外出することは、自分の感染だけでなく周りの感染も誘発してしまうので、自分の自由だと言う話では済まされない。それは殺人行為であり、殺人の自由など誰もないのだから。

コロナ問題もそうだが、重要なのは過度に恐れることではなく、「正しく恐れる」ことである。例えば細菌は自己増殖していくが、ウイルスは宿主(例えば人間の細胞内)でしか生きて行くことはできないし、もちろん増殖することもできない。人間の体内に侵入したコロナウイルスはかなりの速さで増殖していくであろうが、例えば段ボールに付着したコロナウイルスは24時間で感染力がなくなると言う。プラスチックやステンレスの表面であればもう少し長くなるが、それでも数日で感染力がなくなると言う。もちろんそのような時間を測定するのは専門機関でないとできないが、ウイルスの特性(宿主内でないと生きていけない)などは、生物学の基礎的知識があればかなり理解できることである。このコロナ禍において、正しくコロナの怖さを理解して生きて行くためには、やはりそのような教養が圧倒的に重要であることがわかる。もしそのような事を理解していなければ、いくら慎重になっても気が済まないであろう。

正しく理解して、正しく恐れることができれば、正しく楽観的にもなれる。そしてそのような正しい楽観に基づくことによって正確な判断を下せるようになり、自分の道を進んで行くことができる。現在はコロナ禍と言う非常時であるが、平時であれば8割楽観的に、2割慎重にと言うくらいがちょうどいいのではないだろうか。コロナにかかれば死のリスクもかなり高くなる。なので慎重になりすぎることはある程度理解できるが、平時であれば楽観的になって例え失敗しもまず死ぬことはなかろう。今は石橋を叩いて渡るべきだが、コロナ禍が去った後はまた楽観的に進んで行きたいものである。

緊急事態宣言。こんな時こそ!

4月7日、安倍首相が緊急事態宣言を発令した。宣言が発令されるか否かに関わらず国難であることに変わらず、日々の活動、及び様々な自粛、そしてマスクの着用などの自己努力が強く求められる。コロナ鬱と言う言葉も言われるように、全ての国民が精神的にも行動的にもかなりまいっているように思う。確かに自粛自粛と自粛の嵐だが、かといって全ての事に対して自粛しなければならないかと言えば決してそうではない。コロナの感染防止、そして周りの人への感染防止、そして社会全体への感染防止のために必要な自粛は絶対的に必要だが、それとは関係のないことはむしろ積極的に発奮した方が良いと僕は考えている。

そう、こんな時だからこそ、ただ単に控える一辺倒ではなく思いっきり攻めて行かなければならない。そのように攻めることが、コロナで傷ついている日本の回復を早めることにもなる。確かに今は経済も半崩壊している。そしてそれぞれの個人も金銭的に窮地に陥っている人は多いと思う。そういう状況では、確かに出費を抑えるなどしてやりたいことを我慢する必要にも迫られる。しかし全ての行動に対してお金がかかるわけではない。例えば、本を読んだり勉強したりすることには基本的にはお金はかからない。本を買うお金を節約したければ本を借りたり、あるいは家にある本を引っ張り出して読むことができる。勉強するためには必ずしも教室に通う必要はない。独学で勉強することもできるし、今ではネットを利用して格安レッスンを受けることもできる。例えば、英会話をしたければスマホアプリでAI英会話と言う面白いものがある。もちろん無料ではなく月1980円かかるが、英会話教室に比べると圧倒的に格安だと言える。英会話に自信がない僕も、今そのAI英会話を始めようと思っている。

緊急事態だから出来ないのではなく、今だからできることもあるのである。確かにここ一年程は厳しい状況になることは予想されるが、そこから社会が立ち直ろうと始めた時に自分も攻める体制を整える準備をするべきだ。そのためには視野を広く持つ事が圧倒的に重要である。視野が狭ければ、窮地に陥ったから何もできなくてダメになると思ってしまう。しかし視野を広く持てば、意外とできることはあるはずだ。別に給料が下がっても良いではないか。少なくとも今は最低限の生活ができるだけのお金があればよい。もちろん今、その最低限の生活もできないくらいの窮地に立たされている人も非常に多い。幸い政府はそのような人のための支援策を打ち出している。今は一時的にそのような支援に頼って何とか乗り切ろう。

今はこういう時だが、だからこそこういう時しかできないことに発奮して打ち込むべきだ。それがコロナから社会が回復したときに攻めるきっかけになるはずだ。そして国もおそらくそのような事を期待しているはずだ。もちろん、国が期待しているからそういうことをするわけでは決してない。自分自身のためにも今この時に大きく発奮する時であると僕は強く感じている。

ネガティブな環境を逆手に取る。

今の社会状況は、明らかにネガティブだ。おそらく99%の人にとって、今のコロナ禍は自身を苦しい立場に陥れていると思う。それは金銭的な事や、社会不安などから来る精神的な事や、あるいは行動範囲が圧倒的に狭くなることなど、少なくとも我々には良い傾向はほとんど表れてこない。では、100%ネガティブなのか?もし99%ネガティブなら、残りの1%は何なのか?おそらくそのような事は1%もないと言う人も多いだろう。もし仕事が全くなくなって、家にずっといることになったとしよう。もちろんお金は全く入らない。それこそ窮地である。しかし、家族がいる人なら、家族とコミュニケーションを取るきっかけになるかもしれない。そして学生なら、自習に打ち込むいい機会になる。このように、99%ネガティブな状況なら、それを100%ネガティブにするのではなく、1%のポジティブを見つけて、それを5%、10%と増加させていくべきではないだろうか。

僕は数理物理の研究を続けている。しかし普段なら、なんやかんやと雑用が多く、そして少なくとも稼いでいかなければならないので、ここのところ落ち着いて研究に打ち込めないこともあった。しかし今は家にこもることが非常に多い。これは考えようによってはチャンスである。こもって研究に打ち込む大きなチャンスである。もちろん、色々とピンチ的な状況ではあるが、それを逆手にとってチャンスにするかどうかは自分の考えよう、そして自分の行動次第である。

同じことが起こっても、それをピンチにしたままの人と、それをチャンスに変える人の二通りいる。ピンチにしたままの人は、それを100%外的要因、あるいは環境のせいにする。しかしチャンスに変える人は、結構いろんなことが起きてもめげないものだ。それはもう外的要因・環境がどうかと言うよりも、むしろ人間性の問題だと思う。

僕は現在のネガティブな状況をどうポジティブに変えて行くかと言うことを必死に考えている。そしてそのための手段・選択肢はいくつか考えている。お金がないと言って生きていけないと騒いでいる人も多いが、はっきり言って僕の置かれた状況よりいろいろとかなりマシな人が多いと僕は思っている。なぜ僕より状況が良い人たちが騒いで、窮地に立たされている僕がポジティブにめげずに前向きに進んで行けるのか?これは決して環境のせいではないことはお分かりであろう。人生は頭を使って生きていかなければならない。そして強い覚悟が必要である。そのような強い覚悟を持って生きていれば、かなりの窮地に立たされても何とか乗り切れると僕は思っている。少なくとも自分に関してはそうである。今のコロナ禍を乗り切れるのは、決して環境の良い人ではなく、窮地を逆手にとってポジティブな方向へと変えられる人だと思う。僕もそのような方向へと進んで行く体制は整っている。

追い詰められると、正しい判断が出来なくなる。

日本におけるコロナ禍は、加速度的に悪化してきている。そのような危機的状況に、安倍首相が、そして国民一人一人が厳しい判断を下すことに迫られている。しかし人間と言うものは、追い詰められると正しい判断が出来なることがある。そのような事を、今の政府、そして多くの国民を見ていると強く感じる。

今なぜ、安倍首相が緊急事態宣言を出せないでいるのか?そして国民はなぜ、危険と分かりながら外出して様々な活動を続けるのか?それはただ経済的な問題との兼ね合いと言う一言に尽きる。多くの人は、「仕事をしないと収入が全く入らないし、お金が無くなれば生活もできない」と叫ぶであろう。それは最もである。しかし、お金と命のどちらが大切か?もちろん命であろう。しかし追い詰められてお金だと判断する人が少なくない。もちろん、お金に困って自殺する人も出て来ることは容易に推測される。なので、お金と命を簡単に切り離すことはできない。

しかし誤解を恐れずに僕は主張する。「今は命が大切だ。」外に出て活動する人に告ぐ。今むやみに外出することは、自分の感染以上に周りの人の感染を大きく誘発する。自分の生活が大事だからと言って、自己責任だからと言って、むやみに外出してはいけない。活動する本人は良くても、それによって周りの人々を殺してしまうことになるのである。それでも外出活動を続けるのか?

もちろん、責任は外出活動をする人々だけにあるのではない。緊急事態宣言を出さない安倍首相に最も大きな責任がある。政府が緊急事態宣言を出せば、外出しようとする人々に大きく制限を課すことになる。そのことによって、死者を半減することができる可能性がある。しかし、もちろんこれは可能性である。そこの可能性をはっきりさせようと政府は判断をこまねいているのだと思う。経済的損失はどれくらいになるのか?そのような算出をしているのだと思うが、それは緊急事態宣言を出した後でも良いのではないだろうか。議論をしている間に危険が広まるリスクの方が圧倒的に大きい。宣言を出して感染が収まると言う保証はないが、少なくとも広まることを押さえることができることは確実だ。

初めに述べたように、経済的損失によって自殺する人も出て来るに違いない。平時であれば、全ての危険性を排除することが求められる。しかし今は非常時である。例えば、99人の死亡と100人の死亡のどちらを選択するのか?と言う究極の選択であるが、他に全く情報がなければ、即座に99人を選択し一人でも多く救うことが求められる。これはあくまで非常時の選択であり、ある意味救急におけるトリアージの判断にも通じる。

今政府に求められているのは、慎重な議論ではなく国民に対するトリアージである。即座に的確な判断をすることが、一人でも多くの命を救うことになる。そこを安倍首相にも即座に理解してもらいたい。

非力な野党を作った日本国民。

現在の自民党・安倍政権は(最近は)かなり問題のある政権だと多くの人が思っていると思う。もちろん、安倍首相に関してはこれまで非常に大きな功績があるのは事実だし、現在も外交を中心に非常に効果を発揮していると僕は思っている。しかし何度もこのブロブで言及しているように、総理総裁三期九年と言うのが致命的な問題である。三期九年もすれば、誰もが半独裁的になる可能性があるし、またそれ以上に問題なのは、周りの人間が全てイエスマンになることだ。だから安倍首相がどれだけ良い政治家であるかに関わらず、総理総裁任期は二期六年にすべきだと僕は強く感じている。

とは言え、最近の安倍首相がどれだけ問題であっても、「代わりに野党が政権に」と言う声はほとんど聞こえてこない。それはもちろん、野党が安倍自民以上に問題があり、非力であるからである。本来はアメリカのような民主党・共和党二大政党体制が理想的なのかもしれないし、10年ほど前は日本でもそのような二大政党体制を目指して民主党が政権を取ったのだが、残念ながら当時の民主党の政策はあまりにも稚拙すぎ、また東日本大震災に対する失政などもあり、信頼をつなぎとめることはできなかった。

では、日本の政治の問題は、安倍自民が問題であり、さらに非力な野党が問題なのか?僕はそれだけではないと考えている。結論から言うと、日本国民自身も問題なのである。当たり前の事だが、政治家は国民の投票によって選出されている。なので政治家の資質は日本国民自身の資質でもあるのである。もちろん、選挙時だけの情報や候補者の目に見える活動だけでは判断しきれない所もある。しかし明らかに国民自身が問題であると言えることもいろいろある。

テレビ番組と言うものは、(少なくとも民放は)民衆の趣味嗜好を汲んで方向性が決められる。そのようなテレビ番組を見ると、最近は不倫などのスキャンダルを取り上げることが半ばブームのようになっている。すなわち、他人の上げ足を取ることばかりにメディアが、そして民衆が夢中になっているのである。これはどこかと似通っていないか?そう、国会である。野党は与党政治家の上げ足を取ることばかりに夢中になっている。僕自身、森友・加計問題を追及すること自体は無意味ではないと思うし、少し前の桜を見る会問題なども重要な問題である。しかしそれだけではいけない。それ以上に現実的・具体的政策を提言し詰めて行かなければならない。もちろん野党もそのような事は分かっていると思う。しかしそれが国民には伝わってこないのである。その原因は僕はむしろ国民側にあると考えている。

今の安倍自民一強体制は明らかに変えなければならない。しかしそれに代わる野党があまりにも非力すぎる。そしてその原因は日本国民にある。メディアは人の上げ足を取ることばかりに夢中になり、国民はそれを楽しく笑っている。今年のお笑い大会・M1グランプリでは、人を傷つけない優しさのある笑いがブームになった。優勝したミルクボーイ、そして準優勝したぺこぱがまさしくそうであった。このような流れは、日本と言う国を必ず良い方向へと導くと僕は思っている。しかし国会などの政治の世界では、まだそのような流れは入り込んでいない。なぜなら、国民が選挙で政治家を選び、そしてその政治家が政策を掲げ実行するまではかなりのタイムラグがあるからである。なので、今の政治の世界がそのように変わるまでにはまだ5年以上かかるのではと僕は考えている。

今、新型コロナによって日本が、そして世界が危機的状況に陥っている。なので人の上げ足を取っている場合ではない。一刻も早く対策を実行して人々を救わなければならない。もしそのような事が今十分にできれば、コロナ禍が去った後には政治の世界も大きく変わると僕は考えている。そしてそのように政治の世界を変えるためには、まずは国民の意識を変えなければならない。急速に変えられることではないが、このように変革することは僕は可能であると思っている。

若くして結果を出すこと?

今、京大数理研の望月新一教授によるabc予想解決が話題になっているが、望月教授と言えば16歳でプリンストン大学に入学したことが有名だ。しかしこのこと(飛び級入学)がことさら話題になるのは、望月教授にとっても心外ではないだろうか?なぜなら、数学の難問を解決することと学歴は次元と問題が違いすぎることであり、学歴がすごいなどと言うことは、はっきり言って一流数学者に対して非常に失礼な話だ。そんなことを言うくらいなら、abc予想の定義一つでも理解した方がはるかに望月教授に対する敬意になる。

そもそも、なぜ多くの人は大学に行くのか?それは学歴を付けるためなのか?もちろん多くの人にとってはそうかもしれない。学歴を付けて就職を有利に進めることが目的かもしれない。ならば、大学の勉強は単位が取れればそれでよいのか?優をいくつもそろえることが目的なのか?もちろん、頑張って優を獲得することは非常に素晴らしいことである。しかし、大学は就職予備校ではない。いや、現実問題として就職予備校化している大学は沢山あるし、大学でも就職支援に対して非常に力を入れているところは多い。それは社会的に見れば道理に合ったことであり、むしろ歓迎されるべきことなのかもしれない。しかし僕はそのような現状に非常に悲しくなるのである。

僕自身、大学時代の生活はとても自慢できたものではなかった。学生時代に調子を崩し、思うように勉強・研究ができなかった。それは大学院に入ってからもそうである。だから成績も全然良くはなかった。しかし数学と物理に対する意欲は人一倍持ち続けてきた。学生時代は、調子が悪くても休日も学生室・院生室に通い続け、研究に取り組んできた。若くして結果を出すことには憧れてはいたが、とてもじゃないがそういう状態ではなかった。

しかしだからと言って、今全ての事に対してあきらめるなんてことは全くあり得ない。若くして出した結果も年老いて出した結果も、出した時の年齢による優劣などは全くない。もちろん将来性などを考える人もいるが、人間は意欲を持ち続ける限り、死ぬまで成長・発展し続けることができると僕は考えている。おそらく多くの人はそのような考えに反対するかもしれない。だから僕自身がそれを実行して、成し遂げて示さなければならないと思っている。

完成された人間と言うものは、死ぬ直前でなければならない。いや、死に床にあっても発展し続け未完成なのかもしれない。ピークが20代の頃だったなどと言う人の言っている意味が僕には全く理解できない。そういう僕は、とんでもない変人なのだろうか?

今重要なのは、感染の可能性を下げることだ!

新型コロナの流行が急速に広がっている。おそらく、まだ自分は関係ないと思っている人はいないはずだ。衛生的にも経済的にも、打撃は非常に大きいものになっている。普通に暮らしている限り、誰もが感染する可能性がある。なので、自分は感染するはずはないと言う根拠のない自信はやめにして、もしかしたら自分はすでに感染しているかもしれないと言う意識をもって行動することが大切だ。自分がかかっても、人にかけてもダメなのだ。

今、マスクやアルコールなどでの手洗いを含め、様々な感染予防が実行されている。そこで、それで100%防止できるのか?と問われ、完全には防止できないと答えられた時、「完全に防止できないから、しても無駄だ」と言って何も対策を取らない人が多い。しかし僕はそれは違うと思っている。重要なのは、完全に防止できなくても、可能性を下げることなのである。

例えば、マスクは完全にウイルスの侵入を防ぐことはできないと言われているが、少なくとも侵入の可能性を低減することはできる。そしてもし自分が感染していた場合、飛沫感染を圧倒的に低減することができる。だから完全に防止できなくても、しないよりかは圧倒的にマシなのだ。完全ではなくても、可能性を低減すると言う思考と行為が大事なのだ。感染の可能性を低減する行為を取り続けることが、自分と周りの人を守ることになるのである。

街中でマスクをしない人をよく見かけるが、それは自殺行為ではなく殺人行為である。マスクをしないことが、他人を殺すことにつながるかもしれない。そう考えて、自分を、さらに周りの人を守らなければならない。

二週間後が危ない!

一昨日、昨日と、用事があって神戸三宮の街を歩くことになった。このような時世だから衛生面には万全の注意を払い、当然マスクを着用していたが、街や仕事現場の人々を観察していると驚くべき状況であった。何が驚くべきことなのか?それはコロナウイルスに対する危機意識の薄さだ。新型コロナウイルスに関する危険性については昨日の僕のブログで述べた。なのでそのことについては割愛するが、街の人々を観察していると、2割~3割くらいの人がマスクを着用していないのだ。東京ならばもっと着用率が高いのか、それは分からないが、神戸の人々のマスクの着用率は僕にはかなり低いように思えてならない。

そして驚くべきことに、マスクを着用していない人ほどべちゃくちゃと話をしているのである。おそらくマスクをしている人は、自分が感染するかもしれない、さらには自分はすでに感染しているかもしれないと意識しており、マスクをしていない人は、自分が感染するはずがない、なので人に伝染させることもないと思っているのかもしれない。これは明らかに危機的状況である。

周知のように、フランスでは外出するのに許可書が必用であり、それに違反した者は数万円単位の反則金を取られる。日本に比べれば非常にきつい制限である。そのような状況でもかなり危機的な状況に即している。日本はマスク非着用での外出の自由を認め、それでいてフランスよりも現時点では軽い状況である。それは日本が成功しているからなのか?僕は断じて違うと考えている。現在のフランスは二週間後の日本の姿、あるいはフランス以上にひどい状況になるかもしれない。はっきり言って、このような観測など大きく外れてほしい。そして木原の言っていることなど全く当てにならないと言ってほしい。そうなって欲しいと強く願うが、確実に言えることは、日本人のコロナに対する危機意識は薄すぎると言うことだ。

一刻も早く緊急事態宣言を出すべきだ。いや、今出しても遅すぎるくらいだ。現在の対処は二週間後に現れる。その時になって慌てても圧倒的に遅い。僕のこの観測は外れるべきだ。いや、外れないと国が持たない。二週間後、このブログを読んだ人が木原はバカだったと笑ってくれることを願うばかりである。

志村けんさん逝去。新型コロナウイルスの毒性。

3月29日、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなった。僕自身、一番身近に感じていたお笑い芸人だっただけに、これにはさすがにショックを受けた。志村けんさんの冥福を祈りたい。

志村さんの新型コロナウイルスによる死去は、我々が新型コロナによる死と言うものを身近に感じるきっかけになったと思う。誰もが新型コロナによって死ぬかもしれない。そう感じさせるものである。とは言っても、コロナに感染した全員が死亡するわけではなく、また年齢によっても致死率は大きく変わる。

ウイルスの毒性を測る一つの基準として、致死率がある。現在の致死率はイタリアでは10%に迫ろうとしておりかなり高い数値だが、世界的に見れば2~3%と言われている。この数値が高いのか低いのか?なかなか判断しづらいが、一つの比較として1918年~1919年に流行したスペイン風邪と比較することは有効であろう。

スペイン風邪は第一次世界大戦を終了させた大きな要因とも言われ、死者数は世界で数千万人(正確な数字は確定していないらしい)と言われている。そのスペイン風邪の致死率は2.5%以上(国立感染症研究所・感染症情報センターホームページによる)と言われている。この情報から読み取ると、現在の新型コロナウイルスの致死率はスペイン風邪と同等、あるいはそれ以上だと推測することができる。そしてこのスペイン風邪の死者数を見ると、現在の新型コロナウイルスがいかに深刻であるかがわかる。

そして一つ見逃してはならないのは、現在の医療水準がスペイン風邪が流行したころよりもはるかに高度になっていることである。そのような状況でスペイン風邪と同じレベルの致死率だと考えれば、現在の新型コロナウイルスの毒性がスペイン風邪よりはるかに高いと考えられる。

スペイン風邪による数千万人と言う死者数を聞いて、皆恐ろしく感じるだろう。しかし現在の新型コロナはそれに匹敵するくらいの毒性を持っていると考えられる。僕はここまで数値と言うデータから論を述べてきた。それはそれが最も客観的で公平な議論であると考えられるからだ。少なくとも、新型コロナを軽く見てはいけないことは間違いない。志村けんさんと言う国民に最も身近なコメディアンの逝去を機に、新型コロナの脅威をこれまで以上に真剣に、そして正確に考えるべきではないだろうか。