投稿者「木原 康明」のアーカイブ

ケアにこだわる。

お金があれば、高級なものを買いたいと思う人は多いかもしれない。僕自身も欲しい高級品はいろいろある。しかし僕が物を買うこと以上にこだわっているのは、「ケアをすること」である。

例えば、靴を買った後は履き潰すという人も多いが、僕は定期的な靴磨きなどのケアにこだわっている。雨が降りそうなときは、防水スプレーをかけるようにしている。革鞄も定期的にケアをするようにしている。腕時計の革ベルトも定期的に交換している。

高級なものを買うことはお金があればできるが、その後のケアができるかどうかはお金とはほとんど関係ない。もちろん、ケアにもそれなりのお金はかかるし、僕もケアに必要な最小限のお金は投資している。しかしケアができるかどうかは、お金よりも人間性が関係してくる。

僕にとって一番大切なことは数理物理の研究であり、数学や物理の専門書は宝物のように大切にしている。しかし革靴や革鞄と違って、最も大事なのは本という「紙(ペーパー)」ではなくて、その中に書かれている内容(情報)である。そういう意味では専門書(ペーパー)より革靴のが大事なのかもしれない。もちろん実際は専門書の方が圧倒的に大事ではあるが。

学問を研究する人にとって、ペンは非常に重要である。ペンは研究の武器だとも言える。僕の武器であるペンは、大学院入学時に友人からもらった万年筆だ。もう優に十数年以上その万年筆を使い続けている。万年筆は僕の体の一部だ。もちろん、万年筆は頻繁に手入れの必要なものではないが、たまにケアはしている。

ケアをすることは、非常に有意義な事である。物も良くなるし、心も綺麗になる。そして様々な物のケアを重ねるうちに、自分に人間としての厚みも増していくように感じる。そのように感じるのは僕の錯覚だろうか?

最後の晩餐。

もし自分の最後の晩餐を開くのなら、そこで何を食べるだろうか?高級な肉が良いか?美味しい魚を食べるのも良いか?。はたまた食べたことのないフォアグラやキャビアだろうか?

僕はもう決めている。それは「ローソンのメロンパン」だ。

僕はメロンパンが大好きだ。もちろん少し凝ったメロンパンもちまたにはあるが、僕が今まで食べた中で一番おいしかったメロンパンはローソンの100円のメロンパンだ。

はっきり言って、僕は食に対して味にはあまりこだわりはない。どちらかというと「美味しいものを少し」というタイプではあるが、レストランに行っても味より雰囲気にこだわる。もちろん美味しいに越したことはないが。

あと、最後の晩餐にメロンパンというのは、自分らしいように思える。ローソンのメロンパンに木原康明という人間の嗜好が凝縮されているからだ。他人が食にこだわるのは全然かまわないが、僕自身は食にはあまりこだわりたくない。しかしレストランやバーの雰囲気にはこだわる。

外出した時に食事を気軽に済ませたい時には、決まってローソンのメロンパンとタリーズのブラック缶コーヒーだ。世の中から神戸牛が消えても全く困らないが、ローソンのメロンパンが消えると非常に困るのである。

大排気量エンジンも、ガソリンがなければ走らない。

イギリスの自動車メーカーであるベントレーには、“W12”という6000ccのエンジンがある。Wとはエンジンのシリンダーの配置を表していて、一言で言えばV6が横に二列並んでいるということだ。ベントレーのW12は大排気量エンジンの代表だと言ってよい。僕はまだ乗ったことはないが、W12の力強いパワーを味わってみたいものである。

当たり前ではあるが、どんなにパワーのあるエンジンを積んでいてもガソリンがなければ走らない。それは人間でも同じだ。人間の思考のエンジンは脳である。一人ひとりの脳の特性は違っているようで、コンパクトなエンジンもあれば、大排気量エンジンもある。そして近年自動車では主流のダウンサイジングターボエンジンみたいな脳もあるかもしれない。ハイブリッドエンジンがあるかどうかは僕にはわからない。

大排気量エンジンのような脳にはガソリンもたくさん必要だ。脳エンジンのガソリンは糖分である。近年は糖分の摂取に対して非常に過敏になっているが、大排気量の脳エンジンを動かすためには多量の糖分の摂取が必要である。糖分の摂取を怠るとたちまち意識朦朧となってしまう。頭をフルに動かしたければ、糖分を十分摂取しなければならないようだ。

自分の脳がどのような特性を持っているかは自分で把握する必要がある。特性を把握することによって、最大限のパフォーマンスの発揮の仕方も理解できる。脳というエンジンと身体というエンジンを縦横無尽に駆使して自分の成すべきことへ一心に向かってみよう!

世界を知る。

人間が一生に体験できる事なんて、たかが知れている。世界を旅行したところで、見ることができる事なんて微々たるものだ。では世界を知るためにはどうすればよいか?それは読書をすることである。

読書をして得られることも、たかが知れているかもしれない。しかし読書から多々の新しい知見が得られることは事実である。読書をするのとしないのとでは、世界の広がりが大きく違ってくる。さらに読書をして得られる知見は、旅行をして得られる知見とは質が違う。

その一方、旅行をして得られる体験も貴重である。なぜならば、旅行をして得られる体験からは生の情報が得られるからだ。言い方を変えると「一次情報」だと言える。なので旅行をして得られる体験は非常に貴重なものであるが、そのような貴重な体験を生かせている人は多くはないように感じる。体験をしてそれで終わりでは、あまりにももったいない。まずは問題意識を持って体験することが大事である。

「知」の情報を得るためには、書物を読むことは欠かせない。特に学問を修めるには、書物なしでは何も進まない。「目の前の本を知って、世界を知る」なんてことも、その気があれがすぐにでもできるのである。「お酒を飲めない人は人生の半分を損している」とはよく聞く言葉だが、「本を読まない人は人生における知の99%を無駄にしている」と言えるだろう。

世界を知ると言っても、何も旅行をして地球を見る事だけを指すわけではない。数学や物理学の世界を知ることも、世界を知ることに入る。いや、それこそが世界を知るということだと思う。

世界を知ることはそんなに難しいことではない。大金をはたいて海外旅行する暇があれば、そのお金を少しでも書物に当てるといい。書物を読み世界を知ることは非常に意義のあることだ。

強い意志。

一人で進んで行くと決めた者にとっては、一人でいることを恐れている暇はない。どこまで自分を信じれるか?それが一番重要である。

今、なぜ自分が数理物理の夢に向かって進んでいるのか?その理由は二つ。一つは数理物理が大好きだから。そしてもう一つは成功するという確信があるから。理由はこの二つでしかない。

人間の内面というものは、他人からはなかなか見ることはできない。自分にどれだけ確信があっても、それを周りの人に理解してもらえることはほとんどない。しかしもし自分を理解してもらえないと感じているのならば、自分に対して自信を持っていいのかもしれない。なぜなら理解してもらえないようなことに挑戦している証だから。簡単に理解してもらえるようなことはあまり価値はない。自分の成すことを成し遂げることによって理解させればいいのである。

しかしそうは言っても、理解してもらえないことは非常に苦しいし精神的にきついものである。僕はそのような時には、ある音楽を聴いて自分を確認している。もう25年以上お世話になっている曲だが、その曲を聴くことによって何度も壁を乗り越えることができた。そのような音楽に出会えたことは非常に幸運だった。

出会うことができた音楽、出会うことができた恩師。そのようなことを考えると自分一人ではないと感じることがあるが、とにかく今は成し遂げるべき目標に向かってひたむきに進んで行こうと思う。一つ目のゴールはもう見えるところに来ている。

岩波講座。

岩波書店は日本で最も権威と歴史のある出版社だと言ってよい。もちろん規模の大きさで言えば、岩波書店よりも大きな出版社はあるが、岩波書店に対する信用は絶大である。

岩波書店と言えば、岩波文庫を想像する人は多いかもしれない。岩波文庫には過去の名著が目白押しである。何を読もうか迷った時には、書店で岩波文庫を眺めればいい。僕自身は、岩波文庫に並んでいる哲学書をよく眺め購入している。

その岩波文庫と並び、岩波を代表するのが「岩波講座」と言われるシリーズだ。岩波講座はいくつかの分野で出ている。さらに同じ分野でも時を経て新しい岩波講座が企画されることが多い。数学でも過去に数回岩波講座が出ている。僕自身も岩波講座の数学シリーズには非常にお世話になっている。研究者にとって岩波講座はなくてはならないものだと言っても過言ではないと思う。

歴史学においてももちろん岩波講座は出ている。その中でも日本史の岩波講座は歴史研究界において非常に重要な地位をせめているようだ。岩波講座が出版時の日本史研究のスタンダードと言ってもいいらしい。日本史を研究する者にとって、岩波講座を熟知することは研究者への第一歩なのかもしれない。歴史の一般書を読んでも、岩波講座が参考文献として引用されていることが多い。

もしこれから何らかの学問に打ち込もうと考えているのならば、まずは岩波講座を読むのが非常に良い。岩波講座は10冊以上(岩波講座・基礎数学は79冊である!)の本で構成されることが多く、全て集めるのは非常に大変だが、金銭的に無理がある場合は古本などで安くで購入するのも一つの手である。

学問の研究者にとって、岩波講座は信用のおける非常に重要な書物群となっている。

失敗を全く恐れない!

日本では失敗はしてはならないものだとよく教わる。その割には「挫折を糧にして」という話をよく聞く。しかし僕はそれは逆だと考えている。失敗は恐れることなくいくらでも積み重ねればいい。しかし挫折は絶対にしてはいけないと考えている。

社会全体が失敗を過度に恐れるあまり、全ての事を無難にやりくりしようと考えようとする。飛び抜ける事より普通になることを考えようとする。それなのに度々挫折をする。もちろんそのような人が多くいる中でも、変革を行い飛び抜けようとする人は少なからずいる。世の中を支えるのは多くの普通の人かもしれないが、世の中を変えるのは間違いなく突き抜けた人だ。

どのような世界でも、公になるのは成功ばかりだ。失敗を成果として挙げる人は一人もいない。だから多くの人は、成功者は失敗をしないと錯覚してしまう。しかし、一つの成功の裏には多くの失敗が存在することを忘れてはならない。

失敗を積み重ねているのは、挑戦している証である。挑戦しない人は失敗することさえできない。

失敗が客観的事実である一方、挫折は主観である。なので周りの人がそれを挫折と言おうが、自分が挫折だと思っていないのならばそれは挫折ではないのである。そのような意味で、「失敗は重ねても、挫折はしてはいけない」と僕は常々考えているのである。

好調でない時に、何をすべきか?

もしかしたら常に好調である人もいるかもしれないが、多くの人には好不調の波はあるだろう。好調の時にやるべきことを徹底的にやるのは意外と難しくないかもしれないが、不調な時に何をすればいいのかということについて悩む人は少なくない。

不調な時には、何もしないという選択肢を取りがちだ。そのような選択肢はもしかしたらあながち間違ってはいないのかもしれない。不調な時に体力気力を温存して、調子が上向いてきたらやる気を発揮する。しかし不調な時にも何かやるべきことはあるのではないかと感じてしまう。好調な時に十歩進めるのなら、不調な時には一歩、いや半歩でも前に進めれば大きな進歩である。

しかしこれがなかなか簡単な事ではない。その半歩がなかなか実行できないのである。しかし、非常に気力のいる本業はできなくても、サブのことならできるかもしれない。それもできないのならサブのサブと。不調な時にもできる事を探すことは重要だ。

昔、ある哲学者(たしかラッセルだったと思う)は、「調子の良い日は哲学をやる。そしてそんなに調子が良くない日は社会学をやる。さらに不調な時には歴史学をやる。」と言ったそうだ。ラッセルのような偉人でさえも、好不調の時のやりくりを工夫していたのである。

やれない時には無理してやる必要はない。やれることをやれるときにやればいいのである。自分の波を観察しながら、試行錯誤して出来るだけ力を発揮することを心がけたいものである。

歴史は暗記科目ではない!

学校で習う歴史は暗記科目と認識され、年号や名前を徹底的に暗記することが要求されている。僕自身も中学時代や大学受験生時代は様々な事を暗記したように思える。

最近、歴史に関して興味深い本を読み、ふと気付いたことがある。それは歴史は暗記科目ではないということだ。もちろん必要最小限のことを覚えることは必要かもしれない。しかし歴史に関して100%暗記しようという姿勢では、全く理解できないであろう。

一つ例を挙げて言うと、年号を暗記することより、年号を見てその相対関係と流れを把握することが重要である。歴史は流れが全てと言っても過言ではない。流れのない歴史は単なる暗号でしかないのだ。

そして最近学んだのは、歴史には絶対ということがないということである。過去の歴史は研究が進むにつれて変わるのが常であるようだ。例えば大化の改新は本当にあったのか?(最近は大きな変革である大化の改新よりも、クーデターそのものをさす乙巳の変を基本としているようだ。)さらに、鎌倉幕府の誕生は“いい国作ろう”の1192年という固定的な見方は現在では主流ではないらしい。僕らの学生時代に常識として習ったことが、最新の歴史研究では否定されているのである。

この様になると、どれが正しくてどれが間違っているのか戸惑ってしまうが、歴史というものは不確定要素が強いということは認識した方が良さそうだ。特に古いものになればなるほど、不確定要素は強くなる。

とは言え、歴史自体は非常に面白いものである。過去の先人の起こした出来事は非常に興味のあることである。このような歴史を楽しむためにも、近視眼的に暗記するのではなく、大局的に歴史の流れとその背景を捉えることが重要である。

9割9分は大丈夫!

普段生きていると何かと心配することが出てくるが、ほとんどの事は9割9分大丈夫である。もちろん何事においても100%大丈夫ということはありえない。しかし99%は大丈夫なのである。

では残りの1%をどう捉えるか?ここにそれぞれの人間としての器が現れる。結論を言うと、「残りの1%が起きた時は潔く諦める」ということである。1%の危険性にこだわり、悩み抜いたところで何も始まらない。この1%のことを考える暇が合ったら、残りの99%の事をポジティブに捉える方がはるかに建設的だ。

しかし日本人の特性として、「この1%が起きた時はどうするつもりだ?」と問いかける人が多い。もちろん安全性が高まればそれに越したことはない。しかし最も重要な事は、「99%の事をポジティブに捉えることにより、1%の危険性がより低くなる」ということである。近視眼的に目先の危険性だけ考えるのではなく、広域的に物事を捉えることが重要なのである。

では、これらの事に関して一例を挙げよう。現在よく話題にのぼる自動車の自動運転に関してだ。現在は自動運転はまだ開発段階であるが、2020年には実用化されるという話もある。自動運転で一番問題になるのは、事故が起きたらどう責任を取るのかということだ。自動運転の実験で一つ事故が起きると大問題になる。しかし生身の人間が運転する自動車は膨大な数の事故を起こし、決して少なくない数の死者が出ている。しかしこちらの方は自動運転の事故に比べてあまり話題にならない。その証拠として、皆は年間何人の人が交通事故で亡くなっているか記憶にあるだろうか?

自動運転の場合、最大の目標は人間が起こす事故率よりも自動運転の起こす事故率を低くすることである。もちろんゼロにすることはできないであろう。そして実験段階では一時的に自動運転の事故率の方が高くなるのかもしれない。しかしそれを問題にしすぎて解決の糸口を見いだせないようであれば本末転倒だ。将来の自動運転事故率の低下を目標に、慎重に実験開発を進めるしかない。

少し話が逸れたが、自分自身の事に対しては1%の危険性を気にしすぎるのではなく、99%の事をポジティブに捉えることを心がけたいと思う。そのようなポジティブシンキングによって、自分の未来を開拓していきたいものである。