投稿者「木原 康明」のアーカイブ

数学以外では、完璧を目指さない。

世の中には完璧主義者と言われる人たちがいる。何事も完璧でないと気が済まない人たちだ。完璧と言うと素晴らしい事のように思えるが、僕はむしろ完璧を目指すことから来る弊害と言うものは非常に大きいように思える。何事もちょっと緩い方が良いと僕は感じるのである。そもそも何事も完璧であると息苦しい。そもそも全ての事に対して失敗しない人はおそらくいないと思うし、それに失敗をすることによって気づくこともたくさんある。もし成功してしまえば(極論的に言えば)それで終わりである。失敗するからこそ次があるのである。そういう意味で、僕はどれだけ失敗し、そこから立ち上がっていくかと言うことが非常に重要だと考えている。

しかし完璧でないといけない学問がある。それは数学である。数学は完全論理の世界であり、虫の穴一つ見逃してはいけない。もしかしたら虫の穴くらいは見逃しても良いのではないかと思うかもしれないが、数学においてはその虫の穴が致命傷になることが多いのである。重箱の隅を突いているようなことが、実は重大な意味を持つ事があるのである。そして当たり前の事のように思えることが、実は全然当たり前ではなく反例が出て来る。そしてそのような反例から新しい数学が生まれるのである。

数学に比べると、物理学と言うものは幾分いい加減である。そこが良いところでもあり良くない所でもある。数学の極度な完璧性に音を上げて物理に進む研究者がいる。昔の僕も、物理の適度に緩いところが良いと思っていた。しかし今は数学の完璧性のとりこになっている。物理でも数学的な完璧性を目指す数理物理をやっているのもそういう理由があるのかもしれない。そしてそのような完璧性を突き詰めて行くと、やはり最終的には数理論理学(数学基礎論とかロジックとか言う)に行きつくのではないだろうか。究極的にはやはり宇宙と言うものを論理学的に構成したいものである。

僕は日常においては全く完璧主義者ではない。と言うよりむしろ平均的な人よりも緩いと思っている。そしてこれまで様々な数学者を見てきたが、意外と日常においては緩い数学者が多いように思える。やはり数学における完璧性と、日常における緩さを使い分けることが非常に重要だと思う。なので数学以外の事は完璧を目指さない方が良いと僕は感じている。

本とは紙ではなく情報を売っている。

最近、電子書籍を積極的に活用し始めた。初めはやはり紙の本にこだわり、電子書籍では頭に入らないのではないかとも強く思っていた。実際、電子書籍を読み始めた頃は、やはりパソコンやスマホ上で本を読むことに少し慣れなかった。しかししばらく電子で読んでみると意外と普通に読めるし、寝る前のベットの中でスマホで読書したり、さらには持ち運びにも非常に便利だ。ただ現在はコロナ禍で外に持ち出す機会はほとんどないが。

そもそも本とは紙自体を売ることが目的ではなく、本の中に書かれている情報が目的だ。もちろん、紙の本を所有することには一種の満足感を覚えるし、紙には紙の良さもある。ただ紙と電子の良さを天秤にかけた時、どちらの方がメリットがあるのかと言う問題だ。だから電子の方が良いと思えば電子を読むし、紙の本が欲しいと思えば紙を買う。

では、紙の本が良いのはどういう時か?僕は専門書に限っては紙の本が良いと思っている。パラパラとめくって全体像を確認できるし、実感としては紙の本の方が集中できる。しかし一般書に関してはこれからは電子で読んでいくことになるだろう。

昔、僕が学生時代だったころ、僕は専門書を買いまくっていた。ある意味「専門書コレクター」と言う感じであった。しかし意外にも、今となってそれらの本が威力を発揮している。数学や物理の専門書は数年数十年で色あせることはない。それどころか、最新の本よりも昔の名著の方がはるかに得る物があることが多い。当時、果たしてコレクターであって良いのか?と悩んでいたが、今となってはそれで良かったと強く思っている。しかし本の本質はその中にある情報である。だから紙の現物にこだわることは的を得ていない。 これからは、今まで集めた本に込められている情報を基に、具体的な結果を出していくために進んで行くだけだ!

命を守る経済。

人々にとって経済とは単純に言えば金儲けの事であり、いかにして利益を出すかと言うことが一番の関心ごとではないだろうか?平時であればいかにして多く儲けるか?そして政府にとってもいかにして黒字を増やすか?と言うことが最重要課題であろう。しかし現在のような緊急時においては、かなり様相が変わって来る。

今一番大事なのは、いかにして国民をコロナから守るか?一人でも多くの人間の命を守ることだ。そして人々を感染から守ると同時に、人々を経済的死から守ることも重要である。コロナにかからず生き延びても、経済的死によって自殺する人が出て来ることは容易に想定できる。先日もとんかつ屋の店主が火を付けて自殺したと言うニュースがあった。このような緊急時において大切なのは、命を守る経済だと言える。

現時点に限れば、裕福になる経済を目指すことは無力であるし、そのような事はコロナが終息してから考えればよい。むしろ今はセーフティネット経済が必用である。今生き延びるための資金をどう獲得するか?そして今の仕事・事業をどう維持していくか?現在の状況を考えると、やはり国の支援なしでは切り抜けられない。コロナ禍は努力だとかそういうこととは関係なくやってきて、また今ある経済的苦しさは事業内容に大きく左右されると言える。そして今切り抜けた後にどう回復するかと言うことも重要である。経済的命と生命的命、両方を守る政策が必要になってくる。

しかしこれが一か月二か月で終息するのなら我慢して持つかもしれないが、先が全く見通せない。医学的一般論で言えば、ワクチンができるまでは完全に終息させることは難しい。そのワクチンも早くて一年かかると言われている。例え最短で一年で回復するとしても、そのような確信がなければ続けるのは難しいし、そもそも一年持たすには相当の余裕がなければ難しい。

今、命を守る経済を立ち上げなければならない政府。しかし安倍首相の現在の実行力は何とも心もとない。正直安倍政権のままで現在のコロナ禍を乗り越えられるとは思えない。しかし現在の野党は最弱である。現在は経済だけでなく、政治的にも戦後最大の危機だと言えるのではないだろうか。

ITにできないことは何か?

ここ数年、ITによって何でもできると言う風潮が強くなっていた。ITによって飛躍的に便利になり、極端な話ではAIが全ての仕事を請け負って人間は何もしなくていいと言う話までされることもあった。しかし今回のコロナ禍によって、ITの限界が露呈したように僕は感じる。

ITが発達しようとしまいと、人と人が対面すると言う行為の重要性は全く変わらないし、確かにITによって人と人が連絡する手段は飛躍的に向上したが、人と人の触れ合いそのものはほとんどITとは別の話である。今あらゆる物事をITによって解決しようと言う動きがあるが、それと同時にITではできない事、つまり人間の営みの本質的なところの重要性が認識されつつあるのではないかと僕は強く感じている。

例えば、好きな女の子と会いたいと思ってLINEで連絡を取ることはできるが、ITが男女の深い付き合いを結び付けてくれるわけではない。やはり最終的には人間の、男と女の感情と古典的行動によるものである。そしてビジネスにおいても業種にもよるが、全てがITで完結するわけではない。

現在ITと言うものが非常に重要視され、ビジネスにおいてもその中心に置かれることも多いが、これから数十年スパンで見るとITの価値と言うものは下がっていくのではないかと僕は思っている。それに対して、人と人が直接会うと言う古典的な行為の持つ価値が非常に高くなると僕は考えている。確かに人と人が会う前段階、つまり連絡を取り合うとか大まかな相性を占うと言うことはITでいくらでもできる。しかし最終的な決断は人間の古典的な判断にかかっている。

これから先、ITにできることはどんどんITに任されていくとは思うが、それと同時にITにできない事の価値はどんどん高まっていくはずだ。そしてその結果残ったものが真に価値あるものであると僕は考えている。

蓮舫氏「学校を辞めたら高卒」発言。

コロナ禍と言うものは、人間の本性をむき出させるものなのだろうか?今回の蓮舫氏の「学校を辞めたら高卒」発言は、蓮舫氏の、あるいは人間の奥底に潜む本性を現したものだと言える。しかしこの発言に関する問題は、蓮舫氏だけではなく、日本の社会に潜む問題だと僕は考えている。

今、学生が非常に苦しい立場に立たされている。学校には行けない上に、学費だけがかさんでいく。親も苦しいうえに、学生自身もバイトによる収入を絶たされている。学問を学びたい学生がその道を断たされるのは、学生本人にとっても国家にとっても大問題である。そういう意味では、蓮舫氏の発言も分からないこともない。

しかし蓮舫氏の発言は、社会に潜む問題意識を投射したものでもある。それは「学歴至上主義」と言う社会問題である。僕はこれまで、高卒であってもビジネスの世界で活躍する人物を見て来た。そして大リーガー・ダルビッシュ選手は自ら、「自分は実質中卒である」と語っている。しかしダルビッシュ選手は世界トップレベルの世界で大活躍している。このような人物たちを見ていると、決して人間は学歴ではないと強く感じる。逆に学歴だけあっても何の才能も見いだせない人も多い。

しかし現実問題として、学歴がある人が優遇される現実もある。もちろん、大学に行って知識や技術を学び、それを評価されているのならばまだわかる。しかし学歴だけを見て才能を見なければ本末転倒である。

僕自身は人間性に学歴は関係ないと思っている。僕は人から聞かれれば学歴を答えることもあるが、自らは自分の学歴を言うことはほとんどない。大学時代には、学歴にこだわる無能な人間も何人か見て来た。人間性や才能に学歴は関係ない。しかし才能や意欲がある人間が大学で学び才能を高めることを阻んではいけない。今回の蓮舫氏の発言をきっかけに、今の表面だけを見る学歴至上主義が少しでも変わればと強く思っている。

大事なものを、一つ決める。

今コロナ禍によって、あらゆるものが壊滅的な被害を被っている。このような中、明らかに自分に関わる全てのものを守ることは不可能だ。平時なら大切な全てのものを手に入れて守ろうと言うことが可能かもしれないが、今はその中から大事なものは何かと優先順位を付けて、本当に大事なものを守ることに全力を挙げなければならない。

自分にとって大事なものは何か?それはお金か?家族か?仕事か?それとも健康か?それは人それぞれであろう。もちろんどれも本当に大事なものばかりである。しかし今は緊急時である。どれかを完全に捨てると言うことはできないが、大切なものから順に守って行かなければならない。そのような時に、自分にとって絶対的に大事なものを一つ決めておくことは非常に重要である。一つに決めたからと言って他のものを捨てると言う訳ではなく、一つを徹底的に守ることによって他のものを守ることにつながるのである。

例えばお金が一番重要だと考えるのならば、お金を死守することによって家族を養うことができるし、そしてそのお金で病気を治療することができる。お金のことを話すことを毛嫌いする人が多いが、お金は大切なもの、大切な人を守る重要なツールなのである。

とは言え、政府の政策において一つだけを特別扱いするわけにはいかない。しかし繰り返すが今は緊急時である。政府の政策にとって最も大事な事は何なのか?それは言うまでもなく国民の命である。しかし国民の命を守るためにも経済は重要である。他国では経済が成り立っていないが故に国民の命を守れていない国がある。日本の治安が世界トップレベルであるのも、高度な経済レベルであるが故ともいえる。しかし現在のアベノミクスにこだわる経済対策には賛同できない。今は国民の命を守るための経済が必用である。アベノミクスから命を守る経済へ転換できるか?今、安倍首相はその手腕を試されている。

本は二度読む。

小説なら一度読んで満足すればよいが、科学書・専門書は基本的に繰り返し読むことを前提に作られている。もちろん読み方は人それぞれ様々だが、例えば僕ならば、一度目は風を切るように猛スピードで読み、二度目はじっくりと手を動かして計算しながら読むことにしている。一度目に風を切るように猛スピードで読むのには理由がある。まずは細部にこだわらず、全体像を掴むためだ。計算もできるだけ頭の中だけで完結させる。これが意外とじっくり読むよりも理解が深まるものである。

現在のコロナ禍の中で家で過ごす人が多いので、今本が非常に売れていると聞く。何冊も手にして数千円分まとめ買いをする人も多いらしい。本はただではないので買うのにはもちろんお金がいるが、そうは言ってもその他の出費に比べたらそんなに高くはない方だと思う。少なくともほとんどの人は、毎月の本代よりもスマホ通信料の方が高いのではないかと思う。もちろん僕のようなホンゲル係数が異常に高い人間もいるが、普通はそんなに本代に出費する必要はない。さらに図書館を利用すると言う手もある。

今、暇で時間をもてあそび、パチンコに入り浸っている人が問題になっている。パチンコ屋はまさしく三密の代表でもあり、自分からコロナにかかりに行くようなものである。そして得る物はほとんどない。たまに運よくお金が入ることがあるようだが、僕には全く理解のできない世界である。家で本を読んだ方がよっぽど得る物はあるのにと、パチンコに行く人たちが可哀そうに思う。おそらく本と言うものの意義が理解できないのだろう。

今のコロナ禍は、読書をするチャンスだ!確かにコロナ禍によって仕事も減り、収入も激減し、さらにコロナ感染の恐怖から憂鬱になるであろう。このように全てがネガティブな方向へ進んで行くように思えるかもしれないが、だからこそこのような中でポジティブな事を考えることが重要なのではないだろうか。そして本はそのようにポジティブになるための大きな手段になる。災い転じて福と為す、そのように簡単にはいかないかもしれないが、しかし何もしないでパチンコなどに行ってしまえば災いがさらに不幸を呼ぶことになる。今このような時だからこそ本を読んで地力をつけ、コロナ禍が去った後に攻勢をかける準備をすべきではないだろうか。

二択ではなく、確率で。

今のコロナ対策でも言えることだが、物事を判断する時に、できるできないの二択ではなく、どうすれば成功する確率が高くなるかと言う視点で考えることは非常に重要である。例えば、どんなにコロナ対策をしていても、100%コロナを防ぐことは不可能である。もし防げるか防げないかと言う二択で考えると、100%防げないのなら対策をしても無駄だと言う考えになってしまう。しかし重要なのは、いかにして感染の確率を低下させるかと言うことだ。例えばマスクは必ずしも効果があるわけではないと言われているが、感染の確率を低下させることは明らかだ。少なくとも飛沫感染の確率をかなり低下させることはできる。完全に防げるからではなく、感染の確率を低下させることができるからマスクをするのだ。いわゆる三密を避けると言うことも、感染の確率を低下させるための手段なのである。

確率とは統計と一緒にして考えられることが多い。数学書でも「確率・統計」と言うタイトルのものが多々ある。確率と統計は切っても切り離されないものだ。現在のコロナ対策においても、特に政府などの判断材料は、感染の数理的モデルを基にして決められていると考えられる。コロナ対策と言うと医学的な知見から決断すべきだと思われるかもしれないが、実は市中でどのようにウイルスが広がっていくかと言う予測は、医学的知見とはある程度独立に数理的モデルによって決めることができる。一人の感染者から何人に感染するのか?そして民衆のうちどれくらいの人が感染して、どれくらいの人が抗体を保持しているのか?そのようなデータを基に感染の時間的予測が立てられる。

それらの数理的モデルによると、パンデミックを終息させるためには二つの手段しかない。一つは民衆の多くの人が抗体を持つまで広がってしまうこと。もう一つはそのような抗体を持つ人をワクチンによって人工的に増やすことだ。すなわちある意味、最善の策はワクチン一択と言える。ワクチンができるまでどのように維持するか?それは医療のキャパシティを超えないように、つまり一時的に激増しないように感染者のカーブを緩やかにコントロールすることだ。

多くの人は物事に白黒をつけたがるが、このように物事を確率的に考察することは非常に重要であり、また非常に効果的でもある。物理学では20世紀初めまで決定論的な見方が支配的であったが、量子論と言う確率的な見方が入り込んできた。そして経済学などでは統計に基づく確率論的思考が重要になることは言うまでもない。一人の人間としても、白黒の判断だけではなく、確率的に物事を捉えることが非常に重要なのではないかと僕は非常に強く感じている。

危機と平時。

現在は明らかに危機、つまり緊急時である。世界がコロナ禍に見舞われ、それぞれの国の首長はその対応に追われ、またその対応によって株を上げる首長も出てきている。危機時に強かった政治家と言えば、僕の印象では真っ先に元ロシア大統領・エリツィン氏が挙げられる。彼は危機によって持ち上げられ、平時になるにつれ見放されていった。逆に平時には堅実な政治を遂行できるが、緊急時には即座に対応できない首長もいる。なかなか平時にも危機時にも強いトップと言うものはいないのかもしれない。

では安倍首相はどうなのか?彼はこれまで平時の政策によって株を上げてきた首相だと言える。リーマンショック(麻生政権)の後のアベノミクス、東日本大震災(民主党政権)後の復興と、危機時にはそれぞれ他政権だ。しかし現在、コロナ禍と言う想定外の危機が日本、そして世界を襲っている。その時に安倍首相は何を為したか?他国の首相・大統領が決定的な決断を下す中、安倍首相はズルズルと流され、仕方なしに苦渋の決断を下したように思える。そこには国民を守ると言う意識は見えてこず、軽症で済めばラッキーと言うような保身に走ったようにしか見えない。すなわち安倍首相は危機に非常に弱い首相だと言わざるを得ない。

今の安倍首相は、首相の在任記録の更新に気が行っているのか?それともこのコロナ危機時においても憲法改正を第一に考えているのか?少なくとも国民の命の事を考えているようには思えない。経済対策を否定するつもりはないが、国民の命よりも経済、つまりアベノミクスの方が大事なようである。

今は政治においてもトリアージが大事だと僕は考えている。全ての事、つまり経済と国民を守ること全てを最高の状態に維持することは不可能だ。だからこそ全ての事柄において優先順位をはっきりと付け、その優先順位に沿って物事を進めるべきである。今の安倍首相はその優先順位が間違っているか?それともそもそも優先順位を付けていないのか?どちらにしても正しい優先順位に沿って決断を下しているようには思えない。今、コロナ危機脱出に向けて明確な指示を出せるトップが必要なのではないだろうか?少なくとも現在の安倍首相にはそれができるとは思えない。

人脈と金脈。

人脈と金脈と言えば、立花隆氏の「田中角栄研究―その金脈と人脈」が有名だが、この記事は僕が生まれる前に書かれたもので、僕自身もこの記事を直接読んだことはない。しかし田中角栄氏の失脚へとつながった非常に有名な記事なので、このタイトルは幾度となく聞くことがあった。

人脈と金脈とは、非常に的を得たタイトルだと僕は強く感じる。なぜなら、政界で権力を持つためには、人脈と金脈を手に入れること、これに尽きると思うからだ。しかしこれは何も政治家だけの話ではない。ビジネスであっても人脈と金脈を掌握することは非常に重要だ。なので組織で人の上に立ちトップとして君臨しようと思う者は、この「人脈」と「金脈」という二つの言葉を銘じておくべきではなかろうか?もちろん、何事においても実力を付けることが非常に重要だ。しかし人脈と金脈を掴むことは大きな実力ではないかと思う。

ただ、人脈と金脈を掴むことは、その向き不向きがあるのではと感じる。僕には圧倒的に不向きな事である。なのでもう数学と物理の研究をするしかないが、それはそれで良いと思っている。なので、田中角栄氏のように人脈と金脈を掌握する力世界の頂点に君臨する者に対しては、その人物とその世界に対して非常に興味がある。田中角栄氏とは何者だったのか?その片鱗だけでも知りたいものである。

では、それを知るためにはどうすれば良いか?もちろん直接田中氏に接すればよいのだが、僕はそのような立場ではないし、そもそも田中氏はすでに故人である。知ってどうするんだと言う話だが、それは僕が全く持ち合わせていないものに対する一種の憧れだ。僕とは全く異世界に存在する田中角栄氏、そしてもしかしたら大企業を束ねて巨額投資する孫正義氏なども人脈と金脈を掌握する達人なのかもしれない。そのような世界を知ることには非常に興味があるが、僕はせいぜい立花隆氏の著書を読んで知るくらいしかできない。そしてコツコツと専門書と論文を読んで行こうと思う。