投稿者「木原 康明」のアーカイブ

必要最低限の事をこなせばいいのか?

僕の失敗談。

”ついつい余計なこともしてしまって、大目玉をくらう”

何をやっても、求められていること以上のことをしようと思ってしまう。言い換えれば、余計なことをしてしまうとも言えるが。プラスαのことが余計なことになった時、大目玉をくらってしまう。

よく言えば、サービス精神旺盛ということかもしれないが、多くの人たちにとってそんなことは望んでいないということかもしれない。

必要最低限のことを続けることは、現状維持ということかもしれない。しかしそれ以上の発展を望むならば、プラスαは欠かせない。

必要最低限の事だけをしっかりこなす人を見ると、頭がいいなと思ってしまう。自分はバカなのだ。しかしこの自分のバカさ加減を直そうとは少しも思わない。なぜなら、常に上を目指しているから。

いつまでも自分はバカで居続ける・・・

将来の夢が「病理医」の女の子。

この女の子とは、中学生になったばかりの女優の芦田愛菜さん(12)である。

小学生・中学生に、将来の夢は?と尋ねると、たいてい定番の答えに落ち着く。男の子だと、プロ野球選手など、女の子だと、ケーキ屋さんなどであろうか。そして男女両方の上位に来るのが、医者である。

医者に憧れるのにはいろいろな理由があるだろう。人を助ける仕事がしたいからというのもあれば、高収入だからというのもあるだろう。高収入だからというのは大人の影響を受けすぎなような気もするが、それで立派な医者になってくれるのなら大歓迎だ。

話しは芦田愛菜さんに戻るが、芦田さんの(現在の)夢は、「病理医だ」と言ったらしい。医者と言わずに病理医といったところに視野の広さを感じる。病理医は、患者の組織検査などをして病気の原因を突き詰めることを主とする。大人でも病理医の存在を知らない人は多いだろう。芦田さんは、子供の頃から女優をされており、社会の様々な側面を小さなころから垣間見ることがあったのだろう。その中で、僕もなぜだかわからないが、芦田さんは病理医に魅かれた。

この芦田さんの視野の広さと社会に対する観察力は、大人も見習わねばならない。

現在、医者の人気は過去にないくらい高まっている。子供を医者にしたい親も多いだろう。しかし本当にやりたいこと、面白いことは何かを吟味して、注意深く社会全体を観察し、それでも医者ならば医者のどういう所が魅力で、具体的にどういう行為を行う人たちなのかを知らねばならない。それができているから芦田さんは病理学という具体性のある答えを出せたのだと思う。華のある職業は多いが、我々が見ているのは所詮表面的な部分だけで、いいところしか見えてないのだから。

政治は安全保障こそ軸だ!

最近の政界は、安倍一強政治と言われ、与党政治家の間では政治的危機感が緩んである。閣僚の問題発言あり、森友問題あり。特に森友問題では首相が直接関係する案件であり、その対応には首をひねる人も多いであろう。もちろん僕もそのうちの一人であるが。

にもかかわらず、安倍内閣の支持率は高止まりしている。その理由はこのことにあるのではないか。

「全ての政策は、安全保障がしっかりとなされているという前提条件のもと、遂行される」

これは当たり前と言えば当たり前のことである。消費税が負担だとか、福祉が弱いなど、政治に不満をぶつける人は多いが、これらは安全保障が保たれているという前提条件のもと。安全保障が崩れれば、消費税どころの問題ではない。安全保障には多くの国民の命、そして平和な生活がかかっているのである。

安倍首相の政治にはなんだかんだと問題はあるが、安倍氏はどの政治家よりも安全保障政策に対してはしっかりと取り組んでいる。強権政治的なところもあるが、安全保障に関しては先手を打っている。日米同盟の強化も然りだ。

現在、日本周辺の政情は不安定だ。北朝鮮に関しては言うまでもない。中国との関係もいつどう転ぶかわからない。次期韓国大統領候補は日本のことを「敵性国家」と呼んでいる。

これから安全保障政策はより重要になることはあっても、軽くなることはない。現在の東アジア情勢は混乱への序章なのか、それともこれから落ち着いていくのか、未来は簡単に見通せないが、とにかく現政権の抜かりない安全保障政策の継続が強く求められている。

憲法第九条をどう考える?

安倍政権になってから、改憲の動きが活発になっている。戦後に公布された日本国憲法は、一度も改憲されたことがない。なので多くの日本人にとって憲法は永久に不変なものだと認識している者も多いが、世界的にみると、70年も改憲されていない国は日本くらいのものだ。他国では頻繁に改憲されている国もある。

憲法改憲の議論で一番の焦点になるのは、間違いなく第九条であろう。いわゆる平和憲法と言われている根源だ。憲法のことをよく知らない人でも、憲法第九条については知っていると言う人も多いだろう。

憲法第九条は改変するべきのか?保存するべきなのか?

憲法第九条には手を付けるべきではないという意見は多いと思うが、その一番の原因になっているのはもちろん教育であろう。現在の学生のことはよくわからないが、少なくとも僕らの世代以前の人にとっては、「憲法第九条があるから現在の日本は平和であるので、絶対に憲法は変えるべきではない」ということを、小学、あるいは中学で教えてこられた。その影響は非常に大きい。

なのになぜ、現在改憲なのか?もちろん一番の原因は日本周辺の国際情勢、そして国連活動などに対する国際貢献への自由度を高めるということだろう。

日本がどうあろうと、地政学的リスクは変えられない。中国・北朝鮮という脅威からは逃げられないし、現在も北朝鮮のミサイル発射による脅威は高まりつつある。

いくら日本が平和平和と叫んでも、脅威からは逃げられない。それにもかかわらず現在日本が攻められないのは、間違いなくアメリカの軍事的保護下にあるからだ。第九条存続を訴えることは、永久にアメリカの軍事的保護下にいようと言うことと等価だ。しかしそのようなことが永久に続くとは限らない。

とは言え、”平和思想”としての第九条は非常に重要である。日本の憲法第九条の存在は、世界に向けて平和を発信している。即ち、第九条の存在そのものが価値あるとも言える。

読売オンラインで、第九条は誰が作ったかということが議論されていた。当時の幣原喜重郎首相説とマッカーサー説が有力であるらしい。幣原説=護憲派、マッカーサー説=改憲派という構図であるそうだ。もちろんこのような議論は学問的にも意義あるものだとは思うが、憲法第九条に対する議論の核心はそんなところにはないように思えてならない。

第九条の議論は、「どうすれば日本が、そして世界がより平和になれるか?」それに尽きるのではないかと思う。もちろんこのことを具体的に詰めるのは容易ではない。なにしろ未来を見通さなければならないのだから。とは言え、形式的な不毛議論で判断することは、できるだけ控えなければならない。

尾崎豊。

尾崎豊が死去してから、今月でちょうど25年になる。尾崎が死去したのは、僕が中3か高1の時である。

尾崎豊が死去した時は鮮明に覚えている。とは言え、尾崎が死去した時点で僕が知っていた尾崎の曲は、「I LOVE YOU」など数曲に過ぎなかった。すなわち僕は尾崎が死去した後に尾崎を詳しく知ったうちの一人だ。

現在の学生にとって、尾崎の歌詞は非常に古く思えるかもしれない。今の僕が見てもそう思う。しかし、尾崎の歌詞には、人間にとって普遍的な思いも多く含まれる。自分の意志で行動し、「長いものには巻かれろ」という言葉に反骨する精神の持ち主なら、なおさらだと思う。

僕の好きな尾崎の曲の一つに「COOKIE」がある。この曲は、当時の世相に対して疑問に思うことが素直に綴られている。愛しい人が作るクッキーと温かいミルクに心を寄せ、それに対極にある世間・社会の画一さ・おかしさに疑問をぶつけている。その尾崎のCOOKIEに、自分が抱く疑問を重ねたものだ。

最近、音楽業界が盛り上がっていないとよく聞く。もちろん、第二の尾崎が現れたとも聞かない。世相の全く変わった現在では、第二の尾崎は必要ないのかもしれない。大事なのは、第二の尾崎ではなく、第一の何かである。二番煎じでは説得力にも欠ける。

尾崎の歌に学生時代の自分を思い出し、それでも自分にはやっぱり岡村孝子の曲がしっくりくると、繰り返し中学時代から好きな岡村孝子を今でも聴いている。

言い訳。

なんだかんだと書くのをさぼっていたら、あっという間に半月が経った。久しぶりのブログ執筆である。

去年の途中から書きたい時に書こうと思い、毎日執筆するのを投げ出してしまったが、2015年1月途中から2016年途中まで、一年以上、一日も欠かさずにブログを執筆していた期間があった。その時は勝手に手が動くかのように執筆できていたが、毎日書くのを止めてから、少し手が重いように感じるようになっていた。

今月はブログの執筆はなかったが、過去の記事に対するコメントがあり、数往復の熱いやり取りをし、エキサイティングでもあった。

突然だが、思うところがあって、再び毎日の執筆に挑戦しようと思う。このブログの執筆を毎日の習慣とし、毎日お届けしようと思う。毎日執筆するとなると、良い記事もあればくだらない記事も出てくることもある。くだらない記事の時は容赦願いたいが、できるだけ良い記事が書けるように努力するつもりである。

ところで、僕は物事に対して、ついエキサイティングなことを望む癖がある。普通に過ごすのは平和でいいのかもしれないが、つい刺激が欲しくなる。お金の賭け事は全くしないが、人生の博打は常にしている。極端に言えば、「死ぬか生きるか」。ハイリスク・ハイリターンと言いたいところだが、現状はハイリスク・”ロー”リターンになってしまっている。とは言え、いろいろな意味でローリターンで終わるつもりはない。僕はいつもギラギラしている。良くも悪くも常に大きなものを目指している。しかし長い目で見るのもいいが、長く見すぎて結果が出せない。そろそろ結果を出さなければ!

プロ野球の大谷翔平選手ではないが、二刀流するときは、サブのことも全力でしなければならない。そんな当たり前のことに今日気付いたのである。

本業を思いっきりするためにも、サブも思いっきりしなければならない。そうでないと、サブが足かせになり、制約を受けてしまう。

とにかく、今できる事を全て思いっきりやり抜こう。もちろんブログも!

これからも、よろしくお願いします。

理研・高橋政代プロジェクトリーダーのグループが、眼科・iPS細胞・網膜移植に成功。

平成29年3月28日、iPS細胞を使った眼科臨床治療をリードする、理化学研究所・高橋政代プロジェクトリーダーのグループが、iPS細胞由来の網膜移植の臨床実験に成功した。正式な実験名称は、

「滲出型加齢黄斑変性に対する他家iPS細胞由来網膜色素上皮細胞懸濁液移植に関する臨床研究」

という。

実験名称を読んでも、何が何だかよくわからないが、単純に言うと、他人から作成されたiPS細胞から網膜を作成し、移植したと言うことだ。プレス発表によると、この臨床は世界初だそうだが、”本人”由来のiPS細胞による同様の移植は、以前、今回と同じ高橋政代さんのグループが成功したように記憶している。すなわち今回は「他人」の細胞由来というところがポイントだ。

iPS細胞研究は、山中伸弥所長のiPS細胞研究所を起点として、臨床実験がこれから広がろうとしている。その臨床の最先端を行くのが、高橋政代リーダーのグループだ。

iPS細胞研究・医療の大きな特徴は、複数の機関が連携し、役割分担がされていることだと言えるかもしれない。今回の網膜移植臨床でも、理化学研究所・京都大学iPS細胞研究所・大阪大学・神戸市立医療センター中央市民病院の4機関が連携して行われている。

僕は海外のiPS細胞研究の事情はよくわからないが、おそらく日本はリードしているのではないかと思われる。とは言え、以前、山中伸弥教授は「iPS細胞研究・医療は、日本とアメリカは1勝9敗だ」と言われていた。すなわち、最初に発見したのは(もちろんこれが一番重要なのだが)日本(山中グループ)だが、それに続く研究ではアメリカが勝ち続けていると言うのである。

高橋政代チームの臨床は、これから数十年に及ぶであろうiPS細胞医療の行方をうらなうものだ。そういう意味でも今回、高橋政代チームが新たな臨床の初例に成功した意味は非常に大きい。

これからの日本におけるiPS細胞医療の大きな発展を祈るばかりである。

今、仮に政治家になるとしたら、どの党でどうすればエキサイティングか?

最近、国会では森友学園問題で盛り上がっているが、今、もし自分が政治家になるとしたら(なれないけど)、どうすれば面白いか?

僕自身は現在、どの党を支持しているかと言われれば、「自民党」だと答える。しかしもし自分が政治家になれるとしたら、どの党に入りたいかと問われれば、「民進党」と答えるかもしれない。

なぜか?それは民進党がどん底まで落ちぶれているからだ。その傾向は蓮舫体制になってさらに加速化してきた。それに対して、自民党政権は様々な問題があるにしろ、民進党に比べれば格段に盤石だ。

民進党がどん底の状態であるということは、言い換えれば後は、昇るか消滅するかのどちらしかない。民進党ベテラン人があれだけ体たらくだと、若手が変えるしかない。ベテランに対する支持も非常に低い。だからこそ、若手が変革を起こす余地が大いにある。

それに対して、自民党は盤石すぎて若手が出る幕が少ないであろう。現在の自民党では、若手は雑巾がけをするしかない。

民進党の気鋭の若手と言えば前原誠司氏がいると言えるが、はたから見ていると前原氏は権力的な野望があるようには見えない。そこが誠実でいいところかもしれないが、政権を奪取してトップに立つためには強い野望も必要だ。

これからの民進党内で、暴れまわって自分の党を潰しにかかるくらい勢いのある若手政治家は現れるのであろうか?潰れてもおかしくない政党だからこそ、潰すの前提に変革しまくるのも面白いと思うのだが。

今の民進党の若手政治家は、非常にチャンスだと思ってほしいものである。

 

科学を知るとは、科学の限界を知ることである。

最近に限らず、科学を誤解している人が多い。

「科学の力で何でもできる」

あるいは、

「科学的に証明されたものは正しい」

など。

実際は、科学は万能ではないし、科学が常に正しいとは限らない。そもそも、科学は何かの役に立てるためにあるのではない。自然の真理を理解するためにあるのである。科学が役に立つのは、結果論に過ぎない。

そして、科学は常に正しいわけではない。科学の世界では、「今日の本当は、明日の嘘」なんてことは多々ある。このことをわきまえていないと、ちまたで「これは科学的に証明されています」という言葉に乗せられて、何でも信じ込んでしまう。

科学を追究するたびに思うことは、自然にはまだまだ分からないことがたくさんあるということだ。科学を理解するたびに、科学の限界も見えてくる。限界が見えるからこそ、その限界を突破しようと突き進む力があふれる。

科学には限りない力があるのかもしれない。しかし、もし科学の限界が何も見えていないならば、それは科学を全く理解していない証拠である。

なんだかんだと理由を付けて、うだうだする自分が嫌いだ。

昨日(3月9日)もうだうだしたした一日だった。ウダウダ・・・・

理由は、寝違えて首を少し痛めたから。

自分はもしかしたら、100%の状態でないと進めないと思っているのかもしれない。

30%の力しか出せないのなら、30%だけ進めればいいのに・・・

何かと理由を付けてうだうだしている自分が嫌だ!

努力したい!

もっともっと努力したい!

何も常に最高のパフォーマンスを出せなくてもいい。

その時にできる範囲内で、できる事だけをすればいい。

明日は何を理由にウダウダするのだろう?

というふうにならないように、一日一日コツコツと頑張ろう!