投稿者「木原 康明」のアーカイブ

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、安倍氏支持の僕からしても見るに堪えない。

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、自民支持者にとっても見るに堪えないものになっている。

加計学園問題の内部調査の目的は、内部告発者探しとなっているとも言われ、法案はことごとく強行採決という状況だ。強行採決が通るのは数の論理である国会では当然とも言えるが、その責任は選挙で投票した国民にもある。

確かにこれまで日本国は安倍首相・安倍政権に何度となく救われた。特に対韓・対中関係ではむしろ、強権安倍政権によって国益の損失を最小限に抑えられたと僕は思っている。しかし最近の安倍政権周辺、そして安倍首相の答弁を見ていると、そろそろ安倍政権の終焉が近づいていると感じられてならない。

そこで問題になるのは、安倍氏に代わる政治家は存在するのか、という問題だ。この問題に対して、僕は石破茂氏に期待している。

僕は何度もこのブログでも書いているが、石破かぶれだ。石破茂氏には一国民として絶大な信頼を置いている。(僕と石破氏の間で利害関係はもちろん全くないし、接点もない。)しかし、現在の石破氏の状況は孤立している。石破派はわずか19人だ。現状では総理・総裁選には全く太刀打ちできない。辛抱の時だ。

しかし、石破茂氏は総理の器を持つ、現在最も総理にふさわしい人物だと思っている。石破氏の良いところは、何事にも慎重に物事を進めるところだと言える。慎重に物事の本質を見極めようとする。そして防衛に関しては、非常に考えが深い。これは東アジアの軍事状況が不安定な現在では、非常に重要なことである。

ここで断わっておくが、僕は絶対に自民党でなければダメだとは思っていない。民進党でも前原誠司氏(元外務大臣)のような将来有望な中堅政治家も存在する。あるいはたくさんいる若手の中には、器の大きい政治家が埋もれているかもしれない。石破氏には頑張ってもらいたいが、政党にこだわらずニューフェイスの若手政治家の活躍にはさらに期待したいところである。

存在そのものに価値がある、”岩波文庫”。

近年、出版不況と言われているが、今でも膨大な数の新刊本が出版されている。その新刊本のうち、読む価値のある本がどれだけあるかと言われれば、ほとんどない。

しかし、読む価値のある本が集められている文庫がある。岩波文庫である。

岩波文庫には、基本的に新刊本は(ほとんど)存在しない。過去の名著ばかりが集められているからだ。分野の幅もしっかりしている。僕が岩波文庫でお世話になっているのは、主に哲学書。ギリシャ・ローマ時代から、近世・近代ヨーロッパ哲学、そして京都学派を中心とする日本哲学。どれをとっても一冊を何度も繰り返し読むのに値する名著ばかりだ。

岩波文庫の存在は、日本の文化レベルの高さを表している。岩波文庫の存在そのものに価値があるのだ。

どの分野でもいい。岩波文庫の中の一冊を熟読するのは悪いことではない。

靴を磨くこと、心を磨くこと。

僕には大切にしている一足(一対?)のブーツがある。そのブーツを買ってからもう5年ほど経つが、メンテナンスを欠かさずしているせいか、年々艶が増してきている。二週間に一回のブーツの靴磨きが習慣になっている。

靴磨きというのは不思議なもので、磨いて艶が出てくると、心まで磨かれたような気になる。靴磨きというと作業のように考えている人もいるが、靴は「育てるもの」と教えられる。

靴磨きは男のたしなみとも言われる。なぜ靴磨きがたしなみなのか?それは実際に磨いてみないと感じられないだろう。ただ確実に言えることは、靴磨きの習慣は、自分が人ととして上に上がるきっかけを作ってくれる。靴磨きに対する心は、あらゆるものに対する心に通じるものがある。

靴磨きが与えてくれるもの、「物を大切にする心」「物を育てる心」「他人に対する自信」「他人に対する好感」そして「自分に対する自信」。

こんなことを言うと少し大げさかもしれないが、靴磨きをきっかけにして、心も磨くのもいいものだ。

僕はまだ本気で頑張れていない。

僕は常に頑張っている。でも”本気”で頑張っているか?と問われれば「本気では頑張れていない」と答えるしかない。まだまだ甘いのである。心の中では、本気で頑張ろう、と思っているが、本気で頑張るということはなかなかできる事ではない。

しかし、過去に一度だけ”本気で頑張った”と思えることがあった。十数年前の事である。それをやりきった時は「もし結果がダメでもこれだけやったんだから悔いはない」と本気で思った。結果は・・・成功した。やはり”本気”で頑張れたと胸を張れるくらい頑張った時には、結果は嘘をつかないのかもしれない。

今、僕は一つの目標に向かっている。いろいろ雑音もあって信念がぶれそうになるときもあるが、目標に向かって進んでいる。しかし”本気”と胸を張れるかと言われれば、胸を張れない自分がいる。

体力的・精神的・環境的な様々な要因はあって決して簡単ではないが、また「本気で頑張っている」と胸を張れるように本気で頑張ろう。

過度な対策ではなく、適切な予防を。

最近は情報過多の時代だ。テレビ番組一つとっても、膨大な量の情報が垂れ流されている。それを無意識に聞いていると、危険性を訴える情報に対してあらゆることに対策を講じなければならない。しかしこんなことをしていては、心と体がいくつあっても足らない。

日常を生きていくうえで、危険は数えきれないほど存在する。極端に言えば、今日、歩道を歩いていて車が飛び込んでくるかもしれない。しかしこのようなことに対してどう対策をすべきなのか。実際対策のしようがないだろう。

重要なのは、危険に対してその危険性の度合いを正しく把握することだ。危険性の低いことはあまり気にせずに軽く、危険性の大きなことはできるだけ念入りに対策を。

一番危険な考え方は、大きな危険も些細な危険も同列で考えて、同じレベルの対策をしようとすることだ。そんなことをしたら、非常に息苦しくなるだろう。

危険性に限らず、物事を冷静に評価する頭は非常に重要だ。そしてあまりに考え込むようだったら、起こったら起こった時の事、その時に悩めばいい、というのも一つの手だと思う。しかし悩み多き人にとっては、このように考え方の方向を変更するのは容易ではない。ただ、危険性に敏感になりすぎて、悩みの先取りをすることだけはやめよう。

体と精神と頭脳を極める。

スポーツでは、「心・技・体を極める」とよく言う。これはスポーツ選手に限らず、仕事を、生き方を、人間を極めようと思う人なら、全ての人に通じるものがあるのではないだろうか。僕の場合、それが「体・精神・頭脳」だと思った。

好きなことを続けるためにも、そして好きなことで結果を出すためにも、この三つを極めなければいけない。

好きなことを仕事にするのは、非常に厳しい道だ。もちろん趣味のレベルならかなり気楽で楽しめるのかもしれないが、もし仕事にしたいのなら苦しいことも覚悟の上だ。仕事と言っても、ただお金がもらえたらそれが仕事だ、などというレベルの話をしているのではない。「プロフェッショナル」のレベルの話だ。

まずは、生活から突き詰めなければいけない。僕にとって一番難しいのが、睡眠のコントロール。そこからかなりストイックに進めていこうと思う。もちろん息抜きにビールを飲むかもしれない。しかしビールを飲むこと一つをとっても、ペースを乱さぬよう、量と時間を計算しなければいけない。

この様なことは今まで何度も考えてきたが、やはり睡眠が足かせになってきた。しかし懲りずに何度でも挑戦することをあきらめない。今度はできる(気がする)。

成功した後のことを想像して、発奮するのもいい。

失敗は悪いことではない。失敗を失敗で終わらさずに次に生かせば、失敗は経験値になる。失敗を繰り返し経験値を増やすことは、非常に大切なことだ。しかしやはり最終的な目標は成功することだ。

失敗を繰り返していると、時にはくじけそうになるかもしれない。そのような時に、成功した暁にはどのような生活が得られるか、どのような対価が得られるか、そのようなことを想像して、自分を発奮させる。ミッションを成し遂げることは夢だ。しかし夢は見るためにあるのではない。夢は成し遂げるためにあるのだ。

そのためには、社会が成功に見合った対価が与えられるかが重要だ。研究者だって対価は重要である。正確に成功の価値を評価される社会であることが重要だ。しかし今の日本がそのような社会になっているか、疑問である。

21世紀に入って以降、日本人のノーベル賞ラッシュが起こった。しかしよく言われていることであるが、それらの業績は20世紀後半になされたものが大半である。20世紀後半と言えば、日本全体がイケイケ、バブルもあった。ノーベル賞のいくらかはバブルの産物であったと感じている。

欧米では研究者のステータスが日本より高いと言われている。トップ研究者を非常に高い報酬で引き抜くということも日常茶飯事である。そのようなことは欧米だけでなく、最近はアジア、特にシンガポールなどではトップ研究者の引き抜きが激しいことで有名だ。

研究者には金は要らないなどという、くだらないたわごとを言っていると、日本の研究レベルは急降下することは目に見えている。研究者はボランティアで研究をしているのではない。プロとして仕事をしている以上、結果を出せば対価を受け取るのは当然であろう。

今の日本の状況だと、異能流出、第二・第三の中村修二が現れるのは時間の問題であろう。

プロスポーツ選手にとって、仕事道具とは。

最近、プロ野球・ヤクルトスワローズの山田哲人選手が、数年愛用してきたグラブを交換するにあたって、今まで使ってきたグラブを道具メーカーに飾るのか、山田選手の実家に飾るのかということが話題になっていた。そのグラブは非常に丁寧にメンテナンスされており、ほとんど汚れていなかったという。山田選手がどれだけ道具を大切にしていたかと言うことが非常に良く伝わるエピソードである。

現在、テニスは全仏オープンが行われている。錦織選手は残念ながら8強で敗退することが決まった。その錦織選手であるが、以前の試合でラケットを叩きつけ破壊したことが問題になった。これも錦織選手の道具に対する考えが伝わってくる出来事であった。

ところで、プロスポーツ選手の道具に対しての扱いは「大切にする」か「いい加減に扱うか」の二分にされることが多い。野球でも、グラブは大切にされるが、バットはへし折られるのがよくあるパターンだ。

そこで一つ気づいたのだが、どの道具が大切にされ、どの道具がいい加減に扱われるのかということを考えた時、大切に扱われるのは時間をかけてなじませ、数年間愛用されるような道具である。グラブもそうであろう。それに対して、テニスのラケット・野球のバットなどは、年間何十本も用意され、プロスポーツ選手にとってそれらは使い捨てに近いのかもしれない。もちろん使い捨ての道具に愛着はわかない。それが道具の破壊行為などのいい加減な扱いにつながるのかもしれない。

些細なことであるが、普段僕たちが使っている物なども、良いものをメンテナンスをしながら末永く使っていくか、安いものを使い捨てるか、それぞれ人の価値観の違いになるが、メンテナンスをしながら「道具(物)を育てていく」という行為は、物に対しての価値観として非常に重要ではないかと思う。

きっと山田哲人選手のグラブも、数年かけて育て、自分仕様に育て上げたに違いない。

さっそく試練が。

一昨日のブログで、汚れた人間の方が強いと言ったが、さっそくその”汚れ”に関して試練があった。具体的な事は書かないが、これは僕が試されているのだと思い、自分がどう対処すればいいのか考えたが、瞬時に出さなければいけない判断だった。

幸い、大きな試練ではなかったが、この試練を(大したことではないのだが)乗り越えたことによって、少し強くなれた気がする。少し汚れた気がする。そんな汚れた自分を大事にしようとも思う。

 

読書について。

とある記事で、読書には”情報系”と”人格系”があると書いていた。上手く表現したものである。

情報系の代表は新聞であろう。もちろん、新聞以外にもいろいろある。情報系の読書は、効率よく速くこなしていきたいものだ。

人格系の代表は純文学であろう。これらの読書は速読すればいいというものではない。じっくりと時間をかけて、内容を自分の中で描いていきたいものだ。

僕は最近はもっぱら情報系に偏っており、人格系はご無沙汰だ。

この二つに分類されるかどうかわからないが、専門書や論文を読むのには非常に時間をかける。内容を書いて、計算などを確かめていけば、膨大な時間がかかる。さらに洋書・英語論文だと、英語が大の苦手な僕にとってはかなり手こずってしまう。

人間の時間は有限である。従って、読みたい本を全部読むというのはあまり現実的ではない。哲学者ショーペンハウアーは「読書について」という本の中で、読書ばかりしすぎるのもよくないと述べている。おそらく”アウトプット”が大事ということであろう。

さあ、たまには純文学も読もうか。と言っても最近はご無沙汰なので迷ってしまう。