投稿者「木原 康明」のアーカイブ

現時点のAI(人工知能)と人間の頭脳の差は?

最近、AI(人工知能)関連のことを調べる機会があり、現時点でのAIと人間の頭脳の差が浮かび上がった。

結論から言うと「現時点では、AIは人間に遠く及ばない」ということだ。

しかし、分野を限ればその限りではない。囲碁の人工知能コンピューター”アルファ碁”がその典型的例だ。アルファ碁は、囲碁の世界のトッププロの囲碁士にも勝ってしまう力がある。ましてや素人は手も足も出ないだろう。しかし、このコンピューターは囲碁しかできない。もちろん仕様を変えれば他の事にも対応できるのであろうが、基本的に現時点でのAIは専門分野で威力を発揮するスペシャリストだ。

それに対して、人間が圧倒的に勝るのが、”総合力”だと言えるだろう。人間は日常生活において、あらゆることに対応しなければいけない。総合力に関しては、AIはまだ子供でさえもない。

それからもう一つ、”クリエイティブ”なことも、AIはまだまだ苦手と言えるかもしれない。先ほどの囲碁にしても、AIはしらみつぶしに有利なパターンを検証しているだけだ。

最近のAIの主流は、画像認識である。多くのAIは、画像認識を念頭に置いて構成されている。現在、開発熱が熱い、AIによる自動車の自動運転も、車の周囲の風景・状況の画像認識が基幹となる。画像認識ができる事は凄いが、しかし人間と比べれば所詮画像認識程度なのである。

数億年の時を経て進化した結果、完成された人間の知能は、まだまだバカにできない。

全く意味のない、悩みの生産工場。

誰でも悩みを抱えることはしばしばあるとは思うが、まだ起こっていないことで悩むことほど無駄なことはない。悩むのは、事が起こってからでいい。まだ起こっていない悩みの元は、ほとんどの場合起こらない。そんなことで悩んでも、良いことは全然ない。

しかし、悩みだしたらそれが無限ループになって、悩みの生産工場と化してしまうことがある。もちろん、そんなことにならない人も多いとは思うが、僕はしばしばそうなってしまうことがある。僕の非常に悪い癖である。

物事を始める時、最初から完璧を求めてしまうと最初の一歩が踏み出せない。始める時は多少いい加減なくらいがよい。完璧を求めだすと、またそれで悩み出してしまう。

この様に、いい加減な人間というのもしばしば良いことがある。いい加減と言うと何かだらしなくてネガティブなイメージがあるが、言葉を変えると「楽天的」と言うことになるのかもしれない。とは言え、楽天的な人間になろうと思って、楽天的になれるものではない。しかし楽天的になれなくても、起こっていないことで悩むことはやめにしよう。

グレーを白に持っていく力。今の日本社会と日本企業に足りないもの。

某SNSで、「昔、You Tubeは違法なものだと思って、見ないようにしてた」という投稿があった。この言葉に、日本企業の思想がそのまま表れているようで、かなりひっかかった。

You Tubeは違法かと考えてみると、かなり違法的な要素が多いことに気が付く。著作権なんてあってないようなものだ。もちろん、You Tubeを運営するGoogleはその辺の対策も講じてないわけではないが、規模が大きすぎていたちごっこになって全く追いついていない。

You Tubeを立ち上げた人たちは、もちろんそのグレー性を非常に認識していたことは間違いない。もし日本企業がしようものなら、即消えてしまっていたであろう。しかしそこはグレーゾーンの扱いに巧みなアメリカである。そのグレー性を巧みに潜り抜けて世界最大のメディアにまで高めてしまった。まさにグレーを白にしたと言えるのではないか。

日本企業はグレーゾーンの扱いが下手と言われる。それは企業の力によるものだけでなく、日本社会にも原因がある。社会全体がグレーを避ける風潮があり、グレーを黒とみなす認識が染みついている。自然、企業は少しでもグレーなものに対しては徹底的に避けるようになる。裁判の判決においても、グレーなものを違法とする判決も多い。

日本企業はグローバルスタンダードに追い付いていけないと言われる。特にIT業界では、アメリカがフォーマットを固めた後に参入するケースがほとんどだ。従って手綱はフォーマットを作ったアメリカが握ることになり、日本企業は一ユーザーとなってしまうしかない。

グレーゾーンに対する認識を日本社会全体レベルから変えていかないと、アメリカが握る手綱を奪うことは不可能であろう。これは一個人でできる範囲を超えており、国レベルで法律から見直さなければひっくり返すことはできない。

これらの社会認識を変えることは可能であろうか?

雇用の保証よりも、社会の流動性が必要だ。

この様なことはわざわざ僕が言う必要もないかもしれないが、あえて書くことにした。

日本は世界的に見ても非常に雇用が保障されてきた国だ。このことは労働者にとって非常に恵まれているように思えるが、見方を変えると企業側にも、労働者側にもデメリットが高いことがわかる。

企業側から見ると、簡単に解雇ができない。労働者側から見ると、就職のハードルが高いということになる。この二つのことは独立的な事象ではなく、互いに絡まり合っている。

企業側が簡単に解雇できないから、社員を採用するときには非常に慎重になる。履歴書に空白はあるか?過去の退職の理由は何か?しかしそのようなことはたいてい仕事のスキルとは関係ない。しかし企業側はいかに戦力になるかということよりも、いかにリスクが少ないかということを優先してしまう。このことは企業側にも労働者側にも非常に損失が大きい。

これらの原因は、社会の流動性のなさにあることは言うまでもない。企業がより簡単に解雇できるようになれば、採用するときのハードルも低くなる。採用のハードルが低くなると、もちろん入社もより容易になる。流動性のなさゆえ、それまで退職に踏み切れなかった人たちも、容易に退職し、より力を発揮できる他の会社に移籍できる。有能な人たちにはより大きなチャンスが与えられるようになる。

雇用の強い保証は、才能のない人にとってリスクの回避になるが、それらの人たちの保証が故、有能な人たちが犠牲になっている。有能な人材の犠牲はもちろん、企業の損失、そして社会全体の損失になる。

今、日本の社会形態は転換期にある。いや、転換しなければいけない。有能な人材がしっかりと才能を発揮できる場を与える事、それが重要である。そのためには社会の流動性を高めることは必要不可欠である。

企業・社会側も、リスクを恐れ、履歴書のあら探しをするということは止めなければいけない。いかに戦力になるか、そして有能な戦力にはそれに相当する対価を与える。そうでないと、グローバルに事が進む現在では企業も立ち向かっていけないだろう。

これからは、ディープラーンニングと量子コンピューターの時代だ!

ディープラーンニングと、量子コンピューター。いま注目を浴びている、将来の有力候補情報技術だ。正確に言うと、ディープラーンニングは最近急激に熱くなったAI(人工知能)関連の技術で、量子コンピューターはさらにその後にブームになると思われる新形式のコンピューターシステムだ。

なぜ、この二つを取り上げたか?双方ともそれぞれ今最も熱い分野だが、この双方を結び付けた記事が見当たらない(少しはある)からだ。しかし近い将来、この二つの技術は共に相補的に結びつくことは間違いない。

現在はIT教育熱が高くなり、小学校でもプログラミング教育が行われていると聞くが、僕は今プログラミング教育を始めるのは、時代的に多少遅れているのではないかと思う。20年前だと最先端の有望技術教育となったであろうが、現在では職業訓練教育と言う意味合いが大きいのではないか。

20世紀に入ってIT産業は爆発的に発展した。IT長者と言われる人も何人も出てきた。マイクロソフトのビル・ゲイツ、facebookのザッカーバーグ、アップルのスティーブ・ジョブズ、国内に目を向ければソフトバンクの孫正義からホリエモンまで、様々な人がITで名を馳せてきた。しかしそれらの人に共通するのは、ITブームが爆発する以前にIT技術に親しんできたと言うことだろう。ブームが爆発した後の現在では、競合者も多く、二番煎じ、三番煎じでしかない。今の小学生が普通のプログラミング技術を身に付けたからと言って、それで長者になれるかと言うと、極めて難しいと言わざる負えない。

では、何に注目すべきか?それが前述に上げた二つの技術だ。もしかしたらディープラーンニングについては今では少し遅いかもしれない。しかしまだまだブレークスルーは残っているかもしれない。量子情報については今からでも間違いなく第一人者になれるチャンスがある。特に商用・ビジネスへの応用は全くされていない(特殊な量子コンピューターについては例外的に商用化されたものはある)。

今の子供にとって、この二つの技術には非常に大きなチャンスがあると思えてならない。

国民的アイドル?

最近、フィギュアスケートの浅田真央さんが現役を引退された。惜しまれながらの引退だ。浅田真央さんと言えば、誰もが認める国民的アイドルである。トップスケーターはこれまでにも何人か出てきたが、国民的アイドルと言えるスケーターは浅田真央さんだけであろう。

舞台は変わって、この人も国民的アイドルと言えるかもしれない。iPS細胞の発見でノーベル賞を受賞された、山中伸弥教授。いやいや、山中先生に対してアイドルと言うのは、非常に失礼かもしれない。国民的研究者とでも言うべきか。

最近、日本人のノーベル賞受賞が相次いでいる。小林誠教授・益川敏英教授、そして去年受賞された大隅良典教授。これらの先生はどの先生もすごい人ばかりではあるが、アイドルとは全く違う。しかし、山中先生は人気がありすぎて、アイドルのような存在にも思えてならない。またまた失礼。僕個人的にも山中先生には憧れを持ってしまう。こんな研究者は、日本人では初めてではないか。精悍な体つき、清潔感のある人柄、そして人格者でもある。それでもって、世界トップの研究者である。さらに山中先生の研究はとてつもなく人の役に立つ。

アイドルと呼ぶのは失礼かもしれないが、このようなスター研究者の存在は、日本の研究の底上げ、子供たちの将来の夢などに非常に良い影響を与えるのではないか。

あまりにも山中先生を尊敬してやまないので、研究者に対してアイドルなんていう失礼な視点で書いてしまった。これからの山中先生のますますの研究の発展を願ってやまない。

必要最低限の事をこなせばいいのか?

僕の失敗談。

”ついつい余計なこともしてしまって、大目玉をくらう”

何をやっても、求められていること以上のことをしようと思ってしまう。言い換えれば、余計なことをしてしまうとも言えるが。プラスαのことが余計なことになった時、大目玉をくらってしまう。

よく言えば、サービス精神旺盛ということかもしれないが、多くの人たちにとってそんなことは望んでいないということかもしれない。

必要最低限のことを続けることは、現状維持ということかもしれない。しかしそれ以上の発展を望むならば、プラスαは欠かせない。

必要最低限の事だけをしっかりこなす人を見ると、頭がいいなと思ってしまう。自分はバカなのだ。しかしこの自分のバカさ加減を直そうとは少しも思わない。なぜなら、常に上を目指しているから。

いつまでも自分はバカで居続ける・・・

将来の夢が「病理医」の女の子。

この女の子とは、中学生になったばかりの女優の芦田愛菜さん(12)である。

小学生・中学生に、将来の夢は?と尋ねると、たいてい定番の答えに落ち着く。男の子だと、プロ野球選手など、女の子だと、ケーキ屋さんなどであろうか。そして男女両方の上位に来るのが、医者である。

医者に憧れるのにはいろいろな理由があるだろう。人を助ける仕事がしたいからというのもあれば、高収入だからというのもあるだろう。高収入だからというのは大人の影響を受けすぎなような気もするが、それで立派な医者になってくれるのなら大歓迎だ。

話しは芦田愛菜さんに戻るが、芦田さんの(現在の)夢は、「病理医だ」と言ったらしい。医者と言わずに病理医といったところに視野の広さを感じる。病理医は、患者の組織検査などをして病気の原因を突き詰めることを主とする。大人でも病理医の存在を知らない人は多いだろう。芦田さんは、子供の頃から女優をされており、社会の様々な側面を小さなころから垣間見ることがあったのだろう。その中で、僕もなぜだかわからないが、芦田さんは病理医に魅かれた。

この芦田さんの視野の広さと社会に対する観察力は、大人も見習わねばならない。

現在、医者の人気は過去にないくらい高まっている。子供を医者にしたい親も多いだろう。しかし本当にやりたいこと、面白いことは何かを吟味して、注意深く社会全体を観察し、それでも医者ならば医者のどういう所が魅力で、具体的にどういう行為を行う人たちなのかを知らねばならない。それができているから芦田さんは病理学という具体性のある答えを出せたのだと思う。華のある職業は多いが、我々が見ているのは所詮表面的な部分だけで、いいところしか見えてないのだから。

政治は安全保障こそ軸だ!

最近の政界は、安倍一強政治と言われ、与党政治家の間では政治的危機感が緩んである。閣僚の問題発言あり、森友問題あり。特に森友問題では首相が直接関係する案件であり、その対応には首をひねる人も多いであろう。もちろん僕もそのうちの一人であるが。

にもかかわらず、安倍内閣の支持率は高止まりしている。その理由はこのことにあるのではないか。

「全ての政策は、安全保障がしっかりとなされているという前提条件のもと、遂行される」

これは当たり前と言えば当たり前のことである。消費税が負担だとか、福祉が弱いなど、政治に不満をぶつける人は多いが、これらは安全保障が保たれているという前提条件のもと。安全保障が崩れれば、消費税どころの問題ではない。安全保障には多くの国民の命、そして平和な生活がかかっているのである。

安倍首相の政治にはなんだかんだと問題はあるが、安倍氏はどの政治家よりも安全保障政策に対してはしっかりと取り組んでいる。強権政治的なところもあるが、安全保障に関しては先手を打っている。日米同盟の強化も然りだ。

現在、日本周辺の政情は不安定だ。北朝鮮に関しては言うまでもない。中国との関係もいつどう転ぶかわからない。次期韓国大統領候補は日本のことを「敵性国家」と呼んでいる。

これから安全保障政策はより重要になることはあっても、軽くなることはない。現在の東アジア情勢は混乱への序章なのか、それともこれから落ち着いていくのか、未来は簡単に見通せないが、とにかく現政権の抜かりない安全保障政策の継続が強く求められている。

憲法第九条をどう考える?

安倍政権になってから、改憲の動きが活発になっている。戦後に公布された日本国憲法は、一度も改憲されたことがない。なので多くの日本人にとって憲法は永久に不変なものだと認識している者も多いが、世界的にみると、70年も改憲されていない国は日本くらいのものだ。他国では頻繁に改憲されている国もある。

憲法改憲の議論で一番の焦点になるのは、間違いなく第九条であろう。いわゆる平和憲法と言われている根源だ。憲法のことをよく知らない人でも、憲法第九条については知っていると言う人も多いだろう。

憲法第九条は改変するべきのか?保存するべきなのか?

憲法第九条には手を付けるべきではないという意見は多いと思うが、その一番の原因になっているのはもちろん教育であろう。現在の学生のことはよくわからないが、少なくとも僕らの世代以前の人にとっては、「憲法第九条があるから現在の日本は平和であるので、絶対に憲法は変えるべきではない」ということを、小学、あるいは中学で教えてこられた。その影響は非常に大きい。

なのになぜ、現在改憲なのか?もちろん一番の原因は日本周辺の国際情勢、そして国連活動などに対する国際貢献への自由度を高めるということだろう。

日本がどうあろうと、地政学的リスクは変えられない。中国・北朝鮮という脅威からは逃げられないし、現在も北朝鮮のミサイル発射による脅威は高まりつつある。

いくら日本が平和平和と叫んでも、脅威からは逃げられない。それにもかかわらず現在日本が攻められないのは、間違いなくアメリカの軍事的保護下にあるからだ。第九条存続を訴えることは、永久にアメリカの軍事的保護下にいようと言うことと等価だ。しかしそのようなことが永久に続くとは限らない。

とは言え、”平和思想”としての第九条は非常に重要である。日本の憲法第九条の存在は、世界に向けて平和を発信している。即ち、第九条の存在そのものが価値あるとも言える。

読売オンラインで、第九条は誰が作ったかということが議論されていた。当時の幣原喜重郎首相説とマッカーサー説が有力であるらしい。幣原説=護憲派、マッカーサー説=改憲派という構図であるそうだ。もちろんこのような議論は学問的にも意義あるものだとは思うが、憲法第九条に対する議論の核心はそんなところにはないように思えてならない。

第九条の議論は、「どうすれば日本が、そして世界がより平和になれるか?」それに尽きるのではないかと思う。もちろんこのことを具体的に詰めるのは容易ではない。なにしろ未来を見通さなければならないのだから。とは言え、形式的な不毛議論で判断することは、できるだけ控えなければならない。