投稿者「木原 康明」のアーカイブ

山中伸弥先生の言葉。

個人的な話ですが、僕は(日本国民の多くもそうだとは思うのですが)、山中伸弥先生のことは非常に尊敬していて、憧れの研究者でもある。言うまでもなく、山中先生とは、iPS細胞を発見した山中教授の事である。山中先生は研究者として超一流であるが、人間としても頭が上がらないくらい素晴らしい人だと思っている。

その山中伸弥先生の言葉(モットー)が、”VW”だそうだ。もちろん車のフォルックスワーゲンの事ではない。Vision and HardWork の頭文字である。Visionとは”展望”、そしてHardWork は”熱心に働く”と言うことである。このどちらが欠けてもいけない。日本人はHardWork は得意だが、Vision がない人が多いと山中先生はおっしゃられている。

VW を少し言葉を変えれば、考えて方向が定まったらすぐに行動しろ、と言うことかもしれない。”頭”と”体”、これは物事を進める上での両軸であり、この両軸を上手く働かせることが、あらゆることに対して成功の秘訣だと言えるのではないかと思う。

本音を言うとたたかれる社会。

社会に建前はつきものだが、本音と建前の使い分けは簡単ではないようだ。現在のネット社会では、本音を言うと炎上するといった事態が起こることは日常茶飯事である。もちろん、政治家に限って言えば、その一言が国の行方を左右されるため慎重に発言してもらいたいが、普通の人が本音を喋れない社会はストレスがたまるものだ。

テレビを観ていても、当たり障りのない建前ばかりで、いつからこのような仮面をかぶった社会になったのやらと、観ている方もストレスがたまる。本音でしゃべっているのはビートたけしくらいではないかと思う。ビートたけしは本音でしゃべっても皆が納得してしまうので、本音を喋るビートたけしはますます貴重な存在になっているのではないか。

社会も家の中もストレスの塊である。ストレスから逃れるためにはどうすればいいのか?精神のコントロールに苦労する次第である。

時間はなぜ過去から未来に、一方向にしか流れないのか?

当たり前の話だが、時間は過去から未来にしか流れない。未来から過去には流れることはない。たまにタイムマシンの話題も出てくるが、少なくとも現時点で未来から過去に流れる現象は観測されていない。

時間が過去から未来にしか流れないことを、「時間の矢」という。時間の矢の問題は、人類誕生以来数万年(もっと長いか?)の謎である。実はこの問題は古くから物理学者たちも、科学的に説明しようと試みてきたが、現在も解決の決定打は出ていない。

時間の矢の問題の謎に関するキーは、”エントロピー”という物理量にあることは、多くの物理学者の認識するところだ。しかし、エントロピーとは関係ないところから時間理論が出てくることも、十分に考えられる。

昨今の物理界は、超弦理論などの流行りの理論に飛びつく傾向があるが、古くからある根源的な重要問題に取り掛かることも非常に重要である。

未解決の数学の話。

数学の未解決問題と言えば、真っ先に、クレイ数学研究所が提示した7つの”ミレニアム懸賞問題”が思いつく。この7問には、1問につき約1億円の懸賞金がかけられている。現在までに解決されたのは、ペレルマンによる”ポアンカレ予想”の一問だけだ。

この7問は数学の未解決問題となっているが、中には物理に近いものも含まれている。流体力学の”ナビエ・ストークスの方程式”も物理に近い一問であろう。

そのほかに、”4次元ヤン・ミルズ理論”と言うものが含まれている。この問題は簡単に言うと、ヤン・ミルズ理論という物理(素粒子論)の理論を数学として厳密に構成しろ、という問題だ。

ヤン・ミルズ理論の”物理”としての研究は非常に発展して盛んに行われているが、”数学”としての研究は現在は行き詰っているようだ。状況としては2次元・3次元理論でもがき苦しんでいるという感じで、とてもじゃないけど4次元まで手を出せないというところか。

この理論は、幾何学的アプローチと言う観点からは数学としても非常に完成度が高い研究がされている。問題は関数解析的観点からの理論の存在証明だ。

ヤン・ミルズ理論の数学的構成の問題などは、懸賞問題になるほどのオープンプロブレム(公開されている問題)であるが、そのような問題以外にも、誰にも知られていない”問題を発見して”取り組むのも非常に価値ある研究である。と言うより、むしろ知られていない問題を見つけること自体が重要な研究と言える。

愛媛・今治殺人事件で参考人自殺。報道の論調がおかしい。

愛媛県今治市で起こった母子殺傷事件で、参考人として”任意”で事情聴取されていた、30代の女性が自殺した。そのことに関するテレビニュースなどの報道の論調があまりにもおかしい。

女性が自殺したことに関して、「警察はなぜ見張りをできなかったのか」とか、「女性警察官を付き添うべきだった」と言うような論調が繰り広げられている。

それに対して警察は、「それをすると、捜査の任意性が保てなくなる」というコメントをしている。

このやりとりに関して、僕は警察のコメントの方が真っ当であり、報道があまりにもおかし過ぎると考えている。

警察が言うように、捜査はあくまでも”任意”であり、自殺した女性が犯罪者だと確定したわけでもなんでもない。任意事情聴取である限り、任意性を保つことは絶対的に必要であり、聴取時点で女性の身の自由は保障されている。

日本では特に、”容疑者”=犯人、とみなす風潮が強いが、容疑者はあくまでも容疑であって、犯人と断定されているわけではない。ましてや、今回の女性は容疑者でさえもなく、社会的報道があたかも”犯人”とみなしているようなことは明らかにおかしすぎる。罪を確定させるのは裁判所であり、報道マスメディアでは断じてない。

精神的に得をするには。

「得をする」と言えば、お金や物に関しての事だと考えてしまう。それはそれでいいが、「”精神的”に得をする」事を考えるのは非常に大切だ。精神的な得が、あらゆることのパフォーマンスを上げる。

では、精神的に得をするとはどういうことか?単純な考えではあるが、「いかに精神的負担を少なくして行動できるか」ということだ。ストレス・プレッシャーなど、現代社会ではあらゆる精神的負担を受けながら生きていかなければいけない。大なり小なり、精神的負担は避けられないものだ。しかしそれをゼロにすることはできなくても、小さくすることはできるはずだ。

精神的負担を少なくするため、僕はいろいろなことを考え、行動して、模索している。もちろん簡単なことではないが、普段の思考パターンを工夫すれば、少しずつではあるが良くなってきているのを実感している。

最近は悩み症の僕であり、”すーだら節の無責任男”というほど陽気になるにはまだまだではあるが、度量のでかい人間を目指したい!

根性精神主義は、全肯定でも全否定でもいけない。

最近の科学的分析主義によって、昔の根性精神主義が否定されることが多くなった。スポーツでは、肉体の科学的(医学的)な観点から過去のトレーニング方法が否定され、最新の科学的方法が提唱されている。否定されていることの代表例としては、うさぎ跳びや野球の先発投手100球制限であろう。

科学的見地から、より負担が少ない効果的なトレーニングが考案されることは非常に歓迎されることだ。しかし、それと同時にそれまでの精神論を”全”否定されることには少し疑問に思える。

最近はあらゆることにおいて、スマートに事を成そうという考えが強いように思う。特にIT社会による便利な社会化がそれに拍車をかけている。

しかし、努力することは絶対的に必要だし、泥臭く物事を遂行することは非常に重要である。いくら科学的に考えようとも、最後の最後に根性で乗り切らざる負えないこともあるだろう。

根性論は時代遅れかも知れない。しかし、根性論・精神論なき人生は無機質にも思える。最新の見地を上手く利用しながら精神をコントロールすることが、非常に求められる。

妄想力100%!

妄想は活力の源である。

僕はかなりの妄想家(そんな言葉があるのか知らないが)である。特に研究に関しては妄想力全開!ああだこうだと妄想して、構想を練る。ただ、妄想を妄想で終わらせないことが大事だ。そして周りからはいつまで妄想してるんだと言われるかもしれないが、そんなことお構いなし。妄想するのは自由である。

妄想が夢へと広がっていく。そしてその夢を実現するためにさらに妄想を続ける。

人生のギャンブラー。

ギャンブルと言えばお金の賭け事を連想する人が多いと思うが、賭けるのはお金だけではない。人生を賭けるのも一種のギャンブルだ。僕はというと、お金は賭けないが、人生は常に賭けている。いや、自分の信念を貫くためには賭けざる負えないのだ。

平穏より、エキサイティングを求めてしまう。非常に危険なことはわかっているのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際で攻防するのはやりがいも非常に大きい。成功しているかと言えば全くそうではないが、自信はある(根拠のない自信?)。根拠があろうとなかろうと、自信は必要だ。自信がないと、人生のギャンブルはできない。

1%の可能性があるとき、1%可能性があるじゃないかと考えるのと、99%失敗してしまうと考えてしまうのでは、結果が全く変わってしまう。さらにその思考が様々な事にも波及する。

可能性がある限り、常にあらゆることに取り組んでみようと思う。間違ってはならないのは、暴挙には出てはいけないということだ。暴挙とは不可能(0%)なことに打って出る事。1%でも可能性があれば、ギャンブルに出るのも悪くない。

IQで才能を測る風潮に、少しあきれる。

IQに関する話題は、定期的に出てくる定番の話題だ。頻繁に耳にするのは「どこどこに、IQ200を超える天才少年が現れた」というものであろう。IQというのは偏差値と同じで、明確に数値で表されるので、非常に分かりやすく、皆がすぐに飛びつきやすいトッピックなのであろう。

別に、IQで人の能力を測ることに対して全否定するつもりはないが、人の能力というものはそんなに単純ではない。数学が得意でも英語が苦手な人もいるだろうし、さらに才能は学問に対するものだけではない。絵画の才能もあれば、音楽の才能もあるだろう。

しかし、数学などに関しては、IQが非常に有効だと考える人は多いかもしれない。確かにある程度の相関関係はあるかもしれないが、既存の問題を解く能力と、新しい理論を創造する能力は必ずしも一致しない。数学業界では”数オリ崩れ”(高校時に数学オリンピックに出るくらいの秀才だったが、研究では結果を出せない)という言葉もあるくらいだ。

最もあきれるのは「誰々はIQでアインシュタインを超える数値であり、アインシュタインを超える天才だ」というものだ。そもそもアインシュタインがIQを測ったことがあるとは考えられないし、実際アインシュタインの方がIQが低いとしても、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。一つ言えることは、その高IQ者は所詮IQで測りえる程度の人間だということであり、アインシュタインの創造的才能はIQとは全く別次元のものだということである。