投稿者「木原 康明」のアーカイブ

取り組むテーマ二つ。

課題(問題)を設定する時、どのようなテーマを設定すればよいだろうか?多くの人は中心になるテーマを一つ決めて、それに集中することだろう。そしてそれは多くの場合正解である。いくつものテーマを掛け持ちしてしまえば力が分散化され、結局二兎追うものは一兎も得ずとなってしまう。しかし自分の実力に自信があれば、二兎追うのも一つの手である。さらに二兎追うことによって、双方が相互作用を起こして二つともに関して良い結果が出ることもあろう。現在二刀流に挑戦し続けている大谷翔平選手は現在苦しい立場に立たされているが、僕は大谷選手の二刀流を熱烈に応援している。そして成功することを祈っている。

学問の研究を行う時、ほとんどの人は専門を一つ定める。そしてその一つの専門に対して深く追究することだと思う。しかし一言で専門と言っても、細部を深く掘り下げるものから物事を大局的に捉えるものまで様々ある。しかし研究に関しても、必ずしもテーマを一つに絞る必要はない。そこで僕は、細部を掘り下げるテーマと大局的に構成するテーマを二つ定めることにした。と言いたいところだが、実際はもっとたくさんのテーマを定めている。現在ではそのようなテーマは十個に近づこうとしている。そしてそれらのテーマの範囲は、専門の数学と物理だけにとどまらない。理論生物学関係からコンピューター関係まで膨れ上がろうとしている。もちろん全て、理論系と言う縛りからは逃れられないのだが。

近年に始まったことではないが、科学はますます細分化してきている。実際、物理の研究者同士でも、隣接する分野の事さえ理解できないことは多いのではないだろうか。しかしそんな時代だからこそ、広く他分野に精通する研究者が必用になって来るのではないだろうか?少なくとも二つの分野、二つの視点を持つ事は非常に重要である。

20世紀前半までは、非常に理想的な時代であった。二度の大戦があったことは不幸な出来事ではあったが、学問の世界では数学においては、ガウス、リーマン、ヒルベルト、ポアンカレなど、あらゆる分野において大きな結果を出す研究者が少なからずいた。しかし現在では、そのような万能型研究者は皆無である。皆自分の専門の事だけでアップアップなのである。もちろん、研究者の質が落ちたわけでは決してない。おそらく学問の大きさと深さが膨大になりすぎたからであろう。しかしそんな時代だからこそ、あらゆる分野に広く深く挑戦する研究者が必用なのではないだろうか?それに挑戦することは非常にエキサイティングな冒険である。しかし非常に大きな危険性も伴っている。自分の命を懸けてでもそのような挑戦に取り組む研究者が一人いてもよいのではないだろうか?

美学は必要か?

「引き際の美学」と言う言葉をよく使われる。まだ余力があるうちに引退しようと言う考えだ。もちろん、美学と言う言葉は様々な事柄に使われるが、学問を行う時、そして何かを行う時、果たして美学と言うものは本当に必要なのだろうか?

引き際の美学に関して言うと、僕自身は全く正反対の考えを持っている。やはりボロボロになるまで粘って、死に体になったときに引退すればよいと思っている。野球で言うところの生涯打率とか生涯防御率などの数字には全くこだわらない。もちろん引退を引き延ばせば、生涯打率はどうしても低下してしまう。しかし積み重ねたヒットの数は絶対に減らないし、長くやれば絶対に一本二本と増えいて行く。イチローの打率は凄まじいものであるが、しかしイチロー自身は常に打率よりもヒットの数にこだわっていた。それは上に書いたような理由からであろうと考えられる。

話を学問に戻すと、数学や物理学の理論には美の基準と言うものが存在する。どのようにするか迷ったとき、多くの学者は美しい方に進む。その最たる例が物理学者アインシュタインであって、彼は常に美と言う観点から理論を構築していったと言われている。一般相対性理論などは非常に複雑な計算の基に成っているが、しかしその完成された姿を見ると非常に美しい形をしている。ここで言う美しい理論とは、不自然なところがなくシンプルだと言うことである。このように、理論系の科学の多くには絶対的に美の観点が必要である。ある意味、美的センスが科学者としてのセンスに直結すると言ってよい。

物事を二者択一で考える人は多いが、僕はそれは多くの場合間違っていると考えている。多くの場合、どちらか一方にこだわるのではなく臨機応変に使い分けて行くことが必要なのである。美的観点が重要な事には美的感覚でとらえ、美など必要ないことに関してはなりふり構わずどんどん進んで行けばよい。しかし美を無視するにしても、そのような判断をするためには美的感覚と言うものは必要になってくる。なので美学を自分の中に持つと言うことは、非常に重要な事なのである。

学問の貿易。

経済学の基本原理に、それぞれの人が得意な事に特化し、お互いの資源をやり取りした方が、自給自足するよりも利益(資源)の総量は増大すると言う原理がある。その初等的な証明は簡単な数学(算数?)で証明できる。なので、各国の経済学者は様々な意見で対立しながらも、積極的に自由貿易した方が良いと言う意見では一致している。では学問の場合はどうであろうか?

数学の事は数学者に任せ、経済学の事は経済学者に任せ、それぞれの人は自分の専門の事だけに取り組んで他分野の事には無関心で良いのか?他分野の事はその分野の専門家から無批判に知識を輸入すればよいのか?これは一見、冒頭の経済学の原理に適合するように思える。しかし少し考えると、これは間違っていることに気づく。学問の貿易とは、他分野の専門家から知識を輸入することではない。自分から積極的に他分野の事を学び、知見を広げることこそが学問の貿易と言うものである。なので数理物理学者も科学の他分野(化学や生物学、医学)、そして世界史・日本史や経済学などの知識も積極的に獲得していった方が良い。そうすることによって、専門分野の研究に対しても大局的な視点で取り組むことができるようになり大きな結果が出せるのだと僕は考えている。

数学者なら他の数学者のとの議論を重要視するであろう。しかし真に大切なのは、専門外の他分野の研究者との議論である。しかしそんなに簡単に他分野の研究者を捕まえることはできないであろう。ならば自ら他分野の専門書に取り組めばよい。そうすることによって、全ての分野の知識の総量も専門分野の知識の総量も増大することであろう。

僕は最近、あらゆる分野の学問に取り組んでいる。化学・生物学から日本史・世界史、そして経済学・経営学など多岐にわたる。もちろん苦痛に感じながらやっているのではなく、面白いから取り組んでいるのである。しかしそれには逃げの側面もある。専門の数理物理の研究が上手くいかないなという時に、それらの他分野の勉強に取り掛かることにしている。しかしそれらの事は決して無駄ではない、そう確信している。数理物理と言う軸がぶれなければ何に取り組んでも良いと強く感じている。もちろん、軸がぶれては全てが無駄になってしまうこともあるので、芯は強く持たなければならない。

安倍首相辞任、一つ許せない事。

28日、安倍首相が辞任の意向を表明した。辞任の理由は持病の潰瘍性大腸炎の悪化ということであった。国のトップとして健康を維持することは非常に重要な事であるが、首相も人間であるので健康を損なうことも当然ある。辞任した後はゆっくりと療養してほしいものである。

とは言え、今回の健康を理由とした辞任に関して僕は一つ許せないことがある。僕は以前、安倍首相は非常に有能で偉大な首相だと思っていたし、ブログでもそのような事を書いたことがある。少なくとも一年半ほど前までは。しかし一年ほど前から安倍首相の判断力は明らかにおかしくなってきた。的確な判断が出来なくなってきていると感じていたのは僕だけではないだろう。総理総裁三期目に入ってから明らかに判断にキレがなくなってきたし、判断が遅きに失したこともいくつかあった。最近で言えば、GoToトラベルキャンペーンなどはその最たる例であろう。誰がどう見ても、コロナの感染を防ぎ行動を自粛しなければいけない時期に、GoToトラベルとは明らかにおかしいし論理が破綻している。三年ほど前の安倍首相ならば即座に中止していたことであろう。

ここ一年の判断力の低下は、今思えば持病の悪化が原因であったのかもしれない。しかし何度も言うが、持病が悪化することはある程度防ぎようのない事であり、総理であっても同じ事だ。しかし一国の長である首相が病気で判断力がなくなってもその座に居座り続けることは明らかに責任がある。僕はそのことが許せないのである。持病が悪化し判断力が鈍ったのなら、即座に首相の座を降りてゆっくりと療養してほしかった。しかし安倍首相はその座に座り続け、国民を危機にさらし続けたのである。そして数日前には首相連続在位の記録を打ち立てた。その直後の辞任である。記録にこだわって居座り続けたと疑われても仕方がない。

人間健康が第一とはよく言われるが、総理にとって健康維持はさらに重いものである。総理の健康一つが国民の安全と繁栄に直結するのである。もちろん総理も人間なので健康を崩すことも当然ある。しかしもし健康を崩して的確な判断が出来なくなったと感じたのならば即座に後進に職を譲るべきではなかったかと強く思うのである。

40代の青春化。

果たして自分のこれまでの人生の中でいつが一番楽しかったであろうか?大人になると多くの人は、10代や20代の頃、つまり青春時代が楽しかったと言うであろう。そして「時代を戻せるのならいつに戻りたいか?」と問われると、これまた10代の頃と多くの人は答える。では30代や40代はそんなに面白くないのかと問われれば、もちろん人にもよるが決してそうではない。ただ10代の頃と比べると多くの人は既定路線に乗り、刺激や感動が少ないのではないかと思う。

では僕自身は人生でいつが一番楽しかったか?そう問われると瞬時に「今だ!」と答える。別に10代に戻りたいとも思わない。それは10代が楽しくなかったわけではなく(非常に苦しくはあったが)、今が非常にチャレンジングでエキサイティングだからである。言い換えれば、今が僕の青春だと言える。僕は40代を青春化しているのである。とは言っても、もちろん楽しいだけではなく、非常に苦しくもある。人生のリスクも最大限取っている。明日どうなるかもわからない。しかし最もチャレンジングな生き方をしていると言う自負はある。今大きな問題に取り組んでいる。そして今、その問題を解決する道筋も見えている。これからの人生が非常に楽しみなのである。

挑戦と苦しさは表裏一体である。挑戦することは、精神的にも非常に大きな負担がかかる。なのでリスクを取って大きな問題に挑戦するためには、まずは精神を鍛えなければならない。もちろん僕も決して精神が強靭だと言う訳ではない。しかし精神は自分次第でかなりコントロールできる。そして何とかコントロールしながらぎりぎりのところで持ちこたえている。

確かに青春時代は非常に面白い。しかしだからと言って、40代以降を惰性で過ごすのは非常にもったいない。それどころか、人生の後半を青春化して刺激に満ち溢れたものにしたいものである。人間は歳を取れば誰もが老化する。確かにそれは医学的には正しいかもしれない。しかしそのような医学的な限界に挑戦し続け若返っていくのも非常にエキサイティングな挑戦だ。サッカーの世界では、カズが50代になってもプロの第一線で活躍している。ならば自分も学問の世界でカズのような存在になればいいではないか!皆もそれぞれ自分の活躍する世界でカズのように第一線で活躍し続けることを目指せばいい。もちろんそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないと僕は考えている。そのためには現在を青春化することが不可欠だ。

今立場的にも非常に苦しい位置にいる。しかしそれは今日の立場であって明日の立場ではない。明日の立場は今日までの自分が築く。なので今日挑戦して努力しないことには明日以降の変化は望めない。今僕の取り組んでいる挑戦は非常に時間のかかるものになっているが、最後は何が何でも成し遂げる、そう考えて今一歩ずつ前に進みながら40代の青春を謳歌している。

精神と肉体。

昨日の夜から、僕は首を痛めている。今日になってマシにはなったがまだ少し痛みは残っている。数年前にも同じように痛めたことがあり、その時は三日ほどで治ったので、今回も二日後くらいには完治しているだろうと軽く思っている。

しかし今回首を痛めて困ったことは、その痛み以上に集中力が欠けてしまうと言うことだ。考えること(頭の働き)に体は関係ないと言う人もいるかもしれないが、やはり体あっての頭、肉体が健康でないと頭も働かなくて集中力が持たない。誰が言ったか知らないが、「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とはまさしくこのことである。

しかし一部には驚異的な例外も存在する。数年前に亡くなった宇宙物理学者・ホーキング博士は、体が動かなくなり声も発することができない中でも、研究成果を次々と発表していた。僕には考えられないことだ。僕は首が痛くなっただけで考えることが出来なくなってしまう。情けないと言えばそれまでだが、これは精神力によるものか?もしそうなら僕の精神力は自慢できるものではない。

とは言え、また明後日くらいになれば首の痛みもなくなっているだろうから、その時また猛烈に進んで行けるように精神と肉体の調子を整えておこう。

まだ死に体でないならば。

16日の半沢直樹も、これまた非常に熱かった。今回から半沢は帝国航空(そして政府)と本格的に格闘している。半沢はなぜ帝国航空の再建にこれまでこだわっているのか?それは半沢の言葉にあるように、帝国航空がまだ「死に体」ではないからだ。企業が死に体ではないならば、再建の余地は十分にある。それが半沢の理念らしい。これらの事は、人間個人に対しても大きく当てはまることだ。まだ自分が人間として死に体ではないならば、復活する可能性は十分にある。何ならトップに返り咲くこともできるであろう。

僕自身も、大学学部生時代に大きな危機と立ち向かうことになった。おそらく普通の人間ならそこで潰れていてもおかしくなかったであろう。しかし僕は死にかけた状態ではあったものの、決して死に体にはならなかった。周りから見れば死に体同然に見えたかもしれないが、決して精神の火は消えていなかった。それどころか火はメラメラと燃え盛っていたように思える。だから現在はここまで活発に活動し、研究に打ち込み、自信に満ち溢れている。人間も死に体にまでならなければ、いつでも復活する余地はある。僕はそう強く思っている。

確かに今まで順調だったことなどほとんどない。しかしそれはそれで良いのだと僕は思っている。なぜなら、重要なのは過去ではなく未来だからである。そしてその未来に対して大きな自信を持っている。ならばそこに向かって邁進していけばいいだけの話ではないか。例え百回失敗してもそんなことはお構いなしだ。最終的に成功すればいいだけの話だ。今僕は猛烈にワクワクしている。後は結果を出すだけである。

先週の半沢直樹で、半沢は「勝ち組負け組と言う言葉は嫌いだ」と言っていた。それは僕も同感である。そもそも人生に勝ち組負け組などと言うレッテルを付けてどうするんだ!大金を得たものが勝ち組なのか?重要ポストに就いたものが勝ち組なのか?そんなちっぽけな事を考えていてどうする!自分がまだ死に体でない限り、未来はどうにでも変えられる。あえて言うならば、ピンチをチャンスに変えられる者、それが勝ち組とでも言っていいのではないか。他人から負け組だとか言われても、そんなこと聞き流せばよい。前向きに進んでいる限り、決して負け組なんかではない。しかし既に自分が負け組だと決め込んでいる人間は、本当に負け組なんだろう。人生、死ぬまで何が起こるかわからない。だからこそどう転んでも良いように、常日頃前向きに努力すべきではないだろうか?

毎週、半沢直樹を見るのが楽しみだ。フィクションだとわかっていても熱くなってしまう。そして半沢を見て思うこともたくさんある。「自分もそうだ!」あるいは「自分は違う!」とつい主張したくなる。また来週の半沢直樹を楽しみにして、ちょっとビールでも飲んだりしながらも熱く前向きに進んでみよう。

事実はフィクションより奇なり。

ドラマ「半沢直樹」の第四話を観た。このドラマは見れば見るほど面白くなり、今回はビデオで二度も見返してしまった。内容はネタバレになるので書かないが、今回の第四話は前半のクライマックスだと思われる。なので後半はさらに長いドラマになることが予想され、ますます期待が膨らんでくる。

ドラマは非常に面白いのだが、現実問題としてそんなことはあり得ないと言う声も大きい。もし半沢直樹のような人物がいれば即クビになると考えられるのも当然だし、元特捜部にいた識者が「半沢直樹のやっていること自体法に触れ、犯罪行為である」とも言っている。しかしドラマ自体は確実に面白いものであり、半沢の行っている行動は正しい信念に基づいている。元総理の鳩山由紀夫は「半沢直樹の爪の垢を煎じて飲ましていただきたい」と言っている。おそらく政治の世界はドラマで繰り広げられる銀行の世界よりも露骨なのだろう。

しかし「事実はフィクションより奇なり」と言う言葉もある。現実の中にはドラマや漫画でも描ききれないようなことが起こっていることもあるのである。その代表例が大谷翔平であろう。大谷選手は数々の奇を起こしてきた。四番ピッチャー、投手として先頭打者初球ホームラン、DH解除でピッチャー登板、日本最速165キロ、そして何よりメジャーリーグでの二刀流挑戦。これらのようなことを漫画にでも描こうものなら皆失笑するであろう。しかし大谷翔平はそれを現実のものとした。

本気で奇を起こそうと考えていると言えば、多くの人は笑うであろう。しかし僕も今、本気で奇を起こそうと前進している。笑うなら笑えばいい。そう思って前進している。成し遂げられる確率は85%だと考えている。まだ何も成し遂げられていないので実感は全くないが、自信は大いにある。では奇を成し遂げるためには何が必用か?もちろん才能は必要であろう。しかし才能がある人など世間には山ほどいる。なので他のものも必要である。それは「覚悟」だと考えている。覚悟を持って邁進しないと、成し遂げられることも成し遂げられない。半沢直樹はドラマではあるが、彼も覚悟の人間であった。さらに付け加えるのならば、大局的展望、そして物事の本質を見抜く力も必要である。はっきり言って100%出来ることなどほとんどないし、仮に100%出来ることがあればそんなものに価値はない。

奇を起こすかどうかは「生か?死か?」と言うことだと考えている。もしできなければこの世の中で生きては行けない。それが覚悟と言うものである。しかし覚悟を持って邁進できる人間がどれだけいるか?一度社会に問うてみたいものである。

ブログサイトのセキュリティを強化!

この「考える部屋 木原康明のブログ」のセキュリティを強化した。以前は上に表示されているURLのところに、「セキュリティで保護されていません」と言う表示があったが、今日からはしっかりと鍵マークがついている。

では具体的にどう変わったのか?見た目では、URLの最初の部分が「http」から「https」に変わったことだ。「s」が付け加わっただけだが、それによってサイトのネット通信が暗号でなされるようになり、ブログを見る方も書く方もセキュリティ的に安全度が増したと言うことだ。

サイトのhttps化は結構簡単に出来るだろうと思っていたが、結局いろいろあって三時間ほど格闘することになった。その原因はもう一つあるのだが、おわかりでしょうか?URLのドメインを「yasuaki-kihara.main.jp」から「yasuaki-kihara.jp」と短くなったのである。それは独自ドメインを取得して適用したためだ。それから、以前のURLに訪れた人が新しいサイトにたどり着くように、「301リダイレクト」と言う仕組みも適用した。

結局今回やったことは、1)URLのhttps化、2)独自ドメインに変更、3)301リダイレクト、と言う三つのことだ。とりあえず全て無事に終えてほっとしている。セキュリティ強化されて安心度が増したブログを、これからもよろしくお願いします。

「どっちが悪で、どっちが最悪か?」だ!

物事を判断する時には当然、「どっちが良くて、どっちが悪いか?」と言う視点で判断される。しかし現在のコロナ禍の中では、「どっちが悪で、どっちが最悪か?」と言う思考で判断しなければならないと強く感じている。

現在、政府によるGoToトラベルキャンペーンが行われている。現在のコロナ禍の中で果たしてそのような事をすべきなのか?と言う疑問は多くの人が感じていると思うが、しかし政府としては、今そのような形で支援しないと観光業界が持たないと考えているようだ。このような考えはもちろん政府内だけではなく一般国民も同じであろう。今GoToトラベルキャンペーンで支援しなければ倒産が続出し経済が回らないと多くの人が感じているだろう。もちろん自殺者も出て来る(もう出てはいるが)ことも容易に想像できる。それはまさしく悪である。しかしそれが悪ならば、果たしてGoToキャンペーンと言う形で補助をすべきなのか。僕にはそれをしないのが悪ならば、するのは最悪であるように思えてならない。

現在、コロナ被害は過去最大規模になっている。そのような中でのGoToトラベルキャンペーンは自殺行為でしかない。確かにそれによって一時的にはしのげるかもしれない。しかしその後に待っているのは地獄絵図である。なぜそのような事に気づかないのか?それは目の前の事にとらわれて中長期的な視点が決定的に欠けているからである。今死ぬか?半年後に死ぬか?と言う状況である。そしてそのような地獄絵図から抜け出すためにはワクチンが必須である。

GoToトラベルキャンペーンのために用意されている予算は一兆円を超える。それに対して、今世界でワクチン確保のために起きている競争で動いているお金は、数千億円規模であるようだ。GoToトラベルキャンペーンの予算をそちらに回せば十分であるばかりかお釣りがくるくらいだ。そのお釣りをワクチン確保のために上乗せすれば、さらなる優先権が得られるだろう。日本がそのような優先権を得ることができれば、国民のワクチン接種が数か月早くなる可能性が高い。ワクチン接種が数か月前倒しになれば、そのぶん経済の回復が早くなると言うことだ。それによって多くの企業と国民が経済的にも助けられることになる。このような中長期的戦略で物事を考えることが重要なのではないだろうか。

繰り返すが、今は善悪の判断ではない。悪か?最悪か?と言う判断なのである。僕が上で書いたようなことしたところで、それは決して良い結果ではない。しかし悪か?最悪か?と問われれば、悪であるように思える。そして中長期的な判断を間違えば確実に最悪になる。しかし今の安倍政権に果たしてそのような判断ができるだろうか?