投稿者「木原 康明」のアーカイブ

数値は絶対だが、解釈はあいまいだ。

例えば、健康診断では様々な数値がはじき出されるが、その数値をもって健康かどうかを判断する基準はあいまいだ。たしかに数値自体は絶対的で間違いないのだろうが・・・。

健康診断以外でも、原発事故による放射線物質汚染に対する基準、タバコの害に対する基準、どちらも数値は(おそらく)厳密に出てくる。しかしそれに対する解釈は人間の主観による部分も大きい。

たしかに全ての害悪に対する数値がゼロであれば、何の心配もないし、スッキリするかもしれない。しかし何に対してもゼロという数値はまずありえない。例えば放射線物質に関しては微量ながら自然界にも存在するわけであるし、(個人的にはタバコは大嫌いなので、なくなってほしいが)わずかなタバコの煙よりも害悪を与える自然要因はいくらでもある。

全ての害に関して、完全にゼロにすることは原理的に不可能であり(タバコはただ無くせばいいだけかもしれないが)、仮にできたとしても膨大なコストがかかる。そのコストを他の要因の低減に回した方がはるかにコスト対効果は高い。

害を容認するわけでは全くないが、一つの要因だけに注目するのではなく、あらゆる要因を総合的に判断する大局的な視点が大事である。

隙間時間を上手く使う。

最近僕が強く感じているのが、いかに隙間時間を上手に使うかということだ。今取り組んでいることに対してまとまった時間が取れ、集中できれば一番いいが、普段生活していればやはり雑用などが入り、時間が細切れになってしまう。したがってこのような隙間時間をいかにうまく使うかが、成否の分かれ目になってくる。

隙間時間を「これだけしか時間がないからどうでもいいや」と思うか、「少ない時間だけど、その時間を使って少しでも前に進めよう」と思うか、このような思い方一つで取り組み方が大きく変わってくる。

僕が非常に有用な時間だと感じているのが、電車の中の時間だ。電車に乗っている時間というものは隙間時間だと言えるが、電車の中の適度な雑音が結構心地よく、集中するのに最適な環境であるように思える。

これまで成功者を見ていると、皆、隙間時間の使い方が非常に上手い。一分の時間さえも大切にしている。隙間時間を上手く使えるかどうかはの分かれ目は、時間を大切にする心にあるのかもしれない。

ファンキーなホンダ・モンキー125cc。

ホンダの人気原付バイク「モンキー」の125cc版が、今年7月に発売されるという記事を見た。もともとモンキーは50ccのバイクであったが、規制とか何とかで発売が中止され、125ccとして生まれ変わるみたいだ。

モンキーは実にファンキーなバイクだ。人間で言えば、久保田利伸とかルパン三世が似合いそうだ。ルパン三世はチンクエチェント(FIAT500)という車に乗っていたが、もしルパンがバイクに乗っていたら間違いなくモンキーであろう。ちなみに僕は大学時代まで、久保田利伸に似ていると言われていた。

僕はファンキーなことが大好きだ。ブログでは毎日、少し真面目な記事を書いているが、根はファンキーである。いや、ファンキーでありたいと思っている。ルパンみたいになりたいと思っている。

今年の7月にモンキーが発売されると知って、本気でモンキーが欲しくなった。(僕は中型二輪の免許を持っており、昔はホンダ・NSR250という凄く速いバイクに乗っていた。)モンキーに乗ってファンキー道を極めるのも面白いかもしれない。

自分に厳しすぎるのも良くない。

自分に甘いのは良くないと言われるが、逆に自分に厳しすぎるのも良くない。必要なのは適度な厳しさであり、次につながる反省である。次につながらない厳しさは百害あって一利なしだ。

そして時には自分に甘くなるのも良いかもしれない。精神的に緊張し厳しく判断する時と、甘くリラックスする時の緩急をつけることが必要である。ビジネスマンがアフター5に飲みに行くのも、次の日への活力だと考えれば、何もかもを極限まで追いつめるのも良くないことが分かる。

僕自身も自分に厳しくすべきところは厳しくすべきだと常々思うが、自分に甘いためか、つい気分転換に走ってしまうことが良くある。もちろんいつも気分転換に浸るわけにはいかないが、気分転換をした際はその気分転換を次への原動力に転換すべく進まなければならないと感じている。

受け入れること、守ること。

柔軟性は何に関しても大事である。しかし、何でも人の意見を受け入れ、自我を全く持たないことも考えものである。重要な事は、人の意見を受け入れるべきところで受け入れる柔軟性と、自我を守るべきところで守る堅持性を使い分けることである。

また、これは他人に対する態度にも言える。他人に対して何でも意見を突きつけることは、善意で言っているとしても、それを過度に要求することは禁物だ。時には突き放して放置することも重要である。相手を突き放すことは言い換えると、相手へのリスペクトでもある。相手をリスペクトし、主体性を求めることが大事なのである。

何でも自分で考え主体的に行動する人と、常に他人に意見を求め行動する人と、二通りいるだろう。いや、この表現は誤解を与えるかもしれない。その中間もいるだろうし、どちらかに少し偏っている人もいるだろう。人間は多種多様である。しかしどちらが良くて、どちらが悪いというわけではない。自分の力が最も発揮できるスタイルを取ればいいのである。

主体性が強い人間にとって人に意見を求めることは簡単ではないし、その逆も然りである。しかしどちらかに固定するのではなく、それらを使い分ける柔軟性を持つ人間が一番強いのかもしれない。それを実行するのは非常に難しいことではあるが。

環境は周りから与えられるものではなく、自分で作るものだ。

現在、自分の置かれた環境についていろいろと思うところはあるが、一つ確かなことは、環境は周りから与えられるものではなく、自分で作るものだ、ということだ。

もちろん自分で環境を作ると言っても、自分だけの世界を作るわけではなく、周りを巻き込むことも重要であろう。そうなれば完全に自分だけが動いて作るというわけではなく、周りの力も利用してということになる。時には運よく周りから与えられることもあるだろう。しかし初めから全ての環境を与えられるのを待っていては、いつになっても環境は構築できない。

周りの力を利用できるかどうかということも、自分の実力のうちである。そして時には環境をお金で買うこともあるだろう。そのような意味で、環境構築力はあらゆることの総合力であると言える。

自分の力を思いっきり発揮できる環境を構築できるか?それには人間としての総合力が問われることになる。

オフレコ。

現在、財務事務次官のセクハラ問題に関して、「オフレコ」が話題になっている。ある記事では、今回の女性記者の情報提供について、オフレコ規則を破る自殺行為だとも言っている。はたしてそうだろうか?

オフレコとは、政治・経済関連の機密事項、及び発信者の秘密を目的としたものだ。今回の次官と女性記者のやり取りはオフレコだったということだが、そもそもセクハラ発言に関してオフレコにする必要は全くないし、セクハラをオフレコとするならば、それはオフレコを盾とする隠匿以外の何物でもない。

確かにオフレコを守ることは非常に重要である。時には国家機密に関するものもあるだろう。それらに関してオフレコを破っていたのでは国益に関わることもあり、また取材そのものも成立しない。

しかし今回のセクハラ騒動は、オフレコを守るべきものでもなんでもないし、オフレコとは全く次元の異なる事案でもある。こんなことをいちいち書かざるを得ないのも非常に次元の低い話であるが。

次世代は三刀流がチャンスだ!

現在、大谷翔平選手の二刀流が話題になっている。そして学問の分野では学際分野という言葉が頻繁に使われ、二分野にまたがる勉強・研究が盛んだ。

二刀流を実行するのは容易ではないし、誰にでもできるものではない。しかし現在は二刀流はかなり市民権を得てきているように思える。

そこで次は三刀流がチャンスではないかと感じる。研究で言うと、三分野にまたがる研究ということだ。自分のテリトリーを三分野に持つ。これは二刀流以上に難しいとは思うが、インパクトは絶大である。

軸足を三つ持つことによって、他人には見えないことが見えるようになる。そして選択肢の幅も圧倒的に広くなるだろう。三分野融合、三刀流で挑戦するには、準備も人の三倍以上必要であるが、それを実行できる気力と能力があれば、そこへ突き進んでみるのも非常に面白い。

安倍強権政治の副作用。

18日、セクハラ疑惑の財務事務次官の辞任が決まった。財務次官のセクハラ疑惑に関しては誰が見ても弁解の余地がないものであり、次官、そして財務省・政府の見解は非常に首をかしげるものばかりだ。

今回の疑惑をはじめ、政府周辺では最近、立て続けに疑惑・騒動が起きている。これらの疑惑に関しては様々な原因があるだろうが、その中の大きな理由に安倍政権があまりにも強くなりすぎたということがあるだろう。

強い政府は何も悪いことばかりではない。特に対外的には政府が強いことはポジティブな面も強く、強い政府・安倍一強だからこそ成すことができたことも少なくはない。僕自身も、安倍首相本人に対してはそんなに否定的には思っていない。

しかし現在、安倍首相はあまりにも強くなりすぎてしまった。おそらく安倍首相周辺はイエスマンの集団になり、そして安倍首相側の人間は安倍首相を盾にして一方的な解釈をしている。僕にはそう思える。

このような、官僚などの安倍首相周辺の状況を見ると、安倍政権もそろそろ潮時ではないのかと感じる。新しいトップのもとに、政府周辺の意識を改革することが求められる。

今さえ良ければいいのか?

元首相・小泉純一郎氏の記事を読んだ。小泉氏は震災以来、原発ゼロを訴えていることで有名だ。原発ゼロに関しては僕自身も賛成であるが、小泉氏によると、原発をめぐる状況には様々なしがらみがあるようで、一言で原発ゼロと言ってもそれを遂行するのは容易くないようだ。

ただ、原発がなくても電力需要を満たすことができる事は、震災直後の原発不稼働時期に証明されている。だから物理的には今すぐにでも可能なのだ。

元首相である小泉氏の意見は、政治界、経済界を総合しての知見によるものであると感じている。その小泉氏が原発ゼロを訴えているということは、おそらくそれが可能であるということであろう。いや、それを可能にしなければならないのかもしれない。そのためには国民も無関係ではなく、今さえ良ければいいという考えを捨てて行動しなければならないのかもしれない。