投稿者「木原 康明」のアーカイブ

合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル化学賞・吉野彰博士は何を成し遂げたのか?

9日、ノーベル化学賞に旭化成名誉フェローの吉野彰博士が受賞されるという発表があった。日本人の受賞は喜ばしいことだが、吉野博士は何を成し遂げ受賞したのか?僕は専門外なので知らなかったが、吉野博士の論文一覧を調べ、その中に日本語で書かれた総合論文があったので、さっそくプリントアウトして目を通した。(「リチウムイオン二次電池の開発と最近の技術動向」日本化学会誌 (2000) No.8, 523-534 吉野彰, 大塚健司, 中島孝之, 小山章, 中條聡)

10ページほどの論文で、手っ取り早く調べるのにはちょうど良い。その論文によると、吉野博士たちは1980代から1990年代にかけて画期的なリチウムイオンバッテリーを開発したということである。では何が画期的であったのか?そこで良いバッテリーとしてのポイントが二つある。それは効率的であること、そして安定性(安全性)が高いこと。簡単に言えば、バッテリー開発とはこれらの追究である。そこで、これらを成し遂げるために、吉野博士たちは画期的な「負電極素材」を発見した。それが「負電極炭素素材」である。負電極を金属ではなく炭素素材を使ったことが画期的であったらしい。これによってブレークスルーを突き破った。

吉野博士らの負電極炭素素材の理論的基盤は、量子化学、特にフロンティア電子理論にあるらしい。フロンティア電子理論と言えば、日本人ならハッと気づくと思う。そう、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論である。ちなみに、2000年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹博士の研究も関係しているらしい。

とは言え、吉野博士の研究の神髄は、理論ではなく実験にある。理論を言うのは易いが、それを実験で実現するのは難い。理論屋の僕にとって、吉野博士のノーベル賞受賞は少しだけ実験科学へ目を向けさせてくれた。今回、吉野博士の論文を読み、実験の見識と面白さを分けさせてくれることになった。

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

コーヒーの調節が意外と難しい。

最近、コーヒーの調節に四苦八苦している。コーヒーを飲むことによって、調子が大きく変化することがあるからだ。特に頭の働きに大きく影響していると強く感じている。数理物理の研究をしている僕にとっては死活問題だ。もちろん、全ての人がコーヒーによって影響を受けるとは思わないが、コーヒーの摂取量は自分でコントロールすることが必要だと強く感じている。

コーヒーを飲むことによって、ストレス調整ホルモンであるコルチゾールという物質の分泌に影響してくると言われている。もちろん、僕はそのような事の専門家ではないので軽く言うべきではないのかもしれないが、ただ色々な情報を入手すると、もしかしたらこのコルチゾールというホルモンに調子が影響されているのかもと考えている。僕自身、ストレス耐性は非常に低い方だと感じている。これまでコーヒーを半無限的に飲みまくっていたので、もしかしたらこれが影響しているのかもしれない。なので最近は、飲んでも一日に三杯までに止めている。

ただ、コーヒーが大好きな僕にとってはこれはかなりきつい。朝起きるとどうしてもコーヒー一杯飲みたくなる。しかしここを我慢して、起床一時間半後まではできるだけ飲まないようにしている。この起床直後がコルチゾールの分泌に一番影響するそうだ。

コーヒーを飲み過ぎても全く影響のない人は何も考えずに飲み続ければ良いが、僕のようにコーヒーを飲むとパフォーマンスに影響するのなら、自分でコントロールすることが必用だ。僕自身、様々な欲求をコントロールすることはかなりできる人間だと思っているが、これまでコーヒー中毒を自称していた僕にとっては、コーヒーのコントロールはかなり厳しいものである。ただ、コーヒーのコントロール一つでパフォーマンスが上がるのなら、徹底的にコントロールしていく覚悟はできている。

金と暴力。

現在、関西電力幹部と高浜市元助役との間での賄賂が問題になっている。そこには、権力を利用した金と暴力の構造が強く見られる。高浜市元助役がその地位を利用して、権力と私腹を肥やしていた構造、そして関電幹部がそれに応じて多額の金品を受け取っていた現実。それはまさしく金と暴力に汚染された社会そのものではないだろうか。

報道によると、関電幹部が高浜市元助役(故人)から多額の金銭、多量の貴金属(約三億二千万円相当)を受け取っていたという。これ自体も非常に大きな問題であることは間違いないが、さらに問題なのは元助役が金品を受け取った関電幹部に、このことを弱みとし恫喝していたということだ。そしてこのような恫喝は地元においても行われていたという。まさしく、金と暴力にまみれていたとしか言えない。

このような元助役の行為は、明らかに反社会的行為である。地元社会・地元市民に対する反社行為、そしてそれらに対する暴力である。そしてこれらの賄賂に関係する金品は一般市民の税金から充てられたと思われ、社会の経済的損失でもある。従ってあらゆる意味で悪質であり、悪質をさらに悪質で重ねていると言える。

この事件の主人公である元助役はすでに死んでいる。従ってもう本人に対して罪を償わすことはできないが、これは死に得と言えるのか?元助役本人は死に得かもしれないが、その付けは全て残された人が払うことになる。そういう意味ではこの元助役の行為は、さらに三重以上に悪質だと言える。日頃、金銭に関する犯罪はニュースで頻繁に見かけるものであるが、この事件に関しては金銭的にも、さらにはそれらに関する恫喝・暴力も重なり、悪質さのレベルはその比ではない。これらの類の逃げ得、死に得は決して許されるのもではなく、厳正に対処されることを強く望む。