投稿者「木原 康明」のアーカイブ

忘れることを、武器とする。

僕ははっきり言って記憶力は良くない。さっきブログで何を書いたっけ?とついさっき書いた記事の内容を忘れることもよくある。確かに記憶力が良ければそれはそれで良いが、だからと言って、記憶力が悪いことは必ずしも良くない事かと言えば、そうでもないと僕は考えている。それどころか、忘れるからこその良いこともいろいろあると思っている。

では忘れる事の何が良いか?一つ目は、忘れるべき事を忘れることが出来るということである。人間は全ての出来事を記憶すれば良いかと言えばそうではない。むしろ忘れたほうが良い情報も世の中には多々ある。嫌な事は忘れたいと思うのは自然であるし、自分に対してネガティブな影響を与える事は忘れた方が良い。もちろん覚えなければいけないことを忘れることは確かに良いとは言えないが、忘れたいことを忘れられないことは苦痛であろう。

二つ目は、過去の情報を忘れることによって、先入観が消える事だ。過去の事を全て覚えていれば、それらの情報にとらわれる発想しかできない危険性がある。もちろん過去の事を覚えていても、新しい発想が出来る人はそれなりにいるが、過去の出来事、過去の情報などから来る常識にとらわれて前に進めない人をよく見かける。過去の情報を忘れていれば、未来は全て白紙である。その白い紙にどのような絵を書き込むかということは、自分の意志によって自由に決めることが出来る。過去の情報により既に色が付いた紙を自分のものにするのは難しい。

もし記憶力が良くなくてすぐ忘れるというのならば、そのことについてネガティブに考え悩むより、逆に忘れることをポジティブに捉えて生きて行くほうが良い。記憶力と創造力は全く別物だと僕は考えている。記憶にこだわるより、いかに創造的に物事を構築して行くかということに目線を向けて、前に進んで行くことを心がけて行こう!

投資は人から言われてやるものではない。

投資に対しては色々な解釈があるが、どのような投資においても投資は人から言われてやるものではなく、自分が能動的に動いてやるものである。そしてどのような投資でも、リスクは必ず存在する。リスクがない投資などあり得ない。しかしリスクは他人が背負ってくれるものではなく、自分が全て背負うものである。だから責任は全て自分にある。自分が背負うリスクに対して、人の言うことに従って行うことは明らかにおかしい。

例えばお金を持っていれば銀行などから投資の話が来るかもしれない。老後のために投資をすべきだという話が舞い込んでくることはよくある話だ。しかし「老後のため」という言葉の裏には「必ず儲かる」というニュアンスで話していると思われる。少なくともそのような話に乗る人はそう思って投資をするのであろう。しかしそこでリスクの事は考えているか?おそらくほとんど考えてはいない。しかしもし投資して損をしても、銀行は「リスクがないとは一言も言っていない」と言うはずだ。リスクの話はしていないから、リスクがないとも言っていない。これは確かに間違ってはいない。全ては自己責任である。自己責任において投資するからこそ、リスクの話もしないような銀行員の話に乗るのではなく、自分で徹底的に調べて、リスクを承知の上で自ら証券会社に赴かなければならない。

金融の投資の話は非常に分かりやすいが(簡単に儲かるという話ではない)、人生における投資はさらに重要である。もちろん金銭的な面ではお金の投資より少額かもしれないが、人生の投資はお金と時間、そして自分の頭脳を著しく消費する。もちろん人生における投資も全て自己責任である。上手く行かなくて他人のせいにするなどということはあってはならない。金銭的にもお金の投資より少額ではあるかもしれないが、人生における投資はお金の投資以上にセンスが問われる。良質な知識を入手するためには新聞や書籍などに投資することは必要であるし、人間関係を築くのにも交際費が必要である。実はこれらの投資は本気で取り組むとかなりの金額になる。専門書は一冊一万円以上するものも少なくないので、百冊買えばそれで百万円である。しかしお金は富豪でない限り有限であると考えなければならない。この限られた金銭的資源をどのように分配するかということは吟味して考えなければならない。さらに時間に関してはどんな大富豪であっても平等に有限であるので、その分配はさらに熟考することが求められる。

近年はネットの発達などにより簡単に情報が手に入るようになったせいか、全てを外部に頼ろうとする風潮が強くなってきているように感じる。しかし本当に重要なのは、外部の情報ではなく「内部の思考」である。そしてその内部の思考によって行動を決断して行かなければならない。投資という行動決定においても、やはり能動的に自己決定し自己責任を負うということが一番重要になる。

どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すか?

自動車にはリミッターというものがかけられていることが多い。リミッターとはある速度以上出ないように制限を付ける事だ。もちろんリミッターをカットすれば限りなく速く(車の性能的な範囲内で)走ることが出来る。しかしリミッターをカットすれば危険性も増すし、レッドゾーンまで回し続ければ故障する危険性も圧倒的に高くなる。人間もあらゆるところで自分にリミッターをかけてセーブしている。しかし時にはリミッターを外し、自分の持てる才能を最大限に引き出すことが必要になる時がある。どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すかという判断は、人生の成否や人間性に非常に大きく関わってくる。

いつでもリミッターをかけていれば、従来の常識の範囲を超えることはできない。しかしリミッターを外せば危険性が増す。すなわち、リミッターの操作は人間としての生き方のセンスが最も問われるところである。リミッターを外し、壊れることを恐れる人も多いが、僕は度々壊れるのも良いのではと思っている。壊れたら修理をしてまた仕切り直しをすればよいのである。もちろん修理不可能なくらい壊れるのは良くないが、基本壊れること前提でリミッターを外し生きるという選択肢も大いにありである。

日本では常にリミッターをかけていることが良しという風潮がある。「失敗は悪」という考えが根強く残っている。それでもある程度の所まで行ける可能性は十分にあるが、壁にぶつかってどうしても越えられそうにない時は、リミッターを外す必要がある。そしてリミッターを外した時、車と同じく、その人の人間としての力が最も顕著に表れる。だから自分の力に自信がある人は積極的にリミッターを外すべきである。そうでないと宝の持ち腐れになってしまう。そもそも力のない人は、リミッターを外すかという状況に直面することはないのかもしれない。

リミッターを外すことは諸刃の剣である。しかし良い剣を持っているのならば、積極的に外して行くべきである。そうすれば失敗して傷を負うことも多々あるかもしれないが、それ以上の成果を得られる可能性が高い。リミッターを外すかどうか迷った時には、自分がそのレベルまで達したと自信を持ってよい。そして一度リミッターを外し勝負に出てみることによって、新たな境地に達することが出来るであろう。

どこまで「資本の論理」を受け入れるべきなのか?

現代社会のスタンダードシステムは間違いなく「資本主義」である。あるいは「民主主義」だと言える。20世紀には中国・ロシアを中心とする「共産主義」や「社会主義」といったシステムがあったが(もちろん現在もある)、誰が見ても成功したとは言えない。現在では中国までもが積極的に資本の論理を取り入れている。資本主義というものは一見成功したように見えるが、はたしてそれは本当に正しいのであろうか?

資本主義や民主主義は「正しい」とか「正義だ」とよく言われるが、資本主義であっても問題は山積している。貧富の格差の拡大や環境汚染、未来の事を考えない「現在至上主義」などが挙げられるが、これらの問題を解決するためには資本主義や民主主義というものを見返すことが必要だ。自由市場主義によって利益は最大化されると言われるが、総数が増えてもそれが一部に偏っていれば理想から離れている。民主主義は全ての民衆の意見を反映できると言われているが、結局多数意見だけがまかり通ってしまう。もちろん、社会主義、共産主義と比べればはるかにマシなシステムである。しかしだからと言ってこれからも従来のシステムのままで良いかと言われれば決してそうではないはずだ。

拝金主義でなくても、「お金はいくらあっても困ることはない」という考えを持つ人は多い。だから際限なくお金を求めてしまう。儲かる所に資本を集中させ、利益を上げる事を第一目標に掲げて行動を起こす。このような資本の論理に問題はないのか?と言われれば、現在あらゆるところで問題が露呈していると言える。まずは環境問題。経済最優先の行動や政策を実行するが故に、そこから発生する環境汚染には無頓着になってしまう。環境問題が重要な問題だと思いながらも、自分たちの利益を優先するが故に行動を起こせない。原発問題はその最たるものであろう。事故が起きてもまだ経済効率化の夢を見ている。資本主義と民主主義の行きついたところがそれである。

民主主義の理想は確かに悪くない。そして資本主義に関しても良いところはたくさんある。しかし今はそれを大幅に補正すべきではないだろうか?確かに民主主義、資本主義に代わる理念は簡単には出てこないかもしれない。だが今はそれらをバージョンアップすべきだ。現在のシステムのままだと、明らかに地球が持たない。自然が持たない。そして人間が持たない。ではどうすれば補正の指針を見つけられるのか?それは、人間が便利さばかりを追求することを自制することだ。いったん便利さを味わった人間は後には戻れない。そして人間はエンドレスに便利さを求めている。例えそれが破滅へと向かう道であっても。

今人間が見ている未来予想図は、どれを見ても限りなく便利な社会である。それに理想を持っている人も多いかもしれない。しかしそれが虹色の社会だと言えるのか?そのような社会で人間が人間らしく生きることが出来るのか?僕はどうしてもそうは思えない。そして現在に生きる人間が未来に生きる人間に対して負債を重ね続けるようなことはあってはならないことだ。現在至上主義から未来志向主義へと変革する必要があるのではないだろうか?

データを活用するか?データに依存するか?

近年、ますますデータの重要性が高まっている。特にビッグデータと言われる種類のものが様々な分野で活用され、またそのようなデータが高額で取引されているようである。これらのデータは全体の傾向を把握するのには向いているが、個人にとってこれらのデータとどう向き合うべきなのか?と考えさせられる。

僕自身はデータ万能主義には異を唱えている。とは言え、データの有用性を否定する訳ではない。データは確かに強力な武器である。ビジネスからスポーツまで、近年はデータが強力に威力を発揮している。だからデータが威力を発揮するところでは積極的にデータを活用すべきだと思う。

しかし個人が生きる上で、データをどれくらい活用すべきなのか?非常に考えさせられる。結論から言うと、「データを活用するのは良いが、データに依存すべきでない」ということだ。そして、データは必ずしも万能ではないということだ。もしデータが示唆することが100%正しければ、人間は何もしなくて良い。データに盲目的に従っていけばよいだけの話である。しかしこうは問屋が卸さない。データが完璧でも、データを解釈するのは人間である。もちろん最近は、AIによる医療画像診断などコンピューターが解釈しだしている。そういうことならデータを集めそれをコンピューターに診断してもらえば、それに盲目的に従えばよいのか?いや、必ずしもそうではない。そこに人間が生きるということの深さがある。

人間には自由意思がある。この自由意思というものを巡っても最近は議論があるようだが、少なくとも現時点では人間の自由意思を尊重すべきだと考えて良いだろう。自由意思が自由であるためには、データに盲目的にはなるべきではない。もちろんある程度活用するのは良いとは思うが、自分の内部で思考し出した結果が自由意思である。データに依存し自由意思を無くした人間は人間と言えるのか?僕はもうそれは人間ではないと考えている。例え人間だとしても、精神的には奴隷である。もちろん、何も考えないで楽に生きたいと考える人がいれば、奴隷になるのも一つの手かもしれない。しかし自分の意志に従って前に進もうとしている人は奴隷になるべきではない。これから人間はこう二極化してくるのではないだろうか?

データは万能ではない。いや、もしかしたら万能に近いこともあるだろうが、万能だからと言ってそれが即データに従うべきかと言えばそうではない。我々は人間である。自分が人間としてどう生きるべきか?以前ならそんなことを考えなくても人間らしく生きる事は出来たが、コンピューター解析が異常に発達したデータ万能社会においては、そのような事を真剣に考えて生きて行かなければ、人間性を失ってしまうことになる。

時には不調な時もあるさ!

好不調の波は誰にでもある。しかし人によってその波の大きさは違うようだ。波の変化が激しい人もいれば、かなりフラットに近い人もいる。できればフラットな方が良いが、重要な事は“高いレベルで”フラットにいることだ。低いレベルでフラットは誰が見ても良くない。

僕自身も結構波はあるので、できるだけ高いレベルでフラットにいれるように試行錯誤しているが、やはりそんなに簡単にはなれない。高いレベルでいるためには心身のコンディションを整えなければならない。そのためにお酒は出来るだけ飲まないとか、コーヒーも出来るだけ控えるとかの努力をしている。やはり頭脳を最高のコンディションで使って生きるためには、お酒などは飲まないに越したことはない。お酒を飲むことによってリラックス効果があるとか言われるが、お酒を飲まないでリラックスが出来ればそれが一番良い。

好調な時には大体何をやっても上手く行くし物事も進むが、悩みどころは不調な時にどう過ごすかということである。不調な時は何もしないでゆっくりすればいいとは思うが、それに甘んじて何もしないでいるとズルズルと滑り落ちて行くように思う。だから不調な時は不調な時なりにできる事をしようと思っているが、なかなかそう実行できないでいる。何とか良い解決策はないだろうか?

でも不調な時があるのは仕方がない。「時には不調な時もあるさ!」と開き直って羽を伸ばすのも良いかもしれない。今やる事は大事だが、時には「明日やろう」と思うのもいいかもしれない。

異分野との相乗効果。

僕は最近、専門外の事にも積極的に取り組もうとしている。例えば経済学や歴史などの学問から、筋トレやジョギングといったちょっとしたスポーツまで、できることは出来る限り挑戦しようと思っている。もちろん異分野の事に取り組もうと思っても、面白くなければ続かない。しかし経済学も歴史も非常に面白い。筋トレは体を引き締めるために必要だし、ジョギングをすると頭が良く働く。そしてこれらの事を行うことによって、専門の事に対しても相乗効果によって良い影響が表れている。

そして相乗効果を狙うのなら、できるだけ専門から離れていることを狙うほうが良い。学問を専門にしているのならばスポーツをやるとか、あるいは茶道なども良いかもしれない。さらに二刀流ではなく、三刀流、四刀流と手を広げるのも良い。もちろん手を広げ過ぎて専門が疎かになってはいけないが、しかし少し専門に影響が出るくらい手を広げるのが良いと僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は、大学時代ラグビーをやっていたそうだ。ラグビーとはまた激しいスポーツをやっていたものだと思うが、そのように専門とは全くかけ離れたことをすることによって、普段とは違う頭を使うものかもしれない。僕自身は学生時代は全くスポーツをやっていなかったが、今になって学生時代にスポーツに打ち込むべきだったと少し後悔している。とは言え、自分の過去について特にネガティブに思うことはほとんどないので、過去の自分はそれはそれで良いのだ。

スポーツをやって頭を活性化させて数学に打ち込む、というくらいの事をやっても良いのだと僕は最近思っている。学問だけに限っても、学際分野というのはいつの時代でも強い。スポーツでも十種競技というものがある。究極はそれぞれの競技だけを見てもトップである十種競技選手だと思う。実際の十種競技ではそれはかなり難しいが、専門を軸として手を広げて行けば、少なくとも専門に関してはトップである十種競技選手になれる可能性はあるのではないだろうか?

“自分を守らない”自己チュー。

誰かを守るということは非常に重要な事だ。それと同様に自分を守ることも非常に重要かもしれない。「命あっての物種」という言葉があるように、自分が生きていない限り何もできない。「生きるために自分を守る」ということは、人間に限らずどの生物でも言えることだ。

しかし自分を守るということは結果論であって、それ自体が一番の目的になってはいけない。自分を守る事ばかり考えていると、何もかもが死んで見えてしまう。自分以外の事が見えなくなる。他人の事を考えることが出来なくなる。自分の生命感を保つためには「自分を守らない」ということが大事なのである。

「自己チュー」は否定的に捉えられることが多いが、僕は自己チューも悪くないと思う。自分を守らないで殻を飛び出し前に進むためには、自己チューが不可欠だと考えているからである。自己チューはわがままではない。いや、わがままな自己チューな人も世の中にはたくさんいるが、自己チューになって自分の成し遂げる事を達成することが出来れば、それによって周りのたくさんの人を助けることが出来る。口だけやさしい事ばかり言って何もしない人は、はっきり言って害悪でしかない。真の幸せは、“自分を守らない”自己チューから生まれると僕は思っている。

自己チューは初めは必ず嫌われる。はっきり言ってこのバッシングはかなりきつい。状況的にも精神的にもかなり追い込まれる。しかしこの状況を脱するためには結果を出すしかない。自己チューになるなら徹底的に自己チューを貫き通し、それによって成功すればよいのである。しかし“自分を守るため”の自己チューにはなってはならない。そのような自己チューは百害あって一利なしだ。“自分を守らない”自己チューによって、自分の置かれている立場を変え、周りを幸せにして行こう!

世界が広がる?

現実の世界、つまり地球の広さは何千年経っても変わらない。しかし自分の頭の中の世界は思考の深さに応じていくらでも広がるし、また思考を怠ればどんどん狭くなっていく。よく自分の世界を広めるために世界を旅行するという人がいる。確かにそれは間違っていないだろう。しかし旅行で広がる世界なんてたかが知れている。それよりも思考によって広がる世界の方が圧倒的に広いのだ。何なら思考によって宇宙全体を飲み込むこともできる。しかし思考しなければ目の前の事さえ見えない。

世界を広める一番効果的な方法は、数学や物理を極める事だ。何なら生物学でもいい。生物学を究めることによって人体の細部に入り込むこともできる。化学は身の回りの現象を理解し、さらに面白い物を誕生させることが出来るかもしれない。地学を究めることによってこの地球を根本的に理解できるかもしれない。科学を理解するとは、自分の世界を圧倒的に広める事なのである。

科学を理解する時に大事な事は、マクロとミクロの双方から理解することだ。経済学でマクロ経済とミクロ経済があるように、科学の世界にもマクロとミクロがある。数学はそれがさらに顕著で、無限大と無限小までも厳密に扱ってしまう。マクロとミクロの両方から複眼的に世界を見ることによって、世界の広さは何十倍にも何百倍にもなる。単眼的思考は最弱であり、複眼的思考は最強である。

科学に哲学を持ち込めば最高である。世間では科学と哲学は相いれないものだという認識が強い。確かに科学と哲学は違う。科学の理論の中に哲学論理を持ち込むのは間違っている。しかし、科学に対する思考の中に哲学的要素を持ち込むことはいくらでもできる。というより、哲学無き科学は常に貧弱である。もし科学を究めようと思えば、広く学問を究めなければならない。超複眼的思考によって、誰もがまだ到達していない科学の頂に立つことを目指すことは、非常にエキサイティングである。

真理を見抜く、本質を見抜く。

僕にとって物事の表面的な事はどうでもいい。いや、時には表面的な美しさにも魅かれることがあるが、それ以上にそれらの奥に潜んでいる本質を見抜くことが重要である。そして本質を見抜くためには、真理を理解しなければならない。

しかし、意外と真理を見抜いている人は少ない。固定観念や常識にとらわれ、真の思考を放棄してしまうのだ。本質の理解は深い思考抜きにはあり得ない。そして一点だけを見ても何も見えないことが多い。複眼的にその周りから受ける相互作用を考慮しなければならない。

ではなぜ真理を、本質を、見抜かなければならないのか?もしかしたら問題を解決するためと答えるかもしれない。しかしそれ以上に重要なのは問題を見つけることだ。もし自分自身で問題を見つけることが出来れば、その問題の解決の70%は出来ていると見て良い。“自分”で問題を見つけることが大事なのである。

21世紀初め、数学者のペレルマン博士によってポアンカレ予想という未解決問題が解かれた。もちろん解いたのはペレルマン博士であるが、その100年前にこの予想を提示したポアンカレはこの問題の本質の70%を掴んでいたと言って良い。だからこそ、ペレルマン博士が解いた後もこの問題はペレルマンの定理とはあまり言われず、“ポアンカレ”予想と言われているのである。

世の中には陳腐な事象が溢れ返っている。その中から少数の本質的なものを選び出さなければならない。しかし、歴史や権威に基づいた“本物”と言われるものに騙されてはいけない。歴史や権威に基づくものを思考停止的に本物だと崇める風潮が見られることに僕は危惧している。本質とは自分自身の頭で徹底的に思考して見出されるものなのである。