投稿者「木原 康明」のアーカイブ

潔癖な人間よりも、汚れが気にならない人間の方が絶対に強い!

最近、潔癖な人が多いような気がする。そんな僕も実は潔癖症だ。

潔癖と言っても大きく二つに分けられる。汚いものに触れない潔癖。そして悩みを完璧に消さなければ気が済まない潔癖。簡単に言えば、「体の潔癖」と「心の潔癖」ということになるであろう。

体の潔癖もかなり問題があるが、心の潔癖は深刻だ。悩みがあると、様々なことに対してパフォーマンスが落ちる。そして心の潔癖は、現在の悩みが解決しても必ず次の悩みがすぐに取って代わる。

何かグレーな事(頭の中の汚いこととでも言うべきか)があるから悩みに陥るのであるが、少々の汚れなんて全く気にならない人間の方が絶対に強い。人間、汚れてナンボである。汚れの中を自ら突き進むくらいの精神力を持ちたい。

汚れは決して悪いことではない。汚れを完璧に無くすことよりも、汚れと上手く付き合い、「汚れどんと来い」というくらいの考えで生きていきたいものである。

心を鍛える事、体を鍛える事。

心と体は一体。どちらも同一人物に宿るものである。心(精神)を鍛えなければならないとか、体を鍛えなければいけないとかいろいろ考えるけど、やはり心と体の両方をバランスよく鍛えることが大事だ。

数学を研究している人に対して、どのようなイメージを持っているだろうか?数学は頭を使う作業なので、体はあまり重要ではない、と考える人が多いと思う。しかし数学の人間同士では「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものである。数学を研究するのにも体あってのもの。数学にも体力は重要なのである。僕の大学時代の恩師(数学者)は、毎日バーベルを持ち上げて、その時に歯に力を入れ過ぎ歯がボロボロになったと言っておられた。

僕も体力の重要性に気づいてから、ここ五年くらいはほぼ毎日筋トレを続けている。心を鍛えることの重要性は言うまでもないが、頭を使う知的労働者こそ、体の重要性を認識しなければいけないのではと思う。もちろん、健康を維持することは言うまでもない。

取るべきリスクと、避けるべきリスク。

人間生きていると、様々なリスクに対して、取るか取らないか決断をしなければならない。リスクは少ない方がいいが、前に進むときにはリスクを必要とするときもある。

しかし、不必要なリスクまで負う必要はない。特に金銭的リスクだが、何かを始める時にそれだけのお金が必要か?よく考えなければいけない。特に起業するには資金は必須だ。しかし初めから完璧にしようとすると、無駄にお金をつぎ込んでしまうことがある。成功する確率は、つぎ込んだお金に比例しない。

リスクは金銭的リスクだけではない。時間的なリスク、立場上のリスクなど様々なリスクがある。人間として上を目指すためには、金銭的リスクは不要でもその他の様々なリスクを抱えざる負えない。そのような時のリスクは”覚悟”であると言えるだろう。

人間としてのリスクを取らずに無難に生きていくことも十分可能であろう。しかし、人間的リスクを取らずに生きていく人生は、表面をなぞるような人生でしかない。深みが生まれない。人間的リスクを取り、それを克服した時に、人間的な深さが生まれる。

深みのある魅力的な人間になるために、どうリスクと向き合うか。試行錯誤の毎日である。

僕は高校中退したことを、誇りに思っている。

今日、このブログサイトのプロフィールに書いてあった僕の学歴を大幅に簡潔にした。大学名・大学院名は削除することにした。しかし、高校中退したことについては、そのまま残してある。

僕にとって、高校を中退したことは汚点ではない。むしろ誇れることだと思っている。中退した理由はいくつかあるが、僕が自分で決断し、実行した。

高校一年の一学期で中退してから大学へ入るまでの二年半は、とてつもなく有意義で充実した時間であった。友人付き合いは、数学少年仲間から悪友まで様々であった。この二年半がなければ、今の自分はなかったであろう。

もちろん物理学者になるという夢は非常に強く持っていたので、数学と物理の勉強は人一倍やっていた。毎日図書館に通って勉強するのも心地よかった。仲間の吸うタバコの煙は非常に嫌ではあったが。

尾崎豊みたいに派手で発散していたわけではなかったけど、自分なりに信念を持って生きていた。その信念は、20年以上たった今でも変わらないが。

レールの上を走るだけが人生じゃない。荒れた荒野を開拓していくことは、非常に困難だけど、そうして切り開いた道は自分だけの道だ。自分の人生に対して他人からレッテルを張られる筋合いはない。しかしすでにある道の名前は他人の名前だ。自分の進む道くらいは自分の名前を付けたいものである。

 

合理主義・論理主義の時代でも、精神論は必要だ。

物事を合理的に考える、論理的に遂行するということは、現代社会において避けて通れない道だ。昔あった、精神論・根性論一本やりでは、この現代社会は乗り切れない。

では、精神論は無用の長物になったのか?僕はそうは思わない。物事を合理的・論理的に遂行するのは、最終的には人間だ。人間の中枢は精神(頭脳)であり、それが故、精神論抜きでは何も進められない。

よく「努力をせよ」と言われるが、努力などはまさに精神論そのものである。精神論は人間が人間らしく生きると言う意味でも重要である。また、そこに人間のドラマが生まれる。

人間はコンピューターでも機械でもない。合理的・論理的考えを上手く取り入れながら人間らしく活動する、それが現代社会で生きていくうえで最も理想的な生き方と言えるのではないか。

章男TOYOTAが面白い。

今、豊田章男社長率いるトヨタが面白い。

あくまでも外から見た素人の主観でしかないが、豊田章男氏が社長に就任してから、トヨタは大きく変わったと感じている。もちろん、純利益が2兆円にまで大きくなったと言うことなど、ビジネス的に大成功しているということもあるが、そんなビジネスがどうのこうのという問題ではなく”面白い”のである。

章男氏が社長になった当時、僕はどうせトヨタの御曹司が社長になって、良くない方向になっていくのではないかとたかをくくっていた。ところが章男氏が社長になって3年ほど経つと、会社はビジネス的にも上手くいっているようであり、それより何よりも面白くなってきたのである。

「面白い商品を出す、面白い会社、面白いことにも挑戦している」

僕自身、トヨタの車と縁があるとは言えないが、はたから見ていても今のトヨタ・レクサスの車は非常に魅力ある。車はエンジンだ、質感だとは言っても、第一印象のデザインがよくなければ興味が湧かない。そのデザインを見ても、今のトヨタ・レクサスは非常にかっこよく、大人っぽい。もちろん機械的な質に関しては言うまでもない(と思う)。

最近では、レクサスがボートを製品化するとニュースが出た。ラグジュアリーボートである。おそらく値段は億するであろう。無茶な気もするが、今のレクサスならあり得るような気もする。

今のトヨタを一言で表すなら「無難な車から、面白い製品へ」ということになるのかもしれない。

出口だけでなく、ブラックボックスを理解することも重要だ。

最近、何もかもがブラックボックス化されて、ボックスの中では何がなされているかには興味がなく、出口から出てきた結果だけを見て判断される風潮がある。これにはボックスがあまりにも高度複雑化されてきたこともあるが、複雑になったボックスとは言え、ある程度の概要を知ることは可能だ。

そのようなブラックボックスのうちの一つが、最近話題のAI(人工知能)であろう。AIのできる事を見ていると、本当に”知能”であるような錯覚を覚える。極端に言えば”AIは何でもできる”という錯覚に陥りがちだ。しかしAIの中身・仕組みをある程度知ると、AIは知能ではなく”知能もどき”であることに気付くであろう。

最近ではAIによる医療判断までできるようになってきた。しかしAIの仕組みを知ると、AIが得意な事、不得意なことの傾向が見えてくる。不得意なことに関しては、人間の足元にも及ばない。

得意とされる学問でさえも、東ロボ君(AIによる東大合格を目指すロボットのプロジェクト)と言うものがあり、それでも東大に合格できるかどうかである。”所詮”東大入試である。研究者レベルから比べると、お遊び程度の問題と言う意味で”所詮”と書いた。

AI評論を見ると、大きく二つに分かれる。システムを知っている人の評論と、出口しか見ない人の評論だ。僕は絶対に”システムを理解している人”の評論を聞くべきだと思う。出口しか見ない人の評論は、単なる想像でしかない。

ブラックボックスと言うものは非常に便利だ。仕組みを知らなくても望みのものを出すことができる。しかしそれは危険と隣り合わせである。自分が何を利用しているかも理解していないのである。そして何でもできる気になる。しかし本当は何もできていないのである。

しかし多くの人はそんなことはどうでもいいのかもしれない。便利でさえあればいいのかもしれない。しかし人類が知的活動を何も知らずに生活するのは、知的生物である人間の生活行動として何かが欠けているように思えてならない。

自動車評論に対する先入観?

僕は本屋さんでの立ち読みがほぼ毎日の日課になっている。ジャンルはファッションから時計・自動車・釣りなどのアウトドア関連の雑誌など様々だが、立ち読みではできるだけ、科学などの僕の専門分野の本は読まないようにしている。

その中で自動車に関する雑誌を立ち読みしていていつも気になるのだが、ほとんどの自動車評論家は、ドイツ車、特にメルセデスベンツ・BMW・アウディ(VWを含む)を絶賛していて、それに対して日本車は詰めが甘いと批判する人が多い。というより、もうそれが自動車評論のお決まりパターン化している。

僕自身、そんなドイツ車に乗っているわけでもなく、自動車評論をできる立場でもなんでもないが、そのような自動車評論家の評論の根底には、ドイツ車(ヨーロッパ車)がありき、それに対して日本車はどこまで近づけているか、という視点で評論されているようでならない。もちろんドイツ車が最終地点にセットアップされているならば、日本車は確実にその下に位置することになる。実際ドイツ車の方が良いのかもしれないが。

しかし、評論の視点は多面的でなければならない。質感以外にも燃費・安定性・故障の少なさなど、探せばいろいろな視点が見つかる。しかしほとんどの評論家は同じような視点で、同じようなコメントをマニアックな用語で述べている。そもそも皆同じことを言うならば、何人も自動車評論家はいらないと思うのだが。それとも御用評論家なのか?

この様な状態なので、最近は自動車雑誌を見ても、写真を眺めてうっとりすることはあっても、評論を読む気にはなれない。どうせいつも通りマニアックな言葉を使ってマンネリ化した評論に終始しているのだろうと。

これらの僕の見解は間違っているかもしれない。いや、自動車雑誌ファンからすれば「お前は何もわかっていない」と言われるのはわかっている。しかし自動車評論家の評論に”多面性”という視点が欠けていることは確実だと思う。

体のコントロール、頭のコントロール。

自分の調子を把握するのは、意外と難しい。いや、それが簡単にできる人も多いのかもしれないが、僕にとってはかなり難しい。そしてさらに、自分の調子を把握して、それをもとにコントロールしなければならない。これも簡単にできる人は多いのかもしれないが、僕にとっては至難の業だ。

自分の調子と言っても、大きく二つに分かれる。体の調子と頭の調子。体のコントロールは筋トレでもしていくらでも強固にできるが、僕にとって手ごわいのは頭(脳)の調子だ。

頭の調子を整える上で一番重要になってくるのは”睡眠”であろう。僕にとって、この睡眠のコントロールが難しいのだ。コントロール不能と言ってもいいだろう。

上手く睡眠をコントロールできたときは、一日の質と量が違う。睡眠に一日がかかっている。

一日は寝る前に始まっている。睡眠は僕にとって一番の勝負時だ。適切な睡眠が取れるかどうか。本当に普通の人にとってはなんてことのないことかもしれない。しかし僕にとっては一大事なのである。

ちなみに体のコントロールはバッチリである。

体と頭は車の両輪である。双方上手くいってこそ、飛躍的なパフォーマンスを発揮できると考えている。

金曜の夜、街の中国人パワーに圧倒させられる。

26日金曜日、大阪に用事があって、夜に難波をぶらついた。最近何度か難波に行くことがあったが、毎回感じるのが来日中国人の圧倒的パワーだ。中国人の爆買いが一時期話題になり最近は下火になったと言われるが、そんな現在でもまだまだ健在であるように感じた。

客が中国人なら、店員も中国人だ。ブレスケアを買おうとドラッグストアに行って店員に尋ねると、対応する店員までもがほとんど中国人なのだ。戎橋筋・心斎橋筋は中国人でごった返している。店の看板にはどこも中国語表記であふれている。

普段は神戸三宮で事を済ますことが多いが、神戸と大阪では国際度が桁違いに違う。難波を行きかう中国人が皆非常に活発的に見えたのは気のせいか、それともそれが今の中国の勢いか。

中国人の爆買いで難波は潤っているように見えたが、果たしてこれがいつまで続くのか。中国人パワーに圧倒された、難波での金曜の夜であった。