投稿者「木原 康明」のアーカイブ

ホンゲル係数。

小学生か中学生のころ、社会科の授業でエンゲル係数と言うものを習った。家計の支出における食費の割合を表す数字だ。それにもじって、僕は「ホンゲル係数」と言う言葉を使っている。ホンゲル係数とは、支出における書籍代の割合だ。僕が勝手に作った言葉なので、おそらく世間では全く通用しない。しかし僕自身は、これはなかなか便利な言葉だと思っているので、最近たまに使っている。

ホンゲル係数は何を表現しているのか?それは知への投資の割合である。もちろん漫画を何百冊も買う人もいるので何とも言えないが、基本的には学問書などへの投資を想定している。僕自身のホンゲル係数は極端に高い。おそらく日本国民の上位0.01%には確実に入っている。書籍代が高いのか、支出が少ないのか、それは想像にお任せする。

しかし学問書・専門書は非常に高いものである。一冊一万円ほどする本は山ほどある。そのような高額書籍を毎月せっせと買っている僕も何とかしているが。しかしこれは将来を見越した確実性のある投資である。金融投資などはバカみたいなので一切やらないが、学問に対する知への投資はこれからも続けるつもりだ。

本を買っていくと、当たり前だが本がたまっていく。全ての本が役に立てばよいが、そのような事はあり得ない。一冊の本でも、その中の数ページでも役に立てば儲けもんなのである。数年後には高額な書籍代を維持しつつも、ホンゲル係数は下げていきたいものである。(つまり、収入・支出を上げる。)しかし、結果を出す前にホンゲル係数が高止まりすることは僕にとっては必要不可欠であると考えている。結果を出すまでもう少し、極高ホンゲル係数に耐えて行こう。

地球外知的生物はいるのか?

地球外知的生物の存在に関しては、いつの時代も話題になる。地球外知的生物とは、いわゆる宇宙人であると言える。宇宙人だと言ってしまえば話は変な方向(オカルト系)に行ってしまうことが多いが、多くの科学者は地球外知的生物、つまり宇宙人はいるだろうと本気で考えている。僕自身も以前は地球外知的生物はほぼ間違いなくいるだろうと考えていた。その根拠は、地球と言う宇宙の一つの星に知的生物が存在するという事実から、宇宙に存在する無数の星の中には知的生物が存在する星があると考える方が至って自然であろうと言う考えからだ。そしてこのような考えを根拠にすると、知的生物が存在する星の数は数個・数十個ではなく、何万、あるいはそれ以上あると考えるのが自然だ。

しかし、僕はある分野の知見を得ることによって、考えは大きく変わった。つまり、宇宙にいる知的生物が地球上の人間だけである可能性も非常に高いと言うことだ。では、何を根拠にそのような結論を出したのか?それは進化論だ。進化論と言えばダーウィンを思うが、現在はダーウィンの自然淘汰による進化論を基礎にしつつも、非常に高度な理論に発展している。その中に、数学(特に確率論・統計学)に基づいた数理進化学と言うものがある。そして数理進化学は、数理遺伝学に基づいている。つまり、進化を遺伝子レベルで考察し、数理モデルを構築していくと言うものだ。

このような分子的な遺伝子レベルで進化を考えると、人間が誕生するまでの進化の歴史は偶然と奇跡の連続であることがわかる。そのようなことは、数学を駆使して解析することによって鮮明になってくる。地球においても、人間が誕生する確率はほぼゼロであった可能性がある。しかし偶然に偶然が重なって、偶然に人間が誕生したと言えるのである。そのような事が数学的解析によって鮮明になるのは特筆的である。

例えば、猿にタイプライターを打たせてシェークスピアを書かせることは出来るか?と言う例え話がある。これは適当にタイプライター打っても、シェークスピアと同じ文章が書ける確率がゼロではない言う話だ。実際は、シェークスピアの長さを考えると、100億年打ち続けても偶然書き上げられる可能性はほぼゼロである。なので正岡子規の俳句にしよう。猿がタイプライターを適当に打って正岡子規の俳句が出来上がる可能性はほぼゼロであろう。しかし正岡子規の俳句が出来上がったのである。(実際は、猿が打って出来上がった俳句を「正岡子規の俳句」と名付けたと言うべきであろう。)正岡子規の俳句に当たるのが、地球での人間誕生なのである。

地球上に人間が誕生したからと言って、宇宙の他の星にも知的生物がいるという結論を出すのは早計だ。数理遺伝学による進化論からは、そのような結論を出すことができる。しかし、このことを証明することは容易ではない。知的生物がいるのならばその星を見つければいいが、いないことを証明するのはいわゆるブラックスワンがいないことを証明する問題に当たる。

地球は奇跡の星なのか?ありふれた星なのか?この答えに結論を出せる日が来るのかどうかは分からないが、数理遺伝学的に進化論を考えると、地球は奇跡の星である可能性が非常に高いと言えるのではなだろうか。

時短。

最近、時短筋トレを始めた。これまで筋トレをするとき、一時間くらいかけてじっくりとするのが僕の筋トレスタイルだったが、よくよく考えてみると、この一時間は長すぎて非常に無駄が多い。そこで腹筋と腕立て伏せの間に休みを挟まないとかして、全ての筋トレメニューを一気に行うことにした。すると、これまで一時間かかっていたメニューが15分以内でこなすことができたのだ。何と効率的なことか!一週間毎日こなしても、合計で一時間半ほどだ。これからはこのような時短筋トレで進めようと思う。

ところで、何のために時短をするのか?それは時間をつぎ込むべきところで思いっきり時間をかけるためだ。一日を振り返ってみると、時短をすべきところは意外とたくさんある。例えば、ネットで無駄なものを見過ぎないとか、風呂の時間を短縮するとかだ。ところで僕は超ロングスリーパーなので、どうしても睡眠時間をもっと短縮したいと思ってしまう。しかし、睡眠時間を削ると結局起きている時間のパフォーマンスが劇的に低下し、結果的には非常に効率が悪くなってしまう。もちろん人によって体質は違うし、3時間睡眠でもピンピンして活動的な人もいるので何とも言えないが、僕個人にとってはどうしても睡眠時間は削れないようだ。

今、僕が必要としていることは、最高の調子(パフォーマンス)と有効な時間だ。それを手に入れるためには、適度な睡眠時間と時短生活をすることが必用だ。時短を意識すると、普段の動きもキビキビとなる。一石二鳥(三鳥?)だ!いろいろと時間が限られている僕にとって、時短生活は未来の成功をもたらしてくれるものだと感じている。もともと時間の使い方が下手な僕にとっては時短生活は簡単な事ではないが、いろいろと工夫してこれから時短生活を強化していこうと思う。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。

知能を持つ事と、意志を持つ事。

数学の研究をするうえで、何が必用だろうか?高度な知能か?もちろん、知能は非常に重要である。しかし数学は、あるいは更に広く学問は、知能と同時に明確な意思を持つ事が非常に重要になる。例えば目の前の計算をするだけなら、そこそこの知能があればできるだろう。そして複雑な計算ならば高度な知能があればできるかもしれない。それこそスーパーコンピューター京ならばどんな計算でもできるかもしれない。しかし数学の本質は計算だけではない。数学の研究を進めるためにはビジョンを持たなければならないし、そのビジョンに基づいてどのような方向へ進むかと言う判断は、計算以上にどのような意思を持っているかが重要になる。

最近、毎日のようにAIが話題になる。そこでAIを理解するためには、AIには何ができないか(できるかではなく)と言うことを理解することが大事である。AIは人工知能と言う言葉からも、まぎれもなく知能である。知能であるからには計算ができる。しかしAIは知能は持っているが、意志は持ち合わせていない。最近のAIを見ると一見意志のようなものを感じることがあるが、実際は膨大な計算による最適化である。AIは意志を持っていないので、ビジョンを持つ事ができないと僕は考えている。従って、計算に基づく判断はできても、ビジョンに基づく判断はできない。

これから何がわかるか?つまりこれからの人間において重要になるのは、計算ではなくビジョンである。少なくとも現在は人間にしかビジョンは持てない。しかし計算だけなら既に何十年前からコンピューターは人間を凌駕している。従って、計算力を武器にしようと思っても、100%勝ち目はない。そして‘‘単なる’’知能だけなら、コンピューターはかなり高度なレベルのものを持っている。

では、これからの人間は何を持つべきか?それは‘‘意志に基づく’’知能である。意思に基づく知能ならば、これからまだまだ人間は勝ち目はあるし、意義がある。もしかしたら、意志と言うのは究極の知能なのかもしれない。意思に基づく知能によってビジョンを築き、それに基づいて未来を開拓していく。それがこれからの人間の進む道ではないだろうか。

フィギュアスケートの華。

僕はスポーツ観戦が大好きだが、特に冬になるとフィギュアスケートの大会が待ち遠しくなる。近年、日本のフィギュアスケートは非常に高いレベルにある。男子で言えば羽生結弦、宇野昌磨のツートップがダントツだが、僕は特に女子選手のスケーティングが非常に好きだ。

女子フィギュアスケート選手にはそれぞれいくつかのタイプに分かれると僕は考えている。フィギュアスケートの王道は紀平梨花、ジャンプ大会の王道はロシア勢というように。そして僕が特に思っているのが‘‘女子’’フィギュアスケートの王道である本田真凛だ。僕は紀平梨花選手のスケーティングが大好きだ。特に先シーズンのフリースケーティングのプログラムであるBeautiful Stormは超名作である。紀平梨花選手に比べ、最近は本田真凛選手の低迷ぶりが話題になっているが、僕は本田真凛選手も紀平梨花選手に負けず劣らずの名選手だと思っている。

本田真凛選手がどう名選手なのか?それは彼女が女性でしか出せない魅力的なスケーティングを最高に表現しているところだ。よく言われているように、本田真凛選手のスケーティングには華がある。これは誰もが認めるところで、おそらく女性の華という点では本田真凛選手に匹敵する選手はいない。彼女の柔らかい滑り、美しい表現は見る者を魅了する。彼女はフィギュアスケートの王道ではないかもしれないが、まぎれもなく‘‘女子’’フィギュアスケートの華だと僕は思っている。

近年、特に女子選手において、フィギュアスケートがジャンプ大会化していると言われている。もちろん高度なジャンプをするためには高い技術が必用であるし、それは認められるべきであろう。しかし最近はジャンプばかりが注目を浴びており、本来のスケーティングの魅力が過小評価されているように感じる。そういう意味で、本田真凛選手はもっと高い評価を受けるべきである。彼女はロシア選手のような4回転ジャンプはできないかもしれないが、ロシア選手は本田選手のような華は出せない。

フィギュアスケートはあらゆる要素があり、それらの総合力で争われる。しかし最近は、過度にジャンプが評価されているし、見ている人もジャンプに注目しすぎているように感じる。僕はこのようなジャンプ大会に対して、非常に退屈を覚える。そのような状況だからこそ、本田真凛選手が新鮮に魅力を感じるのだ。紀平梨花選手も大好きであるが、本田真凛選手にはそのような華を極めるスケーティングで勝負して上位に食い込んでほしいと強く願っている。

本質を見抜いているから、本質的でない所をスルーできる。

当たり前のことだが、物事の本質を見抜くと言うことは非常に重要だ。世の中には物・事があふれている。もし自分一人でそれらの物・事を全て理解しようと思っても、とてもではないが人生千年あっても不可能だ。だからこそ自分にとって必要なもの、重要な事をピックアップして取り組むことが必用だ。

しかし、それらをピックアップする時に、もしかしたら重要ではない事を選んでしまうかもしれない。そのような事を防ぐためにも、物事の本質を見抜き重要な事を定めることが必用だ。そして本質を見抜くことができれば、本質的でないことをスルーすることができる。重要な事に取り組み、重要でないことをスルーすることは、気力と体力を効率的に発揮するためにも必要である。

もし人間の命が無限にあるのならば、手あたり次第何でもかんでも取り組めばよいが、残念ながら(と言うより僕は幸運な事だと思っているが)人間の命は有限である。そして人間は自分一人ではない。周りに沢山の人がいるからこそ、適材適所で自分のできない事苦手な事を周りの人に任せればよい。(僕はそのような事が苦手なので、何とか自分でしようとしてしまう。)

学問に取り組むと言うことは、本質を見抜く目を養うのに絶好だ。数学とは数的世界の本質を見抜く研究であるし、物理は自然(宇宙)の本質を見抜く研究である。経済学は社会の本質を見抜くものだと言えるし、哲学は人間の精神の本質を見つめる。おそらく、本質を見抜いている人と見抜けない人では、見えている世界が全く違うはずだ。人間としての視野を広げるためにも、本質を見抜く目を養うことは非常に重要である。

契約書の形骸化。

スマホやパソコンで様々なサービスを受けるとき、初めにサービスの契約内容が示され同意を求められる。しかしそのような契約内容を一度でも読んだことがあるだろうか?僕自身もほとんど読んだことはないし、多くの人は初めの一文字さえも目を通さないのではないだろうか?もちろん契約書に目を通さないのには理由がある。その一番大きな理由は、契約書の文字が非常に小さく、しかも非常に長いからではないだろうか。実際、ほとんどの契約書は見るに堪えないような文章になっている。そのように、契約書と言うものが現実的には形骸化している状態だ。僕はこのことは非常に大きな問題であると考えている。

ほとんどの契約書は、サービスを利用する人のことを考えていない。ではなぜそのような読む人のことを全く考えていない契約書が氾濫しているのか?それはサービスを提供する側の一種の防御、悪く言えば保身のためである。しかし責任はサービスの提供側だけにあるわけではない。サービスを受ける側も、何の疑問もなくスルーして同意ボタンをポチる。そこで多くの人が、契約書のありように疑問を持てば、もう少しマシな契約書、マシな制度ができるはずだ。

国と国との条約であれば、政府や外交官は契約書の一言一句を漏らさずチェックするであろう。しかし普段サービスを受けるのは、法の知識のほとんどない一般市民だ。そのような市民相手に、条約レベルの細かく長い契約書を提示するのはあまりにも不親切すぎる。そして実際は、99%の人がその契約書の内容を全く理解してない。これは契約書のあり方として明らかに問題である。しかしこのような状況を変えるためには、国の政策レベルで変える必要がある。法が国会で成立されるからには、政府が動かなければ変えることができない。

それらの解決策として、このようなことはどうだろうか?例えば従来の契約書の形式は維持しつつも、利用者にはそれに基づいた簡約的な契約書を示す。このような二段階的な契約書は完全ではないにしろ、現状よりはるかに意味があり効果的だと思う。とにかく、現状の契約形式は分かりやすく効果的なものに変えるべきだと僕は思っている。もちろん、すぐに解決できる問題ではないが、政府や官僚が時間をかけてでも検討すべき課題であると僕は考えている。

最近、他分野に取り組んでいる理由。

僕は最近、専門の数理物理を軸としながらも、他分野にも積極的に取り組んでいる。例えば分子生物学や量子化学、数理脳科学などだ。さらに経済学、法学などにも取り組もうと考えている。なぜそのような他分野に取り組もうとしているのかと言えば、単にやみくもに手あたり次第手を付けているわけではない。僕はどの分野に関しても、理論的な範囲で研究結果を出せるくらい、あるいはそれ以上の結果を出そうと取り組んでいる。そして例えば、分子生物学や量子化学で言えば、それは基礎物理と階層をなして繋がっているわけであって、自然科学を総合的に理解しようと思えば、物理を基礎としながらも、化学や分子生物学を理解することは避けて通れない道だ。

そして人間が生きるうえでは、哲学的な視点を持つことは必要だ。哲学とは人間が生きるうえで道しるべとなる、言わば「指針」である。僕は少し前まで哲学に対して興味を持って取り組んでいたが、最近は学問的な哲学に対して興味は薄れた。その理由は、ドイツ哲学を中心とする学問的哲学がほとんど机上の空論、一言で言えば言葉遊びでしかないと感じたからだ。そのことが決定的となったのが、ショーペンハウアーの著書だ。もちろん、今でも哲学は非常に重要であると思っている。しかしそれは、学問的な哲学とは全く違うものである。

物理学や化学、生物学などのサイエンスは、自分たちが生きているこの宇宙の本質を知らせてくれる。そして経済学や法学は、自分たちが生きているこの社会の本質と精神を知らせてくれる。人間は宇宙に存在しているのであり、同時に社会に存在しているのである。だからその両方を知ることが必用だ。そして現在それに付け加えるのなら、コンピューターサイエンスを理解することも必要だ。AIと言うものは、利用するものではなく理解するものである。例えば、AIを理解するためにディープラーンニングを理解することが必用だ。決してコンピューターの奴隷になってはいけない。

改めて、なぜ他分野に取り組んでいるのかと言えば、理由はいくつかある。以上に書いたようなことが大きな理由だが、それと同時に総合的な視点を身に付けると言うことも重要だ。総合的視点は一夜で身につくものではない。しかしあらゆる分野を有機的に(網羅的ではなく)取り組んでいけば、必ずそれらの関連性が見えてき、そして総合的視点が身につくはずだ。専門の一分野を狭い範囲の中で結果を出すことばかり考えていれば、それは全く井の中の蛙である。そのような事では、自然の本質、科学の本質は全く見えてこない。生きる意味は何か?と問われたとき、その理由は人それぞれ様々であろう。そして一つではないはずだ。「本質を理解し見抜く」と言うことは、僕が生きる理由のうち非常に(最も?)大きな理由なのである。

体系的に構築することの大切さ。

物事を体系的に構築していくか、それとも単発的にこなしていくかによって、その後の発展が大きく変わっていく。結論から言うと、継続性を付けるためには体系的に構築していくことが不可欠だ。それは数学の歴史を見ればよく分かる。

江戸時代の日本の数学、すなわち和算は非常に高度なものであり、問題によっては西洋の数学をしのぐものであった。しかし現代の数学において、和算の系譜は途絶えていると言ってよい。現在世界で行われている数学のほとんどは、起源をたどると西洋の数学にたどり着く。ではなぜ日本の和算が途絶え、西洋の数学が脈々と受け継がれているのか?それは体系的に構築しているかどうかと言うことに限る。

和算は一言で言えば、単発の問題の集まりである。もちろんそう言い切れないものもあるが、和算の主流は高度な難問を単発的に解いていくというものだ。それに対して、西洋の数学はほぼ一貫して体系的に構築していくことを主眼に置いている。西洋の数学は理論であり、日本の和算は解法だと言える。

大学受験の数学に慣れた学生が、大学での数学に戸惑うことが多いという話はよく聞く。それは受験数学が単発問題の解法であり、大学数学が体系的な理論構築であるからだと言える。確かに問題が解けた時はうれしい。しかし問題はその後である。小さな問題でも、それを解いた後どのようにつなげるか?そのような事の繰り返しが体系的な構築につながるのである。

もし物事に継続性を付けたいのなら、体系的に構築するという視点が必用である。そして大問題を解く場合にも、そのための足場として理論体系を構築する必要がある。「継続は力なり」と言う言葉があるが、その前に「体系性は継続なり」と言う言葉を付け加えなければならない。