投稿者「木原 康明」のアーカイブ

保身は断固拒否!

「保身」、それは僕が一番嫌いな言葉だ。しかし世の中、特に権力者は何かと保身に走りがちだ。政治家、学校教師、そして我々市民まで、自分の立場が追い込まれるとつい保身的な言動、行動をとってしまう。それは僕だって例外ではない。保身が大嫌いだと言いながら、時には保身への誘惑に駆られてしまう。だからこそ保身に対して断固拒否と言う意志を明確に維持しないと、自分の信念を貫くことはできない。

先日も自殺した生徒を学校側が突然死だと隠蔽しようとしていた事案が発覚した。これは学校と県が共謀して隠蔽工作を進めていたと言う。学校では、生徒が不慮の事故や病気、そして学校外の不手際による生徒の死亡に対しては例外なく「命を大切にしよう。事故を風化させてはならない。」と訴えかけるが、学校側の不手際による事故などに関しては徹底的に隠蔽しようとする。その典型が神戸でも20年以上前にあった。教師が校門で生徒を挟んで死亡させると言う「神戸高塚高校校門圧死事件」だが、事故後には学校側が徹底的な隠蔽工作を主導していた。そして徹底的に風化させようと進めていた。今はさすがにそんなことはないだろうと思っていたが、東須磨小学校で教員同士のいじめが発覚した。今でも神戸市の教育組織の体質は昔とそんなに変わっていないようだ。

僕自身そんなに立派な人間ではないと思うし、偉そうなことなど言えない立場かもしれない。しかし保身には絶対に走らないと強く心に決めているし、そういう意味では神戸市の教員のような隠蔽・保身に走るような人間よりかははるかにマシだと思っている。しかしもし僕が保身に走ろうものなら、皆で僕を叱り倒して欲しいと思う。

お洒落。

僕はお洒落かどうか?と問われれば、お洒落な方だと思う。そしてお洒落に関して自分なりにこだわりもある。そこで僕が理想と考えているお洒落とはどういうものかと言うことを、少し書いてみたいと思う。

あるファッションディレクターが言っている事で、僕も同感な事だが、どのようなお洒落を目指すかという時、それは「最高の普通」と言うことである。よくお洒落にこだわる人が陥りがちなのが、奇抜になりすぎることだ。なぜそのように奇抜になってしまうかと言えば、それは「特殊なお洒落」を目指しているからだ。そしてなぜ「特殊」を目指しているかと言えば、おそらく個性を出したいのだろうと思う。これはまさしく、「最高の普通」とは対極にあるお洒落だ。このようなお洒落は、僕にとっては最高にカッコ悪いと感じてしまう。

もしかしたら、普通のお洒落では個性が出ないのでは?と思うかもしれない。しかしそれでいいのだ。僕は個性は服装などのファッションで出すべきものでないと思っている。個性とは人間性である。なので個性は人間内部から出さなければならない。巷にいるファッションで個性を出そうとしている人たちは、自分で個性がないと言っているみたいなものだ。ただ何も服装の事を考えずにダサいのもそれはそれで問題かもしれない。なぜなら自分はそれでいいと思っていても、それを評価するのはその人を見る他人である。なので最低限の身なり、清潔感には気を付けなければならない。

そして大事なのは、お金をかければお洒落になると言うものではないと言うことである。もちろん最低限のお金は必要かもしれないが、服装より重要になってくるのは体付きである。お金を注ぎ込むよりも圧倒的に効果があるのは筋トレだ。なので僕は筋トレを毎日ほぼ欠かさずに行っている。何もジムに行く必要はない。自宅でダンベルを持つなり腹筋・腕立て伏せをするなりして鍛えればよい。ランニングも効果がある。まめに体を管理して細マッチョを保って行こうと僕は決めている。

かけるお金は適度にして「毎日お洒落生活は」は非常に楽しいものである。そしてお洒落を決めるためにもいろいろ試行錯誤することになる。すなわち結構頭を使うものだ。なので僕の思考生活の中でお洒落はその一部として機能している。そしてこれからも筋トレを継続して、一石二鳥とばかりにお洒落と健康を手に入れたいと思っている。

孤独な人間でありたい。

僕は人と付き合うのが大好きだ。人と飲んだり話したり、様々な人と関わっていきたいと思っている。しかし僕は基本は一人でいることを好んでいる。人と群れるのは好きではないし、研究も一人で行っている。一人でできる理論系の研究と言うものが本当に性に合っていると強く感じている。なので普段は一人で行動し、その中で人との付き合いをすると言うのが僕のスタンスである。

世間では孤独死と言うものが問題になっている。しかし僕にはこれがなぜ問題なのか理解できない。一人で死のうが人に看取られようが死の苦しみは変わらないし、僕はむしろ一人で死ぬ方が気楽でいいとさえ思っている。死ぬ間際の事より、それまで生きている時代をいかに楽しむかと言うことの方が圧倒的に大事である。孤独死が問題になるのは、おそらく「孤独」と言うものに社会や多くの人がネガティブなイメージを持っていることが原因であると思われる。しかし僕はそもそも孤独と言うものがネガティブだとは全く思っておらず、むしろ一人で生きるたくましさがあると言うようなポジティブなイメージを持っている。なので孤独をネガティブに捉えるのは、人間としての弱さから来ているのだと僕は考えている。

孤独かどうかは、一人か否かだ。もちろん人間は一人では生きて行けない。なので人と交わって生きて行くことは必須である。しかしそれが度を過ぎると、協調性を強制するような世の中になってしまう。多くの人は自分が協調性のある人間だとアピールするが、僕にはそれが煩わしい。そして協調性はあるが、一人では何もできない人が現代の世の中には多すぎる。いわゆる指示待ち人間である。孤独を愛すると言うことは、主体的な人間であると言うことである。自分の頭で考え、自分の判断で行動できなければいけないと僕は思っている。

確かに僕は多くの人とは違う。良くも悪くも違う。でもそれでいいのだと僕は思っている。誰でも長所短所は併せ持っている。その内容が人とは違うだけだ。ただ僕が思うのは、そのような人との違いを許容できる社会になって欲しいと言うことである。でないと日本は均一な平凡な国になってしまうと僕は考えている。そしてその「平凡」とは「平均」ではない。そこにあるのは間違いなく平均以下である。

GoToキャンペーンは狂っていた!

コロナ禍はますます広がっている。感染者は過去最多を記録し、このまま無策を続けていれば深刻度はますます深くなっていくと考えられる。その中でもわずかな光は、最近数件のワクチン開発が上手くいっていると言う報道であろう。僕は二件のワクチン開発のニュースを把握しているが、どちらも有効性は90%以上だと言われている。有効性が90%だと言う意味は、ワクチンを打たなかった場合100人感染するとすれば、ワクチンを打てばそのうち90人以上は感染を免れるであろうと言うことだ。また製薬大手ファイザーは、ワクチンの緊急使用をアメリカ当局に申請していると言うニュースもある。そうなればワクチン配布開始までの日程が前倒しされるかもしれない。このニュースを含め、全てが上手く進んで行くことを願うしかない。

日本医師会の会長は、GoToキャンペーンがコロナ感染増のきっかけになったと言う見解を示した。これに関しては、医療研究者のみならず、多くの国民も同様の事を考えているだろう。僕自身もGoToキャンペーンが始まったころ、そのことに対する懸念をブログで書き表した(下記リンク記事、7月17日)。

GoToキャンペーンは安倍内閣時に始まったものであり、安倍前首相の責任は大きいが、そのまま放置し続けている菅内閣の責任ももちろん大きい。この責任を誰が取るのか?おそらく誰も取らないであろう。何しろ安倍前首相はこれまで不祥事が起こるたび、何度も「責任を痛感している」と言い続け、一度も責任を取ったことがない。成功は上司の成果、失敗は部下の責任と言うことを実行し続けてきた。そのもとで官房長官を続けてきた現首相の菅氏はそれ以上の無策である。打開先など期待できない。

そう、全ての根源は、「上司の成果、部下の責任」と言う姿勢から来ているものだ。部下に責任を押し続けながら、成果が出れば自分のものにする。それが現在の日本の政界の現状である。「郵政をぶっ壊す」と言って乗り込んだ小泉氏の時代が懐かしい。息子の進次郎氏はそれ以上の事を実現できるであろうか?僕はそれに非常に期待している。しかしそれまでは石破茂氏の良識に懸けるしかない。とは言え、石破氏は現在自民党の中で冷や水を飲ませ続けられている。民主主義は決して多数決一辺倒ではないと思っているが、国民に一番支持されている石破氏が国会議員内での不人気で執るべき位置にいられないのはどう考えてもおかしい。これが日本政界の現状である。

これまで民主主義は善と教えられてきた。そして僕も例外に漏れず、そう思い続けている。民主主義体制は死守すべきだ。しかしおかしいところは変えて行くべきでもある。それは民主主義を否定するのではなく、より強固で理想的な民主主義に変革していくためである。もしかしたら完全なる理想などは無理なのかもしれない。しかし理想を捨ててしまえば残るは没落である。

4年前、トランプ氏が大統領になってから明らかに民主主義がおかしくなってきた。それに影響されてか、安倍自民による民主主義もどこか狂い始めた。そして菅自民は何もできていない。菅氏がやったことと言えば、携帯料金引き下げの圧力くらいである。今しなければならない政策の一丁目一番地は間違いなく経済を含めたコロナ対策である。しかし目先の状況ばかりにとらわれて、中長期的展望が決定的に欠けている。現金のバラマキは良くないと言われるが、GoToキャンペーンなどするくらいなら、その資金を観光業界にばらまいた方が少しはマシだったのではないかと思える。今の経済状況に対して対処療法的なGoToキャンペーンをすることにより感染拡大を招き、中期的には経済状況をさらに悪化させようとしている。それが現在の日本の状況である。

頭隠さず、尻隠さず!

ローランドさんのYouTubeを見ていると、ローランドさんがこんな言葉を言っていた。確かにローランドさんほどの派手な人間ならどこに行っても注目を浴びるだろうし、逆に隠れようと思っても隠れようがない。しかし何もやましいことをやっていなければ、そもそも隠れる必要などないのだ。

とは言え、何か事を起こそうものなら、それが悪いことではないとは思っていても何でも叩かれる世の中だ。しかしそこで重要になるのが、自分の中での基準だ。例え社会的に悪いと言う風潮であっても(それはそもそも流行のようなものである)、自分が正しいと思えばそれを貫けばよい。とは言え、それはなかなか度胸のいることだ。例えば有名人だと、付き合いなどを隠すために目立たないように行動したりする。それが普通かもしれないが、僕はいっそうの事、全て堂々とさらそうと思っている。もちろん僕は現在別に有名人ではないので、僕の行動に注目する人もいないのだろうが、このブログサイトのタイトルで堂々と名前をさらしているのもそう言うことである。

自分を隠そうとしていると、それはそれで非常に疲れることである。しかし全てをさらすのも気力がいる。しかし僕は後者の生き方を取ろうと思っている。ローランドさんが言うように、「頭隠さず、尻隠さず」だ!例え一国の総理にブログなどで物申す時も、堂々と自分の名前を名乗って突きつけたい。大事なのは他人の目ではなく自分の意志だ。そのような意志を貫くためには、自分を隠していては成し遂げられない。自分はローランドさんにはなれないが、自分のアイデンティティとなる意志は示し続けたいと思っている。

大統領選挙、そもそも4年前から間違っていた。

アメリカ大統領選挙は、ほぼバイデン氏で決まりそうだ。もちろん法的に結果が覆される可能性はゼロではないが、期待も込めてバイデン大統領と呼ぼう。

今回の大統領選挙は、様々な意味で大きな波紋を広げている。そして過去にはなかった懸念が示されている。その懸念とは何か?一番大きな懸念は、トランプ氏が退任後、他国に機密事項を漏らすのではないかと言う懸念である。こんなことは過去の大統領ではありえなかったことだが、トランプ氏となればむしろそのような事が普通に思える。ではなぜそのような事が起こり得るのか?それはトランプ氏はアメリカファーストと口では言いながら全くアメリカの事を考えておらず「自分ファースト」であったからである。結局トランプ氏にとってはアメリカが滅びようがどうなろうがどうでもいいのである。自分の利益になることなら何でもやる。そしてトランプ氏は大統領退任後、様々な訴訟が起こされることがほぼ確実視されている。金銭的な訴訟からセクハラ訴訟まで多岐にわたっている。さらに海外に逃亡でもされるものなら機密情報はダダ漏れで、アメリカ(そしてもちろん日本も)存亡の危機に立たされる。なので僕はトランプ大統領退任後、アメリカ当局によって即拘束されるとみている。一度海外に逃げられると終わりである。なので大統領退任前であっても海外渡航は当局(バイデン陣営?)は許さないであろう。

今回の選挙結果は正しかったか?いや、そういう問題ではない。そもそも4年前の大統領選挙が間違っていたのである。全ての悪夢は4年前にトランプ氏が当選したことから始まる。もちろん民主主義国家にとって、選挙は最も基礎的で重要なものである。しかしその民主主義の根幹が今回の危機をもたらした。仮に今回トランプ氏が当選していても、4年後に同じことが起こる。もちろんその場合、状況はさらに深刻になっている可能性が高いが。一年後、過去の大統領選挙でもしヒラリー氏が当選していたら今頃はバラ色だったと皆感じるかもしれない。トランプ氏はアメリカの分断だけでなく世界の分断ももたらした。中国問題に関してはトランプ氏が強硬に出ていることを評価する声もあるが、もしヒラリー氏がなっていれば問題はここまで深刻になっていなかったかもしれな。もちろん、近年の中国の動きは民主主義陣営にとって脅威であり、抑え込まなければならない問題であることには変わりはない。

自国を守らなければならない前大統領が、自国を攻撃し危機をもたらす。そのような悪夢のようなことが現実的に起きようとしている。そしてそれはアメリカだけの問題ではなく、彼によってもたらされた分断によって世界の危機になるかもしれない。アメリカと強固な同盟関係にある日本にとっても、対岸の火事と見てばかりではいられないはずだ。最後に残された望みは、バイデン大統領が上手く危機を乗り切ってくれることにかかっている。

物理は数学を具現化している。

物理と言うものは、数式(数学)を用いて記述されている。なので物理を研究する時には、どの数学が使えるかと言うことが焦点になる。しかしこのような考えでは、物理が主で数学が従となる。このような意識は、物理の最も根本的な分野(素粒子論や超弦理論)においても同じである。しかし物理の最も根本的で本質的な部分を追究する時、果たしてこのような意識のままで良いのかと僕は疑問に思っている。

僕が最近感じているのは、数学を現実世界(自然宇宙)に具現化したものが物理ではないかと言うことである。すなわち、物理の本質を追究するためには、数学の根本的な部分、すなわち公理論的集合論や抽象位相論と言った部分を出発点に置かなければならないのではないかと僕は考えている。すなわち物理はまず数学ありきなのである。

物理(自然宇宙)がたまたま数学によって記述されていると言う認識は間違いだ。数学を具現化したものが物理なら、物理が数学によって記述されているのは当たり前の事である。現在物理の根本を追究する分野として、超弦理論などが活発に研究されている。しかし僕はこのような方向性では最終的な基礎にはたどり着けないのではと思っている。なぜなら非常に数学的だと言われている超弦理論と言えども、数学が従であることには変わりないからだ。

物理の中にも公理論的に構成する動きはある。例えば場の量子論にしても、公理論的場の理論と言う分野がある。とは言え、このような公理論的物理にしても数学的に見ればまだまだ基礎的だとは言えない。数学が使える数学的な物理と言う意識から、完全に公理論的数学の具現化としての物理と言う意識を持つ事が、物理の根本的・本質的部分を追究するためには必要ではないだろうか。そしてこのような意識を持つ事は、物理から逆に数学の根本的原理を導き出すと言うことも可能になると僕は考えている。

やはり出すべきだ。

僕は11月3日のブログで、「菅内閣は間違いなく短命に終わる。」と言う記事を書いた。しかし色々考えることがあって、一回ブログに載せながらもすぐに非公開に戻してしまった。それはやはり僕の弱さだったと言うべきであって、今考えるとそのまま載せるべきであった。そして今考えても載せるべきだと思うので、再び掲載することにした。なので下に記事のリンクを貼っておくことにする。

菅内閣は間違いなく短命に終わる。(11月3日)

やはり権力に動ずることなく主張をすべきであり、心理的に長いものに巻かれてはいけない。とは言え僕の考えすぎなのかもしれないが、このようなスタンスはこれからも変化させずに持続していくつもりだ。

今アメリカではバイデン氏が次期大統領候補となることがほぼ確定した。大統領選挙は今もゴタゴタが続いているが、民主主義国家の盟主として民主主義のあるべき姿を示してほしいものである。僕はバイデン氏に大きな期待を寄せている。

そして何よりバイデン氏のすごいところは、78歳になっても大統領職を行おうとするバイタリティーである。日本の平均的な定年は65歳くらいであろうか。中には40代で早期リタイヤしてして余生を過ごそうとする人もいる。もちろん若い頃に大きなことを成し遂げてやり切ったと言う人もいるだろうから何とも言えないが、何歳になっても生涯現役を貫こうと思っている僕にとってはバイデン氏はある意味理想の姿である。僕は余生(悪く言うと惰性)と言うものなどはなくても良いと思っている。もちろん、これまで事を為していない僕にとっては、これから事を為さないと何も残らないので、惰性で生きてなんていられない。

民主主義の歴史はそれなりにあり、民主主義は熟したと考える人もいるだろうが、僕は民主主義の発展する余地はまだまだあるように思える。建前の民主主義ではなく、内容のある本質的な民主主義を確立させることが重要であると僕は考えている。単に多数決をすれば民主主義なのか?僕はそれは決して違うと思う。一人ひとりの民衆に寄り添う政治、それが民主主義ではないだろうか。

体罰ではない!犯罪です。

悲しい、またこのような事件が繰り返された。体罰、いや暴行事件である。熊本県の小学校で、教師がけんかをしていた小学生の足を蹴って骨折させたと言う。僕はこれまで何度か学校での体罰を取り上げているが、同じく何度も言っているように「体罰」と言う言葉を使うのはやめなければならない。これらは明らかに「暴行」、つまり犯罪である。考えてもらいたい。学校の外で大人が小学生を蹴ったらどうなるか?即逮捕である。しかし学校内で教師が行えば、「体罰」の一言で片づけられる。つまり社会の暴行基準が完全にダブルスタンダードになっているのである。

僕はむしろ、教師の暴行事件の方が一般の市民の暴行事件より重い問題だと考えている。学校の教師は生徒を守るべき存在であらなければならない。しかし教師による暴行と言う、それと全く反対の事が起こっているのである。社会の常識的に考えると、暴行教師は即懲戒解雇にすべき事案である。今のままでは学校が生徒にとって危険な場所になってしまう。そんなことにしては決してならない。

これもこれまで何度か取り上げたが、僕は小学生の時、暴行教師の被害に遭ってきた。それも一年間ほぼ毎日。蹴る殴るは当たり前。僕が学校と言うものに嫌悪感を持っているのはその影響かもしれない。そんな被害者を二度と出してほしくない。そのためにも暴行教師に対しては厳しい処分で対処しなければならない。

一部の人はこう言うだろう。「生徒も悪かったのではないか」と。しかしそれは暴行教師の言い訳の常とう手段であり、今回の熊本の事件のように小学生同氏がけんかをするなんてことはむしろ普通の事である。それを暴行によって抑え込んでよいはずがない。さらに言えば、何の落ち度もない生徒が嫌がらせのために暴行を受けることもある。僕の場合がそうであった。一年間ずっと。

体罰と言う言葉は「罰」と言う言葉が含まれているように、生徒に落ち度があると言う意味合いがある。なので体罰と言う言葉を使うことによって暴行教師の行為が正当化される。暴行が正当だったかなどと言うのは全く見当違いである。教師が暴行を行った時点で教師の罪は100%なのである。もうこのような暴行事件は本当になくなって欲しい。そして暴行教師は教育の現場から一刻も早く消え去って欲しい。

お金の教育。

日本では学校でお金に関する教育を受けることはほとんどない。しかし海外では学校でお金について授業することは普通の事だと言われている。ではなぜ日本ではお金に関する教育が全く行われないのか?それは日本人のお金に対する意識、そして本音が関係してくる。

お金を得ると言うことは、日常生活を送るうえでも非常に重要な事だ。しかし日本人はお金に関することにこだわることを汚いことだと捉えている人が多い。しかし本音は、ほとんどの人が1円でも多くのお金を得ることにこだわっている。まさしく本音と建前が乖離しているのだ。そして社会や教育の現場では、建前の方が勝ってしまうのだ。

ネット高校のN高の投資部では、村上世彰氏が特別顧問となって投資教育を行っていると言う。これは日本では画期的なことかもしれないが、もしかしたら海外では普通の事なのかもしれない。村上氏は投資・お金の酸いも甘いも身をもって体験してきた人だ。そのような生きる教材が次世代の人間へお金の本質を伝えることは非常に重要でなことであるし、生徒にとってもそれは後々まで生きる財産になるであろう。村上氏ほどではなくても、お金の本質を伝えられる大人は沢山いるはずだ。それこそビジネスの世界をリタイヤしたシニアが小学・中学・高校へ赴き教育を行えば、それは生徒だけではなく日本全体の財産になる。

1980年代バブルに湧き、しかしそれを生かせず失われた二十年を過ごした日本。そのような結果になった原因の一つは、国民がお金の本質を知らなかったことにあるのかもしれない。もし投資などの教育を受け、その仕組みなどを熟知していれば、極度のバブル崩壊は免れていたのかもしれない。おそらく当時の大人もお金の本質を理解していなかったのだろう。そのような失敗を二度と繰り返さないためにも、子供の頃からお金や投資の教育を行うことは重要なのではないだろうか。