投稿者「木原 康明」のアーカイブ

選択と集中。

物事には優先順位を付けることが大事だ。そして、優先順位を付けるには、物事の本質を見抜き、どれが重要かを判断しなければいけない。

「選択と集中」が大事だとよく言われるが、選択して集中するためには、まずは広く物事を見通さなければならない。そのためには、幅広い知識が必要だ。大学で言うと、3年次・4年次での専門課程に入る前に、1年次・2年次で一般教養の訓練を受けることにあたる。

社会では、スペシャリストか、ジェネラリストか、という選択を迫られる。しかし重要なのは、スペシャリストでありながら一般的な見識を持つこと、またはジェネラリストでありながら専門的知識を持つことである。

自分を解き放つ!

自分に対して何か制限を課していないだろうか?例えば僕だったら、「一日一つのブログ記事を書く」ということも、一つの制限だった。元はと言えば、毎日ブログを更新しようということだったが、最近では「一つ”しか”更新しない」という制限になっていた。そういう制限を取っ払って、「書ける時はいくつでも書こう」というスタンスに変えることにした。

そこで今日も、この記事で4つ目のブログ記事だ。思ったら、考えたら、どんどんブログ記事を書いていこうと思う。書けるときは、一日に複数の記事をどんどん書いていく。

自分に対する制限は、何もブログ記事だけではない。筋トレの腹筋の回数、数理物理の研究に打ち込む時間帯、など様々ある。

しかし、怠慢している時間はどんどん制限して抑えなければいけない。本屋での立ち読みも制限しないといけないかもしれない。

とは言え、自分に対する積極的前進と向上のためには、制限を課すことは無意味だ。思いっきり暴れまくって、自分を解き放たなければならない!

ホリエモンロケットは、挑戦者の証だ!

ホリエモンこと、堀江貴文氏の立ち上げた会社が、7月30日午後4時半ころ、ロケットを打ち上げたという。このロケットはかなり本格的なもので、全長10メートル、重量は1トンにもなるという。今回の打ち上げは失敗したそうだが、いろいろな意味で注目すべき打ち上げだ。

このロケットの一番の特徴は、完全に民間企業だけで製作・打ち上げしているという点である。ロケットという巨大プロジェクトではどうしても公的な機関・開発研究施設の力を借りないと困難が伴うが、今回のプロジェクトが完全民間であるということの意味合いは非常に大きい。

堀江氏はご存じのとおり、考えたことは実行に移す人だ。あまりにも積極的に行動したためか、刑務所にも収監されたが、そんな逆風にも倒れず、出獄した後もこれでもかというくらい積極的に様々なことを実行している。今となれば、堀江氏の刑務所収監は、実行力の塊である彼の”勲章”でもあるように思える。

僕自身もかなり実行力には自信があるが、堀江氏と比べればかすんで見えないくらいにちっぽけに感じてしまう。

今回のロケット打ち上げは失敗したが、彼は確実に再挑戦するであろう。ロケット打ち上げは堀江貴文氏の挑戦の証である。

これまでボクシング王者挑戦(あるいは防衛)戦について思っていた、一つの疑問。

先日中国で、無名の日本人ボクサー(世界7位)が、世界王者の中国人ボクサーに挑戦し、下馬評を根底から覆す勝利を収めた。その日本人ボクサーの名は木村翔(28)という。僕はボクシングを観ることは好きなのだが、木村ボクサーの名前は全く知らなかった。この勝利の結果はニュースで知ったのだが、このニュースの一番の注目点は、中国という完全アウェーでの勝利だということだ。

これまでボクシングのベルト(王者)をかけた試合に関して、いつも疑問に思っていたことがある。それは、日本人が戦う王者戦がほぼ例外なく日本国内で行われているということである。心理戦でもあるボクシングの試合で、ホーム開催は圧倒的有利である。なので、日本人の戦う王者戦は圧倒的有利な環境で行われていることになる。そのことに疑問と不満を感じていた。

今回、日本人ボクサーが”敵地”中国という完全アウェーで勝ったことの価値の大きさは、非常に大きなものである。

今回の試合中、中国人王者が木村ボクサーに拳をタッチするだけで大いに歓声が沸き、木村ボクサーのパンチが当たってもシーンと静まり返っていたという。この様な状況の中で勝利した木村さんのメンタルは凄いものである。

しかし、このような状況は、これまで日本人ボクサーが外国人ボクサーにやってきたことそのものである。日本で行われる王者戦は、(当たり前のことだが)いつも日本人ボクサーの肩を持つものであった。そのような試合ばかりで、中立的に考えて圧倒的有利なホーム試合での日本人ボクサーの勝利にどれだけの価値があるか、疑問に思っていた。

しかし、今回の木村翔さんの勝利は、このような疑問を吹っ飛ばしてくれるものだ。外国で勝って王者になったボクサーの価値は非常に大きい。

ちなみに、日本人ボクサーが海外で世界王者を奪取したのは、1981年以36年ぶりだそうだ。

闇に包まれても。

闇に包まれている時は、いつ闇から抜け出せるか不安だ。闇からの出口はまだまだ遠いのか、それともすぐそばなのか。闇からの出口というものは出てみるまで分からない。

しかし闇に包まれていても、出た時の準備を怠ってはならない。闇から出た時、最大限に羽ばたけるように、抜かりない準備をしておかなければならない。

ただ、その場に留まっていれば、出口は永久に現れない。だから最低限の前進はしなければならない。なんなら、もがき苦しむのも悪くない。何もしないよりましだ。ただ前を見てもがき苦しまなければならない。

出口から出た時、どんな輝く光を浴びられるか。それを考えるとわくわくする。そんな気持ちを「希望」というのかもしれない。

努力は嘘をつく。

努力は嘘をつく。それでも努力を続けるか?それとも嘘をつくから努力をしないか?そこが分かれ目である。

要は、挑戦し続けるか?それとも現状維持するか?ということである。しかし、現状維持で満足すれば、その後現状維持を続けることは困難であろう。

挑戦と努力は一体である。最近は何かとゆとりが大事だとか、汗を流すことを格好悪いだとか、精神論を否定する人もいるが、しかし努力なしの進歩などはありえない。

しかし悩ましいのが、努力は成功を保証するものでないということである。とは言え、常に保証を背にしないと進めない保身的な人に、成功はない。失敗するリスクを抱えているからこそ、成功のチャンスが訪れるのである。

挑戦する前に、結果がすでに分かっていることなんてない。結果が分かっていることなど、挑戦とは言わない。事前に結果がわからないから、結果を過度に気にしすぎるのは良くない。少し遠い未来の展望と、目の前の課題をクリアすることに全力を注いで、挑戦し続けよう。

天才とは、この子のためにある言葉だと思った。

「メッセンジャーの○○は大丈夫なのか?」という番組に、インスタグラムのフォロワーが8万人いる女子小学生が紹介されていた。観る前は、「どうせ背伸びした小学生だろ」というくらいのことしか思っていなかったが、先に結論を言うと「天才少女」、さらに言えば、世界を相手にしてもトップに上り詰めるくらいの天才少女だ。

天才とは学問で言えば、アインシュタインやグロタンディークのことであり、現代で言えばエドワード・ウィッテンのことである。

よく話題になるIQ200の天才とか言われている人などは、天才の端くれでもない。IQなどというペーパーで測れる数値を取り上げられている時点で、天才でも何でもない。そして東大模試偏差値100とか言うやつ、ハイハイという感じである。もしこれらの人が天才というのなら、上に挙げた天才学者に匹敵する業績を挙げてください、と言いたくなる。

しかし、冒頭に挙げた少女、これは本当に天才である。少女(名前はLaraはさんと言う)は何をしている人であるかと言うと「デザイナー」である。そして12歳の小学生でありながら、人気のカバンブランド「サマンサ・タバサ」とデザイナー契約しているのである。

この子のデザインした絵を見ると、凄い!のである。”上手い”ではない。凄い!のである。この凄さは、素人でも瞬時にわかる。もちろんデザイナーの作品という性質上、玄人受けしても素人に分からなければ、凄いデザイナーとは言えない。

何度も言うが、決して上手いという評価ではない。もちろん上手いのは言うまでもないのだが、その子の立っている舞台は「上手い絵を書く画家」とは全く違う。一言で言えば、「世界観」が違う次元にいるのである。12歳の小学生だが、すでに舞台は世界を相手にしたデザイナーの世界にいるのである。小学生だからとか、12歳だからという扱いは全く無用である。

稼ぎも桁違いのようだ。それは当然である。才能ある人が実績を出せば、それに見合う対価を得るのは当然である。たまたまうまく流行に乗った子供芸人とは話が違う。

通称”天才”少年少女が取り上げられると「将来が楽しみである」と言われるのが筋だが、この少女は既に世界のトップにいる。IQ200の”通称”天才にこの子の存在を知らしめて欲しい。

高須院長の生きている姿を見ると、歳をとっても捨てたもんじゃないと明るい希望を抱ける。

高須クリニックの高須克弥院長が元気すぎる!高須院長の現在の年齢(2017年7月時点)は72歳だ!元気すぎる!

最近も、テレビ番組で中傷を受けたとして、謝罪を求めていた。その翌日には問題は解決したのだが、そのやり取りが爽快すぎる。少しもネチネチしていないのだ。謝罪を受けた高須院長は、「全部許すぜ!」と全面的に許す姿勢を見せ、度量の大きさを見せた。

歳を取ると、頑固になったり、もちろん体も弱くなったりするものだが、高須院長にはそんな兆候は微塵も見られない。高須院長の活発さや明るさは、現在の中年、そしておそらく若者も、「歳を取っても明るい生き方ができるんだ」と希望を抱かされる。

高須院長は、私生活でも快調だ。漫画家の西原理恵子さんと一緒に楽しんでおられる。西原さんとは結婚はしていないが、二人は私生活を謳歌されている。

ああ、お年を召しても高須院長のような明るい生活を続けたい!以前の高須クリニックのCMで、ヘリコプターに乗って快調に飛んでいるカッコいい高須院長を思い出す。

あっ、僕は基本は独りでいようとは思っているのだけど・・・

趣味ってなんだ?

趣味は本当に必要なのか?

最近の日本では、良くも悪くも趣味が美徳とされ、趣味は持つべきだという強迫観念があるように思える。しかし趣味は本当に必要なのか?と問われると、僕はどっちでもいいと答える。

趣味が生きる原動力になるのなら、その人にとって趣味は素晴らしいものであるし、暇つぶしに趣味をやっているのなら、はっきり言ってどうでもいい。

ただ一番問題なのが、世間が、社会が、趣味を強要している場合だ。世間が強要しているとは、人と会うと「趣味は何?」とお決まりのように質問することだ。もちろん話のネタ、話の入り口として軽い気持ちで聞いているのだとは思うが、特に趣味を持っていない人には迷惑であり、ストレスにもなる。

しかしもっと深刻なのは、社会が強要していることだ。例えば、入社面接で「趣味は何ですか?」と聞かれることが多いようだ。しかし、仕事をすることと趣味とは何も関係ないし、何の相関関係もない。こう言うと、面接官は「趣味が豊かな人の方が社交的で、円滑に仕事を進めることができる」などという後付としか思えない理由を付けるかもしれないが、僕には全くそうは思えない。少なくとも仕事内容・スキルが重視されるアメリカ・ヨーロッパにおいて、そんなことを入社面接で聞くバカはいないだろう。

それにそんなことを面接で聞く面接官は、本当は「一応定番の質問で、どこの会社でも聞いているだろうから」程度の横並び意識で質問しているのであろう。そんな質問をする面接官・企業は、自らの無能をさらけ出しているだけだ。

面白い人間か?豊かな人間か?という問いに、趣味は関係ない。もちろん趣味を持つこと自体は何も悪くない。しかし趣味がなくてもそれでいい。

ところで、十数年くらい前に田原総一郎氏の書かれた本のタイトルが、僕は大好きだ。そのタイトルは、

「面白い奴ほど仕事人間」

最後に僕自身の事を言うと、釣りが好きなので(最近は休止しているが、ゆとりができれば毎週末にでも行きたいと思っている)釣りが趣味とも言えるし、筋トレも趣味とも言える。音楽を聴くのも大好きだ。こう書くと、なんか趣味が多いような気がする。しかし、そんなことは僕自身の評価には何も関係ないと思っている。

ストレスフルな時代をどう乗り越えるか。

現代社会は、何かとストレスがかかる。もちろん同じ状況でも、ストレスの度合いはかなり違ってくるとは思うが。ストレス耐性の強い人間になることは、多くの人が望んでいることではないかと思う。

ところで、ストレスは記憶力に大きな影響を与えると言われている。記憶力をつかさどる、脳の「海馬」というところが、ストレスに非常に弱いらしい。悪くなった記憶力を回復させるためには、ストレス脳を何とかしなければいけない。

ストレス脳の回復には、運動がいいようだ。僕の場合、起きてから毎日筋トレをしているが、腹筋を何十回としている間ストレスは忘れ、腹筋をしながら前向きな考え事をしている。やはり体を動かして中にたまったものを吐き出すというのは、すごくいいと思うし、絶対に必要だと思う。

極端に言えば、現代社会を乗り越えられるかどうかは、いかにストレスに打ち勝って、ストレスの攻撃をかわすか、と言えるのかもしれない。自分も今は非常にストレス脳になっているが、前に進むためには何とかストレス脳を解消しなければいけない。

あと、余談:ストレスの解消にブラックチョコレートも良いらしい。僕もチョコレートを食べると、少し楽になる(ような気がする)。