投稿者「木原 康明」のアーカイブ

「好き」というだけでは乗り越えられない壁がある。

プロ野球選手のほとんどはおそらく野球が大好きで打ち込んでいるのだろうし、数学者や物理学者のほぼすべての人は数学や物理が大好きで研究に打ち込んでいる。その道を極めるためには、「好き」という思いは欠かせない。

しかし、その道を極めようとした時、「好き」という気持ちだけでは乗り越えられない壁に直面する。その壁を乗り越えるためには、忍耐もいるし、苦しい状況にも遭遇する。その壁を乗り越えられるかどうかが、プロとアマチュアの分け目になるのだと思う。

その壁を乗り越えるために必要なものの一つが「プロ意識」だろう。ここで言う「プロ意識」とは、何もお金をもらっているかどうかという意味ではない。何が何でもプロになってやるという覚悟とプライドだ。

プロを目指す人にとっての一つの目標は、その道でお金を稼ぐということだろう。もちろん、専門的な目標は人それぞれあるだろう。しかしプロとしての共通目標は、お金を稼ぐということだと思う。

一番大きな壁に直面するのは、プロになる直前、すなわちお金を稼げるようになる直前であることが多い。それまで「好き」という気持ちだけで進んで来たが、最後の壁を乗り越えようとするときにそれだけでは乗り越えられないことに気付く。しかし、そのことに気付いているということは、プロになる素養があるということだ。プロになれない人はそれにも気付かない。

人によっては、その壁を易々と乗り越えられるのかもしれない。しかしプロを目指す多くの人にとっては、それまでに身に付けてきた技術、知識、知恵の全てを投入してその壁を乗り越えるという課題を解決することになるだろう。

今、強くなりつつある。

今、僕は強くなりつつあることを実感している。僕には大きな目標があるし、その目標に近づきつつある。しかしその目標を達成するためには、自分が強く成り切らなければならない。

何を強くするのか?精神力、体力、知力など様々あるが、どれかという訳ではなく、全てにおいて強くならなければならない。そのためには、数理物理の研究、他分野の事について書かれた本の読書、そして筋トレ、あらゆることに当たって強くなることが必要だ。

好きなことに全力で取り組み、苦しいことにも全力で取り組む。役に立つものを吸収し、役に立たないものにも接触してみる。意外と役に立たないものが、後になって役に立つことがよくある。従って、近道ばかりしようとは思わず、遠回りして道草を食うことも必要である。

お金をむやみに使う必要はないが、ここぞと思う時には思い切ってお金を使うことも重要である。自分への投資は、最も意義のあるお金の使い方だ。

そして、貪欲さと禁欲さの両方を併せ持つことも重要だ。進むべき道へ貪欲に突き進む。そしてそのために抑えなければならないことには少し頑張って禁欲になる。貪欲と禁欲は相反することのように思えるが、実は相補的であったりする。

そのような事を続けて行くうちに、少しずつ進化し強くなっていくことを実感できるだろう。

僕は今は、強くなりつつある途中だが、近い将来に「強くなった」と胸を張って言える自分になることを目指しているし、なれると強く確信している。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

確率的思考。

例えば、企業が人材を採用する時に行う面接では、優秀と思われる人、あるいは人間関係を円滑に行い企業の利益に寄与できると思われる人を採用する。しかしあくまでも「思われる人」であり、確率的にその人の方が良いだろうと判断して採用することになる。しかし確率はあくまで確率であり、さらに言えば面接官の独断と偏見に基づくものであり、その確率自体も怪しいものである。

面接に限らず、世の中の判断というものは確率で決定されることが多い。それは民主主義とも密接な関係があるのだが、その一方、世の中の確率的判断の間をすり落ち、真の才能が埋もれてしまうことも多々あるだろう。

もちろん、そのような確率的判断が間違っているわけではない。確率とは多くの母数に対してコンスタントに威力を発揮するものなので、全体を見ればそのような確率的判断はかなりの利益を組織にもたらすであろう。

とは言え、現在の日本の気質から言えば、異端者すなわち出る杭は、打たれることが多い。皆と異質な部分があればそれを排除しようとするような気質がある。もちろんそのような気質も昔と比べればマシになったと思うが、それでもそのような気質は強く残っている。

日本での確率的思考とは、平均を算出することに全てを費やしているように思える。しかし本当にすべき確率的思考は、いかに確率良く最高のパフォーマンスを発揮するかということではないだろうか?しかし現在のような異質を排除するような気質の下では、それを実現するようなことはかなり厳しいと思われる。

迷ったら、やる!

ホリエモンと普通の人とは何が違うのか?その一番の違いは、迷った時に「やる」か「やらない」かの違いだと思う。もちろん才能うんぬんもあるとは思うが、そのようなことは二の次だと思う。

迷った時に「やる」という選択肢を選べるようになれば、かなり強力である。迷っている時に留まっている暇があれば、とにかく前に進めばよい。その結果失敗すれば、「失敗」という財産ができる。もちろん成功すればそれ以上言うことはない。すなわち、どちらに転んでも物事はポジティブな方向へと進むのだ。それならば、やるという選択肢しかないはずだ。

もちろんやみくもにやるのではなく、しっかりとした下準備は必要だ。しかし準備にこだわりすぎて前に進めないようでは、話にならない。進むべき方向にある物事についてしっかりと勉強をして、知識を付ける必要がある。そして実際に当たりながら「知恵」を付けて行けばよい。

大きな成功を成し遂げる人と、それができない人の差は、天才と凡人とかいうとてつもなく大きな差があるわけではない。その差は些細なものだ。しかしその些細な差が結果的に大きな差となって表れるのである。

迷ったら、やる!悩んでいる暇があれば、とりあえず前に進んでみよう。

人生の反撃。

人生には山があれば谷もある。もし谷が続いていれば、後は登るしかないのだから、目の前には山しかないのである。谷がずっと続くように感じる時というのは、多くの場合次の山が登れない状態であることが多い。すなわち、谷にいる時に地力を付ける必要がある。谷にいる時にどう過ごすかが成功の鍵なのである。

今僕は、人生の反撃を始めている。表面的には反撃を始めたところであるが、突然思い立って反撃を始めた訳ではなく、その伏線は二十年以上前から始まっている。非常に苦しい時も、意識を途切れさせることなく高いレベルで保っていてこそ、その気運になった時に強い反撃ができるのだと感じている。

もちろん、その反撃が成功するという保証は何もないかもしれない。外から見ていれば根拠は見当たらない。しかし自分の精神的な内面は自分にしかわからないのだから、自分だけが根拠を理解していればそれで十分なのである。周りには根拠を示すのではなく、結果で示すべきである。

僕の一番の武器は書物であり、紙とペンである。今までは書物の比重が大きかったが、何かを書き込むためには紙とペンが必要である。紙とペンをフルに駆使して徹底的に攻撃をかけて行こう!

「小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えない。」

これは、坂本龍馬をテーマとした深夜番組で黒鉄ヒロシが言っていた言葉だ。

今、日本国内だけではなく、世界が小さな正義で溢れ返っている。もちろん市民一人ひとりにとっては身近な出来事、身近な小さな問題に悩みを抱えるのは当然のことだが、一国の長であるような人物が小さな正義にこだわっているようでは話にならない。

学問においては、「小さな問題にこだわる人は、大きな問題が見えない」と言い換えることができるかもしれない。とは言え、学問の場合には、小さな問題の積み重ねの基に大きな問題が成り立っているという側面がある。なので、大きな問題を解くためには、小さな問題が解けることが前提となっている。しかしそれだけでなく、大きな問題を解くためには、物事の本質を捉えることが必須となる。

これらの言葉は広くとらえると、「近視眼的にしか物事を捉えられない人は、大局的に物事を見れない」と言うことができるであろう。坂本龍馬はまさしく大局的に物事を捉える達人であった。それに一つ加えると、龍馬は常にリスクを取り続けていたと言える。「命」というリスクを。

今、社会では様々なことが問題になっているが、そのようなことが大きな社会問題になっているのは、小さな正義にこだわっているということが理由の一つかもしれない。現在の問題も、十年、百年単位のスパンで考え直すことが必要ではないかと強く感じる。

「人間が人間を殺す」とはどういうことか?原爆・終戦の8月。

毎年8月になると、日本では原爆投下、そして終戦が話題になる。もちろんこのことを毎年話題にするのは非常に意味のある重要な事で、もしこれが話題にならないようになれば、意識的に非常に危険な状態だと言える。

原爆に限ったことではないが、戦争とは言うまでもなく「人間が人間を殺す」行為である。自然界でも同種で殺し合うことはたまに見られるが、人間のようにお互いを無差別に大量虐殺するようなことは人間以外では見られない。

近年は世界的に人道支援の輪が広がり、それにつぎ込まれる資金も大きくなっている。しかし軍事費用はそれらの比でないくらい巨額だ。すなわち人間は、お互いを助け合うと言いながら矛盾した行為を行っているのである。

しかし最近、人間が人間を殺し合うよりも恐ろしいことが始まっている。それは「機械が人間を殺す」ことだ。例えば無人のドローンが人間を銃で狙撃するということが始まっている。そこにAIが関われば、アルゴリズムによって人間の意志とは関係なしに殺りくが行われることになる。

これまでの戦争は人間によって行われていたという点では、人間が罪悪感を感じ、逆に平和へと舵を切ろうという機運を作るきっかけともなった。しかしアルゴリズムによって殺りくが行われば、そこには効率化という概念しかなくなる。

長崎での原爆投下の式典では、安倍首相は核廃絶には一切言及せず、それどころか核保有国と非核保有国との関係を取り持つという趣旨のことを発言するという、考えられないスピーチを行った。言うまでもなく日本は世界で唯一の核被爆国であり、日本から発せられる核に対する発言は他の国とは重みが違う。だからこそ核に対して日本にしか言えないことがある。しかし安倍首相はそれを自ら放棄したのである。

トランプ大統領はアメリカファーストだと言われている。しかしそれはある意味アメリカ大統領として当然の事だといえる。そして安倍首相もある意味日本ファーストと言えるかもしれない。しかし安倍首相の核抑止力に対する日本ファーストは何とも気味が悪いものである。

昨今、北朝鮮の金正恩氏でさえ核放棄を口にしている(どこまで実効性があるかわからないが)。しかし安倍首相は核の存在を肯定しようという方向性を示しているといえる。このままではいつか、8月になっても原爆が話題にならない時が来てしまうような気がする。

ITを思想として捉える。

ITと言えば、現在ではどうしてもビジネスという側面で見てしまう人が多い。特に世界の富豪の上位はことごとくIT企業関連者だ。日本で見ても、孫正義氏からホリエモン、さらに最近話題の前澤友作氏まで、IT関連の人間が幅広く活躍している。

しかし、そのようなIT関連の人間の中でも異色の人物が、MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏ではないだろうか?

最近、伊藤穣一氏の著書「教養としてのテクノロジー」(NHK出版新書)を読んだ。この本の何がユニークかと言うと、ITをビジネスではなく思想という観点から捉えているところだ。もちろん伊藤氏は、ITを使ったビジネスでも大きな成果を挙げてきたし、高度な技術も持ち合わせている。しかし伊藤氏の姿勢の特徴的なところは、ITを使っていかにして市民を豊かにするか、そしていかにして自由になるか、ということを追求しているところだ。

伊藤氏が所長を務めているMITメディアラボは、利害関係からは一線を画している。そのため、中立な立場でITの可能性を追求し提言することができる。そして反権力的な立場をとっているところも特徴的だろう。

ビジネスからは距離を置いている一方、ITを使った未来への探究に関しては非常に前衛的だ。もちろん民間のIT企業も未来への開拓は精力的に行っている。しかしビジネスからは距離を置いているMITメディアラボの取り組みはそれらの企業の取り組みとは毛色が違う。未来に関して悲観的でも楽観的でもなく前向きだと言えるだろう。

ITを使った金儲けに関する本は山ほど出ている。しかし伊藤氏の著書のようなITを思想と捉えている本は僕は他に見たことがない。新書なので専門知識がない人も手にとって気軽に読める本となっているが、この本を読んで得るところは非常に大きいと感じた。

責任者とは?

組織やプロジェクトには責任者がいる。責任者とは文字通り責任を伴った者であるが、そもそも責任者にはどのような権限があり、どのような責任を伴った者なのか?

責任者とは何か不手際やスキャンダルが生じた時、責任を取るものだと考えられている。しかしもしその責任者にその組織を動かしたりプロジェクトを一元的に動かす権限がなければ、なぜその人に責任だけ負わせるのか?ということになる。すなわち責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限が付与されてこそ、責任者という地位が成り立つのである。

責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限があると、責任者はそれを上手く成功させようとコントロールできる。すなわち失敗やスキャンダルを防ぐようにコントロールすることもできるのである。そのうえで不手際やスキャンダルが生じれば明らかに責任者の責任である。

しかし世の中には「名ばかり責任者」が多すぎるように感じる。特に本当に権限を持つ者が責任を逃れるために、名ばかり責任者に責任だけ負わせるという構図が多くの組織に見られる。

大きな権限と責任は一体となって運用されなければならない。権限だけでは独裁者になるし、責任だけでは名ばかり責任者になってしまう。権限と責任の双方を持ち合わせないと、組織やプロジェクトの大きな成功と発展は望めない。