投稿者「木原 康明」のアーカイブ

流行の問題ではなく、重要な問題に取り組む。

学問においても、流行というものが存在する。流行のテーマ、流行の問題など、その時々のトレンドがあり、そして同時に廃れて行くテーマもある。研究者の中にも、流行に過敏に反応し流行を追いかけ続けている人がいる。しかもこのように流行を追いかけている研究者が少なくないのだ。何も流行を追いかけることが悪い訳ではなく、それらのテーマが流行になるからにはそこには重要な理由があるはずだ。しかし流行の問題と重要な問題は必ずしもイコールではなく、時には本当に重要な問題が時代から無視されていることも多い。

流行の問題と重要な問題をどう捉えるか?流行とは変わりゆくものであり、重要なものは不変なものだと言える。また不変だからこそ重要だとも言えるのかもしれない。流行の問題に関しては何もしなくても取り組む者が続出する。しかし意外にも、重要な問題に取り組む者はいつの時代にも一定数いるが、そんなに爆発することはない。しかし重要なのは、流行の問題とは重要な問題を源流として発生することが多いということだ。

重要な問題なのに、なぜ取り組む人がそんなに多くないのか?それは問題の歴史に関係する。重要な問題はその問題が誕生してから長い年月が経っていることが多い。例えば幾何学のポアンカレ予想は約100年の歴史があった。1900年頃に問題が誕生し、2003年にペレルマン博士によって解決された。100年も解かれなかったということはかなりの難問であるということだ。それだけの難問であるから、その問題に取り組んでも何の結果も出ない危険性が高い。結果を出さなければ研究の世界では生き残れない。従って生き残るために結果が出そうな無難な問題に取り組む人が多くなるのである。

しかし重要な問題に人生を懸ける価値は非常に高い。もちろんなかなか結果が出ない危険性も高いが、結果が出れば非常に大きい。もちろん何の構想も当てもなく取り組むわけにはいかない。取り組むに当たっては解決へのビジョンだけははっきりとさせておかなければならない。しかしビジョンがはっきりとしているからと言って解決できるほど簡単ではないが、その骨格を基に細部を地道に埋めて行けば解決する可能性は十分にあると思う。あとは、「自分がやらなければ誰がやる」という執念を持って乗り切るしかない。

イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

理想論を実現化する力。

世の中では、「理想と現実は違う」とよく言われる。確かに理想と現実は大きく違うことが多いし、世間も「現実とはそんなものだ」と半ば諦めてそれを受け入れている。しかし現実をどれだけ理想に近づけられるかとういう施策は非常に挑戦的なものであり、完全に理想と一致させることは出来なくても、部分的に理想と一致させることは不可能ではない。

近年「人間力」という言葉がよく使われる。この人間力という言葉はあまりにも抽象的であいまいであり、どのようにも捉えることが出来る。つまり誰もが都合よく解釈して使用することが出来る。そういう意味で僕はこの言葉があまり好きではないが、ただそこを我慢して使うとすれば、現実をどれだけ理想に近づけることが出来るかということはそれぞれの人間力によるところではないだろうか。

おそらく多くの人には理想のあるべき姿があるのではないだろうか?しかし同時に多くの人は理想を実現化することを初めからあきらめている。一部の人は理想を実現化しようと努力しているが、そこで足かせになって来るのが「理想なんて無理だ」と初めからあきらめている勢力だ。理想を初めからあきらめている人は理想を実現化することは100%無理であるが、理想を実現化しようと努力している人はそれに30%くらい成功する可能性がある。ここで100%ではないから意味がないと放棄するのではなく、30%をものにするために行動をしたい。そうすればそれが40%、50%と上がってくる。

人間とは完全ではなく、また多種多様であるから、そのような社会を理想に完全に一致させることは不可能であり、また仮に理想と一致させて一様化することができるとすればそれはある意味非常に危険である。しかし自分自身の個人的な事に関してはそうではない。もちろん自分を完全に理想と一致させることはこれまた無理な事である。しかし自分自身に理想を持つことは人生の発展の原動力になり得る。どれだけ自分を理想に近づけられるかわからないが、自分が目標とするレベルに近づき到達するために一歩一歩進める事が出来れば、その一つ一つの一歩がそれ自身大きな意味を持つものだと思う。

楽観主義で行こう!

大きな結果を残す人は総じて楽観主義だ。自分に対して厳しい姿勢で臨むのは良いが、周りの環境は自分の力だけで簡単に変えられるものではない。しかしそのような環境に対して悲観的になっても何のメリットもないし。そんな事よりある程度楽観的になって取り組むべきことに集中して取り組む方がはるかに生産的だ。

ネガティブな思考よりポジティブな思考の方が精神的にも良い影響を与えるし、そのようにポジティブな思考を行うためにも楽観的に考えることは必要だ。楽観的に考えたことが100%上手く行くかというと必ずしもそうではないが、悲観的にネガティブになって防衛するよりも、楽観的にポジティブに取り組む方が良い方向に転がる確率が圧倒的に高い。楽観主義は成功の源だと強く感じている。

僕自身、必ずしも楽観的になり切れている訳ではないし、ポジティブになり切れないこともたくさんあるが、そこは意識して楽観的にポジティブに考えるしかない。もし良くないことが起きた時は、その時になって対処すればよい。社会において不測の事態に備えることは大事だが、自分の人生において不測の事態に備えることはかなり不毛だ。先の心配より目の前のハードルをクリアすることに力を注がなければならない。

世の中は総じて公平なんかではないし、社会的にも道徳的にも全て正しい訳ではない。多くは先行者の利益のため、更には一世代前の人たちの価値観に基づいている。だからこそ次世代の人たちがそれを変えるべき行動を起こさなければならないが、実際にそのような行動を起こす人は一握りである。しかし現在の規範が絶対に変えられないものだと束縛されるのではなく、おかしい事は変えなければならない。さらに変えられるはずだと楽観的に行動を起こすことが大事である。防衛的な傍観者ではなく、楽観的な行動者になれるように思考を回していきたいものである。

打開策は挑戦だ!

「挑戦」という言葉は、これからの僕にとって一生ついてくるものかもしれない。昔はそんなに挑戦という言葉を意識しているつもりはなかったが、無意識の内にかなりの挑戦をしてきていたのかもしれない。しかし今考えると、以前の僕の挑戦はまだまだ甘かったとしか言えない。どこかで安定や逃げ道を考えていた節がある。しかし今は安定などを考えることはほとんどない。逃げ道は多少考えることはあるかもしれないが、もしそのような事を考えるのならば、それは僕自身の甘さだ。

最近は、挑戦という言葉が僕の人生におけるスローガンになっているように思える。背水の陣に追い込まれるのではなく、自ら背水の陣に飛び込んで行きたい。後ろにまだ陣地があると、そこで甘えが出て来てしまう。とは言え、僕自身いろいろと甘えのある人間ではあるが、学問に対してはそこそこストイックであると自負している。筋トレに関しても少しストイックだが。

今まで順調に人生を進めて来れているのならば、安定でも逃げ道でも何でも考えればよいと思う。しかし僕の人生なんて順調でも何でもない。なので現状を打開するためには挑戦をし続けるしかないのだ。もちろん、このような挑戦は諸刃の剣かもしれない。しかしそんなことはどうでもよいのだ。挑戦するしかないし、挑戦がしたいのだ。

とは言え、実は今が凄く面白い。数学が、物理が凄く面白いのだ。面白いからさらに挑戦しようと思えるのかもしれない。自分には厳しく、しかし周りの人には優しくありたい。厳しいのは自分に対してだけでいい。これからもずっと挑戦という言葉を意識して前に進みたいと思う。

成し遂げるべき目標を定めること。

目標というものは、大まかに二種類ある。一つは具体的な物事に対してそれを達成する事。もう一つは目標とする順位を定める事。僕は前者の目標を取るべきだと強く思っている。それはなぜかと言うと、順位的な目標を定めることは、具象性に欠けるからだ。例えば何かで世界一位を目指すとする。ではそのために何を始めればよいか?そこで具体的な行動が見えていれば良いが、それならば前者に帰結する。世界一位を目指しても100位までは行けるかもしれない。しかしそこから50位を目指してもそこまでが意外と遠く感じるだろう。そこから25位までは更に遠い。このように順位だけを見て追いかけたところで目標の順位は更に遠く感じるだろう。

では世界一位になるためにはどうすれば良いか?具体的に成し遂げる事柄を定めるのである。それに取り組んでいる時は順位などはどうでもよい。とにかく目の前の事を成し遂げる事に全力を尽くすのである。それに取り組み前に進んで行けば順位などは後からついてくる。順位などは追いかけるものではなく、後からついてくるものなのである。

もし高く大きな目標を持っているのならば、我慢すべきことも多く出て来るだろう。分かりやすい例で言うと、お酒を断つとかだ。もし目の前にお酒があって、それを飲むか飲まないかが成否を決めるのならば、90%の人はお酒を我慢できるであろう。しかしお酒を飲む事と事の成否の因果関係がはっきりと見えているものではない。なので実際は90%の人がお酒を飲んでしまう。事を成し遂げるかどうかは、残りの10%に入れるかどうかだ。

成し遂げるべきことが見えているとは、ある意味幸せな事だ。しかしそれは同時に苦しいものでもある。しかしその苦しさの先には、輝く光が見えている。この光を頼りに前に進んで行くことがやりがいなのである。そして最終的に、そのやりがいを達成へと変えることが出来れば感無量である。しかしそれに浸るのもそこそこにして、また一つ目指すべきものを見つけて前に進む。その繰り返しが人間を高みに上げてくのだと思う。

数学も科学も人生も、前を向いて一歩進めることを考えてみよう。

僕は常に前を向くことを心がけている。もちろん前を向いているからと言って、それによって必ずしも前進できるとは限らない。しかし不思議なもので、前を向けば前に進むし、後ろを向いていれば後退する(ことが多いように思える)。僕自身、かなり窮地に立たされたことは幾度かあったが、常に前を向いていたおかげでゆっくりながらも前進することが出来ている。

学問も同じだ。過去の結果について欠陥はないかというような後ろ向きの事ばかり考えていれば生産的な事は出来ないし、すこし荒々しくても積み重ねて行けば大まかな骨格は出来てくる。細部は骨格を作ってから埋めて行けばいいのである。

理論物理というものは自然を厳密に記述するものだ。しかし数学に比べれば理論物理の厳密性はまだまだ甘い。数学にもいろいろあるが、数学には論理の穴は許されない。はたから見ると、なぜそんな当たり前のことを回りくどく証明するのかと思えることもあるが、後々その回りくどいくらいの厳密性が重要な鍵となって来ることが多い。そのように発展した純粋数学は応用科学へ利用されることもあるし、逆に科学から発生した骨格を基にそれを厳密化して純粋数学が誕生することもある。その科学と数学の掛け合いがまた面白い。

数学や科学に後退はない。数学や科学は一方的に前に進むのみであり、数学が10年戻るなんてことは絶対にないのだ。人生も同じかもしれない。時間は過去に戻らないので前を向き前に進むしかないのだ。過去の事に思いを馳せたり悔やんだりすることは多々あるかもしれないが、そのような事は生産的な事をもたらせない。しかし未来は自分次第でいくらでも変えられる。とてつもなく良くすることもできるし、とてつもなく悪くなることもある。おそらくその分かれ道は前を向いているかそうでないかということだと思う。三歩進んで二歩下がる、それでいいのである。いきなり百歩進むなんてことはありえないし、もし百歩進んだと思い込んでいれば次は二百歩下がるかもしれない。一歩ずつ積み重ねてきた人生が一番の財産なのである。

数学は哲学、しかし哲学は数学ではない。

古代ギリシャでは、数学は哲学の一部門であった。もちろん科学も哲学の一部であった。それらの数学や科学は「自然哲学」と呼ばれていたみたいだ。すなわち、自然の仕組みを解明する科学は、自然に対する徹底的な思考、すなわち哲学なのである。しかし現代では科学と哲学はほぼ別部門になっている。

しかし現代でも、科学に対して哲学的な姿勢を求めることは重要ではないかと強く感じる。すなわち、数学や科学を「自然哲学」と捉えるのである。しかし何もマニアックな哲学と同じように捉える必要はない。大事なのは、数学や自然に対して「意志」を持って究明することである。数学はある意味ロジックであるが、しかしロジックだけで数学が成り立つ訳ではない。そこには数学者の意志や哲学が入魂されているし、計算だけならロジックだけで出来るかもしれないが、概念の定義などはロジックだけでできるものではない。

最近、ロジカルシンキングという言葉をたまに聞くが、数学においてはロジカルシンキングは当たり前の事であり、重要なのはロジカルシンキングを超えるところにある。数学的実態をどう視覚的に捉えるかとか、それまでにはなかったロジックを発明する必要もある。数学とは実に有機的で色鮮やかなものなのである。もし数学に対して無機的で機械的だと感じているのならば、それは数学の本質が見えていないということだ。

時には完全なロジックから、ロジック以上のものが生まれることもある。その代表が「ゲーデルの不完全性定理」であろう。ゲーデルの哲学がどんなものであったか?僕には知る由もないが、完全なロジシャンであるゲーデルであるからこそ、普通の数学者以上の有機的な偉大な哲学があったに違いない。

経済的な自由だけでなく、知の自由を広げることが大事だ!

自由とは21世紀における重要なキーワードになっている。自由経済、自由主義など自由という言葉は色々な所で使われているが、僕は現在使われている自由という言葉が経済的ビジネス的な意味だけに偏っているように思えてならない。

経済的な自由以上に重要なのは、精神の自由、学問の自由、知的追究の自由だ。しかしおかしなことに、知的追究の自由はむしろ低下しているように思えてならない。それは世論の風潮だけでなく、法的にも知的自由を制限する方向に動いている。

知的自由は一部の研究者だけに与えればよいのか?一般市民に対する知的自由を制限すれば学問のすそ野が狭まることは容易に考えられ、将来の日本の学問的レベルの低下につながる。もちろんそれに伴って日本の科学技術のレベルは低下し、ビジネス的にも大きく不利になることが容易に考えられる。日本は学問の自由を制限することによって自らの首を絞めているようなものだ。

そしてもう一つ重要なのは、学問の細分化により分野間に壁が出来ていることである。例えば大学で数学を研究している人は容易に数学的知識を収集することができるであろう。ではその数学研究者が医学の専門知識を入手したい時はどうすればよいのか?そのような時に医学の論文の入手を困難にさせれば、専門知識の普及は到底望めない。誰もが専門外の知識に対してもアクセスできる環境を作らなければならない。専門的知識は専門家だけのものではないのである。

国は研究者に対して巨額な研究費を投じている。もちろんその原資は税金だ。巨額の税金を投じて研究を行っているからには、そこから得られた知識は一般市民に還元しなければならない。しかし現状ではそれが出来ていない。もちろん市民も、科学研究など自分に関係ないと無関心になるのではなく、専門的研究結果に対して積極的なアプローチをしていかなければならない。専門的科学知識は国民、そして世界市民全体の財産なのである。

現在、日本の学問研究は低下の一途をたどっていると言われている。その原因は研究費の減少やお金につながる研究にしか投資しないからだとか言われている。しかし問題は更に根本的な所にあるように思える。そこに国と国民が気付かなければ、いくら研究費を増やしたところで国の研究レベルの底上げには全くつながらない。日本の研究者を海外に送り込むのではなく、海外の研究者に日本に行きたいと思わせることが重要であり、そのような世界の研究者の研究から得られた知識を国全体で共有して行かなければならない。まあ、今の日本の現状を見ればほとんど期待できないが。

数学や科学において、本質的に直感はあてにならない。

数学や科学においては、実に直感はあてにならないものである。例えば有限の数を数えるという直感が無限の数では全くあてにならないことを示したのが、集合論を創始したカントールである。さらに空間や時間というものが直感から得られるものとは全く違うことを示したのが、特殊相対性理論を構築したアインシュタインであった。

数学や科学を構築するにあたっての大原則が二つある。一つ目は概念の厳密な定義、二つ目が厳密な論理による展開である。この二つがないと、数学や科学の発展はありえない。なぜ古代ギリシャ時代のユークリッドは誰もが当たり前に思えることを、一見回りくどく思えるような論理で展開したのか?それは物事の本質を明らかにするためである。当たり前に思えることを論理的に基礎づけしてみると、当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことが明らかになる。そして本質は何で、それに付随するものは何かとういうことも白日の下にさらされる。2千年前のユークリッドの定式化なしに現代の科学の発展はありえないのである。

しかし19世紀の哲学者・ショーペンハウアーは「意志と表象としての世界」で、ユークリッドの議論を「義足を履くために足を切断するようなものだ」と言っている。ショーペンハウアーは「直感こそが一番正しいものだ」と論じているのである。さらに空間や時間に関する論理に至っては、その当時の科学的見識に照らし合わせても目を当てられないくらいひどいものである。ニュートンの科学的見識に照らし合わせてもショーペンハウアーの議論は幼稚なものであるが、「意志と表象としての世界」を出版したのは1918年なので、その十年以上前にはアインシュタインの特殊相対性理論と言われる時間と空間の物理学が世に出ている。ショーペンハウアーが不勉強だったのかとも思ったが、おそらく数学や科学に敵対心を持ち、それらを否定することに躍起になっていたのではないかと思われる。

僕は科学を専門としている人間の中では、かなり哲学を重視し好意を持っている方だと思っている。しかし最近、ショーペンハウアーをはじめとするドイツ哲学に失望している。そう言えば、微分積分学をニュートンと独立に発見したライプニッツは哲学者としても有名だ。ライプニッツの哲学に触れた訳ではないが、数学者であるライプニッツの哲学はおそらく自然科学的だと思われる。機会があればライプニッツの哲学にも踏み込んでみようと思う。

なぜ論理的である哲学で直感が重視されるのか?僕には理解できない。初めに述べた無限の数を扱う集合論や時間と空間を扱う相対性理論以上に、ミクロの世界を扱う量子論は反直観的だ。全てが直観とは反する振る舞いをする。科学では直感の呪縛から逃れることが大きな飛躍につながるのである。直観とは実にあてにならないものである。そう人間に気づかせてくれるのが、人間が科学を追究する一つの意義かも知れない。