投稿者「木原 康明」のアーカイブ

岩波講座。

岩波書店は日本で最も権威と歴史のある出版社だと言ってよい。もちろん規模の大きさで言えば、岩波書店よりも大きな出版社はあるが、岩波書店に対する信用は絶大である。

岩波書店と言えば、岩波文庫を想像する人は多いかもしれない。岩波文庫には過去の名著が目白押しである。何を読もうか迷った時には、書店で岩波文庫を眺めればいい。僕自身は、岩波文庫に並んでいる哲学書をよく眺め購入している。

その岩波文庫と並び、岩波を代表するのが「岩波講座」と言われるシリーズだ。岩波講座はいくつかの分野で出ている。さらに同じ分野でも時を経て新しい岩波講座が企画されることが多い。数学でも過去に数回岩波講座が出ている。僕自身も岩波講座の数学シリーズには非常にお世話になっている。研究者にとって岩波講座はなくてはならないものだと言っても過言ではないと思う。

歴史学においてももちろん岩波講座は出ている。その中でも日本史の岩波講座は歴史研究界において非常に重要な地位をせめているようだ。岩波講座が出版時の日本史研究のスタンダードと言ってもいいらしい。日本史を研究する者にとって、岩波講座を熟知することは研究者への第一歩なのかもしれない。歴史の一般書を読んでも、岩波講座が参考文献として引用されていることが多い。

もしこれから何らかの学問に打ち込もうと考えているのならば、まずは岩波講座を読むのが非常に良い。岩波講座は10冊以上(岩波講座・基礎数学は79冊である!)の本で構成されることが多く、全て集めるのは非常に大変だが、金銭的に無理がある場合は古本などで安くで購入するのも一つの手である。

学問の研究者にとって、岩波講座は信用のおける非常に重要な書物群となっている。

失敗を全く恐れない!

日本では失敗はしてはならないものだとよく教わる。その割には「挫折を糧にして」という話をよく聞く。しかし僕はそれは逆だと考えている。失敗は恐れることなくいくらでも積み重ねればいい。しかし挫折は絶対にしてはいけないと考えている。

社会全体が失敗を過度に恐れるあまり、全ての事を無難にやりくりしようと考えようとする。飛び抜ける事より普通になることを考えようとする。それなのに度々挫折をする。もちろんそのような人が多くいる中でも、変革を行い飛び抜けようとする人は少なからずいる。世の中を支えるのは多くの普通の人かもしれないが、世の中を変えるのは間違いなく突き抜けた人だ。

どのような世界でも、公になるのは成功ばかりだ。失敗を成果として挙げる人は一人もいない。だから多くの人は、成功者は失敗をしないと錯覚してしまう。しかし、一つの成功の裏には多くの失敗が存在することを忘れてはならない。

失敗を積み重ねているのは、挑戦している証である。挑戦しない人は失敗することさえできない。

失敗が客観的事実である一方、挫折は主観である。なので周りの人がそれを挫折と言おうが、自分が挫折だと思っていないのならばそれは挫折ではないのである。そのような意味で、「失敗は重ねても、挫折はしてはいけない」と僕は常々考えているのである。

好調でない時に、何をすべきか?

もしかしたら常に好調である人もいるかもしれないが、多くの人には好不調の波はあるだろう。好調の時にやるべきことを徹底的にやるのは意外と難しくないかもしれないが、不調な時に何をすればいいのかということについて悩む人は少なくない。

不調な時には、何もしないという選択肢を取りがちだ。そのような選択肢はもしかしたらあながち間違ってはいないのかもしれない。不調な時に体力気力を温存して、調子が上向いてきたらやる気を発揮する。しかし不調な時にも何かやるべきことはあるのではないかと感じてしまう。好調な時に十歩進めるのなら、不調な時には一歩、いや半歩でも前に進めれば大きな進歩である。

しかしこれがなかなか簡単な事ではない。その半歩がなかなか実行できないのである。しかし、非常に気力のいる本業はできなくても、サブのことならできるかもしれない。それもできないのならサブのサブと。不調な時にもできる事を探すことは重要だ。

昔、ある哲学者(たしかラッセルだったと思う)は、「調子の良い日は哲学をやる。そしてそんなに調子が良くない日は社会学をやる。さらに不調な時には歴史学をやる。」と言ったそうだ。ラッセルのような偉人でさえも、好不調の時のやりくりを工夫していたのである。

やれない時には無理してやる必要はない。やれることをやれるときにやればいいのである。自分の波を観察しながら、試行錯誤して出来るだけ力を発揮することを心がけたいものである。

歴史は暗記科目ではない!

学校で習う歴史は暗記科目と認識され、年号や名前を徹底的に暗記することが要求されている。僕自身も中学時代や大学受験生時代は様々な事を暗記したように思える。

最近、歴史に関して興味深い本を読み、ふと気付いたことがある。それは歴史は暗記科目ではないということだ。もちろん必要最小限のことを覚えることは必要かもしれない。しかし歴史に関して100%暗記しようという姿勢では、全く理解できないであろう。

一つ例を挙げて言うと、年号を暗記することより、年号を見てその相対関係と流れを把握することが重要である。歴史は流れが全てと言っても過言ではない。流れのない歴史は単なる暗号でしかないのだ。

そして最近学んだのは、歴史には絶対ということがないということである。過去の歴史は研究が進むにつれて変わるのが常であるようだ。例えば大化の改新は本当にあったのか?(最近は大きな変革である大化の改新よりも、クーデターそのものをさす乙巳の変を基本としているようだ。)さらに、鎌倉幕府の誕生は“いい国作ろう”の1192年という固定的な見方は現在では主流ではないらしい。僕らの学生時代に常識として習ったことが、最新の歴史研究では否定されているのである。

この様になると、どれが正しくてどれが間違っているのか戸惑ってしまうが、歴史というものは不確定要素が強いということは認識した方が良さそうだ。特に古いものになればなるほど、不確定要素は強くなる。

とは言え、歴史自体は非常に面白いものである。過去の先人の起こした出来事は非常に興味のあることである。このような歴史を楽しむためにも、近視眼的に暗記するのではなく、大局的に歴史の流れとその背景を捉えることが重要である。

9割9分は大丈夫!

普段生きていると何かと心配することが出てくるが、ほとんどの事は9割9分大丈夫である。もちろん何事においても100%大丈夫ということはありえない。しかし99%は大丈夫なのである。

では残りの1%をどう捉えるか?ここにそれぞれの人間としての器が現れる。結論を言うと、「残りの1%が起きた時は潔く諦める」ということである。1%の危険性にこだわり、悩み抜いたところで何も始まらない。この1%のことを考える暇が合ったら、残りの99%の事をポジティブに捉える方がはるかに建設的だ。

しかし日本人の特性として、「この1%が起きた時はどうするつもりだ?」と問いかける人が多い。もちろん安全性が高まればそれに越したことはない。しかし最も重要な事は、「99%の事をポジティブに捉えることにより、1%の危険性がより低くなる」ということである。近視眼的に目先の危険性だけ考えるのではなく、広域的に物事を捉えることが重要なのである。

では、これらの事に関して一例を挙げよう。現在よく話題にのぼる自動車の自動運転に関してだ。現在は自動運転はまだ開発段階であるが、2020年には実用化されるという話もある。自動運転で一番問題になるのは、事故が起きたらどう責任を取るのかということだ。自動運転の実験で一つ事故が起きると大問題になる。しかし生身の人間が運転する自動車は膨大な数の事故を起こし、決して少なくない数の死者が出ている。しかしこちらの方は自動運転の事故に比べてあまり話題にならない。その証拠として、皆は年間何人の人が交通事故で亡くなっているか記憶にあるだろうか?

自動運転の場合、最大の目標は人間が起こす事故率よりも自動運転の起こす事故率を低くすることである。もちろんゼロにすることはできないであろう。そして実験段階では一時的に自動運転の事故率の方が高くなるのかもしれない。しかしそれを問題にしすぎて解決の糸口を見いだせないようであれば本末転倒だ。将来の自動運転事故率の低下を目標に、慎重に実験開発を進めるしかない。

少し話が逸れたが、自分自身の事に対しては1%の危険性を気にしすぎるのではなく、99%の事をポジティブに捉えることを心がけたいと思う。そのようなポジティブシンキングによって、自分の未来を開拓していきたいものである。

堂々とすること。

人間は中身が大事とは言うものの、外見は人間を評価するにあたって重要な役割を与える。外見というと服装などの身なりを想像する人が多いかもしれないが、最も大事なのは表情、そして振る舞いである。さらに言うと、表情や振る舞いは決して外見と一言で片づけられることではなく、むしろ人間性そのものだと言える。

僕が最近非常に感じているのは、普段から堂々と振る舞うことが非常に大事だということである。もちろん、ここぞという時に堂々とすることは多くの人が実践しているかもしれないが、普段何気ない時に堂々と振る舞えるかということは、その人の自信や人間性が最も表れるところである。

しかしこれがなかなか簡単に出来るものではない。やはり自分に対して心の底から湧き上がる自信がないと、常に堂々と振る舞うことはできない。しかし常に堂々と振る舞うことができると、周りの人からの印象だけではなく、自分の自分に対する意識がより確固たるものになり、自分の周辺で起きる事柄も自分が動きやすい方向へ回る。

何が起きても堂々と振る舞えるか?これができると自分自身も周りも大きく変えることができる。とは言えいきなり大きく変えることはできないので、小さなことから徐々に意識を変えることを心がけたいものである。

社会や思想の民主主義化。そして教育の多様化へ。

9月1日、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)を見た。この回のテーマはAIと社会に関することであったが、見ながら気になることが一つあった。それはほとんどの話がビジネスベースで考えられていることである。もちろんこの番組の根底にはビジネスを主体にするという暗黙の了解があるからなのかもしれないが、もう少し違う切り口があるのではないかと感じた。

AIが社会に広く浸透すると、もちろん教育の在り方も変えていかなければならない。もちろんどのように稼ぐか?ということも重要であるが、人間が人間らしく生きるためにはどうすればいいか?ということを真剣に議論しなければならない。そのためには全てがビジネスベースという前提を外さなければならない。

教育とは何か?この問いの答えは様々である。もちろん将来お金を稼ぐための力を付けるというものもあるだろうし、学問に打ち込み研究力を付けるというものもある。しかし現在の一般市民の教育に対する期待は、「いかに安定した職に就いて、いかに安定的に収入を得るか?」というところに偏っている。「たくさん稼いで金持ちになる」ということですらないのだ。多くの人が現状維持を望み、社会や企業もいかにして現状を維持するかというところに注力している。

過去の歴史を見ても、現状維持を望んで現状維持を保ったケースはほとんどない。現状維持は没落への始まりである。ではなぜ日本という国が曲がりなりにも現状維持をできているように見えるのか?それは国全体が現状維持を目指しているからである。全体が現状維持のため、現状維持をしていると錯覚しているのである。しかし世界的に見ると、現在の日本は全ての面で明らかに低下している。

思考がそのような方向に行くのは「国民性だ」と言われるかもしれないが、国民性を形成するのは教育であり、国家体制である。日本は政治システム上は紛れもなく民主主義であるが、日本社会はとてもじゃないが民主主義と言えるものではない。横並び思想で、みんな仲良しで、皆と違うことをすれば仲間外れにする。それは個人レベルでも企業などの社会レベルでも同じだ。社会主義国家である中国でさえ、日本は中国以上に社会主義であると言っている。

今日本に強く求められているのは、民主主義という看板を掲げた社会主義ではなく、思想や社会、そして教育の民主主義化を進める事ではないだろうか?

真剣に生きようとする人をバカにしてはいけない。

理解できないことだが、世の中には真剣に生きようとする人をバカにする人がいる。あるいはそのような風潮がある。誰だって順風満帆な訳ではなく、様々な困難を抱えながら生きている。もちろん何の困難もなく順調に生きている人もいるが、順調に生きている人も困難に立ち向かいながら生きている人も、それぞれ真剣に生きているのである。

日本に限ったことか、それとも世界的にそうなのかわからないが、普通と違う感じの人をバカにする風潮がある。逆に言えば多くの人は普通に生きようと思っているのかもしれないが、世の中の多様性を考えれば皆普通とは違うという状況の方が普通なのかもしれない。

日本の科学の世界では「異能流出」という言葉があり、以前から問題になっている。僕はこの言葉を、ノーベル賞科学者の中村修二教授に関してのことで聞いたのだが、中村教授は明らかに普通ではない。しかしもし中村教授が普通だったのならば確実にノーベル賞は取れなかったであろう。もちろん中村教授が最高の才能を持ち合わせた人であることは言うまでもないが。

異能を持ち合わせた人は、なぜ異能と言われるのか?それは最高に真剣に生きているからだと思う。真剣に生き、異能になり得るような人をバカにする風潮がある日本の行く先は、はっきり言って暗いとしか言いようがない。世の中を変えるのは、普通の人ではなくて異能なのだから。

思想としての数学。

数学というものに対して、誤った認識を持っている人が多い。数学とは一見、ルールと論理に則ったガチガチの体系のように見える。しかし数学は論理だけでできるものではなく、数学者の思想、さらには性格までが反映する非常に人間的なものでもある。

例えば、ある定義から始めて数学的論理を構築していくと、全ての数学者が同じ結果にたどり着くかというと、全くそうではない。同じところから出発しても、違うところにたどり着くことは多々ある。右にも進み得るし、左にも進み得る。数学の多様性はそのように起こり得るのである。

数学者一人ひとり、数学というものに対してのスタンスは様々であるが、数学を一つの思想だと捉えている数学者も少なくないように思える。数学理論には数学者の思想が色濃く反映されているのである。そこが数学の面白い所であり、一筋縄ではいかないところでもある。

数学の歴史の原点とも言える古代ギリシャでは、数学は思想であり、宗教でもあった。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、ギリシャ時代の新興宗教の教祖であったという話は有名である。数学とは無味乾燥な無機物ではなく、非常に人間的な有機物なのである。

とは言え、数学の非常に大きな特徴は“普遍性”である。地球上の人間が考え出した数学理論は、遠く離れた恒星シリウスの惑星に住む知的生物にも同様に発見されるであろう。もちろん数学にどのような思想を見出すかは様々であるが。

数学的思想は、数学研究を前進させる原動力である。思想無き数学は大抵取るに足らないものであることが多い。重要な数学理論の根底には、数学的思想が脈々と流れている。数学理論の豊かさを感じ取るためには、数学的思想を持つことが非常に重要なのである。

まだまだ修行は続く。

何かを極めようとするとき、基礎的な部分の習得は必要だ。基礎無くして応用はありえない。しかしいつまでも基礎的事項の習得にはまってしまうのも得策ではない。ところが、この基礎から応用への移行をいつ行うか?これがなかなかの悩みどころである。

基礎を修得したからといって、突然応用に移行するわけではない。応用に移行した後でも、基礎の習得は常に行わなければならない。修行はエンドレスに続くのである。

最先端の事柄ばかりに目が行ってしまえば、そこからできる事は枝葉の継ぎ足しでしかない。大きな事柄を遂行しようと思えば、最先端の事柄に加え、過去の基礎的事項を徹底的に見直すことが必要である。意外に重要なポイントは、最先端の知識より過去の基礎的事項の中にあることが多い。

もちろん、過去の結果を全て記憶することは不可能であるし、そのような事を全て記憶する必要はない。そのために書物というものが存在するのだ。書物を見て確認できる事は、そもそも記憶する必要性はないのである。もちろん記憶していれば便利ではあるが。

細部にこだわりすぎて、全体が見えないようでは話にならない。しかし大局観を掴むためには、細部を修得することも必要である。この塩梅が微妙で難しいところである。これらの感覚を掴むためにはとことん修行するしかない。

孤独を愛する。

多くの人と群れてわいわいするのは楽しい。僕も人と話などをして楽しくするのは大好きだ。しかし基本は独りでいたいと思っている。多くの人と楽しむこともできるが、一人で楽しむことにも長けているというのが理想かもしれない。

どうやら世界的に、孤独というものに対してあまり良くないイメージが広がっているみたいだ。日本でも孤独死が問題になるなど、何かと孤独というものに対してネガティブなイメージが付きまとう。しかし僕は、問題は孤独にあるのではなく、孤独を楽しみ満喫できないことにあるのではないかと考えている。実際に、孤独を満喫することができれば、一人でいることに非常に落ち着きが持てるし、自分の時間というものを大切にすることができる。

僕自身は数理物理の研究に打ち込んでいるが、理論系の研究というものは基本一人で構築していくものであり、一人でいることを満喫できないようだと理論系の研究などはできない。

「孤独を愛する」と言うと、バーで独りでお酒を飲むという風景をイメージする。実際僕も、バーでゴッドファーザーというカクテルを飲みながら満喫する時間が好きだ。孤独を愛するための入り口として、バーを満喫するのは非常に良い手かもしれない。

現代社会ではコミュニケーション能力ばかりがクローズアップされ、独りを満喫する能力が完全に無視されている。理想は人とのコミュニケーションを取りながら、独りの時間もしっかりと満喫するということだと思う。しかしこれを実行できる人は多くはないようだ。

社会があらゆるところで繋がっている現代だからこそ、孤独というものについて振り返ってみることが必要だと強く感じる。

やるなら徹底的に、プロレベルを目指して!

僕はかなり多趣味だ。しかし“趣味”という言葉はあまり好きではない。なぜなら、興味を持ったことは徹底的に極めて、趣味の域を超えることを心がけているからだ。もちろん、専門外のことを極めたところでプロレベルになるのは難しい。というよりまず不可能だ。しかしそこまで行かなくても、趣味の域を超えるくらいの事はできる。

例えば、山中伸弥教授のiPS細胞に対して興味を持ったとする。そこで山中教授の書いた一般向けの本やiPS細胞の解説書を読めば、おおよその事は分かるであろう。しかしそこを一歩越えて山中教授の原論文を読むところまで踏み込んでみたい。山中教授のiPS細胞発見の原論文(英文)はネットで簡単に手に入る。実際僕もこの原論文をプリントアウトした。しっかりと読めたかどうかは非常に怪しいが。

「広く浅く」か?「狭く深く」か?という問いはいろんなところで問われる。しかし欲を言えばその両方に挑戦したいものである。専門の事に関しては徹底的に深く、そして専門以外の事に関してもそれなりの深さで広く、というふうに。軸足をしっかりと持ちつつも、あらゆるところに触手を伸ばせるフットワークの軽さを身に付けたいものである。

目指すところは「多趣味の専門家」というところであろうか?僕の場合、数理物理という専門に関しては徹底的に深く、かつ荒野を切り開き新しい知見を確立していく。そして専門外の生物学や哲学、さらには興味のある時計やスーツに至るファッションまで、広く突き詰めていきたいと思っている。

少し欲張りかも知れないが、欲張りでないと物事は追究できないし、欲張りなくらいがちょうどいいと思っている。

目には見えない自然則。

科学研究とは根本的には「自然則を見出す」ということに尽きる。自然則とは科学の根本的原理の事で、ニュートンの運動方程式や一般相対性理論のアインシュタイン方程式がこれに当たるだろう。さらに言えば、光速度不変の原理などはさらに根本的な自然則になる。

自然則の確固たる定義はない。なのでそれぞれの科学者がどこを土台に置くかによってそれは変わる。意識の科学研究においては客観的現象と主観的な意識の現象を結び付ける原理が自然則になる。

自然側は自然現象を高度に抽象化したものであるので、目には見えない。この「目には見えない」ものを見るのが科学者の腕の見せ所である。当たり前のことであるが、物体の運動が見えても、自然則が見えるわけではない。しかしそれを抽象的に抽出して数式として表現するのが科学者の仕事である。

科学研究においてはかなりセンスが問われる。ただ新しいことを発見すればそれでいいのか?もちろんそれも広義の意味での科学といえる。しかし現象を支配する原理を探究するのが科学というのならば、科学とは言えないことを研究している科学者は非常に多い。そんな科学界に一石を投じることができるような研究を行うことができるかどうか?科学者としてのセンスと力量が問われるところである。

自分との戦い。

生きていれば、悩みを抱えることも多々ある。僕も色々な事でしばしば悩むことがある。そして時には周りの環境が悪いのではないかと考えることもあるが、冷静になって考えれば問題の本質は自分にあることに気付く。

他人との戦いならば、努力して勝っていくということができる。しかし自分との戦いは、自分の精神力を強くするということでしか克服できない。精神力を強くすることは簡単な事ではないし、さらにエンドレスでもある。

以前、ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーが話題になった。スポーツではメンタル面の微妙な変化が結果に大きく関わることが少なくない。日本代表ともなると、技術も体力も、さらにはメンタルにおいても頂点を極めることが求められるのでなおさらだ。このようなスポーツ選手ほどではないにしろ、我々一般市民も様々な局面でメンタルが強くあることを求められる。

ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーは、メンタルはトレーニングによって強化できると言っている、しかし具体的に何をすればメンタルが強くなれるかというノウハウは我々素人には分かりづらいが、自分自身で試行錯誤することによってある程度の所までは作り上げることができる。そして一番重要なのが、“自分で”というところである。

自分との戦いはエンドレスに死ぬまで続くのかもしれない。死ぬまで学び続け、死ぬまで考え続ける。この様な事を当たり前にできるメンタルの強さが大きく成功するためには一番重要なのかもしれない。

脳は緻密で曖昧だ。

最近、「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)という本を読んだ。意識とはこれまで心理学などの非科学的分野の範疇を出なかったが、最近、意識とは何かということを科学的に定義し、科学的に解明するような研究が行われているようだ。

そもそも意識とはこれまで非常に捉えどころのないものであり、厳密に定義することさえ難しいものであった。しかし、まずは意識とは何かということを定義しなければ解析することもできない。そこに意識を科学することの難しさがある。

著者の渡辺博士は、意識の科学を「一人称の科学」と表現している。これまでの科学は、人間が自然を実験、観測するという意味で「三人称の科学」であった。しかし意識の科学に踏み込んで、科学者は初めて一人称の科学というものに遭遇した。意識を科学することの難しさは、この「一人称」であることに由来する。

僕はこれまで、実験科学というものに縁がなかった。数学や理論物理という理論系の科学にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は科学実験の難しさを強く示唆するものであった。

この本にも書かれているように、人間の脳に電極などを差し込んで実験することには限界がある。というより、倫理的に無理な話である。そのような困難をどう掻い潜るかという挑戦が書かれているのも、この本の見どころである。

そして、意識というものを解明することは、近年のコンピューターの発展と連動するものである。人間の脳は一種のコンピューターともみなせるからだ。さらにこれからのコンピューター科学の発展において、脳の機能、意識の本質と無縁でいることはできない。

この本は非常に挑戦的で革命的な本である。著者の渡辺博士は、自身の意識を機械に移植することが夢だと書いている。そのようなコンピューターに対する前衛的な期待が、これらの意識研究を前進させる原動力になっているのかもしれない。

この著書は、最先端の科学を理解したいと思う人には非常にエキサイティングな本であるし、コンピューター科学技術に関わる人にとっても非常に得るものがある一冊となっている。

経験から学ぶこと。

僕自身ははっきり言って経験豊富とは言えない。しかし最近、これまではあまりしなかったことを経験し、やはり経験は大事だなと実感している。

しかし経験はそれだけでは、単なる経験でしかない。経験を基に学び、考えることが重要なのである。それは仕事でも学問でも同じだ。考えることによって経験が昇華するのである。

苦しいことを避けるのは誰にでも出来るが、そこをあえて自分から買って出るのも手だ。自分から買って出ることによって、それだけ経験が増える。僕は最近はあえて苦しいこと、力のいることを買って出ることを心がけている。

自分の専門とは全く違う他分野の事において様々な経験をすることによって、それらの経験は専門分野でも生きてくる。特に他分野において苦しく忍耐のいることを経験した後では、精神力も強くなり、専門分野においても力を発揮することができる。

今僕は、数理物理の研究に力を注ぎこんでいる。とは言え、僕の精神力はあまり強くないということも認識している。少しでも強くなり、研究においても全力で力を発揮するためにはどうすればよいか?今はいろいろと試行錯誤している途上である。

正しいことを、正しいと言うために。

正しいことを、正しいと言うのはなかなか難しい。世の中の風潮や常識にとらわれて、ついそれに沿うように話を進めてしまう。世の中の常識には、正しいものはもちろんたくさんあるが、おかしなものもたくさんある。それらに対して自分の思考によって、正しいか間違っているかを判断することが大事である。

僕も、本当は間違っていると思うことを相手に合わして流してしまうこともある。正しいことを正しいと言うことは、エネルギーもいるし、勇気もいる。当たり前のことでさえ正直に言えない。

相手の言うことが正しい時、素直に正しいと言える心も大事である。つい意地になって、相手の言うことに対して反抗したくなる時がある。自分が主張すべきことは主張して、相手を認めるべきことは認めるという、正確な評価が重要である。

ある事柄が正しいか間違っているかを判断する時、当たり前ではあるが自分で考えて判断することが重要である。しかし、この当たり前のことができない人が多すぎる。特にネット社会になった現代において、それらの判断をネット検索に頼って調べるということが頻繁に起きている。それらの人は、人間を信じずにネットを信じているのである。しかしネットに載っている事柄も元はと言えば人間が書き込んだものである。しかしネットを完全に信じている人は、人間を見ずにコンピューターが絶対だと信じ込んでいる。コンピューターの先にある人間の姿まで見えていないのである。

正しいことを正しいと言えるかどうかは、学生時代の学校での生き方に強く表れているように思う。学生時代に、自分で物事を判断せずに学校の校則を絶対だと思い、教師には完全に従う。そのような生き方を経てきた人たちには自分で物事を考えるということは難しいのではないかと感じる。

しかし、物事を考えることに遅いということは全くない。大人になってからでも自分で物事を考えるという習慣を身に付けることは非常に意義のあることだと思う。

上を向いて笑おう!

物事に対して、楽観過ぎるのは良くないし、悲観過ぎるのも良くない。大事なのは物事を正確に評価することだ。しかしあえて言うと多少楽観的な方が良いかもしれない。

物事を正確に評価するというのはなかなか難しい。悲観的に物事を捉えてしまうと保険を掛けることに走ってしまう。そのように保険を掛け過ぎると身動きが取れなくなる。そして結果的に自由を失うことになってしまう。

物事を創造的にとらえるためには、精神的に自由であることと、行動的に自由であることが重要になる。自由な精神で作り上げた発想を、行動の自由で創造していく。このことは科学の研究に対しても言える。

そのような自由な精神と行動を作り上げるためにはどうすればいいか?それはある程度の楽観性と人間的な明るさを持つことである。確かに精神的に追い込み、苦しくなる時もあると思う。しかし基本は楽観的で明るくないといけない。悲観的であることは自分に対しても周りの人に対しても良くないし、得なことはあまりない。

ビジネスなどにおいては、最悪のケースを想定して、それに対して対策を立てることが重要だとよく言われる。それは確かに間違ってはいないが、そのような世界であっても、人間的には楽観的に明るくないといけないと思う。矛盾するようだが、楽観的でないと最悪のケースに備えることはできない。

もし自分が悲観的になりすぎていると感じているときは、一歩前へ進んで上を向いて笑うことを心がけてみよう。

(科学に対する)思想はあるから、技術を付ける。

人間が生きていくにあたって、思想を持つことは重要だ。しかし思想だけでは物事は動かない。具体的な技術を身に付けることが必要である。

世界の多くの人は、世界が平和になることを望んでいる。それも一種の思想と言える。しかし思っているだけでは世の中は動かない。一人一人がアクションを起こすことが求められるのである。確かに市民一人のアクションの割合は、全世界人口から考えれば小さいかもしれない。しかし民主主義社会では選挙というアクションを通じて市民が意思表示をすることができる。大きな波も小さな部分から成り立っていることを忘れてはならない。

もちろん、首相や大統領には大きな権力がある。だからこそそれらの人物には、思想だけではなく強く巧みな技術で世の中を動かすことが求められる。

かのアインシュタインが相対性理論を発見した時に、ある哲学者は「自分は相対主義者だから、自分に数学的知識があれば自分が相対性理論を発見したであろう」と言ったという。しかしその哲学者は何も生み出していない。相対主義者などということは相対論を生み出す思想でも何でもないが、百歩譲ってそれが思想だと認めるとしても、肝心な技術(数学)が全くなかったわけである。科学を含め、物事を生み出すには思想と技術は双璧なのである。

僕は今、数理物理の研究において成し遂げようとしていることがある。それに対してのフレームワーク(思想から導き出される物理学的骨格)はほぼ明確に出来上がっている。そのフレームワークに肉付けするための技術(数学)を埋めていかなければならない。自然(科学)を理解するためにも思想と技術は重要なのである。

もし自分に思想があるというのならば技術を身に付けなければならないし、逆に技術があるのならば思想という大局観を身に付けなければならない。そして思想という大局観と具体的技術の双方を極めた時、目標とする構築物を完成させることができる。

世界標準にする必要はない。

現在は、ビジネスにおいても技術においても、世界標準へという覇権争いが熾烈になっている。もしかしたら文化もそうかもしれない。とにかくスケールがものを言う世界になっている。

しかし、日本という国は決して大きくない。もちろんネットで全世界がつながっている現在、日本に居ながら世界スケールで物事を進めることも可能になっている。しかしそのような現代だからこそ、スケール以外の価値観を見つけることが重要になってきているのではないかと感じる。

現在、資本主義的価値観は行き詰っているように思える。一昔前までなら、経済的裕福が人生の裕福に直接つながっていた。もちろん現在でも金銭的に不自由なく暮らすことは、幸福を実感するためには重要だ。しかし、金銭イコール裕福とは言えなくなってきていることを多くの人が感じている。

例えば人間関係というものは、金銭だけでは作れない側面がある。もちろん金銭で作れる人間関係も根強く存在するが、金銭的側面からの関係と人間性からの関係をバランスよく保つことが重要である。

そのような事と同じことは、ビジネス、技術、科学、文化にも言えるのではないだろうか?もちろん金銭的な重要性はいつの時代でも消えないだろう。しかし金銭的価値観がせめる割合は時代によって変わるものだ。今、過去の経済万能主義の社会からITの覇権を経て、その割合は揺れ戻している。そのことを一部の人は感じている。

「もの」から「こと」へ価値観が変化している現在、世界標準という一つの究極的な目標から、多様性を広げるというもう一つの究極的な目標へと世の中が変化していることを感じ取ることが求められているのではないだろうか?

意志・見解をはっきりさせる。

最近、情報や報道について考えることが多くなった。報道とは新聞、テレビなどをはじめ、最近ではネットメディアなども報道の一翼を担っていると考えられる。

報道をするに当たって、情報をどのように発信すべきか?情報を公式発表だけに頼って垂れ流しするだけなら、メディアなどはいらないはずだ。情報は受け取るだけではなく、探して入手することが重要である。そして入手した情報を基に、どのような意思・見解を表明するか?そこにメディアの本質があるのだと思う。

意志・見解は、人によってそれぞれ異なる。しかしそのような多様性が非常に重要なのである。賛成の意見があれば、反対の意見がある。政府寄りの意見があれば、反政府寄りの意見がある。最も怖いのは、意志・見解の内容ではなく、一方の意見を抹殺してしまうことだ。

意志・見解を示すことは、メディアだけではなく、個人にとっても非常に重要である。意志・見解を示すことによって、自分が何者かということが示される。それを保証するために言論の自由があるのである。

ただし、ネットなどで誹謗・中傷する自由があると言っているわけではない。反対することは自由であるが、誹謗・中傷は小学生レベルのいじめと変わらない低レベルの行為である。

世の中の荒波の中で「個」を示すためには、ある程度の大きな声を発することが必要だ。しかしそのような意思・見解という声を発することによって「個」が確立され、社会の中での自分のポジションが明確になるのである。

「好き」というだけでは乗り越えられない壁がある。

プロ野球選手のほとんどはおそらく野球が大好きで打ち込んでいるのだろうし、数学者や物理学者のほぼすべての人は数学や物理が大好きで研究に打ち込んでいる。その道を極めるためには、「好き」という思いは欠かせない。

しかし、その道を極めようとした時、「好き」という気持ちだけでは乗り越えられない壁に直面する。その壁を乗り越えるためには、忍耐もいるし、苦しい状況にも遭遇する。その壁を乗り越えられるかどうかが、プロとアマチュアの分け目になるのだと思う。

その壁を乗り越えるために必要なものの一つが「プロ意識」だろう。ここで言う「プロ意識」とは、何もお金をもらっているかどうかという意味ではない。何が何でもプロになってやるという覚悟とプライドだ。

プロを目指す人にとっての一つの目標は、その道でお金を稼ぐということだろう。もちろん、専門的な目標は人それぞれあるだろう。しかしプロとしての共通目標は、お金を稼ぐということだと思う。

一番大きな壁に直面するのは、プロになる直前、すなわちお金を稼げるようになる直前であることが多い。それまで「好き」という気持ちだけで進んで来たが、最後の壁を乗り越えようとするときにそれだけでは乗り越えられないことに気付く。しかし、そのことに気付いているということは、プロになる素養があるということだ。プロになれない人はそれにも気付かない。

人によっては、その壁を易々と乗り越えられるのかもしれない。しかしプロを目指す多くの人にとっては、それまでに身に付けてきた技術、知識、知恵の全てを投入してその壁を乗り越えるという課題を解決することになるだろう。

今、強くなりつつある。

今、僕は強くなりつつあることを実感している。僕には大きな目標があるし、その目標に近づきつつある。しかしその目標を達成するためには、自分が強く成り切らなければならない。

何を強くするのか?精神力、体力、知力など様々あるが、どれかという訳ではなく、全てにおいて強くならなければならない。そのためには、数理物理の研究、他分野の事について書かれた本の読書、そして筋トレ、あらゆることに当たって強くなることが必要だ。

好きなことに全力で取り組み、苦しいことにも全力で取り組む。役に立つものを吸収し、役に立たないものにも接触してみる。意外と役に立たないものが、後になって役に立つことがよくある。従って、近道ばかりしようとは思わず、遠回りして道草を食うことも必要である。

お金をむやみに使う必要はないが、ここぞと思う時には思い切ってお金を使うことも重要である。自分への投資は、最も意義のあるお金の使い方だ。

そして、貪欲さと禁欲さの両方を併せ持つことも重要だ。進むべき道へ貪欲に突き進む。そしてそのために抑えなければならないことには少し頑張って禁欲になる。貪欲と禁欲は相反することのように思えるが、実は相補的であったりする。

そのような事を続けて行くうちに、少しずつ進化し強くなっていくことを実感できるだろう。

僕は今は、強くなりつつある途中だが、近い将来に「強くなった」と胸を張って言える自分になることを目指しているし、なれると強く確信している。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

確率的思考。

例えば、企業が人材を採用する時に行う面接では、優秀と思われる人、あるいは人間関係を円滑に行い企業の利益に寄与できると思われる人を採用する。しかしあくまでも「思われる人」であり、確率的にその人の方が良いだろうと判断して採用することになる。しかし確率はあくまで確率であり、さらに言えば面接官の独断と偏見に基づくものであり、その確率自体も怪しいものである。

面接に限らず、世の中の判断というものは確率で決定されることが多い。それは民主主義とも密接な関係があるのだが、その一方、世の中の確率的判断の間をすり落ち、真の才能が埋もれてしまうことも多々あるだろう。

もちろん、そのような確率的判断が間違っているわけではない。確率とは多くの母数に対してコンスタントに威力を発揮するものなので、全体を見ればそのような確率的判断はかなりの利益を組織にもたらすであろう。

とは言え、現在の日本の気質から言えば、異端者すなわち出る杭は、打たれることが多い。皆と異質な部分があればそれを排除しようとするような気質がある。もちろんそのような気質も昔と比べればマシになったと思うが、それでもそのような気質は強く残っている。

日本での確率的思考とは、平均を算出することに全てを費やしているように思える。しかし本当にすべき確率的思考は、いかに確率良く最高のパフォーマンスを発揮するかということではないだろうか?しかし現在のような異質を排除するような気質の下では、それを実現するようなことはかなり厳しいと思われる。

迷ったら、やる!

ホリエモンと普通の人とは何が違うのか?その一番の違いは、迷った時に「やる」か「やらない」かの違いだと思う。もちろん才能うんぬんもあるとは思うが、そのようなことは二の次だと思う。

迷った時に「やる」という選択肢を選べるようになれば、かなり強力である。迷っている時に留まっている暇があれば、とにかく前に進めばよい。その結果失敗すれば、「失敗」という財産ができる。もちろん成功すればそれ以上言うことはない。すなわち、どちらに転んでも物事はポジティブな方向へと進むのだ。それならば、やるという選択肢しかないはずだ。

もちろんやみくもにやるのではなく、しっかりとした下準備は必要だ。しかし準備にこだわりすぎて前に進めないようでは、話にならない。進むべき方向にある物事についてしっかりと勉強をして、知識を付ける必要がある。そして実際に当たりながら「知恵」を付けて行けばよい。

大きな成功を成し遂げる人と、それができない人の差は、天才と凡人とかいうとてつもなく大きな差があるわけではない。その差は些細なものだ。しかしその些細な差が結果的に大きな差となって表れるのである。

迷ったら、やる!悩んでいる暇があれば、とりあえず前に進んでみよう。

人生の反撃。

人生には山があれば谷もある。もし谷が続いていれば、後は登るしかないのだから、目の前には山しかないのである。谷がずっと続くように感じる時というのは、多くの場合次の山が登れない状態であることが多い。すなわち、谷にいる時に地力を付ける必要がある。谷にいる時にどう過ごすかが成功の鍵なのである。

今僕は、人生の反撃を始めている。表面的には反撃を始めたところであるが、突然思い立って反撃を始めた訳ではなく、その伏線は二十年以上前から始まっている。非常に苦しい時も、意識を途切れさせることなく高いレベルで保っていてこそ、その気運になった時に強い反撃ができるのだと感じている。

もちろん、その反撃が成功するという保証は何もないかもしれない。外から見ていれば根拠は見当たらない。しかし自分の精神的な内面は自分にしかわからないのだから、自分だけが根拠を理解していればそれで十分なのである。周りには根拠を示すのではなく、結果で示すべきである。

僕の一番の武器は書物であり、紙とペンである。今までは書物の比重が大きかったが、何かを書き込むためには紙とペンが必要である。紙とペンをフルに駆使して徹底的に攻撃をかけて行こう!

「小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えない。」

これは、坂本龍馬をテーマとした深夜番組で黒鉄ヒロシが言っていた言葉だ。

今、日本国内だけではなく、世界が小さな正義で溢れ返っている。もちろん市民一人ひとりにとっては身近な出来事、身近な小さな問題に悩みを抱えるのは当然のことだが、一国の長であるような人物が小さな正義にこだわっているようでは話にならない。

学問においては、「小さな問題にこだわる人は、大きな問題が見えない」と言い換えることができるかもしれない。とは言え、学問の場合には、小さな問題の積み重ねの基に大きな問題が成り立っているという側面がある。なので、大きな問題を解くためには、小さな問題が解けることが前提となっている。しかしそれだけでなく、大きな問題を解くためには、物事の本質を捉えることが必須となる。

これらの言葉は広くとらえると、「近視眼的にしか物事を捉えられない人は、大局的に物事を見れない」と言うことができるであろう。坂本龍馬はまさしく大局的に物事を捉える達人であった。それに一つ加えると、龍馬は常にリスクを取り続けていたと言える。「命」というリスクを。

今、社会では様々なことが問題になっているが、そのようなことが大きな社会問題になっているのは、小さな正義にこだわっているということが理由の一つかもしれない。現在の問題も、十年、百年単位のスパンで考え直すことが必要ではないかと強く感じる。

「人間が人間を殺す」とはどういうことか?原爆・終戦の8月。

毎年8月になると、日本では原爆投下、そして終戦が話題になる。もちろんこのことを毎年話題にするのは非常に意味のある重要な事で、もしこれが話題にならないようになれば、意識的に非常に危険な状態だと言える。

原爆に限ったことではないが、戦争とは言うまでもなく「人間が人間を殺す」行為である。自然界でも同種で殺し合うことはたまに見られるが、人間のようにお互いを無差別に大量虐殺するようなことは人間以外では見られない。

近年は世界的に人道支援の輪が広がり、それにつぎ込まれる資金も大きくなっている。しかし軍事費用はそれらの比でないくらい巨額だ。すなわち人間は、お互いを助け合うと言いながら矛盾した行為を行っているのである。

しかし最近、人間が人間を殺し合うよりも恐ろしいことが始まっている。それは「機械が人間を殺す」ことだ。例えば無人のドローンが人間を銃で狙撃するということが始まっている。そこにAIが関われば、アルゴリズムによって人間の意志とは関係なしに殺りくが行われることになる。

これまでの戦争は人間によって行われていたという点では、人間が罪悪感を感じ、逆に平和へと舵を切ろうという機運を作るきっかけともなった。しかしアルゴリズムによって殺りくが行われば、そこには効率化という概念しかなくなる。

長崎での原爆投下の式典では、安倍首相は核廃絶には一切言及せず、それどころか核保有国と非核保有国との関係を取り持つという趣旨のことを発言するという、考えられないスピーチを行った。言うまでもなく日本は世界で唯一の核被爆国であり、日本から発せられる核に対する発言は他の国とは重みが違う。だからこそ核に対して日本にしか言えないことがある。しかし安倍首相はそれを自ら放棄したのである。

トランプ大統領はアメリカファーストだと言われている。しかしそれはある意味アメリカ大統領として当然の事だといえる。そして安倍首相もある意味日本ファーストと言えるかもしれない。しかし安倍首相の核抑止力に対する日本ファーストは何とも気味が悪いものである。

昨今、北朝鮮の金正恩氏でさえ核放棄を口にしている(どこまで実効性があるかわからないが)。しかし安倍首相は核の存在を肯定しようという方向性を示しているといえる。このままではいつか、8月になっても原爆が話題にならない時が来てしまうような気がする。

ITを思想として捉える。

ITと言えば、現在ではどうしてもビジネスという側面で見てしまう人が多い。特に世界の富豪の上位はことごとくIT企業関連者だ。日本で見ても、孫正義氏からホリエモン、さらに最近話題の前澤友作氏まで、IT関連の人間が幅広く活躍している。

しかし、そのようなIT関連の人間の中でも異色の人物が、MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏ではないだろうか?

最近、伊藤穣一氏の著書「教養としてのテクノロジー」(NHK出版新書)を読んだ。この本の何がユニークかと言うと、ITをビジネスではなく思想という観点から捉えているところだ。もちろん伊藤氏は、ITを使ったビジネスでも大きな成果を挙げてきたし、高度な技術も持ち合わせている。しかし伊藤氏の姿勢の特徴的なところは、ITを使っていかにして市民を豊かにするか、そしていかにして自由になるか、ということを追求しているところだ。

伊藤氏が所長を務めているMITメディアラボは、利害関係からは一線を画している。そのため、中立な立場でITの可能性を追求し提言することができる。そして反権力的な立場をとっているところも特徴的だろう。

ビジネスからは距離を置いている一方、ITを使った未来への探究に関しては非常に前衛的だ。もちろん民間のIT企業も未来への開拓は精力的に行っている。しかしビジネスからは距離を置いているMITメディアラボの取り組みはそれらの企業の取り組みとは毛色が違う。未来に関して悲観的でも楽観的でもなく前向きだと言えるだろう。

ITを使った金儲けに関する本は山ほど出ている。しかし伊藤氏の著書のようなITを思想と捉えている本は僕は他に見たことがない。新書なので専門知識がない人も手にとって気軽に読める本となっているが、この本を読んで得るところは非常に大きいと感じた。

責任者とは?

組織やプロジェクトには責任者がいる。責任者とは文字通り責任を伴った者であるが、そもそも責任者にはどのような権限があり、どのような責任を伴った者なのか?

責任者とは何か不手際やスキャンダルが生じた時、責任を取るものだと考えられている。しかしもしその責任者にその組織を動かしたりプロジェクトを一元的に動かす権限がなければ、なぜその人に責任だけ負わせるのか?ということになる。すなわち責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限が付与されてこそ、責任者という地位が成り立つのである。

責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限があると、責任者はそれを上手く成功させようとコントロールできる。すなわち失敗やスキャンダルを防ぐようにコントロールすることもできるのである。そのうえで不手際やスキャンダルが生じれば明らかに責任者の責任である。

しかし世の中には「名ばかり責任者」が多すぎるように感じる。特に本当に権限を持つ者が責任を逃れるために、名ばかり責任者に責任だけ負わせるという構図が多くの組織に見られる。

大きな権限と責任は一体となって運用されなければならない。権限だけでは独裁者になるし、責任だけでは名ばかり責任者になってしまう。権限と責任の双方を持ち合わせないと、組織やプロジェクトの大きな成功と発展は望めない。