投稿者「木原 康明」のアーカイブ

やるなら徹底的に、プロレベルを目指して!

僕はかなり多趣味だ。しかし“趣味”という言葉はあまり好きではない。なぜなら、興味を持ったことは徹底的に極めて、趣味の域を超えることを心がけているからだ。もちろん、専門外のことを極めたところでプロレベルになるのは難しい。というよりまず不可能だ。しかしそこまで行かなくても、趣味の域を超えるくらいの事はできる。

例えば、山中伸弥教授のiPS細胞に対して興味を持ったとする。そこで山中教授の書いた一般向けの本やiPS細胞の解説書を読めば、おおよその事は分かるであろう。しかしそこを一歩越えて山中教授の原論文を読むところまで踏み込んでみたい。山中教授のiPS細胞発見の原論文(英文)はネットで簡単に手に入る。実際僕もこの原論文をプリントアウトした。しっかりと読めたかどうかは非常に怪しいが。

「広く浅く」か?「狭く深く」か?という問いはいろんなところで問われる。しかし欲を言えばその両方に挑戦したいものである。専門の事に関しては徹底的に深く、そして専門以外の事に関してもそれなりの深さで広く、というふうに。軸足をしっかりと持ちつつも、あらゆるところに触手を伸ばせるフットワークの軽さを身に付けたいものである。

目指すところは「多趣味の専門家」というところであろうか?僕の場合、数理物理という専門に関しては徹底的に深く、かつ荒野を切り開き新しい知見を確立していく。そして専門外の生物学や哲学、さらには興味のある時計やスーツに至るファッションまで、広く突き詰めていきたいと思っている。

少し欲張りかも知れないが、欲張りでないと物事は追究できないし、欲張りなくらいがちょうどいいと思っている。

目には見えない自然則。

科学研究とは根本的には「自然則を見出す」ということに尽きる。自然則とは科学の根本的原理の事で、ニュートンの運動方程式や一般相対性理論のアインシュタイン方程式がこれに当たるだろう。さらに言えば、光速度不変の原理などはさらに根本的な自然則になる。

自然則の確固たる定義はない。なのでそれぞれの科学者がどこを土台に置くかによってそれは変わる。意識の科学研究においては客観的現象と主観的な意識の現象を結び付ける原理が自然則になる。

自然側は自然現象を高度に抽象化したものであるので、目には見えない。この「目には見えない」ものを見るのが科学者の腕の見せ所である。当たり前のことであるが、物体の運動が見えても、自然則が見えるわけではない。しかしそれを抽象的に抽出して数式として表現するのが科学者の仕事である。

科学研究においてはかなりセンスが問われる。ただ新しいことを発見すればそれでいいのか?もちろんそれも広義の意味での科学といえる。しかし現象を支配する原理を探究するのが科学というのならば、科学とは言えないことを研究している科学者は非常に多い。そんな科学界に一石を投じることができるような研究を行うことができるかどうか?科学者としてのセンスと力量が問われるところである。

自分との戦い。

生きていれば、悩みを抱えることも多々ある。僕も色々な事でしばしば悩むことがある。そして時には周りの環境が悪いのではないかと考えることもあるが、冷静になって考えれば問題の本質は自分にあることに気付く。

他人との戦いならば、努力して勝っていくということができる。しかし自分との戦いは、自分の精神力を強くするということでしか克服できない。精神力を強くすることは簡単な事ではないし、さらにエンドレスでもある。

以前、ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーが話題になった。スポーツではメンタル面の微妙な変化が結果に大きく関わることが少なくない。日本代表ともなると、技術も体力も、さらにはメンタルにおいても頂点を極めることが求められるのでなおさらだ。このようなスポーツ選手ほどではないにしろ、我々一般市民も様々な局面でメンタルが強くあることを求められる。

ラグビー日本代表の専属メンタルトレーナーは、メンタルはトレーニングによって強化できると言っている、しかし具体的に何をすればメンタルが強くなれるかというノウハウは我々素人には分かりづらいが、自分自身で試行錯誤することによってある程度の所までは作り上げることができる。そして一番重要なのが、“自分で”というところである。

自分との戦いはエンドレスに死ぬまで続くのかもしれない。死ぬまで学び続け、死ぬまで考え続ける。この様な事を当たり前にできるメンタルの強さが大きく成功するためには一番重要なのかもしれない。

脳は緻密で曖昧だ。

最近、「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)という本を読んだ。意識とはこれまで心理学などの非科学的分野の範疇を出なかったが、最近、意識とは何かということを科学的に定義し、科学的に解明するような研究が行われているようだ。

そもそも意識とはこれまで非常に捉えどころのないものであり、厳密に定義することさえ難しいものであった。しかし、まずは意識とは何かということを定義しなければ解析することもできない。そこに意識を科学することの難しさがある。

著者の渡辺博士は、意識の科学を「一人称の科学」と表現している。これまでの科学は、人間が自然を実験、観測するという意味で「三人称の科学」であった。しかし意識の科学に踏み込んで、科学者は初めて一人称の科学というものに遭遇した。意識を科学することの難しさは、この「一人称」であることに由来する。

僕はこれまで、実験科学というものに縁がなかった。数学や理論物理という理論系の科学にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は科学実験の難しさを強く示唆するものであった。

この本にも書かれているように、人間の脳に電極などを差し込んで実験することには限界がある。というより、倫理的に無理な話である。そのような困難をどう掻い潜るかという挑戦が書かれているのも、この本の見どころである。

そして、意識というものを解明することは、近年のコンピューターの発展と連動するものである。人間の脳は一種のコンピューターともみなせるからだ。さらにこれからのコンピューター科学の発展において、脳の機能、意識の本質と無縁でいることはできない。

この本は非常に挑戦的で革命的な本である。著者の渡辺博士は、自身の意識を機械に移植することが夢だと書いている。そのようなコンピューターに対する前衛的な期待が、これらの意識研究を前進させる原動力になっているのかもしれない。

この著書は、最先端の科学を理解したいと思う人には非常にエキサイティングな本であるし、コンピューター科学技術に関わる人にとっても非常に得るものがある一冊となっている。

経験から学ぶこと。

僕自身ははっきり言って経験豊富とは言えない。しかし最近、これまではあまりしなかったことを経験し、やはり経験は大事だなと実感している。

しかし経験はそれだけでは、単なる経験でしかない。経験を基に学び、考えることが重要なのである。それは仕事でも学問でも同じだ。考えることによって経験が昇華するのである。

苦しいことを避けるのは誰にでも出来るが、そこをあえて自分から買って出るのも手だ。自分から買って出ることによって、それだけ経験が増える。僕は最近はあえて苦しいこと、力のいることを買って出ることを心がけている。

自分の専門とは全く違う他分野の事において様々な経験をすることによって、それらの経験は専門分野でも生きてくる。特に他分野において苦しく忍耐のいることを経験した後では、精神力も強くなり、専門分野においても力を発揮することができる。

今僕は、数理物理の研究に力を注ぎこんでいる。とは言え、僕の精神力はあまり強くないということも認識している。少しでも強くなり、研究においても全力で力を発揮するためにはどうすればよいか?今はいろいろと試行錯誤している途上である。

正しいことを、正しいと言うために。

正しいことを、正しいと言うのはなかなか難しい。世の中の風潮や常識にとらわれて、ついそれに沿うように話を進めてしまう。世の中の常識には、正しいものはもちろんたくさんあるが、おかしなものもたくさんある。それらに対して自分の思考によって、正しいか間違っているかを判断することが大事である。

僕も、本当は間違っていると思うことを相手に合わして流してしまうこともある。正しいことを正しいと言うことは、エネルギーもいるし、勇気もいる。当たり前のことでさえ正直に言えない。

相手の言うことが正しい時、素直に正しいと言える心も大事である。つい意地になって、相手の言うことに対して反抗したくなる時がある。自分が主張すべきことは主張して、相手を認めるべきことは認めるという、正確な評価が重要である。

ある事柄が正しいか間違っているかを判断する時、当たり前ではあるが自分で考えて判断することが重要である。しかし、この当たり前のことができない人が多すぎる。特にネット社会になった現代において、それらの判断をネット検索に頼って調べるということが頻繁に起きている。それらの人は、人間を信じずにネットを信じているのである。しかしネットに載っている事柄も元はと言えば人間が書き込んだものである。しかしネットを完全に信じている人は、人間を見ずにコンピューターが絶対だと信じ込んでいる。コンピューターの先にある人間の姿まで見えていないのである。

正しいことを正しいと言えるかどうかは、学生時代の学校での生き方に強く表れているように思う。学生時代に、自分で物事を判断せずに学校の校則を絶対だと思い、教師には完全に従う。そのような生き方を経てきた人たちには自分で物事を考えるということは難しいのではないかと感じる。

しかし、物事を考えることに遅いということは全くない。大人になってからでも自分で物事を考えるという習慣を身に付けることは非常に意義のあることだと思う。

上を向いて笑おう!

物事に対して、楽観過ぎるのは良くないし、悲観過ぎるのも良くない。大事なのは物事を正確に評価することだ。しかしあえて言うと多少楽観的な方が良いかもしれない。

物事を正確に評価するというのはなかなか難しい。悲観的に物事を捉えてしまうと保険を掛けることに走ってしまう。そのように保険を掛け過ぎると身動きが取れなくなる。そして結果的に自由を失うことになってしまう。

物事を創造的にとらえるためには、精神的に自由であることと、行動的に自由であることが重要になる。自由な精神で作り上げた発想を、行動の自由で創造していく。このことは科学の研究に対しても言える。

そのような自由な精神と行動を作り上げるためにはどうすればいいか?それはある程度の楽観性と人間的な明るさを持つことである。確かに精神的に追い込み、苦しくなる時もあると思う。しかし基本は楽観的で明るくないといけない。悲観的であることは自分に対しても周りの人に対しても良くないし、得なことはあまりない。

ビジネスなどにおいては、最悪のケースを想定して、それに対して対策を立てることが重要だとよく言われる。それは確かに間違ってはいないが、そのような世界であっても、人間的には楽観的に明るくないといけないと思う。矛盾するようだが、楽観的でないと最悪のケースに備えることはできない。

もし自分が悲観的になりすぎていると感じているときは、一歩前へ進んで上を向いて笑うことを心がけてみよう。

(科学に対する)思想はあるから、技術を付ける。

人間が生きていくにあたって、思想を持つことは重要だ。しかし思想だけでは物事は動かない。具体的な技術を身に付けることが必要である。

世界の多くの人は、世界が平和になることを望んでいる。それも一種の思想と言える。しかし思っているだけでは世の中は動かない。一人一人がアクションを起こすことが求められるのである。確かに市民一人のアクションの割合は、全世界人口から考えれば小さいかもしれない。しかし民主主義社会では選挙というアクションを通じて市民が意思表示をすることができる。大きな波も小さな部分から成り立っていることを忘れてはならない。

もちろん、首相や大統領には大きな権力がある。だからこそそれらの人物には、思想だけではなく強く巧みな技術で世の中を動かすことが求められる。

かのアインシュタインが相対性理論を発見した時に、ある哲学者は「自分は相対主義者だから、自分に数学的知識があれば自分が相対性理論を発見したであろう」と言ったという。しかしその哲学者は何も生み出していない。相対主義者などということは相対論を生み出す思想でも何でもないが、百歩譲ってそれが思想だと認めるとしても、肝心な技術(数学)が全くなかったわけである。科学を含め、物事を生み出すには思想と技術は双璧なのである。

僕は今、数理物理の研究において成し遂げようとしていることがある。それに対してのフレームワーク(思想から導き出される物理学的骨格)はほぼ明確に出来上がっている。そのフレームワークに肉付けするための技術(数学)を埋めていかなければならない。自然(科学)を理解するためにも思想と技術は重要なのである。

もし自分に思想があるというのならば技術を身に付けなければならないし、逆に技術があるのならば思想という大局観を身に付けなければならない。そして思想という大局観と具体的技術の双方を極めた時、目標とする構築物を完成させることができる。

世界標準にする必要はない。

現在は、ビジネスにおいても技術においても、世界標準へという覇権争いが熾烈になっている。もしかしたら文化もそうかもしれない。とにかくスケールがものを言う世界になっている。

しかし、日本という国は決して大きくない。もちろんネットで全世界がつながっている現在、日本に居ながら世界スケールで物事を進めることも可能になっている。しかしそのような現代だからこそ、スケール以外の価値観を見つけることが重要になってきているのではないかと感じる。

現在、資本主義的価値観は行き詰っているように思える。一昔前までなら、経済的裕福が人生の裕福に直接つながっていた。もちろん現在でも金銭的に不自由なく暮らすことは、幸福を実感するためには重要だ。しかし、金銭イコール裕福とは言えなくなってきていることを多くの人が感じている。

例えば人間関係というものは、金銭だけでは作れない側面がある。もちろん金銭で作れる人間関係も根強く存在するが、金銭的側面からの関係と人間性からの関係をバランスよく保つことが重要である。

そのような事と同じことは、ビジネス、技術、科学、文化にも言えるのではないだろうか?もちろん金銭的な重要性はいつの時代でも消えないだろう。しかし金銭的価値観がせめる割合は時代によって変わるものだ。今、過去の経済万能主義の社会からITの覇権を経て、その割合は揺れ戻している。そのことを一部の人は感じている。

「もの」から「こと」へ価値観が変化している現在、世界標準という一つの究極的な目標から、多様性を広げるというもう一つの究極的な目標へと世の中が変化していることを感じ取ることが求められているのではないだろうか?

意志・見解をはっきりさせる。

最近、情報や報道について考えることが多くなった。報道とは新聞、テレビなどをはじめ、最近ではネットメディアなども報道の一翼を担っていると考えられる。

報道をするに当たって、情報をどのように発信すべきか?情報を公式発表だけに頼って垂れ流しするだけなら、メディアなどはいらないはずだ。情報は受け取るだけではなく、探して入手することが重要である。そして入手した情報を基に、どのような意思・見解を表明するか?そこにメディアの本質があるのだと思う。

意志・見解は、人によってそれぞれ異なる。しかしそのような多様性が非常に重要なのである。賛成の意見があれば、反対の意見がある。政府寄りの意見があれば、反政府寄りの意見がある。最も怖いのは、意志・見解の内容ではなく、一方の意見を抹殺してしまうことだ。

意志・見解を示すことは、メディアだけではなく、個人にとっても非常に重要である。意志・見解を示すことによって、自分が何者かということが示される。それを保証するために言論の自由があるのである。

ただし、ネットなどで誹謗・中傷する自由があると言っているわけではない。反対することは自由であるが、誹謗・中傷は小学生レベルのいじめと変わらない低レベルの行為である。

世の中の荒波の中で「個」を示すためには、ある程度の大きな声を発することが必要だ。しかしそのような意思・見解という声を発することによって「個」が確立され、社会の中での自分のポジションが明確になるのである。