投稿者「木原 康明」のアーカイブ

自分の調子を制御する。

自分の体調、自分の思考の調子、自分では知っているようで意外と把握していないことも多い。

毎日最高の調子で過ごしたいが、調子の波はどうしても避けられない。ならば、波の低い部分をできるだけ抑えて、高い部分はできるだけ高くもっていかなければならない。すなわち、自分の調子を制御するということだ。そのためには、毎日毎日試行錯誤。わかったと思っても、次にはそれが通用しないことも。

調子を制御するためには我慢も必要だ。例えば断酒したり、精神的健康を得るために筋トレなど体から整えることも有用だ。

明日調子よく過ごすために、前日から自分を制御して頭と体を整えておかなければならない。

電気自動車(EV)は、本当に環境に優しいのか?

現在、自動車を取り巻く環境が劇的に変わっている。ガソリン車から電気自動車(EV)へと急激に移行しているのだ。

そもそもの発端は、フォルックスワーゲン(VW)による、ディーゼル排ガス不正問題。もちろん理由はこれだけではなく複合的要因があるが、排ガス不正問題はEVへの口火を切ることになった。

排ガスを出すガソリン車に比べて、EVは排ガスゼロで環境に優しいと言われている。しかしちょっと待て。EVに使用される電気は、もともとは発電所で作られたものではないか。ということは、発電所で排出される排ガスを考慮して比較しなければいけないのではないか?EVを排ガスゼロというのはフェアではない。

最近はガソリン車でも、ハイブリッド(HV)など劇的に燃費の良い車も出てきている。これらの排ガスと、EVで使われる電気の(火力発電所などによる)発電排ガスと比較するとどうなのだろうか?

もちろん、エネルギーは分散して作るより大規模に集中して作る方がエネルギー効率が良いと言われている。なので、EVの方が圧倒的に環境に優しく効率的である可能性は高い。

しかしEVは、

燃料→電気→動力、

と二回変換しているのに対し、ガソリン車は、

燃料→動力、

と一回の変換で済む。変換が少ない方が効率が良いのは明らかだ。

本当にEVは環境に優しいのか?一度数値的な検証をすることが必要ではないか。

安倍改造内閣に想う。

8月3日、安倍首相が内閣改造を行った。メディアの評判は、「目新しさがない」とか「閣僚経験者が多すぎる」など、保守的な姿勢を批判するものが多かった。

しかし僕は、今回の改造は特に悪いものではないと思っている。とは言え、現段階では「良い」とも言えないのが事実だ。

安倍首相は、今回の改造内閣を「仕事人内閣」と呼んでいる。確かにそんな目で見ると、(先入観からか?)仕事人の集まりのように見えなくもない。

都議選での自民惨敗により、にわかに次期自民党総裁・次期首相をめぐる動きが水面下で進んでいる。野田聖子・総務大臣は、次の総裁選出馬に関して前向きに考えているとの発言がある。しかし、何と言っても注目は、石破茂氏であろう。水月会(石破派)を二年前に立ち上げ、入閣要請を拒み虎視眈々と次期総裁の座を狙う姿は、3期目を目指す安倍首相には不気味に映るであろう。

今回の仕事人内閣、安倍氏は「結果本位の」と付け加えている。実際にしっかりと結果を出してもらえば、内閣支持率もしっかりと向上するであろうし、安倍氏の政治手腕には見るべきものがあると常々感じている僕自身も、「結果を出す内閣」になることを期待している。

地球外生命(宇宙人?)を探すのに、地球的惑星にこだわる必要はない。

宇宙人は100%存在する。なぜなら、我々地球人自身が宇宙人であるからである。この意味は、例えば他の星に知的生命体がいれば、その生命体から見れば地球人のことを宇宙人と呼ぶことからわかるであろう。

最近、地球外生命体を探すプロジェクトが盛んだ。では果たして、地球外生命体は存在するのか?科学的思考のできる人間なら、「99%存在する」と答えるであろう。

ところが、この地球外生命体の探索方法に、僕は一つの疑問を抱いている。それは、「地球と似た惑星でないと、生命体は存在しない」という先入観を持っていることだ。だから、生命体の探索の第一段階は、地球と似た惑星を探すことから始まる。

しかし僕は、生命体を探索するにあたって、地球的惑星にこだわる必要はないのではないかと考えている。その理由は、まず地球上の生命を見ても、極限状態で生きている生命が多いことだ。なぜなら、生命は生息状態に適応していくからだ。この様に極限状態で生命が生息していることを考えると、何も地球上と似た環境にこだわる必要はない。

ただ、地球的惑星にこだわる理由もないわけではない。それは「生命誕生の瞬間は、地球的環境でないと起こらないのではないか?」ということである。ただこれも、地球的環境に限定されるものではないかもしれない。

そもそも地球外生命体が、「手が二本、頭に脳があって」などという形を取っている可能性はかなり低い。同様に、「地球的環境でないと存在できない」というのも、地球人の先入観でしかないように思える。

ただし、探査の初段階として、地球的惑星にターゲットを絞るのは有用である。しかし、「極限的惑星にも生命体は十分に存在し得る」ということを念頭に置いた方がいい。

民進党・代表選に注目だ!

ブログでは、どちらかと言うと民進党に批判的な記事を書くことが多かったが、次回の民進党・代表選に関しては、非常に期待を抱いている。今のところ、前原誠司・元外相と枝野幸男・元官房長官が立候補を表明しているが(8月3日現在)、この二人に対しては非常に頼もしい気持ちを抱いている。

枝野氏は東日本大震災時の官房長官で、原発事故で総理が混迷する中、的確に働きハードワークする姿に、「エダる」という言葉も生まれた。

前原氏は外相としての特筆すべき実績は特に言及されないが(とは言え、もちろん大臣としての実績は多々ある)、人間性と政治手腕は非常に期待が大きい人物でもある。

官房長官と外相という要職をこなした二人だが、代表になれば党のトップとしてリーダーシップを発揮しなければならない。そこで大きく求められるのが「大局観」だ。前代表の蓮舫氏にはこれが決定的に欠けており、場当たり的なスキャンダル追及に明け暮れていた。

枝野氏・前原氏の二人に関しては、どちらが代表になってもしっかり勤め上げると思うが(もちろん実際になってみないとわからないが)、今の民進党に必要なのは「ウルトラC」ではなく、「小さなことからコツコツと実績を積んで国民の信頼を得ていくこと」だ。この二人なら、それが可能だと僕は思っている。

孤独がいい。

僕は集団行動が苦手だ。もしかしたら嫌いなのかもしれない。基本は独りで行動するのがいい。だから普段は自分一人で考えて行動している。とは言え、もちろん常に一人でいるわけではないが、集団の中にいると、息苦しい。

「みんな仲良く」とか、「力を合わせて」とかよく言われるが、そういうのも大嫌いだ。

日本人は協調性が高いと言われる。しかしその反面、日本人は独りで行動するのが苦手のように感じる。日本人は孤独をネガティブにとらえる人が多いが、僕は「孤独ってものは、なかなかいい」と感じている。

集団の中で協調性をとり、それでいて個人でも上手く行動できる、というのが理想なのかもしれない。しかしその両者を上手く使い分けられる人は多くない。ならば、片方だけでも最高に上手く持っていきたいものである。

それは、僕の場合は、最高の「孤独力」を身に付ける、ということかもしれない。

「昔」と「今」の境目。

昔、神戸市内を走っていた神戸市電に関する記事を見た(神戸新聞NEXT)。1971年に廃止されるまで、神戸市内を神戸市電が縦横無尽に走っていた。そして廃止から6年後、神戸市営地下鉄が開通した。その間たった6年だが、僕にはこの間に断層が走っている。断層とは、僕が生まれた1976年のことだ。

僕にとって、神戸市営地下鉄が走っているのは明らかに「今」であり、神戸市電が走っていたのははるかかなたの「昔」である。その差たった6年なのに。

やはり誰でも、生まれる前というのは”昔”であり、生まれた時から”今”が始まるのではないか。

僕が生まれたのは1976年。そこから数えると、第二次大戦終戦は31年前である。僕が生きてきた年月よりも短い!第二次大戦とは、そんな近い過去に起きていたのかと驚いてしまう。

生まれる前の第二次大戦は昔だが、実際神戸で体験した阪神大震災は、大学受験真っ最中の時期であり、今も今である。しかしその後に生まれた人にとっては、阪神大震災もはるかかなたの昔なのであろう。まさしくジェネレーションギャップである。

「今を生きる」とよく言うが、正確には「生きているのが今」というのが正しいのかもしれない。

「何をすればいいか?」を自分の頭で考えることが大切だ。

ここ近年、ハウツー本や自己啓発本がブームだ。しかし、それらの本を読んで実行した人はどれだけいるだろうか?ゼロとは言わないが、ほとんどいないだろう。なぜそれらの本を読んでも実行できないのか?それは自分の頭で考えた結論ではないからだ。

どうすれば上手くいくか?どうすれば向上するか?それらの手法ばかり目が行く人が多いが、本当に重要なのは、「どうすべきか?」を自分の頭で考えて導き出すことだ。

自己啓発本には威勢のいいことばかり並べられているが、それらをどう考えて導き出すか、ということはほとんど書かれていない。結論ばかり並べられて、道筋が書かれていないのだ。

そのような結論が書かれた本ではなく、思考を深めるための中身の濃い書物を手に取ってみよう。そして、自分の頭で考えることを心がけることが大切だ。

知る権利?

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」(2015年出版)について、購入を控えた神戸市立中央図書館に関する記事(神戸新聞NEXT)を見た。

この加害者による手記に関しては、様々な問題があると思うが、「プライバシーと知る権利のバランスをどう図るか」というのが一番の争点だと思う。

最近は「知る権利」という言葉がよく出されるが、この加害者の手記に関しておかしいのは、被害者のプライバシーに関しては公にされて、加害者に関しては名前が明らかにされていない(当時は加害者は少年だったため名前が公開されず、この手記の著者名も”元少年A”となっている)ことだ。事件当時、少年だった加害者の名前が伏せられるのは法に則ったものだが、手記を出版するにあたって知る権利が叫ばれる中、著者名だけが伏せられているのは明らかに矛盾している。

この著書に限らず、最近世の中のあらゆるところで知る権利が無差別に主張されていることには、疑問を感じてしまう。そもそも知る権利とは、「公的情報に関して市民が知る権利がある」という趣旨がメインだったはずだが、今では個人のプライバシーまで知る権利を押し付けられようとしている。

知る権利があるなら、「知られない権利」もあるはずだ。知る権利が法で定められていると主張するなら、そもそも法をしっかりと勉強しなければいけない(僕自身も法に詳しいわけではないので、あまり強く言えないが)。中身を吟味せずに”知る権利”という法のタイトルだけを用いて主張を押し付けるのは、明らかに間違っている。

社会的に汚い存在ということと、人間的に汚いということは、全く違う。

社会的評価というものは、自分の意図しないところで作られることが多い。いくら品行良く生きていても、周りの評価はそれに比例しない。最近、投資家の村上世彰氏を見ていてそう思った。

社会的評価と人間性は別物だ。村上世彰氏や、あるいはホリエモンもそうかもしれない。社会的立場にある人間は、表舞台にさらされている分、一挙手一投足によって社会的評価が左右される。時には前衛的でありすぎるが故に、刑務所に入れられてしまうことがある。本人は潔白であっても、社会的には汚い存在とされてしまう。

社会的評価というものは、社会の気まぐれであるので、社会的評価を気にしすぎる必要はない。別に社会的に汚い人間でもいいではないかと思う。自分が一人の人間として信じる道を歩けばいい。周りは周り、自分は自分と思えばいい。社会的評価を気にしすぎると、自分を縛り付けてしまうだけだ。

周りから汚いと思われようがどうでもいい。むしろある程度汚い方が生きやすいし、潔癖な人間よりもむしろ健全かもしれない。周りに合わせるのではなく、前衛的に道を切り開くことが大事だ。自分に自信を持って、信じる道を貫くことが大事だ。