投稿者「木原 康明」のアーカイブ

終戦記念日で想う、戦争放棄と防衛。

今年の8月15日、終戦72年を迎えた。全国戦没者追悼式での天皇陛下お言葉、及び安倍首相の言葉は、改めて戦禍を再び繰り返さないとの意思表示を述べるもので、日本の戦争放棄の基礎方針を確認された。

ところで現在の防衛政策での主眼の一つは、明らかに北朝鮮問題であろう。もちろん長い目で見れば、中国の脅威も見逃せない。しかし現時点だけを考えると、北朝鮮のミサイル問題は切羽詰った緊急問題である。

戦争放棄と防衛、この二つは決して分離して考えられるものではなく、密接につながっている。防衛には大きく積極的防衛と消極的防衛がある。積極的防衛は敵の攻撃に対して先手を打って、敵の攻撃拠点を狙うということだろう。消極的防衛はあくまで敵が直接攻撃したものに対してだけ防衛するというものだ。

積極的防衛はもちろん戦争放棄に反する可能性が高い。しかし自国防衛のためには積極的防衛という選択肢も念頭に入れなければならない。これらのことを否定して被害が大きくなれば、元も子もない。

しかし、積極的防衛を盾に戦争を開始してしまうということも否定できない。この様なことは断じて許されない。過去の戦争のほとんどは、防衛を名目に戦火の口火が切られている。

戦争放棄と防衛の定義をしっかりと定め、戦争を起こさないで解決するにはどのようにするのが最善策か?という最善手を常に模索していくことが要求される。このことは、政治家だけの仕事ではない。国民の意識にも大きく影響されるため、国民一人一人が常に関心を向けることが必要になる。決して無関心になってはいけない。

差別と区別を混同するな!

アメリカで、差別主義者と反差別主義者の対立デモ集会の人ごみに車が突っ込み、一人の女性が亡くなったというニュースがあった。差別主義者の独善的行動は許されるべきものではないし、特に出時の違いによる差別は決して許されるものではない。

ところで話は変わるが、世の中には差別と区別の違いを認識していない人が多いように思う。簡潔に言うと、差別とは上下に分ける事、区別は横に分けることである。

例えば、学校の名簿で男子が先に並んでおり、女子の名前がその後に並ぶ。これは区別か差別か?一見上下に分けているように思えるが、これは区別である。この並びは何ら優劣を指定すべきものではないからだ。もしこれが差別だというのならば、男子の列の中でも順番によって差別されていることになる。このような事例のように、見かけに騙されてはならない。

区別を差別だと批判されることが多くなり、何かとやりにくい世の中になってしまっている。区別と差別の違いくらいはしっかりと認識できる思考を持ってもらいたいものだ。

とは言え、差別主義は時代と逆行するものであり、また時代云々ということを別にしても決して許されない。

蓮舫氏の一番の業績。

僕はこれまで蓮舫氏にはかなり批判的なスタンスをとってきたが、蓮舫氏の業績について一つだけ大きく評価していることがある。

それは、民主党政権下で行われた「事業仕分け」での、スーパーコンピューター開発費を巡っての発言、「2位じゃダメなんでしょうか?」だ。

なぜこの発言を評価しているかというと、この発言により「科学というものは1位でないと意味がない」ということを、広く国民に認識させたからだ。

科学というものは、1位だけが100%の実績を得る世界だ。科学(サイエンス)では、二番煎じ、三番煎じには全く価値はない。

もちろん、ビジネスに関わる科学技術(テクノロジー)では少し事情は変わる。三番煎じでも、量産化技術に成功するなどして利益を上げれば、ビジネス的には大きく評価されるだろう。だから技術開発で二番煎じ・三番煎じで突破口を開くことはよくあることだ。

しかし、科学(サイエンス)では、皆、一番乗りを目指して切磋琢磨している。例え小さくても1番煎じが評価されるのだ。

狙いはどうだったか知らないが、蓮舫氏のこの発言はそういう意味では評価されるべき発言だ。

表を見て、裏を見る。

「奇をてらう」という言葉があるが、これは、「表を見ずに裏を見る」ということである。まず初めに「表を見る」、すなわち物事の基本、あるいはスタンダードを知り抜くことが大事である。物事の基本・スタンダードを知り、物事の本質を見抜く。そのうえであえて裏をかくことが大事なのである。

何かにつけ、基本・スタンダードを知ろうとせずに「裏ワザ」的な事をいきなり狙おうという風潮は、良いことではない。「指揮法を知らない指揮者」と「指揮法を無視する指揮者」は全く違う。しかし世の中には、指揮法を知らない指揮者が多すぎる。物事を十分に考察せずに”陰謀論”などを語る人もそうであろう。

裏をかきたければ、表を熟知しなければいけない。桶狭間の戦いで、相手の戦力・状況・地形・天気を熟知したうえで奇襲をかけた織田信長のように。

良心を持ったワルになれ!

ワルとは、世間的に、あるいは社会的・組織的に悪者とされる人間という意味で書いた。

世間から見て、あるいは社会的・組織的に見てワルとはどういう人なのか?このワルとは時代や組織によって定義は変わるし、自分が悪いことをしていないと思っていても悪者というっレッテルを貼られることは多々ある。だから、世間的に良い人間でいようなんてことを考えることにあまり意味はない。自分が正しいと思うこと、自分が悪くないと思うことを貫けばいい。その結果ワルとされても、そんなことは気にする必要はない。

もちろん、極悪のワルになってはいけない。良心を持ったワルにならねばいけない。

世の中の決まり・ルールには、明らかにおかしいというものが多々ある。その時に、それはおかしいからと堂々と決まりを破ることができるか。自分が正しいと思うことを貫くためにルールを破ること、それが勇気である。

ルールをきっちりと守る人には二種類ある。それは、良心から守る人、そしてもう一つは自分の保身だけを考えて守る人。

保身を考えて守る人は、単なるイエスマンでしかない。しかし現実には、ルールというものは保身に訴えかけて守らせるものだという側面は大いにある。

ルールを見て、なぜそうしないといけないのか?という奥に潜む意味を考えないといけない。確かにそんなことを考える人は、取り締まる人・支配者には厄介な存在であろう。逆に言うと、ルールに盲目的に従う人は扱いやすい。

規則の表面だけを見て意味を考えない状態は、パブロフの犬状態だと言える。そんなパブロフの犬に自我はない。

自分が正しいと思うことを正しいと主張できる、良心を持った”ワル”になることが大切だ。

核兵器弾道ミサイル迎撃に対する懸念について。

北朝鮮が、弾道ミサイル発射を宣告した。弾道ミサイルは、島根・広島・高知の上空を通過し、グアム周辺に落下するとの詳細な計画まで予告している。これから発射までの約一か月間、日本とアメリカは、防衛計画を煮詰めることになりそうだ。

そこで問題になるのが、北朝鮮の弾道ミサイルに核弾頭が搭載されるのかどうかということであろう。もし核弾頭が搭載されているミサイルを迎撃した場合、どうなるのか?防衛省局長は「迎撃により起爆装置などの機能は喪失する。核爆発による被害は発生しない」(時事通信)との認識を示している。

確かに迎撃により、起爆装置は作動しないかもしれない。起爆するには、核分裂連鎖反応を起こさないといけないが、核分裂連鎖反応は簡単には起きない。だから、防衛省局長の言っていることは全うなことだ。

しかし核爆発と核物質汚染は話が違う。核爆発しなくても、日本上空で迎撃すれば核物質の飛散は免れない。

確かに、核爆発に比べると核物質飛散の被害は小さいかもしれない。ただし、長期的な影響が残る核汚染に対する懸念は大きい。

もちろん、そのような被害がないことを祈るばかりであるが、ただ迎撃すれば完全に安全だという簡単な話でもないように思える。

核廃絶は100%正しい。

今年も広島・長崎での原爆被災日が過ぎた。原爆投下からもう72年を過ぎようとしているが、核兵器廃絶に向ける議論は一向に決着しない。

原爆の原理(あくまで”原理”である)は、アインシュタインによる特殊相対性理論にたどり着く。しかし、特殊相対論は原爆を作るために考え出されたものでは全くない。あくまで自然の真の姿を解明するために”自然科学の理論”として作られたものである。原爆の原理はあくまでも副産物、しかし最悪の副産物であった。

核兵器の責任を科学者にきせるのなら、誰の責任であろうか?間違ってもアインシュタインでは断じてない。原爆開発に向けた核分裂連鎖の技術的課題に取り組んだ科学者に責任の一部がある。しかし最も大きな責任は、科学者ではなく、科学者を利用して原爆を作成させた政治家にある。

そして現在、核兵器廃絶を進める人、あるいはそれを拒む人も政治家である。すなわち、未来への平和の扉の鍵は、政治家が握っている。

そして核兵器廃絶へ向けて科学者ができる事は、兵器への軍事技術の提供を拒むことだ。

しかし悩ましいのは、自国が核兵器を拒んでも、北朝鮮のように暴走して手を付けられない輩がいることだ。本当にやつらはどうしようもない。しかしそれらの源流をたどっていくと、欧米そして中国・ソ連(ロシア)の核開発競争にたどり着く。すなわち、現在の北朝鮮の核問題の責任の多くは、欧米中ソにあると言える。

この世の中に核兵器が存在する限り、人類の安泰はありえない。

核兵器「削減」を目標にして、核兵器の削減を実行するのはほぼ不可能だ。核兵器「廃絶」を目標にしない限り、削減は進まないであろう。

国連の会議(核兵器禁止条約の決議)で、日本は核兵器廃絶に賛成しなかった(正確には出席を拒み議論もしなかった)というニュースが流れている。被爆国日本が核兵器廃絶を拒否するとは、何とも情けない話である。

趣味も極める。

本職を極めるのは当然であるが、最近は趣味も極めたいと思っている。その極めたい趣味とは「釣り」である。とは言うものの、最近は少し事情があって、全く釣りには行っていない。でも今取り組んでいることで目標としていることを成し遂げると、再び釣りにも打ち込みたいと思っている。

なぜ、またまた釣り熱が熱くなってきたか?というと、毎日アップされる釣り動画に触発されたからだ。やっぱし僕は釣りが好きなんだ!魚が好きなんだ!と再確認された。

釣りを再開した時に、どこの海に通おうか?何をどう釣ろうか?と考えると何だかわくわくしてくる。そして釣りを気楽な趣味ではなく「極める趣味」として、ちょっとした釣り職人にでもなろうかと妄想している。

良い論文は、噛めば噛むほど味が出る。

論文に限らず、一般の本にも言えることだが、良い論文、良い本というのは、噛めば噛むほど味が出る。すごく短い論文や短編書籍などでも、良いものは何度も何度も繰り返し読み、さらにその度に新しい発見がある。同じところを繰り返し読んでいるだけなのに不思議だ。

最近、とある数学の論文(非常に偉大な論文である)を熟読している。この論文は数年前にプリントアウトしていたのだが、最近(と言ってもかなり前だが)になって深く読み始め、同じところを何度も何度も繰り返し読むのだが、その度に新しい発見があり、新しいアイデアが出てくる。まさしく噛めば噛むほど味が出る論文だ。

最新の論文をやみくもに読むのも悪くないが、良い論文を繰り返し読むことは、多くの論文を手当たり次第に読むより得るものは大きい。

論文のことについて書いたが、これらのことは普通の本・小説にも当てはまる。多くの本より、一つの良書を繰り返し読むことでしか得られないものがある。座右の書というものを一冊作るのも悪くない。

基礎科学者はアスリートか?

以前、「超対称性はスポーツだ!」(超対称性とは素粒子論に出てくる理論の一つである)という声を聞いたことがある。これはどういうことか?

基礎科学もスポーツも、直接何かの役に立てるためにやっているわけではない。基礎科学者は純粋に、「自然の仕組みを解明したい」という思いから自然を追及している。これはアスリートの「速く走りたい」という気持ちと似ている。

科学と言うと、役に立てるために研究していると思っている人は多いが、基礎科学に関しては役に立てるという目的意識は希薄だ。特に素粒子物理に関しては役に立てるという意識は皆無と言っていいだろう。とは言え、現段階で全く役に立たなくても、何十年後かに大きく役に立つということは歴史が示している。

基礎科学をスポーツだと認識できる人がどれだけいるかわからないが、僕は、「基礎科学者とは頭を使うアスリート」だと思っている。