投稿者「木原 康明」のアーカイブ

仕事がもたらしてくれるもの。

仕事とは何か?この問いには様々な答えが存在するだろう。お金を稼ぐ手段、人生にメリハリをもたらしてくれるもの、あるいは人との出会いと言う人もいるかもしれない。もちろんこの中でもお金を稼ぐと言う事は一番重要かもしれないが、ただお金が入ってくれば何でもいいのか?と言えばそうではない。もちろん割り切って、お金をくれれば後はどうでもいいと言う人もたくさんいるかもしれないが、僕は仕事と言うものはお金以上に、お金を稼ぐ過程によってもたらしてくれるものの方が大きいのではと思っている。

もしかしたら、百万円稼ぐ過程よりも、一千万のお金の存在の方が大きいと言うかもしれない。それはその通りである可能性は高い。なぜなら、仕事によってお金を稼ぐ過程がもたらしてくれるものというのは、大きな金額がかかっているほど過程も大きくなると考えられるからだ。だから百万円の過程と一千万円のお金ではなく、一千万円同士で考えればお金の存在より過程の方が大きくなる可能性は十分ある。

当たり前の事であるが、お金が入ってくるまではどうしてもラグが出て来る。たいていは一か月とか長くても三か月と言うところだと思うが、中には一年、あるいは十年と言う場合も出て来る。これをどう見るか?十年もラグがあれば、その間は周りから見れば仕事をしていないように見えるかもしれない。もちろんお金がなくては生きて行けないので、何らかの手段、あるいは副業でしのぐことが求められる。しかしその十年、お金が入ってこなくてもその取り組みはれっきとした仕事なのである。十年お金が入ってこなくても、十年後にそれが実って一億円入ってくればそれは年平均1000万稼いだことになる。

宝くじで一億円を当てることに憧れる人は多い。その一方、宝くじを否定する人も多いが(僕もその一人である)、なぜ宝くじで当てるのは良くないのか?テレビなどでは浪費して失敗した人などが取り上げられるのでそのような意味で否定する人も多いが、僕が思う致命的な点は、宝くじには稼ぐまでの過程が全く存在しないことだと思っている。自分で稼いだ一億円ならばそれまでの過程によってそれが二倍、三倍の価値を生むが、宝くじの一億円は過程がすっぽり抜けていることによって数分の一、あるいはマイナスになることもあるだろう。

なぜこのような話題を取り上げたか?それは僕が今非常に充実を感じ、とてつもなく大きなやりがいを感じているからである。もちろんその研究の仕事には大きなお金がかかっている。とは言え、失敗すればゼロである。なぜこのような充実感とやりがいを感じることができるのか?それはやはり結果を出すまでの過程が充実感、やりがい、そして幸福感をもたらしてくれるからである。既にお金を手にしているのならばそのお金がもたらしてくれているとも言えるが、今僕はこの仕事に関してはまだお金はゼロである。そしてやはり失敗すればお金はゼロである。とは言え、もちろん僕は成功する自信があるのでその問題に取り組んでいる。その中で、仕事の過程と言うものの重要性を学ぶことができた。ただ単に楽しむだけなら仕事ではなく趣味でやればいい。仕事と趣味は根本的に大きく違うものなのである。なので僕はお金に関する事以上に仕事と言う形に大きくこだわっているのである。

学歴を超えられるか!

僕は学歴などは取るに足らないものだと思っている。しかし学歴を否定しようとも思わない。重要なのは、学歴を超えられる人間になれるか?と言う事である。昨今は巷では東大神話みたいなものが出来上がっている。とは言え、僕は東大を否定したいわけでは全くない。重要なのは、東大を出た人が東大と言う学歴を超えられるか?と言う事である。言うまでもなく、東大と言う学歴を超えることができていればその人は非常に優秀で立派なものだ。しかしいつになっても学歴にしがみついている人間を見るのは見るに堪えない。菅首相の初めの高支持率は100日間のハネムーン期間だと言われているが、学歴に物を言わすのも就活生の一年間のハネムーン期間だと思った方が良い。

前首相の安倍氏は、良いか悪いか?とか、好きか嫌いか?と言う話は置いておいたとして、首相としての任務遂行能力を見れば非常に有能な宰相だったと思う。これは僕に限らず多くの人が認めるところだと思う。はっきり言って、学歴がどうと言うレベルの話ではない。安倍氏は成蹊大学卒だが、そんじゃそこらの東大卒の人間などは安倍氏の足元にも及ばない。確かに安倍政権末期には問題が山積していたが、前期から中期にかけては安倍首相の政権運営は卓越したものであった。別に僕は安倍氏を称賛したいわけではない。冷静に中立的に見れば、誰もが認めるところだと思う。

三菱UFJ銀行の次期頭取に半沢氏が就任することが決まったと言う。リアル半沢と世間では言われているが、常務からの13人ごぼう抜きであるらしい。半沢氏は直樹とは違って非常に物腰の柔らかな人であって、非常に優秀な人だと言われている。優秀なところは直樹と同じで良いが、「倍返しだ!」とか言う人でなくてホッとしている。そして今回の人事は、実力主義を押し進めたものだとも言われている。優秀な人間が真っ当な評価を受け出世していく。日本ではこの当たり前の事がなかなか実行できない社会であったが、半沢氏への評価がこの殻を破る社会への起爆剤となって欲しい。そして半沢氏が東大卒だから優秀だなどと言う次元の低いことは言わない方が良い。

とは言え、日本には、いや世界でもそうかもしれないが、学歴主義的なところはまだまだ残存している。会社で学歴なしに大きく出世するのはまだまだ難しい社会だ。しかし僕はそのような評価システムの外にいると思っている。なぜなら物理や数学の研究の世界の評価は純粋に研究成果で評価されるからだ。昔で言えば医学の野口英世がそうであり、物理のファラデーがそうである。もちろんポストを選ぶとなれば、学歴に対する主観が入ってしまうことは普通にある。しかし研究結果は学歴に左右されない。だからこそ僕は研究に邁進することができるのである。そしてそれを実証することが僕に任された使命だと思っている。

キューバ危機において、深く思考する人間がいたからこそ人類は全面核戦争を免れた。

NHKスペシャル・映像の世紀プレミアム 第17集「人類の危機」の動画を観た。この映像の世紀シリーズのテーマ曲「パリは燃えているか」は非常に荘厳な曲であり、僕はこの曲が大好きだ。そして何よりこのシリーズのテーマ曲として非常にマッチしている。

今回観た動画は100年前のスペイン風邪のパンデミックからチェルノブイリ原発事故による危機まで扱っていたが、中盤ではキューバ危機を扱っていた。我々日本人は歴史の授業で「キューバ危機によって全面核戦争直前の状態にまで追い込まれた」と習うが、しかしそれがどれほどの危機だったかについてはいまいち実感がない。僕自身も知識としては知っていても、実感はそれほど感じていなかった。しかし今回観た映像の世紀によって、このキューバ危機による13日間がいかに極限まで追い詰められていたかが分かり、それと同時に愕然とした。結果的には全面核戦争は回避されることになったのだが、現実は核戦争を回避できたことがある意味奇跡であったと言えるくらいの危機であったようだ。

ここでキューバ危機において発生した二つの危機的状況を取り上げる。一つ目はアメリカ統治下の沖縄で起きた危機だ。当時沖縄には核兵器発射基地があった。キューバ危機時、沖縄の核兵器発射基地に4発のミサイル発射命令が下った。しかしそれはおかしなものであった。一発はソ連を狙ったものであったが、その他の3発はソ連以外の国を狙ったものであったと言う。もし基地の司令官が命令に忠実なイエスマンであったのならば、躊躇なく核ミサイルを発射し全面核戦争に突入していたであろう。しかし基地の司令官は、3発が他国へ向けられていることに対して明らかにおかしいと考え、真偽を見極めようとしたと言う。そしてその命令は誤報だと言う事が明らかになった。

もう一つはソ連の潜水艦における出来事だ。ソ連軍の潜水艦がキューバ周辺で活動していたのだが、アメリカ軍はそれを察知し潜水艦周辺に爆雷を落としたと言う。これは潜水艦に対して浮上せよと言う合図であり、アメリカは事前にソ連に対してこの爆雷の意味するところを伝えていたと言う。しかしこの潜水艦の艦長にはその意味が伝わっていなかったのだ。そこで艦長は戦争が始まったと思い、自分たちが自滅することを覚悟で核魚雷を発射しようとした。しかし核魚雷を発射するためには、もう一人、副艦長の許可も必要であった。そこで副艦長は、もし自分たちを攻撃しようとしているのならば簡単に攻撃できるはずで、それをあえてしないのは何かの合図かもしれないと考え潜水艦を浮上させたと言う。

この二つの出来事は、いかに自分の頭で考え判断することが重要であるかと言う事を示唆している。沖縄のアメリカ軍司令官が、あるいはソ連軍の潜水艦の副艦長が何も考えずに核発射命令を出していれば、今頃人類は存在していなかったかもしれない。一人の人間の思考が、人類の存在さえも左右するのである。

日本では特に、学校では教師の言う事を、そして会社では上司の言う事を忠実に聞いて従うことが重要だと教えられ、それに従わないと反抗的だと非難される。しかしそれでは自分の頭で考えられる人間が育たない。日本でも自分の頭で思考し判断する事の重要性をもっと伝えなければならないのではないだろうか?今の菅総理は自分の頭で考えられる人間ではない。なので周りの人間がそれをサポートしていかなければならないが、現状を見るとおそらく側近は全てイエスマンであろうことが想像される。もし今の日本政府がキューバ危機と同じような状況に遭遇すれば、確実に人類は滅亡するであろう。キューバ危機はいろいろな事を教示してくれているが、そのうちの一つとして自分の頭で考え判断することがいかに重要であるかと言う事も示していると考えられる。

数学の真の姿と、物理の本質。

数学と物理の結びつきは昔から非常に強い。微分積分法はニュートンの力学に対する考察から生まれたものであるし、近年では素粒子論、特に超弦理論の研究から新しい数学の理論が次々と生まれている。

では、物理と数学の関係をどう見るべきか?一つは「数学は物理の道具である」と見る事、二つ目は「数学≒(ニアリーイコール)物理」と見る事、三つめは「数学=(厳密なイコール)物理」と見る事。僕が最近たどり着いた結果は、三つ目、つまり数学と物理は厳密なイコールであると言う事だ。そしてこれは一部、つまり末端に言えることではない。最も根本的な部分においてイコールだと言う事だ。なので数学の最も本質的な部分は、物理の根本的部分への考察によって得られる。

物理の根本的な部分の研究と言えば素粒子論、特に最近は超弦理論が担っていると言われる。しかし僕は素粒子論や超弦理論の考察からは物理や数学の真の姿にまではたどり着けないと考えている。それらの理論は物理においては(今では)最も基礎的かつ根本的な部分であると言われているが、近い将来必ず根本的物理理論に対する全く違うアプローチが生まれると考えている。具体的にはどのようなものか?それは数学で言うと、数理論理学や公理論的集合論、そして数学基礎論的なアプローチだ。つまり現在の素粒子論、超弦理論とは全く違うアプローチである。

物理とは数学の具現化である。つまり物理を追究することによって、数学の本質に迫ることができる。もう物理と数学を異分野として分けることは古いのである。今必要なのは、物理と数学の一体化である。

権力を上手く使いこなせていない!

権力とは諸刃の剣である。良識のある優秀な人物が権力を持てば世の中は良くなるが、もし知識のない凡庸な人間が持てば世の中は悪化の一途をたどり、民は苦しい思いをすることになる。古代ローマでは、一番の理想は哲学者が皇帝になることだと言われていたと言う。そして実際に一人だけそれを実行した人物がいる。マルクス・アウレリウスである。アウレリウスは「自省禄」と言う非常に素晴らしい書籍を出しており(哲学書と言えるかどうかわからないが、哲学書と言われることが多い)、人間としても一流である。アウレリウスが権力を持った当時のローマ市民はもしかしたら非常に幸福であったのかもしれない。

初めに言ったように、権力とは諸刃の剣である。それが良い方向へと行った例としてマルクス・アウレリウスを取り上げたが、逆はどうであろう?そう、今の日本がそうであると言える。菅氏は権力の使い方がわからず、全てが裏目裏目に出ている。アウレリウスのような優秀な権力者の常として第一に国民・市民の事を考えるが、凡庸な権力者の常として自分の実績にこだわり保身に走る。僕はこれまで菅氏をかなり批判してきたが、菅氏が逆転をする方法がひとつある。それは自分が犠牲になることを厭わないことだ。菅氏の現在の失敗は全て自分の保身に由来することだからだ。

権力とは権力者のためではなく、民のためにある。しかし日本の、いや世界共通かもしれないが、ほとんどの指導者が権力と言うものを勘違いしている。特にそれを助長しているのが、権力の世襲であろう。しかしこれには市民(有権者)にも責任がある。なぜなら世襲政治家に票を入れているのは一般市民に他ならないからだ。もちろん世襲が全て悪いとは言わない。世襲議員が良い政治を実行してくれるのなら大歓迎だ。だからこそ小泉進次郎氏にも期待してしまう。世襲政治家が悪いのではなく、何も考えずに単に有力政治家の後継者と言うだけで票を入れてしまうことが良くないのだ。

今まで批判してきた菅氏は世襲政治家ではない。しかし首相と言う政治家のトップにまで上り詰めた。いや、このような表現は良くないかもしれない。トップまで上り詰めたとか言うと、競争社会での争いであるように聞こえる。いや、現実として政界は熾烈な競争社会であることには間違いないが、しかし本来は政治家は市民の代弁者であり、極論を言えば市民に対する奉仕者だ。なので市民の方に顔を向けていない政治家など論外だ。しかし菅氏は今どこを見ているのか?二階氏の方を向いているのか?どちらにしても現在の菅氏は政治家とは本来どうあるべきかと言う事を完全に見失っているように思える。

孤独には自分が試されている。

僕はこれまで何度か述べたように、孤独を愛する男だ。もちろん何人かでワイワイするのも良いが、基本的には一人でいないとストレスも溜まっていく。大人数での協調と束縛が非常に苦手である。

一人でいるのは非常に自由であるが、その一方責任も全て自分が負うことになる。そして当たり前の事だが、することは全て自分で考えなければならない。普段から頭をフル回転させることが必須だ。もちろん、僕はそれは嫌いではない。死ぬまで頭を使い続けることが自分の使命であり、生きがいであると思っている。

自分で考えると言う事は、そこは自分の頭の見せ所である。そして自分で行動することは、自分の意志の見せ所である。つまり全て自分が試されている。他に人がいれば自分の苦手な事はその人に頼れば良いが、自分一人しかいなければ全て自分でしなければならない。もちろん自分一人で何でもできると言う訳にはいかないので人に頼ることもあるし、どうしてもできないことは放棄することもある。しかし放棄した後どうなるかは、全て自分の責任である。

しかし孤独と言うものは、非常にやりがいのある生き方だ。自分一人でしたことに結果が出れば、それは全て自分一人の成果になる。all or nothing と言う事である。それは究極的には、生か死か?と言う事でもある。もちろん何かに失敗したからと言ってすぐに死ぬわけではないが、それくらいの覚悟を持たないと孤独を突き通すことはできない。

日本では協調性を要求されることが多々あり、人と違うことをすればすぐに自己責任だと突き放す。つまり日本社会では孤独の入り込む余地が非常に少ないのだ。しかしそれでも孤独を突き通すことができるか?そこに自分が試されている。

法治国家であっても、法を破らなければならない時がある。

法治国家においては、法は絶対的であると言われる。果たしてそうであろうか?もし自分の信条・信念に反する法であれば、それに逆らうのも十分にありだと僕は考えている。だからこそ杉原千畝は自分の良心を貫き、香港では周庭さんたちが立ち上がっているのである。さらに言えば、この国のトップである首相は本当に法を厳密に守っているのであろうか?甚だ疑問である。

とは言え、僕はやみくもに法を破れと言っているわけではない。法は国家の存続において非常に重要である。さらに日本の最高法規である日本国憲法は非常に素晴らしく立派なものであると感じている。しかし社会の主役は誰か?決して法が主役であってはならない。人間が主役なのである。だからこそ、人間をないがしろにするような法に対しては徹底的に立ち向かわなければならないのである。僕は決して改憲派ではないが、もし憲法が時代に合わなくなり人間を無視するようになれば、憲法を改正することも十分に視野に入れなければならないと考えている。

法が絶対的ではないことを例示することは簡単だ。もし法が絶対的なものだと考えれば、ナチスドイツにおいては悪いのは法を破った市民、そしてユダヤ人の方だとなってしまう。しかし誰が考えても悪いのはナチスの方だ。そして杉原千畝は法を破ることによって何千人もの人間の命を救うことになった。もちろんこんな大々的なものでなくても、身近な法であっても、人々の自由に反する法は色々とある。もちろん何でもかんでも自由にすれば良いと言う訳ではなく、当たり前の事であるが人を傷つける自由など誰にもない。

なぜ僕は今回の記事でこんなことを書いたのか?それは僕にとって信念に反する法が存在するからだ。その法は人々の思考の自由を奪い、さらには日本国の発展をも妨げるものである。さらに言えば、その法は憲法にさえ反していると僕は考えている。一部の全くおかしい利権を認めるがために、国民の思考の自由を束縛している。日本はいつからこのように知を放棄する国になったのだろうか?僕は決して法治国家を否定しようとは思わないが、このことにおいては徹底的に立ち向かって行こうと思っている。

感染症対策が一番の経済対策だ!

普段は感情を表に出さないドイツのメルケル首相は議会で感情を爆発させ、感染症対策の重要性を訴えかけ国民に協力を呼び掛けたと言う。それに対してどこかの総理はネットでギャグにもならないギャグを放ち、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべている。一国民として非常に恥ずかしく、また情けない気がするのは僕だけであろうか?

今政界で、またあらゆるメディアで議論されているのは、「感染症対策か?それとも経済対策か?」と言う事である。しかし僕はこれは違うと思っている。いま必要なのは「感染症対策 and 経済対策」と言う事である。そんなことを言うと、そんな虫の良い話はないと言われるかもしれない。なぜなら感染症対策をすれば経済は急激に落ち込むと誰もが考えているからだ。しかし僕ははっきりと言う。

「感染症対策を徹底することが、一番の経済対策になる!」

これはどういうことか?感染症対策をすることにより街に出る人が減り、お金が回らなくなる。旅行に行く人が減り、飲食をする人も減る。それによって旅行業界、そして飲食業界は大打撃を受ける。それは事実であろう。しかしだからと言って感染症対策を無視するとどうなるのか?当たり前の話だが、コロナ感染者は激増する。そしてそのような状況を放置すると、後々さらに経済が回らなくなる。コロナの影響が大きくなればなるほど、経済的な打撃も大きくなるだろう。コロナの状況が小さいうちだと自粛の規模も期間も少なくて済む。しかしコロナ被害が大きくなればなるほど自粛の規模も大きくなり、期間も長くせざるを得ない。即ち、早め早めの感染症対策が、後々経済的にも好影響を与えることになる。

政府はこれまで旅行業界、そして飲食業の支援のため、GoToキャンペーンを大々的に行ってきた。しかしこのことが結局旅行業界、そして飲食業界の首をさらに絞めることになる。そして苦境に立たされているのは旅行・飲食業界だけではない。かなり広い業種において大打撃が与えられている。そして時期的にも、自粛はクリスマス、正月を直撃することになった。早め早めに手を打っていれば、このような時期の自粛を避けることができたのは明らかであろう。

なぜこのようになったのか?ドイツの首相は国民の事を一番に考え、どっかの総理は自分の実績作りと自分の保身を一番に考えているからである。ああ、一国民として本当に情けない。石破茂さん、早く総理になってください!

NTTドコモ「ahamo」に対する提言。

少し前にNTTドコモが打ち出した中容量シンプル低価格プラン「ahamo」が、非常に評判を得ている。それに対してauが打ち出した大容量複雑高価格プランが批判を浴び続け炎上している。ドコモのahamoは僕にとっても非常に魅力的なプランであり、さっそく事前予約申し込みを行った。

しかしこのドコモのahamo、全てが良いとこだらけと言う訳ではない。低価格とトレードオフな面もいくつかある。それはドコモのプランとは言え、ドコモショップでのサポートが基本的に全く受けられないと言う事だ。もちろん契約もオンライン上のみである。なので対面で契約したい人や、ショップで分からないことを聞きたい人などは、基本的にahamoは候補にあがらない。それを知らずにahamoを契約してしまうと後悔してしまうかもしれない。しかしオンライン操作に慣れている人にとっては、非常に魅力的なプランであることは間違いないだろう。

とは言え、通常はショップなど全く利用する気はなくても、何かの緊急時(例えばスマホの故障や紛失)の時にショップが使えないと、不便で不安に思うことも確かである。そこで、ahamoの利用者でもお金を払えばショップでのサポートを受けられるようにすればどうかと僕は提言したい。通常はショップは全く利用しない。しかしショップでサポートを受けたいときは、何千円か払って受けられるようにする。その金額はかなり高くても良いと思う。何なら一万円近くしても良い。なぜなら重要なのは、お金を払えばショップで何とかなると言う安心感が目的だからである。そうすることによって、低価格の魅力と、いざという時はショップでサポートを受けられると言う安心感が両立でき、さらに魅力的なプランとなるだろう。

そしてこのことは、ショップ側にとっても魅力的なシステムになるだろう。携帯ショップでは、昼間の時間帯などはシニアが押しかけサービスのボランティア状態になっていると言う。そしてahamo自体、ショップにとっては一つの脅威になるだろう。しかしahamoの有料サポート化によって、ショップもそれなりの利益が得られ、ボランティア化することもなくなる。考えようによっては、従来プランの客よりもahamoの客の方が上客になるかもしれない。

ドコモにとっての一番の課題は、オンラインプランとショップ維持の両立であろう。しかしahamoのショップでのサポート有料化を行えば、それらの両立はある程度可能になる。初めに言ったように、料金はかなり割高でも良い。必要なのは「いざ」という時の安心感であるからである。ぜひショップでのahamo客有料サポート化を実現してもらいたい。

ガースー(菅)の無策無能ぶり。

初めに言っておく。今回の記事は菅をこき下ろすものだ。そしてもう一つ言っておく。もう菅に敬称は付けない。呼び捨てにする。もう僕の頭は怒りから火が飛び出て消火できないレベルだからだ。

僕は菅が総理に就任した直後から、菅を批判し続けてきた。しかし就任初日だけは、さすがにまだ総理として何も行っていない菅を批判するのもおかしいと思い、中立な目で見てみようと言う立場を表明した。しかしすぐに僕の予想は悪い方向で的中してしまう。日本学術会議問題、そしてコロナ対策。菅のする事全てに共通することは、陰湿、そして自分の頭で考えられない(つまり無能)、そして保身だ。そして僕の頭からは火が飛び出て来た。

ではなぜ、僕は菅の就任直後から菅を批判し続けてきたのか?それはそれまでの官房長官としての菅を見続けてきた結果だ。しかし菅の官房長官としての仕事はこれまで評価されてきた。なぜ官房長官・菅は評価されてきたのか?それはまず失言しない事、そして批判を上手くかわし続けてきたことだ。しかし総理となった今となってはどうだろうか?失言しないのは官僚が用意した原稿を棒読みしているから。そして批判を上手くかわすのは責任逃れに終始しているから、と言い換えられる。

先日、日本国民として衝撃的な言葉を聞く。「ガースーです!」菅がニコ生で放った言葉だ。若者に媚びを売っている場合か!コロナで国民が苦しんでいる中、無神経にもほどがある。もちろんコロナ対策で有効な手を打ち出し続けているのならまだわかる。無策無能をさらし続け、この無神経である。はっきり言って、菅に総理の資格はない!

なぜここまで僕が怒っているのか?それは総理としての資質の問題もあるが、根本をたどれば全て菅の人間性にたどり着く問題だからだ。政治家として以前に、人間としてどうしようもない人間だ。十年ほど前の民主党政権時代、菅(カン)元首相はかなり批判を浴びた。菅(カン)氏も当時は相当こき下ろされたように記憶している。しかし菅(スガ)より菅(カン)氏の方が百倍マシだ。少なくとも菅(カン)氏は菅(スガ)のように陰湿に物事を進めるようなことはほとんどなかった。なので菅(カン)氏を呼び捨てにしようとは思わない。僕が批判していた末期の安倍政権時でさえ、安倍前首相の事を呼び捨てにするなど一度もなかった。しかし菅(スガ)に敬称など付ける気には全くなれない。

現在、菅の支持率は急降下している。言っておくが、支持率が急降下したから僕は菅をこき下ろしているのではない。政権発足時から菅に対してはかなり批判をしている。僕は過去のブログ記事で「菅政権は短命で終わる」と書いた。しかし実際は僕の想像より早く終焉するのではと言う気配になってきた。少なくとも総選挙をすれば終わりだ。

菅の側近たちは、コロナ禍が酷くなってきたから支持率が下がったと言っているらしい。勘違いするな!それは結果論であって、何もしない無策無能ぶりが顕著に表面化した結果だ!コロナ禍が酷くなったのも、GoToキャンペーンや様々な活動の制限を打ち出さなかった結果であるのは明らかだ。僕のような一市民でさえ、GoToキャンペーンが始まったとき、誰が考えてもコロナ抑制に逆行するので停止すべきだと訴えかけた。しかし菅たちは何食わぬ顔で無策を続けている。そしてGoToによるコロナ感染者は数百人に過ぎないと自分たちの都合の良い数字だけをエビデンスだと持ち出し、GoToの停止を訴えかける人たち(医学の専門家を含む)に対してエビデンスがないと無視続けている。

菅!あんたに総理の資格はない!それ以前に人間としても卑劣だ!毎回繰り返すが、石破総理が渇望される。僕は今自民を支持しているのではなく、石破茂氏を支持している。もちろん、石破総理が誕生すれば、石破自民党を全面的に支持するつもりだ。