投稿者「木原 康明」のアーカイブ

当たっても、砕けるな!

「当たって砕けろ」とはよく言うものである。しかし、失敗して砕けてしまえば、どうにもならない。もちろん、砕けても何度でも立ち上がるという意味なのかもしれないが、そうなら「当たったくらいで砕けずに、何度でも立ち上がれ」ということだろう。

砕けてしまうことを過度に恐れて、当たることさえしない人も多い。「当たらずに、砕けずに」という考えだ。そんな無難な考えに魅力を感じるか?と僕などは思ってしまうのだが、そんな無難な生き方も現代人の処世術なのかもしれない。

アントニオ猪木氏の訪朝。

参議院議員のアントニオ猪木氏が、7日から訪朝する。猪木氏の訪朝に対して与野党などから批判的な意見が出ているようだが、僕は個人的には猪木氏に対して期待している。

確かに現在の対北朝鮮関係は難しく、微妙な時期であることは間違いない。僕自身も、訪朝するのが猪木氏でなければかなり危ういのではないかと感じる。

しかし、猪木氏の対北朝鮮のパイプはかなり太い。先代の金正日時代から何度も訪朝を繰り返し、独自の北朝鮮人脈を築いてきた。北朝鮮指導部からの信頼も厚いと思われる。

猪木氏と言えば言うまでもなくプロレスラーである。それに対して猪木氏の政治手腕に疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし僕は、猪木氏の政治手腕はかなりのものではないかと感じている。もちろん彼の人柄もあるのだろう。もしかしたらプロレスラーという立場も、彼の手腕に有利に働いているのかもしれない。

そういえば、猪木氏が政界に進出したころを思い出す。彼は「スポーツ平和党」、略して「スポ平」を立ち上げた。そして彼は国会議員になることに成功した。初めはバカにする人も多かったが、政治家として地道に活動を続けている。その中でも北朝鮮との対話は、彼の政治家としてのライフワークと言える。

現在、国会議員としての猪木氏をバカにする人を見かけない。なぜなら、現在の彼には今まで積み重ねた実績がある。そんな彼にここはひとつ、対北朝鮮危機の回避を期待したいところである。

遊びも本気、仕事も本気!

人生はマラソンのようなものである。マラソンではペース配分が大事だ。それと同じで、人生もペース配分が重要になる。時には本気で、時には手を抜いて、というように、物事にメリハリをつけることであろう。

しかし、長い人生と言えども、人生は有限である。何事にも本気で取り組むことも重要である。仕事に本気で取り組むことは重要であろう。そして遊ぶときも本気でぶつかることが大事だ。仕事も遊びも本気で取り組むことによって相乗効果が生まれる。

仕事も遊びも人生の重要な一部分である。そんな人生の一部分を適当に過ごすのはもったいない。とは言え、疲れた時には気を抜くことも大事だ。本気で続けることと、緩急のメリハリをつける事とのバランスは難しいかもしれないが、もっと本気で生きてみようと思うこの頃である。

目の前に本がある。

今、目の前に本がある。和書・洋書、専門書が並べられており、その中には積読?状態の本も少なくないが、本に囲まれている。

それらの本をどのように生かすか?それらの本の何冊かを上手く利用すれば、新しい結果が生み出せるのかもしれない。何冊もの本を前にして、結果を出せないこともある。要は、本があるかないか、本を読むかどうかではなく、自分でどう解釈し結果へと変化させるかだ。

大学時代から、かなりの数の書物を買いあさってきた。本の数が多ければよいというものではないということは、頭では分かっている。それでも定期的に本を買ってしまう。

本は物質的にみればただの紙だが、僕にとっては宝物である。

”タブー”による思考停止。

世の中には”タブー”がたくさん存在する。そしてそのタブーの話題になると、突然思考停止になる。タブーな話題に対しては議論さえもできなくなってしまうのだ。

”タブー”の中で最も大きな国家レベルの話題は、核に対する議論だろう。核廃絶を目指すことは正しい。しかし現実問題、核をいきなり廃絶することは非現実的で、不可能に近い。とは言え、核廃絶へ少しでも進むことは可能であるが。

日本人は核というものに対して非常に敏感だ。その理由はもちろん、広島・長崎という核被害に遭った、唯一の被爆国であるからだ。唯一の被爆国として核廃絶に向けて世界をリードしていける国は、日本をおいて他にはない。

しかし核へのアレルギーからか、核抑止力など核を少しでも肯定的にとらえられるようなことに対しては、議論することさえも否定する風潮が強い。

日本には”非核三原則”というものがある。非核三原則自体は素晴らしいものであるが、その結果、日本はアメリカの核の傘の下へと入らざる負えず、自分たちの手を汚さずにアメリカに丸投げするという事態になっている。

とは言え、日本のこの反戦争・反核兵器の徹底した姿勢は世界からも評価されており、日本が世界から信頼される大きな理由にもなっている。

核廃絶を唱えながら世界の現状に合わせていくのは非常に難しく、矛盾も多く出てくるが、日本及び日本人は反核を主張しつつも、核の話題をタブーとせずにオープンな議論をしていかなければならない。

前原民進党の行方は。

9月1日、民進党の新代表に前原誠司氏が選ばれた。そして夜の報道番組(報道ステーション)に、前原氏が出演されていた。

番組での発言を聞くと、もっとも当たり前のことを言われていた。しかし、当たり前のことを当たり前に進めるという意思表示には、前原氏の誠実さを感じる。

もちろん政治とは誠実さだけではどうにもならないので、当たり前のことを着実に前に進めることができるか、それには前原氏の手腕にかかっている。

とは言え、現在民進党は野党の身であり、野党にできる事は非常に限られている。野党民進党にできる事を着実に積み重ね、国民の信頼を着実に獲得していくことが求められる。

蓮舫・前民進党代表のスキャンダル追及一辺倒の姿勢には辟易していたが、前原氏なら政策的展望に基づいた活動をしてくれると期待している。

背水の陣は最強である。

背水の陣とは、最も危険な状態であることは言うまでもない。しかし背水の陣から大逆転を収めることが多々ある。それはもちろん危機的意識から来る底力によるものである。

我々のような一般人は、危機意識がないとどうしても怠慢してしまうことが多い。そんな時はいっその事、自分で危機的状況を作り上げればいい。自分を背水の陣へと追い込むのだ。それはもちろん、精神的には非常にきついことである。しかしそうでもしないと、自分の置かれている立場はより一層厳しくなる。

自分を背水の陣へと追い込むのには、勇気がいる。なぜならば、それで失敗したら残るのは”死”しかないからだ。しかしそこまでしなくても、時には自分を奮い立たせるために自分を追い込むことも必要だ。

型を極める人、型を破る人。

物事を極めていくということは、物事の型を理解するということである。将棋にも、柔道にも、そして野球にも、歴史あるものには全て型が存在する。そして科学においては、基礎理論が型であると言えるのかもしれない。

最終的にトップに君臨するには、型を極めなければいけない。そしてそれでも先を目指す人は、型を破るという行為に出るのかもしれない。型を極めるか、型を破るかは、人それぞれであろう。

しかし型を極めずに型を破ろうというのは、それは単なる奇策でしかない。そんな奇策には何の意味もない。

型を極め、型を破った時、そこに新しい型が生まれる。すなわち、型というものはトップに君臨する破壊者が生み出すものだとも言える。

科学でも、既存の理論を否定し、新理論が打ち立てられたとき、その新理論が新しい型になる。

新しい型を作り上げることを夢見る人は多いが、まずは型を知り、型を極めることに邁進しよう。

科学者とは探検家だ!

あるテレビ番組(クレイジージャーニー・TBS、再放送)で、高橋大輔さんという日本人探検家が出演されていた。そこで高橋さんは、マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムのことに言及し、「現在マチュピチュを訪れる人々は、ビンガムの発見の追体験をしている」と言われた。マチュピチュに限らず、現代人は第一発見者の追体験していると言える。

それは科学でも同じだ。現代において相対性理論を学んでいる学生、あるいは相対論のユーザーである研究者は、アインシュタインの発見を追体験しているのだ。そして科学者とは、もちろん第一発見者である探検家であることは言うまでもない。

科学者に限らす、プロフェッショナルと言われる人は、大なり小なり探検家的要素があるのではないか。プロフェッショナルというものは、自分が第一人者であるという意識を持つことによって、そしてそのような意識が前進していく原動力になる。

そして人生においても、常に人生を開拓していく探検家であり続けることが大事である。

物事を甘く見ず、かつ過剰にも反応せず。

物事を正確に理解するのは、意外と難しい。人によっては甘く見てしまい、あるいは過剰に反応してしまったりする。

甘く見て失敗してしまう話はよく聞くが、かと言って過剰に用心するのも良い効果はない。正確に物事をとらえるためには、まず物事に対する先入観を排除しなければいけない。そして感情的にならないことも大切だ。起きたことを純粋にとらえて冷静に判断できるか、それにかかっている。