投稿者「木原 康明」のアーカイブ

麻生副総理の発言。

麻生副総理が、朝鮮有事の際の難民発生に関して、「武装難民かもしれない。防衛出動か。射殺か」(時事通信)という発言をしたことが、物議を醸している。確かに麻生氏の発言は極端にも思え、問題がないとは言えない。

しかし現実問題として、武装難民の可能性はないとは言えない。韓国難民が武装するとは考えられないが、北朝鮮国家が意図的に難民に武装集団を潜り込ませることは考えられる。

実際、IS(イスラム国)との内戦で混乱している中東では、ISが難民の中に武装集団を潜り込ませて、意図的に混乱を起こしている。麻生氏はそのような事例を念頭に置いて発言したのだと思われる。

日本政府の首脳として、あらゆる事例を想定して対処することが求められる。そのような想定事例として、北朝鮮が武装集団を難民の中に潜り込ませるということも、可能性としては考えなければならない。

麻生氏の発言は行き過ぎた感もあるが、その一方で万全の態勢を取ることの必要性を訴えているようにも捉えることもできる。

”投資をしない”という選択肢も十分にアリだ。

ここ数年、アベノミクスの影響か、投資熱が持続的に熱くなっている。そのような状況の中で、「投資をするのが賢い選択だ」という風潮が蔓延していることが気になっている。

投資をするのが賢いという考えの裏では、「投資は必ず儲かる」という暗黙の了解があるような気がする。そのような了解のもとで、やみくもに投資へと走っていく事例をよく見かける。

しかし当たり前の話だが、投資をしても必ず儲かるという保証はなく、逆に大幅な損失を食らう人も多く出てくる。ウォーレン・バフェットのような”投資の神”ならともかく、一般の人にとって”投資すべき”という一択にするのは非常に危険だ。投資を”する”と”しない”という二択で考えなければいけないのは当然だ。

投資をしないことは賢くないのではなく、熟考した末で”投資をしない”という道を選ぶのは、それも賢い選択だ。

リーマンショックの頃は、多くの人が損失を食らい、投資の危険さを味わったはずだが、それから数年経ち、そのような危険も全く忘れ去られ、何の前提条件もなしに投資すべきという一般市民が多く出ることは、非常に危険であると感じる。

万人に好かれる方法なんてないんだから。

万人に好かれることばかりを考えていれば、当たり障りのない無色透明の人間になってしまう。しかもその結果、万人に好かれるなんてことにはまずならない。万人に好かれるものと言えば、ビートルズのyesterdayくらいであろう。

人に好かれるかどうかということも大事だが、それと同時に「自分自身が納得できるか」ということも大事だ。自分が納得できないことは、人には伝わらない。自分の口から出る言葉には、自分の人間性、そして生き方が現れている。

さらに言うと、同じ言葉でも、誰が言うかによって、意味合い・説得力が全く変わってくる。無責任な人間の言う言葉には、全く重みが感じられないのもそうであろう。

話しは戻るが、万人に好かれること以上に、「自分がどう生きるべきか」ということを考えなければいけない。その結果として、人に好かれればこの上ない。

日本人にとって”アメリカンドリーム”は覚悟が必要だ。

アメリカンドリームとは、アメリカ大陸開拓時代からある言葉であり、壮大なものである。これまで数々の人間が、このアメリカンドリームをものにしてきた。

しかし裏を返せば、アメリカンドリームにはリスクがあり、金銭的、あるいは身の危険的なリスクを承知の上で突き進まなければならない。

これまで、真の意味でアメリカンドリームをものにした日本人はいないと言われている。その原因は、日本人の性質にも大いに関係していると感じる。

日本人は「石橋を叩いて渡る」という言葉があるように、極端にリスクを嫌うところがある。また叩いても渡れば良い方で、「石橋を叩いても渡らない」という言葉も存在するくらいだ。

日本人がアメリカンドリームに挑むためには、アメリカ人以上に覚悟が必要だ。それはもちろん、地理的な制約もあるだろうし、英語圏ではないという制約もある。もちろん、本当にアメリカンドリームに挑む人にとって、そのような制約など些細なことかもしれないが。

現在では、日本に居ながらでもあらゆるドリームに挑むことは可能だ。だからわざわざアメリカにまで出向く必要なはいのかもしれない。しかし、日本国内規格ではなく、何もかもが世界的スケールで物事が進むアメリカという国は、非常にエキサイティングに感じる。もしかしたら、アメリカンドリームの本質は、金銭的な面以上に「エキサイティングを感じるか」という刺激にあるのかもしれない。

いつまでも笑っていこうと!

悩んでも腹を立てても、ほとんどいいことはない。それならいつでも笑って生きていく方が良い。

僕自身は、かなり喜怒哀楽は激しい方なので、笑う時は思いっきり笑うし、腹を立てるときは腹を立てる。

悩むことが必要な時ももちろんあるが、悩む暇があれば、その分前に進むことを考えたほうが良い。それもびくびくしながら進むのではなく、笑って天真爛漫に進めばいい。

周りの目など、あまり気にする必要はない。僕は全然出来た人ではないので、これからも周りからは非難ゴーゴーかもしれない。しかし、批難されることに対してのネガティブな考えよりも、これから成功した時に対してのポジティブな考えを常に持ち続けて行こうと思う。

僕はいつまでも笑って生きていくぞ!ワッハッハ!

「人生」という彫刻作品。

自分の人生をどんなものにするか?もちろん人それぞれであろう。人とは違う自分独自の人生を創るという人もいれば、みんなと同じ人生がよいという人もいるだろう。その違いはそれぞれの人生観の違いであって、どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

とは言え、僕自身はやはり、自分独自の人生を創りたいと思っている。

人生とは丸太を彫刻で削っていくようなものだと思っている。生まれたばかりの時は皆同じような丸太である。しかしその丸太に「人生」という彫刻を施していく。そして人生を終えるとき、その彫刻は完成する。

そのような彫刻作品に同じものは二つとない。他人と同じような人生だと思っていても、必ずどこか違いが生まれる。それなら思いっきり人とは違う、思いっきり個性のある彫刻作品に仕上げたい。その細部には、他人にはまねのできない技術も施したい。

これから先、どんな彫刻技術が施されるか、本当にわくわくする。

今おかしいのは、スキャンダル政治家ではなく、メディアと国民の方ではないかと。

最近の政治家の異性スキャンダル報道には、本当にあきれている。スキャンダルを起こした政治家に対してではない。スキャンダルを追及するメディアと、それに踊らされている(一部の?それとも多くの?)国民に対してだ。

良い悪いということと、物事の大小は、ほとんど関係ない。先日、自民党・二階幹事長が、森友・加計問題に対して、「小さな問題だ」という趣旨のことを発言した。それに対して批判もあるが、僕はもっともなことだと思っている。

森友・加計問題に対して、僕自身は真相を知る由はないので何とも言えないが、この森友・加計問題は悪いことではあっても、政治的に大きな問題ではない。なぜなら、現在の大きな問題は、北朝鮮問題であり、さらに経済問題であることは言うまでもないからだ。

メディアの報道によって、国民が森友・加計問題のような(小さいとまでは言わないが)大きくない問題にばかり関心が行き、本当に大きな問題が争点にならないのは、国民が自らの首を絞めることになる。

最近は、民進党・前原誠司代表の北朝鮮美女との2ショットが問題になっているようだが、そんなことが問題の争点になることに対して、そんな風潮が逆に心配になる。野党・民進党と前原代表に対して期待すべきことはそんなことではないだろうと。

とにもかくにも、今の日本と日本国民の風潮が、大変おかしな方向を向いていることが気になる。今おかしいのは、スキャンダル政治家ではなく国民の方ではないかと。

抽出した理想論ではなく、荒削りの現場の経験が重要だ!

自己啓発本の類の本を読む人は多いが、自己啓発本が役に立ったという話をほんとんど聞いたことがない。それはなぜか?

自己啓発本とか、最近流行の「~の言葉」という本には、非常にきれいにまとまった理想論が載っている。きれいにまとまっているので、非常にわかりやすい。

しかし、そこに載っている言葉は、著者が試行錯誤して考え出された言葉だ。その言葉だけを読んでわかったような気になるかもしれないが、本当に必要なのは抽出された言葉ではなく「抽出する作業」である。

そのためには、きれいにまとまった言葉ではなく、現場の荒削りな生の言葉に触れなければいけない。すなわち、たくさんの”事例”に触れながら、自分独自の理想論を作り上げることが重要なのである。

昔のテレビドラマで、映画にもなった”踊る大捜査線”(フジテレビ)の中で、「事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているんだ」と言う言葉があった。まさしくそのとおりであり、名言である。

前線で数多くの事例を扱い、そこから試行錯誤して自分自身の考え・理想を構築していく。それの繰り返しによって、あらゆることのスキルが身に付いていくものだ。

目標設定は適切か?

人間が生きるためには、何らかの目標が必要だ。短期目標・中期目標・長期目標、それぞれをリンクしながら人生を切り開いていく。そして目標は高すぎると全く近づくことができないし、低すぎても達成感が得られない。

僕の現在の目標は、他人から見るととんでもなく高い目標に見えるかもしれない。それは自分でも認識している。しかし、とてつもなく高い目標でも、それが崖の上にあるのか、それともそこへ続く階段が見えているのかで、全く事情は異なってくる。

垂直にそびえる崖の上にあっては、例え高さが5メートルでもたどり着くことはできない。しかし階段があれば、着実に進めば100メートルの高さでもたどり着くことができる。

僕には目標への階段は見えている。その階段は現実か、妄想か、それは実現できたときに証明される。それを証明するために、一歩ずつ着実に階段を上っていこうと思う。

実用と教養を使い分ける。

日々物事に取り組んでいると、どうしても役に立つこと、つまり”実用”に偏りがちになる。役に立つとは、非常に分かりやすい。役に立つと言えば、何でもうなずいてくれそうに思う。もちろん役に立つことは素晴らしいことだ。しかし何だか技術的な事に偏りがちのような気がする。

その対極にあるのが”教養”だ。しかし、教養はすぐに役に立つとは限らない。もちろん教養が役に立つことは多々あるのだが、大概の教養は、徐々に熟成されるのもだ。とは言え、教養だけで納得してしまうのは、半分は自己満足であるような気もする。

結局、実用も教養も両方大切なのだと気付かされる。すなわち、これらは車の両輪なのだ。

実用も教養も、現場での実戦があってのものである。実践無き教養など、何の意味もない。ここで実践とは、「人間としていかにして生きるか」という意味もあるし、「社会でどう行動を起こすか」という意味もある。

実用と教養の相互作用によって、新たなる広がりが生まれる。人生を、そして社会をどう切り開いていくか、そのための武器として、実用と教養を使い分けながら進んでいかなければならない。