投稿者「木原 康明」のアーカイブ

カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞受賞。

日系英国人のカズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。日本人として嬉しい限りだ。その一方、僕はイシグロさんのことを何も知らなかった。そんな無知な自分が恥ずかしい。

前評判では、村上春樹氏の受賞が有力視されていた。それを覆してのイシグロさんの受賞。有力候補が受賞するのはもちろん素晴らしいが、今回のような驚かされる受賞もまた素晴らしい。

村上春樹さんが偉大な作家であることは異論がないと思うが、僕は村上さんの作品に対してあまり感じるところがない。以前、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を読んだが、読み終わっても特に何も感じることができなかった。もちろん、僕自身に文学作品に対する感性がないということなのだろうが、個人的には村上春樹さんの作品を再び読む気にはなかなかなれない。

今回受賞されたイシグロさんの作品はもちろん読んだことはないが、イシグロさんの作品を読んで素晴らしいと思えるかと言われると、正直自信がない。なので、僕自身は村上さんやイシグロさんに対して評論する資格など何もなく、ここで述べる資格もないのかもしれないが、イシグロさんという日本生まれの作家がノーベル文学賞を受賞されたことは、素直にうれしい。そしてこれから先、村上氏が受賞された際は、村上作品の素晴らしさを、この文学感性のない僕に教えてほしい。

4番・ピッチャー、大谷翔平が見せた日本人の夢。

10月4日、日本ハムの大谷翔平が本拠地最終戦で「4番・ピッチャー」で出場した。4番ピッチャーは大谷翔平が「最強打者であり、最強投手」である証であり、プロ野球ファンの夢でもある。そして、大谷選手の日本最終登板の可能性も大いにあり、今回の登板は、大リーグ挑戦前の見納めになる可能性もある。

大谷翔平の凄いところは、このような節目の試合で必ず「魅せる」プレーをすること。去年の優勝を決める試合で締めたのも大谷翔平だった。そして今回は、日本最終登板(の可能性のある試合)で、2安打完封である。

去年は、「1番・ピッチャー」で先頭打者初球ホームランというのもあり、漫画の世界だと言われたが、今回の「4番・ピッチャー」というのも、それだけで漫画の世界である。

来年、メジャーへ移籍の可能性が高いが、もちろん日本人の夢はメジャーでの二刀流、さらに妄想を言えば、「メジャーで4番・ピッチャー」と言いたくなる。しかし、大谷翔平なら、そんな妄想も成し遂げてしまう可能性もあるように感じさせられる。

最速165キロの速球と、超特大アーチを飛ばす大谷選手は、どこまで上り詰めるのだろうか?一ファンとしてもワクワクしてしまう。

重力波観測から、重力波天文学へ。

2017年度のノーベル物理学賞に、重力波を世界で初めて観測した、アメリカの重力波観測施設「LIGO」のワイス博士、ソーン博士、バリッシュ博士の三人が受賞されることが決まった。

僕自身は実験に関しては非常に疎いので、実験の詳細な内容は説明しきれないが、この三人のうちソーン博士は、理論家の間でも有名な名前だ。

というのは、超有名な重力理論の専門書、マイスナー、ソーン、ホイーラーの三人の著書「GRAVITATION(重力理論)」の著者のうちの一人であるからだ。この「GRAVITATION」は非常に分厚い書物で(日本語版は1324ページある)、研究者の間では通称「電話帳」と呼ばれている。「電話帳のソーンだ」と言えば、ほとんどの理論家でもわかるだろう。

今回の授賞理由となった重力波の観測は、まだ「検出した」という段階なので、これからどう具体的な「観測」へと結びつけるかがこれからの課題であろう。

「重力波天文学」という言葉もでき始めているらしいが、このような分野が発展した暁には、ブラックホールの観測などに大きな威力を発揮するものと思われる。

マルチタスクを楽しむ。

マルチタスク(複数同時作業)という言葉は、最近はパソコンやタブレットで複数の画面を開いて同時作業するということを表す言葉としてよく使われている。しかし現在の複雑化した社会では、仕事や日常生活でもマルチタスクをするような場面に頻繁に遭遇するのではないか。

物事に取り組むとき、一つの事に落ち着いて集中できる環境があることは素晴らしいことである。しかしなかなかそうはいかない。強制的にマルチタスクを迫られる。この様な時、マルチタスクを迫られ、ストレスを感じる人も多いと思うが、そこは開き直って、一層の事、マルチタスクを楽しんでしまうという手も大いにありだ。

僕自身も以前は、一つの事に心置きなく集中するということに憧れを持っていたが、最近は逆にマルチタスクで物事を進めることを楽しむことを覚えた。これが結構面白い。いろんなことに取り組んで忙しい気もするが、そんな状況も楽しめばいい。

マルチタスクで進められることはそれでどんどん進めて、そして一つの事に集中したい時にはその時間も確保する。そのような時間の振り分けを上手くできれば、物事を楽しみながら一層はかどらせることができる。

見る立場が違うと、こうも変わるものか。

IS(イスラム国)兵士を300人以上殺害した、”名”狙撃手がいたという。最近、その名狙撃手が戦闘で殺害されたという。

もしこの狙撃手がIS兵士だったら、どう呼ばれていただろう。「悪の根幹」か?「残虐兵士」か?どちらにしろ、悪魔の存在のように扱われるだろう。

しかし狙撃手は、「正義???」の側の人間である。従って英雄とされている。

IS兵士とISを攻撃する兵士、立場によって見方はこうも変わるものかと妙に納得してしまう。どちらもやっていることは同じなのに・・・

これは必要悪というものかもしれない。納得してしまうと書いたけど、やはり完全には納得できない・・・

なぜ基礎科学が重要なのか?

10月2日(月)からノーベル賞の発表が始まる。文学賞で注目されている村上春樹も気になるが、やはり科学分野3賞がどのような分野に授与されるかは注目されるところである。

ところで、ノーベル賞は基礎科学重視である。もちろん2014年の物理学賞の青色発光ダイオードのような応用分野に授与されることもしばしばあるが、割合で言うと基礎分野への授与が多いのではないかと思われる。

では、なぜ基礎科学が重要なのか?その答えを誤解を恐れずに一言で言えば、「基礎科学の方が純粋に科学的価値が高い」からである。それの対比として応用分野の重要性を一言で言うと「役に立つ」ということであろう。

しかし厄介なのが、この基礎科学の「科学的価値」というものは、なかなか多くの人には理解されない。純粋科学の科学的価値は、数値では表現できないし、言葉でも簡単に表せない。そのせいか、基礎科学を研究している人に対して「道楽だ」という言葉を投げかける人もいる。なかなか基礎科学の重要性をわかってもらえないのが少し悩ましい。

もちろん、応用科学も元をたどれば基礎科学の結果の上に成り立っている。基礎科学がなければ応用科学も存在できない。そう言えば少しは基礎科学の重要性はわかってもらえるかもしれない。しかしそれは純粋に「価値」を理解するのとは少し違う。

ほとんどの基礎科学者は「基礎」を研究していることに誇りを持っている。そして「基礎」の価値と重要性をどこまで理解して受け入れられるか、それは社会の熟成度を大きく示すものである。

できないのが悔しいのではなく、努力できないのが悔しい。

努力してできなかったことは諦めがつくが、努力できないことに対しては非常に悔しいし、情けない。最低限の努力は何ともしておきたいものである。

最近は、根性論だとか精神論を何かと否定する風潮が強い。確かに根性論・精神論を他人に押し付けるのは間違っている。だからと言って精神論が全く不要かと言われればそうではないように思う。ましてや自分自身を鼓舞するための精神論を他人に否定される筋合いはない。

現在は、集団主義から個人主義に移りつつある。そのような個人主義の中で、他人に自分の考えをごり押しするのは確かに間違っている。努力するもしないもそれぞれの自由である。しかしその結果は火を見るより明らかである。

そのような悔しい思いをしないためにも、努力をして悔いの残らないように取り組みたいものである。

健康を持て余すな!

言うまでもなく、健康は最大の財産だ。健康を崩している人はより健康に、そして健康な人はその健康な体を最大限に生かさなければならない。

とは言え、健康を崩している時は健康であることのありがたさを十分に感じるものだが、日常的に健康である人は、なかなか健康であることのありがたさを感じることができない。

しかし、健康であることは最大の武器でもあり、才能でもある。しかし、それを意識せずに怠慢してしまう人間も多い。すなわち健康を持て余しているのだ。

健康を持て余すのは、最大の浪費である。お金の浪費は、大なり小なりそれに見合う授受があるが、健康の浪費は無駄以外の何物でもない。

どの人間でも、100%健康であるという状態はなかなかないかもしれないが、100%でなくても自分が健康であると感じているならば、その健康な心身を最大限に生かして物事に取り組みたいものである。

最後はやはり、自分を信じ抜けるかどうかだ!

「他人の意見をしっかりと聞くことが大事だ」とは、よく言われる。確かに他人の意見が役に立ったとか、それによって成功したとかいう話はよく聞く。しかし他人の意見一辺倒では、自己が入る余地はない。そのような生き方をしても、それは他人の生き方でしかない。

僕は、「失敗してもいいから自分を信じ抜くこと」を大事にしている。上手くいくかどうかわからない他人の意見に従うよりかは、上手くいくかどうかわからない自分の考えに従うことの方が賢明だと考えるからだ。そして、自分自身で出した判断に従えば、例え結果がどうであろうと納得できる。

上手くいかなくてなかなか結果が出ない時、他人の意見に従いすぎて右往左往している人間を見かける。そうではなく、なかかな結果が出ない時こそ、自分を信じ抜くことによって打開策を模索することが大事だ。

最後まで自分を信じ抜けるかどうか、苦しい時こそそれにかかっている。

来週、ノーベル賞発表。これからの日本の科学の行方。

来週月曜日の医学・生理学賞を皮切りに、ノーベル賞受賞者の発表が始まる。受賞者をニュース速報で知るのもいいが、ノーベル財団公式サイト「Nobelprize.org」で、発表の中継を見るのも面白い。この公式サイトはもちろん全て英語で書かれているが、ノーベル賞のこれまでの歴史や特集など盛りだくさんで、結構面白い。

ところでこれからの日本のノーベル賞、もっと広く日本の科学界はどうなっていくのであろうか。最近しばしば忠告されていることであるが、日本の科学の将来はかなり暗い。そのことは、2015年物理学賞受賞の梶田教授や、去年の医学・生理学賞受賞の大隅教授も頻繁に口にしている。

その原因は、日本の「基礎科学の軽視」にある。最近の日本の科学政策は、圧倒的に応用重視だ。役に立つもの、さらに言えば儲かるものに対して、圧倒的に予算が回される。もちろん、ノーベル賞だけが科学ではないが、ノーベル賞は圧倒的に基礎科学重視である。

20世紀まで、日本は圧倒的に基礎科学に対して寛容であった。それが湯川秀樹をはじめとする基礎科学者のノーベル賞受賞につながってきた。

役に立つ科学・儲かる科学の価値は非常に分かりやすい。しかしそれらの応用科学は言うまでもなく基礎科学の下に成り立っているのであり、基礎科学は国家の科学力の基礎体力である。すなわち基礎科学軽視は、役に立つ儲かる科学の衰退にも結び付いてくる。

iPS細胞研究も、元はと言えば基礎科学の研究であった。それが今では再生医療という圧倒的に役に立つ科学に昇華している。

日本人のノーベル賞受賞が続いているとは言え、科学技術立国としての日本の将来は非常に暗い。そのような展望を修正するには、文科省などの科学政策に関わる官僚・政治家の基礎科学に対する認識を変えるしかない。