投稿者「木原 康明」のアーカイブ

今日を生きる。

人間誰しも、必ず明日を生きれるという保証はない。もちろん、ほとんどの人は99.9%明日を無事過ごすことができるであろう。しかし100%ではない。明日の事は明日にならなければわからない。だから、今日を真剣に思いっきり生きなければならない。

そう考えると、悩みの先取りなんかしている場合ではない。十年後・二十年後、どのように生きるかということを考えることも、もちろん重要だ。しかし今日・明日を生きなければ十年後はない。

未来を自分らしく生きるためにも、まずは今日を真剣に生きることに全力を出そう。

最新か?古典か?

科学の研究でもそうだが、どうしても最新の結果が気になってしまう。最新の結果を知ることによって、その先端に新たなる結果を継ぎ足していく。それを繰り返すことにより実績が積み重ねられる。

しかし、革新的な結果というものは、最新の結果の継ぎ足しというよりも、過去の重要な古典的結果を利用する、あるいはそれを基に覆すことによってもたらされることが少なくない。古典的結果を熟読し、深く理解することは、最先端の研究を進める上でも非常に重要である。

ファッションでもそうである。雑誌に書かれた最先端のファッションばかりを取り入れた着こなしは、どことなく奇抜であまりお洒落に見えない。ファッションの基本を押さえたうえで、長期的スパンの流行と、短期的スパンの流行を適度に取り入れるのが、適度にお洒落でしっくり落ち着いて見える。

話しは初めに戻るが、古典を軽く見るのは明らかに間違っている。古典を知らないで、最新の結果を深く見渡すことはできない。どの分野に関しても、まずは古典を熟知することから先への進歩が始まることになる。

トリプル選挙(衆院選・神戸市長選・神戸市議補選)を終えて。

22日の衆議院議員総選挙を終えて、少し世の中が落ち着いた頃かもしれない。僕の住んでいる神戸市では、衆院選の他、神戸市長選・神戸市議補選もあり、トリプル選挙となった。

今回の選挙に関してはいろいろ感想はある。まずは愛知7区の山尾志桜里氏が当選したことが個人的にはうれしかった。山尾氏は選挙前のスキャンダル報道で劣勢に立たされたが、山尾氏の政治的手腕に関しては高く評価されており、スキャンダルに関しても政治とは全く関係のない色恋沙汰であり、今回の山尾氏の当選は愛知7区の市民をはじめ、国民が見るべきところをしっかりと見据え、良識ある判断を下したものだと僕個人的には感じている。

そして何より今回の衆院選の結果についての最大の関心は、自民党をはじめとする与党が3分の2を取るかということであろう。安倍首相率いる与党は3分の2を獲得したわけであるが、これからは改憲についての話題が最大の関心事となるであろう。

改憲に関しては、真っ先に第九条が論争されるが、改憲は何も第九条に関してだけではない。その他の事項に関しても改憲の対象となっているが、僕が恐れているのは第九条の混乱のどさくさに紛れて、その他の事項に関して特に論争もされずに改憲が成し遂げられてしまうことだ。

最も恐れるのが「条文の拡大解釈・拡大適用」である。極端な例で言うと、戦前の治安維持法のような状況がもたらされることを、最も恐れる。もちろん、第九条に関しても然りである。

ただ、安倍一強による強権政治は、メリットも大きい。特に対北朝鮮をはじめとする安全保障の分野に関しては、安倍首相の強腕による効果は計り知れない。そして対米関係に関しては、安倍首相だからこそトランプ氏に対して対等に渡り合えることができると言えるだろう。

しかし、ここまで安倍自民が大勝して強権を持つ状況に関しては、正直言って危機感を覚える。

これから近い将来にあるであろう、改憲に関する国民投票に関しては、しっかりと熟考し、適切な判断をすることが国民には求められる。これからの日本に関して安倍一強政権が吉と出るか凶と出るか、それには国民の意志も大きく関わることになる。

眼で世界を見るのではなく、紙とペンで宇宙を見る。

世界を見ることによって見識を深めるということは昨今のブームみたいなものでもあるが、宇宙から見れば地球上の世界は微々たるものだ。それならいっそのこと、宇宙を見て全てを見渡せばいい。

しかし、望遠鏡の性能にも限界があるので、眼で宇宙を見渡すには限界がある。しかし紙とペンさえあれば宇宙を全て見渡すことが可能だ。しかしおそらくまだ誰も宇宙全てを見渡してはいない。初めて宇宙を見渡す人間は誰になるのであろうか?

幾何化予想(ポアンカレ予想)を解決した数学者ペレルマンは、幾何化予想を解決することによって宇宙を見たと言ったという。しかし僕の個人的見解では、ペレルマンはまだ宇宙全体は見ていないと考えている。ペレルマンの3次元幾何だけでは、相対論的宇宙を見るのにはまだまだ不足がある。

宇宙の果てというものは、望遠鏡で見るものではない。紙とペンで見るものであると僕は考えている。紙とペンには限りない可能性が秘められている。

規則を破ることの大切さ。

規則を破ると言っても、やみくもに何でも破れと言っているのではない。「破るべき規則を破ることが大事だ」ということを言っている。

規則というものは全知全能の神が作ったわけではない。規則を守る者が人間ならば、規則を作るのも人間だ。従って、規則の中には明らかにおかしい、理にかなっていない規則というものが多く存在する。そこでやみくもに「規則は絶対的に守らなければいけない」と思考停止するのではなく、「その規則は本当に必要なのか?理にかなっているのか?」ということを、しっかりと自分の頭で考えることが重要だということを言いたいのである。そのうえで、その規則が明らかにおかしい、全く理にかなっていないと判断したのならば、それを主張の上、破ることが重要である。

この、規則を破るという行為は、できれば小中学生のうちから身に付けておきたいスキルである。子供の頃に、一方的に「規則は何でも守らなければいけない」という考えが染み込んでしまえば、大人になると、「支配者の言うことは何でも盲目的に従順する一方、立場の弱い人、あるいは子供に対しては一方的に規則で縛り付ける」という大人になってしまう。

規則を破るという行為は、「自分の頭でしっかりと思考する」という、人間が自立して生きていくうえで非常に重要な行為に直結する非常に重要なことである。

悩む暇があったら実行しよう。

僕はかなりくだらないことで悩むことが多い。特に悩みの先取りは、何のメリットもなく、くだらない。まだ起きてもないことで悩む暇があったら、とにかく実行することが先決だ。

そして悩むには、意味のある悩みと無駄な悩みがある。悩むことから文学や音楽を生み出すクリエイティブな人間は非常に素晴らしい。作曲家のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」はまさに、悩んだ末に生まれた名曲だ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」という名著もある。

しかし、普段我々が遭遇する悩みのほとんどは、くだらない悩みだ。少なくとも僕の場合はそうだ。チャイコフスキーやゲーテのような価値のある悩みというものを体験してみたいものである。そんな貴重な悩みができないのならば、せめて有意義なことに行動を移して、無駄な悩みを頭の片隅に追いやろう。

科学の皮をかぶった嘘に惑わされるな!

非科学的なものは見破るのも簡単だが、科学の皮をかぶった嘘(疑似科学)というものは幾分厄介だ。疑似科学は一見論理的に見える。なので、論理的=科学的、と間違った判断を下す人も多い。しかし多くの疑似科学は、根っこ、すなわち出発点である前提条件が間違っていることが多い。間違った条件から出発した論理は、もちろん間違っている。

そしてよくあるのが「論理の飛躍」。部分部分は論理的でも、あるところで論理の断層が生じている。もちろん論理の断層(飛躍)は単なる思い付きに過ぎない。

そして「嘘の統計」に基づくものもある。初めから嘘をつくつもりで嘘の統計を持ち出すのはもちろん悪質だが、統計サンプル、あるいは統計手法に偏りがあり正確ではないものが多く存在する。これについてたちが悪いのは、話を持ち出す本人もこの問題点に気づいていないことだ。話す本人も統計に基づいた話だから科学的だと思っているのである。

論理的であるか、嘘であるかは、話を聞かないとわからないことだが、中には話のテーマを聞いただけで非科学的であると即断できることもある。このような即断できるようなセンスと論理力を、日頃から養っておかなければならない。

他人に対して興味を持つこと。自分の事に没頭すること。

他人の事に興味を持つことは、非常に大事である。とは言っても、有名人のスキャンダルとかそんなことではない。そんなことはどうでもいい。興味を持つべきは、他人の生き方、他人の技術、他人の知識など、自分に対してフィードバックできることに興味を持つことが大事である。他人のことなどどうでもいいという姿勢が、自分に対して没落的な方向へと向わせることになる。

その一方、他人のことなどお構いなしに、自分のすべきことに没頭することも大事である。他人の眼ばかり気にしていれば、新しいことはできない。革新的な事を成し遂げるためには、他人の眼ではなく自分の信念を貫くことが大事である。

周りの事のうち何に関心を寄せ、自分の事のうち何に没頭すべきか。それは自分の目指す生き方、そして目指す職人像によって変わるであろうが、どのような像を目指すにしても、基本的なことは共通しているので、その共通する基盤はしっかりと把握しておかなければいけない。

一点集中突破!

物事に取り組む時には、大きく二つに分かれるのではないかと思う。一つは狭い分野を集中的に極めること。もう一つは幅広く大きな問題に取り組むこと。

後者の場合、取り組むべき分野は自然と多くなり、複数の分野の見識が必要になる。しかしだからと言って、専門的な知識が全く必要ないわけではもちろんない。学際的な分野横断型の問題に取り組むときにも、一つの分野を極め軸足をつくることは非常に重要である。いつまでも幅広く普通に取り組んでいれば、いつまでたっても深く掘り下げることができない。

まずは一点集中突破的に一つの分野を極め、そこからじわじわと範囲を広げるのがセオリーであろう。あるいは、極めた分野に他の分野の見識を持ち込み融合する。そうすることによってブレークスルーが生まれることもよくある。

どちらにしろ、自分の専門を作り、そこで一点集中突破を成し遂げ、そこから大局的な視点から幅広く全体を見渡すことが大事である。

福井中2自殺。教師のための学校になってはいなかったか?

福井で起きた中学2年生の自殺事件で、当時の状況が明らかになりつつある。

自殺した中学生は、度々教師から過度の叱責を受けていたという。「聞いた人が身震いするくらい怒られていた」(朝日新聞デジタル)という証言もあるそうだ。このような事例は定期的に起こっているが、その度に思うのが「教師のための学校になっているのではないか?」ということだ。

学校は言うまでもなく子供に対する教育の場であり、子供のための施設でもある。学校というものは「子供ありき」で考えなければいけない。しかし今回の事例などは、「教師ありき」であり、教師の円滑な運営のため、あるいは教師のエゴによってもたらされたと思わざる負えない。

もちろん、昔に比べて状況は改善しているようにも思え、体罰についても昔に比べればかなり減ってきているようにも思える。しかし今回の事例のような悲惨な事件は後をたたない。

昔はこのような事件は今よりもかなり多かったのかもしれない。ただ明らかになっていなかっただけだと思える。今は少なくなったとはいえ、このような事件は一件たりとも起こしてはならない。そして交通事故とは違って、ゼロにすることは不可能ではない。教師の意識次第で絶滅させることは可能だ。そのためには繰り返し述べるが「生徒のための学校」という認識を強くもつことが必要である。