投稿者「木原 康明」のアーカイブ

スキージャンプと数学

先ほどスキージャンプの試合をテレビ中継していた。スキージャンプの飛距離を左右するのが風の抵抗だ。風邪は一刻一刻と変わっていくので、風邪を読むのは非常に難しい。

ところで、風などの流体は数学的には「ナビエ・ストークスの方程式」という方程式で記述される。偏微分方程式と言われるものの一つだ。しかしこの方程式は非常に複雑で、まだ数学的に厳密な解は求まっていない。何十年か何百年か知らないが、非常に長い間未解決問題をして残されている。偏微分方程式を研究している解析学者の多くは、ナビエ・ストークス方程式の解を導くことを夢見ている。

流体が問題になるものの一つに、飛行機の空気抵抗がある。現在このような流体による抵抗を計算するときには、シミュレーションするか近似的な解を求めることになる。しかしナビエ・ストークス方程式の厳密解が求まれば、飛行機の設計にも大きな影響を与えるとも言われている。スキーのジャンプの理想的な飛び方なども見つかるかもしれない。

ちなみにナビエ・ストークス方程式を解くと、クレイ数学研究所から約1億円が懸賞金として送られる。

そうそう、スキージャンプの話をしているのだった。団体戦、最後はレジェンド葛西選手が締めくくって日本は4位だった。葛西選手の飛型は非常に美しいので、見ていてすごく気持ちいいものである。

坂本ラヂオという会社

昨日、とある記事を見た。

坂本ラヂオ株式会社という会社がある。まず何がすごいかと言うことを一言で言うと、2011年の売り上げが5000万円だったのが、2014年には40億円になったそうだ。社員数は18人。一人当たり2億円以上を稼ぎ出している計算になる。

しかも社風が面白い。値引きはしない。ノルマは課さない。

以前僕のブログでトヨタの莫大な利益に関して書いたが、企業は値引きをしようとすると、それをメーカーに強要する。そしてメーカーは部品会社に強要する。そのように下請け、孫請け会社がどんどんじり貧になっていくという構図だ。

値引きをすると消費者が得をするように思えるかもしれないが、そうではない。値引きをすればメーカーでは経費削減をせざる負えなくなる。そしてアフターサービス、さらには品物の品質がどんどん悪くなってくる。

値段はそのまま価値を表しているのである。

自分の話になるが、僕はパソコンはパナソニックのレッツノートしか使わないことにしている。知っている人もいると思うが、レッツノートはパソコンの中では最も値段が高い部類に入る。普通のファミリーユーザーでは使っている人は稀であろう。しかしビジネスマンの間では圧倒的な人気がある。なぜか。信頼性が他のメーカーのパソコンに比べて圧倒的に高いのである。まず壊れにくい。さらに非常に手厚いサポートが電話一本で受けられる。もちろん信頼ある日本製。パソコンの信頼性がそのままビジネスの成果に表れるのなら、値段が高くてもレッツノートを選ぶのもうなずけるであろう。

話を戻すが、このように値引きを強要する文化は、中長期的に見れば負の影響が大きい。長い目で見れば消費者も損をしているのである。

坂本ラヂオのような会社は稀で、値引きを強要するような消費者には受け入れられないかもしれないが、このような会社が急成長しているということは、値段が価値を表しているということをしっかり認識している人もそれなりにしっかりといるということであろう。

もちろん何もかも高いものを買う必要はない。安くで済ませるものは安くで済ますのは賢い選択かもしれない。しかししっかりした物をと考えている物には、それなりの対価を払って手に入れるのがより賢い選択かもしれない。

巨大ブラックホール

最近、とてつもなく大きなブラックホールが見つかったみたいだ。どれくらい大きいかと言うと、太陽の120億倍の質量があるそうだ。

そもそもブラックホールとは超高密度な天体で、周りの空間が重力によって歪みすぎて光さえも脱出できない星だ。どれくらい超高密度かというと、地球をギュッと数百メートルくらいに圧縮して縮めるとブラックホールになるらしい。

たまにアインシュタイン方程式のシュバルツシルド解などを扱うことがあり、具体的な数値を出すことは少ないのであまり実感はなかったが、おそらくチロルチョコくらいの重さが何トンもするのだと思う。

ところでブラックホールの中心には特異点というものが存在する。ブラックホールは一般相対性理論を解析すると出てくるのだが、特異点では一般相対論自体が破たんしてしまうような点だ。すなわち特異点領域の様子を知るためには他の理論が必要で、量子重力理論がそれを解明するだろうと言われている。ちなみに量子重力理論はまだ完成していない。

現時点で、量子重力理論の候補として二つの理論が有力視されている。超弦理論とループ量子重力理論だ。もちろんこれらの理論以外の理論が突如として現れる可能性も否定できない。

量子重力理論を完成させ、アインシュタインの直系の後継者が現れるのはいつのことになるのだろうか。

 

良い面を見るか、悪い面を見るか

選挙になるといつも悩むのが、票を入れたいと思える候補者がいないということだ。いいなと思う候補者がいても、悪い面が見えたりしてやっぱり嫌だなと思ってしまう。全てが良くて悪い面がない候補者なんていないのかもしれない。ならばどこかで妥協しなければならない。

なぜいきなりこんなことを書いたのかと言うと、2月25日の読売新聞に「大きな実績を残したと思う戦後の首相ランキング」というのが載っていて、2位が小泉純一郎で、1位は田中角栄だったのである。

田中角栄と言えば政治で大きな実績を残した一方、ロッキード事件などのお金にまつわる大きな犯罪を犯したことでも有名だ。おそらく戦後一番悪いことをした首相ランキングがあるならば圧倒的に1位になっていたであろう。

すなわち田中角栄は、良い面でも偉大、悪い面でも偉大なのである。田中角栄が悪い人間だといって排除されていたら、今の経済大国日本は確実に存在していなかった。かといって悪い面は許されることではないが。

やはり政治家を選ぶときは、良い面を見て、悪い面には目をつぶらなければいけないのか。偉大な政治家は劇薬である。悪い面が全くない政治家がいるならば、それは無色無臭の水かもしれない。

政治家としての力と金権にまみれた悪い面、どちらを判断材料にすればいいのか、非常に難しいところで簡単に答えは出ない。

ただ、逮捕されて数十年経ち、今は亡き田中角栄が戦後の首相の中で一番評価されている現実は一つのヒントになるのかもしれない。

やっぱり素粒子論は面白い

僕は大学学部は数学系、大学院も数理系の研究科にいたこともあって、今まで勉強、研究してきたことは数理物理とはいえかなり数学よりに偏っていた。しかしもとをただせば小学生のころに長岡半太郎の原子モデルに魅せられたことに始まって、興味の重みは物理の方にあった。大学に入る前から素粒子論を研究すると周りの人に言いふらしていた。

ではなぜ大学に入るときに数学科(数理・自然情報科学科)を選んだかというと、数学は学校でやって、物理は独学でやろうと思ったからだ。しかし大学入学早々、大学図書館にこもって数学の授業も出ずに数学も物理も独学でやろうと挑戦してしまった。おかげで単位はほとんど取らずに一年が過ぎた。

その後いろいろアクシデントがあったりしてかなり回り道をしたが、数学と物理に対する情熱は持ち続けてきた。

最近になって、数学よりから物理よりのことをするようになり、原点であった素粒子論に近いことをやりだして、やはり素粒子論はめちゃくちゃ面白いと改めて感じてきた。

最近していることの一つにゲージ理論というものがあるが、これは数学ではフファイバー束という理論と等価であり、数学と物理の双方で研究がされている。しかし物理としてのゲージ理論の醍醐味は「量子論」としてのゲージ理論であり、この量子化がゲージ理論をより深いものにする一方、非常に複雑なものにしている。

この量子ゲージ理論はまだ厳密に数学的理論化はされていなくて、その数学化はアメリカのクレイ数学研究所の七つの懸賞問題の一つとして一億円の懸賞金がかけられている。

七つの懸賞問題のうち現在までに解かれたのは、ペレルマンが解決したポアンカレ予想だけで(ちなみにペレルマンは一億円の受け取りを拒否し、その一億円は宙に浮いている)他の六個は未解決である。

量子ゲージ理論の問題(厳密には「ヤン・ミルズ理論の存在と質量ギャップ」の問題と言う)はその中でも最も物理寄りで、最も地味な問題に思えるが、この数理物理の問題に数学研究所が懸賞金をかけていることは素晴らしいことである。

次に一億円の懸賞金を獲得するのはいったい誰になるのだろうか。楽しみである。

農林政策について

農相が辞任するというニュースが流れた。当然と言えば当然だ。農相が砂糖業界から献金を受けるなんて、贈収賄事件以外の何物でもない。大臣ともあろう者がこの100万円(大臣への企業献金としてはたった百万円というべきか)の献金が何を意味するところかわからないはずはないであろう。

砂糖業界から農相へ、小学生でもわかるような実に単純な構図だ。

ところで最近少し忘れ去られた感があるTPP。今は話が進んでいるのだろうか。TPPの協議の中での一番の焦点はやはり米であろう。米は日本人の主食だ。米の自給率は非常に高いが、米の輸入を解禁するともちろん自給率は下がるだろう。安い米が入ってきて一部の日本人にとってはうれしいが、主食の自給率が下がることは非常に危険なことである。輸入はいつどのような理由でストップされるかわからない。あらゆる食物の自給率が下がっている中、米の自給率は何としても確保しなければいけない。

とは言っても、一部の米農家が高品質な米を生産しようと努力している一方、輸入がされないのをいいことに、努力しないでただ作っているだけの米農家もいる。TPPに反対しているのはこの後者の方だ。高品質米は国内だけでなく、海外でも必ず需要はある。むしろブランド米として世界へ流通させる絶好のチャンスであろう。

牛肉も同じだ。安いアメリカ牛が入ってくる中、日本の高級ブランド牛は世界が求めている。

この高品質高級戦略は、イタリア型戦略と言える。イタリアの経済規模は決して巨大ではない。しかし車のフェラーリからファッションに至るまで、高品質高付加価値戦略でその存在感は巨大であり、業界をリードしている。

日本の農政もこれからはこのイタリア型戦略に舵を切ることによって、自給率維持と世界への流通の両立が可能に違いない。

考えたら、即行動

僕の現在の基本方針の一つに「とにかく行動に起こす」というものがある。本を読んで理解するだけなら簡単だ。まず自分の頭で考える。そして動く。動いて初めて意味を持つ。

またまたNKH大河ドラマの「花燃ゆ」の話だが、吉田松陰も「考えるだけでは意味がない。行動に移して初めて意味を持つ」みたいなことを言っていた。黒船に乗り込むようなとんでもない行動も、その精神が原動力になっているのかもしれない。吉田松陰みたいな大先生には及ばないが、私も今年はいろいろ行動を起こし、またいろいろ起こしつつある。

本当は一番やりたいこと一つに没頭したいのだが、今の自身の立場から言ってそれは無理だ。もちろん数理物理の研究は譲れないが、今年はやろうと思ったことはすぐにやってみることにしている。

考えたら、即断し、即行動。

最近も仕事関係で一つプロジェクトを進めることを決めた。昨年末から数えて、四つ目の行動になる。

「面倒くさいな」などと思っていたら、いつまでたっても行動に移せない。「とにかくやってみるか」とまず少し前進することが大事である。

西川きよしが言うように、何事も「小さなことからコツコツと」。その精神を肝に銘じて一歩一歩進もうと思う。時には大きな飛躍もしたいが。

逆境でも負けない

失敗しても、挫折は絶対にしない。

逆境にも耐え、最後には成功に導く、そんな覚悟と粘り強さが大切です。

できます。あきらめません。

一般相対性理論、誕生百周年

今年はアインシュタインが一般相対性理論が発表されてから約100年になる。一般相対論関連の論文は1914年あたりから出ているが、決定的な確定打となった論文は1916年、つまり厳密には100周年は来年になる。

その1916年の論文は、当時論文言語として主流だったドイツ語で書かれている。アインシュタインは当時は確かベルリン大学の教授だったと思う。

ところでアインシュタインの相対性理論には2種類ある。「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」だ。名前とは裏腹に、特殊相対論の方が一般的で、一般相対論の方が特殊だと言われている。1905年の特殊相対論はとてつもなく革新的だった。そして1916年の一般相対論も非常に革新的なのだが、それに加えてとてつもなく壮大な理論だ。壮大さでは一般相対性理論の右に出る科学理論は存在しない。

アインシュタインは特殊相対論で時間と空間を合体させ、時空という概念を作った。そして一般相対論で重力を時空のゆがみであると提唱した。

多くの理論が数年で消えていく中、この両理論は今でも基礎理論として色あせることなく生き残っている。アインシュタインの先見性は驚くべきものである。

20世紀は物理学の世紀とも言われている。特殊・一般相対論、そして量子力学を基礎として、物理学は大きな飛躍を遂げた。

そしてアインシュタインがもう一つもたらしたものは、「物理学の数学化」だ。これはヤン・ミルズ理論によっていっそう拍車がかかり、最近の超弦理論などは物理というよりむしろ数学だ。この数学的物理理論は本当に正しいのだろうか。

最近は素粒子論研究者の多くが超弦理論に流れ、その比重が偏りすぎているように思える。超弦理論へエスカレーターがつながっているかのような様相だ。既存の分野を覆すような革新を起こすような、オリジナリティあふれる研究に取り組むような学者がもっと増えてきてほしいものである。

体罰教師の問題

いつも忘れたころに流れてくるニュースの一つに「体罰教師」の問題がある。最近は過去に二度体罰を注意された教師が三度目の体罰事件を起こしたというものがあった。いくら重大な事故につながっていないとはいえ、このような体罰中毒者のような累犯者を野放しにしていていいのか。

体罰によって従わせようという行為は、自分の教育力に自信がない証拠だ。百歩譲って体罰を行うとしても、相手が納得するようなものでなければならない。

体罰教師はもはや教育者とは言えない。そんな体罰教師を許す管理者も同犯だ。

体罰教師の起こす事件は、以前の韓国の航空会社の女副社長が犯したピーナッツ事件を思い起こさせる。この事件では乗り組み責任者には全く非はなかったが、仮に非があったとしてもそれに激怒し叱責し航空機の針路を変えた女副社長の方が比較できないくらい大きな罪がある。

体罰も同じである。生徒に非があっても、それを体罰によって叱責する教師の方がはるかに大きな罪がある。体罰は罪である。しかし体罰教師はその体罰を罪と思っていないどころか正義だと思っている。あるいは自分の感情をむやみにさらけ出しているだけかもしれない。そうだとしたら大人ではなく幼稚園レベルである。

20年くらい前までは体罰は日常的に行われていた。そういう意味ではまだ社会は未熟だったのかもしれない。しかしその体罰を指導の一手段として容認されていた時代にも、三つのタイプの教師がいた。生徒のことを親身に思って最終的に体罰を行っていた教師、仕事の一業務として自動的に体罰を行っていた教師、単に感情をあらわに出して発散しているだけの教師。今残っている体罰教師は三つ目のタイプであろうと思う。この様な教師は教師としてどころか大人として失格である。こんな失格人間に指導される生徒は悲惨なものである。

もし体罰教師が校内でしていることを校外でしたらどうなるかと考えると、体罰の罪の重さがわかる。まず間違いなく逮捕されるであろう。刑務所行きかもしれない。

学校は体罰教師の楽園だったのか。学校は教師の給与獲得の手段のためにあるのか。そんなことは明らかに間違っている。体罰教師、そして給与獲得手段と思っている無気力教師にはすぐにも校内から去ってもらいたいものである。