投稿者「木原 康明」のアーカイブ

人生を費用対効果で測る愚かさ。

べつに費用対効果で物事を考えることを否定しようとは全く思わない。ビジネスにおいては費用対効果は最も重要な要素になるし、日常において物事に取り組むにしても、費用対効果という視点で物事を判断することは非常に有用だ。

しかし人生となると話は別だ。当たり前の話だが、人生はビジネスではない。もちろん人生においてお金は非常に重要だが、お金では体験できない経験、そして感情、健康、生きがいなど、お金ではどうにもならないことはたくさんある。逆に言えば、人生においてもお金で解決できることもたくさんあるのだが。

日常を本当に楽しむことができているか?日常は充実しているか?やりがいを感じているか?人生において打ち込むべきことは見つかっているか?

それらの前提があってから、初めて費用対効果という視点に移るべきではないか。全てにおいて最初から費用対効果で考えるのは明らかに間違っている。

大事なのは、費用対効果で測るべきことと、そのようなことでは測れないことを、しっかりと区別し判断することではないだろうか。

首相動静を楽しむ。

多くの新聞の片隅には、首相動静というものが載っている。首相の一日の行動を事細かに書き表したものだ。

11月3日の安倍総理の首相動静には、トランプ大統領の長女・イバンカさんとの会食の日時が分刻みで記述してある(時事通信の時事ドットコムで確認)。イバンカさんとの会食は、旅館「星のや東京」で行われたと記述されている。何気ないことだが、旅館の名前を聞くだけで会食の様子が想像される。

昔、麻生氏が総理をされている頃、帝国ホテルのバーに通っていたことは有名だ。もちろんその事も、当時の首相動静に書かれていたはずだ。そのような行動からも、麻生氏の趣味なり人となりがうかがえる。

11月5日、トランプ大統領が来日する。安倍首相とトランプ大統領は、鉄板焼きの店で和牛ステーキと海鮮料理を食事するという報道があった。トランプ大統領が肉好きということを受けての事だそうだ。その鉄板焼き屋さんの店名はまだ出ていないが、少し気になるところだ。

以前、オバマ大統領が来日した時は、銀座の寿司屋「すきやばし次郎」で会食をしたことは有名だ。

この様な首相の日常を知るだけでも、日本を背負う公人の考えが伝わってきて意外と面白い。

考古学と最先端科学技術。

エジプト・クフ王のピラミッドの内部に巨大空間が見つかったという(読売オンライン)。この空間は名古屋大学をはじめとする国際研究チームが解明したというが、その解決手法は、宇宙から飛来するミュー粒子を使ってピラミッドの中身を透視するというものであった。

ミュー粒子とは素粒子論でもおなじみで、スピンが2分の1の粒子なのでディラック方程式で記述できるはずだが、一昔前まではミュー粒子を扱うような素粒子論などの純粋科学が何かに役に立つとは、ほとんどの研究者は考えなかったであろう。まさに「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを実証した形だ。

普通の人からすれば変な話かもしれないが、純粋科学に取り組んでいる人の中には、役に立たないことを誇りに思っている人々がいる。しかもその数は少なくない。しかし役に立たないという言葉の裏返しは「科学的価値がある」ということである。実はこれらの人々は科学的価値があることを誇りに思っているのだ。

クフ王のピラミッドの話に戻るが、素粒子論が考古学に利用されるとは、時代も進歩したものである。この先、どのような役に立たない純粋科学が日常で用いられるようになるか、期待するところである。

頭が働かない時は。

体の好不調があるように、頭脳の好不調ももちろんある。頭が働く時は高度な思考を要することに取り組み、頭が働かない時はその分体を動かせばいい。

20世紀のある偉大な哲学者は、「頭が冴えている時は論理学に取り組み、普通の時は哲学に取り組み、働かない時は社会学に取り組む」と言ったという。それぞれの人間に対して適材適所な役割があるように、自分のコンディションにも適材適所がある。

「その時何に取り組むべきか?」という問いに対して適切な判断を下せるかどうかということも、人間としての実力の一部である。そのような適切な判断を下し、その時出しうる最高のパフォーマンスを発揮することが求められる。

型を知り、型を破る。

「型破り」とは、物事の究極である。型を破るためには、型を知り抜き、型を空気のように実行できるレベルにならなければいけない。型を知らなければ、単なる「型知らず」にしか過ぎない。

昔、僕の大学時代の知り合いがよく言っていた、「指揮法を知らない指揮者と、指揮法を無視する指揮者は違う」とは、はまさしくツボを言い当てている。

もちろん、型破りなレベルには並大抵の事では達することはできない。型破りの境地を目指すためにも、自分の専門を極め、かつ専門外の分野に対しても幅広い視野を持ち知り抜くことが要求される。

理論は正しいのか?間違っているのか?

最近何かと話題の「ダークマター(暗黒物質)」。観測データに照らし合わせると、ダークマター・ダークエネルギーが宇宙の質量のほとんど(90%以上)をせめるという。ダークマターの候補になる物質はいくつか考えられているが、現在ではまだそれを特定するには至っていない。

ただそれらは既存の理論に基づいたデータであり。理論そのものが間違っているという可能性も否定できない。実際、現在の宇宙モデルの基になっている一般相対性理論は不完全である(量子論でないという意味で)というのは物理学者の間では共通の認識であり、一般相対論が量子化(量子重力理論)されれば解決されるという可能性も否定できない。また、既存の理論を修正するという試みも行われている。

いずれにせよ、現在の観測データは既存の知識だけでは説明できない状況が起きている。現在の理論は正しいのか?間違っているのか?また間違っているのならば修正すれば観測と一致するのか?あるいは根本的書き換えが要求されるのか?まだ結論は出ていないが、根本的書き換えによって物理の世界に大変革が起きる可能性は否定できない。

未来の物理理論の風景はどうなっているのか?その風景を作り上げる物理学者には強い野望が求められるところである。

打ち込むべきことに没頭して、苦しい時を乗り越える。

苦しい時、ストレスを感じている時、気分発散して乗り越えるということが多いであろう。確かに気分発散して乗り越えるというのも一つの手だ。しかし、気分発散だけが乗り越える手段であると、常に気分発散をせざる負えない状況に陥る。

しかし苦しい時を乗り越える手段は気分発散だけではない。打ち込むべきことに没頭して乗り越えるというのも手だ。頭を使って没頭していると、余計なことに頭を使わずに済むので、意外と精神的にも落ち着いてくる。ストレスも劇的に軽減されることもある。

しかも、打ち込むべきことに没頭するので、物事が、あるいは人生がより良い方向へと前に進みだす。ある意味、打ち込むべきことに打ち込むというのも気分発散であると言えるのかもしれない。

もちろん、適度にお酒を飲んだりして気分発散するのも悪くはないが、精神的に苦しい時を乗り越えるのには、何かに没頭するのが効果的で前向きな解決の手段だ。

努力を押し付けるのは時代に合わないけれど。

努力が手放しで称賛される時代は終わり、現代はある程度ゆとりを持った多様な生き方が求められている。努力を押し付けるということもほとんどなくなり、皆リラックスして生きているようにも思える。

確かに努力を押し付けるのは時代に合わず、努力のごり押しは間違った考えかも知れないが、自分で努力することに関してはまた話は別だ。努力は苦しいもので、できる事なら努力なんてしたくないと思う人も多いのかもしれないが、自ら努力に突っ込んでいく人も少なからずいる。

自分には目指すところがあり、それを成し遂げるためには努力することは必須だ。他人に努力を押し付けようとは全く思わないが、自分は限りなく努力をもって追求していきたいと思う。

情報過多の時代、いかに必要な情報だけを抜き取るか。

情報過多な現代では、必要な情報だけではなく、無駄な情報、または悪意のある情報が氾濫している。ネットを使えばほとんどの情報はいくらでも入手できるが、問題なのは見ないほうが良い情報までごり押しのように飛び込んでくることだ。

ところが、必要な情報だけを手に入れ、不必要な情報を全てシャットアウトするのは不可能だ。必要な情報と不必要な情報はセットでやってくる。いかにして情報に対するフィルターを作るか、なかなか難しいところである。

そして現在のビックデータを駆使したネットシステムでは、自分に都合の良い情報しか流れてこないという欠点もある。無駄な情報は必要ないが、広い視点から見つめた多角的な情報は必要である。

それらの解決方法の一つとして、ネット中心の生活ではなく、活字中心の生活に重点を置くということが有効かもしれない。活字を中心とした紙媒体では、幅広く質の高い情報を手に入れつつ、かなり取捨選択もできる。

ネット社会と言えども、紙媒体の存在は無視できない。ネットに重心が移りつつある現在でも、紙媒体からの入手源を常に確保することは重要である。

「勝った、負けた」だけが全てではない。

先日の衆院選が終わり、各党は結果について総括をしている。大勝した自民党では安倍首相が足元をより固めつつあるが、苦戦した希望の党、維新の会では、代表の責任問題が問われている。

このような状況の下、希望の小池代表、維新の松井代表の辞任を求める声が上がっているが、選挙に負けたからといって即辞任を求めるのは非常に短絡であるように思える。辞めるのは簡単であるし、いつでもできる。しかし現在小池氏、松井氏に求められているのは、辞任ではなく党の立て直しである。党を立て直すことによって責任を果たすということではないだろうか。

世の中、「勝った、負けた」だけが全てではない。ましてや選挙というものは水物であり、偶然に左右されるところも大きい。もちろん、政治においては選挙に勝って発言権を得ないことには何も始まらない。しかし党の代表レベルの人には、もっと高い視点、政略だけではなく長いスパンで見通した大局的な政策で物事の判断を下してほしい。そのようなことを考えると、今求めるべきことは「辞任」ではないことは明白であろう。