投稿者「木原 康明」のアーカイブ

周りの人を見るのではなく、取り組む対象を見る。

レベルの高い世界に入り、周りの優秀な人を見て「自分よりレベルの高い人がいることを知って自信を無くした」という声をよく聞く。しかし重要なのは、周りの人が優秀だとかいうことではなくて、自分が取り組む対象に対してどれだけ実績を挙げれるかということだ。周りの人のレベルなどはほとんど関係ない。

「取り組む対象に対して自分はどれだけのことができるか」という展望を立てれば、後はそれを実行するのみだ。周りの人との勝負ではなくて自分との勝負だ。そうしてスキルを上げていけば、初めはかなわないと思っていた周りの人をも、気が付けば抜いていることも多々ある。周りの雑音情報に過度に振り回される必要はない。

「隣の芝生は青く見える」とは少し違うが、周りの人間を見て過度に高く評価をしていることもある。しかしじっくりと判断すれば、周りの人もそんなに高くないのかもしれない。

取り組む対象にのめりこむことができれば、それはもう自分のものである。

政治家の言葉使い。

政治家の発する一言一言は、社会全体から注目を浴びている。そして注目されるのは発言内容だけではない。言葉使いも注目されるポイントだ。その言葉使いに政治家の人柄なり思想がにじみ出てくる。

最近は自党の党首に向かって品の悪い言葉使いで非難したり、あるいは公では到底使ってはいけない言葉を平気で発する政治家も存在する。

選挙時のポスターには、多くの政治家が肩書として「弁士」と名乗っている。弁士であるからには、発言にはプロ意識を持ってもらいたいものである。そして国会では弁をもって物事を正してもらいたいものである。

根拠のない自信はどこまで許されるのか?

例え根拠のない自信でも、ないよりかはある方がいいと僕は感じている。根拠のない自信でも、その自信を原動力に前に進んで行けるのなら、どんどん根拠のない自信を積み上げていけばいい。そしてそれらの実行が徐々に結果として表れていけば、それらの自信は根拠のあるものへと変わっていく。

しかし自信に根拠がなくても、明確な展望を立てることは必要である。明確な展望は、これから進んで行くうえでの道しるべになる。展望は具体的であればあるほどいい。

自分の置かれている世界の事を知れば知るほど、その世界の楽しさ、そして恐ろしさを知らされる。そこで自信を深めるか、自信を無くしてしまうかは、自分の才能がどうというよりも、楽観的になれるかどうかという人間性に関わってくるのかもしれない。とは言え、ある程度慎重に物事を進めることも必要であろう。

楽観的な展望と、それなりの慎重さを持って進める実行力を持って、自分の目標としているところへ一歩でも近付くべく意志を持って突き進んでいくことが大事である。

思考の停止した教師たち。

最近物議を醸している大阪府立高校での髪黒染め強制問題。昔からつくづく考えるのが、規則の妥当性を全く考えずに規則を強制する教師たちの存在についてだ。

どんな世界でも規則は完全ではない。悪法というものは多くの世界で存在する。少し前に「規則を破ることの大切さ」というテーマでブログを書いたが、まさしく今回の問題はそれにあたる。その規則にはどういう意味があるのか?ということを自分の頭で考えて、そのうえでどう考えてもおかしい規則は「破るべき規則」であって、破るべき規則を破ることは非常に重要である。

政治政党の中には「悪法も法である」という立場をとるものもあるが、少年少女の人生を破壊するような規則を放置していいはずがない。

おそらくこれらの教師たちはこれまで、学生時代から従順に規則を守り続けてきた人たちであろう。それ故に「なぜその規則が存在するのか?」ということを自分の頭で考えることを怠ってきたのではないか。

今回の問題を機に、周りのあらゆることに対して「それは正しいのか?どういう意味があるのか?」ということを振り返って考えるきっかけになればと僕は期待している。

人生における想定外に、どう向き合うか。

社会においても人生においても、想定外は付きものだ。東日本大震災の時には、地震の大きさが想定外であったのに加え、原発事故でも想定外の事が連続して起きた。

人生においても、子供の頃に想定していた人生をそのまま送る人は皆無であろう。大なり小なり想定外な事態は起きる。そのような人生の想定外な事態に対して自分はどう向き合うか。

僕自身に関しては、これまで起きた想定外はかなり巨大なものだったと思う。「人生一寸先は闇」という状態を繰り返してきた。もちろん想定外の苦しみはないに越したことはないのだが、ただ、想定外なことが起きたからダメになったという言い訳はほとんどしたことがない。想定外な事態も自分の人生の一部であるから、それをも受け入れなければならない。

ただ僕が心がけていることは、「転んでもただでは起きない」ということだ。例え苦しい失敗が起きても、その失敗をも自分の糧にして、プラスの力に変えて見せようと行動を起こす。それが成功しているか失敗しているかまだ分からないが、失敗を次に生かすか、失敗を失敗で終わらせるかは、自分の人間としての実力に関わるところである。

想定外なことは人生ではどうしても避けられないが、だからこそ想定外なことが起こることを想定内にすることが必要なのかもしれない。

「非常識=悪」ではない。

山尾志桜里衆議院議員が、スキャンダルの相手を政策顧問に置いたという報道に対して非常識だという声がある。確かに非常識と言えば非常識だ。普通の人がしないという意味で非常識だ。

しかし「非常識=悪」とは僕は考えていない。

僕はこれまで山尾議員を擁護するようなブログ記事を2度ほど書いたと思う。ではなぜ山尾議員を擁護するのかというと、理由は簡単で、「批判するようなことではない」からだ。

スキャンダルでも、金銭的スキャンダルとなると話は全く違う。金銭的スキャンダルを起こす議員に対しては、議員としてのモラルの欠如が問われるところである。もちろん、政治活動にはお金は付きものであるし、資金を集めることは議員としての宿命であるとも言える。だから、議員がお金を集めること自体はグレーであっても必ずしも悪とは言えない。しかし某議員のように、私腹を肥やすための不正なお金集めをする者は、はっきり言って議員の資格はない。

山尾議員の場合、単なる個人的色恋沙汰に過ぎない。多くの人は良い印象を持たないかもしれないが、政治家としての人間性とははっきり言って関係ない。

今回山尾議員は、そのスキャンダルの相手を政策顧問に置いた。確かにどういう意図なのか理解できないところはある。しかし山尾議員がこの弁護士の手腕を高く評価し、政策顧問として置くことを強行したのならば、僕はこの腹の座った山尾議員の決断を称賛したい。もちろん、個人的な好みで置いたのならば論外であるが。

審美的純文学の重要性。

最近アメリカでは審美的な国文学、つまり英純文学よりも、社会的・人権的主張を訴える文学が人気があり、重要視されているという記事を見た。アメリカでの文学を取り巻く状況がどうなのか、僕には判断はできないが、最近の世界的潮流を見ると、社会的な文学が幅を利かせており、審美的純文学が軽視されているように思える。

社会的文学は人間の生活にもつながるところがあり、ある意味非常に有用であるように思えるが、純文学は国家・国民のアイデンティティーを表現するものとも思え、これもまた非常に重要なものである。

日本で言えば、審美的純文学の代表は川端康成であろう。その一方で、社会的文学の代表例は大江健三郎と言えるかもしれない。どちらもノーベル文学賞を受賞されているが、作風は対照的といえる。

この文学に関する話は、科学についても言えるかもしれない。審美的純文学にあたるのが純粋基礎科学、社会的文学にあたるのが応用・実用科学。実用科学は役に立つのでその重要性はわかりやすいが、純粋基礎科学の科学的価値をどれだけ理解できるか、それは国民の成熟度につながるところである。

純文学と純粋基礎科学の価値を理解できる人間を少しでも多くすることは、今世界的な課題なのかもしれない。

リスクとチャンスの大きさを比較して、行動する。

僕自身、人生において非常に大きなリスクを取って行動していると自分では感じている。なぜこのような大きなリスクを取るのか?それは成功した時の大きさもとてつもなく大きなものになると考えているからだ。もちろん、成功する自信があるからだとも言える。

しかし、普段の日常において、非常にちっぽけなリスクを恐れている自分もいる。リスクしか見えなくなる時があるのだ。しかし、リスクばかりにこだわっていれば、物事は何も進まない。

何事においても、ノーリスクということはありえない。大なり小なりリスクは付き物だ。大事なのはリスクに対して成功の大きさ、メリットがそれを上回るかどうか、チャンスが大きいかどうかである。リスクとチャンスはセットで考えなければならない。リスクとチャンスの大きさを比較するためには、意識的にそのような思考をするように向けなければならない。

時には夢を現実化させるために大きなリスクを取ることもあるが、そんなリスク度外視の行動をとることも人生の醍醐味でもある。

モチベーションを上げるために。

本業でのモチベーションを上げることは、非常に大事である。モチベーションを上げるきっかけが、百貨店で服や時計を見ることであったり、お酒を飲むことであったり、人それぞれであろう。

百貨店で服や時計を見て、「絶対に成功して、こんな服や時計を買うぞ!」と気分が上がるのなら、それは素晴らしいことだと思う。

もちろん、物を買うことが目的で本業に打ち込んでいる訳ではないが、「自分にとって何がモチベーションを上げるきっかけになるか?」ということは把握する必要がある。

もともと気分が乗りやすい僕であるが、何とかモチベーションを上げ、それを持続しようと試行錯誤し、実行に移す今日この頃である。

憧れの人物は、・・・いない。

子供の頃の憧れの人物というのは重要である。憧れの人物がいるからこそその道に進もうと思い、憧れの人物に一歩でも近付こうとまい進していける。僕自身も小学生の頃は、長岡半太郎やアインシュタインといった物理学者に憧れていた。

しかし本格的にその道に取り組む大人には、僕は憧れの人物などはいらないと思っている。もちろんどのレベルを目指しているかによるが、最高を目指す人に憧れはいらない。

普通の結果をコンスタントに出していくか、大きなものを一発狙うか。もちろんコンスタントに結果を出せない者が大きな結果を出すことは非常に難しいと思うが、人それぞれスタイルがある。アインシュタインは重要な結果を非常にたくさん発表している。

偉大な先人のようになることはできないかもしれないが、それは必ずしも偉大な先人を越せないという意味ではない。方向性が違えば、同じような人物になるはずがないからだ。またそこが面白いところでもある。

誰になるのでもない。自分という一人の人間になることが重要なのである。