投稿者「木原 康明」のアーカイブ

眼で世界を見るのではなく、紙とペンで宇宙を見る。

世界を見ることによって見識を深めるということは昨今のブームみたいなものでもあるが、宇宙から見れば地球上の世界は微々たるものだ。それならいっそのこと、宇宙を見て全てを見渡せばいい。

しかし、望遠鏡の性能にも限界があるので、眼で宇宙を見渡すには限界がある。しかし紙とペンさえあれば宇宙を全て見渡すことが可能だ。しかしおそらくまだ誰も宇宙全てを見渡してはいない。初めて宇宙を見渡す人間は誰になるのであろうか?

幾何化予想(ポアンカレ予想)を解決した数学者ペレルマンは、幾何化予想を解決することによって宇宙を見たと言ったという。しかし僕の個人的見解では、ペレルマンはまだ宇宙全体は見ていないと考えている。ペレルマンの3次元幾何だけでは、相対論的宇宙を見るのにはまだまだ不足がある。

宇宙の果てというものは、望遠鏡で見るものではない。紙とペンで見るものであると僕は考えている。紙とペンには限りない可能性が秘められている。

規則を破ることの大切さ。

規則を破ると言っても、やみくもに何でも破れと言っているのではない。「破るべき規則を破ることが大事だ」ということを言っている。

規則というものは全知全能の神が作ったわけではない。規則を守る者が人間ならば、規則を作るのも人間だ。従って、規則の中には明らかにおかしい、理にかなっていない規則というものが多く存在する。そこでやみくもに「規則は絶対的に守らなければいけない」と思考停止するのではなく、「その規則は本当に必要なのか?理にかなっているのか?」ということを、しっかりと自分の頭で考えることが重要だということを言いたいのである。そのうえで、その規則が明らかにおかしい、全く理にかなっていないと判断したのならば、それを主張の上、破ることが重要である。

この、規則を破るという行為は、できれば小中学生のうちから身に付けておきたいスキルである。子供の頃に、一方的に「規則は何でも守らなければいけない」という考えが染み込んでしまえば、大人になると、「支配者の言うことは何でも盲目的に従順する一方、立場の弱い人、あるいは子供に対しては一方的に規則で縛り付ける」という大人になってしまう。

規則を破るという行為は、「自分の頭でしっかりと思考する」という、人間が自立して生きていくうえで非常に重要な行為に直結する非常に重要なことである。

悩む暇があったら実行しよう。

僕はかなりくだらないことで悩むことが多い。特に悩みの先取りは、何のメリットもなく、くだらない。まだ起きてもないことで悩む暇があったら、とにかく実行することが先決だ。

そして悩むには、意味のある悩みと無駄な悩みがある。悩むことから文学や音楽を生み出すクリエイティブな人間は非常に素晴らしい。作曲家のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」はまさに、悩んだ末に生まれた名曲だ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」という名著もある。

しかし、普段我々が遭遇する悩みのほとんどは、くだらない悩みだ。少なくとも僕の場合はそうだ。チャイコフスキーやゲーテのような価値のある悩みというものを体験してみたいものである。そんな貴重な悩みができないのならば、せめて有意義なことに行動を移して、無駄な悩みを頭の片隅に追いやろう。

科学の皮をかぶった嘘に惑わされるな!

非科学的なものは見破るのも簡単だが、科学の皮をかぶった嘘(疑似科学)というものは幾分厄介だ。疑似科学は一見論理的に見える。なので、論理的=科学的、と間違った判断を下す人も多い。しかし多くの疑似科学は、根っこ、すなわち出発点である前提条件が間違っていることが多い。間違った条件から出発した論理は、もちろん間違っている。

そしてよくあるのが「論理の飛躍」。部分部分は論理的でも、あるところで論理の断層が生じている。もちろん論理の断層(飛躍)は単なる思い付きに過ぎない。

そして「嘘の統計」に基づくものもある。初めから嘘をつくつもりで嘘の統計を持ち出すのはもちろん悪質だが、統計サンプル、あるいは統計手法に偏りがあり正確ではないものが多く存在する。これについてたちが悪いのは、話を持ち出す本人もこの問題点に気づいていないことだ。話す本人も統計に基づいた話だから科学的だと思っているのである。

論理的であるか、嘘であるかは、話を聞かないとわからないことだが、中には話のテーマを聞いただけで非科学的であると即断できることもある。このような即断できるようなセンスと論理力を、日頃から養っておかなければならない。

他人に対して興味を持つこと。自分の事に没頭すること。

他人の事に興味を持つことは、非常に大事である。とは言っても、有名人のスキャンダルとかそんなことではない。そんなことはどうでもいい。興味を持つべきは、他人の生き方、他人の技術、他人の知識など、自分に対してフィードバックできることに興味を持つことが大事である。他人のことなどどうでもいいという姿勢が、自分に対して没落的な方向へと向わせることになる。

その一方、他人のことなどお構いなしに、自分のすべきことに没頭することも大事である。他人の眼ばかり気にしていれば、新しいことはできない。革新的な事を成し遂げるためには、他人の眼ではなく自分の信念を貫くことが大事である。

周りの事のうち何に関心を寄せ、自分の事のうち何に没頭すべきか。それは自分の目指す生き方、そして目指す職人像によって変わるであろうが、どのような像を目指すにしても、基本的なことは共通しているので、その共通する基盤はしっかりと把握しておかなければいけない。

一点集中突破!

物事に取り組む時には、大きく二つに分かれるのではないかと思う。一つは狭い分野を集中的に極めること。もう一つは幅広く大きな問題に取り組むこと。

後者の場合、取り組むべき分野は自然と多くなり、複数の分野の見識が必要になる。しかしだからと言って、専門的な知識が全く必要ないわけではもちろんない。学際的な分野横断型の問題に取り組むときにも、一つの分野を極め軸足をつくることは非常に重要である。いつまでも幅広く普通に取り組んでいれば、いつまでたっても深く掘り下げることができない。

まずは一点集中突破的に一つの分野を極め、そこからじわじわと範囲を広げるのがセオリーであろう。あるいは、極めた分野に他の分野の見識を持ち込み融合する。そうすることによってブレークスルーが生まれることもよくある。

どちらにしろ、自分の専門を作り、そこで一点集中突破を成し遂げ、そこから大局的な視点から幅広く全体を見渡すことが大事である。

福井中2自殺。教師のための学校になってはいなかったか?

福井で起きた中学2年生の自殺事件で、当時の状況が明らかになりつつある。

自殺した中学生は、度々教師から過度の叱責を受けていたという。「聞いた人が身震いするくらい怒られていた」(朝日新聞デジタル)という証言もあるそうだ。このような事例は定期的に起こっているが、その度に思うのが「教師のための学校になっているのではないか?」ということだ。

学校は言うまでもなく子供に対する教育の場であり、子供のための施設でもある。学校というものは「子供ありき」で考えなければいけない。しかし今回の事例などは、「教師ありき」であり、教師の円滑な運営のため、あるいは教師のエゴによってもたらされたと思わざる負えない。

もちろん、昔に比べて状況は改善しているようにも思え、体罰についても昔に比べればかなり減ってきているようにも思える。しかし今回の事例のような悲惨な事件は後をたたない。

昔はこのような事件は今よりもかなり多かったのかもしれない。ただ明らかになっていなかっただけだと思える。今は少なくなったとはいえ、このような事件は一件たりとも起こしてはならない。そして交通事故とは違って、ゼロにすることは不可能ではない。教師の意識次第で絶滅させることは可能だ。そのためには繰り返し述べるが「生徒のための学校」という認識を強くもつことが必要である。

普段、触れない分野に接して。

普段触れるものはどうしても、専門の事ばかりに偏ってしまう。例えば、読む本と言えば専門書に偏り、小説を読むことは最近は皆無になっていた。

先日のブログで書いたが、カズオ・イシグロさんの小説を買って読み始めた。ノーベル文学賞を取ったから読むというのもいかがなものかとは思うが、これも新しい分野に触れるきっかけとしては十分にありではないかと思う。

まだ全部は読んでいないが、話の本質はそこそこ深い。小説であってもただ表面的に流せばいいというものではもちろんない。その背後にある本質、そして描かれている世界の文化、イシグロさんの小説の世界観はこれまでに僕が全く体験したことのないものだ。

小説、それも特に僕からは遠い世界観にある小説を読んで、少しだけ世界観・人間観が広がるように感じている。正直、イシグロさんの小説を理解する自信はなかったし、どれだけ深く掘り下げることができるかわからないが、きっかけはどうであれ、読後に読んでよかったと思える可能性が少しは出てきたように感じる。

科学は間違いを犯しながら発展していく。

科学と言うと、「正確なもの」「絶対的に正しいもの」だと思われがちだが、科学のこれまでの歴史は間違いを修正していく歴史でもある。

例えば、物理学はニュートンにより打ち立てられ、自然の法則を寸分の狂いもなく表すものだと思われていた。ところがそれから200年以上経ったころに、それはアインシュタインにより否定される。そのアインシュタインの理論も現在では完全だとは思われておらず、量子重力理論などのアインシュタインを超える理論の出現が期待されている。

とは言え、物理学は科学の中でも特に精密な部類に入る。生物学や地学などでは修正どころか前時代の理論が完全否定され、全く反対の事が正しいとされることがよくある。

しかし、科学が間違っているととらえるのは間違っている。多くの科学は非科学的なものよりも圧倒的に正しく正確だ。しかも科学には根拠(理論)が存在する。なので、基本的には科学に基づいた考えを受け入れるのが原則である。

もし現在の科学が100%正しいのならば、科学の発展は完全に止まってしまう。現在の正しい科学から、「より正しい科学」へと脱皮していくのが科学の発展というものである。

科学者の探求心は常に深いレベルへと向けられ、継続的発展が行われることになる。

僕には文学的感性はあまりないが。

昨日、本屋に立ち寄ると、さっそくノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロさんのコーナーが設置されていた。まだ十分に仕入れができていないせいか、本の冊数は少なかったが、五タイトルほどの小説が揃っていた。

何気なくイシグロさんの小説を手にとって眺め、裏表紙にあるあらすじを読んでいると、「日の名残り」という本がなんとなく気になった。しかもこの本は文庫で360ページほどで、決して分厚くなく(もちろん薄いわけでもないが)読みやすそうだったので、ノーベル賞を受賞されたことも読むきっかけにはちょうどよいと思い、この本を購入することにした。

最近は小説とは無縁の生活を送り、ここ数年、小説などは全く読んでいなかったのだが、以前小説を読んだのはいつだろうかと考えると、何年も前(たぶん十年くらい前)に島本理生さんの「ナラタージュ」を読んで以来全く読んでいないことに気付いた。もう少し読んでいたと思っていたのだが・・・

半年ほど前に、ナラタージュが映画化されることを知って、これが公開されたら観に行こうかと思っていたのだが(最近公開されたみたいだ)、僕自身、映画は全くと言っていいほど観ないので、行くきっかけがなくてどうしようか迷っている。僕は映画に対する感性もあまりないと思っている。そして映画の料金がいくらするかということも、千円台くらいということしかわからない。

話しは初めに戻るが、イシグロさんの「日の名残り」を読んで面白かったと思えるのかどうかわからないが、読んでよかったと思えることを期待している。