投稿者「木原 康明」のアーカイブ

世界を大きく変えるのは、本質的に一人だ!

日本は全体主義で、協調を重んじる。そして何かを達成すれば皆が頑張ったからだと称え、誰かが成功すれば周りの人の支えがあったからだと労う。そのこと自体は間違っていないのかもしれないし、悪い事ではない。しかし日本における全体主義、協調主義は度が過ぎるようにも感じる。様々な世界において大きな変革が成し遂げられたとき、それを実行したのは集団であっても、その鍵となるのは多くの場合一人である。なのでその一人がいなければ物事は全く進まなかった可能性は大きい。

日本の協調重視社会においては、集団や組織が重視される反面、個が軽視される傾向にある。極端な場合では、組織に反して一人が成し遂げたこと、更には組織に足を引っ張られながらも個人が成し遂げたことでさえ、その功績が組織のものになることがある。それは企業の技術開発ではよくある話だ。青色発光ダイオードの技術開発に大きく貢献した中村修二博士の例はその代表である。日本でもそろそろ個の大きな力を認めるべきではないかと強く感じる。

日本では、「個の力は小さくても、皆が集まれば大きな力になる」と色々な所で言われる。確かにそのような事はあらゆるところで見られる。しかしそれは全てではない。個だからこそ大きな力を発揮できることもあるし、集団になったがために力と個性がなくなってしまうこともよくある。もちろん、個と言っても完全に一人だけで生きている訳ではないが、個の力に対する軽視は個から広がる変革に対しては足を引っ張るものでしかない。

物理や数学の歴史を見れば、大きな革命のほとんどは個から生まれたことが分かる。その代表例がアインシュタインの相対性理論である。逆に集団的研究から生まれたものは、少なくとも理論系では少ないと感じる。

「人間は一人で生きている訳ではないし、全ての事は人との関わりからから生まれる」などと言いたい人も多いとは思うが、問題はそのような次元の話では全くない。そのような言葉を全ての分野、全ての事柄に持ち込むと、個から発せられる力を潰し消すことになってしまうだろう。

人生の攻め。

人生の攻めとはいろいろと解釈できるが、一番大きなものは“努力”であろう。そして前を向き、保身に走らず、未知の世界を構築する。そのように考えた時、どう考えても僕は攻めの姿勢に成り切れていない。確かに普通の人と比べればかなり攻めている方だと思うが、僕が思うラインには全く到達できていない。そして単なる攻めではなく、“徹底的”な攻めに打ち込むことを心がけている。サッカーで言うとフォワード、そして目指すところはエースストライカーだ。

人生というものは決して順位ではない。人生において何位とかは単純に決められない。しかし時には順位にこだわらなければならない。その時は迷わず1位を目指すことにしている。なぜそのような事にこだわるのか?それは過去に2位3位を目指して失敗したことがあるからだ。しかし失敗を失敗で終わらせてはならない。失敗を次に進む糧にしなければならない。失敗が悪いのではない。失敗を教訓とできないことが悪いのだ。

サッカーの本田圭佑選手は、よくビッグマウスだと叩かれることが多い。しかし本田選手は常に1位を目指している。サッカー最高峰の舞台であるワールドカップでも優勝を目指すと口にしていた。僕はその姿勢はプロとして当然だと思う。もちろん実力的には可能性はかなり低いのかもしれない。しかし初めからベスト16を目指すと言う選手に何かを感じるだろうか?僕はそれは保身にしか感じられない。2018年のワールドカップでは日本はベスト16で終わった。しかしこれはベスト16を目指した選手がいたからそこまで行けたのだろうか?僕は優勝を目指していた本田圭佑選手のような人がいたからベスト16まで行けたのではないかと感じている。もちろん話はそんなに単純ではないが。

僕は目指すところを出来るだけ口にするようにしている。サッカーなら11人でプレーするので自分だけの力ではどうにもならないが、数学・物理は基本的に個人プレーである。なので自分の実力と努力次第ではどうにかなるはずだ。たとえバカだと思われてもいい。バカな生き方を目指しているのだから、バカだと言われることは本望だ。もちろん口だけではダメだ。口に出したことを実行しなければならない。口に出す覚悟とそれを実行に移す攻めが目標へ近づく原動力になるはずだ。

地震に対する意識が変わった日。

昨日の1月17日は、阪神大震災から24年目の日だったが、僕にとって、そしておそらく日本の多くの人にとって、地震に対する意識が変わって24年目の日ではなかったのではないだろうか。

僕はその時、神戸に住んでいたが、今では全くもってアホらしい話であるが、関西は地震が起こらない所だと信じ込んでいた。また関西で地震が起こらないことは、当時関西人の間では常識であったように記憶している。実際、阪神大震災が起こるまでの18年間の人生の中で、神戸で地震を感じたことは震度2程度の微弱な地震一回だけしか記憶にない。その一回は家のトイレに入っていた時に感じたので、なぜだか覚えている。そのような意識しかなかったので、大地震に対する心構えなど皆無であった。

しかし、阪神大震災後、日本は大地震時代に入る。いつどこで大地震が起こるか油断できない。日本に住んでいる限り、大地震の危険性からは逃れられないというのが現在の日本人の常識的な意識ではないだろうか?関西でも去年、大阪で大地震が起きた。地震を抑え込むことはできないので、人間の意識の方を変えるしかない。

阪神大震災が起こる24年前まで、地震の危険性と言えば首都圏直下型地震一辺倒だった。もちろん今でも首都圏直下型地震の危険性は高いのであろう。しかしそれは首都圏だけが特別なのではなく、広く日本全体の危険性の一部という認識ではないだろうか?静岡県を中心とした東海地震の危険性も、今では南海トラフ地震と名を変え、さらに九州周辺まで範囲を広げ、桁違いの危険性が認識されるようになった。もう日本に住んでいる限り、地震と共生するしかないのだろうか。地震が起こるということを前提に、いかに身を守るか?現在は防災というより、減災に重点が置かれるようになってきている。

プレートの境目に存在する日本列島に住んでいる限り、地震、そして火山からは正面から向き合って行かなければならなさそうだ。

時代によって変わる本質、変わらない本質。

よく「時代が変わったから」と言われ、納得させられることがある。しかし物事の本質は時代によってそう大きくは変わらないことが多い。時代によって変わるのは物事ではなく、人間の方だ。人間の受け取り方、理解、解釈が時代によって目まぐるしく変わるのである。

例えば、人間の死という現象自体はどの時代も変わらない。しかし時代の文化、認識、そして科学の発展によって、人間の死というものが持つ意味が大きく変わるのである。そのように、時代によって変わる本質だと思われているものは、大きく人間が介する物事が多い。人間が関与しているからこそ、本質が急激に変わったりするのである。

では科学の本質は時代によって変わるのか?これは非常に難しい問題である。もちろん、科学というものは常に発展し続けており、科学の本質と思われるものは時代によって大きく変わってくる。しかしこれも、科学を作っている人間の理解が変わっていると言える。自然科学の言う「自然」自体は時代によって変わるはずもないように思える。例えば運動方程式が時代によって変わることはない。科学の本質は「自然」の側にあるのであって、人間は「理解させていただいている」と言う方が正しい。

しかし、自然の側にも時代によって大きく本質が変わるものもある。その代表は「生命」である。生命というものは絶えず進化しており、数億年前の生命と現在の生命は構造的に大きく違うところがある。例えば、原核生物と真核生物では本質的に異なる部分が多い。とは言え、「生物」と言う意味で本質的に共通する部分も大きいが、これらの違いは時代の進化による本質の変化と見て良い。これらの変化は人間の理解の変化などと比べ物にならないような本質的変化である。

近年、コンピューターの進化が激しい。コンピューターはもちろん人工物であるが、その本質は情報理論的構造、及び論理構造であり、数学にかなり近い構造をしている。僕は、コンピューターの進化は、「第二の生命の変化」だと考えている。つまり、コンピューターの進化は時代によって変わる本質的変化だと言える。しかしその進化は超絶的に速い。生命が数億年かけて進化したようなことを、コンピューターは数年で成し遂げてしまう。コンピューターは単なる道具ではなく、一つの大きな科学的対象だと捉えるべきである。

本質を捉える際は、変わる本質と変わらない本質を見分けなければならない。そのことを理解しないと、物事の本質に踏み込んで理解することはできない。

寛容な社会?

今世界は寛容さを求められている。難民問題や性別問題などを解決して、誰もが安心して生きて行ける社会にならなければならない。日本は難民に対して閉鎖的だと言われ、性別問題に関してもかなり遅れていると言われている。そういう意味では日本はかなり閉鎖的だと言える。とは言え、世界的には寛容な社会へという潮流が大きく流れていると言える。

しかし何かが違うと感じるのは僕だけだろうか?もちろん難民に対して寛容な社会になることは(国家の利益的な問題はあるにしろ)必要不可欠なことであるし、性別関連の問題に対して差別や偏見をすることはあってはならない。しかし注意すべきことは、思考無き拡大解釈はしてはならないということだ。もともとは解決しなければならない問題であっても、その方向性を無批判に突き進めて行けば逆の意味で差別的かつ息苦しい社会になってしまう。問題を次の一歩へと進める時には、さらに進めるべきかと繰り返し思考しなければならない。決して思考停止的に拡大解釈を続けてはならない。

寛容な社会を作ることは非常に重要な事だ。しかし寛容化へと拡大解釈し続けてしまうとシーソーは反対側に傾き、再び不寛容で息苦しい社会になってしまう。社会政策はバランスが重要なのである。なので政治家などの社会政策施行者は常にその塩梅を見極めなければならない。

寛容な社会を作るためには、社会を構成する一人一人の人間の意識も重要になる。人々の意識が変わらなければ寛容な社会は作れない。一人一人の意識が社会を変え、国家を変える。そして世界が変わるのである。もちろん現時点ではどこの国家にもおかしいことはたくさんある。そしてそのようなおかしな部分はどんな時代になっても存在し続けるのかもしれない。しかしだからと言って、寛容さを追求することを怠っていはいけない。そしてその際には、方向性と塩梅を見極めながら常に立ち止まって熟考し、実行に移していかなければならない。

走り続け、たまには休憩。

走り続けたい!しかし人間のコンディションというものはいつも良好という訳ではなく、好不調の波はある。プロと言われる人は「いかに好不調の波を無くし、いかに良好なコンディションを保つか?」という問いに対して常に答え続けている人なのかもしれない。プロ野球を引退するベテランは、もちろん体力の衰えという理由が一番強いのかもしれないが、体が故障がちになりコンディションを保てなくなったという理由も良く聞く。絶頂のコンディションを発揮するというのは重要だが、それをいかに保つかということは更に重要であり、更に難しい問題だ。

今になっても心身との対話を続け、いかにコンディションを底上げするかということに対して試行錯誤している。「考えたら即行動!」これは何事に対しても言えることである。こうすべきだと思えば、とりあえず試してみる。それでも駄目なら次の手段を、という具合に次から次へと矢継ぎ早に思考を実行に移す。いつまでこの試行錯誤が続くかわからないが、とりあえず体力と気力が持つ限り続けて行こうと思う。目標の達成は近いのか?遠いのか?そんなことを考えていては気が持たないので、とにかく実行し続けてみる。

どんな人間にも、したい事としなければならない事がある。したい事だけをできれば幸せかと言えばそうではなく、しなければならない事と折り合いを付けて行く中で発見することも多々ある。それが人間というものだ。したい事をするために、しなければならない事をする。世界はそうなっているのだから、現時点ではそれに対して折り合いを付けなければならない。そのようにして階段を昇り続ければ、したい事に没頭できる環境が手に入る可能性は高い。

24時間走り続けることはできない。その証拠に、人間の体は一日数時間は必ず睡眠を取らなければならないようにできている。睡眠を全く取らなければその先にあるのは「死」だ。人間が生物である以上、たまに休憩を取らなければならない運命にある。いや、頻繁に休憩を取らなければならないのかもしれない。しかし休憩を取り過ぎては、取り組むことに没頭できなくなってしまう。何とも悩ましい問題である。

プライド。

プライドの是非については意見が分かれるところだ。プライドにこだわる人もいれば、プライドなどいらないという人もいる。確かに平穏に生きるためには、プライドなどはない方が良いのかもしれない。特にくだらないプライドは絶対に持つべきではない。しかし自分が自分らしく生きるために、さらに人間らしく生きるためには、必要なプライドも必ずあると僕は考えている。

自分が人間らしく生きることを放棄するならば、さらに言えばアメーバとして生きるのならば、プライドなどは一切持つ必要はない。そもそもアメーバに思考能力はないのだから、プライドなどはできるはずがない。プライドを持っているとはある意味人間である証拠である。しかし繰り返すようだが、不必要なプライドは持つべきではない。持つべきプライドを持つということが重要なのである。

持つべきプライドを持つということは、かなり強い意志が必要である。意志と持つべきプライドは直結する。そして意志は行動に直結するものだから、プライドは意志を介して行動に表れる。すなわち、プライドが全くなければ、それも行動に表れる。だからその人がどのような意志を持ち、どのようなプライドを持っているかは、行動を見れば瞬時に判断できる。意志も持つべきプライドもない人は、アメーバのような動きをしているはずだ。

僕には明確な意志がある。そして強いプライドもある。ただ必要なプライドだけを持っているかと言われれば、無駄なプライドもたくさん持ってしまっていることも事実だ。だから完全な人間からは程遠い。もちろん完全な人間になろうとは寸分も思っていないが、自分が目指そうと思っている人間像はある。そのような人間に近づくためには、無駄なプライドを捨てなければならないと感じている。そして持つべきプライドは死守する。

完全な人間にはならないし、なれもしないが、いろいろな意味でとことん面白い人間にはなりたいものである。

細部は忘れても、骨格は忘れるな!

これはある意味、僕の言い訳である。僕は記憶力が悪い。少し前に書いた記事、少し前に勉強したことをすぐに忘れてしまう。しかし物事には、忘れてもいいことと忘れてはならないことがある。例えば理論を構築する作業をしている人にとっては、細部は忘れていいが、骨格は忘れてはならない。もちろん細部も忘れないでいればそれに越したことはないが、細部というものは書物を見るなり何なりしてすぐに確認できる。しかし骨格というものは自分の頭の中で構築されるものなので、これはしっかりと頭の中に留めておかなければならない。

しかし僕は骨格までも忘れてしまいそうになることがある。そのような時は、過去にメモしたノートなどを見て記憶に留めるようにしている。また同じものを見ても、人によってそこからできる骨格は皆違ってくる。そういう意味で、出来上がった骨格というものはそれを作り出した人の個性だと言える。

細部だけを煮詰めても、そこから骨格は出来上がらない。骨格から細部を煮詰めるのである。骨格がなければ、ただ単に細部の寄せ集めになってしまう。そのような情報の寄せ集めなどは人間がしなくてもコンピューターにでもさせておけばよい。人間は人間にしかできないことをすべきなのである。

書物を読んでも何も出来上がらない。書物を読んで得られるのは基本的には情報だけなのである。大事なのは書物を読み進めながら、それを基に骨格を構築することなのである。それができない人は、情報蓄積人間でしかない。しかも情報の蓄積だけなら、人間はコンピューターに圧倒的に劣る。人間にしかできなくて、人間がすべきことは何か?そのような事を考えて進まないと、10年後には何のスキルもない人間になってしまう。

急がば回れ!周りから整えていく。

「急がば回れ!」とはよく聞く言葉だが、これがなかなか簡単にできない。どうしてもすぐに本題に取り組みたくなる。しかしそのような誘惑に勝って、周りから攻めて行くことも重要である。

スポーツ選手なら、どうしても技術的な事の修得に全力で取り組みたくなる。それはある意味間違ってはいない。しかしスポーツをするためにはそのための強靭な体が必要なので、体調管理、栄養管理などをしっかりと行い、さらに最近よく話題になる体幹なども鍛えなければならない。そのように周辺(しかし本質的な部分である)から整えて行き、核心に迫ることが重要である。僕自身も最近はあらゆるコンディションを整えることに気を使っている。やはり何事も人間が行う以上、精神と体力のコンディションを高いレベルで保つことが大事である。

数学や物理をやる上で、英語論文を読むことは避けられない。従ってまずは英語力を身に付ける必要がある。英語力がしっかりとしていないと論文の内容を100%掴むことは難しい。しかし僕は英語が非常に苦手である。なので英語論文を読む以前に英語力を身に付けないといけないと思っている。しかしそのような事になかなか取り組むことが出来ない。どうしても英語論文に書かれている数学的、物理的内容に手が伸びてしまうのだ。もちろん英語論文に書かれている英文法などはたかが知れている。なので読むことはそれなりにできる。しかし英語力に問題があると常々感じている。急がば回れと英語の勉強をするべきだが、なかなかそれができない。近道をしているようで、本当はそれが遠回りになっているのである。

何か一つの事に取り組む時、それだけをやれば良いという訳ではない。その周りにやるべき関連する事柄はたくさんあるのである。数学を研究するには英語力が必要なように、一見関係ないことも本当は本質的に関わっている。今、何かに対して打開できずにいるのならば、少し目線を変えてその周辺のことを整えるのも一つの手である。急がば回れ!とあらゆる道を視野に入れて攻めて行こう。

羽生善治九段は何を見ているのか?

前年末の竜王位陥落によって、羽生善治氏は無冠になった。とは言え、無冠になったから羽生氏は衰えたのかというと、決してそうではない。無冠になった今でも羽生氏は最高位の棋士の一人であることは間違いない。

最近、羽生善治氏のことが書かれた記事をいろいろ見て、少し思うところがあった。それは「羽生善治氏は将棋に何を見ているか?」ということだ。普通の棋士だと対局に勝つことに最大限の気力を注ぐだろう。それは羽生氏だって例外ではないと思う。しかし羽生氏は必ずしも勝利だけを見ているようではない。将棋の盤上に何かの世界を見ようとしているように思えてならないのだ。

将棋には最善手という概念がある。言葉通り、最も有利になる手の事である。当たり前の事であるが、最善手を指し続けることにより勝利が見えてくる。逆にミスは命取りになる。しかし羽生氏は最善手ではなく“実験手”を打つことがあるという。将来の可能性を探り広げるために、実験手を打ち新たな道を開拓するのだ。とは言え、実験手は確率的に言えば最善手ではないのかもしれないが、将来の可能性まで考えると羽生氏における、あるいは将棋界における最善手なのかもしれない。

話しを、羽生氏は何を見ているかということに戻そう。なぜ僕が羽生氏の見ている世界に興味があるのか?それは世界を見るということは、あらゆるプロ分野において言えることではないかと感じるからである。物理や数学においても、ただ計算しているだけではなく、構想と一連の計算による構築によってその人独自の世界が見えてくるからである。それは視覚的に見えるという意味もあるし、精神的に見えるという意味もある。そうだからこそ、トップ棋士の羽生氏には盤上にどのような世界が見えているのかが気になるのである。

もしかしたら、プロとアマチュアの違いは、そのような世界が見えるかどうかということなのかもしれない。おそらく世の中にあるほとんどのプロには、“視覚的”に世界が見えているのである。世界が見えると哲学が生まれ、ただ勝利する、あるいは結果を出すというだけでなく、その先にある広大な大地を切り開くことが出来るのであろう。