投稿者「木原 康明」のアーカイブ

風を切る。

某大臣は、「総理の後ろにいれば、風に当たらない」と言ったという。マラソンでも、トップの選手の後ろについて、風の抵抗を避けるのは重要な戦術だ。

風を避けるのも一つの生き方だが、風を切りながら走る生き方も爽快でいい。ただし、風を切り続けるのにはリスクも伴う。成果は自分のものになるが、失敗の責任も自分が背負わなければならない。

「風を切る」ことは、「道を切り開く」ことにもつながる。そこには開拓者精神が宿る。まだ誰も踏み込んだことのない世界へ踏み込むことは、大きな希望とそれなりの不安がある。しかし希望の先にはそんな不安を消し去ってしまうくらいの輝きが待っている。

もちろん開拓者が全て成功するわけではない。途中で野垂れ死にする人もいるだろう。それが不安な人は先行者の陰に隠れていればいい。

評価の定まった事柄ではなく、まだ誰も成し遂げていない事柄へ、風を切りながら走って進んでみよう。

最多敗を記録するのは、最大の勲章だ。

最近、プロ棋士を引退した加藤一二三九段には、数々の偉大な記録がある。その中で最も偉大な記録は”最多敗記録”だ。つまり、一二三九段は最もたくさん負けた棋士なのである。

負けと言えばイメージは良くないかもしれないが、負けるためには対戦しないといけない。対戦をしなければ負けることもできないのだ。最多敗の記録は、挑戦し続けてきた男の勲章だ。

この考えはあらゆるものに通じるところがある。ほとんどの人は失敗を恐れる。そして挑戦することを避けるのである。しかし、挑戦しなければ勝つ可能性は0%なのである。そして失敗を重ねることによって成功は生まれる。失敗は挑戦の証であり勲章でもある。

失敗どんと来い!というくらいの気持ちで当たるくらいがちょうどいい。失敗に自分から向かっていくのである。すると稀に光が見えてくる。視界が開けてくる。それによって成功へ一歩近づく。

失敗に向かっていけるのは、それは大きな力である。そんないつまでも挑戦し続けれる人間でありたい。

迷ったら、厳しい方へ進め!

僕はどちらに進むか迷った時は、できるだけ厳しい方へ進むことにしている。厳しい方へ進めば、まず間違いない。もちろん物事に100%ということはないが、99%間違いないと思ってよい。

とはいえ、できない方に進む必要はない。できないのと厳しいのは全く違う。できる範囲で、少しでも可能性のあることには挑戦すればよいのである。

下の上になるか、上の下になるか?これも迷う人は多いと思うが、僕は迷わず「上の下」になることを選ぶ。下の上になればそれ以上、上はないが、上の下に進めば、上は限りなく広がっている。そこから上の中、上の上へと狙うことも可能である。

厳しい方へ進む開拓者精神を、常に持ち続けていたいものである。

目先の利益に惑わされない!

なかなか結果が出ない状態が続くと、どうしても目先の利益を得ようかと惑わされる。僕自身、そんな誘惑にぶれないと言えば嘘になる。

しかし、目先の利益を取り続けることを継続するということも、決して間違った生き方だとは思わない。目先の利益を取り続けることによって、それが大きな利益に発展することもあるからだ。

西川きよしの言う「小さなことからコツコツと」ということであろう。

しかし、不器用な人間にとって、小さな利益を上げつつ、大きな利益に変化させることは並大抵のことではない。

そこでつい、初めから大物を狙おうとなってしまう。非常に危険な賭けであるが、そうせざる負えない。しかし、ほとんどの人は、その大物を得られずに敗退していく運命にある。

ただ、ほんの一握りの人には、大物を得られるチャンスが与えられる。正確に言うと、チャンスは全ての人に平等に巡ってくるのかもしれない。しかし、ほとんどの人はその巡ってきたチャンスに気づかないだけなのかもしれない。目の前に巡ってきたチャンスをつかみとれる人間が、才能があると言われるのかもしれない。

目先の利益に惑わされない生き方は、かなりきつい。しかし、それを貫くことによって、一つの人生哲学が生まれるのかもしれない。

加藤一二三九段「一手に7時間の妙手」の境地とは。

30日、将棋の加藤一二三九段の引退会見があった。そこで一二三九段は、名人を破って初タイトルを獲得した時のことを、「1手に7時間の長考をして天来の妙手を発見した。棋士としてやっていける確信を得た」と語った。

一手に7時間とは、素人からは想像もつかない境地である。やはりどんな分野でも、その道のプロにしかわからない境地がある。その妙手とはどんなものだったのか、僕らが聞いても全く理解できないが、それを自分の守備範囲の分野に置き換えると、そのヒントくらいは得られるかもしれない。

僕は妙手ではないかもしれないが、「妙構想」というものは持っている。かれこれ10年ほど前に得た構想だ。しかし構想とはアイデアに過ぎず、それを具体化することが難事業である。しかしその一つの妙構想があるからこそ、今まで投げ出さずになんとか続けてこれた。

一二三九段の言う「一手に7時間の妙手」の域にたどり着くことは、もちろん目標であり、それもとてつもなく高い目標である。それを目指すところにプロフェッショナルの神髄があるのかもしれない。

「俺が、俺が」のフォワード。

今日、サッカーの元日本代表で、最近Jリーグの神戸に入団した、ハーフナー・マイクの対談を見た。

ハーフナーのポジションはフォワード(FW)、つまりゴールを決めてナンボのポジションだ。

ハーフナーは言う。FWに必要なのは「俺が、俺が」の精神。つまり独善的思考が必要なのだと。これはどこの国のFWでも同じ。FWがアシストしても評価の対象にならない。ゴールを決めて初めて評価されるのだ。

独善的と言っても、悪い意味は全くない。それどころか独善的でなければならないのだ。独善的でないFWなど必要ない。

「俺は、俺は」という言葉を聞いて、自分と全く同じだと感じた。僕も常に「俺が、俺が」という気持ちで前に進んでいる。ハーフナーと同じ独善的思考だと言えるが、自分も独善的でなくなったら、僕の価値はないと思っている。

もちろん、人にはそれぞれ特性がある。サッカーでもディフェンダー(DF・守備的ポジション)の選手には、奉公の精神が求められる。要は、自分の特性に合ったプレーをすればいいのだ。

「俺は、俺は」のプレー(生き方)を選べば、必ず目に見える結果を出さなければいけない。結果を出すまでは確かに苦しい。しかし、自分をしっかりと見極められていれば、自分を信じて我慢ができる。

あとは結果を出すのみ。それまで何とか耐えて見せよう。もう少しの我慢だ!

苦手なことを克服するのではなく、得意なことで勝負せよ!

今回も命令口調だが、やはり自分への命令である。

一般的に、苦手なことは克服しなければならないという風潮が強いが、苦手なことを克服することに気を使って悩んでいる暇があれば、得意なことを磨いて勝負することに力を注いだ方がいい。もちろん苦手な事を克服するのに越したことはないが、人生は苦手なことで勝負するのではない。得意なことで勝負するのだ。

今苦手なことを克服しても、それは延命治療でしかない。しかし、苦手な事の克服を捨てて得意な事だけに絞るにはかなりの覚悟が必要だ。なぜならば得意なことで必ず結果を出す必要があるからだ。

もちろん、社会で生きていくためには、様々な苦手を克服することが要求される。しかし今さらそんな世界で人生を過ごそうというつもりはないので、得意なことに全力を注ごうと思う。

かなりの賭けではあるが、自分の狙うことはそこにこそあると思うので、そこを目指して突き進む。

またまた人生のギャンブルだ!

気合だけではどうにもならないけど。

気合と言えば、アニマル浜口が懐かしい。「気合だ!気合だ!気合だ!うぉ!うぉ!うぉ!」と言うアニマルさんの言葉が耳をこだまする。浜口京子さんは、そんなアニマルさんの気合フレーズに後押しされて、オリンピックでメダルを取ったのだろうか。

何かで落ち込んでいたり、上手くいかない時は、何とか気合で乗り越えたいと思うが、そんな時ほど気合が入らない。そもそも気合を入れれば上手くいくというものではないが、それなりの気合くらいは入れたいものだ。

最近は、明確な展望はあるのだが、生理的な側面に引きずられてなかなか前に進めない。睡眠のコントロールとか。普通の人はこれくらいのことは気合で乗り切れるのかもしれないが、僕の場合気合で乗り切れるレベルじゃない。

しかし、あきらめたらそれで終わり。何とか乗り切るか、他でカバーするか、あらゆる手段を考えなければいけない。

来年、吉と出るか凶と出るか。まだわからないけど、ギリギリまで頑張ってみよう。

人格と精神。裁判の判定理由において。

重大事件の裁判において、”精神鑑定”がよくされる。犯罪の原因が精神疾患なのか、人格によるものなのかを見極めようということであろう。

しかし、人格というものは精神から来るものであり、そういう意味で精神と人格を区別しようというのは的を得ていないように思う。

精神には自分でコントロールできる部分と、自分でコントロールできない部分がある。精神はコントロールできるという意味で、人格形成もある程度自分の意識次第でコントロールできる。

精神とは人間の中枢であり、人間そのものと言っても過言ではない。即ち、人間を高めるためには、精神を高めなければならない。自分はどのような人間になりたいのか?それは人さまざまではあるが、自分のなりたい人間になるためには技術的な事を向上させるだけではダメで、人間性も高めなければならない。

実際、超一流の仕事人は、技術とともに人間性も超一流だ。イチローや山中伸弥教授などを見ていてもひしひしと感じる。

どこまで自分を高めることができるか?そのために時間をかけるのはいいことだが、人間には寿命という制限時間があることを頭の片隅に置いておかなければならない。

あれを言ってはダメ、これを言ってもダメ。結局無難な言葉しか残らない。現在の社会と学校教育の現場。

現在テレビを観て、禁止用語が多く、出演者が無難な言葉を選んでしゃべっていることは、多くの人が感じているであろう。禁止用語と関係ないが、目的の人物以外の人物の映像が全てぼかされているのをみると、神経の使う世の中になったもんだと感じてしまう。

学校教育の現場では、”性”に関する話題はタブーであるらしい。本来、中学生や高校生にこそ正しい知識を教えなければいけないが、保護者からの批判などもあり、教師はそのような言葉を発することもできないらしい。

学校で表だって話題にできないことは、結局裏ですることになる。裏で曲がったことをするのなら、堂々と正しいことを議論しなけない。多くの人はそのことに気付いてはいるが、少数の批判だけが表沙汰になり、結局委縮して何もできなくなってしまうのである。

誰がこのような”無難”な世の中にしたのだろうか?

現在、将棋の藤井四段が快進撃を続け、多くの国民の注目を浴びているが、その一方でそのような傑出した才能を養成する土壌を社会は潰し続けているように思える。

学校は社会の縮図である。学校の閉塞感は将来の社会の閉塞感につながる。可もなく不可もなく、そんな社会に魅力は感じるか?平和に暮らせれば魅力なんて関係ないという人も多いのかもしれないが、そのような社会の行く末は”衰退”であるように思えてならない。