投稿者「木原 康明」のアーカイブ

自由は健康あってのもの。

今コロナ禍にあって、自由を取るか?コロナ対策を取るか?と言う選択の間で世界が揺れている。特に欧米では自由に対する意識が非常に強いので、外出の自由やマスクをしない自由を声高に叫んで自由を死守する動きが目立っている。日本においてはほとんどの人がマスクをしているものの、飲食などを巡って様々なところで対立が起きている。

自由と言うものは非常に重要である。自由から様々な独創的なものが生まれ、また自由に行動移動をすることにより観光や様々な活動が可能になる。しかしそれらの前提として、健康だから出来ると言う事があるのではないだろうか?健康だからこそ様々なところに移動出来るのであり、また健康だからこそ取り組める物事も少なくない。例えば病院に入院している身では、県外に旅行することもできない。

平時であれば徹底的に自由にこだわるのも良い。しかし今は完全なる非常時である。誰もがコロナに感染する危険性がある。なのでそのような可能性を極限まで下げる必要がある。そして皆がコロナ感染の危険性を避けるため、ある程度(あるいはかなりの?)自由が一時的に束縛されるのも受け入れるべきではないだろうか?コロナを全く気にせずに行動飲食をすることが自由だと思っている人も少なくない。しかしそれはあくまで平時に限ったことである。例えば自由に飲食行動をすることによって自分が、あるいは皆がコロナに感染してしまえば、それによって極度に自由が制限されるのである。なので皆が自由を享受するためにも、今は一人一人が我慢することが必要なのではないだろうか?今少し自由を制限することが、長い目で見れば大きな自由につながるのである。

自分が健康であることによって大きな自由を享受することができ、他人をコロナから守ることによって皆が自由を享受できるのである。今短期的な自由にこだわるのではなく、長期的な大きな自由を獲得するためにも、様々な物事を大局的に捉え判断する事が必要なのではないだろうか?

ワクチンで世の中は変わるのか?

僕の結論から言うと、「圧倒的に変わる」と言う事だ。しかしそれには条件がある。国民のほとんどがワクチンを接種することだ。

その根拠を述べよう。まずワクチンを接種する目的は何か?それは大きく二つある。一つ目は、個人がワクチン接種することによって免疫ができ、コロナに感染する確率を大幅に低減できることだ。そして二つ目は、多くの国民がワクチン接種することによって集団免疫を獲得することだ。そこで重要になるのが、ワクチンの有効性はどのくらいなのか?そしてどれだけ多くの国民が接種するのか?と言う事だ。ファイザー製などのコロナワクチンの有効性は極めて高い。具体的に言うと、90%超にもなる。これがどれだけ高い数字かと言う事をインフルエンザワクチンと比較すると、インフルエンザワクチンの有効性は60%~70%と言われている。なのでインフルエンザワクチンを接種してもインフルエンザに感染する人は結構出て来る。しかしコロナワクチンのように90%を超えると、数値的にはほぼ感染しないと言ってよいレベルだ。しかしもちろん100%ではないので絶対感染しないとは言えないが、ワクチン接種による感染防止効果はかなり高いと考えられる。

しかし一人がワクチン接種しても、社会的効果は発揮できない。より多くの人が接種することにより集団免疫を獲得することができ、感染者数を減少することができる。その増減の分かれ目のラインが何%なのかはまだはっきりしないが、90%を超える人がワクチン接種すれば確実に集団免疫を獲得することができる。国民の内90%以上の人が、有効性90%を超えるワクチンを接種すれば、効果は絶大であることは間違いない。

しかし現在、ワクチン接種に前向きな人は6割から7割と言われている。これでは集団免疫獲得によってコロナを制圧するための効果は激減する。なのでこれからの課題は、いかに多くの人にワクチン接種をしてもらえるかにかかっている。

おそらく最大の懸念は、ワクチンの副作用であろう。しかしここでメリットとデメリットを天秤にかけなければならない。僕自身の考えではメリットの方が圧倒的に大きいと考えているので、接種可能になれば即座に接種を受けに行こうと思っている。しかしワクチンの副作用を考える時に難しいのは、普通の薬は基本的に病人に投与するのに対して、ワクチンは基本的に健康な人に打つ事である。なので仮に副作用が現れると、打たなければ健康なままだったのにとなってしまう。

ここで重要になってくるのは、マスコミの報道である。仮にワクチン後に死亡したとしたとき、それを何の検証もせずにワクチン接種後に死亡したと安易に報道してしまえば、ワクチン忌避が起き集団免疫獲得が出来なくなってしまう。膨大な数の接種が行われれば、偶然その後に(副作用ではなく)他の病気などで死ぬ人が出て来るのは当然考えられる。なのでその死者が、あるいは副作用と思われるものが出た時は、それは本当にワクチンの副作用なのかと言う事を慎重に検証しなければならない。

今年前半の政府の最大の仕事は、いかに多くの人にワクチン接種をしてもらって国民に集団免疫を付けられるかと言う事である。しかし何も積極的施策を行わなければ、前述したように7割弱に終わる可能性がある。なのでGoToなどにお金をばらまくのではなく、いかに積極的にワクチンを受けてもらえるかと言う事にお金をかけるべきである。例えば接種を受けてくれた人には集団免疫獲得に力になってくれたお礼として1万円給付するのも良いと思う。もし一早く集団免疫獲得に成功すれば、経済的にもそれ以上のメリットはあるであろう。そしてその結果、必ず世の中は大きく良くなると僕は強く思っている。

知識の量ではなく、思考の深さ。

昔、ジャーナリストの立花隆氏が自分の事を「異常知識欲者」と言っていたのを思い出す。しかし立花氏の場合は習得した知識を見事に昇華させ、偉大なアウトプットに変えていた。そこから「田中角栄研究~その金脈と人脈」と言う研究が生まれ、見事に田中角栄内閣を退陣へと追い込んだ。立花氏は習得した知識を単なる知識で終わらせず、その知識を基に徹底的に思考と追究を重ね、一国を動かすにまで至ったのである。

しかし多くの人は、知識を習得することには熱心だが、それを基に思考を重ねる事には無頓着であるように思える。知識を習得するだけであれば、それは単なる文字の羅列以上のものではない。雑学がなぜ意味がないのか?そして速読がそれだけではなぜ意味をなさないのか?それはそういう意味だからである。

もちろん僕自身も膨大な書物を所持しており、とてもではないがそれを全て読みこなすことは時間的にも不可能だ。もしかしたら読むだけなら速読ができれば読みこなせるかもしれない。しかし僕は速読をしようなどと言う事には全く興味はない。むしろ僕の場合は遅読と言ってもいいほどだ。しかし問題は、読んで得た知識を基にどれだけ深く思考するかと言う事なのである。速読などは出来ると便利だが、しかし便利以上の何物でもない。百の知識より一の思考なのである。

20世紀の偉大な数学者・岩澤健吉の部屋には、数えるほどの書物しかなかったと言う。しかしそれは彼がいかに深く徹底的に思考していたかと言う事の裏返しである。僕にはとてもではないが、岩澤博士のような離れ業はできない。僕には大量の本に囲まれ、気が向いた時に本を手に取って思考する事しかできないのである。しかし人にはそれぞれのスタイルがある。岩澤博士のようにではなくとも、自分が最も快適に思考できるスタイルを築くことが非常に重要なのである。

9月入学を考えるとき。

コロナ禍は悪化の一途をたどっている。その悪影響は医療・経済など様々なところに及んでいるが、1月から始まる入試シーズンへの影響も取り沙汰されている。今関東地方では、緊急事態宣言の発令が検討されていると言う。もちろんコロナに県境などはないので、今日の都心は明日の地方と言う事になり、影響は遅かれ早かれ全国に広がるものと思われる。

もし緊急事態宣言が発令されれば、入試シーズンを直撃する。入試を強行するのにも危険性があり、しかしもし入試が中止されれば次年度の入学者を迎え入れることができない。菅政権が早い段階で緊急事態宣言を出すことができていれば、入試への影響だけでなくクリスマス、そして正月を直撃せずに済んだ可能性は高い。

しかし過ぎたことは仕方がない。問題はこれからどうするかだ。入試を強行するのもしないのも問題があるのならば、残された解決策は9月入学だけだ。これからのワクチン行政が上手くいけば、夏に入試を行い9月入学すると言う事が一番の解決策になるように思える。しかも9月入学を取り入れることによって、海外と教育について足並みをそろえることができる。日本人学生の海外留学が進まないと言う問題がたまに取り沙汰されるが、これによって海外留学に対する足かせが取れることにもなる。

コロナ禍は確かに大きな災いだ。しかし災いだからと言って全てをネガティブに進めるのは間違っている。これを機に9月入学を取り入れることによって、教育環境を大きく発展させることが可能になる。転んでもタダで起きてはならないのである。いま入試だけでなく、学校教育を強行するのにも大きなリスクが伴う。そしてこのような状況では教育を満足に行うこともままならない。今の子供たちの教育環境を整えるためにも、今政府は9月入学を導入するかどうか本気で検討すべき時ではないだろうか。

人生、爆発の予感?

明けまして、おめでとうございます。

ところで、人生においては調子が良い時もあれば悪い時もある。悪い時は何をやってもうまくいかず、このような時には忍んで耐えなければならない。昭和天皇の敗戦時の玉音放送にも、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」と言う有名なお言葉がある。もちろんそのような状況が長期に渡れば心身共に持たないであろうが、長い人生の中にはおそらくほとんどに人にはそのような時期があるだろう。僕だってそのような時はあった。

そしてそのような時とは逆に、何もかもが上手くいくような絶好調な時もあるかもしれない。僕はと言うと、絶好調であっても「何もかも」とは行かないものである。しかしそのように絶好調な時には、全てを爆発させればいい。岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と言ったが、僕は「人生は爆発だ!」と言いたい。そしてそのような自分の全てを爆発させる時が、今年であると思っている。いや、そうでなければならない。

今、コロナ禍によって多くの人が苦しい立場に置かれている。その一方、日本の株価はかなりの高水準を記録していると言う。今はコロナ禍で苦しさばかりが強調されるが、苦しい人がいる一方、絶好調な人も多くいるのだ。そしてそれは今だけの事ではなく、いつの時代も同じだ。人生においても好不調の波はあるが、それはある程度社会的なものにも左右される。今のコロナ禍で金銭的に追い詰められればそれは自分の人生の不調にもつながって来るであろうし、もしコロナに感染してしまえば健康的な不調にも追い込まれる。

逆に今まで不調だった人には、今は逆転するチャンスだ。このような時だからこそ、ゲームチェンジャーになれる。報道などを見ると、これまで豊かだったがコロナ禍で追い込まれて苦しい思いをしている人がいることを強調するが、世の中にはこれまでずっと苦しかった人もいるのである。例えばホームレスの人であったり、あるいは日本だけでなく海外にまで目を向ければ明日の命さえも確かではない人もたくさんいる。そのような苦しい人たちがコロナ禍を逆手に取って、ゲームチェンジャーになってくれることを強く望む。そして僕自身も研究においてゲームチェンジャーになるべく突き進んで行こうと思う。

人生44歳からや!

僕は人と話すとき、「人生44からや!」とよく言っている。それは嘘でも何でもなく、本気でそう思っているからだ。確か去年は、「人生43からや!」と言っていたような気がする。そしてもしかしたら来年は「人生45からや!」と言っているかもしれない。しかしそれはそれでいいと思っている。どちらにしろ人生はこれからなのである。よく「自分の栄光は20代の頃だった」と言う人がいる。しかし僕の20代は悲惨であった。そして30代もかなり鳴かず飛ばずの状況であった。なので人生40代からでないと、全く人生が成り立たないのである。

しかしもちろん今は非常に面白い状況である。苦しくはあるが、面白くもあるのである。毎年人生これからだと思って行けたら、それは非常にエキサイティングである。40代よりも50代、そして50代よりも60代の方が面白くエキサイティングでありたいと思っている。

今年コロナで亡くなった志村けんさんは70歳だった。しかし志村さんはいつの時代も面白く活力があった。僕が小学生のころから志村さんはバカバカしく非常に面白くあったが、それを20年30年続けて来たことは非常に尊敬に値する。もしかしたら志村さんも、今年より来年の方が面白いと思って生きて来たのではないだろうか?もしかしたら70代よりも80代の方が面白いと確信して夢見たのかもしれない。そして未来の方が面白いと確信しつつ、コロナで倒れたのかもしれない。僕も常に未来の方が面白いと思いつつ息絶えたいものである。

今年も残すは一日だけとなった。とは言っても別に今年を回想しようとは思わない。今年を回想する暇があったら、来年どう面白くしようかと言う事を考えたい。来年は絶対に面白い。いや、絶対に面白くしなければならない。自分の人生を面白くするのは自分以外の何物でもないが、そうは言ってもコロナは早く終息してほしいものである。ワクチンが急速に出来上がっているが、世の中にはワクチンに不安があり否定的な人も多いみたいだ。そのような時、メリットとデメリットを天秤にかければよい。そう比べた時、僕はワクチンを打つべきだと判断した。だから来年、ワクチン接種が可能になった時は一番乗りでワクチンを接種しようと思っている。そしてそのワクチンには、来年面白い年にできるかどうかがかかっている。

今、コロナ医療従事者に最も必要なのはお金だ!

今、コロナ医療現場が疲弊している。それは病床や医療機器などのハードも、そして医者、看護師たちの人材も、完全に疲弊しきっている。特にコロナ医療従事者の精神面の疲弊は一見して見えない部分であるが故に、我々が思っているよりもはるかに疲弊している可能性がある。それを救う方法はないのか?僕はもうお金しかないと思っている。現在のコロナ医療従事者の報酬は賞与カットなどもあり、仕事の対価として全く見合わないものになっている。もしコロナ医療従事者最低賃金などと言うものがあれば、ほとんどのコロナ医療従事者はその最低賃金に届かないであろう。

何しろコロナ患者と向き合う限り、コロナ感染の危険性は常に付きまとい、言わば命の危険性までもさらしていると言える。そしてそれは医療従事者本人だけでない。家族などの同居人に対しても強い制約をもたらしている。そして理不尽な事に、コロナ医療従事者に対しての社会での風当たりも強い。全く割の合わない仕事である。

小池都知事は小中学生に対して医療従事者に感謝の手紙を書くように呼び掛けたと言う。ふざけるな!強制的に書かされた感謝の手紙を受け取って喜ぶ人がどこにいる!小池都知事の無神経ぶりは本当に理解不能である。今唯一医療従事者を精神的に救うものがあるとすれば、それはお金しかない。我々にできることはそのお金を差し出すことだ。人生はお金ではないと言う人は多いが、時にはお金以上のものがない時もあるのだ。それが今だ。ではそのお金をどう捻出するか?以前、国民一律の10万円給付金があった。それを9万円にして、残りの1万円を全てコロナ医療従事者に集めればよかったのである。そうすればコロナ医療従事者に通常の二倍三倍の給与を与えることができたはずだ。しかし既に給付金配布は終わってしまったので、来年度に国民一人当たり一万円のコロナ医療従事者給付税を集めればよい。それを全てコロナ医療従事者に給付すればよいのである。

医療従事者に対して、使命感ややりがいなどを口にする人がいる。しかしそれは医療従事者本人が言う言葉であって、我々が押し付ける言葉では全くない。もしそんなことを言う人がいれば、勘違いも甚だしい。一般国民ができることは、お金を差し出すことしかないのである。もちろん病院で医療従事者に配慮して診察を受けることは言うまでもない。菅氏、そして二階氏たちはGoToキャンペーンに熱心である。そしてそれによって生み出されるコロナ患者によって医療が崩壊しようとしている。そもそもお金の配置の仕方からして間違っていたのである。これは利権・既得権益がもたらした最も酷い悪例になってしまった。もう時はかなり過ぎてしまったが、せめてこれから出来る事だけでも医療従事者の献身に対して国民は報わなければならない。

苦しい事と楽しい事は両立する。

多くの人は苦しいことを避けたいと思っているかもしれない。そして「苦しいこと=楽しくない」と思うかもしれない。しかし僕は必ずしもそうではないと感じている。それどころか、苦しいことを楽しく感じれることは究極のやりがいだと思っている。

プロ野球選手になるためには、想像を絶する練習と訓練を行わなければならない。しかしそれを耐えたからと言って、必ずしもプロ野球選手になれるとは限らない。プラス卓越した才能も必要だし、強い意志を持つ事も必要だ。しかしそれらをすべてクリアしたとしてもプロになれるとは限らない。ではプロ野球選手はなぜそんなに苦しい思いまでしてプロになろうとしているのか?それは究極の苦しみを究極の楽しみに変えているからだと思う。もちろん皆が皆そうとは限らないと思う。しかし僕はそう感じるのである。

野球と同じで、物理や数学の研究も長い年月をかけて取り組まないと研究者にはなれない。しかしそれは必要条件であって、十分条件ではない。例え猛烈に取り組んでも、結果が出せない時は出せない。努力と同時に才能ももちろん必要だし、何に関しても運も必要かもしれない。しかしここで勘違いをしてはならない。ここで言う運とは宝くじとは違って、自分でつかみ取る運だ。ボーっとしていたら運さえもつかみ取れない。

小学生の頃、テレビゲームで遊び、それはすごく楽しいものだった。しかしその場は楽しくても、それは僕の求めている楽しさではないと感じていた。その頃から僕の求めている楽しさは数学や物理(当時は理科と言うべきか)の中にあると感じていた。それから長い年月が過ぎ、非常に苦しい時期を送ったときもある。苦しい理由はいろいろあるが、一番苦しかったのは調子を崩して数学や物理に対して十分取り組めなかった時である。なので数学や物理の研究ができると言う事は、僕にとっては至福の時である。とは言ってもやはり苦しい時も多々ある。しかしそのような苦しみは全然嫌ではないのである。苦しみの中に究極の楽しみを見つけることができた時、それは一つの悟りとでも言うのではないだろうか。

前例がない!

日本人と言うものは何かと前例にこだわる。もちろん裁判などにおいて前例を踏襲することは法の下の平等においても非常に重要な事であるが、人間の人生において前例にこだわることは本当にバカげていると思えてならない。自分の人生と言うものは自分と言うオリジナルの存在そのものであり、それをわざわざ人と同じものにする理由が僕にはさっぱり理解できない。しかし人と同じ生き方にこだわる人がかなり多いのが現実だ。

もし誰も成し遂げたことのない形で、誰も成し遂げたことのない事をしようと思うのなら、前例を無視すると言う一択しかない。前例を踏襲した時点で、それは既に二番煎じでしかないからだ。それは僕の人生においても同じだ。もちろん部分的には誰かと同じものになることは十分あり得る。しかし意図して同じものにしたのでないのなら、それを気にする必要は全くない。なぜならそれはたまたま人と同じになったオリジナルだからだ。

とは言え、最近はネット検索で簡単に情報が入る世の中になったこともあり、オリジナルかどうかと言う判断は非常に難しくなっている。最近では東京五輪のエンブレムが他人のデザインの盗用だと言われたことが記憶に新しいが、実際はたまたま同じようなものになってしまったと言う可能性も否定できない。数学や物理においては一番乗りしか結果として認められないので盗用などは考えられないが、人文社会系の研究では同じ論や類似の論が出て来る可能性は十分ある。それは逆に言うと、盗用の余地も生まれてくるとも言える。意図的に盗用したのなら論外であるが、たまたま類似のものになってしまったものに対しては非常に気の毒な話である。

また全く違ったものであっても、見ようによっては同じように見えることも多々ある。それは解釈にもよるが、そんなことを言ったら全てが類似のものになってしまい身動きが取れなくなってしまう。生むのは非常に骨の折れる作業だが、批判したくて悪意をこじつけるのは非常に簡単だ。それこそネット検索で一分もあればできてしまう。

とは言え、僕は徹底的にオリジナルにこだわる。数学と物理において誰も成し遂げたことのない事を成し遂げ、人生においても誰も歩んだことのない道を歩む。これは確かに非常に気力の使う生き方であるが、しかしそこから得られるやりがい、生きがいも非常に大きい。確かに今の僕は体力的にも精神的にも非常に苦しい状況だ。しかし体力的にも精神的にも活力は誰よりもあると感じている。そこから絶大な自信も生まれてくるのである。まだ結果も出していないのになぜそこまで自信があるのか?と問われれば、理由はそういうことである。あと少しか?それとももう少し長い道のりを進まなければならないのか?そこははっきりと断言できないが、しかしそう遠くではないことは確かであると確信している。

発信の幅を広げる。

五年ほど前からTwitterのアカウントを開設しているのだが、今まではブログ記事を自動リンクしているだけでほとんど開店休業状態だった。しかしSNSなど発信に利用できるものはできるだけ利用すべきであると考えて、Twitterでもこれから積極的に発信していこうと考えている。このブログではしっかりとした記事を届け、Twitterでは些細な事やちょっとした意見などをつぶやいていけたらと思っています。なのでこれからはTwitterの方もチェックしてくれると嬉しいです。

木原康明さん (@Kihara_Yasuaki) / Twitter (Twitterのリンクです)

それからもう一つ、YouTubeのチャンネル開設も計画しています。内容はサイエンス関連の動画を出していこうと考えています。できれば来年の初め頃には始められたらと考えていますので、開設したときはよろしくお願いします。

人生には守りの人生と攻めの人生がありますが、僕の場合99%攻めて、1%守るくらいがちょうどいいと思っています。守るのは守るものができた時で良い。とにかく第一に数理物理の研究でとことん攻めて前進しなければならない。そしてその周辺としてTwitterやYouTubeなどで様々な事を発信していこうと思っています。とは言え、これからもこのブログがメインの発信であることは変わらないので、これからもこのブログをよろしくお願いします。