投稿者「木原 康明」のアーカイブ

前例と挑戦。

日本は何かと前例にこだわるとよく言われる。前例主義に対しては批判的な意見が多いが、なぜか自分の事となると前例にこだわる人が多い。前例がないから無理だと諦めたり、人のやっていることに対してそんな事は前例がないからやらないほうが良いと助言したりする。とは言え、裁判においては公平性と法律の厳格性から前例を厳守することは言うまでもない。しかし自分の生き方を前例と照らし合わせて決めていれば、それは自分の人生ではなく他人の人生のコピーになってしまう。

前例主義と対比を成す言葉は「挑戦」だと僕は考えている。すなわち挑戦とは前例を打ち破ることから始まる。人生において挑戦を繰り返すことによって、自分の人生に個性というものが現れる。前例にこだわり挑戦ができない人は、自分の軸を確立していないからだ。前例に軸を置くなんてことは裁判の判決でない限りありえない。自分の軸を確立してこそ、その軸が示す指針により挑戦という手段に出ることが出来るのだ。

研究においても、確実な結果を出そうという意識が高い人ほど前例にこだわることが多い。確実な結果を出そうという意識には二種類ある。一つは挑戦のその先にある革新的な結果を出すために確実性を高める事。もう一つは失敗しないための確実性を高める事。前例にこだわるのは後者の方だ。確かに小さいながらも結果を出さないことにはポストにも就けないし、ポストに就けないということは研究ができないということにもつながる。特に生命科学や化学などの実験系では、ポストに就いて実験施設を確保しないと何もできない。しかし幸いなことに、数学や理論物理の研究はせいぜい専門書や論文を入手する資金を確保できれば何とか研究を実行できる。

前例を踏襲するのではなく、良き前例を作っていかなければならない。これを研究の言葉で言い換えると、新たなる流行を作るということになる。流行は追うのではなく作らなければならない。そのためには前例主義から脱却して挑戦を繰り返していくしかない。そしてどれだけ失敗を繰り返してきたか?失敗の数は恥ではなく勲章の数である。多くの失敗を繰り返さないと大きな成功はありえない。失敗ドンと来いだ!

二刀流!

最近は二刀流が何かと話題だ。二刀流と言えば真っ先にメジャーリーグの大谷翔平選手の名前が挙がる。大谷選手は、投手に専念すれば大リーグ一の投手になれる可能性があるし、打者に専念すれば大リーグ一の打者になれる可能性がある。そのようにあまりにも才能豊かな選手であるが故に、一本に絞るべきだと言う人が多い。しかし大谷選手の一番の魅力は、一番の打者、一番の投手と言う以前に、前代未聞の二刀流選手だということである。僕自身も大谷選手の二刀流を見続けたい気持ちは非常に大きい。一番であるという以上に「唯一」の二刀流大リーガー、大谷翔平を見たいのである。

大谷選手の価値は二刀流の大リーガーというだけではない。大谷選手の二刀流の成功によって、様々な分野で二刀流に挑戦する人が出ており、二刀流が注目を浴びている。日本には二刀流という言葉があると同時に、「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もある。これまでは二つの事を同時にするというと、そういう意見をされることが多かったのではないかと思う。しかし大谷翔平選手の成功により、二刀流が肯定的に捉えられるようになってきた。しかし二刀流には一兎も得ずという危険性は常に付きまとう。二刀流に挑戦するに当たっては、そのようなリスクにさらされることは覚悟しないといけない。

学問を追究するにおいては専門を定め、一兎を追うことに専念することが要求される。それ故、学者は「専門家」とも呼ばれる。しかし研究者にも二刀流がいても良いのではないかと思う。何なら三刀流、四刀流でもいい。特に人生においては何刀流にでもなるくらいの気構えが必要である。細分化された専門にこだわり重箱の隅を突くようなことは避けたい。重要な事を成し遂げるには、しばしばいくつにもわたる知識と知恵が必要になる。すなわち一つの刀では核心に迫れない。本質に迫るような仕事を成し遂げる人は、いくつもの刀を持っている。

大谷翔平はとてつもなく凄い人間になってしまったが、大谷翔平のように二刀流に挑むバカな人間が何人も現れれば、その中の一人や二人くらいは大谷選手に迫るくらい凄い人間になるのかもしれない。歴史を変える人間とは、そのようなバカな人間から出てくるものである。

僕は僕にしかできない生き方をすべきだ。

人の幸せな姿を見て、自分もそのように幸せになりたいと思う人は多いかもしれない。しかし僕はそうは全く思わない。人の幸せがあるなら、僕には僕なりの幸せがある。僕は僕にしかできない生き方をすべきだと常々思っている。

僕は良い意味でも悪い意味でも普通ではない。普通ではないから、人が普通にできる事が出来なかったりする。逆に普通ではないからこそ、人には出来ないことが出来る。人に幸せを与えることが出来ているかなどと大逸れたことは言えないかもしれないが、僕は僕なりのやり方で人に幸せを与えるべきだと思っている。そのように周りの人や多くの人に幸せを与えることが出来れば、僕自身も幸せである。

そしてそのように人に幸せを与えるためには、今は努力をしなければならないと思っている。努力とは一言で簡単に言えるが、もちろん簡単に努力ができるものではない。しかし簡単に努力ができるくらいにならねばと思っている。

僕には研究において非常に大きな目標がある。そのような大きな目標を言うと、人にはバカにされるかもしれない。しかし僕にとってはそのような目標に向かうことは体の一部となっており、普通のことである。非常にチャレンジングでエキサイティングな挑戦であり、それに向かって進むことは非常にわくわくさせてくれることである。

僕に数理物理という目標を与えてくれたことに感謝、そして人とは違う生き方をできる事に感謝。よし、頑張ろう!

スタンダードで自己表現をする。

自己表現をする時に、奇をてらう人は多い。例えばファッションにおいて個性を出すと言えば、大概の人は奇抜な物を身に付けることによって個性を出そうとする。確かに奇抜なものは目立ちやすいしわかりやすい。しかし奇抜なものによって安易に個性を出そうとするのは、僕は個性でも自己表現でも何でもないと思っている。奇をてらわないと表現できないのは、人間性のなさだ。

男性の基本的な服装はスーツだと思うが、スーツにおいて奇をてらうことは一番ナンセンスだと思う。スーツはネイビーかグレーのスタンダードスーツでいい。しかし不思議なことに同じネイビースーツを着ても様になる人とならない人がいる。ネイビースーツを着こなすためには自分の体というものを熟知していなければいけないし、長年着こなして様になるものである。

ファッションだけでなく、普段の振る舞い、そして学問に対する姿勢も同じである。スタンダードという基本を身に付け、それによって表現しなければならない。学問においては人のやらないことが大事だとよく言われる。それはもっともなことであり、人のやらないところからスタンダードを作っていかなければならない。人のやっていることはスタンダードではなく流行である。

スタンダードとは日本語で言うと「標準」ということであるが、実はスタンダードを極めることは非常に難しい。スタンダードを極め、次世代のスタンダードを作らなければならない。そしてスタンダードにおいて自己表現をするということは非常に難しいものである。そのような深い自己表現ができない人はすぐに奇をてらおうとする。人のやらない事、人のやらない手法で取り組むときは、それが後々スタンダードになりえるかということを考えなければならない。

表層と深層。

物事にも人間にも、表層と深層がある。表層とは主に第一印象で決まることであり、真相とは時間をかけて感じられるものである。人間の奥深さ、つまり深層が大事なのは誰もが思っていることであるが、だからと言って表層が全くいらないかと言えばそうではない。車を買う時に、性能が良ければ塗装はボロボロでいいと言う人はほとんどいない。人間においても奥深さを持つということは非常に重要な事であるが、人間性という深層を深めればその余力で表層にも気を使いたいものである。

学問にもファッションにも表層と深層がある。学問とファッションにおける表層とは、流行に乗ることである。学問に対して流行があるとはなかなかイメージできない人も多いかもしれないが、学問においてもその時々の流行はある。そして流行を追い続けている研究者は非常に多い。しかし学問においてもファッションにおいても、重要なのは自分のスタイルを確立することである。流行の理論、流行のファッションと言う以前に自分のものでなければならない。

もちろん、ファッションにおいても学問においても流行を徹底的に追うというのは一つの手ではある。それに長けている人はその手を徹底的に追究すればよい。しかし意外と本質とは流行とは発想を180度転換させたところにある事が多い。その典型的な例がアインシュタインの相対性理論であろう。

表層と深層は多くの場合補完し合うものである。しかし多くの場合は深層が本質的であり表層が枝葉となる。そして流行から流行は生まれず、流行は本質から生まれる。流行を作ることは並大抵の事ではないが、深層を掘り下げることにより、次世代の本質の尻尾を掴めるのではないかと常々考えている。

才能、努力、運。

大きなことを成し遂げようと思えば、才能、努力、運の全てが揃っていなければならない。しかしこの三つは独立したものではなく、全てが連動している。才能とは努力ができる力であり、努力をすることによって運が巡ってくる。そして運を掴む才能が必要である。

先日、フィギュアスケートのグランプリファイナルがあり、女子シングルでは紀平梨花さんが優勝した。紀平梨花さんのスケーティングの才能は誰もが認めるところだが、その才能はおそらく努力の賜物であろう。そしてそのような努力と才能によって、グランプリシリーズ三戦全勝という運を掴み取ったのだと思う。

繰り返し言うようだが、運とは偶然ではない。努力ができない人間には200%運は巡ってこない。しかし努力ができるという才能を持った人には70%くらい運が巡ってくる。100%ではなく70%であるところが「運」という所以なのだ。そして自分の努力次第ではこれを80%、90%へと高めることができる。

人生は一筋縄ではいかない。そこが苦しく面白いところである。「努力は嘘をつかない」とよく言われる。これが100%本当かどうかは僕にはまだわからない。ただそれが本当であろうと嘘であろうと、今自分にできる事は努力しかない。努力が必ず報われるとは限らないから努力をしないというのは最もナンセンスな行為だ。少なくとも努力をした後には努力が残る。あとは自分を信じることができるかどうかだ。努力をしない人間は、自分を信じ抜くことができないのであろう。自分を信じ抜くことができるというのは大きな才能だと思う。

紀平梨花さんの活躍に刺激を受けて、自分の取り組んでいる事、自分の進むべき道を自信を持って進める事ができれば、それも自分という人間の大きな力だと思う。

自分は面白い人間か?

僕は常に面白い人間でありたいと思っている。では僕の言う面白い人間とはどのような人間か?それはお笑いのような面白さもあり、面白い生き方をしていることでもあり、また研究で重要な結果を出せる人間でもある。それ以外にも、お洒落な人間であることや挑戦し続けていることなど、言い出したらきりがない。

面白い人間は総じてリスキーである。なので無難な生き方をしたい人には、面白い生き方を薦めることはできない。面白い生き方をするためにはそれなりの覚悟がいる。僕はお金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは常にし続けている。お金のギャンブルをする人間ほど面白くない人間はいない。面白さとは先の見えない未来を開拓して行くことによって感じられるものなのである。

今僕は非常に面白い問題に取り組んでいる。その問題の解決に成功できれば、非常に面白い事になると思っている。そして面白さが面白さを呼ぶように、さらに面白い人間になれるのではないかと思う。ある意味、面白さを追求することは、人生を掘り下げる事でもある。別にお笑い芸人のような面白さがある必要はない。ただ人間としては非常に面白い人間であるべきだと思っている。

面白い人間になり切る前夜、どのように人生を模索して行くか?面白い人間の度合いは、それまでどのように人生を送って来たかにかかっている。

自分を克服する。

今僕が克服すべきものは、自分自身だと思っている。世の中には味方がいれば敵もいる。そしてそれは自分自身に対しても同じだ。自分が自分の一番の味方であると同時に、自分の中にも自分の敵がいる。そのような自分の中にいる敵を克服することは、緊急の課題である。

自分の外にいる敵は最悪そこから逃げればいいが、自分の中の敵からは絶対に逃げられないので、自分の中の敵は克服するしかない。自分の中の敵を克服することは決して簡単な事ではないが、自分自身を克服した先にはさらに高いステージの人生が待ち構えている。そのように一歩一歩ステージを上げて行く先から見える風景はどのようになっているのか?そのようなことを考えると、苦しいながらもわくわくした気持ちになる。

自由には二種類ある。一つは他人や社会から解放される自由、そしてもう一つは自分自身による束縛から解放される自由。意外と自分自身の思考が無意識のうちに束縛されていることが多い。しかしそのように自分自身の思考が束縛された状態では自由な発想が生まれるはずもない。

今自分が何かの目標に向かってそれを成し遂げようと思っているのならば、自分自身を徹底的に自由にしなければならない。そして自由の意味と生きる意味、そして目標に向かって生きていく意味などあらゆることを考え抜いて、自分だけの人生というものを構築して行きたいものである。

命が大事なのか?経済が大事なのか?

社会の機能において、経済の重要性は言うまでもない。現代社会においては、お金が回らないと生活そのものが成り立たなくなる。すなわち、経済が人の命を握っていると言っても過言ではない。

では、「人の命と経済のどちらが大事か?」と問われれば、ほとんどの人が人の命の方が大事だと言うだろう。このことは誰が考えても異論はない。しかし現在のエネルギー政策においては、必ずしもこの答えのように進むとは限らないようだ。人の命よりも経済の方が優先されることはよくある。このことは道義上は明らかに間違っている。しかし経済が多くの人の命を救う可能性があるということを考えれば、経済の重要性も考慮に入れなければならない。とは言え、無駄な犠牲を強いることは決してあってはならない。

エネルギー政策に携わっている政治家たちは、物もお金も、そして人間もマクロなレベルで考えることになるので、どうしても現場というものが見えにくくなるのかもしれない。もちろんそのような事を避けるために政治家は視察を頻繁に行っている。しかしそれで十分かと言われれば決して十分とは言えない。経済学にマクロとミクロがあるように、人間の動きにもマクロとミクロがある。この双方の視点を併用して施策を打ち出すことが大事であるが、実際にそれができる政治家は少数派であろう。

又聞きであるが、東日本大震災の時にビートたけしがこんな言葉を言っていたらしい。それは「2万人が死んだということが一件起きたのではない。一人が死んだということが2万件起きたのである。」確かにマクロ的な視点では、震災という出来事を一件の大きな事件とまとめようとしてしまう。しかしミクロ的な視点で見ると、そこには2万件という膨大な事件が日本各地で同時発生していたのである。何を主眼に置いて見るかによって、物事の捉え方は大きく変わる。何事も複眼的に見て判断しなければいけない。

時代の変化。良いのか?悪いのか?

時代の認識は常に変化している。昔良かったことが現在では悪い事だと言われることは多々ある。その逆もあるだろう。悪い事が時代が進むにつれて正されることは良い事だろう。しかし「なぜそうあるべきなのか?」という考察を全くせずに流れや雰囲気だけで変化して行くことには危険な事も多い。時には改悪されることもよくある。

そして最近の風潮で僕が危険だと思うことは「拡大解釈」だ。数学や物理では拡大解釈、あるいは一般化ということはよくされる。しかし拡大解釈や一般化をするに当たっては、その根拠、すなわち裏付けが必要である。同様に社会の風潮でも根拠や裏付けに当たる深い考察は絶対的に必要だ。考察のない拡大解釈は、多くの場合改悪につながる。

社会の方向性は良い方を向いていると思いたいが、現代社会の中にある風潮や認識を見ると、多くの改悪がなされていると言わざるを得ない。また、良い方向へと向かっていたとしても、度が過ぎると非常に生きづらい世の中になる。

メリットとデメリットは多くの場合同時に表れる。重要なのは、メリットとデメリットを天秤に掛けて判断することである。メリットだけを視野に入れメリットが1増えるとしても、デメリットが10増えればそれは本末転倒だ。物事は大局的に見て判断しなければならない。

僕がなぜこのような記事を書いたのか?それは現在の世の中が非常に生きづらい社会になっているのではないかと感じているからだ。確かに現代社会は非常に“便利”な世の中になっている。しかし便利だからと言って“生きやすい”という訳ではない。例えば昔はスマホもなく不便であるが故に一期一会を大切にしていた。しかし現代社会では安っぽい出会いが増えている。もちろんネット上でも大切な一期一会は存在するが、そのありがたみをなかなか感じられないでいるのではないだろうか?

技術は常に発展し続けている。しかしその技術の利用の仕方を間違えたり過度に依存しすぎると、本来人々を便利にさせるための技術が人々を生きづらくさせてしまう。そしてそのような事は技術だけではなく、風潮や人々の認識、そして規則にも言えることだ。