月別アーカイブ: 2月 2020

ジャパニーズドリームは存在しないのか?

コード決済の老舗であるオリガミペイがメルカリに買収された。ただ同然の身売りだと言われ、日本のコード決済をスタートさせたと言っていいベンチャー企業の破綻だと言っていい。僕は今回のオリガミペイの身売りに対して非常に複雑な思いであり、残念でもある。僕自身もオリガミペイの一ユーザーであり、他のペイ(PayPay、d払い、楽天ペイ)などに比べると使用頻度は少なかったが、オリガミと言う名前が少し洒落ており、スマートに支払いを済ましたいときには「オリガミペイで」と払うことがあった。

今回のオリガミペイの身売りの一番の要因は、PayPayの100億円還元キャンペーンであることは言うまでもない。そして現在もauPayが70億円と言う巨額のキャンペーンを行っている。結局、今残存している主なペイは、PayPay(ソフトバンク)、d払い(ドコモ)、楽天ペイ、そして最近スタートしたauPayと、携帯キャリア企業が中心となっている。つまり、資金力のあるところが残っているという様相だ。

このような現状に、僕は非常に危機感を感じている。つまり、技術力やアイデアではなく、資金力があるところのみが残ると言う現状にだ。オリガミペイはいち早くコード決済に参入したと言うこともあり、技術力とアイデアは言うまでもなく高かったと考えられる。しかし資金力がなかった。これは、ジャパニーズドリームが存在しないと言うことの象徴ではないか。もちろん、ソフトバンクの孫正義氏はジャパニーズドリームを体現した人物だと言える。しかしそれは二十年前までさかのぼる。現在の日本の社会は、あらゆる分野で技術力以上に資金力がものをいう社会になって来ているように思う。そしてそのことが、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に太刀打ちできない遠因になっているのではと僕は考えている。

GAFAに大きく水をあけられ焦っている日本社会は、GAFAに負けないような技術・システムを構築・養成することに躍起になっているように感じるが、結局ペイの世界で起きたように資金力でものを言わせようとしているのである。しかし当然、資金力で言えばGAFAには到底かなわない。つまり、現在の日本のシステムにおいては資金では勝てず、技術・アイデアが埋もれ活用できないという状況になっているのである。アメリカでは有望な技術を持ったベンチャー企業に大きな資金が集まるようなシステムになっていることは皆の知るところであるが、日本では結局既得権益・既得資金を持った集団のみが生き残れるという仕組みなのである。このような状況では、いつまで経っても日本が世界の先頭に立てることはないと僕は考えている。そもそも現在の日本社会にジャパニーズドリームは存在しないのだから。

飛行機には夢がある。

僕は子供のころから鉄道が大好きで、今でも鉄道に乗ると少しワクワクする。しかし最近、鉄道よりも飛行機の方が気になってしかたがない。そもそもこれまでは飛行機に接することがあまりなく、飛行機に乗ったのも国内で数回程度だ。しかし今、自分の研究の夢に関連していろいろと調べることがあって、そこで飛行機についていろいろと知ったのだが、それに従って飛行機の魅力に徐々に取りつかれてきたのだ。

飛行機の魅力は何か?それはいろいろあるだろうが、やはり一番は地球上のどこまでも数時間で飛んで行くことができることであろう。やはり国内の鉄道と比較するとスケールが違う。とは言え、僕自身そんなに旅行に興味があるわけではない。しかし仕事で世界中を飛び回ることができれば、人間的にも少し大きくなれるのではと強く思う。そういう意味で、飛行機には夢があると感じ始めたのだ。

ソフトバンクの孫正義氏はプライベートジェットで毎日のように世界を飛び回っていると言う。もちろん、研究者がプライベートジェットでとはいかないが、世界を飛び回りながら研究発表して回ると言うのは多くの研究者の目標であろう。

物理を究めればこの宇宙が理解でき、数学を究めれば数的宇宙が理解できる。それだけで十分かもしれないが、実生活においても飛行機で飛び回って地球と言う世界を見て回るのも非常に刺激的ではないかと最近強く思うのである。

信じる者は救われない。

宗教では、「信じる者は救われる」と言うキャッチフレーズがよく使われる。ではなぜ、そのようなキャッチコピーが使われるのか?それはそのこと以外に自分たちの意見を正当化する根拠がないからだ。だから何の検証もされないようなことを言いながら、信じることを迫るのである。

信じることが美しいと思っている人たちがいる。しかし僕に言わせれば、そのような何の根拠もないことを信じることは愚かであり、それこそ「信じる者は救われない」と言う可能性が非常に高い。とは言え、僕だって信頼すべき人を信じることは大いにあるし、大切な人、好きな人を信じることは大切だと思っている。しかし、宗教で言う「信じる者は救われる」と言うキャッチコピーには大きな危険が潜んでいる。それは「思考停止」である。そこには「信じること=考えない」と言う構図が存在する。しかし思考停止して救われるなんてことはほとんどあり得ない。自分の頭で考え抜いてどのような道に進むべきか?と言うことを導き出すことによって未来が切り開かれるのである。言い換えると「考える者は救われる」と言うことなのである。

信じるだけなら非常に楽だ。なぜなら考えることに全く労力を使わなくていいからだ。人(神?)の言うことに無批判に従っていればいいだけだ。そうなれば、自分はもう人間ではない。神の下僕である。下僕になりたければ大いに信じればよい。しかし自分が人間として生きたければ、徹底的に考え抜いた方が良い。権威に反旗を翻しても良いし、思考停止した学校の教師に反抗するのも良い。とにかく一番信じなければならないのは自分自身なのである。

なぜ人は学歴を付けようとするのか?箔が付くからとか就職が有利になるからとか、いろいろ意見はあるだろう。しかし僕はそのような事は本質ではないと思っている。究極は考える力を身に付けるためだ。考える力を身に付ければ、自分の力で道を切り開いて行くことができる。確かにそれによってお金を得られる保証はないし、楽になるわけでは決してない。しかし僕はそれでいいと思っている。多くの人とは全く異なる考えかもしれないが、そのような生き方もあることくらいは頭の片隅にでも認識すべきではないか?

難しいことは、そんなに難しくない。

世の中には難問があふれている。それは数学や物理においても例外ではなく、百年以上未解決の問題などもそれなりに(多数?)存在している。しかし僕は、難問と言うものは実際はそんなに難しくないと思っている。それは、難問だと認識されている時点ですでにそれが難しいことだと見通せているからだ。もし先を見通せているのならば何らかの解決法が見えてくる。本当の難問と言うものは、それが解決されるまで難しいとは認識されていない問題の事なのである。

例えば、相対性理論の事を難しいものの代表だと言う人がいる。しかしそれが難しいのは、アインシュタインが取り組んだ問題そのものであって、それが明白の事実となっている現代人が相対性理論が難しいと言うのとは全く違う。

簡単にまとめると、難問と言われている問題は「すでに描かれている絵にどう描き加えるか?」と言うことであり、真の難問は「白紙に何を書くか?」と言うことである。科学において白紙に絵を描き始める達人だったのが、ニュートンである。現代の科学者と言うものはほぼ例外なく、絵を描き加えているのである。

難しいと言う認識がそれを難しい問題に仕立て上げることが多い。しかし実際はほぼ全ての問題が難しくないのである。そう思えるかどうかは、その人の展望力にかかっている。意外と計算力だけあっても当てにならないものである。展望、つまりビジョンがあってこそ、計算力が発揮されるのである。

科学的に哲学を構成する。

哲学とは論理的に構成されるものである。僕の個人的な見解としては、哲学とは論理的に構成された意志だと思っている。しかし論理的だとは言っても、哲学で展開されている論理の中には非常に怪しいものが散見される。特に科学的知見のない純粋哲学者の議論には、あきれるばかりである。そしてそのような哲学者が我が物顔で科学に対して見解を述べる。科学に対して持論を述べるのは勝手だが、表面的な部分だけ見て怪しい論理を繰り広げるのには科学者から見ればあきれるばかりである。

そこで、科学者の立場から哲学を構成することができないかと強く思うのである。そもそも古代ギリシャの哲学者は、当時としては自然哲学(現代の科学に通じる)においても最先端を行っており、特に数学的な議論には今見ても目を見張るものがある。古代ギリシャでは哲学者が数理科学を追究していたと言えるが、現代において科学者が哲学を追究することは非常に意義があるのではと思う。

人間が世の中を理解するには二つの知見が必用である。一つは人間や社会の原理。そしてもう一つは自然科学である。少なくとも科学者は自然科学に関してはかなり理解していると思われる。なのでそれに加えて人間や社会について深く理解すればそれなりに意義のある哲学が展開されるのではないか。もちろん、哲学者が科学を根本的に理解して論理を展開するのも良い。しかしそれができるのは最先端の哲学者のうち数人くらいしかいないのではないか。その数人に対して僕は非常に期待を寄せている。

哲学とは人間の内に迫るものと外に広がるものの双方が必用である。内に迫るものが人間の意志や思考への追究だとすれば、外に迫るものは自然科学だと言える。そしてその双方の知見を融合するためには、物事を科学的に構成しなければならない。それが科学的に哲学を構成すると言うことである。科学に迫ると言うことは、それを思考する人間に迫ると言うことでもある。そしてそのように人間の本質的な部分に迫った結果が哲学であるべきである。

デジタルとアナログ。

現在の世の中はデジタルなシステムで溢れており、これからもますますデジタル化が進むものだと思われる。では、アナログは不要なものになってしまうのか?僕はそうは全く思えない。

デジタルとアナログの対比として、スマホと紙が挙げられる。最近のスマホは非常に高度なシステムになって来ており、身の回りの簡単な事はだいたいスマホで代用することができる。英語がわからなくてもスマホアプリで瞬時に翻訳できるし、最近はスマホを通じてAIと会話もできるらしい。しかし、一つ間違ってはいけないことがある。スマホでいろいろな事ができるが、何でもできるわけではない。これからもスマホにはできないことがどんどん出て来るであろう。

そして非常に原始的な事であるが、スマホにできなくて紙にしかできないことがある。例えば一冊の本を読むだけならば電子書籍の方が圧倒的に便利だが、研究で専門書を活用しようと思えば紙の本の方が圧倒的に効率的であることもある。そして何よりも、紙に字を書くと言う行為は非常に重要である。もちろん今ではタブレット端末にデジタルペンで書き込むと言うことは容易にできるが、まだまだ万年筆で紙に書き込むと言う行為には及ばない。僕もこれからデジタル機器を存分に活用して行こうと思っているが、そうすればするほどアナログの長所が見えてくるものだと予想している。

これからの時代を生き抜くためには、次の二つのどちらかを徹底する方が良いと思っている。一つはデジタルで出来ることはデジタルを十分に活用するが、アナログでしかできないことはその長所を徹底的に活用する。もう一つは完全にデジタルで武装する。スマホを使って適度にアナログも取り入れると言う中途半端な意識が一番危険なように思える。なぜならば、それだとデジタルの進化に取り残され、アナログでも戦えないからだ。僕はこれからアナログもデジタルも徹底的に活用して武器にしようと思っている。なのでアナログを捨てることはまずない。紙を常に持ち歩き、万年筆を武器にする。それは研究でも人付き合いでも同じだ。しかしデジタル化の効果の方が大きいと判断すれば、即座にデジタルを取り入れるつもりである。

デジタルか?アナログか?と考えた時、単に便利かどうかと言う視点だけで判断するのは危険だ。セキュリティ面での対策も考えなければならないし、数値化されにくい大局的な効果も総合的に考えなければならない。そして人の心がどう動くかと言うことも考えなければならない。そのような事を考えた時、意外とアナログの効果は大きいものである。つまり、視野を広く張り巡らすことが重要になる。なのでテストの点数ばかりにこだわる盲目的な人間にだけはなってはならない。

意味がないと言うことを見出すことも大事だ。

全ての事に意味があると言う人もいるが、現実には全ての事に意味があるわけではない。あることに意味を見出すことは非常に重要だが、意味のないことに対して意味を見出そうとしても完全に無駄である。そのような事に対しては、意味がないと素早くジャッジすることが重要になる。意味がないと見出すこと自体が、意味があると言える。

それは学問に対しても言える。全ての事に対して意味を見出そうとするとどういうことが起きるのか?重要な事も重要でないことも同列に扱おうとしてしまうのである。そしてそれは物事の本質を見抜けていないことを意味する。本質を見抜くための第一段階は、それに意味があるかどうかを判断することであると言える。

ただ、何のカテゴリーで判断するかによって意味があるかないかと言うことが変わってくることがある。僕たちの普段の何気ない行動やちょっとした好みに関してはそんなに意味があるようには思えない。しかしそれが何十万人の統計となると、ビッグデータとして非常に重要な意味を持つ事になる。現代社会においてはビッグデータが非常に重要になって来ており、それらのビッグデータはビジネス的にも多額のお金によって取引されている。過去に意味がないと思われたことが、現代では非常に大きな意味を持っているのである。

意味がないことを素早くジャッジすることによって、本当に意味のあることに労力を割くことができる。全てに意味を見出そうとすると、本質を見失ってしまうことになる。しかし一見意味のないような事に物事の本質が潜んでいることがある。そのような本質を見抜くためにも、表面の裏にある多様体を探っていかなければならない。

哲学が知とは思えない。

哲学は知を愛する学問だと言われている。僕も以前はそう思っていた。しかし今は全くそうは思えない。僕は哲学とは「人間の意志だ」と考えている。「いかにして生きるべきか?」と言うことを考え追究していく。それによって人間の意志と言うものが作り上げられていく。

しかし学問的哲学は全くおかしな道を迷走している。それは意志である哲学を知だと勘違いしていることにあると僕は考えている。もし「本質的な知とは何か?」と言うことを考えるのならば、それは哲学ではなく科学・数学だと僕は思っている。科学・数学は人間の圧倒的な知である。哲学などはその足元にも及ばない。そして科学・数学と哲学の決定的な違いは、それを検証できるか否かと言うことである。科学はどんなに立派に作られていても、それが実験や観測に合わなければ正しいとは認められない。数学ならば厳密な証明がなされているかどうかだ。しかしほとんどの哲学は証明も実証もされないまま継ぎ足されていく。だから間違った方向へと進んでいても、それを誰もが気付かずに無批判に進んで行くことになる。哲学は批判が大事だと言われているが、はっきり言ってその批判さえも甚だおかしく、おかしい批判の連鎖になるだけである。

学問的哲学がなぜほとんど世の中の役に立たないかと言えば、その根源は正しいかどうかを検証できないからであろう。科学ならば一歩一歩実証され、そしてそれを基に次の段階へと進んで行く。確かに実証待ちの科学理論も存在する。例えば物理学の超弦理論などがその代表だと言える。実証がされないまま突き進んで行く様は、哲学のそれとよく似ている。しかし数学的論理的に進んでいることはほぼ間違いないので、哲学と超弦理論を同じように扱うことはできない。

知とは意志によって論理を築き上げて行くことであると僕は考えている。そしてそれを次々に実証していく。しかし哲学はそれを満たさないまま突き進んでいるだけのように思える。何がおかしいかと言えば、哲学的意志を理論に結び付けるときに、そこに明らかに詭弁としか思えないような論理が介在していることである。そのような論理が果たして知だと言えるだろうか?ただ単に論理的であればそれは知なのか?決してそうではない。やはり知の本質を追究するにあたっては、科学と数学を避けては通れないはずだ。

自力本願。

他力本願と言う言葉はあるが、自力本願と言う言葉を使うことは少ないかもしれない。しかし僕はこの自力本願と言う言葉をよく使う。なぜなら、僕は基本的に自分で考え自分で行動すると言うことに強いこだわりがあるので、それを一言で表すとなると自力本願と言う言葉がピッタリだと思うからだ。

自力本願とはもちろん自分の力で乗り切ると言うことだが、言葉を変えると「手段にこだわる」と言うことだと僕は考えている。ビジネスならば一番の目的はお金を稼ぐことだから、手段を選んでばかりではいられないし、手段など関係ないと言う人も多いだろう。しかし人生においては手段は非常に大きな意味を持つ。ただ結果さえ良ければ良いとは僕は考えていない。どのような手段を取り、どのような道をたどってきたかと言うことが結果に大きな付加価値を付ける。だからこそ、僕は手段に非常にこだわるし、どのような道を選ぶかと言うことにこだわるのである。

そしてそのような事は学問にも言えると僕は考えている。もちろん、同じ結果であれば同じような評価をされるものではあるとは思うが、それでも僕は手段を選ぶことにこだわっている。これはある意味自己満足だと言えるかもしれないが、しかし「学問を究めること=人生」だと思っている僕にとっては重要な事である。しかし計算などをするときに手段にこだわる必要はない。時には泥臭く計算することも必要だ。そんなところに手段にこだわってはいけない。手段にこだわるのは人生を学問に投射するときに限る。

僕が自力本願にこだわるのは、基本的に一人で生きることが好きだからかもしれない。もちろん人と飲んだりして楽しむことも大好きだ。しかし数学や理論物理は基本一人で完結するものだ。もちろん他人と全く関係ない訳ではないが、他の学問、他の業種に比べると、圧倒的に自分の内部から沸き立つものによって極めることができる。社会では人の力を利用することの重要性ばかりが強調されるが、自分の力で考え抜いて今を切り抜けるということの重要性が軽視され過ぎではないだろうか?

いくつかの目標。

僕にはいくつかの目標がある。いや、目標と言うよりノルマと言う方が良いかもしれないが、それらの目標に向かって今は前進している。

では、目標とは何に対する目標か?やはり一番は研究に関する目標。そして金銭的な目標。そして私生活における目標。そのように大きく三つに分けたが、そうは言っても研究に関する目標を達成しないことには他の二つの目標も達成できない。いろいろと難しいポジションにいるが、やはり僕の人生から研究を省くことはできない。

それらの目標に向かうことは、非常にチャレンジングな事だ。研究に関する目標はそれを達成すると誰も異論がないと思うが、金銭的な目標と私生活における目標は、それに異論を唱える人もいるであろう。しかし人間の価値感と言うものは様々であって、他人の価値感に振り回されていては自分の進むべき道に進むことはできない。

よく他人の意見に耳を傾けるべきだと言う人がいるが、他人の意見が自分の考えている事よりも優れているとは限らない。だから自分の考えが正しいと思うのならば、自分の考えを貫くべきだ。もちろん、他人の意見が正しいと判断したのならば、他人の意見に従うのも手ではあるが。

プロ野球の世界でも、コーチの意見に振り回されて結局型を崩す人がいる。そのような選手は結局自分で考える能が欠けているのだと言える。まずは自分で考え、そして実行するのが鉄則だ。だから初めから周りの意見ばかりに振り回されるのは僕は間違っていると考えている。

自分に大きな目標があるのならば、まずは自分を信じてみよう。そして自分の進むべき道に進むべきだ。もちろん、あきらめて妥協して現実に合わせるべきだと言う人がいるが、そのようにしたい人はそのようにすればよいと思う。しかし意志を持って自分の信念を貫く人間も少なからず必要だ。しかし周りを見渡してみると、そのような人は非常に少数派のように思えてならない。ならば自分がそのような少数派の一人になれば良いと思うことも非常に大事である。

トランプ、安倍、習近平。トリプルドミノは起こるのか?

現在、日米中のそれぞれのトップが危機に瀕している。とは言ってもそれぞれこれまでの政策や言動、行動が起こした結果だと言えるが、この三者の誰が失脚してもおかしくない状況だ。トランプは次の大統領選を乗り切れるかどうか、安倍首相は野党の追及、そして国民の追及を乗り切れるかどうか、そして習近平は降ってわいたような新型肺炎ウイルスに対する対応のまずさだ。

それぞれ国のトップに就任してから数年の年月が経つ。そして現在の危機は、その数年における行為に対しての当然の帰結だと言える。トランプの何がまずいのか?改めて言うまでもないだろう。そして安倍氏の最近の答弁はもう理詰めでも何でもなく、小学生レベルの言い訳にしか聞こえない。安倍氏が乗り切れるかどうかでなく、仮に乗り切ったとしたらこれからの日本は非常に危機的である。やはり総理総裁三期制度に対する弊害だと言わざるを得ない。

そして今一番社会問題となっている新型肺炎ウイルス問題である。中国政府の初動は明らかに誤った。しかし問題は、たまたま初動を誤ったと言うことではない。これまで習近平が押し進めて来た情報統制、国民統制、そして徹底的な隠ぺい政策の当然の帰結として、今回のウイルス対策の誤りが生まれたと言える。そしてこれらの問題は現在進行形である。もしこれからウイルス問題が長引き国民の不満が爆発すれば、習近平の立場は危ういと僕は考えている。

確かに日米中のそれぞれのトップが全て失脚する可能性は低いかもしれない。しかしゼロではないと僕は考えている。では、どれが一番可能性が高いかと言えば、安倍首相の失脚だと僕は考えている。今年まだ始まったばかりだが、この一年は激動の一年になるのではないだろうか?

有無を言わさぬ結果。

普段取り組んでいることに関して、自分の結果が認められないと愚痴や悩みを抱えている人は少なくない。ではなぜ結果が認められないのか?その理由は様々であろうが、ただ一つ、100%認めさせることができる方法がある。それは「有無を言わさぬ結果を残すこと」である。有無を言わさぬくらいだから、周りや組織も認めざるを得ない。それでも認められないのなら、即刻その組織から出た方が良い。

では、有無を言わさぬとはどれくらいの結果であろうか?それも人によって様々であろう。学生ならクラスで一番、学校で一番などと言うであろう。ビジネスで言えば10億円、100億円稼ぐことだと言う人もいるかもしれない。では研究においてはどうであろう。何らかの賞を取るとか、何らかのポジションに就くとか言うレベルもあるかもしれない。しかし「有無を言わさぬ」のだから、それくらいのレベルでは弱い。過去の人物で言えば、数学者ならリーマンやグロタンディーク、物理学者ならばニュートンやアインシュタインなどが絶対であろう。

このような事を言うと、そんなレベルは誰もが不可能だと言うかもしれない。しかし、誰もが不可能なのではない。その人が不可能なだけだ。実際、そのレベルの結果を成し遂げた人物が数人いるのだから、不可能なはずはない。まずは誰が挑戦するか?そしてそれらの挑戦者のうち誰が成功するかだ。まずは挑戦しないことにはそれらの候補にはなり得ない。

最近の若者は「悟り世代」だと言われることが多い。僕には何に悟りを開いているのかさっぱりわからないし、ただ単に初めからあきらめているだけだと思える。(もちろん、老人の中にもこのような人は多い。)しかしそれはそれでいい。なぜならそのように悟ることはその人の勝手だからだ。しかしそのようなくだらない悟りを他人にまで押し付けることはやめてほしい。悟って自分にはできないと思うのは自由だが、だからと言って他人もできないはずだと考えるのは非常に愚かで迷惑だ。実際に挑戦して成功しようと取り組んでいる人たちのなかに、このようなくだらない悟りを開いている人は一人もいないはずだ。

有無を言わさぬ結果を出すことに挑戦することは、人生を懸けるに値することだと僕は強く思っている。人生死ぬまで挑戦し続ける、そして挑戦を繰り返すことによって人生が作られるのだと僕は考えている。

急がば回れ!頭脳と筋トレ。

最近、研究の方が少し不調な事もあり、いろいろと試行錯誤している。例えばビールを飲む回数を調節したり、コーヒーを飲む量を調節したりとしているのだが、決定的解決とはなっていない。そこで最後に残ったのが筋トレだ。筋トレはもうかれこれ10年ほど続けているが、ここ一年程筋トレをする回数が減っていた。そしてそれとセットで行っていたジョギングも、面倒くさいとか思いながら走る回数が圧倒的に減っていた。思い返せば、ジョギングを毎日していた時期は非常に調子が良かった。そしてジョギングが減った時期と上手くいかない時期がほぼ重なっている。二年前くらいはジョギングをほぼ毎日行い、調子も上向きだった、しかし去年からジョギングの回数が減り、調子も下降気味である。頭脳と筋トレが繋がっているのかどうかわからないが、明日からまた筋トレ&ジョギングを日課にしようと思う。

筋トレ&ジョギングのセットに本気で取り組もうと思えば、一日一時間くらいの時間投資が必用だ。しかしその一時間の投資のおかげで調子が上向きになれば、それを実行する価値は大いにある。急がば回れである。そして筋トレ&ジョギングをすることによって、体系も引き締まる。外見も変えることができれば一石二鳥である。僕は特に太っているわけではないが、ジョギングをして引き締まっている頃に比べれば今は少し緩んでいる。また外見も内面も引き締めようと思う。

人間性に外見は関係ないと言う人もいるが、僕は外見と人間性は非常に関係あると考えている。だからこそ、体形的にも引き締めようと思うのである。僕が非常に尊敬しているiPS細胞の山中伸弥教授は毎年フルマラソンを完走され、体も顔も非常に引き締まっていて凛々しい。そのような山中教授は僕の憧れでもあり目標でもある。

さっそく、明日から毎日の筋トレ&ジョギングを再開しようと決めた。天気が悪い日以外は毎日ジョギングをし、走った後に筋トレを行う。もちろん、僕の最終的な目的は頭脳の活性化である。しかし体を引き締めるのももちろん目標である。今週、さっそく体脂肪計でも買おうかと考えている。