月別アーカイブ: 1月 2020

紙の本と電子書籍。

近年、紙の本の勢いが衰え、電子書籍が勢いをつけてきていると言う。紙の本が良いか?電子書籍が良いか?人によって様々だとは思うけど、どちらも一長一短あるような気がする。僕自身は根っからの紙の本派だけど、最近は電子書籍も良いのではと思ってきている。

特に最近、専門の数学・物理関係以外の本、例えば化学や生物学関係の専門書を買うことが多くなった。するとこれらの分野の専門書の特徴として、とてつもなくページ数が多いのだ。本格的な本になると、千ページ超えは当たり前。こうなると当然持ち運びなどはできるはずがない。ならばiPadなどに電子書籍を入れて、千ページの本を何十冊も持ち運ぶ方が圧倒的にメリットが大きい。とは言え、やはり紙の本によるメリットも無視できない。なので、数学・物理関係の本は(ページ数がそんなに多くないこともあり)、全て紙の本で購入する方針は変わらないと思う。

一番良いのは、紙の本と電子書籍の両方を購入することだ。家では紙の本で読み、外出先では電子書籍で読む。これが最高であるが、当たり前の事ではあるが値段が二倍することになる。しかしそれも投資と考えれば悪くないのではと思う。

少し余裕ができれば、12.9インチの大型iPad Proを買おうかと思っている。大型iPad一つあれば、外出の際も非常に身が軽くなる。それでいて本が何十冊、何百冊と携帯できるのだ。そう考えると、これからの時代は電子書籍へと流れるのも必須である。しかしそうは言っても、僕は紙の本は永久に捨てることはないと思う。紙の本と電子書籍の双方のいいとこ取りをして、時間と能力を最大限有効に活用することが求められる。そのための金銭投資は惜しむべきではない。これでこれからの自己投資の方針の一部が定まった!

アイドルの「恋愛禁止」、何かおかしくないか?

現在、乃木坂46からの卒業を発表した白石麻衣さんが、アイドル時代の8年間ノースキャンダルだったことが話題になっている。白石さんのような美人さんが身の回りにいれば、男だったら誰だって声をかけたくなるだろうし、おそらく毎日のように男から誘われたであろう。(ちなみに僕は秋元真夏派。)アイドルが8年間ノースキャンダル?だったことは、さぞかし苦労の連続であったであろう。しかし、ここで「ノースキャンダル」と言う言葉の後に“?”を付けたことには訳がある。そもそも年頃の女の子が普通に恋愛することがなぜスキャンダルなのか?おそらく多くの人は、「アイドルは恋愛禁止がルールなので、それを破ったらスキャンダルであることは当たり前だ」と言うかもしれない。しかしそのような事は、考えれば考えるほどおかしなことに思えてならない。

そもそも、アイドルと言ったって年頃の女の子である。年頃の女の子が恋愛をすることは至って自然な事である。むしろ恋愛を避けようと努力することの方がはるかにおかしな行為である。そして恋愛禁止のルールだって、アイドルを運営する人たちがアイドルを商品と見立て、その商品価値を落とさないように取り決めているルールに過ぎない。法律を違反しているわけでも何でもない。さらに言えば、そのような恋愛禁止ルールを押し付けることの方が人権上はるかに問題があるはずだ。

もちろん、お気に入りのアイドルの恋愛が発覚すれば、誰もがショックを受けるだろう。しかしそれはアイドルでなくても同じだ。好きだった女の子が他の男と付き合っていれば誰だってショックを受ける。それは僕だって同じだ。だからと言って恋愛を禁止にするのは明らかにおかしい。もちろん、それを承知の上でアイドル業を全うしている人もそれなりにいるだろう。しかし恋愛をしたいアイドルに恋愛をするなと言うことの方がはるかにおかしいし、いったい何の権限があってそんなことを言っているのだと言う話である。

十年後、おそらくアイドルの恋愛禁止ルールはなくなっているはずだ。なぜならそれはあらゆる面(人権や、そもそも人間の自然な行為・認識として)に関して明らかにおかしな強制であるからだ。もちろん、好きなアイドルが恋愛をしていれば誰だってショックを受けるはずだが、ファンはそれを渋々ながらも受け入れるべきなのではないだろうか?

お金は必要だよ。でもそれが全てではないんだよ。

あるタレントが「お金が全てだ」と言い張っていたのを見て、いろいろと感じるところがあった。おそらく多くの人は、お金が全てだと言う言葉に対して反論したいであろう。僕だって同じである。しかし、そのように言い切る彼女に対して、ある種のたくましさを感じたりもするのである。確かに反論したいところはいろいろある。しかし人間の本音として間違っていないのではないかと思うところもいろいろあるのである。

生きるためにも遊ぶためにも、お金は絶対に必要である。そしてお金はないよりかはある方が圧倒的に良い。しかしだからと言って、お金が全てではない。お金で買える幸せは、現実問題として沢山あると思う。しかしお金では買えない幸せもあるのも事実である。だから本当の幸せとは、お金によってもたらされる幸せとお金では買えない幸せの両方手に入れることかもしれない。健康もそうである。お金があれば最先端の検診を受けて予防したり、最先端の治療を受けることによって病気を防ぐことができる。しかしお金ではどうにもならない健康もたくさんあるのも事実である。

お金が全てではないことはほとんどの人にとっては明らかだが、お金に対する割合がいくらかと言うことは人それぞれ違うと思う。お金が90%だと言う人もいれば、10%と言う人もいるだろう。前出のタレントにとっては、お金が100%だと思っているのだろう。しかし一度健康を害するようなことがあれば、それが正しくないことがわかると思う。

とは言え、お金を稼ぐことに精を出すことは悪くないし、むしろ仕事に精を出すことによって人生に活力が生まれるものだ。このような活力も幸せのうちの一つである。同じ一億円でも、宝くじで当たった一億円と努力して稼いだ一億円は全く価値が違うものである。このように努力して稼いだ一億円によって人生が活力に満ち溢れ、心身ともに幸せと健康になるものだと思う。なので、お金が全てではないが、お金を最大限有効的に幸せにつなげることが必要なのではないか?そうすれば例え現在は沢山のお金があるわけではなくても、費用対効果として最大限の幸せを手に入れられる。そしてそれが将来の大きなお金にもつながってくるのかもしれない。

僕が司法・検察に対して厳しい意見を言う理由。

僕はこれまで幾度か、司法・検察に対して厳しい意見を言ってきた。昨日のブログでも、検察、そして元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に対して、これでもかと言うくらいにこき下ろした。僕がこのように検察に対して厳しい意見を言うのには理由がある。ゴーン氏が言っていたような検察批判に同調するわけではないが、現在の検察の在り方・体質に対して疑問に感じるところが少なくないからだ。

まず初めに述べたいことは、冤罪事件と言うのは司法・検察、そして国家による犯罪だと言うことである。不当に逮捕・拘留すればそれは国家による逮捕・監禁罪であるし、もし冤罪人を死刑に処すればそれは国家による殺人罪である。しかし、このような非常に単純な論理を、検察は全く認識していないように感じられてならないからだ。そんな事件追及は、正義でも何でもなく単なるエゴでしかない。

このような事を象徴するのが、冤罪に巻き込まれた袴田巌さんである。確かに、検察とは言え何かの間違いを起こすことはあるとも言える。しかし、実際に殺人を犯した殺人犯は裁判所でどう発言するだろうか?ほとんどの殺人犯は反省の弁を述べるだろう。しかし、袴田さんの冤罪に関して、検察は一向に謝罪の弁を述べないばかりか、自分たちを正当化して保身に走るばかりである。これはどう考えても、反省の弁を述べる殺人犯よりも悪質だ。袴田さんは年老いて何とか自由の身にはなったが、冤罪を証明されずに死んでいった囚人もいることは想像に難くない。

僕は検察を否定したいわけでは全くない。検察組織は社会にとって必要不可欠だ。しかしその在り方が問題なのである。体質とでも言うのだろうか?現在の強権的な(検察が強権的であるのは当たり前だと言えるが)検察が、その強権の使い方が明らかにおかしい事案が散見されることを僕は問題視しているのだ。検察側にとっては単なる間違いと言う一言で済ませることでも、冤罪犯にとっては命がかかっているのである。そのような認識を検察側が持つまでは、僕の厳しい意見は終わらないだろう。

ゴーン氏の会見に関して。

久しぶりにニュースを見てブチ切れた!何に対してか?news zero(日本テレビ)に出ていた若狭勝・元東京地検特捜部副部長(前衆議院議員)に対してだ。番組では、ゴーン氏の会見について報道され、それに対してアナウンサーらが意見を言っていた。そしてそれに対する若狭氏の見解があまりにも低レベルで幼稚すぎるのだ。

まずは、ゴーン氏が指摘していた、日本の裁判での有罪率99.9%問題(これについては1月2日の僕のブログでも触れた)についてだが、若狭氏は日本は外国とは違って確実に有罪を取れる場合しか起訴しないからこの数字になるのだと言っていた。小学生レベルの弁解である。そして検察側のこのような認識は、非常に恐ろしいものであるとも思った。それは、検察側は取り調べを行う際、99.9%(すなわちほぼ確実に)有罪であるという思い込みのもとに取り調べを行っているとも受け取れる。このような認識こそ、まさしく冤罪の温床である。有罪となった99.9%の中には、相当数の冤罪事件があると言うことも想像に難くない。

そして、ゴーン氏の会見に対する若狭氏が言った総括が「逃げ得」である。これもまた小学生レベルの意見である。このような若狭氏の幼稚な意見から感じられるのは、このような低能低レベルな人間が率いる検察と言うものは、相当低レベルな組織なのではないかと言うことである。そして検察は権威をバックにして強権的な取り調べをしていると疑われても仕方がない。

今回のゴーン氏の会見は、皆が言うように確かに内容が薄かったことは明白である。しかしそこから日本の司法が反省すべき点もいくつかあったように思える。しかし当の日本の司法側が保身に走っているようでは、反省によって改善されると言う期待は持てない。若狭氏のような存在は、そのような検察の問題の氷山の一角を表しているのではないだろうか?

たまには旅行に。

週末、信州松本まで旅行に行ってきた。と言っても夜行バスでの弾丸旅行だ。僕は以前のブログでも書いたように、特に旅行が好きなわけでもなく、今回の旅行も旅行自体が目的ではなく、大学時代の同級生たちとの飲み会が目的だ。しかしそれとは別に、もう一つの目的もある。それはあらゆることに関しての気分転換だ。最近はなかなか調子が乗らないので、そこを何とか変革しようということである。

それにしても旅行は本当に疲れる。特に格安ホテルでの宿泊が非常に疲れる。高級なホテルに泊まれば快適に過ごせるのかどうかわからないが、余裕ができた時にはもう少し高級なホテルに泊まりたいものだ。

こんなに旅行が好きではないとか言いながら、今回の飲み会を企画したのは僕自身である。孤独でいるのは大好きだが、みんなと一緒にワイワイするのも大好きなのである。しかし今帰ってきたばかりで疲労が激しく、書いている文章もおぼつかない。また明日から研究に邁進し、マシなブログ記事も執筆していかなければならない。まあ、今日はこれくらいにして休むことにしよう。

セルフブランディング。

ブランドと言うものは、何も鞄や時計などのいわゆるブランド品だけではない。人間自身をブランド化することも非常に重要である。ブランドとは付加価値であるが、そこには長年積み重ねてきた信頼なども含まれる。そして忘れてはならないのは、ブランドを築くことは時間もお金も非常にかかるが、失うのは一瞬だと言うことである。

では、具体的に人間のブランドとは何か?それは外見、内面、そして才能などすべてに関する総合力の評価である。例えば、日本においてその最高峰にあるのは、イチローさんや山中伸弥教授であろう。もちろん、それらの人は自分で自分のことをブランドだなんて全く思っていないだろう。またそこが素晴らしいところであるが、そのように無意識にブランディングできているところがすごい所である。そのように、ブランディングは意識をすればできると言う簡単なものではない。しかし、意識をしてセルフブランディングをすることも、戦略として重要な事である。

ビジネスマンであれば、自分の市場価値と言うものを強く意識するであろう。そしてそのような市場価値を上げるためにセルフブランディングすることは不可欠である。先ほど書いたように、人間のブランディングには内面、外見、才能など多岐にわたって関係してくる。才能などはすぐに身に付けられるものではないが、しかし努力によって向上することはできる。外見に関しては、そこだけ熱心に力を入れても張りぼてだと言われるかもしれないが、しかし何も意識しないよりかははるかにマシである。外見、内面、才能の全てを磨けば、単に三倍になるのではなく、相乗効果で何十倍、何百倍もの魅力になる。なので、もし自分に才能が有り人間としても素晴らしいのならば、そこに外見まで気を配れば百人力である。

ブランディングにおいて外見は非常に鍵となり、またそこを見ればかなり判断をすることができる。それは、外見を磨いてもそれが魅力的に見えなければそれは張りぼてであり、外見の素晴らしさが相乗効果でより一層魅力的に感じることができればそれはその人の価値あるブランドである。なので、自分をブランド化することを目標にすることは、非常に良質な目標である。しかしもちろんそれは簡単な事ではない。しかし努力と戦略によっては決して不可能ではないはずだ。

ゴーン氏国外脱出。僕はゴーン氏の主張にかなり賛同している。

年末になり、元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏が国外脱出したと言うニュースが飛び込んできた。ゴーン氏がどのように脱出したかはまだはっきりとはしていないようだが、日本の検察側、裁判所側にとってはとてつもなく大きな失態だ。日本のメディアはゴーン氏の国外脱出を“逃亡”と表現し非難をする論調が強いようだが、僕はゴーン氏側の声明に対してかなり大きな共感を持っている。

では、ゴーン氏側の主張の何に共感しているか?それは、検察側の「有罪ありき」の取り調べ、そしてそれに呼応する裁判所側の姿勢だ。日本では起訴されると、有罪決定率が99.9%(この数字は比喩的に表現されたものと思われるが)にもなると言う。確かに起訴された人間が罪を犯している確率は高いであろうが、しかしその確率が99.9%と言うのは、明らかに常軌を逸している。その数字が主張しているのは、警察・検察は99.9%ミスをしないと言うことである。しかしこれまでいくつもの冤罪事件が明るみになってきた。その代表は殺人罪に問われて冤罪だとほぼ確定している袴田巌さんの件であろう。しかしこの袴田巌さんの件においても、検察側は自らのミスを認めていない。

では捜査・取り調べ・裁判とはどうあるべきか?それは有罪か無罪かを精査することである。すなわち、明らかに疑惑性が低い件はしっかりと無罪を導き出すべきである。しかし一度起訴されてしまうと、日本においては99.9%有罪になってしまう。どんなに疑惑性が低くても有罪の判決が出るのである。これは、一度起訴された件に関しては、検察側が何があっても自らのミスを認めないと言うことに原因がある。これは非常に恐ろしいことである。事件の被害にあうことは恐ろしいことであるが、何も犯罪をしていない人が拘束され犯罪者に仕立て上げられることはさらに恐ろし事である。しかし日本の現状はそのような事が横行しているとまでは言わないまでも、度々発生しているのである。

今後、ゴーン氏は日本の司法制度に挑戦してくると言われている。僕はこのことに対しては大いにゴーン氏に賛同する。この際、徹底的に日本の司法制度のおかしい部分を掘り下げ、改革の火を付けてもらいたいものである。そういう意味で、長い目で見ればゴーン氏の国外脱出、日本の司法への挑戦は必ず日本及び日本国民の安全と自由にとってプラスになるはずである。今回の件に関して、単に感情的に「逃亡はけしからん、ゴーン氏は悪だ」と捉えるのではなく、ゴーン氏の主張を吟味し、日本国の司法の在り方を見直すべきである。

では、これからゴーン氏の事件に対して日本はどのような姿勢を取るべきか?僕はゴーン氏の身の安全と自由を保障し、ゴーン氏の主張と日本の司法側の主張を真っ向対決させるべきだと思う。もうゴーン氏が有罪か無罪かと言う問題では全くない。世界の司法の常識と日本の司法の常識との対立である。僕はゴーン氏の今後の動きに大いに期待をしている。これは必ず日本のおかしな現状を変えるきっかけになるはずだ。