月別アーカイブ: 1月 2020

自分のパーソナリティとしてのブランド化。

ブランドと言うものは、そのブランドが示す統一感と言うものが重要になってくる。例えば車で言うなら、レクサスのスピンドルグリル、BMWのキドニーグリルなどが典型である。車の前面のグリルを見ると、何の車か瞬時に判断できる。車以外でも、ブランドのロゴ、形、色など、それぞれに統一感を持たせることが一つの重要な戦略となってくる。

それらの統一感は、人間にも言える。イメージカラーや服のタイプの傾向、そしてもちろんその人の人間性なども、その人自身を瞬時に印象付けるには非常に重要だ。もちろん、人間と物は違う。だからブランド品の戦略をそのまま人間に当てはめることはできないかもしれないが、それでも自分のイメージカラーなどを決めることによって、その人のパーソナリティが生まれてくる。

例えば僕ならば、イメージカラーはネイビーだと決めている。もちろんそれ以外の色の服を着ることも多々あるが、これからは自分に統一感を持たせて行こうと考えている。こんなことを考えていると、「内面は疎かにしていいのか?」と言われそうだが、もちろん内面があっての外見であるので、内面を磨くことは前提条件である。そして内面に自信がある人は、それに加えて外見も整えて行くといいのではないだろうか?

人間をブランドに例えると、それは決して家柄や血筋だとは全く思っていないし、それは違うと思う。自分で自分自身の内面と外見を磨いてこそ、自分のブランドができてくる。間違ってもブランド品を身に付けると自分がブランド化されると言う話ではない。ブランドと言う言葉に拒否反応を示す人もいるかもしれないが、自分をブランド化することは非常に重要である。自分が何に打ち込み、いかに努力しているか?そのような事が自分のブランド化へとつながってくる。そしてそれは自分をどこまで高められるかと言うことへの挑戦でもある。

流行の新型肺炎ウイルス。

現在、中国に端を発した新型肺炎ウィルスが世界的に問題になっている。今日現在の感染者数は数千人、死者は現時点で133人となっている。死亡率は単純計算で3%ほどで、普通のインフルエンザなどに比べてもかなり高い数値となっている。とは言え、普通の感覚で言えばそんなに恐れるほどでもないと思っている人も多いのではないだろうか。この新型肺炎ウイルスの何が恐ろしいのか?それを正確に理解するためには生物学、特に分子生物学や分子遺伝学を正確に理解しなければならない。

話は変わるが、季節性のインフルエンザウイルスに対するワクチンはほぼ瞬時に開発されるのに(流行以前からの開発にもよる)、エイズウイルスに対するワクチンは数十年たった今でも一向に完成する気配がない。その理由はなぜなのか?これもやはり分子遺伝学を理解すればその一部が理解できる。遺伝子の活動は基本的にDNA→RNAへと一方通行である。しかしエイズ(HIV)ウイルスはウイルスのRNAからDNAが作られ(つまり逆転写される)そのDNAが宿主(つまり人間)の遺伝子に組み込まれる。そこが決定的な違いである。もちろんこれだけがワクチンの開発を困難にしている原因では決してないが、困難の一つだと言える。

現在、医学・医療は非常に発達してきている。しかしそれらの正確な理解がないと、風評や誤解に振り回されることになる。なので現代に生きる人間にとって生物学、特に分子的レベルによる生物学を理解することは非常に重要である。しかし容易にわかるように、これらの知識を持ち合わせている人は少数派であろう。しかしこれらの知識や学を持ち合わせているかどうかで行動の範囲と質が劇的に変わり、時には自分の命の行方さえも左右するであろう。現在の社会の現状は、表面的な知識に終始しているようである。もちろん、表面的な知識だけでも持ち合わせている方がマシだとも言えるが、それだけだと誤解や間違った行動につながってしまう恐れがある。なので、科学的(分子レベル)から生物学を理解することが重要なのである。

学問は決して一部の人間(学者や専門的学生)のものではない。一般の人たちが学問を理解する意義は非常に大きい。だからこそ国は教育に力を入れ、それが国力に(そして時には国民の命に)直結するのである。くだらない不倫叩きに精を出す暇があるのなら、少しはウイルスの生物学的原理の理解に取り組む方がはるかに意義があるのではないだろうか?

変化する。

人間は変化すべきか?変化すべきでないか?答えは簡単には出ない。しかし一人の人間として変化すべき所は変化し、変化すべきでない所は不変であるべきである。しかし難しいのは、“どこを”変化すべきかと言うことである。

僕は基本的な信念として、常に変化すべきだと考えている。昨日の僕よりも今日の僕、そして今日の僕よりも明日も僕が必ず発展しているべきであると考えている。人間と言うものは、歳を取るごとに体力も頭脳も衰えて行くと言われている。しかしそれは絶対ではないと僕は考えている。衰える一つの原因は、必ず衰えるものだと言う先入観にあると僕は思っている。そして医学的にも衰えることは証明されているのかもしれない。しかし昨日の自分がまだまだ低いレベルならば、自分の努力次第で明日は昨日よりも発展していることができる。そう考えて僕は毎日過ごしている。

そして常に発展していくためには、常に変化していくことが必用だ。特に表面的な事になるほど、大きく変化することが必用だ。だから日常の行動や思考は常に変化を求めるべきである。しかし、一番芯となる意志や思想はそう簡単には変えるべきでない。もちろん、現在の意志や思想が間違っていると思うのならば、積極的に変えるべきである。そこを変えなければ、単なる無益な頑固者である。そして意志・思想の方向性が固まっているのならば、あとはそれを熟成していくだけだ。もちろん、熟成と言うのも変化の一つである。熟成をさせないと、どんどん腐っていくだけだ。僕は人間は死ぬまで発展することが可能だと考えている。そして僕はそのような事に挑戦して行こうと思っている。

「楽しむ」と言うことと「楽をする」と言うことは全く違う。人生は常に楽しまなければならない。時には「楽しむ=苦しい」という時も多々ある。目先の楽を取るか?将来の輝きを目指すか?僕は100%将来の輝きを目指している。結果が出るまでは非常に苦しいが、自分を本当に信じれるのは自分しかいない。だから自信があるならそれを徹底的に信じて自分を変革していかなければならない。

睡眠の科学。

僕はブログでも度々述べているように、超ロングスリーパーだ。なので、もし睡眠時間を短くできればどれだけ活動的な時間が増えるだろうと考えることがよくある。そもそもなぜ人間(動物)は睡眠をしなければならない運命なのか?非常に悩ましい問題である。

とは言え、やはり人間が生きて行く上では睡眠は不可欠だ。ショートスリーパーはいても、ゼロスリーパーはいない。これは何を意味するのか?一つ言えることは、これが人間とコンピューターとの決定的な違いだと言うことだ。コンピューターには睡眠と言う機構はない。(当たり前の話だが、スリープ機能の話とは全く違う。)もしかしたらこれがコンピューターの原理的な限界をもたらしているのかもしれない。現在、コンピューターの性能は飛躍的に向上し、AIも飛躍的に発展している。しかしこのような性能や機能の飛躍的な向上が、例えば意識や感情をもたらすことができるだろうか?この議論に対する意見は研究者の間でも真っ二つに分かれるだろう。僕は、コンピューターに睡眠機構を入れない限り、意識や感情をもたらすことはできないのではないかと考えている。

そもそも、なぜ睡眠が必用なのかと言う議論の答えは、おそらく現在は出ていない。睡眠の仕組みや機能は、測定装置の発展などでだいぶん解明されてきた。しかし、なぜ睡眠が不可欠なのかと言う問いの答えはまだ出ていない。全ての高等動物は、必ず睡眠をしなければならないようにできている。少なくとも、脳を持つ動物には睡眠の機能が組み込まれているのではないだろうか。この「なぜ睡眠をする必要があるのか?」と言う問いに答えることは、生物学の発展に対するブレークスルーになるのではと僕は考えている。

では、どのようにこの睡眠の命題に対してアプローチすべきか?その有力な手段の一つは、コンピューター( 特にニューラルネットワーク)機構との比較である。ニューラルネットワークは人間の脳の仕組みを模して設計されているが、どんなに高度なニューラルネットワークにも睡眠の機能はない。しかし動物の脳には例外なく睡眠機構が備わっている。そこの違いを徹底的に比較することによって、睡眠の本質が明らかになる可能性がある。そして将来のコンピューターには、睡眠の機構が装備されるかもしれない。

睡眠と言うものは一番身近な機構であるが、非常に謎多き仕組みでもある。そして「なぜ睡眠をしなければならないか?」と言う問いに答えることは、生物学とコンピューター科学に本質的な発展をもたらすものと思われる。

日本は良い国なのか?

僕はこれまで日本と言う国に対して様々なダメ出しをしてきた。ならば日本は本当にダメな悪い国なのか?と言えば、決して良いとは言えないが、世界の様々な国と比べるとかなりマシなのではないかと思っている。ではなぜこれまで様々なダメ出しをしてきたかと言うと、それは非常に単純な話で、僕が日本に住んでいるからだ。日本に住んでいれば、自然、日本のことがよく見える。よく見えるので様々な悪いところ、おかしい所にいろいろと気づくわけである。

日本人は何かと欧米と比べたがる傾向にある。欧米のこういうところが素晴らしいとか、欧米に比べて日本はだめだとか、様々な比較をされてきた。では欧米はそんなに素晴らしい国なのか?僕はそうは思わない。むしろ欧米の方がひどいと思えることもたくさんある。総合的に見れば、日本の方がはるかにマシではないかとも思える。では欧米の何が一番問題なのか?それは「先行逃げ切り体質」である。

例えば、環境問題・経済問題が最たる例である。ではなぜ欧米の主張が正当化されるのか?それは建前と本音の使い分けが非常に上手いからである。日本人は本音と建て前を非常によく使い分けると言われている。しかし国家としての日本の建前と本音の使い分けは非常に下手だと僕は思っている。それは政治を見ていればよくわかる。政府は建前を上手く使えず、また建前を使ったときはその魂胆が見え見えなのである。そいう意味では、日本の政治は三流だと言える。

僕はダメ出しをしながらも、やはり日本の事が大好きだ。だからこそ日本が良い国になって欲しいと思っている。僕自身の生き方が日本のシステムに全く合っていないと感じることも多々ある。しかしそれはできない理由にはならない。僕はそんなことでつぶれる人間ではないからだ。いつか自分がいま取り組んでいることに成功すれば、日本が良い国に向かうための一つの力になりたいと強く思っている。

ミクロとマクロを結ぶ。

ミクロとマクロは対極的な概念であるが、それと同時に一つの事象の表裏でもある。ある側面ではミクロ的な様相を見せ、またある側面ではマクロ的な様相を見せる。なので、ミクロ的な側面とマクロ的な側面の双方を理解することが、本質を掴むためには重要である。

それらのことは、学問に関しても言える。物理学ではミクロの極致は素粒子論であり、マクロの極致は宇宙論である。生物学で言えばミクロの極致は分子生物学であり、マクロの極致は進化論や生態学だと言える。そして、それらの二つの極致は、研究が発展する中で融合へと向かう。例えば、素粒子論的宇宙論などがあり、分子進化学などがある。それらの片方だけを見ていれば何かを見失ってしまう。なぜならマクロはミクロの集合体であるから、マクロを本質的に知ろうと思えばミクロを知ることは不可欠になる。またミクロ的事象はマクロ的世界の中に存在する。

ここでは物理学と生物学を例に取ったが、そのような事は普段の日常においても言えることだ。社会を理解するためにもミクロとマクロの双方を知ることが必要だし、人間付き合いにおいても大局と細部を把握することが必要だ。それはつまり、広い視野を持たなければならないと言うことだ。普段の行動において計算ばかりしていてもやはり空気と言うものを読む必要に迫られる。意外と計算だけに基づいて行動を起こす人は、結果的に上手くはいかないのではないだろうか?そのようなことは、意外にも科学の研究から学び取ることができる。科学と言えば計算・論理一辺倒に思えるが、それを行うのは人間である。最近ではコンピューターが計算を行ったりもするが、それらのコンピューターを制御しているのは人間である。計算と論理を推し進めると同時に、その背後に人間の意志の存在が必用である。

しかし世の中全般を見れば、感性や感情などに傾いているように思える。その割には見当違いのところで計算にこだわったりする。そのような感性と計算の使い分けは、やはりある程度人間のセンスの基づくのではないだろうか。つまり、そのようなセンスがない人が多いと言える。もちろん、徹底的に論理で攻めなければならない場面もある。その時は論理的思考力で徹底的に推し進めなければならない。大局的な視点を持ち。ミクロとマクロ、そして計算と感情を使い分ける柔軟性が必要なのではないだろうか?

体系的知識。

学校の教科書が「つまらなく退屈だ」と言う人は多い。そして面白おかしく知識を断片的に標語的に書かれている本が人気のようだ。そのような本が無意味なわけではなく、入門的な役割もあるので、入口に誘うという価値は大いにあるが、僕はそのような本だけで知識を仕入れることには大きな危険があると考えている。なぜなら、そのような本からは断片的な知識を習得することはできるが、体系的に知識を身に付けることは困難だと感じるからだ。では、体系的知識を身に付けるためにはどのような本を読めば良いか?それは教科書を読むことである。教科書こそ体系的知識の構築においては最強のツールなのである。

確かに教科書を退屈に思うのも分からないではない。教科書は面白おかしく書かれているわけではないし、標語的に書かれているわけでもない。しかし教科書の構成は非常に考え抜かれている。そして著者一覧を見れば分かるように、一流の学者が執筆に参加している。ある意味、初めの一冊として教科書を外すのは非常に大きな損失である。もし面白おかしく書かれた本を読みたければ、それはサブとして読むべきである。僕は教科書が退屈だとは思わないが。

では、なぜ体系的に知識を構築することが重要なのか?それは新たな知を構築するためには、それまでの知識の体系の上に新しい知識を乗せる必要があるからだ。そのような時、断片的知識だけでは使い物にならない。さらに新し知識の関係性も不明になる。そのような事は、数学の歴史を見れば明らかだ。なぜ現代数学が日本や中国などの東洋ではなく、ヨーロッパで発展したのか?それは「体系的に構築したかどうか」の一言に尽きる。江戸時代の和算は、技術的にはヨーロッパの数学をしのぐほど高度なものであったと言われる。しかしそれらの技術が断片的で、体系的な構築がなされなかったのである。それに対して、ヨーロッパの数学は徹底的に体系的である。そのような伝統が、フランスの数学者集団ブルバキのような構造主義を生み出したと考えられる。

もし本気で新しい分野に取り組みたいと思ったら、まずは教科書を読むべきだ。歴史なら高校の日本史・世界史の教科書を読めば良いし、科学ならこれも高校の物理・化学・生物・地学の教科書を読めば良い。そしてさらに先に進みたければ、大学レベルの教科書、そして専門書へと進めばよいのである。さらに先に行きたければ論文を読めば良い。なので、体系的知識習得の原点は高校レベルの教科書にある。僕もこれまで取り組んでこなかった専門外の分野に取り組む時は、まずは高校教科書に目を通す。最近なら、これまでほとんど立ち入ることのなかった世界史の教科書に取り組んだ。僕は教科書と言うものは知的に非常に面白いものだと思うのだが、どうだろうか?

AI一辺倒で良いのか?

最近、何かとAIが話題になっている。ニュースを見ていても、去年一年間の平均を取ればAIの話題はベスト3に入るのではないだろうか?小学校でも今年からプログラミング教育が始まる。ますます世の中がAI一辺倒になって来ている。学問においても、これからはコンピューターサイエンス、プログラミング技術が大きく発展していくだろう。しかし何事においても多様化が大切である。なので、ITばかり注目していれば何かを見逃してしまう。さらに言えば、理系学問だけでなく文系学問も大事である。僕のように語学を疎かにしては後で苦しんでしまう。数学の論文を読むのも書くのも英語が標準である。できればフランス語やドイツ語もできることが望ましい。僕にはかなりきついことではあるが。

ところで、世の中の多くの人が勘違いしていることが一つある。それは「AIで何でもできる」と思い込んでいることだ。メディアでも、これからAIが発展すると何でもできてしまうみたいな論調で語られることがある。しかし正しいのは「AIで何かができる」と言うことである。それは「AIにもできないことがある」と言うことの裏返しである。しかしコンピューター科学に疎い人ほどAIで何でもできると思い込んでいる。科学を理解すると言うのは、「科学には何ができないか」と言うことを理解することである。そしてそれはコンピューターやAIにも共通して言えることである。もし科学やAIで何でもできると思っているのならば、それは科学やコンピューターを何も理解していないと言うことである。

小学校でのプログラミング教育も始まり、これからは学校教育でのコンピューターの比重はますます大きくなることであろう。しかし、プログラミングと言うものは、ある意味総合分野と言える。プログラミングには数学も使うし、物理も使うし、論理学も英語も使う。もちろん、研究者レベルの数学をする必要はないかもしれないが、しかしプログラミングを極めるためには研究者レベルの数学も必要である。そこは数学の一分野と言う様相を呈している。コンピューター科学が重要だからと言って、数学や物理と言う学問が廃れるわけではない。それどころかある範囲では数学・物理とコンピューター科学は融合するであろうし、またコンピューターには絶対立ち入ることのできない数学・物理もあり、そこは独自の発展を遂げるであろう。だからこそ、古典的な数学や物理と言う学問はますます重要になる。

今の社会のAI一辺倒化の問題がどこにあるのかと言えば、AIにできないことを示せていないことである。しかしAIにできないと思われることは多々ある。それは数学や物理と言う学問をやっていれば誰もが感じることだ。しかし、今の社会の論調は、「AIで何でもできる」という様子である。しかし今、「AIに何ができないか」と言うことを示すことが非常に重要である。そしてそこに次世代へのブレークスルーがあると僕は考えている。AIに関わることはそれはそれで良いとは思うが、それではブレークスルーを起こせない。量子コンピューターも社会的にはブレークスルーのように思われているが、科学にとってのブレークスルーとは僕には思えない。ましてや学問のブレークスルーではない。仮に量子コンピューターや量子情報がブレークスルーだと考えるのならば、それは1980年代頃の研究ではないだろうか?

今、学問的にブレークスルーを起こせている人はほぼ皆無である。AIも量子コンピューターも大きな流れではあるが、僕にはそれがブレークスルーだとは思えない。しかし今、たった一人でもブレークスルーを起こせる人を生み出すことが必要なのではないだろうか?

時間は巻き戻せないのだから。

当たり前の事ではあるが、時間を巻き戻すことはできない。なので過去の事を「あの時、もしこうしていたら」と考えることは僕は無意味であると考えている。少なくとも自分の人生に関しては常にそう考えている。ではどう考えればよいか?それは過去の事を考えるのではなく、未来の事を考えるのである。「これからどうすべきか?」と言うことを自問自答しながら人生を歩んで行くことを心がけている。

そうは言っても、僕だって過去の事を考えることもある。そして時にはそれが無意味であることも多々ある。しかし過去の事を考えるときは、それが未来の発展につながるように考えることが重要だ。過去を見直し、それを基に未来へつなげていく。そう考えて行けばかなり明るい未来が描けるのではないか?

現在の自分は、人生で三番目に苦しい時期だと僕は思っている。しかし人生で一番苦しい時期と比べると、今の苦しみなどは屁でもない。しかも現在は苦しくても、明るい未来を描くことができている。もしかしたら僕くらいの年齢の人はこれからどう流していくか?と言うことを考えているのかもしれな。あるいは(僕よりも上の世代で言われていることだが)どう逃げ切るかと言うことを考えている人もいるようだ。しかし、僕の人生はこれからだ。これから結果を出す自信もあるし、人生を徹底的にシンジョイ(元阪神の新庄選手並みにエンジョイすること)できる自信もある。今はその最終準備段階だと思っている。だから今は苦しくても、大きな充実感を感じている。自分の思い通りにいかないことも多々あるが、そこをどう解決するかも自分の腕の見せ所である。今はすごく苦しいけど、すごく楽しい!

過去の栄光がどうだなんて、僕には全く関係ない。(そもそもそんな栄光があるかどうかわからないが。)必要なのは、これからどう輝いていくかだ。これからの僕は、とてつもなく輝いている自信がある。しかしそのためには、大きな努力も必要だし、人間としても強く面白くなければならない。そのレベルは非常に高いことは自分でも自覚している。しかしだからこそ意味のある目標だと考えている。さあ、これからどう登って行こうか!

Windows7、サポート終了。なぜサポートが切れると危険なのか?

2020年1月14日、Windows7のサポートが終了した。サポートが終了するとセキュリティ面で危険になると言われているが、それでもまだまだ大丈夫と考えて使い続ける人も少なくないと思う。果たしてそれは正しいのだろうか?

ここからはあくまで僕の推測であるが、僕はこの14日を境目に一気に危険が増すのではと考えている。それは、それ以前ならば例えウィルスが発見されてもマイクロソフト社がすぐに対応してパッチを出してくる。なので、ウイルスを撒き散らす人達(ハッカーなど)にとって、ウィルスを撒き散らすメリットが少ない。しかしサポートが切れた後にウィルスを撒くと、マイクロソフトからパッチが出ることはないのでハッカーたちは延々とウィルスの恩恵にあずかり続ける。従って、1月3日にウィルスを撒くのと1月15日に撒くのとでは、ハッカーにとっては15日の方が圧倒的にメリットが大きい。従って、例えば2019年6月にWindows7の脆弱性を発見したハッカーが半年間待って、2020年1月14日を過ぎた時点で一気にウィルスを撒きだす(脆弱性を突く)という行為に出るのではないだろうか?僕はこのように推測しているので、1月14日を一日でも過ぎた時点で一気に危険が増すのだと考えている。

では、それを解決するためにはどうすればよいか?一番単純な方法は、Windows10を搭載しているパソコンに買い替えるか、あるいはOSをWindows10に入れ替えるかであろう。しかしこの場合、少なくとも数万円の出費になる。Windows10のソフトを買うだけで1万5千円以上の出費になるし、新しくパソコンを買えばそれ以上の出費になることは必須だ。では、それを避けるためにはどうすれば良いか?その解決方法は、Windows7のパソコンの中身をLinux(リナックス)に入れ替えるのである。LinuxはWindowsとは全く別のフリーOSである。フリーなので無料で手に入れられる。しかし、Linuxをインストールするためには多少の知識が必要だ。なので初心者には少しきついだろう。とは言え、自分で少し調べればそんなに難しいわけではない。デメリットを言えば、Windowsのソフトが使えないと言うことであろう。なのでWindowsでしかできないことをやっている人にはお勧めできないが、6割くらいの人には支障をきたさないと思う。さらに、(プログラミングなど)コンピューターをいじくったりしてコンピューターを極めたい人にとってはLinuxは最適だ。そしてそれとは対照に、単にYouTubeなどでネットを見たりするのが主なライトユーザーにとってもLinuxで十分事足りるはずである。なので、Linuxは意外と多くの人にメリットがあると思われる。

1月14日までにWindows7マシンをLinuxに入れ替えなければならないと思いつつ、結局14日まで入れ替えるのをさぼっていた。なので14日に一気に全てのWindows7マシンをLinuxに入れ替えることになった。母のパソコンにはUbuntu(Linuxの一種)をインストールし、僕のマシンにはCentOS(これもLinuxの一種である)をインストールした。すこし時間はかかったが、無事全てのWindows7マシンをLinuxに入れ替えることができた。僕のマシンに一般的なUbuntuではなくCentOSを入れたのは、こちらの方がより本格的なLinuxだと思ったからである。母はYouTube視聴専門なので使いやすいUbuntuを入れることにした。Linuxで浮いたお金でいろいろと本を買うことにしよう!

紙の本と電子書籍。

近年、紙の本の勢いが衰え、電子書籍が勢いをつけてきていると言う。紙の本が良いか?電子書籍が良いか?人によって様々だとは思うけど、どちらも一長一短あるような気がする。僕自身は根っからの紙の本派だけど、最近は電子書籍も良いのではと思ってきている。

特に最近、専門の数学・物理関係以外の本、例えば化学や生物学関係の専門書を買うことが多くなった。するとこれらの分野の専門書の特徴として、とてつもなくページ数が多いのだ。本格的な本になると、千ページ超えは当たり前。こうなると当然持ち運びなどはできるはずがない。ならばiPadなどに電子書籍を入れて、千ページの本を何十冊も持ち運ぶ方が圧倒的にメリットが大きい。とは言え、やはり紙の本によるメリットも無視できない。なので、数学・物理関係の本は(ページ数がそんなに多くないこともあり)、全て紙の本で購入する方針は変わらないと思う。

一番良いのは、紙の本と電子書籍の両方を購入することだ。家では紙の本で読み、外出先では電子書籍で読む。これが最高であるが、当たり前の事ではあるが値段が二倍することになる。しかしそれも投資と考えれば悪くないのではと思う。

少し余裕ができれば、12.9インチの大型iPad Proを買おうかと思っている。大型iPad一つあれば、外出の際も非常に身が軽くなる。それでいて本が何十冊、何百冊と携帯できるのだ。そう考えると、これからの時代は電子書籍へと流れるのも必須である。しかしそうは言っても、僕は紙の本は永久に捨てることはないと思う。紙の本と電子書籍の双方のいいとこ取りをして、時間と能力を最大限有効に活用することが求められる。そのための金銭投資は惜しむべきではない。これでこれからの自己投資の方針の一部が定まった!

アイドルの「恋愛禁止」、何かおかしくないか?

現在、乃木坂46からの卒業を発表した白石麻衣さんが、アイドル時代の8年間ノースキャンダルだったことが話題になっている。白石さんのような美人さんが身の回りにいれば、男だったら誰だって声をかけたくなるだろうし、おそらく毎日のように男から誘われたであろうアイドルが8年間ノースキャンダル?だったことは、さぞかし苦労の連続であったであろう。しかし、ここで「ノースキャンダル」と言う言葉の後に“?”を付けたことには訳がある。そもそも年頃の女の子が普通に恋愛することがなぜスキャンダルなのか?おそらく多くの人は、「アイドルは恋愛禁止がルールなので、それを破ったらスキャンダルであることは当たり前だ」と言うかもしれない。しかしそのような事は、考えれば考えるほどおかしなことに思えてならない。

そもそも、アイドルと言ったって年頃の女の子である。年頃の女の子が恋愛をすることは至って自然な事である。むしろ恋愛を避けようと努力することの方がはるかにおかしな行為である。そして恋愛禁止のルールだって、アイドルを運営する人たちがアイドルを商品と見立て、その商品価値を落とさないように取り決めているルールに過ぎない。法律を違反しているわけでも何でもない。さらに言えば、そのような恋愛禁止ルールを押し付けることの方が人権上はるかに問題があるはずだ。

もちろん、お気に入りのアイドルの恋愛が発覚すれば、誰もがショックを受けるだろう。しかしそれはアイドルでなくても同じだ。好きだった女の子が他の男と付き合っていれば誰だってショックを受ける。それは僕だって同じだ。だからと言って恋愛を禁止にするのは明らかにおかしい。もちろん、それを承知の上でアイドル業を全うしている人もそれなりにいるだろう。しかし恋愛をしたいアイドルに恋愛をするなと言うことの方がはるかにおかしいし、いったい何の権限があってそんなことを言っているのだと言う話である。

十年後、おそらくアイドルの恋愛禁止ルールはなくなっているはずだ。なぜならそれはあらゆる面(人権や、そもそも人間の自然な行為・認識として)に関して明らかにおかしな強制であるからだ。もちろん、好きなアイドルが恋愛をしていれば誰だってショックを受けるはずだが、ファンはそれを渋々ながらも受け入れるべきなのではないだろうか?

お金は必要だよ。でもそれが全てではないんだよ。

あるタレントが「お金が全てだ」と言い張っていたのを見て、いろいろと感じるところがあった。おそらく多くの人は、お金が全てだと言う言葉に対して反論したいであろう。僕だって同じである。しかし、そのように言い切る彼女に対して、ある種のたくましさを感じたりもするのである。確かに反論したいところはいろいろある。しかし人間の本音として間違っていないのではないかと思うところもいろいろあるのである。

生きるためにも遊ぶためにも、お金は絶対に必要である。そしてお金はないよりかはある方が圧倒的に良い。しかしだからと言って、お金が全てではない。お金で買える幸せは、現実問題として沢山あると思う。しかしお金では買えない幸せもあるのも事実である。だから本当の幸せとは、お金によってもたらされる幸せとお金では買えない幸せの両方手に入れることかもしれない。健康もそうである。お金があれば最先端の検診を受けて予防したり、最先端の治療を受けることによって病気を防ぐことができる。しかしお金ではどうにもならない健康もたくさんあるのも事実である。

お金が全てではないことはほとんどの人にとっては明らかだが、お金に対する割合がいくらかと言うことは人それぞれ違うと思う。お金が90%だと言う人もいれば、10%と言う人もいるだろう。前出のタレントにとっては、お金が100%だと思っているのだろう。しかし一度健康を害するようなことがあれば、それが正しくないことがわかると思う。

とは言え、お金を稼ぐことに精を出すことは悪くないし、むしろ仕事に精を出すことによって人生に活力が生まれるものだ。このような活力も幸せのうちの一つである。同じ一億円でも、宝くじで当たった一億円と努力して稼いだ一億円は全く価値が違うものである。このように努力して稼いだ一億円によって人生が活力に満ち溢れ、心身ともに幸せと健康になるものだと思う。なので、お金が全てではないが、お金を最大限有効的に幸せにつなげることが必要なのではないか?そうすれば例え現在は沢山のお金があるわけではなくても、費用対効果として最大限の幸せを手に入れられる。そしてそれが将来の大きなお金にもつながってくるのかもしれない。

僕が司法・検察に対して厳しい意見を言う理由。

僕はこれまで幾度か、司法・検察に対して厳しい意見を言ってきた。昨日のブログでも、検察、そして元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に対して、これでもかと言うくらいにこき下ろした。僕がこのように検察に対して厳しい意見を言うのには理由がある。ゴーン氏が言っていたような検察批判に同調するわけではないが、現在の検察の在り方・体質に対して疑問に感じるところが少なくないからだ。

まず初めに述べたいことは、冤罪事件と言うのは司法・検察、そして国家による犯罪だと言うことである。不当に逮捕・拘留すればそれは国家による逮捕・監禁罪であるし、もし冤罪人を死刑に処すればそれは国家による殺人罪である。しかし、このような非常に単純な論理を、検察は全く認識していないように感じられてならないからだ。そんな事件追及は、正義でも何でもなく単なるエゴでしかない。

このような事を象徴するのが、冤罪に巻き込まれた袴田巌さんである。確かに、検察とは言え何かの間違いを起こすことはあるとも言える。しかし、実際に殺人を犯した殺人犯は裁判所でどう発言するだろうか?ほとんどの殺人犯は反省の弁を述べるだろう。しかし、袴田さんの冤罪に関して、検察は一向に謝罪の弁を述べないばかりか、自分たちを正当化して保身に走るばかりである。これはどう考えても、反省の弁を述べる殺人犯よりも悪質だ。袴田さんは年老いて何とか自由の身にはなったが、冤罪を証明されずに死んでいった囚人もいることは想像に難くない。

僕は検察を否定したいわけでは全くない。検察組織は社会にとって必要不可欠だ。しかしその在り方が問題なのである。体質とでも言うのだろうか?現在の強権的な(検察が強権的であるのは当たり前だと言えるが)検察が、その強権の使い方が明らかにおかしい事案が散見されることを僕は問題視しているのだ。検察側にとっては単なる間違いと言う一言で済ませることでも、冤罪犯にとっては命がかかっているのである。そのような認識を検察側が持つまでは、僕の厳しい意見は終わらないだろう。

ゴーン氏の会見に関して。

久しぶりにニュースを見てブチ切れた!何に対してか?news zero(日本テレビ)に出ていた若狭勝・元東京地検特捜部副部長(前衆議院議員)に対してだ。番組では、ゴーン氏の会見について報道され、それに対してアナウンサーらが意見を言っていた。そしてそれに対する若狭氏の見解があまりにも低レベルで幼稚すぎるのだ。

まずは、ゴーン氏が指摘していた、日本の裁判での有罪率99.9%問題(これについては1月2日の僕のブログでも触れた)についてだが、若狭氏は日本は外国とは違って確実に有罪を取れる場合しか起訴しないからこの数字になるのだと言っていた。小学生レベルの弁解である。そして検察側のこのような認識は、非常に恐ろしいものであるとも思った。それは、検察側は取り調べを行う際、99.9%(すなわちほぼ確実に)有罪であるという思い込みのもとに取り調べを行っているとも受け取れる。このような認識こそ、まさしく冤罪の温床である。有罪となった99.9%の中には、相当数の冤罪事件があると言うことも想像に難くない。

そして、ゴーン氏の会見に対する若狭氏が言った総括が「逃げ得」である。これもまた小学生レベルの意見である。このような若狭氏の幼稚な意見から感じられるのは、このような低能低レベルな人間が率いる検察と言うものは、相当低レベルな組織なのではないかと言うことである。そして検察は権威をバックにして強権的な取り調べをしていると疑われても仕方がない。

今回のゴーン氏の会見は、皆が言うように確かに内容が薄かったことは明白である。しかしそこから日本の司法が反省すべき点もいくつかあったように思える。しかし当の日本の司法側が保身に走っているようでは、反省によって改善されると言う期待は持てない。若狭氏のような存在は、そのような検察の問題の氷山の一角を表しているのではないだろうか?

たまには旅行に。

週末、信州松本まで旅行に行ってきた。と言っても夜行バスでの弾丸旅行だ。僕は以前のブログでも書いたように、特に旅行が好きなわけでもなく、今回の旅行も旅行自体が目的ではなく、大学時代の同級生たちとの飲み会が目的だ。しかしそれとは別に、もう一つの目的もある。それはあらゆることに関しての気分転換だ。最近はなかなか調子が乗らないので、そこを何とか変革しようということである。

それにしても旅行は本当に疲れる。特に格安ホテルでの宿泊が非常に疲れる。高級なホテルに泊まれば快適に過ごせるのかどうかわからないが、余裕ができた時にはもう少し高級なホテルに泊まりたいものだ。

こんなに旅行が好きではないとか言いながら、今回の飲み会を企画したのは僕自身である。孤独でいるのは大好きだが、みんなと一緒にワイワイするのも大好きなのである。しかし今帰ってきたばかりで疲労が激しく、書いている文章もおぼつかない。また明日から研究に邁進し、マシなブログ記事も執筆していかなければならない。まあ、今日はこれくらいにして休むことにしよう。

セルフブランディング。

ブランドと言うものは、何も鞄や時計などのいわゆるブランド品だけではない。人間自身をブランド化することも非常に重要である。ブランドとは付加価値であるが、そこには長年積み重ねてきた信頼なども含まれる。そして忘れてはならないのは、ブランドを築くことは時間もお金も非常にかかるが、失うのは一瞬だと言うことである。

では、具体的に人間のブランドとは何か?それは外見、内面、そして才能などすべてに関する総合力の評価である。例えば、日本においてその最高峰にあるのは、イチローさんや山中伸弥教授であろう。もちろん、それらの人は自分で自分のことをブランドだなんて全く思っていないだろう。またそこが素晴らしいところであるが、そのように無意識にブランディングできているところがすごい所である。そのように、ブランディングは意識をすればできると言う簡単なものではない。しかし、意識をしてセルフブランディングをすることも、戦略として重要な事である。

ビジネスマンであれば、自分の市場価値と言うものを強く意識するであろう。そしてそのような市場価値を上げるためにセルフブランディングすることは不可欠である。先ほど書いたように、人間のブランディングには内面、外見、才能など多岐にわたって関係してくる。才能などはすぐに身に付けられるものではないが、しかし努力によって向上することはできる。外見に関しては、そこだけ熱心に力を入れても張りぼてだと言われるかもしれないが、しかし何も意識しないよりかははるかにマシである。外見、内面、才能の全てを磨けば、単に三倍になるのではなく、相乗効果で何十倍、何百倍もの魅力になる。なので、もし自分に才能が有り人間としても素晴らしいのならば、そこに外見まで気を配れば百人力である。

ブランディングにおいて外見は非常に鍵となり、またそこを見ればかなり判断をすることができる。それは、外見を磨いてもそれが魅力的に見えなければそれは張りぼてであり、外見の素晴らしさが相乗効果でより一層魅力的に感じることができればそれはその人の価値あるブランドである。なので、自分をブランド化することを目標にすることは、非常に良質な目標である。しかしもちろんそれは簡単な事ではない。しかし努力と戦略によっては決して不可能ではないはずだ。

ゴーン氏国外脱出。僕はゴーン氏の主張にかなり賛同している。

年末になり、元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏が国外脱出したと言うニュースが飛び込んできた。ゴーン氏がどのように脱出したかはまだはっきりとはしていないようだが、日本の検察側、裁判所側にとってはとてつもなく大きな失態だ。日本のメディアはゴーン氏の国外脱出を“逃亡”と表現し非難をする論調が強いようだが、僕はゴーン氏側の声明に対してかなり大きな共感を持っている。

では、ゴーン氏側の主張の何に共感しているか?それは、検察側の「有罪ありき」の取り調べ、そしてそれに呼応する裁判所側の姿勢だ。日本では起訴されると、有罪決定率が99.9%(この数字は比喩的に表現されたものと思われるが)にもなると言う。確かに起訴された人間が罪を犯している確率は高いであろうが、しかしその確率が99.9%と言うのは、明らかに常軌を逸している。その数字が主張しているのは、警察・検察は99.9%ミスをしないと言うことである。しかしこれまでいくつもの冤罪事件が明るみになってきた。その代表は殺人罪に問われて冤罪だとほぼ確定している袴田巌さんの件であろう。しかしこの袴田巌さんの件においても、検察側は自らのミスを認めていない。

では捜査・取り調べ・裁判とはどうあるべきか?それは有罪か無罪かを精査することである。すなわち、明らかに疑惑性が低い件はしっかりと無罪を導き出すべきである。しかし一度起訴されてしまうと、日本においては99.9%有罪になってしまう。どんなに疑惑性が低くても有罪の判決が出るのである。これは、一度起訴された件に関しては、検察側が何があっても自らのミスを認めないと言うことに原因がある。これは非常に恐ろしいことである。事件の被害にあうことは恐ろしいことであるが、何も犯罪をしていない人が拘束され犯罪者に仕立て上げられることはさらに恐ろし事である。しかし日本の現状はそのような事が横行しているとまでは言わないまでも、度々発生しているのである。

今後、ゴーン氏は日本の司法制度に挑戦してくると言われている。僕はこのことに対しては大いにゴーン氏に賛同する。この際、徹底的に日本の司法制度のおかしい部分を掘り下げ、改革の火を付けてもらいたいものである。そういう意味で、長い目で見ればゴーン氏の国外脱出、日本の司法への挑戦は必ず日本及び日本国民の安全と自由にとってプラスになるはずである。今回の件に関して、単に感情的に「逃亡はけしからん、ゴーン氏は悪だ」と捉えるのではなく、ゴーン氏の主張を吟味し、日本国の司法の在り方を見直すべきである。

では、これからゴーン氏の事件に対して日本はどのような姿勢を取るべきか?僕はゴーン氏の身の安全と自由を保障し、ゴーン氏の主張と日本の司法側の主張を真っ向対決させるべきだと思う。もうゴーン氏が有罪か無罪かと言う問題では全くない。世界の司法の常識と日本の司法の常識との対立である。僕はゴーン氏の今後の動きに大いに期待をしている。これは必ず日本のおかしな現状を変えるきっかけになるはずだ。