月別アーカイブ: 12月 2019

科学は宗教であってはならない!

現在、地球温暖化が世界で大きな問題になっている。そこでよく言われているのが、地球温暖化問題は科学か?宗教か?と言うことである。実は地球温暖化を厳密に分析することは非常に難しい。あるモデルに則って論じても、不確定要素、想定外要素が沢山あるからである。言ってしまえば、出たとこ勝負であると言うことである。何十年後に何度上がると計算で出ても、果たしてその通りになるかどうかは科学者も分からない。そうなると、科学的にどうなるか?と言うことではなく、そうなることを信じるかどうか?と言うことになる。つまり気候問題が宗教問題と化してしまうのである。

確かに、将来の気候問題を正確に論じることは誰もできないかもしれない。しかしだからと言って、気候問題を宗教問題にしてよいはずがない。厳密にその通りになる保証はないが、科学によって方向性はかなり正確に示すことができる。少なくとも、科学的に論じることは宗教的に論じるよりも数百倍マシなのである。

ガリレイやニュートンが現れる前、全ての事柄は宗教的に論じられていた。宗教が絶対であった時代なのである。そしてそのような時代に大きな迫害を受けたのが科学であった。物事を100%正しく論じることは非常に難しい。しかし宗教的に論じるよりは数百倍正確なのである。科学が70%正しいが、30%間違っている可能性があるからと言って、それを宗教的に論じてよいはずがない。気候問題は首尾一貫して科学的に論じるべきなのである。

そして一般市民が、科学的に正しいと言われているから盲目的に従うと言う姿勢をするのも間違っている。科学的に導き出された結果を市民も一緒になって考察すべきなのである。そのためにはある程度の教養が必用である。大学では最初の二年間教養課程として過ごす。なぜ大学に教養課程が必用なのか?専門の事だけを教えていれば良いと言う人も多い。しかし全ての物事を科学的、論理的に的確に論じるためには教養が必用なのである。そうでなければすぐに宗教的思考に走ってしまう。

宗教が全く必要ないと言うつもりはない。しかし科学的に論じるべきことを宗教問題にしてはならない。間違っても科学を宗教にしてはならないのである。最近では人間の心までが科学的研究の対象になっている。しかし、人間の心の拠り所が宗教であっても全然かまわない。しかし科学が宗教になってはならないのである。そのような事を、現在の地球温暖化問題が明確に示しているように思えてならない。

僕が本を買いまくる理由。

僕は今、いや、昔から本を買いまくっている。とは言え、冊数ベースで言えば僕と同じくらいの数の本を買っている人はそれなりにいるだろう。しかし金額ベースで言えばおそらく日本国民の上位1%に入るだろう。さらに収入からの割合で言えば、完全にホンゲル係数王(エンゲル係数をもじっている)であることに間違いはない。なぜ僕はこれまでに本を買い続けるのか?その理由を書いてみたい。

研究者には二つのスタイルがある。一つは完全に頭の中だけで完結する人。もう一つは多くの専門書を駆使して考える人。前者の人はかなり記憶力が良い人だと考えられるが、僕は記憶力が良くないので後者にならざるを得ない。そのような僕にとって、本は生命線でもある。なので、本にどれだけお金をかけるかが結果にも跳ね返ってくると強く思っている。

そして何より、本が大好きなのである。本屋には毎日のように顔を出しているが、最近は雑誌や一般書はほとんど買わない。それらは全て立ち読みで終わらせる。その分を専門書に回しているが、最近はこれまで僕の専門外だった生物学などの専門書なども積極的に買っている。これが意外と面白いのだ。これまでは数学バカ、物理バカで来たが、生物学や数理脳科学、化学なども取り組んでみると非常に面白く魅力的なのである。そして大事なのは、取り組むからには新しい結果を出さなければならない。単なる趣味では終わらせないと強く心に思っている。

本は財産だと昔から言われているらしいが、この言葉をどれだけの人が理解しているだろうか?本は人間の第二の脳なのである。言わば拡張人体とでも言うべきであろうか?一冊数千円で第二の脳が身に付けられるのならば、これは非常に安いのではないだろうか?稼いだお金で第二の脳を買いまくるのも、意外と悪くないものだ。

科学とゲーム。

科学は大なり小なりゲーム的な要素がある。そして科学をゲームと捉えられている人は絶対に強い。科学者とはある意味、プロゲーマーと言えるだろう。とは言っても、娯楽的に時間を潰すためのゲームでは決してない。人生を懸けたゲームなのである。

ゲームと対照的な位置にあるのが勉強だと言えるだろう。よく小学生などが親から「ゲームばかりしないで勉強をしなさい」と言われるシーンがある。これはある意味、ゲームと勉強を対照的物事と捉えている点で本質をついていると言える。しかし大事なのは、科学を勉強としてやるのではなくゲームとして取り組むことなのである。だから親たちは「勉強ばかりしないでゲーム(科学)をしなさい」と言うべきである。

科学を勉強として取り組んでいる間は、まだまだ四流五流である。科学をゲームと捉えることができれば一流の手前の二流と言えるかもしれない。しかしその先がある。その先(一流)が何なのかと言うことは人それぞれ違うし、僕が言うことでもない。なぜならそれが何なのか?それは自分で考えるべきことだからである。

大人の夢には命がかかっている!

子供のころにいろいろな夢を持っていたと言う人は多いだろう。しかし大人になるとそれらの夢をあきらめ、夢を持たなくなったと言う人が多いように思う。それどころか、大人が夢を持つなんてことがカッコ悪いと言う人さえいる。果たして大人も夢を持つべきなのか?それとも現実的に考えて夢など持たない方が良いのか?

僕は夢を持たない大人は、実は夢を“持てない”のではないかと考えている。そしてそれらの人達は、夢を持つ覚悟がないのではないだろうか?大人が夢を持つからには、単なる夢見る乙女(中年?)ではなく、それを何が何でも成し遂げなければならないし、そうでないと生きていけない。そう、大人の夢には命がかかっているのである。命をかけてまで夢に取り込もうとする人は非常に少ないのではないだろうか。だから多くの大人たちは夢を持てないのである。

自分の夢を実現しようと前に進んでいる人は、いくつかのことを犠牲にしなければならない。普通の人と同じような事をしたいなどと思っているようでは、突き抜けた夢を実現することはできない。将棋の藤井聡太七段は、大学進学を断念し将棋に専念することを決心したと言う。圧倒的な才能が有り将来有望な青年でさえそのような犠牲を受け入れなければならないのに、大人が夢を追求するのに犠牲を覚悟しないで出来るはずがない。あらゆることはトレードオフである。何かを手に入れたければ、何かを手放さなければならない。なので、自分は何を手に入れるべきか?また何がいらないか?と言うことを明確に自覚していなければならない。

夢を追求している人を笑う人たちがいる。僕はそのような人たちを逆に笑ってやりたい。何せ、それらの人は夢を持つ覚悟も才能もないのだから。現代の多くの人間の寿命は50年を優に超える。平均寿命が短かった昔なら、25歳くらいまでには夢の大まかな形を作り上げていなければならなかったかもしれない。しかし今では、50歳を過ぎてから夢を成し遂げることも可能である。だから中年だけでなく、高齢の人達も夢に取り組むことに遅いことはない。大人の夢を笑う人間は、前時代的な観念にとらわれている人間なのである。

確かに皆が皆夢を追いかけていては、それはそれで社会が成り立つかどうかわからない。しかし確実に言えることは、現在の日本では夢に取り組む大人が圧倒的に少ない。なので夢に取り組める大人たちがもっともっと必要である。現在日本は経済的にも下り坂のように思えるし、何だか表面的な事を繕っているように思える。建前万能主義社会の中で、堂々と胸を張って夢を追求する大人こそが今の世の中には必要なのである。

お金ではない付加価値。

付加価値と言えば、普通の物とは違う価値、特に金銭的価値を考えるかもしれない。車で言えばフェラーリなどは付加価値を盛り込むことが非常に上手いと言われ、実際に金銭的にも国産普通車の十倍以上の価格が示されている。さらにフェラーリの中でも、ラ・フェラーリやエンツォ・フェラーリと言った車種は価格もさることながら、お金があれば買えると言うものではないらしい。人間で言えば、サッカーの久保建英選手は十代ながら20億円の市場価値があると言う。

そのような金銭的な付加価値を上げることと同時に、お金ではない付加価値を作ることも非常に重要である。久保建英選手のような才能を一夜で身に付け数十億円もの価値を身に付けることはすぐにはできないが、お金ではない付加価値は意識の持ちようで誰にでも付けられるチャンスはある。しかし誰にでもチャンスはあるが、誰にでも身に付けられるものではないからこそ価値があるのである。具体的には、人間性や思想、そして外見もそれらの付加価値の一部になるであろう。そしてそれらの付加価値の最も重要な事は、張りぼてではないことである。表面的な事ではなく、芯から発する魅力を身に付けなければならない。

では、張りぼてではなく芯から発する人間性・魅力とは何か?そのような人間性・魅力は、窮地に立たされた時に最も表現される。人間とは窮地に立たされた時に本性が表れるものである。普段は優しく人を守るふりをしても、いざとなれば平気で人を裏切り自分の保身に突っ走ってしまう。そのような優しさは張りぼてであり、最も信用できない人間とみなされる。僕自身だって、時には人を裏切ることもあるかもしれない。しかし一つ断言できることは、僕は絶対に保身に走らない。いや、そのような人間であろうと思っている。僕は保身と言うものが根っから大嫌いだ。だから保身に走る人を軽蔑するし、もし自分が保身に走ろうものならそのような自分を捨て去ってやりたい。

そのような保身という醜い行為の対極にあるのが人間的な付加価値だと思う。人間と言うものは、いつかは死ぬ運命にある。百年後には今いる人間全てが入れ替わっていると言う当たり前の事を指摘していた本もあった。なので、限られた人生のうちの微々たる部分を延命するために保身をする意味はほとんどないと思っている。そのような醜い保身による延命を図るくらいなら、今ある人生をいかに太くするかと言うことを考えた方が良い。そのような人生を太くすることこそが、人間的付加価値を付けることだと思う。ほとんどの人は自分がいつ死ぬかなんて予測できない。そしてそれをコントロールすることもほとんど不可能だ。しかし人生を太くすることはいくらでも自分でコントロールできる。ならばそちらに力を注ぐべきではないか。それができる人が付加価値のある人間と言うものである。

何を目標にするか?

結果を出せるかどうかは、初めに目標を立てるところから決まっている。良い目標を立てることができると良い結果につながるし、良くない結果を立ててしまうとどれだけ頑張って取り組んでも良い結果を出すのは難しい。なので、良い目標を立てるセンスと言うものはある程度必要だ。

大きな目標を立てて成し遂げることができると、もちろん大きな評価を得ることができる。しかし大きな評価を立てても、それを成し遂げることができなければその評価までたどり着けない。しかし評価は、百か?ゼロか?ではない。結果を出す過程で様々な副産物が得られたり、また結果を出す過程自体が評価されることも少なくない。しかし、そのような過程がどのようなものになるかは取り組む本人にもやってみない事にはわからない。なので、どうすべきか?と延々悩んでも仕方がないので、まずは取り組んでみることが重要だ。動くか動かないかは天と地ほどの違いである。動かないで出来ないと言うのは、才能がないのと同じである。

学問に取り組む際にも、目標とする問題を明確にするのと、単にどの分野(理論)に取り組もうと言うのでは、自意識が大きく違ってくる。僕は前者(取り組む問題を設定する)方が圧倒的に良いと思っている。例えば、最新の理論に取り組もうと言う意識では、研究と言うより勉強になってしまう。問題を解くことはそれ自体研究なのである。僕自身も、ターゲットを理論から問題に変えることによって飛躍的に内容が良くなった。

問題を設定したら、まずは準備をしなければならない。しかしもちろん、準備に終始してはいつまでたっても始まらない。常に先端を見据えながら、足元も固めて行かなければならない。必要な専門書を集めることも必要だ。専門書はないよりあった方が絶対に良い。だから他人から「本を集めてばかりだ」と言われるくらいがちょうど良い。物事はお金ではないかもしれないが、お金をかけることは非常に重要である。お金を有効に活用することによって、目標へのスピードは少しずつ速くなっていく。

良い目標を立てるためには、広い視野が必用だ。そして同時に圧倒的な専門的知見も必要だ。そして目標となる問題は、必ずしも一つだけにする必要はない。複数の問題に取り組むことによって、複眼的かつ余裕を持ったアプローチをすることができる。究極の目標は、スペシャリストレベルのジェネラリストだ。

世界が小さく見えてくる。

もし自分が学生ならば、数学の世界についてどのように感じるだろうか?おそらく数学と言うものは得体の知れない部分が多く、どこに限界があるのか想像がつかないであろう。数学でなく物理や化学、あるいは経済学であってもそう感じるに違いない。しかしそれらの分野を極めることによって、それらの世界がどんどん小さくなってくる。あれほど得体の知れなかった数学の世界が非常に小さく見えてくるのだ。そうなれば数学の世界が窮屈になり、殻を破ろうとするであろう。殻を破る、すなわち新しい世界を構築するのだ。

世界が小さく見えるとは、その世界の全貌を見渡せている証である。しかし実際は、その全貌を見渡せていないまま重箱の隅を突くような研究をしている人も少なくない。その結果、全貌を見渡せている人と見渡せていない人では結果の質が大きく変わってくる。

そして他分野、隣接分野を理解することも大きな武器になる。数学に取り組んでいるのならば、数学内の隣接分野を、さらには化学、生物学などに取り組むのもいいだろう。そして重要なのは、専門外の分野だから知識を仕入れるだけでいいとは思わずに、その分野でも何か新しい結果を出そうとすることが重要だ。それが僕の言うジェネラルサイエンティストへの唯一の道である。

しかし、現在まだ結果を出せていないことを悲観することは全くない。しかし明確なビジョンを持てていないのならばかなり悲観的である。まずは到達点をはっきりとさせ、それを基にビジョンを構築することが必用である。時間をかけることが必ずしも良いことだとは思わないし、早く結果を出すことに越したことはないが、大きな目標を掲げているのならばじっくりと時間をかけるのも重要である。結果を出すまでは外野がうるさいであろうが、そんなことは結果を出せば全て解決することである。じっくりと腰を据えて、大きく深く問題に取り組むことにしよう。

古本の活用。

本を一冊買うくらいなら何の問題もないが、十冊二十冊と買っていくとやはりそれなりの出費になる。さらに専門書となると一冊一万円以上するものも多く、そのようなものを毎月これでもかと買っていくと懐が痛くなる。

そこで最近は、書物を買うときは古本をフルに活用することにしている。書物はブランド品と違って、価値が落ちることは全くない。確かに紙としての本は古くなり値段も安くなるが、本と言うものの本質は紙ではなく、その中に書かれている情報だ。だから本が古くなったからと言って中に書いている情報が劣化すると言うことはない。

Amazonなどで見ていると、専門洋書の原版よりも日本語翻訳版の方が高いことが多い。最近見た本では、洋書原版が一万一千円、それに対して日本語翻訳版が二万四千円。じつに日本語版の方が倍以上高いのである。そこで僕は、洋書原版のさらに中古の状態の良い本を六千円で注文した。おそらく明日くらいに届くであろう。お金が湧き出るようにあれば新品の本をどんどん買えばよいが、資金に制限があるときは古本をフルに活用して、さらに日本語版ではなく英語版を買うと言った対策を取った方が良い。

僕はAmazonや明倫館書店(自然科学書専門の古本屋)のサイトを頻繁にチェックしているが、意外と掘り出し物があるものだ。掘り出し物とはある人には価値がないが、ある人には大きな価値があると言うものだ。人の価値と自分の価値は全く違う。自分の価値感をしっかりと把握していれば、自分にとって非常に価値がある掘り出し物の古本が見つかるに違いない。繰り返し言うが、本の価値は紙ではなく中の情報にある。そこを認識していると、古本を最大限に活用し、思い通りの結果を出せるに違いない。

ストレスがたまるぜ!

日本と言う国は、本当にストレスがたまるぜ!いや、僕の場合、海外に住んだとしてもストレスはたまるだろう。どうしたらストレスフリーな生活を送れるのか?僕の永遠の課題である。

しかし誰でも、大なり小なりストレスはたまるものかもしれない。しかし僕の場合はあまりにもストレス耐性が弱い。そのくせに強固なる絶対的な意志を持っている。意志を貫けば貫くほど、どんどんストレスがたまっていく。それはもう僕の運命だと言うしかない。ストレスフリーになるのはあきらめて、これからどうストレスと共存していくかと言うことを考えた方が良いかもしれない。

ジェネラルサイエンティスト。

ジェネラリストとはどのような人のことを言うのか?いろいろな事をまんべんなくできる人のことをジェネラリストと言われる事がある。しかしそれはジェネラリストでも何でもなく、単なる普通の人でしかない。僕が定義するジェネラリストとは、あらゆることに対してスペシャリストレベルである人である。なので、ジェネラリストになるためには、まずスペシャリストになることが必用だ。

最近はあらゆる分野において細分化が進んできている。それは科学においても例外ではない。物理学者であっても分野が違えば、同じ物理学のことでも全く分からないと言うことも少なくない。そのような研究者を物理学者と呼べるだろうか?そのような人はもはや物理学者でさえない。

では、科学を志しているのならば究極的にはどこを目指すべきなのか?僕は「ジェネラルサイエンティスト」だと考えている。すなわち、科学のどの分野に対してもスペシャリストレベルであると言うことだ。細分化が進んでいる現在において、そのような事は本当に可能なのか?僕は可能だと考えている。もちろん、誰もができることではない。だからこそ挑戦すべきではないだろうか。

ジェネラルサイエンティストになるためには、全ての科学に対してスペシャリストレベルでなければならない。その中でも少なくとも一つの分野では世界でトップレベルにならなければならない。そのようなジェネラルサイエンティストは世界でも数えるほどしかいないだろう。しかし、ある分野で世界でトップを極めている科学者は、他分野に関してもスペシャリストレベルであることも少なくない。もし科学を極めたいのならば、ジェネラルサイエンティストを目指すことは最も挑戦的な取り組みに違いない。そしてそこから科学以外の分野にはみ出していくことも非常に面白いだろう。

学問的野望。

僕は人間と言うものはどの分野を志していても野望は持つべきだと思っている。そしてその野望を達成する原動力は何であっても良いと思っている。むしろ、自分の中にある欲求や夢をいかに上手く原動力にして、いかに事を成し遂げるかと言うことが重要なのである。

タイトルに「学問的野望」と書いたが、そもそも学問的野望とは何か?何も成果を出して大金を得ることが目的ではない。いや、もし大金を得ることが原動力になるのならばそれも良い。しかし学問的野望はビジネスとは違ってお金だと割り切れるものではない。そもそも、ほとんどの研究者は学問が大好きで、その面白さに魅了されて学問に打ち込んでいるのである。金銭的利益は付属品でしかない。

科学と言うものは階層的に分類されている。科学の一番基盤的なところに位置するのが物理であり、そこから化学、生物学、地学へと積み重ねられていく。すなわち還元主義的に考えると、物理学を制覇すれば全ての科学を制覇したことになる。さらに物理の中でも素粒子論は最も根っこに位置するので、素粒子論は科学全ての源泉だと言える。

しかし、物理(素粒子論)を理解すればそれで満足できるのか?以前の僕ならばそれで満足していたかもしれない。しかし今は違う。数理物理を軸にしながらも、化学や生物学・地学などの全ての階層を理解し制覇したいと思っている。さらに現実世界(我々の住んでいる宇宙)の理解だけにとどまらず、さらに強固な世界である数的宇宙(数学)も制覇すべきだと思っている。そのように全ての階層の数理と科学を制覇することこそ、究極の学問的野望だと思っている。

今、僕はいくつの問題(テーマ)に取り組んでいるのか?とふと思った。そしてそれらを紙に書き表してみると、八つもあることに気づいた。それらは数学・物理はもちろん、あるものは(理論的な)生物学、脳科学、コンピューター科学などと多岐にわたる。昔なら物理の問題だけで満足していたであろう。しかし今の僕の知への欲求は、それだけでは満足できないのだ。そしてもちろん、それらを知ることが目的ではない。解明して新しい知見を出すことが目的なのである。

僕の学問的野望はどこまで広がるのか?それはとどまることを知らない。

学問的哲学は、何一つとして真理を明かさない。

哲学は有用なのか?不要なのか?この問いに対して僕は明らかに有用だと答える。それどころか、哲学のない人生、そして哲学のない科学などは取るに足らないと僕は考えている。しかし、我々が生きて行くうえで考える哲学とは別に、大学などで行われている「学問的哲学」と言うものがある。例えば、カントやショーペンハウアーのようなドイツ哲学などだ。僕自身も、そのようなドイツ哲学を中心とする学問的哲学に取り組んでいたことがある。しかしそこでたどり着いた結論は、「学問的哲学は不毛であり、何一つとして真実を明らかにしない」と言うことである。はっきり言えば、学問的哲学とは哲学者の自己満足な遊びでしかない。

ではわれわれはどのような哲学を追求すべきなのか?それは「いかにして生きるべきか?」と言うことを追求することである。哲学とは生きることに対して求めるべきであって、単なる論理学のくだらない哲学遊びを求めても仕方がないのである。とは言え、古代のギリシャ哲学は十分に意味があった。古代ギリシャ哲学は現代科学の源泉でもあるし、宇宙の真理を真剣に追究している。それに対して近代ヨーロッパ哲学はひどいものである。それらの哲学からは何一つとして真理が浮かび上がらない。

科学とは、まず目の前の事を真実として直視することから始まる。しかし近代哲学は人間が特別なものであると言うところから始まる。人間の存在など、確かに特殊性は帯びているが、生物学的には特別でも何でもない。もし人間が特別だと言うならば、根本的に同じ生物システムを保持しているアメーバだって特別である。いや、そうであるべきである。生物とは宇宙的に見ても特別であり、生物学とは特殊科学の極限なのである。

そして数学はこの宇宙で最も確かなものなのである。そしてそれを突き詰めていくと、当たり前のものが当たり前でないことに気づく。1とか2という自然数を哲学者はどう捉えるのか?おそらくくだらない論理にもなっていない論理もどきを持ち出して論破しようとするであろう。しかし、最も厳格である数学の基礎であるツェルメロ・フランケル集合論を用いて論じれば、自然数と言うものが最も確実な存在ではあるが、最も自明ではない存在であることがわかる。そこに、数学を用いて迫る真実の最もエキサイティングな真理が存在するのである。

理論と計算。

物理学と数学は究極的な理論的学問、計算的学問だ。数学を計算抜きで考える人はいないと思うが、では数学者や物理学者が日常生活においても全て計算に基づいて行動しているかと言えば、そうではない。もちろん、全てにおいて計算と理論に基づいて行動している人も少なくないとは思うが、理論的計算的に行動することが正しいかと言えば全く別問題である。

僕は数理物理学と言う学問に取り組んでいるが、そのような究極的に理論的計算的学問に取り組んでいるからこそ、日常生活や人間関係においては逆に計算では動かないように心がけている。そして周りの人間が計算的に動くのを見て、全く的外れだと思うことも多々あり、だからこそ計算に基づいて動くことが利益を最大化するとも思えないのである。

しかし、僕自身も少しは論理的に日常を捉え、もう少し計算をしても良いのではと最近少し思うようになっている。とは言え、100%計算に基づいて行動しようとは今でも思わないし、そういうのは好きではない。日常を純粋に楽しみ、面白いことを面白いと純粋に笑い、苦し事を苦しいと感じることも必要ではないだろうか。しかしそのような苦しさから脱出するためには、少しは戦略的に物事を進めることも必要である。

世の中には、このような僕の考えに逆行している人がたくさんいる。日常生活などでは徹底的に計算で動き、逆に数学を論理的に考えることができない人たちだ。そのような人たちは間違いなく的外れな解釈を行っている。日常の本質と数学の本質が別のところにあることを理解していない。だからこそ、世間で「理論的に証明されている」と言えば何の疑いもなく信じて実行しようとする。そこには思考と言う作業が組み込まれていないのだ。数学を突き詰めている人ほど、日常の常識に立ち向かうことができる。常識を知っている人が偉いのではなく、常識が本当に正しいか判断できる人になることが重要なのではないだろうか。

肩書と実力。

日本は肩書社会だとよく言われる。だからと言って外国は完全な実力社会かと言えばそうでもないとは思うが、日本国内から見ても海外の方が圧倒的に実力社会であるように思える。

では学問の世界はどうか?学問の世界の肩書の一つに「博士」と言うものがある。実力社会のように思えるアメリカであっても、日本以上に博士と言う肩書が重要視されているようだ。ノーベル賞受賞者の中村修二氏は、若いころアメリカで修業したそうだが、博士号を持っていないがためにほとんど相手にされなかったと言っている。これはアメリカに問題があるのか?学問の世界に問題があるのか?はっきりと断定はできないが、どちらにも問題があるように思える。

肩書重視の弊害は、あらゆるところで見られる。その一番の弊害は、再チャレンジの機会が存在しないと言う事であろう。もしくは例えそのチャンスがあったとしても、既得権益者が行うよりも圧倒的に難しい状況に追われる。しかしそのような事は、どこの国どの社会であっても同じことであると思う。三倍難しければ、五倍の実績を挙げればよい。十倍の結果を出せば誰も文句は言わないだろう。それで文句を言う人は単なるバカである。

歳を取ればとるほど実績を出すのは難しくなる。そして実績を認められるのはそれ以上に難しくなる。しかし前述したように、十倍の実績を出せば誰も文句は言わない。ならば十倍の実績を挙げれば良いだけの話である。これが難しいか?可能か?それは本人次第であるが、僕は十分に可能だと考えている。どう出過ぎた釘になるか?そこを突かないと、実力主義だと言われるアメリカであっても認められるのは難しいと思う。しかし、どう認められるかと考えているようでは、出過ぎた釘にはなれない。なぜなら、出過ぎた釘とは評価をする側に回ると言うことであるからである。

借金と投資。

日本人は借金を過度に恐れ罪悪視する傾向がある。しかし借金とは使いようにもよるが、投資と言う意味合いも強くある。従って、借金を全くしないとは、自分の成長に対する投資を否定することでもある。もちろん、服やカバンに散財するようなことは決して良いとは言えないが、しかし男ならスーツ(とそれに合わせる靴)にはそれなりの投資をすべきである。なぜなら、スーツは仕事の武器にもなるし、人付き合いの武器にもなる。だから無理をしない程度にお金をかけるべきである。そしてその威力を存分に発揮し、何百倍にしてリターンを得ればよいのである。

子供が大学に行こうとするとき、「お金がないから行くな」と言う親もいるらしいが、それは誰が見ても適切でないと感じるだろう。お金がないなら借金をすべきである。学校に行かせたければ、教育ローンや奨学金と言う選択肢がある。それこそ正しい借金の仕方だと言えるであろう。おそらくそれらの借金をして大学に行った子供は、大学で猛勉強をし、将来その何百倍ものリターンを得ることであろう。

日本では子供のころから、貯金の仕方については繰り返し言及されるし、貯金が非常に良いことだと教えられる。しかし、お金の使い方に関してはほとんど教えられることはない。しかし本当に重要なのはお金の使い方の方なのである。なぜなら、ビジネスとはお金を儲けることであるが、お金を儲けるためにはお金を使わなければならない。お金を使い、それ以上のリターンを得るのがビジネスと言うものである。学問をするのにも、書籍にお金をつぎ込むことが必用だ。しかもそれに本気で取り組むとなると結構な額になるものだ。しかしそれは金銭的にも人間的にも何百倍になって帰ってくるはずだ。お金の有効な使い方をする者が勝者であり、無思考にお金を貯める者は敗者であると言える。もちろん、何かの準備のために貯めると言うことはあるが、その場合には結果的にお金を有効に使うと言うことに結び付く。

お金は貯めているだけでは何の効果も発揮しない。せいぜいお金を貯めていると言う、ちょっとした満足感とちょっとした安心感だけである。もちろん、散財したり意味のないものにつぎ込むのは論外であるが、お金を使ったり、時には借金することは決して悪いことではないのである。ビジネスの成功者は例外なく借金の仕方が上手い。そしてビジネス以外でも、人生を上手く運べる人は借金を有効に使う。もし自分に明確なビジョンがあるのなら、それを実現するために思い切って借金という投資をするのも非常に意味のある大きな手であるはずだ。

新庄剛志の挑戦。

“元”プロ野球選手の新庄剛志さんが、最近再びプロ野球に挑戦すると宣言して話題になっている。それに対する反応はまちまちであり、バカにする人も多いが、僕はこの究極に新庄らしい宣言に対して非常に好感を持っている。元監督の野村克也氏は、「究極のアホ」と言い放っているが、これも元教え子の新庄さんに対する一つの愛着の表れではないかと僕は思っている。もっとも、本気で新庄さんがプロに戻って来ると思っている人はほとんどいないようだが。(僕を除いて。)

そもそも、歳を取ると衰えるから無理だと考えることには何の根拠があるのか?いや、はっきりと根拠がある。科学的医学的に考えれば、歳を取ってプロ野球選手になることは不可能だ。しかし、新庄さんは“まだ”47歳である。まだまだ十分行ける!新庄なら!歳のせいにして不可能だと言うのは、ある意味単なる言い逃れでしかない。スポーツも学問も、生涯プロを目指すべきだ!

新庄剛志の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史だ。阪神タイガース時代、スター選手として活躍したが、突出していたと言う訳ではない。なので、大リーグ挑戦を宣言したとき、誰もが失敗すると言い放っていた。しかしいざアメリカに行くと、数字的にも日本と変わらない成績を残すことに成功している。そして何よりも、日本人初の大リーグでの4番打者になっている。松井秀喜よりも前に4番打者になっているのである。まさしく「奇跡を呼ぶ選手、クレヨンしんちゃん」なのである。

僕だって、他の選手がそんなことを言うのなら、絶対に無理だと思ってしまうだろう。(イチローは別格であるが。)しかし、新庄なら本当にやってしまうのではないかと心のどこかで思ってしまう。普通なら0%だ。しかし新庄なら3%くらいあるのではないか。僕はその3%に期待しているし、ワクワクしている。新庄はおバカキャラだけど、バカではない。新庄こそ究極の挑戦者であり、究極のエンターテイナーではないだろうか?

無限小の地球。

世界は広いとよく言われる。それは本当に正しいのか?科学技術の発達した現代では、世界を見ることは身の回りの物を見るくらい容易であるし、飛行機で回っても一日もかからない。さらに宇宙全体から見れば、地球上の世界などはっきり言って無限小だと言ってよい。なので広い視野を手に入れるためには、地球上の知見だけで終わらせるのではなく宇宙を理解しなければならない。

では宇宙を理解するためにはどうすればよいか?それは数学と物理を理解すればよいのである。数理は宇宙のかなたまで視野を広げさせてくれる。では、初めて宇宙を見た(理解した)のは誰か?これは疑いようもなくニュートンだと言える。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したと言われている。これは何を意味するのか?じつはこのことの真意を理解している人は少ない。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て、地上の重力と宇宙の星の運動を支配している力が同一のものだと見抜いたのである。すなわち、ニュートンは地上の世界と宇宙の世界を統一した初めての人物なのである。それに比べると、現代の身の回りの狭い科学技術にとらわれている人間がどれだけ小さいかが理解できる。

科学(サイエンス)は万能であっても、科学技術(テクノロジー)は万能ではない。科学は奥に潜む真理を明らかにするが、科学技術は表面的なものしか明らかにしない。すなわち世界(宇宙)の本質は科学にあるのに、ほとんどの人間の眼中には科学技術しか入っておらず、表面的な事しか見えていない。例を挙げると、科学(物理学)によって宇宙の果てまでもが理解できるが、科学技術(テクノロジー)はせいぜいロケットで月や火星に行くくらいが限界だ。世の中を本気で理解しようと思えば、宇宙の果てまでもを理解しようと言うくらいでなければならない。

科学技術の価値は誰でも理解できる。なぜなら科学技術と言うものは非常に即物的だからだ。しかし科学の本当の価値を理解している人は少ない。それは科学と言うものが非常に本質的であり、抽象的であるからだ。しかし現代の教育は技術の方に傾き過ぎている。その結果、人間の視野を非常に狭いものにしている。プログラミング教育もいいが、何か本質的なところをないがしろにされているように思えてならない。

何が確かで、何が不確かか?

世の中の常識は時代ごとに変わるし、学問の内容も変遷していく。しかし数学において、昔正しかったことがその後になって間違っていたなんてことはほとんど聞かない。もちろん高度にはなって行くが、新しい数学と言うものは、過去の結果を基に積み重ねられて行くものだ。

しかし生物学や医学となると話は全く別だ。医学において、過去の常識が実は間違っていたなどと言うことは日常茶飯事だ。生物学や医学の進歩とは、ある意味過去の結果を否定することによって進んで行くと言える。もちろん全てが間違っていると言う訳ではないが、大部分が間違っていると言えるようである。

そのような事を考えると、「何が確かで、何が不確かか?」と言うことを明確にすることは、多くのことに対して難しく、時には不可能であると言える。確実に言えるのは、今確かだと言われていることは今の“常識”であって、それらの常識が正しいと言う保証は全くないのである。

人生においてもっとも価値があるのは、過去の常識を覆していくことだ。常識を容認することは誰でもできる。なので、常識を知っている人間などは何の価値もないのだ。ただし、非常識が良いと言っているのではない。次の時代の常識を作ることに価値があるのだ。医学や生物学などの科学でさえ間違いが山ほどあるのだから、社会や人間の行動や考えが間違っていることなど膨大にあると言える。なので、今の常識が正しいか?と言うことにとらわれるのではなく、次の時代の常識を開拓していくことが必要なのではないだろうか。

魔教育。

魔教育とは、特に小学校で行われている子供の将来をぶち壊しにする教育だ。そしてその原因は、小学校教師の極度なレベルの低さにある。

魔教育は、特に小学校の算数の授業で実行される。例えば
・例1、掛け算の交換法則を理解していない。
・例2、イコールの付け方に意味のない規則を教える。
・例3、筆算の棒を定規で書かせる。
・例4、「3=3.0」を理解していない。
などである。

例1については、面積の公式を「縦×横」は正解だが、「横×縦」は間違いだと言う嘘を教えることだ。
例2については、イコールを横に次々と並べてはいけないと嘘を教えることだ。
例3については、そのままである。
例4については、そもそも数字(算数以前の問題として)を理解していない。
もう、これらがなぜダメなのかという低レベルな事はここでは述べない。しかし、実際の小学校ではこのような魔教育が行われているようである。

僕は大学時代、教育学部の友達が多かったので、このような話をよく聞く。そしてそれらを指摘された教師は恐るべきことに、ネットで検索して調べるようである。しかもWikipediaで。そしてそのような小学教師であるほど、小学校の授業で算数が一番簡単だと言っているようなのである。

このような魔教育の根源は、「生徒のための教育」と言う意識が軽薄で、「教師(自分)のための作業」をこなしていると言う意識があることによるものではないかと思われる。魔教育は間違いなく子供の将来をつぶす。教師が人間として低レベルなのはどうでもよいが、子供にそのような低レベルな人間の作業に引きずり込むことは害悪でしかない。しかしこれらのことがあまり世の中の問題にならないのは、まさかそこまで低レベルな教師がいるとはだれもが想像していないからである。しかし実際は相当数の超低レベルな教師がいるようなのである。

まず、敵を知ること。

物事に取り組む時、味方を集めるだけでなく敵を知ることも大きな力になる。敵を知ることによって問題点がさらけ出され、攻めて行くポイントが明白になる。それは学問においても言えることだ。

例えば数学において、佐藤超関数で攻めて行きたければ、シュワルツの超関数を知ることは重要だ。別にシュワルツの超関数が敵なわけでも何でもないが、その周囲を知ることによって本丸が見えてくる。そして本丸が見えてくれば、それを攻略するためにどのような武器(理論)が必用かと言うことを見定め、武器を集めればよい。ただし武器を集めるにはやはりお金が必用だ。何事にも本気で取り組もうとすると、どうしてもある程度のお金は必要になる。お金をかけずに取り組むと言うことは、ある意味まだ遊びだと言えるのかもしれない。学問においても、専門書を買うのにはある程度のお金がかかる。

そしてお金と同時に時間も必要だ。取り組む対象にそれだけの時間をつぎ込む覚悟はあるのか?本気で取り組むほど、初めはあらゆることを犠牲にする必要がある。お金だって初めはだいたい赤字になる。それが人生投資と言うものだ。しかし明るい将来が見えているこそ、今のあらゆる犠牲に耐えられる。そしてそれを成し遂げた後に気分を解放させればよいのである。

とは言え、現在の僕自身、そのような事が完全に実行できているかと言えばそうではない。完全に実行できていれば、今頃ある程度の結果を出せているはずだ。しかし言い方を変えれば、時間の問題だとも言える。さあ、今苦しんで、明日を思いっきり楽しもう!