月別アーカイブ: 11月 2019

悪い人間が犯罪を犯すのか?

京アニの放火犯罪の容疑者が、容態の改善によって医療施設を転院した。その際、容疑者はこれまでお世話になった医療関係者に対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の意を示したと言う。僕はこの容疑者のこの言葉に関していろいろと考えるところがあった。

容疑者の放火に関してはれっきとした殺人であり許されることはないが、今回の事件はただ単に「極悪な人間が殺人を犯した」と単純に割り切れるものでもないように思えてならない。そのように考えるきっかけとなったのが、前記の容疑者の言葉である。

生まれながらに悪い人間、そして良い人間と言うものがあるのか?もちろん人間にはそれぞれ個性があり、性格や考え方などが生まれながらによってある程度もたらされるところはあると思う。しかしそれと同時に、育ってきた環境によって方向づけられるところもかなりある。もしかしたら、今回の容疑者も“普通に人並みに”悪い人間だったのかもしれない。なので育ってきた環境によっては、普通に何も犯罪を犯さずに暮らしていた可能性も高い。しかし彼の言葉から、これまで人から優しくされることがなかったのではないかと想像することができる。もしかしたら、これまで彼に優しく寄り添う人間がいたら、彼は感情をポジティブな方向へ向け、人に優しい人間になっていたのかもしれない。そう考えると、彼に対して一方的に極悪な人間だと決めつけることに少しの抵抗を感じないわけではない。

環境と言うものは、自分ではどうしようもないと言う側面がある。今回の事件に対する責任は彼だけではなく、これまで彼の環境を作ってきた親、そして学校の教師、そして彼に関わってきた全ての人々、そして日本の社会全体にあるのかもしれない。だから今回の事件に対して、自分は関係ないと他人ごとにはできない。おそらく彼に対しては、今後極刑が課せられることは免れないと考えられるが、その極刑は同時にこれまで彼の環境を作ってきた日本社会が課せられた刑だとも捉えられる。彼の起こした犯罪を教訓として、社会と人間の在り方を再考する必要があるのではないだろうか。

研究者とビジネス。

研究者とは、はたして儲かる職業なのか?普段目にする研究者のお金に関するニュースと言えば、ノーベル賞の賞金(約一億円)であろう。そして最近では、研究結果を応用して、それを事業化するというニュースもよく聞く。確かにそのような事に成功すればかなりの儲けになるだろうし、ビジネスにもなる。それだけを見ると、一見儲かる職業のようにも思える。しかし、ノーベル賞を受賞できるのは年に数人であるし、研究結果のビジネス化に成功している例と言うのもそんなに多くはないようにも思える。

もし本気で大金を稼ごうと思えば、絶対に研究者になってはならない。僕の個人的な見解としては、研究者はお金儲けの手段としては最も割の合わない職業だ。平均で言っても低いと思うし、トップに上り詰めてもビジネスの勝者には大きく及ばない。はっきり言って、研究者になって大金を稼ごうと思う人はバカである。

しかしそのような金銭的に割に合わない立場であっても、研究者になってやろうと強い意志を持っている人はそれなりにいる。もちろん研究者になってお金を儲けようと思うことは悪いことではないが、それだけではとてもじゃないけど研究者はやって行けない。ほとんどの研究者は、研究自体に魅力を感じているし、研究が人生最大の生きがいだと思っている人も少なくないだろう。僕もそんなバカな人間のうちの一人である。

しかし、研究で沢山稼ぐことは不可能な事ではない。実際少ない人数でありながらも、大きく稼いでいる人はいる。ならばその少数の人間のうちの一人になればよいのだ。とは言え、やはり研究の一番の魅力はその研究内容にある。研究が面白いからやって行ける。そう考えると研究者とは天国にいるような(そして地獄にいるような)人間であると僕は思っている。

カフェインレスコーヒー。

最近、コーヒーを飲むと頭の回転が鈍ったりして調子を崩すことが多かったので、家で飲んでいるインスタントコーヒーをカフェインレスコーヒーに変えた。カフェインレスコーヒーに変えてからいろいろとかなり好調で、カフェインレスの力は僕に関してはいかんなく発揮されているようだ。

しかし、ネガティブな面も二つある。それは価格とカフェインがないことだ。カフェインレスなのでカフェインがないことは当たり前だが、やはりカフェインを摂取してシャキっと頭を冴えわたりたいときには普通のカフェイン入りのコーヒーを飲みたいものだ。だから今でも一日一杯くらいは普通のコーヒーを飲んでいる。価格に関しては、普通に高い!高すぎる!普通のコーヒーの三倍くらいするのだ。なので財布には非常に痛いが、それで調子を維持できるのなら逆に安いと考えられないこともない。

調子の面以外で良い面と言えば、寝る前でも思う存分飲めると言うことだ。寝る前に一杯、ということもできる。味の面では、僕が飲んでいるネスカフェのカフェインレスインスタントコーヒーは意外とおいしい。はっきり言って味にはあまり期待していなかったが、これは想定外のうれしさだ。これからはカフェインレスコーヒーをたしなみながら、全ての物事を前に進めて行きたいと思っている。

世界旅行!

皆様は世界旅行に興味はおありでしょうか?世界旅行とはつまり、地球上をくまなく周る海外旅行と言える。僕はそのような旅行にほとんど興味がない。国内であろうが海外であろうが、これまで旅行をしたいとはほとんど思ったことがない。(しかしこれからは、そのような旅行も積極的にしようと思っている。)

しかし今僕は、ある世界旅行に躍起になっている。それは科学の世界の旅行だ。これまで僕は、数学と物理の世界を旅行することに打ち込んでいた。しかしそれはある意味‘‘国内旅行’’だと言える。世界旅行をするためには、化学、生物学、地学などのあらゆる分野を周らなければならない。科学の世界は美しく、そして豊富で面白い。数式を介して見る世界は非常に明確だ。海外旅行に行くお金があれば、そのお金で専門書の一冊でも買い、それに取り組む方が圧倒的に面白い。

僕は軸足を数学と物理に置いている。そのことは科学の世界の旅行をするにあたって非常に幸運だった。なぜなら、物理と数学を軸足にして、化学や生物学などに遠征をすることは十分可能だからだ。しかしその逆は基本的には難しい。そして数学に打ち込むことは、さらなる幸運をもたらす。それは、この自然(宇宙)だけでなく、数的宇宙までも理解することができるからだ。数的宇宙とは、ギリシャ哲学で言うところのイデアにあたるであろうか。すなわち、目で現実世界を見て、科学で自然(宇宙)を見て、数式で数的世界を見るのである。

僕は専門外の分野に取り組む時も、解説書ではなくできるだけ専門書を読むことにしている。確かに専門外の専門書を読むことは最初は骨が折れるが、慣れればむしろ数学や物理より簡単である。やはり一般解説だけで真理を理解するには限界がある。百冊の解説書を読むより、一冊の専門書を読む方がはるかに意義があるのである。まずは座右の専門書を定めるのが良い。専門書と格闘すれば、さらに奥に潜む真理が見えてくるに違いない。

人生50年!

現代では、人生100年とも言われるようになった。もし人生100年生きるとすると、僕はまだその半分も生きていないことになる。社会では、「人生100年に備えて」と言う合言葉的な事も言われている。もちろん、その100年間を有意義に発展的に生きて行ければ最高であろう。そこでもし僕がこれから人生100年に備えて今から準備するとどうなるのか?僕はどうしても守りに入ってしまうのではないかと思えてならない。だから僕は人生50年と意識して生きるようにしている。もしかしたら60年、70年生きるかもしれない。もしそうなればそれはそれで良い。しかし人生50年と言うことを肝に銘じて、その残り少ない時間に全力を挙げるべきではないかと僕は強く思っている。

僕自身、人生50年だと肝に銘じることによって得られるメリットは非常に大きい。これからの人生がまだまだ長いと思ってしまうと、どうしてもだらだらと時間を先延ばししてしまう。そして生物学的に生きることに気をとらわれ過ぎて、全てが守りに入り、時には保身につながってしまうのではないかと思うのである。もし人生があと数年ならば、全てを攻めることができる。もしダメだったらそれはその時である。僕が成し遂げようと思っていることは、守りに入ってはできない。超攻撃的人生を進めることが最低条件になる。

医療が発達して寿命が延びること自体は悪ではない。しかし一部の人にとっては、それは決して善でもないように思える。重要なのは長生きすることではなく「どう生きるか」である。そのためには、「自分は何のために生きるのか?」と言うことを強く意識しなければならない。そして、その自分の生きる意義を最大限に高めなければならない。そのような事を考えた結果、僕は人生50年と言う結論を導き出した。そのためには、毎年毎日が勝負であるという意識を持たなければならない。「今日も勝負、明日も勝負」と思って生きていきたいが、どうしても心と体がそこまでついていかない。筋トレして筋力を鍛えるのも良いが、基礎的体力をつけ、心に毛を生やし、強靭な精神力を付けていきたいものである。そしてそれは可能であると強く思っている。

ルールを守ればそれで良いのか?

先日、スノーボードの国母選手が大麻の密輸で逮捕された。このことについては言語道断であり、弁解の余地は一切ない。守るべきルール(法)は守ると言うのが、法治国家に住む人間としては基本的には厳守となる。日本人は法やルールを確実に守るというのが世界的な認識になっているように僕は感じる。日本人は礼儀正しく律儀だ。それは非常に良いことだと思うが、僕はこのことを手放しには喜べないと思っている。

日本人はルールをしっかりと守る。では、もしルールがなかったらどうであろうか?日本人はルールがない所では意外とやりたい放題で羽目を外しているように感じる。例えば、外国人技能実習生の問題などはその最たる例であろう。日本人相手なら礼儀正しく約束を守るが、外国人技能実習生に対しては同じ人間として扱っていないような企業も多々ある。それは、「ルールがなければ何をやっても良い」と言う思考に通ずるものがある。ルールがなければ何をやっても良いのか?もちろん、法的には合法(脱法)であるかもしれない。しかしそこは規則を守ると言う次元のことではなく、モラルの問題である。もちろん、モラル意識が高い日本人もたくさんいるが、ルールがないところ、人が見ていないことろではモラルのかけらもないような日本人も多くいるように感じる。

そしてもう一つ問題になるのが、ルールの無批判な適用だ。これは特に学校の校則などでよく見られることであるが、意味のないルール、あるいはさらに害悪とさえ思えるようなルール、そして人間の自由な思考を妨げるようなルール、そのようなルールを無批判に適用し人を縛るような行為が見られる。これは思考力の欠如からくるものである。確かに法やルールは守るためにあるのかもしれないが、そのようなルールがあるからには明確な根拠がなければならない。しかし実際は何の根拠もなしに惰性や思い込みだけで作られているルールも存在する。そのようなルールに対しては、それはおかしいと手を上げて声を出すべきである。

法やルールには、明確な根拠、そして合理性があるべきだ。なのでそれらの法を打ち立てる政治家には良識と論理的思考力が強く求められる。校則ならば、そのような素養は教師や教育組織に求められる。そして我々は、ルールを守ればそれで良いと考えるのではなく、ルールを守りつつもその意義を考え直し、そしてさらに根本にあるモラルを身に付けることが必要ではないだろうか。

ホンゲル係数。

小学生か中学生のころ、社会科の授業でエンゲル係数と言うものを習った。家計の支出における食費の割合を表す数字だ。それにもじって、僕は「ホンゲル係数」と言う言葉を使っている。ホンゲル係数とは、支出における書籍代の割合だ。僕が勝手に作った言葉なので、おそらく世間では全く通用しない。しかし僕自身は、これはなかなか便利な言葉だと思っているので、最近たまに使っている。

ホンゲル係数は何を表現しているのか?それは知への投資の割合である。もちろん漫画を何百冊も買う人もいるので何とも言えないが、基本的には学問書などへの投資を想定している。僕自身のホンゲル係数は極端に高い。おそらく日本国民の上位0.01%には確実に入っている。書籍代が高いのか、支出が少ないのか、それは想像にお任せする。

しかし学問書・専門書は非常に高いものである。一冊一万円ほどする本は山ほどある。そのような高額書籍を毎月せっせと買っている僕も何とかしているが。しかしこれは将来を見越した確実性のある投資である。金融投資などはバカみたいなので一切やらないが、学問に対する知への投資はこれからも続けるつもりだ。

本を買っていくと、当たり前だが本がたまっていく。全ての本が役に立てばよいが、そのような事はあり得ない。一冊の本でも、その中の数ページでも役に立てば儲けもんなのである。数年後には高額な書籍代を維持しつつも、ホンゲル係数は下げていきたいものである。(つまり、収入・支出を上げる。)しかし、結果を出す前にホンゲル係数が高止まりすることは僕にとっては必要不可欠であると考えている。結果を出すまでもう少し、極高ホンゲル係数に耐えて行こう。

地球外知的生物はいるのか?

地球外知的生物の存在に関しては、いつの時代も話題になる。地球外知的生物とは、いわゆる宇宙人であると言える。宇宙人だと言ってしまえば話は変な方向(オカルト系)に行ってしまうことが多いが、多くの科学者は地球外知的生物、つまり宇宙人はいるだろうと本気で考えている。僕自身も以前は地球外知的生物はほぼ間違いなくいるだろうと考えていた。その根拠は、地球と言う宇宙の一つの星に知的生物が存在するという事実から、宇宙に存在する無数の星の中には知的生物が存在する星があると考える方が至って自然であろうと言う考えからだ。そしてこのような考えを根拠にすると、知的生物が存在する星の数は数個・数十個ではなく、何万、あるいはそれ以上あると考えるのが自然だ。

しかし、僕はある分野の知見を得ることによって、考えは大きく変わった。つまり、宇宙にいる知的生物が地球上の人間だけである可能性も非常に高いと言うことだ。では、何を根拠にそのような結論を出したのか?それは進化論だ。進化論と言えばダーウィンを思うが、現在はダーウィンの自然淘汰による進化論を基礎にしつつも、非常に高度な理論に発展している。その中に、数学(特に確率論・統計学)に基づいた数理進化学と言うものがある。そして数理進化学は、数理遺伝学に基づいている。つまり、進化を遺伝子レベルで考察し、数理モデルを構築していくと言うものだ。

このような分子的な遺伝子レベルで進化を考えると、人間が誕生するまでの進化の歴史は偶然と奇跡の連続であることがわかる。そのようなことは、数学を駆使して解析することによって鮮明になってくる。地球においても、人間が誕生する確率はほぼゼロであった可能性がある。しかし偶然に偶然が重なって、偶然に人間が誕生したと言えるのである。そのような事が数学的解析によって鮮明になるのは特筆的である。

例えば、猿にタイプライターを打たせてシェークスピアを書かせることは出来るか?と言う例え話がある。これは適当にタイプライター打っても、シェークスピアと同じ文章が書ける確率がゼロではない言う話だ。実際は、シェークスピアの長さを考えると、100億年打ち続けても偶然書き上げられる可能性はほぼゼロである。なので正岡子規の俳句にしよう。猿がタイプライターを適当に打って正岡子規の俳句が出来上がる可能性はほぼゼロであろう。しかし正岡子規の俳句が出来上がったのである。(実際は、猿が打って出来上がった俳句を「正岡子規の俳句」と名付けたと言うべきであろう。)正岡子規の俳句に当たるのが、地球での人間誕生なのである。

地球上に人間が誕生したからと言って、宇宙の他の星にも知的生物がいるという結論を出すのは早計だ。数理遺伝学による進化論からは、そのような結論を出すことができる。しかし、このことを証明することは容易ではない。知的生物がいるのならばその星を見つければいいが、いないことを証明するのはいわゆるブラックスワンがいないことを証明する問題に当たる。

地球は奇跡の星なのか?ありふれた星なのか?この答えに結論を出せる日が来るのかどうかは分からないが、数理遺伝学的に進化論を考えると、地球は奇跡の星である可能性が非常に高いと言えるのではなだろうか。

時短。

最近、時短筋トレを始めた。これまで筋トレをするとき、一時間くらいかけてじっくりとするのが僕の筋トレスタイルだったが、よくよく考えてみると、この一時間は長すぎて非常に無駄が多い。そこで腹筋と腕立て伏せの間に休みを挟まないとかして、全ての筋トレメニューを一気に行うことにした。すると、これまで一時間かかっていたメニューが15分以内でこなすことができたのだ。何と効率的なことか!一週間毎日こなしても、合計で一時間半ほどだ。これからはこのような時短筋トレで進めようと思う。

ところで、何のために時短をするのか?それは時間をつぎ込むべきところで思いっきり時間をかけるためだ。一日を振り返ってみると、時短をすべきところは意外とたくさんある。例えば、ネットで無駄なものを見過ぎないとか、風呂の時間を短縮するとかだ。ところで僕は超ロングスリーパーなので、どうしても睡眠時間をもっと短縮したいと思ってしまう。しかし、睡眠時間を削ると結局起きている時間のパフォーマンスが劇的に低下し、結果的には非常に効率が悪くなってしまう。もちろん人によって体質は違うし、3時間睡眠でもピンピンして活動的な人もいるので何とも言えないが、僕個人にとってはどうしても睡眠時間は削れないようだ。

今、僕が必要としていることは、最高の調子(パフォーマンス)と有効な時間だ。それを手に入れるためには、適度な睡眠時間と時短生活をすることが必用だ。時短を意識すると、普段の動きもキビキビとなる。一石二鳥(三鳥?)だ!いろいろと時間が限られている僕にとって、時短生活は未来の成功をもたらしてくれるものだと感じている。もともと時間の使い方が下手な僕にとっては時短生活は簡単な事ではないが、いろいろと工夫してこれから時短生活を強化していこうと思う。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。