月別アーカイブ: 11月 2019

ビジョンを持って失敗する。

人間は大きく二つに分けられる。失敗する人と失敗しない人だ。そこで多くの人は失敗しない人になろうと思うかもしれない。しかし失敗しない人と成功する人とは同義ではない。同義ではないどころか全く正反対である。

失敗しないとはどういうことか?それはほとんどの場合挑戦しない人と言うことだ。そして失敗する人こそが成功する人だと言える。しかしそのためには継続性が重要になる。「継続は力なり」とはよく言うが、失敗してもなおも挑戦し続け、そしてさらに失敗を繰り返し続ける。そのことによって大きな成功はもたらせられる。僕はそう考えて全ての物事に取り組んでいる。

そして大事なのが、「ビジョンを持って失敗する」ことである。ただやみくもに「数打てば当たる」と思っていても、実際には一つも当たらない。なぜならそこにビジョンがないからだ。ビジョンを持たずに矢を放っても、本質的なところには一つも当たらない。もちろん実際の弓矢は百本放てば一本くらいあたる確率はある。しかしビジョンなき矢放ちは間違いなく一本も当たらない。「ビジョン+挑戦」が成功へと導くのだと僕は強く考えている。

では、これまで述べてきたことは本当に正しいのか?このような事を述べたからには僕がそれを証明しなければならない。そしてそれを証明する準備は整いつつある。後は細部を埋めて行くだけだ。その結果は近い将来出るはずである。

強さと弱さ。

誰もが強さと弱さの二面性を持っている。もちろん圧倒的に強い人もいれば、圧倒的に弱い人もいる。多くの人は強い人間になりたいとは思っているだろうが、しかし弱さが存在することによって気づくことも多々あるし、大事なのは強さと弱さの相乗効果なのである。

強さには大きく二種類ある。一つは肉体的な強さ、もう一つは精神的な強さである。しかしこの二種類の強さは独立してあるものではなく、肉体的強さが精神的強さをもたらし、そして精神的強さがさらに強い肉体をもたらす。例えば、プロスポーツ選手にとって鋼のような肉体は不可欠であるが、そのような強靭な肉体を手に入れるためには強い精神力によって鍛えなければならない。そして学問とはある意味精神活動の極限だと言えるが、そのような精神活動を推し進めるためには健全な肉体は非常に頼りになるものである。数学とは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものである。

僕は最近、かなり強くなっていると自分では感じている。しかしそれと同時に弱い側面もかなり大きくなっている。ある意味、人間性が強烈になって来ていると言える。しかしそれは自分の望むところであり、今僕はかなり自分らしく生きていると感じている。しかし好不調の波はある。そこが僕の一番の課題ではあるが、それを克服するのも時間の問題だと思っている。

自分はどこまで強くなれるのか?そしてそれは現在の弱さを抱えたままでも行けるのか?これは自分自身における挑戦である。しかし他人から見た目と言うものも気にしてしまう。それははっきり言って、現在の自分の弱さだ。自分自身の挑戦は、自分の内部の思考によって推し進めるべきだ。そしてそれ以外の面では他人の目を気にするのも良いと僕は思っている。いや、気にすべきところは気にしなければならない。服装や身だしなみを、そんなものは関係ないと気にしないのは単なる独善である。自分自身の挑戦に打ち込みながらも、意外とそんなところも気にする僕である。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

良い問題を設定することの大切さ。

もし学生ならば、教師から出された問題を解くことに全力を尽くすかもしれない。確かに問題を解くことは重要である。社会においても、様々な問題が山積し、それらの問題を一つ一つ解決することが求められている。しかしそれらの問題が存在すると言うことは、誰かがそれらの問題に気付いたと言うことである。問題が設定されなければ解決も何にもない。実は問題を設定すると言うことは問題を解くこと以上に重要な事なのである。

例えば数学を例に挙げると、今から百年ほど前に、ポアンカレ予想と言う問題が設定された。設定者は名の通りポアンカレと言う数学者である。ポアンカレ予想は約百年後の21世紀初め、ロシアのペレルマン博士によって解決された。ペレルマン博士の業績はもちろん偉大なものであるが、現在でも「ペレルマンの定理」と言われることは少なく「ポアンカレ予想」と呼ばれている。これはやはり問題を設定したポアンカレの業績が大きく評価されていることの表れだと考えられる。

研究とはまず問題を設定するところから始まる。問題を与えられて、「はい、解きなさい」と言われるのは学生までだ。もちろん世の中には未解決問題がたくさんあり、それらの問題に取り組むのも一つの手だ。しかし大問題を解く過程では、様々な問題を見つけることが要求される。極論を言えば、研究とは問題を見つける作業だと言える。

良い問題を見つけるためには、ある程度センスがいる。与えられた難しい問題を解く才能と、良い問題を見つける才能は、重なるところはあるが別物だと言える。だから難しい入試問題が解ける人が必ず優秀な研究者になれるとは限らない。もちろん、研究者レベルでなくても身の回りには様々な問題が横たわっている。良い問題を見つけるセンスを身に付けるためには、そのような身の回りの小さな問題を発見するところから始まるのかもしれない。

効率化を目指すべきか?

僕はかなり効率の悪い人間だ。とにかく時間の使い方が下手だと自分では思っている。そこで何とかして時間を上手く使い、効率化を進めて行かなければならないと強く感じている。

物理や数学と言う学問は思考の学問だ。どれだけ時間を使い深く思考するかということにかかっている。だからそこから思考の時間を省くことは自殺行為である。思考には湯水のごとく時間をつぎ込まなければならない。しかし人間の持っている時間は有限である。「この問題に200年かけて取り組もう」と思う人はいない。なので普段の時間の使い方から筋トレの時間まで、できうる限り時間を効率化していかなければならない。

しかし今僕の置かれている環境では全てを効率化することは難しい。もちろん時間の効率化を進める余地は大きくある。だから効率化できるところは徹底的に効率化を図らなければならない。そして現在どうしても効率化できない所は、自分の道を切り開いて効率化できる環境を作らなければならない。それしか方法はない。

僕は超ロングスリーパーであるので、睡眠時間を削ることは難しい。それでも過度に睡眠をとる必要はない。そこにも効率化をする余地はある。時間の効率化は、自分の意識の持ちようにかかっている。油断するとすぐに時間は過ぎて行く。今年もあと少しであるが、来年から取り組もうと言うことではなく、今すぐに始めなければならない習慣であると強く思っている。今できなければ永遠にできない。あとは自分の意志だけである。

もう安倍政権を支持することはできない。

僕はこれまで何度も述べてきたように、自民党・石破茂氏を一貫して支持してきた。そして現政権は自民党安倍政権であるが、これまでいろいろと不満を抱えつつも安倍政権を支持してきた。しかし今、もう安倍政権を支持することに限界を感じ、安倍政権を支持することはできないと判断した。

ではなぜ安倍政権を支持することができなくなったのか?それは今までの様々な問題の蓄積からであるが、最後のとどめとなったのが現在問題になっている「桜を見る会」問題だ。しかし桜を見る会自体は僕はそんなに深刻には考えてはいなかった。地元の有権者を招くようなことは当たり前の話としてあると想像できるし、参加者の会費に関しても確かに白ではない。しかし僕はそんなことだけで安倍政権を不支持にしたりはしない。問題はその後である。安倍首相、そして安倍政権に関わる周辺の政治家と官僚たちの事後対応が圧倒的に問題だ。完全なる隠蔽主義と都合の良いいい加減な解釈。そして周りの政治家や官僚は安倍首相に対してノーと言えず、完全なるイエスマンになっている。はっきり言って、このような状況は国民にとって害悪でしかない。国民の自由と安全までが危機にさらされていると言ってよい。

これまで安倍首相は様々な成果を挙げてきた。特に外交に関しては圧倒的な力を発揮し、それに長期政権のメリットも加わり、日本の外交・防衛に大きな貢献をしてきたと言える。現在日韓関係がもつれ、韓国にとって安倍首相は大きな脅威であろう。しかし今の状況は日本国民にとっても安倍首相は脅威であるように思えてならない。日本国民の様々な自由が奪われようとしている。中国ほどではないが、国のためとなれば国民の自由も束縛されるのが当たり前と言う風潮になりつつある。数理物理研究者としては、学問の自由が大きく侵されようとしていることが許せない。もうあらゆることが、首相多選の害悪にさらされている。やはり首相任期2期6年と言う制限は大きな役割を果たしていたと言える。3期9年は独裁の域に入りつつある。

僕個人の希望としては、次の政権に石破氏が就いてほしいと強く願っている。しかしそうなったとしても、3期9年は良いとは思えない。やはり首相任期は2期6年に戻すべきである。現安倍政権があまりに強くなりすぎて、その強さだけが目立ってしまっている。そしてデメリットがその大きな強さによってもみ消されている。今自民党内で安倍首相にノーを言えるのは石破氏しかいない。現在、石破氏の立場は非常に微妙なものになっているが、石破氏が最後の砦になってせめてもの政権チェック機能をはたしてほしいと強く願う。

成功することだけが目的じゃない。

物事に取り組む時、多くの人は、いや、全ての人は成功することが目的で、成功するために努力しているのかもしれない。それはいたって当然のことであり、成功が目的じゃないと言うのなら何が目的なのか?と皆突っ込むであろう。僕だって例外ではない。成功することは大きな目的であり、成功するために努力をしようと日々精進している。

しかし、成功は大きな目標であっても、唯一の目標ではないと僕は思っている。人間の意志は単純には割り切れない。人間とは地球上で最も複雑な生物であり、複雑極まりない脳を持っている。そしてそのような複雑極まりない脳は、人間の思考・意志に多様性をもたらしている。そして人間の価値感も非常に多様である。ある人はお金こそが全てだと言うかもしれない。もちろん、お金に価値を置くことは悪いことではない。問題はお金“だけ” にしか価値を見出せないことである。お金の価値はほぼ全ての人間に理解できる。千円より一万円の方が価値があることは、数字の大小関係が分かれば瞬時に判断できる。すなわち小学一年レベルの算数ができれば理解できることなのである。大事なのは多様な価値観を持つ事、すなわち複数の物差しを持つ事、そして時には物差しでは測れない物事の価値判断をすることが大事なのである。

人はなぜ成功しようとするのか?それは人間社会で認められるためであったり、お金を得るためだったりする訳である。しかしそれは、他人からの承認欲求と言う意味合いが強い。もちろんそれはそれでいいのである。しかし、自己の中で意志を高め、物事を追究していくと言う欲求もあってよい。他人から遮断された領域で、自分をどこまで高めることができるか?それは何かに成功すると言うことと強く結びついているが、成功そのものが目的ではないように思える。すなわち、成功することは自己を高めるための“手段”でしかないのだ。すなわち、成功と言う目的のさらに高い所に位置する。僕の場合、そのような自己を高めるための領域が、数学や理論物理(数理物理)なのである。

人間の生き方考え方は、大きく二種類に分かれるのではないだろうか。即物的な生き方と徹底的に思考して生きる生き方に。僕は物事を徹底的に考えて生きて行きたいと思っている。その極致が数学と物理にあると考えている。とは言え、そんな難しいことを言わなくても、単純に面白いからやっているだけとも言えるのだが。人間の眼には三次元の空間しか見えない。それに時間一次元を加えた四次元時空しか感じることしかできない。そこまでなら非常に即物的である。しかし数学者は、5次元や6次元、さらには無限次元まで自由に操ってしまう。そこに人間の本質があると僕は考えている。4次元までしか見えない人と、5次元以上の次元を操れる人。そこに徹底的に思考を行えるという人間の人間らしさが表れている。

最後に。無限の世界、無限次元は非常に面白いぞ!無限に興味を持ったら数学をやればいい。

集団の力、個の力。

日本人は何かと「力を合わせて」と言う言葉が好きだ。皆で力を合わせることが美徳のようにも捉えられている。確かに力を合わせて何かに取り組むのはそれはそれで良い。しかしその反面、一人で何かに取り組んでいる人に対して冷たい目線を感じないこともない。数学や理論物理のような理論的学問は、基本的には個人プレーだと言ってよい。もちろん共同研究によってグループで取り組むこともある。しかし数学や理論物理のこれまでの重要な結果、ブレークスルーとなるような理論はほとんど個人で成し遂げられているように感じる。

日本におけるグループ主義に偏重した風土は何をもたらすのか?それは協調性によってグループでしかできないことを成し遂げることを可能にする。例えば、生物学などの実験科学ではチームプレーが必須である。しかし人数が集まれば何でも良い結果が出せるかと言うとそうではない。むしろ人数が集まることによって質が低下することもよくある。対象によっては、個の圧倒的な力が必要な事もある。そのような事に対しては、協調性を押し付けることはむしろ害悪でしかない。

協調性がないと言うことは、日本では全てにおいてネガティブに捉えられるが、僕はむしろ協調性を無視することも物事によっては重要であると考えている。協調性を求めると言うことは、個の自由を束縛すると言うことである。しかし数学や理論物理においては、研究者の個の自由は圧倒的に重要である。個の自由(それはわがままと言われることも多いが)は思考の自由度をもたらす。思考の自由無くして創造的な結果を出すことはできない。

協調性は時には横並び主義をもたらす。これは言い換えると、「出る杭を打つ」と言い換えることもできる。並んでいる人には優しいが、飛び抜けようとする人の足を引っ張るという側面もある。そのような日本の環境の中で生き抜こうと思えば、目立たぬように並んで過ごすか、圧倒的に出る杭にならなければならない。圧倒的に出てしまえば、もう打つことも不可能である。圧倒的な存在、すなわち野球で言うとイチローのような、あるいは研究者で言うと山中伸弥教授のような存在にならなければならない。どれだけの人にそのような覚悟があるだろうか?そこを目指している人にとっては、「良くできる」と言うレベルは死と同じである。イチローや山中伸弥教授をテレビや本で見ることはあるが、そのようなレベルの人間を僕はこの目で見たことがない。それは僕の人脈のなさから来るものかもしれないが、見たことがなければ自分がそのような存在になればいいと考えられる身軽さも必用だと僕は感じている。

一般科学と特殊科学。

科学にそのような分類があるのかどうかは分からないが、僕は科学を一般科学と特殊科学に分類している。一般科学とは物理学のことで、そこから化学→地学→生物学の順に特殊性が増す。すなわち生物学は特殊科学の極致と言えるわけで、生物学とはその特殊性を解明する学問だと言える。それに対して物理学はその一般性を解明する学問だと言える。

では、生物学の特殊性は何を意味するのか?それは(もしかしたら)生物学が宇宙の中でも地球上でしか成り立たたないサイエンスかもしれないということである。つまり知的生物(宇宙人)は、宇宙の中でも地球上(つまり地球人)しかいない可能性があると言うことである。生物学が地球上を対象とした学問であるのに対して、物理学は宇宙のどこでも成り立つ普遍性がある。

現在、多くの科学者が地球外知的生物、つまり宇宙人を真剣に探索している。それはそれで良いが、そのような知的生物が誕生する条件として、地球と同じ気温であり、地球のように水が存在することが条件であると多くの科学者が述べている。しかし僕は、このような条件に固執するのはあまりにも視野が狭すぎるのではと常々思っている。地球外知的生物が宇宙のどこにでも存在するという普遍性を前提にしている割には、地球と同じような環境でないと存在しないと言う特殊性を前提にしている。僕は、知的生物ではない、そもそも生物ではない全く違う形態のものが存在するのではと考えている。地球に存在する生物はそのような様々ある形態の一形態に過ぎないと言う訳である。地球上の生物は極めて特殊である。特殊であるからには、違う形の特殊性もあっていいのではないだろうか。もちろん、原始生物レベルの形態で一致することはあり得るが、高等生物レベルで一致することはほぼあり得ないのではないか。

話は変わるが、仮に知的生物らしきものがいるとしてその“知的”と言う意味をどう定義するか?それは数学と物理学を理解していることだとすべきである。その理由は、数学と物理学が宇宙のどこでも成り立つ科学(一般性のある知的学問)であるからである。知的生物がいるとしたら、何万何十万という星に存在するはずである。それか全くいないかのどちらかである。宇宙人がいないという考えをする人は視野が狭いと思われているが、もしかしたら宇宙人がいると考える科学者の方が圧倒的に視野が狭いのかもしれない。そもそも科学者が宇宙人がいると言う根拠の方が全く軽薄なものと思えてならない。少なくとも、地球上の生物とは全く形態の違うものが存在することを想定する必要があるのではないだろうか。

人間の感覚って、意外と当てにならない。

普段の行動を論理的に考えるか、感覚的に捉えるか、人によってその配分は様々であると思うが、普段の生活上のことや人間付き合いをあまりにも理詰めで考えると逆に上手くいかないこともある。問題はそこに心がこもっているか、と言うことである。感覚的に捉えつつも要所要所で論理的に判断するのが良いのではないかと僕は考えている。

しかしそれが数学のこととなると話は別だ。数学は100%論理的でなければならない。もちろん、理論の概要や方向性を感覚的に捉えることは不可欠であるが、それを基に理論を構築するときにはそれが100%論理的であることが求められる。ではなぜ数学においては100%の論理が必用なのか?

もしかしたら10%くらい感覚で記述しても良いのではと思うかもしれない。しかし数学においてはそうは言えないのである。例えば、99%論理で構築しているから1%くらいは感覚で記述しても良いとするとどうなるのか?数学はその1%から全てが崩壊するのである。あるいは、その感覚で記述した1%が実は全く見当違いであることもよくある。感覚的に当たり前であるように思えることが実は当たり前ではなく、そこに想像もしないような真実・真理が潜んでいることがよくあるのである。だから数学者は時には重箱の隅を突くようなことにこだわることがよくある。それは重箱の隅に大きな真理が潜んでいる可能性があるからである。そして理論の流れに論理でないところがあれば、それはまだ数学としては完成していないことになる。

数学を突き詰めていくと、人間の感覚と言うものが全く当てにならないと感じることがよくある。もちろん数学においても“数学的”感覚や意志を基に進めることはよくある。しかしそこから導き出される結果は100%論理的でなければならない。世の中には論理に真実や真理が潜んでいることがよくあるのである。そして数学においては、そのような論理こそが本質なのである。