月別アーカイブ: 10月 2019

自由がなぜ大事なのか?

日本を含む西側民主主義国家を「自由主義陣営」と呼ぶことがある。そして西側陣営に住む民衆は、自由と言うことを最も大事な事と捉えている。しかし残念なことに全員ではない。西側陣営に住んでいても、自由の重要性を認識していない人もいる。便利になれば、お金があれば、自由はそんなに大した問題ではない。そう考えている人も少なくないように思える。

自由には二つあると僕は考えている。一つは行動の自由。もう一つは精神の自由だ。行動の自由は分かりやすい。どこにでも自由に行けて、好きな事ができる。もちろん“何でも”と言う訳ではなく、人に危害を加えることは絶対にやってはいけないし、その辺は我々の一般常識に照らし合わせれば分かる。一般常識に照らし合わせた上でやってもいい事、と言う意味である。

しかし問題は、精神の自由である。これがなかなか理解されない。しかし僕からすると、これは行動の自由以上に重要な事である。精神の自由がなければ、独創的・創造的な営みはできない。しかし厄介なのは、精神の自由がなくても、何不自由なく生活ができることだ。少なくとも精神の自由の重要性を理解していない人たちはそう思っている。しかし人生を極め何かを生み出そうとしている人にとっては、精神の自由は死活問題である。そして西側陣営の言う自由とは、半分以上は精神の自由である。

今、香港の人達が立ち上がっている。彼ら彼女らは自由を死守しようとしているのだ。中国は皆が知るように一国二制度を取り入れている。そして香港はイギリス時代からの流れで民主的制度を取り入れている。しかし今それが壊れようとしている。この問題を考えるとき、中国本土の状態も同時に考えなければならない。本土側は共産主義国家体制である。そして高度な監視社会である。従って、市民の行動はほぼ全て監視されている。しかし中国市民からはあまり不満の声は聞かれない。それは彼ら彼女らが、自由よりも便利さ、そしてお金を受け入れているからだ。現在の中国はかなり便利だ。スマホ一台あれば何でもできる。高度なキャッシュレス社会なので、スマホがあれば何でも買える。自由よりも便利さやお金が勝ってしまうのか?このことを我々は笑ってはいけない。我々も便利さとお金を目の前にすれば、自由を放棄してしまうかもしれないからだ。特に精神の自由の重要性を理解していない人たちは、その可能性が高い。しかし一回自由を放棄してしまうと、それを取り戻すのは至難の業だ。それを知っているからこそ、香港市民は立ち上がっているのだ。

お金によって手に入れられる自由がある。確かにお金がなければそれらの自由は手に入れられない。しかし頑張ってお金を手に入れることができれば、そのような自由を手に入れることができる。このようなお金で手に入れられる自由が現在ないことはかなりつらいことであるが、それは同時に現在取り組んでいることで成功して手に入れるぞと言う原動力になる。しかし一回失くした精神の自由を取り返すことはそう簡単ではない。現在は高度な精神の自由を維持しつつ、頑張ってお金で手に入れられる自由も手に入れようと常に前向きに進んで行こうと強く思う。

旧民主党の「八ッ場ダム」に対する対応。

先日の台風被害に対して、群馬県の八ッ場ダムがかなりの防災効果を発揮したことが現在問題になっている。報道によると、八ッ場ダムは台風による豪雨で一日に50メートル以上もかさを上げ、下流域を水害の危機から守ったと言う。八ッ場ダムと言えば、旧民主党政権時代の事業仕分けで八ッ場ダム建設中止が目玉政策として取り上げられたことが記憶に残っている人も多いだろう。僕自身も八ッ場ダムと言えば、どうしてもこの民主党政権の事業仕分けを思い出してしまう。

今回の台風被害に対して八ッ場ダムがどれだけ防災効果を発揮したのかを推測することは非常に難しい。しかしかなりの防災効果を発揮したことは想像に難くない。しかしその一つのことを持って八ッ場ダム建設が100%正しかったのかと言えば、それは早計である。第一に、「もし八ッ場ダムがなかったら」と言うことは、現実にないことなので正確に測ることはできない。そして何しろ八ッ場ダムの建設費はかなりの巨額である。確かに人の命はお金に代えられないものであり、八ッ場ダムの建設費というお金によって多数の住民の命が救えたのならば、それは安いものであるという考えも自然と出てくる。

しかし、八ッ場ダムの数千億円という建設費を他に回せば(例えば医療費や、他の防災設備に)、さらに多くの人を助けることができた可能性もある。もちろん、人の命を人数によって比較することは適切ではないが、ただ防災効果を考える時、被害人数を比較することは一つの判断材料として重要である。物事は総合的に考えなければならない。今回の八ッ場ダムの防災効果を考えるとき、ただ単に今回の台風被害についてばかり考えるのではなく、建設費からその他の国家事業まで、様々な要素を総合的に比較しなければならない。

今回の台風で八ッ場ダムが防災効果を発揮したことによって、旧民主党議員たちは苦し紛れの弁解に終始している。“防災効果は総合的に考えるべきだ”と一言言えばいいものを、何だか責任を逃れるための弁解に終始している。このような事では、旧民主党系に対する信用はさらに低くなるばかりなのに、自分たちで自分たちの首を絞めてばかりいる。今回の八ッ場ダムについての評価を正確に行うためには、かなりの頭脳を集結しなければできないと僕は考えている。そのような頭脳とは、防災の専門家からダムの建設に携わる建設家、そしてそれらを実行する政治家たちだ。しかしどうやら、旧民主党の政治家の中には、そのような有能な政治家はほとんどいないみたいだ。

僕は今の自民一強体制に非常に危機感を感じている。そのような現状の中で、野党の存在意義は非常に強いはずだ。しかし肝心の野党の当事者たちが、次から次へと自分の首を絞めようとしている。特に旧民主党勢力に対しては、失望と言うより「大丈夫か?」と心配の念を持ってしまう。今回の台風災害に関して、そのような事を強く感じてしまう。

生きるために精一杯のことをしている人を、僕は尊敬する。

一昨日、深夜の大阪・天王寺で数人のホームレスを見た。天王寺はあべのハルカスなどができたりして最近はかなりにぎわっているが、西成と近いことあってかこのような人をよく見かける。先日の台風でホームレスの人たちが避難所で立ち入り拒否されたというニュースがあったが、このような出来事は一部の人間(あるいはお役所の人達)が、人助けをある意味流れ作業業務としてしか見なしていないことの表れだとも捉えられ、果たして近年日本人がよく言う「絆」という言葉が本物か?と疑問に感じる。

天王寺で見たホームレスの人たちは、僕には非常にたくましく見えた。ホームレスと言っても決して何もしていないわけではなく、空き缶を集めて回り、お金を稼ごうとしている。確かに恵まれた環境ではないが、何とか生きようとして自分のできる限りのことを精一杯しているのである。麻生財閥の御曹司、麻生太郎副総理に一目でも見てもらいたいものである。

自分は精一杯生きているか?と問われれば、正直そうとは言い切れない自分がいる。もちろん、精一杯生きたいとは強く思っているが、なかなかそれを実行できるところまでは行っていない。確かに現在は人生の中でもかなり厳しい時期だとは思っている。しかしその苦しい時期を本気で切り抜けようとしているか?なかなか体がついていかないのである。

天王寺のホームレスの人は、僕には本気で生きているように見えた。確かにお金は十分に持っていないのかもしれない。世の中では、お金を稼ぐ才能だけが重視される傾向がある。ホリエモンは常々、お金のない人を「終わっている」と馬鹿にしている。確かにお金は非常に重要である。しかし、お金は人間の唯一の判断基準ではない。様々な物差しで人間を評価すべきである。天王寺のホームレスも、精一杯生きている。どれだけ本気で生きているかという物差しで測れば、決して低く評価されるべきではないはずだ。

確かに、社会に溶け込むのが苦手な人は一定数いる。しかしそのような一つの理由だけで、社会から除外され、厳しい環境に放り込むのは正しいのか?僕はホームレスも社会を構成する一員だと思っている。関東の避難所のように、ホームレスを除外し、一定の人だけを守ろうとする、そのような社会では自分さえも守れなくなるのではないかと思う。なぜなら、自分もいつ危機的状況に立たされるかわからないのだから。現在の状況と言うのは、100%保証されたものではない。逆に言うと、現在不遇の立場に立たされた人も、再挑戦可能でなければならない。「人」か?「人間」か?生物学的には同じ存在であっても、どのように捉えるかによって社会の在り方、そして自分の存在理由は大きく変わるものである。

合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル化学賞・吉野彰博士は何を成し遂げたのか?

9日、ノーベル化学賞に旭化成名誉フェローの吉野彰博士が受賞されるという発表があった。日本人の受賞は喜ばしいことだが、吉野博士は何を成し遂げ受賞したのか?僕は専門外なので知らなかったが、吉野博士の論文一覧を調べ、その中に日本語で書かれた総合論文があったので、さっそくプリントアウトして目を通した。(「リチウムイオン二次電池の開発と最近の技術動向」日本化学会誌 (2000) No.8, 523-534 吉野彰, 大塚健司, 中島孝之, 小山章, 中條聡)

10ページほどの論文で、手っ取り早く調べるのにはちょうど良い。その論文によると、吉野博士たちは1980代から1990年代にかけて画期的なリチウムイオンバッテリーを開発したということである。では何が画期的であったのか?そこで良いバッテリーとしてのポイントが二つある。それは効率的であること、そして安定性(安全性)が高いこと。簡単に言えば、バッテリー開発とはこれらの追究である。そこで、これらを成し遂げるために、吉野博士たちは画期的な「負電極素材」を発見した。それが「負電極炭素素材」である。負電極を金属ではなく炭素素材を使ったことが画期的であったらしい。これによってブレークスルーを突き破った。

吉野博士らの負電極炭素素材の理論的基盤は、量子化学、特にフロンティア電子理論にあるらしい。フロンティア電子理論と言えば、日本人ならハッと気づくと思う。そう、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論である。ちなみに、2000年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹博士の研究も関係しているらしい。

とは言え、吉野博士の研究の神髄は、理論ではなく実験にある。理論を言うのは易いが、それを実験で実現するのは難い。理論屋の僕にとって、吉野博士のノーベル賞受賞は少しだけ実験科学へ目を向けさせてくれた。今回、吉野博士の論文を読み、実験の見識と面白さを分けさせてくれることになった。

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。