月別アーカイブ: 10月 2019

契約書の形骸化。

スマホやパソコンで様々なサービスを受けるとき、初めにサービスの契約内容が示され同意を求められる。しかしそのような契約内容を一度でも読んだことがあるだろうか?僕自身もほとんど読んだことはないし、多くの人は初めの一文字さえも目を通さないのではないだろうか?もちろん契約書に目を通さないのには理由がある。その一番大きな理由は、契約書の文字が非常に小さく、しかも非常に長いからではないだろうか。実際、ほとんどの契約書は見るに堪えないような文章になっている。そのように、契約書と言うものが現実的には形骸化している状態だ。僕はこのことは非常に大きな問題であると考えている。

ほとんどの契約書は、サービスを利用する人のことを考えていない。ではなぜそのような読む人のことを全く考えていない契約書が氾濫しているのか?それはサービスを提供する側の一種の防御、悪く言えば保身のためである。しかし責任はサービスの提供側だけにあるわけではない。サービスを受ける側も、何の疑問もなくスルーして同意ボタンをポチる。そこで多くの人が、契約書のありように疑問を持てば、もう少しマシな契約書、マシな制度ができるはずだ。

国と国との条約であれば、政府や外交官は契約書の一言一句を漏らさずチェックするであろう。しかし普段サービスを受けるのは、法の知識のほとんどない一般市民だ。そのような市民相手に、条約レベルの細かく長い契約書を提示するのはあまりにも不親切すぎる。そして実際は、99%の人がその契約書の内容を全く理解してない。これは契約書のあり方として明らかに問題である。しかしこのような状況を変えるためには、国の政策レベルで変える必要がある。法が国会で成立されるからには、政府が動かなければ変えることができない。

それらの解決策として、このようなことはどうだろうか?例えば従来の契約書の形式は維持しつつも、利用者にはそれに基づいた簡約的な契約書を示す。このような二段階的な契約書は完全ではないにしろ、現状よりはるかに意味があり効果的だと思う。とにかく、現状の契約形式は分かりやすく効果的なものに変えるべきだと僕は思っている。もちろん、すぐに解決できる問題ではないが、政府や官僚が時間をかけてでも検討すべき課題であると僕は考えている。

最近、他分野に取り組んでいる理由。

僕は最近、専門の数理物理を軸としながらも、他分野にも積極的に取り組んでいる。例えば分子生物学や量子化学、数理脳科学などだ。さらに経済学、法学などにも取り組もうと考えている。なぜそのような他分野に取り組もうとしているのかと言えば、単にやみくもに手あたり次第手を付けているわけではない。僕はどの分野に関しても、理論的な範囲で研究結果を出せるくらい、あるいはそれ以上の結果を出そうと取り組んでいる。そして例えば、分子生物学や量子化学で言えば、それは基礎物理と階層をなして繋がっているわけであって、自然科学を総合的に理解しようと思えば、物理を基礎としながらも、化学や分子生物学を理解することは避けて通れない道だ。

そして人間が生きるうえでは、哲学的な視点を持つことは必要だ。哲学とは人間が生きるうえで道しるべとなる、言わば「指針」である。僕は少し前まで哲学に対して興味を持って取り組んでいたが、最近は学問的な哲学に対して興味は薄れた。その理由は、ドイツ哲学を中心とする学問的哲学がほとんど机上の空論、一言で言えば言葉遊びでしかないと感じたからだ。そのことが決定的となったのが、ショーペンハウアーの著書だ。もちろん、今でも哲学は非常に重要であると思っている。しかしそれは、学問的な哲学とは全く違うものである。

物理学や化学、生物学などのサイエンスは、自分たちが生きているこの宇宙の本質を知らせてくれる。そして経済学や法学は、自分たちが生きているこの社会の本質と精神を知らせてくれる。人間は宇宙に存在しているのであり、同時に社会に存在しているのである。だからその両方を知ることが必用だ。そして現在それに付け加えるのなら、コンピューターサイエンスを理解することも必要だ。AIと言うものは、利用するものではなく理解するものである。例えば、AIを理解するためにディープラーンニングを理解することが必用だ。決してコンピューターの奴隷になってはいけない。

改めて、なぜ他分野に取り組んでいるのかと言えば、理由はいくつかある。以上に書いたようなことが大きな理由だが、それと同時に総合的な視点を身に付けると言うことも重要だ。総合的視点は一夜で身につくものではない。しかしあらゆる分野を有機的に(網羅的ではなく)取り組んでいけば、必ずそれらの関連性が見えてき、そして総合的視点が身につくはずだ。専門の一分野を狭い範囲の中で結果を出すことばかり考えていれば、それは全く井の中の蛙である。そのような事では、自然の本質、科学の本質は全く見えてこない。生きる意味は何か?と問われたとき、その理由は人それぞれ様々であろう。そして一つではないはずだ。「本質を理解し見抜く」と言うことは、僕が生きる理由のうち非常に(最も?)大きな理由なのである。

体系的に構築することの大切さ。

物事を体系的に構築していくか、それとも単発的にこなしていくかによって、その後の発展が大きく変わっていく。結論から言うと、継続性を付けるためには体系的に構築していくことが不可欠だ。それは数学の歴史を見ればよく分かる。

江戸時代の日本の数学、すなわち和算は非常に高度なものであり、問題によっては西洋の数学をしのぐものであった。しかし現代の数学において、和算の系譜は途絶えていると言ってよい。現在世界で行われている数学のほとんどは、起源をたどると西洋の数学にたどり着く。ではなぜ日本の和算が途絶え、西洋の数学が脈々と受け継がれているのか?それは体系的に構築しているかどうかと言うことに限る。

和算は一言で言えば、単発の問題の集まりである。もちろんそう言い切れないものもあるが、和算の主流は高度な難問を単発的に解いていくというものだ。それに対して、西洋の数学はほぼ一貫して体系的に構築していくことを主眼に置いている。西洋の数学は理論であり、日本の和算は解法だと言える。

大学受験の数学に慣れた学生が、大学での数学に戸惑うことが多いという話はよく聞く。それは受験数学が単発問題の解法であり、大学数学が体系的な理論構築であるからだと言える。確かに問題が解けた時はうれしい。しかし問題はその後である。小さな問題でも、それを解いた後どのようにつなげるか?そのような事の繰り返しが体系的な構築につながるのである。

もし物事に継続性を付けたいのなら、体系的に構築するという視点が必用である。そして大問題を解く場合にも、そのための足場として理論体系を構築する必要がある。「継続は力なり」と言う言葉があるが、その前に「体系性は継続なり」と言う言葉を付け加えなければならない。

宇宙は数学モデルで記述できる。

宇宙の法則は数学モデルで記述される。宇宙の法則とは、物理学のことである。物理学は一貫して数学によって記述されており、数学的でない物理法則などは全く存在しないし、仮に存在するとすればそれはまだ完全ではなく、対処療法的なものであると考えられる。宇宙の原理、すなわち物理法則には謎が多いが、一番の謎は「なぜ宇宙は数学で記述されるのか?」と言うことであろう。

物理学を構築するとき、まずは「物理学は数学で記述される」と言うことが前提になっている。この前提が覆されれば物理は学問として成り立たなくなる。宇宙とは、物理とは、数学の具現化なのである。なので物理を行おうとすれば、まずは数学をマスターしなければならない。

1600年代にニュートンによって物理に数学の波がもたらされたわけであるが、現代ではそのような波は科学全体に押し寄せている。例えば化学や生物学であり、サイエンスではないが経済学でも高度に数学化された理論が用いられている。その中でも僕が最近面白いと感じているのは、生物学、特に脳科学の分野である。脳科学の中には数理脳科学と言う分野がある。もちろんその中でも様々なアプローチがあるが、特に日本の甘利俊一博士が創設した情報幾何学を駆使した脳回路のネットワーク理論が有名である。脳とはまだまだ分からないことだらけで、その原因は人間の脳を取り出して研究することができないことにある。しかし最近はMRIなどで遠隔的に脳内の活動を観測できるようになり、これらの分野の研究が飛躍的に進んでいるようである。

とは言え、生物学の数学化は記述的であり、物理学の数学化は根源的かつ本質的である。物理学の最終理論、すなわち「Theory of Everything (TOE)」は完全に数学的だと考えられる。TOEが完成すれば、なぜ物理は数学で記述できるのかと言うことが明らかになるかもしれない。宇宙の、物理の本質は数学のどこにあるのか?それを解明するためには、自然を極限まで数学的に追究していかなければならない。

解くことと、構築すること。

数学の問題は「解く」と言うが、理論は「構築する」と言う。では数学者は解くために打ち込んでいるのか?構築するために打ち込んでいるのか?

問題を解くことと理論を構築することは表裏一体である。問題を解くためには、理論を構築しなければならない。受験問題なら解くと言う意識だけでもできるが、未解決問題を解くためには、時には何年もかけて理論を構築して、それを基に問題を解決することになる。

21世紀初め、ペレルマン博士がポアンカレ予想を解いた。問題を‘‘解いた’’わけだが、ペレルマンの解決の道筋は「ペレルマン理論」とも呼ばれる。ペレルマンはリッチフロー理論を基に独自の理論を構築し、実に技巧的に問題を解決している。

解くことは目標であり、理論の構築はある意味手段だと言える。しかし理論の構築は目標でもある。しかし、目標か?手段か?と言うのははっきり言ってどうでもいい。最終的には理論を構築し問題を解決することによって、自分の、そして人類の知と思想のレベルを上げることが重要なのである。従って、自分と人類の底上げにならない問題解決はあまり意味がない。しかし、そのようなほとんど意味のない問題を解いて実績を作っている数学者が実に多い。確かにそうでもしないとポストにありつけないのだろう。でも僕は、そうではない自分自身の目的意識をもって理論を構築していきたいと考えている。

あえて実用性から遠い所を行く。

近年、社会の価値観が実用一辺倒になって来ているように思える。もちろん生きていくためにはお金を稼がないといけないし、役に立つことを発明することによって世の中は便利になって行く。そのためには、実用的な事を進めて行くことは絶対に必要であるし、実用性と言うものは大きな価値を持つ。

では世の中の人すべてが実用性を追求すれば良いのか?と問われれば、僕は違うと考えている。実用性を向上させて便利な社会を築いていく人が9割必要ならば、あえて実用性から離れた所を行く人が1割必要だと思っている。例えばプロスポーツなどは実用性とは遠い位置にあるし、科学においても実用性とは関係ないところに位置する基礎的学問が存在する。しかし人類の長いスパンで考えた時、僕は今すぐ役に立つ実用性の高い取り組みよりも、あえて実用性から遠い所にある基礎的取り組みの方が圧倒的に重要な役割を担っていると僕は考えている。

その理由はいくつかある。一つは、今役に立たなくても、将来大きく役に立つ可能性が高いということだ。二つ目は、実用性がなくても価値のあると思われることは、本質的な価値があると考えられることだ。本質的な価値とは、人類の思想や本能的知的行動、そして人類の本質的なレベルに関することだ。この二つ目の価値は、なかなか万人には理解され難い。しかし、基礎的学問の本質的価値とはそこに集約されているのである。そうでなければ、だれも純粋数学などやらないはずだ。しかしこのような事を理解してもらうために、一つ目の理由、すなわち将来役に立つかもしれないという理由を持ち出さなければならないことは、非常に悲しいことだ。

実用的な事は、実用性のないことに支えられている。僕はそう考えている。そして世の中の9割の人が、いや、99%の人が役に立つことに取り組んでいるからこそ、僕は残りの1%になってあえて実用性から遠い所を進もうと思う。実用性はないが本質的な価値があること、そのような事は万人には理解されないが、一人でも多くの人が理解し、人類の基礎の底上げをより良い環境で取り組めて行ける世の中になって欲しいと強く願うものである。

守りのためのシミュレーションは止める。

物事を想定してシミュレーションをすることはよくある。個人的にも将来の状況を想定してシミュレーションをすることはよくあるし、ビジネスにおいてはあらゆることを想定して対応するためにシミュレーションをするとこは必須だ。シミュレーションをすることによってリスクを低減することができる。そして企業を、あるいは自分を守ることができる。

もちろん僕だってシミュレーションすることを否定するわけではないし、日常においてもシミュレーションすることはよくある。しかしその一方、シミュレーションばかりしていれば、リスク対策一辺倒になって防御一辺倒になってしまうことがある。もちろん、攻めのためのシミュレーションもある。もしシミュレーションをするのなら、守りのためではなく攻めのためのシミュレーションをしなくてはならないと強く思っている。

とは言え、攻めと防御は全く別々のことではなく表裏一体である。攻めるために守らなければならない時もあるし、攻めは最大の防御とも言われる。僕自身最近常々思っているのは、「自分を守らない」と言うことだ。何も自分を守らないからと言って、自分が自滅するわけではない。むしろ攻めて行くことによってそれが守りにもなると考えている。しかし自分を守ることに意識が言っているせいか、守りのためのシミュレーションをすることが最近多かったように感じる。そのような守りのためのシミュレーションを止めなければならないと最近強く思っている。

これからの人生をどう生きていくか?と言うことを考えた時、僕に残された選択肢は「攻め」しかない。そしてそのような攻めの人生を進めるために、攻めのためのシミュレーションを積極的に行っていこうと思う。もう守りのためのシミュレーションは止めよう。

勉強と学問は違う!

勉強とは総じて面白くないものである。なぜなら、勉強とは大概学校や他人が決めたことをやるからだ。僕は大学に入って以降、勉強をしたという意識はないし、受験生時代もそんなにした意識はない。

しかし、学問には誰よりもたくさん打ち込んできた自負はある。勉強はしていないが、数学や物理は常に真剣に取り組んできた。僕にとって数学や物理は勉強ではなく学問なのである。そして勉強と学問は(少なくとも僕にとっては)全く違うものだと思っている。さらに最近は興味の幅が極度に広がり、生物学、化学、経済学などのうち、理論で出来る範囲(すなわち実験以外)のあらゆることに取り組んでいる。そしてコンピューターにも興味がある。今は学問が面白くてしかたがないのだ。

本来、学問は非常に面白いものである。だから嫌々学問に取り組むなんてことはあり得ない。嫌々やっているのはおそらく勉強であって学問ではない。だから、面白いなと思ったときに学問をすべきだ。それが30代や40代になってからでも良いと思う。あるいは老人になってからでも良い。老人になって義務的に行う生涯学習なんかより、楽しんで取り組む学問の方がよほど意義がある。学問に年齢は関係ないのだ。若い学生も、うかうかしていると学問老人に先を越されてしまうぞ!

どういう原理なんだろう?

今の時代、ほぼ全ての人がスマホを持っていると言っても過言ではない。スマホでなくてもガラケーを持っている。新しいスマホを手に入れた時、どのように思うだろうか?おそらくほとんどの人は、「どのように使うか?」と言うことに全力を尽くすだろう。そして世間では、スマホやパソコンを使いこなせる人が、「最先端機器に強い」と言われることが多い。しかしスマホを使いこなせることとスマホの原理を知ることとは全く別次元の問題だ。

現代社会は便利さを極限まで追求している。「どれだけ便利か?」と言うことが、ビジネスの命だと言える。そのような便利さを享受するためには、原理を知ることは必要ない。しかし物事の本質を知るためには、原理を知ることは不可欠だ。

来年から小学校でもプログラミング教育が始まる。プログラミング教育とは、スマホ・コンピューターがどのように動いているかを理解するための教育だ。もちろん、プログラミングがコンピューターの全てではない。しかしソフトウェアの多くの部分は理解できるだろう。スマホを使いこなすだけならプログラミングなど知る必要はない。しかし原理を知ることによって、単なるユーザーからコンピューターのプロデューサーになれる。つまり与えられる側か、与える側か、と言うことである。

プログラミングだけでなく、数学や物理だってその根本は自然の原理を知ることである。原理を知ることは、物事の本質を掴むことになる。つまり数学や物理を学ぶことは、本質を見抜く目を養うことになる。だから数学者や物理学者は、その他の関係ないように見えるほとんどの事に対して本質を見抜くことができる。もし本質を見抜けない数学者・物理学者がいれば、それらの人は似非である。原理を知るということは、本質を掴むための道のりの原点なのである。

無限大と無限小。

「100と1000とは何が違うか?」と問われれば、明らかに数の大きさ、すなわち量が違うと言うだろう。では「無限大と有限の数は何が違うか?」と言われれば、単に量が違うと言うだけでは済まされない。無限と有限では、量が違うという以前に、質が違うのだ。

数学が無限を扱いだしてから300年以上経つ。その起源は、ニュートンとライプニッツが独立に考案した微分法にまで遡る。ニュートンは物理学の問題を定式化するために微分法を考案し、ライプニッツは純数学的に微分法を考案した。今や無限を扱わない数学は数学とは言えないという状態である。昔ある数学者は、「数学とは無限を扱う学問である」と言ったという。確かに解析学は無限大・無限小を厳密に扱うことを基礎に置いているし、19世紀末にカントールによって考案された集合論は、無限を数えるということを目標に置いている。

ある意味、数学ができるかどうかは、無限を扱えるかどうかだと言える。有限的対象は無限的対象の中に含まれるが、では有限的対象が無限的対象の何%を占領しているかと言えば0%である。すなわち、有限の世界だけしか理解していなければ、それは全く理解していないと言うことなのである。

とは言え数学の中にも、有限にターゲットを絞った分野も数多く存在する。例えば代数学の有限群論や、あるいは幾何学で言えば3次元や4次元などにターゲットを絞った低次元幾何学がある。しかしそのような「有限」と表題を打った分野であっても、それらの分野の構築には無限を扱うテクニックなしでは全く進めることはできない。

無限の世界を知ることは、何も数学者だけに必要な事ではない。一般市民にとっても、無限の世界の一片を知ることはそれぞれの世界観に大きな広がりをもたらし、物事をより論理的に捉えることができるようになる。意外と無限は自分の身近にも存在するのである。例えば自動車メーターに表示される速度を理解するのにも、微分(すなわち無限小)を理解することなしには理解できない。人生を有限の中で終わらせるのか?それとも無限の世界に広げるのか?これは質的に大きな違いがある。そして無限を正確に理解するツールが数学と言うものなのである。

自由がなぜ大事なのか?

日本を含む西側民主主義国家を「自由主義陣営」と呼ぶことがある。そして西側陣営に住む民衆は、自由と言うことを最も大事な事と捉えている。しかし残念なことに全員ではない。西側陣営に住んでいても、自由の重要性を認識していない人もいる。便利になれば、お金があれば、自由はそんなに大した問題ではない。そう考えている人も少なくないように思える。

自由には二つあると僕は考えている。一つは行動の自由。もう一つは精神の自由だ。行動の自由は分かりやすい。どこにでも自由に行けて、好きな事ができる。もちろん“何でも”と言う訳ではなく、人に危害を加えることは絶対にやってはいけないし、その辺は我々の一般常識に照らし合わせれば分かる。一般常識に照らし合わせた上でやってもいい事、と言う意味である。

しかし問題は、精神の自由である。これがなかなか理解されない。しかし僕からすると、これは行動の自由以上に重要な事である。精神の自由がなければ、独創的・創造的な営みはできない。しかし厄介なのは、精神の自由がなくても、何不自由なく生活ができることだ。少なくとも精神の自由の重要性を理解していない人たちはそう思っている。しかし人生を極め何かを生み出そうとしている人にとっては、精神の自由は死活問題である。そして西側陣営の言う自由とは、半分以上は精神の自由である。

今、香港の人達が立ち上がっている。彼ら彼女らは自由を死守しようとしているのだ。中国は皆が知るように一国二制度を取り入れている。そして香港はイギリス時代からの流れで民主的制度を取り入れている。しかし今それが壊れようとしている。この問題を考えるとき、中国本土の状態も同時に考えなければならない。本土側は共産主義国家体制である。そして高度な監視社会である。従って、市民の行動はほぼ全て監視されている。しかし中国市民からはあまり不満の声は聞かれない。それは彼ら彼女らが、自由よりも便利さ、そしてお金を受け入れているからだ。現在の中国はかなり便利だ。スマホ一台あれば何でもできる。高度なキャッシュレス社会なので、スマホがあれば何でも買える。自由よりも便利さやお金が勝ってしまうのか?このことを我々は笑ってはいけない。我々も便利さとお金を目の前にすれば、自由を放棄してしまうかもしれないからだ。特に精神の自由の重要性を理解していない人たちは、その可能性が高い。しかし一回自由を放棄してしまうと、それを取り戻すのは至難の業だ。それを知っているからこそ、香港市民は立ち上がっているのだ。

お金によって手に入れられる自由がある。確かにお金がなければそれらの自由は手に入れられない。しかし頑張ってお金を手に入れることができれば、そのような自由を手に入れることができる。このようなお金で手に入れられる自由が現在ないことはかなりつらいことであるが、それは同時に現在取り組んでいることで成功して手に入れるぞと言う原動力になる。しかし一回失くした精神の自由を取り返すことはそう簡単ではない。現在は高度な精神の自由を維持しつつ、頑張ってお金で手に入れられる自由も手に入れようと常に前向きに進んで行こうと強く思う。

旧民主党の「八ッ場ダム」に対する対応。

先日の台風被害に対して、群馬県の八ッ場ダムがかなりの防災効果を発揮したことが現在問題になっている。報道によると、八ッ場ダムは台風による豪雨で一日に50メートル以上もかさを上げ、下流域を水害の危機から守ったと言う。八ッ場ダムと言えば、旧民主党政権時代の事業仕分けで八ッ場ダム建設中止が目玉政策として取り上げられたことが記憶に残っている人も多いだろう。僕自身も八ッ場ダムと言えば、どうしてもこの民主党政権の事業仕分けを思い出してしまう。

今回の台風被害に対して八ッ場ダムがどれだけ防災効果を発揮したのかを推測することは非常に難しい。しかしかなりの防災効果を発揮したことは想像に難くない。しかしその一つのことを持って八ッ場ダム建設が100%正しかったのかと言えば、それは早計である。第一に、「もし八ッ場ダムがなかったら」と言うことは、現実にないことなので正確に測ることはできない。そして何しろ八ッ場ダムの建設費はかなりの巨額である。確かに人の命はお金に代えられないものであり、八ッ場ダムの建設費というお金によって多数の住民の命が救えたのならば、それは安いものであるという考えも自然と出てくる。

しかし、八ッ場ダムの数千億円という建設費を他に回せば(例えば医療費や、他の防災設備に)、さらに多くの人を助けることができた可能性もある。もちろん、人の命を人数によって比較することは適切ではないが、ただ防災効果を考える時、被害人数を比較することは一つの判断材料として重要である。物事は総合的に考えなければならない。今回の八ッ場ダムの防災効果を考えるとき、ただ単に今回の台風被害についてばかり考えるのではなく、建設費からその他の国家事業まで、様々な要素を総合的に比較しなければならない。

今回の台風で八ッ場ダムが防災効果を発揮したことによって、旧民主党議員たちは苦し紛れの弁解に終始している。“防災効果は総合的に考えるべきだ”と一言言えばいいものを、何だか責任を逃れるための弁解に終始している。このような事では、旧民主党系に対する信用はさらに低くなるばかりなのに、自分たちで自分たちの首を絞めてばかりいる。今回の八ッ場ダムについての評価を正確に行うためには、かなりの頭脳を集結しなければできないと僕は考えている。そのような頭脳とは、防災の専門家からダムの建設に携わる建設家、そしてそれらを実行する政治家たちだ。しかしどうやら、旧民主党の政治家の中には、そのような有能な政治家はほとんどいないみたいだ。

僕は今の自民一強体制に非常に危機感を感じている。そのような現状の中で、野党の存在意義は非常に強いはずだ。しかし肝心の野党の当事者たちが、次から次へと自分の首を絞めようとしている。特に旧民主党勢力に対しては、失望と言うより「大丈夫か?」と心配の念を持ってしまう。今回の台風災害に関して、そのような事を強く感じてしまう。

生きるために精一杯のことをしている人を、僕は尊敬する。

一昨日、深夜の大阪・天王寺で数人のホームレスを見た。天王寺はあべのハルカスなどができたりして最近はかなりにぎわっているが、西成と近いことあってかこのような人をよく見かける。先日の台風でホームレスの人たちが避難所で立ち入り拒否されたというニュースがあったが、このような出来事は一部の人間(あるいはお役所の人達)が、人助けをある意味流れ作業業務としてしか見なしていないことの表れだとも捉えられ、果たして近年日本人がよく言う「絆」という言葉が本物か?と疑問に感じる。

天王寺で見たホームレスの人たちは、僕には非常にたくましく見えた。ホームレスと言っても決して何もしていないわけではなく、空き缶を集めて回り、お金を稼ごうとしている。確かに恵まれた環境ではないが、何とか生きようとして自分のできる限りのことを精一杯しているのである。麻生財閥の御曹司、麻生太郎副総理に一目でも見てもらいたいものである。

自分は精一杯生きているか?と問われれば、正直そうとは言い切れない自分がいる。もちろん、精一杯生きたいとは強く思っているが、なかなかそれを実行できるところまでは行っていない。確かに現在は人生の中でもかなり厳しい時期だとは思っている。しかしその苦しい時期を本気で切り抜けようとしているか?なかなか体がついていかないのである。

天王寺のホームレスの人は、僕には本気で生きているように見えた。確かにお金は十分に持っていないのかもしれない。世の中では、お金を稼ぐ才能だけが重視される傾向がある。ホリエモンは常々、お金のない人を「終わっている」と馬鹿にしている。確かにお金は非常に重要である。しかし、お金は人間の唯一の判断基準ではない。様々な物差しで人間を評価すべきである。天王寺のホームレスも、精一杯生きている。どれだけ本気で生きているかという物差しで測れば、決して低く評価されるべきではないはずだ。

確かに、社会に溶け込むのが苦手な人は一定数いる。しかしそのような一つの理由だけで、社会から除外され、厳しい環境に放り込むのは正しいのか?僕はホームレスも社会を構成する一員だと思っている。関東の避難所のように、ホームレスを除外し、一定の人だけを守ろうとする、そのような社会では自分さえも守れなくなるのではないかと思う。なぜなら、自分もいつ危機的状況に立たされるかわからないのだから。現在の状況と言うのは、100%保証されたものではない。逆に言うと、現在不遇の立場に立たされた人も、再挑戦可能でなければならない。「人」か?「人間」か?生物学的には同じ存在であっても、どのように捉えるかによって社会の在り方、そして自分の存在理由は大きく変わるものである。

合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル化学賞・吉野彰博士は何を成し遂げたのか?

9日、ノーベル化学賞に旭化成名誉フェローの吉野彰博士が受賞されるという発表があった。日本人の受賞は喜ばしいことだが、吉野博士は何を成し遂げ受賞したのか?僕は専門外なので知らなかったが、吉野博士の論文一覧を調べ、その中に日本語で書かれた総合論文があったので、さっそくプリントアウトして目を通した。(「リチウムイオン二次電池の開発と最近の技術動向」日本化学会誌 (2000) No.8, 523-534 吉野彰, 大塚健司, 中島孝之, 小山章, 中條聡)

10ページほどの論文で、手っ取り早く調べるのにはちょうど良い。その論文によると、吉野博士たちは1980代から1990年代にかけて画期的なリチウムイオンバッテリーを開発したということである。では何が画期的であったのか?そこで良いバッテリーとしてのポイントが二つある。それは効率的であること、そして安定性(安全性)が高いこと。簡単に言えば、バッテリー開発とはこれらの追究である。そこで、これらを成し遂げるために、吉野博士たちは画期的な「負電極素材」を発見した。それが「負電極炭素素材」である。負電極を金属ではなく炭素素材を使ったことが画期的であったらしい。これによってブレークスルーを突き破った。

吉野博士らの負電極炭素素材の理論的基盤は、量子化学、特にフロンティア電子理論にあるらしい。フロンティア電子理論と言えば、日本人ならハッと気づくと思う。そう、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論である。ちなみに、2000年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹博士の研究も関係しているらしい。

とは言え、吉野博士の研究の神髄は、理論ではなく実験にある。理論を言うのは易いが、それを実験で実現するのは難い。理論屋の僕にとって、吉野博士のノーベル賞受賞は少しだけ実験科学へ目を向けさせてくれた。今回、吉野博士の論文を読み、実験の見識と面白さを分けさせてくれることになった。

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

コーヒーの調節が意外と難しい。

最近、コーヒーの調節に四苦八苦している。コーヒーを飲むことによって、調子が大きく変化することがあるからだ。特に頭の働きに大きく影響していると強く感じている。数理物理の研究をしている僕にとっては死活問題だ。もちろん、全ての人がコーヒーによって影響を受けるとは思わないが、コーヒーの摂取量は自分でコントロールすることが必要だと強く感じている。

コーヒーを飲むことによって、ストレス調整ホルモンであるコルチゾールという物質の分泌に影響してくると言われている。もちろん、僕はそのような事の専門家ではないので軽く言うべきではないのかもしれないが、ただ色々な情報を入手すると、もしかしたらこのコルチゾールというホルモンに調子が影響されているのかもと考えている。僕自身、ストレス耐性は非常に低い方だと感じている。これまでコーヒーを半無限的に飲みまくっていたので、もしかしたらこれが影響しているのかもしれない。なので最近は、飲んでも一日に三杯までに止めている。

ただ、コーヒーが大好きな僕にとってはこれはかなりきつい。朝起きるとどうしてもコーヒー一杯飲みたくなる。しかしここを我慢して、起床一時間半後まではできるだけ飲まないようにしている。この起床直後がコルチゾールの分泌に一番影響するそうだ。

コーヒーを飲み過ぎても全く影響のない人は何も考えずに飲み続ければ良いが、僕のようにコーヒーを飲むとパフォーマンスに影響するのなら、自分でコントロールすることが必用だ。僕自身、様々な欲求をコントロールすることはかなりできる人間だと思っているが、これまでコーヒー中毒を自称していた僕にとっては、コーヒーのコントロールはかなり厳しいものである。ただ、コーヒーのコントロール一つでパフォーマンスが上がるのなら、徹底的にコントロールしていく覚悟はできている。

金と暴力。

現在、関西電力幹部と高浜市元助役との間での賄賂が問題になっている。そこには、権力を利用した金と暴力の構造が強く見られる。高浜市元助役がその地位を利用して、権力と私腹を肥やしていた構造、そして関電幹部がそれに応じて多額の金品を受け取っていた現実。それはまさしく金と暴力に汚染された社会そのものではないだろうか。

報道によると、関電幹部が高浜市元助役(故人)から多額の金銭、多量の貴金属(約三億二千万円相当)を受け取っていたという。これ自体も非常に大きな問題であることは間違いないが、さらに問題なのは元助役が金品を受け取った関電幹部に、このことを弱みとし恫喝していたということだ。そしてこのような恫喝は地元においても行われていたという。まさしく、金と暴力にまみれていたとしか言えない。

このような元助役の行為は、明らかに反社会的行為である。地元社会・地元市民に対する反社行為、そしてそれらに対する暴力である。そしてこれらの賄賂に関係する金品は一般市民の税金から充てられたと思われ、社会の経済的損失でもある。従ってあらゆる意味で悪質であり、悪質をさらに悪質で重ねていると言える。

この事件の主人公である元助役はすでに死んでいる。従ってもう本人に対して罪を償わすことはできないが、これは死に得と言えるのか?元助役本人は死に得かもしれないが、その付けは全て残された人が払うことになる。そういう意味ではこの元助役の行為は、さらに三重以上に悪質だと言える。日頃、金銭に関する犯罪はニュースで頻繁に見かけるものであるが、この事件に関しては金銭的にも、さらにはそれらに関する恫喝・暴力も重なり、悪質さのレベルはその比ではない。これらの類の逃げ得、死に得は決して許されるのもではなく、厳正に対処されることを強く望む。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

最近、あらゆる学問が面白い!

最近、あらゆる学問に対して面白いと感じている。以前はサイエンス、特に物理・数学に対してだけというところがあったが、今、あらゆる学問が面白く感じ、あらゆる学問に取り組み始めている。

なぜ、以前は他の学問に興味を持てなかったのか?その理由を考えると、一つ目は学問と言えば受験勉強を意味していたこと、もう一つは時期的なものであると僕は考えている。受験勉強というものは非常に小さいものである。そして表面的なものである。なので、なかなか面白さの核心に迫れない。そのような中、本当の面白さを伝えようとすると、自然、受験勉強の範囲を超えてしまう。しかし学校ではなかなか受験勉強を超えるようなことを教えようとしない。僕が大学受験生だったころ、自分が取り組んでいた数学や物理学は、高木貞治の解析概論であり、ファインマン物理学であった。しかし受験にこだわていると、なかなかそのレベルの事まで取り組もうとは思えない。このような事を解決するためには、学生と学校の教師の双方の意識を変えなければならない。

とは言え、大学に入れば自由に学問に取り組むことができる。しかし一般教養の授業の中には、どうしてもやりたくない授業も存在する。僕ならば第二外国語のフランス語の授業がそうだった。しかし今、あらゆる学問が面白く、フランス語にも興味を持っている。要はやりたくなった時にやればよいのである。学生時代にやりたくなければ無理してやる必要はない。しかし面白く感じた時には思いっきり取り組めばよい。それでいいのである。

科学(サイエンス)と言うものは、層構造をなしている。一番土台になるのは物理であって、その上に化学(バケガク)、生物学・地学と重なっている。なので、生物学に取り組むためにはその土台にある化学を理解しなければならない。もちろん、さらに基をたどれば化学は物理を土台にして成り立っている。今、専門の数理物理の研究の合間に、生物学の勉強に取り組んでいる。しかしその土台にある化学が完全に理解できていない。なので化学も真剣に取り組む必要がある。そのような事を考えると、学問というものは全て有機的に繋がっており、全ての学問に対して(強弱はあれ)取り組む必要があるのかもしれない。

学問に取り組むうえで大切なのは、受験勉強ではなく楽しさの本質に迫れるレベルまで取り組むこと、そして面白いと思ったときに思いっきり取り組むことである。学問とは本質的に楽しいものである。(そして時には苦しいものでもある。)そこに学問の本質が存在していると僕は思っている。

調子の悪い時の過ごし方。

誰もが多少の調子の波はあるのかもしれないが、僕はかなり波がある。調子の悪い時は、数式がなかなか頭に入らない。そのような時にどう過ごすかは、僕の大きな課題である。

数式が頭に入らないので、そのような時は数学・物理以外のことに取り組むことにしている。例えば生物学や社会学、歴史学などである。それらは専門外(そのような区別は自分の中ではあまりしていないが)なので、少しはリラックスして取り組める。学問以外にも、例えば普通の読書であったり、あるいはYouTubeを見て過ごすことが多い。ただ、そのような過ごし方をしていると頭がなまりそうで怖いが、調子が悪いので仕方がない。

最近、生物学にはまっている。大学で使うような生物学の教科書を読んだり、時にはiPS細胞などの論文を読んだりするが、これがなかなか面白い。ただ英語はかなり苦手なので、英語論文を読むときには苦労する。少し前、経済学の論文を読んでみたが、他分野の英語論文はやはり苦労する。数学や物理の英語論文は読みなれているので、ある程度スラスラと読めるのだが(と僕は勝手に思っている)、山中伸弥教授のiPS細胞の論文はなかなか読み進められない。

調子の悪い時は悪いなりの過ごし方があると思うが、なかなかそれを見出せずにいる。何かに取り組み目標を達成しようと進んでいる人にとっては努力することが必須であるが、その努力ができない状態と言うのはかなりつらい。しかし明日になったらまた調子が戻っているであろうと楽観することも大切かもしれない。まあ実際、明日になったら数理物理に没頭しているだろう。いや、そうしよう。

他人からの評価ではなく、自分の信念に基づく。

最近、自分が自分らしくないように感じることがよくあった。そこで何が自分らしくないのか?そしてその原因は何なのか?と問い詰めたところ、その原因が、他人からの評価を気にし過ぎていることであることに気が付いた。自分の独創性にこだわっているのに、他人の評価を気にしすぎるとは全くおかしな話である。

科学とは真理への追究である。もちろん、研究結果に対して周りや社会からの評価は気になるところではある。しかし、そのような評価はあくまでも付加的な要素でしかない。もちろん、工学系の技術分野では社会の評価は非常に重要な要素である。しかし理学的ないわゆる純粋科学では、そのような周りからの評価ではなくどこまで真理に迫れているかということが最も重要な要素である。だからこそ、宗教裁判で裁かれ社会から滅多打ちにされたガリレオ・ガリレイが、現在では最も大きな評価をされているのである。

他人からの評価の中で生きるとは、ある意味楽な生き方である。誤解のないように付け加えるが、もちろんそれは簡単であるという意味ではない。責任があらゆる範囲に分散されるという意味である。自分の信念に基づいて生きるとは、全ての責任を自分が負うということである。その重圧は非常に大きいように思えるが、自分が正しいと思う方向へ進んでいる時は、意外と重圧を感じないものだ。しかし冷静にリスクを考えると恐ろしくて進めなくなってしまう。

なぜ他人からの評価を気にし過ぎていたのかはよくわからない。しかしいつの間にか周りの評価を気にしていた自分がいた。しかしそのような状況は自分が望むことではないことは明らかだ。だから軌道修正、いや、大きく変換して元に戻す必要がある。しかしそれはそんなに難しくはないと自分では感じている。なぜなら自分で問題点に気づいており、意識をそちらへ向ければ良いだけだからだ。意外と明日には元に戻っているかもしれない。また自分が強くなりそうでワクワクしてきたぞ!