月別アーカイブ: 10月 2019

契約書の形骸化。

スマホやパソコンで様々なサービスを受けるとき、初めにサービスの契約内容が示され同意を求められる。しかしそのような契約内容を一度でも読んだことがあるだろうか?僕自身もほとんど読んだことはないし、多くの人は初めの一文字さえも目を通さないのではないだろうか?もちろん契約書に目を通さないのには理由がある。その一番大きな理由は、契約書の文字が非常に小さく、しかも非常に長いからではないだろうか。実際、ほとんどの契約書は見るに堪えないような文章になっている。そのように、契約書と言うものが現実的には形骸化している状態だ。僕はこのことは非常に大きな問題であると考えている。

ほとんどの契約書は、サービスを利用する人のことを考えていない。ではなぜそのような読む人のことを全く考えていない契約書が氾濫しているのか?それはサービスを提供する側の一種の防御、悪く言えば保身のためである。しかし責任はサービスの提供側だけにあるわけではない。サービスを受ける側も、何の疑問もなくスルーして同意ボタンをポチる。そこで多くの人が、契約書のありように疑問を持てば、もう少しマシな契約書、マシな制度ができるはずだ。

国と国との条約であれば、政府や外交官は契約書の一言一句を漏らさずチェックするであろう。しかし普段サービスを受けるのは、法の知識のほとんどない一般市民だ。そのような市民相手に、条約レベルの細かく長い契約書を提示するのはあまりにも不親切すぎる。そして実際は、99%の人がその契約書の内容を全く理解してない。これは契約書のあり方として明らかに問題である。しかしこのような状況を変えるためには、国の政策レベルで変える必要がある。法が国会で成立されるからには、政府が動かなければ変えることができない。

それらの解決策として、このようなことはどうだろうか?例えば従来の契約書の形式は維持しつつも、利用者にはそれに基づいた簡約的な契約書を示す。このような二段階的な契約書は完全ではないにしろ、現状よりはるかに意味があり効果的だと思う。とにかく、現状の契約形式は分かりやすく効果的なものに変えるべきだと僕は思っている。もちろん、すぐに解決できる問題ではないが、政府や官僚が時間をかけてでも検討すべき課題であると僕は考えている。

最近、他分野に取り組んでいる理由。

僕は最近、専門の数理物理を軸としながらも、他分野にも積極的に取り組んでいる。例えば分子生物学や量子化学、数理脳科学などだ。さらに経済学、法学などにも取り組もうと考えている。なぜそのような他分野に取り組もうとしているのかと言えば、単にやみくもに手あたり次第手を付けているわけではない。僕はどの分野に関しても、理論的な範囲で研究結果を出せるくらい、あるいはそれ以上の結果を出そうと取り組んでいる。そして例えば、分子生物学や量子化学で言えば、それは基礎物理と階層をなして繋がっているわけであって、自然科学を総合的に理解しようと思えば、物理を基礎としながらも、化学や分子生物学を理解することは避けて通れない道だ。

そして人間が生きるうえでは、哲学的な視点を持つことは必要だ。哲学とは人間が生きるうえで道しるべとなる、言わば「指針」である。僕は少し前まで哲学に対して興味を持って取り組んでいたが、最近は学問的な哲学に対して興味は薄れた。その理由は、ドイツ哲学を中心とする学問的哲学がほとんど机上の空論、一言で言えば言葉遊びでしかないと感じたからだ。そのことが決定的となったのが、ショーペンハウアーの著書だ。もちろん、今でも哲学は非常に重要であると思っている。しかしそれは、学問的な哲学とは全く違うものである。

物理学や化学、生物学などのサイエンスは、自分たちが生きているこの宇宙の本質を知らせてくれる。そして経済学や法学は、自分たちが生きているこの社会の本質と精神を知らせてくれる。人間は宇宙に存在しているのであり、同時に社会に存在しているのである。だからその両方を知ることが必用だ。そして現在それに付け加えるのなら、コンピューターサイエンスを理解することも必要だ。AIと言うものは、利用するものではなく理解するものである。例えば、AIを理解するためにディープラーンニングを理解することが必用だ。決してコンピューターの奴隷になってはいけない。

改めて、なぜ他分野に取り組んでいるのかと言えば、理由はいくつかある。以上に書いたようなことが大きな理由だが、それと同時に総合的な視点を身に付けると言うことも重要だ。総合的視点は一夜で身につくものではない。しかしあらゆる分野を有機的に(網羅的ではなく)取り組んでいけば、必ずそれらの関連性が見えてき、そして総合的視点が身につくはずだ。専門の一分野を狭い範囲の中で結果を出すことばかり考えていれば、それは全く井の中の蛙である。そのような事では、自然の本質、科学の本質は全く見えてこない。生きる意味は何か?と問われたとき、その理由は人それぞれ様々であろう。そして一つではないはずだ。「本質を理解し見抜く」と言うことは、僕が生きる理由のうち非常に(最も?)大きな理由なのである。

体系的に構築することの大切さ。

物事を体系的に構築していくか、それとも単発的にこなしていくかによって、その後の発展が大きく変わっていく。結論から言うと、継続性を付けるためには体系的に構築していくことが不可欠だ。それは数学の歴史を見ればよく分かる。

江戸時代の日本の数学、すなわち和算は非常に高度なものであり、問題によっては西洋の数学をしのぐものであった。しかし現代の数学において、和算の系譜は途絶えていると言ってよい。現在世界で行われている数学のほとんどは、起源をたどると西洋の数学にたどり着く。ではなぜ日本の和算が途絶え、西洋の数学が脈々と受け継がれているのか?それは体系的に構築しているかどうかと言うことに限る。

和算は一言で言えば、単発の問題の集まりである。もちろんそう言い切れないものもあるが、和算の主流は高度な難問を単発的に解いていくというものだ。それに対して、西洋の数学はほぼ一貫して体系的に構築していくことを主眼に置いている。西洋の数学は理論であり、日本の和算は解法だと言える。

大学受験の数学に慣れた学生が、大学での数学に戸惑うことが多いという話はよく聞く。それは受験数学が単発問題の解法であり、大学数学が体系的な理論構築であるからだと言える。確かに問題が解けた時はうれしい。しかし問題はその後である。小さな問題でも、それを解いた後どのようにつなげるか?そのような事の繰り返しが体系的な構築につながるのである。

もし物事に継続性を付けたいのなら、体系的に構築するという視点が必用である。そして大問題を解く場合にも、そのための足場として理論体系を構築する必要がある。「継続は力なり」と言う言葉があるが、その前に「体系性は継続なり」と言う言葉を付け加えなければならない。

宇宙は数学モデルで記述できる。

宇宙の法則は数学モデルで記述される。宇宙の法則とは、物理学のことである。物理学は一貫して数学によって記述されており、数学的でない物理法則などは全く存在しないし、仮に存在するとすればそれはまだ完全ではなく、対処療法的なものであると考えられる。宇宙の原理、すなわち物理法則には謎が多いが、一番の謎は「なぜ宇宙は数学で記述されるのか?」と言うことであろう。

物理学を構築するとき、まずは「物理学は数学で記述される」と言うことが前提になっている。この前提が覆されれば物理は学問として成り立たなくなる。宇宙とは、物理とは、数学の具現化なのである。なので物理を行おうとすれば、まずは数学をマスターしなければならない。

1600年代にニュートンによって物理に数学の波がもたらされたわけであるが、現代ではそのような波は科学全体に押し寄せている。例えば化学や生物学であり、サイエンスではないが経済学でも高度に数学化された理論が用いられている。その中でも僕が最近面白いと感じているのは、生物学、特に脳科学の分野である。脳科学の中には数理脳科学と言う分野がある。もちろんその中でも様々なアプローチがあるが、特に日本の甘利俊一博士が創設した情報幾何学を駆使した脳回路のネットワーク理論が有名である。脳とはまだまだ分からないことだらけで、その原因は人間の脳を取り出して研究することができないことにある。しかし最近はMRIなどで遠隔的に脳内の活動を観測できるようになり、これらの分野の研究が飛躍的に進んでいるようである。

とは言え、生物学の数学化は記述的であり、物理学の数学化は根源的かつ本質的である。物理学の最終理論、すなわち「Theory of Everything (TOE)」は完全に数学的だと考えられる。TOEが完成すれば、なぜ物理は数学で記述できるのかと言うことが明らかになるかもしれない。宇宙の、物理の本質は数学のどこにあるのか?それを解明するためには、自然を極限まで数学的に追究していかなければならない。

解くことと、構築すること。

数学の問題は「解く」と言うが、理論は「構築する」と言う。では数学者は解くために打ち込んでいるのか?構築するために打ち込んでいるのか?

問題を解くことと理論を構築することは表裏一体である。問題を解くためには、理論を構築しなければならない。受験問題なら解くと言う意識だけでもできるが、未解決問題を解くためには、時には何年もかけて理論を構築して、それを基に問題を解決することになる。

21世紀初め、ペレルマン博士がポアンカレ予想を解いた。問題を‘‘解いた’’わけだが、ペレルマンの解決の道筋は「ペレルマン理論」とも呼ばれる。ペレルマンはリッチフロー理論を基に独自の理論を構築し、実に技巧的に問題を解決している。

解くことは目標であり、理論の構築はある意味手段だと言える。しかし理論の構築は目標でもある。しかし、目標か?手段か?と言うのははっきり言ってどうでもいい。最終的には理論を構築し問題を解決することによって、自分の、そして人類の知と思想のレベルを上げることが重要なのである。従って、自分と人類の底上げにならない問題解決はあまり意味がない。しかし、そのようなほとんど意味のない問題を解いて実績を作っている数学者が実に多い。確かにそうでもしないとポストにありつけないのだろう。でも僕は、そうではない自分自身の目的意識をもって理論を構築していきたいと考えている。

あえて実用性から遠い所を行く。

近年、社会の価値観が実用一辺倒になって来ているように思える。もちろん生きていくためにはお金を稼がないといけないし、役に立つことを発明することによって世の中は便利になって行く。そのためには、実用的な事を進めて行くことは絶対に必要であるし、実用性と言うものは大きな価値を持つ。

では世の中の人すべてが実用性を追求すれば良いのか?と問われれば、僕は違うと考えている。実用性を向上させて便利な社会を築いていく人が9割必要ならば、あえて実用性から離れた所を行く人が1割必要だと思っている。例えばプロスポーツなどは実用性とは遠い位置にあるし、科学においても実用性とは関係ないところに位置する基礎的学問が存在する。しかし人類の長いスパンで考えた時、僕は今すぐ役に立つ実用性の高い取り組みよりも、あえて実用性から遠い所にある基礎的取り組みの方が圧倒的に重要な役割を担っていると僕は考えている。

その理由はいくつかある。一つは、今役に立たなくても、将来大きく役に立つ可能性が高いということだ。二つ目は、実用性がなくても価値のあると思われることは、本質的な価値があると考えられることだ。本質的な価値とは、人類の思想や本能的知的行動、そして人類の本質的なレベルに関することだ。この二つ目の価値は、なかなか万人には理解され難い。しかし、基礎的学問の本質的価値とはそこに集約されているのである。そうでなければ、だれも純粋数学などやらないはずだ。しかしこのような事を理解してもらうために、一つ目の理由、すなわち将来役に立つかもしれないという理由を持ち出さなければならないことは、非常に悲しいことだ。

実用的な事は、実用性のないことに支えられている。僕はそう考えている。そして世の中の9割の人が、いや、99%の人が役に立つことに取り組んでいるからこそ、僕は残りの1%になってあえて実用性から遠い所を進もうと思う。実用性はないが本質的な価値があること、そのような事は万人には理解されないが、一人でも多くの人が理解し、人類の基礎の底上げをより良い環境で取り組めて行ける世の中になって欲しいと強く願うものである。

守りのためのシミュレーションは止める。

物事を想定してシミュレーションをすることはよくある。個人的にも将来の状況を想定してシミュレーションをすることはよくあるし、ビジネスにおいてはあらゆることを想定して対応するためにシミュレーションをするとこは必須だ。シミュレーションをすることによってリスクを低減することができる。そして企業を、あるいは自分を守ることができる。

もちろん僕だってシミュレーションすることを否定するわけではないし、日常においてもシミュレーションすることはよくある。しかしその一方、シミュレーションばかりしていれば、リスク対策一辺倒になって防御一辺倒になってしまうことがある。もちろん、攻めのためのシミュレーションもある。もしシミュレーションをするのなら、守りのためではなく攻めのためのシミュレーションをしなくてはならないと強く思っている。

とは言え、攻めと防御は全く別々のことではなく表裏一体である。攻めるために守らなければならない時もあるし、攻めは最大の防御とも言われる。僕自身最近常々思っているのは、「自分を守らない」と言うことだ。何も自分を守らないからと言って、自分が自滅するわけではない。むしろ攻めて行くことによってそれが守りにもなると考えている。しかし自分を守ることに意識が言っているせいか、守りのためのシミュレーションをすることが最近多かったように感じる。そのような守りのためのシミュレーションを止めなければならないと最近強く思っている。

これからの人生をどう生きていくか?と言うことを考えた時、僕に残された選択肢は「攻め」しかない。そしてそのような攻めの人生を進めるために、攻めのためのシミュレーションを積極的に行っていこうと思う。もう守りのためのシミュレーションは止めよう。

勉強と学問は違う!

勉強とは総じて面白くないものである。なぜなら、勉強とは大概学校や他人が決めたことをやるからだ。僕は大学に入って以降、勉強をしたという意識はないし、受験生時代もそんなにした意識はない。

しかし、学問には誰よりもたくさん打ち込んできた自負はある。勉強はしていないが、数学や物理は常に真剣に取り組んできた。僕にとって数学や物理は勉強ではなく学問なのである。そして勉強と学問は(少なくとも僕にとっては)全く違うものだと思っている。さらに最近は興味の幅が極度に広がり、生物学、化学、経済学などのうち、理論で出来る範囲(すなわち実験以外)のあらゆることに取り組んでいる。そしてコンピューターにも興味がある。今は学問が面白くてしかたがないのだ。

本来、学問は非常に面白いものである。だから嫌々学問に取り組むなんてことはあり得ない。嫌々やっているのはおそらく勉強であって学問ではない。だから、面白いなと思ったときに学問をすべきだ。それが30代や40代になってからでも良いと思う。あるいは老人になってからでも良い。老人になって義務的に行う生涯学習なんかより、楽しんで取り組む学問の方がよほど意義がある。学問に年齢は関係ないのだ。若い学生も、うかうかしていると学問老人に先を越されてしまうぞ!

どういう原理なんだろう?

今の時代、ほぼ全ての人がスマホを持っていると言っても過言ではない。スマホでなくてもガラケーを持っている。新しいスマホを手に入れた時、どのように思うだろうか?おそらくほとんどの人は、「どのように使うか?」と言うことに全力を尽くすだろう。そして世間では、スマホやパソコンを使いこなせる人が、「最先端機器に強い」と言われることが多い。しかしスマホを使いこなせることとスマホの原理を知ることとは全く別次元の問題だ。

現代社会は便利さを極限まで追求している。「どれだけ便利か?」と言うことが、ビジネスの命だと言える。そのような便利さを享受するためには、原理を知ることは必要ない。しかし物事の本質を知るためには、原理を知ることは不可欠だ。

来年から小学校でもプログラミング教育が始まる。プログラミング教育とは、スマホ・コンピューターがどのように動いているかを理解するための教育だ。もちろん、プログラミングがコンピューターの全てではない。しかしソフトウェアの多くの部分は理解できるだろう。スマホを使いこなすだけならプログラミングなど知る必要はない。しかし原理を知ることによって、単なるユーザーからコンピューターのプロデューサーになれる。つまり与えられる側か、与える側か、と言うことである。

プログラミングだけでなく、数学や物理だってその根本は自然の原理を知ることである。原理を知ることは、物事の本質を掴むことになる。つまり数学や物理を学ぶことは、本質を見抜く目を養うことになる。だから数学者や物理学者は、その他の関係ないように見えるほとんどの事に対して本質を見抜くことができる。もし本質を見抜けない数学者・物理学者がいれば、それらの人は似非である。原理を知るということは、本質を掴むための道のりの原点なのである。

無限大と無限小。

「100と1000とは何が違うか?」と問われれば、明らかに数の大きさ、すなわち量が違うと言うだろう。では「無限大と有限の数は何が違うか?」と言われれば、単に量が違うと言うだけでは済まされない。無限と有限では、量が違うという以前に、質が違うのだ。

数学が無限を扱いだしてから300年以上経つ。その起源は、ニュートンとライプニッツが独立に考案した微分法にまで遡る。ニュートンは物理学の問題を定式化するために微分法を考案し、ライプニッツは純数学的に微分法を考案した。今や無限を扱わない数学は数学とは言えないという状態である。昔ある数学者は、「数学とは無限を扱う学問である」と言ったという。確かに解析学は無限大・無限小を厳密に扱うことを基礎に置いているし、19世紀末にカントールによって考案された集合論は、無限を数えるということを目標に置いている。

ある意味、数学ができるかどうかは、無限を扱えるかどうかだと言える。有限的対象は無限的対象の中に含まれるが、では有限的対象が無限的対象の何%を占領しているかと言えば0%である。すなわち、有限の世界だけしか理解していなければ、それは全く理解していないと言うことなのである。

とは言え数学の中にも、有限にターゲットを絞った分野も数多く存在する。例えば代数学の有限群論や、あるいは幾何学で言えば3次元や4次元などにターゲットを絞った低次元幾何学がある。しかしそのような「有限」と表題を打った分野であっても、それらの分野の構築には無限を扱うテクニックなしでは全く進めることはできない。

無限の世界を知ることは、何も数学者だけに必要な事ではない。一般市民にとっても、無限の世界の一片を知ることはそれぞれの世界観に大きな広がりをもたらし、物事をより論理的に捉えることができるようになる。意外と無限は自分の身近にも存在するのである。例えば自動車メーターに表示される速度を理解するのにも、微分(すなわち無限小)を理解することなしには理解できない。人生を有限の中で終わらせるのか?それとも無限の世界に広げるのか?これは質的に大きな違いがある。そして無限を正確に理解するツールが数学と言うものなのである。