月別アーカイブ: 8月 2019

“特殊”な何々。

最近、報道などで気になっている言葉がある。それは事件などが起きた時に、「特殊な何々」によってなされたという言葉だ。例えばある事件が、「コンピューター」によってされたと報道されたとする。すると、「コンピューターでそんなことができるのか?」と驚く。しかし、「“特殊”なコンピューター」でされたと報道されると、「特殊なものだから出来て当然だろう」と何も驚かない。このようなことに僕は危機感を感じている。なぜ危機感を感じるのか?それはここに思考停止がみられるからだ。

「特殊」という言葉はある意味魔法の言葉だ。「特殊」という言葉を差し込むだけで何も疑問を感じなくなる。この「特殊」という言葉が思考停止を招いているのだ。しかし、もしそれが特殊であるのならば、本来はどう特殊なのかを知りたい。原理を知りたい。しかし多くの人は「特殊なのだからできて当然だよね」となってしまう。例えば、iPS細胞によって治療が可能になったと聞けば、「iPS細胞はそんなこともできるのか?」さらには、「iPS細胞によってどのような原理で治療が行われるのか?」と次々と興味がわいてくる。しかし「“特殊”な治療法によって行われた」と聞けば、「そうなんだ」とそれで終わってしまう。

このようなことから、「特殊な」という言葉は極力避けた方が良い。報道する側も、また日常において何かを説明する人も、内容・原理を詳しく説明する方が良い。それができるかどうかは、その人の知識レベルにかかっている。「特殊な」という言葉を使って説明する人は、実は何も分かっていないに等しい。

実はこのような言葉の綾は様々なところに潜んでいる。言葉の綾に惑わされて何も理解しないで過ごすのではなく、さらに疑問を持ち、内容・原理を確実に理解することが重要なのである。

科学技術から距離を置く。

「現代社会を支配するものは何か?」と問われれば、おそらく多くの人は「科学技術」と答えるだろう。その答えは間違っていない。しかし完全に正しいとは言えない。世の中には科学技術では解決できない問題は沢山あり、そのような事を理解するためにも科学技術至上主義にどっぷりと浸かることは避けなければならない。

そのためには、一つのことを理解しなければならない。それは「科学と科学技術は根本的に違うものである」ということである。しかし、このことをしっかりと理解している人は非常に少ない。ほとんどの人は「科学=科学技術」だと思い込んでいるのである。

そもそも、科学と科学技術は目的が違う。科学の目的は「真理への探究」であり、科学技術は「役に立つことを発明すること」である。それに加えるのなら、科学技術は「ビジネスの手段」だとも考えられるのではないだろうか。

iPS細胞の研究を例にとると、山中伸弥教授の第一発見、つまり「山中ファクターと言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むと細胞が初期化される」というiPS細胞の原理の発見は、完全に科学である。しかし、網膜再生などのiPS細胞を使った再生医療は科学技術である。それぞれ非常に意義のある大きな研究であるが、そのどちらに大きな価値を見出すかはその人の基本的価値観に大きく左右される。

人間社会は経済なしでは語れない。つまり科学技術によるビジネスがあって、世の中は回るのである。しかし、そのような科学技術の根源は純粋な科学である。もちろん、科学と科学技術の線引きをどこで行うかは難しい問題であり、また明確に分離できるものでもない。しかし、科学技術が社会・経済の根源であるとすれば、科学は人間の思考の根源である。科学技術が人間の生活を支えているとすれば、科学は人間の頭脳を支えているのである。

しかし、科学技術が高度に発達した現代社会においては、純粋な科学が過度に軽視されているように思える。その原因は、科学と科学技術を区別できていないことにある。今一度、科学の本来の意味というものを深く考える必要があるのではないだろうか?「役に立つ」は分かりやすい。「お金になる」も分かりやすい。しかし、「真理を探究する」という心は簡単には分からない。しかし、そのような心を理解できれば、物事の本質を見抜くことができるようになる。そしてそれは、巡りめぐってビジネスにも大きな貢献をするはずだ。iPS細胞のように。

社会はますます不自然になって来ている。

「改善」という言葉がある。文字通り、物事を善くするために改めることだ。しかし改善したからと言って、必ずしも良くなるとは限らない。改善したつもりが、時には悪くなっていることもある。すなわち「改悪」だ。いま社会全体を見渡してみると、このような改悪に進んでいる事が多いように思える。そしてこのような「改悪問題」の解決を難しくしている理由は、当時者たちはそれを良かれと思ってしていることだ。

なぜ、改善が改悪になってしまうのか?それは、物事を画一的にしか捉えていないことが大きな理由だ。物事を局所的に画一的に捉えてしまうと、大域的にはどうしても不自然なところが出てきてしまう。すなわち、一部の人にとっては良くはなっているけど、その他の大勢の人にとってはかえって悪くなっているということだ。

数学で言うと、細かい厳密な計算にとらわれ、理論全体の姿を見失っている状態だと言える。逆に全体像が見えていると、部分の計算を見るまでもなく調和のとれた理論を構成することができる。意外と大風呂敷を広げられる人の方が、自然な理論を構成することができるものだ。

とは言え、数学なら計算をすれば間違っているかどうか厳密に確認できる。しかし社会問題となると、そうは簡単に検証できない。何年、何十年と実行して、それで不自然なところが大きく露呈して、初めて問題になる。しかし物事の本質的な問題点を捉えられる人にとっては、大概初めから問題点が見えているものだ。しかし日本は民主主義国家である。一言で言えば、多数決の社会だと言える。だから一部の人の意見が正しくても、多くの人がそれらの問題点が見えていなければ間違った方向へと突進してしまう。しかし、民主主義に変わる理想の社会像があるかと言われれば、まだ答えを出し切れていない。もちろん、様々な理想像が提出されている。しかしどれも決定的だとは言えない。

世の中を良くしようと思って変えていることが社会を不自然にし、そこで暮らす人々を息苦しくしている。現代社会は「檻の中の自由」だとも言えないこともない。そしてそのような傾向はますます拍車がかかっている。もちろん、その根底にあるのは、高度な情報社会である。この社会の情報化は進むことがあっても退化することはない。なので、国をリードすべき政治家が強い基本的指針を持っていないと誤った方向へ進んでしまう。だからと言って、政治家だけが正しければいいかと言えばそうではない。我々一般市民にも正しい判断力を保持することが求められる。そのためにも、確固たる教養を持つことが必要なのではないだろうか。教養と実行力を持つことによって自分の道を切り開くことができるし、一億分の一の力によって国を動かせることができるのだ。

自分に対する言葉なんです。

僕はこのブログで「どうすべきだ!」ということをよく書いている。もちろんそれは自分の主義主張に基づくものであるが、それは誰に対して書いているかと言えば、一番は自分に対して言っている言葉なのである。もちろん、他人に対して言いたいこともたくさんあるが、主義主張や生き方は人それぞれであり、自分の生き方とは反する生き方もあって当然だ。何しろ、現代は多様性が重要な社会なのだから。

最近、僕が自分に課しているテーマがある。それは「心臓に毛を生やせ!自分を守るな!」である。何事にも動じない精神力、そして心に余裕を持った生き方をするためにも、心臓に毛を生やすことは非常に重要だ。そして、何事にも挑戦し続ける生き方をするためにも、自分を守ることは基本的に考えてはいけない。間違っても保身に走るということはあってはならない。

頭が固まっている時というのは、どうしても自分を守ることを考えがちだ。そして身動きが取れなくなる。自由に考えて自由に行動するためにも、自分を守ることではなく自分が前面に出ていく姿勢が重要である。

科学的思想というものは、地球上だけでは収まらない。科学的思想は宇宙をも飲み込むのである。なのでこのような桁違いのスケールの思想を身に着けることができれば、桁違いのスケールの大きな人間になれると僕は考えている。

頭髪は一般的には歳を取るごとに少なくなっていくと言われている。そして多くの人間は心臓の毛も少なくなっていくようだ。しかし心臓の毛を増やすことは不可能ではないと僕は考えている。そしてそのための手段の一つが「自分を守らない」という生き方をすることだと僕は考えている。心臓の毛の豊かさは、人間の器の大きさに比例する。

これからどのような指針に基づいて生きていくか?このような人生の指針を持つことは非常に重要である。そしてそのような指針は、その時々で自分を救ってくれる。自分を守らない生き方が自分を救ってくれるとは意外だが、人生とはこのようなものである。自分を守れば守るほど窮地に陥っていく。なので、自分の身の安全などあまり考えずに徹底的に前に進んで行く方が、人生トータルで考えると圧倒的に多くのものを生み出せるものである。これからもいろいろなものを生み出すために、徹底的に前に進み挑戦し続けようと思っている。

学問の世界を全て制覇する!

学問の世界を制覇するとはなんだかおかしな言葉だが、学問を理解し新しい結果を出して行くとは、学問を制覇して行く道のりだと考えられる。もちろん、学問を制覇したからと言って、学問を意のままに変えられる訳ではない。物理学であれば、自然法則は人間の存在に関わらず存在する訳であって、それらの物理法則を人間が変えられる訳ではない。数学に関しても、数学は人間の創造物だと主張する人もいるが、僕は数学とは一種の実在法則だと思っている。だから人間の存在の有無にかかわらず、数学の定理は存在する。古代ギリシャ時代の数理的哲学者もそのように考えていたようだ。

スペシャリストになることとジェネラリストになることはどちらが重要か?もちろん人によってその答えは変わって来るとは思うが、僕はどちらも大事だと思っている。そしてこの両方を成し遂げる事こそ、学問の世界を制覇すると言う事である。そのためにはやはり専門と言う足場を作らなければならない。そしてその足場を軸に活動の範囲を広げて行かなければならない。決して専門の殻に閉じこもってはならない。

日本では、高校あたりから理系・文系と分けられることが多い。これは日本の悪習だと僕は思っている。なぜ理系・文系に分けられるのかと考えると、それは受験対策を効率的に行うという理由以外にない。従ってその結果、受験至上主義が蔓延する事になる。受験生であれば受験しか目に入らなくなることも理解できない訳ではない。しかしいい歳した大人が学歴だけで人間を判断する事ほど恥ずかしいものはない。そのような人は、物事を多角的に判断するという能力が欠如していると公言しているみたいなものだ。特に日本においては、学歴がその人の知力を表していると勘違いされることが多いが、学歴はあくまで入学時のペーパーテストの成績を表しているだけだ。学校に入学してからどれだけ勉学に打ち込むかと言う事が最も重要なのである。そして卒業してからもその知力を維持し深める事、それが非常に重要である。

人間の人生というものは、多くの人にとっては大人になってからの時間の方が長い。そして知識というものは、学生時代に身に付けた知見を基に大人になってからどれだけ身に付けるかと言う事にかかっている。学問が小学・中学・高校・大学の16年だけで身に付けられると考えるのは大きな間違いである。その16年は学問を身に付ける基盤を固める時代であって、それを基に自分の中でどれだけ学問を昇華させるかと言う事にかかっている。学問と言うものは、学生時代だけで完結するほど浅いものではない。さらに学問を制覇するためには、大学を卒業してからどれだけ深められるかと言う事にかかっている。

コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

コード決済で楽しむ。

最近、コード決済が何かと話題だ。7payの不正アクセスが社会問題になったが、PayPayやLINEPayなどが着実に勢力を伸ばしているみたいだ。僕は現在、PayPay、ファミペイ、d払い、の三種のコード決済を利用している。しかし実際は、利用していると言うより楽しんでいるという感じだ。

コード決済で何を楽しむのか?と言われそうだが、コード決済を駆使して還元ポイントを貯めるのが結構楽しい。いかにして多くのポイントを貯めるか?という遊びをしているのだ。

確かに貯まるポイントはそんなに巨額ではない。しかし色々とやっていると決して小さくはないのだ。還元ポイントが20%ならば、コンビニで買い物をしても数百円単位で貯まる。もちろん、還元ポイントで稼ぐと言う事は出来ないが、ちょっとした遊びにはなる。スマホゲームで課金して遊ぶとかなりのお金が飛ぶらしい(僕は全くやっていないのでわからないが)。しかしコード決済遊びは小さいながらもお金が戻ってくるのだ。なのでちょっとしたお得感もある。

とは言え、現在はキャッシュレス決済戦国時代である。ここ一年で次々と新しいキャッシュレス決済が誕生している。これから、勢力を伸ばす決済、廃れて行く決済が現れるだろう。おそらく三つくらいの決済に収束するのではないだろうか。開発側からすれば、7Payのようなミスをすれば命取りである。何しろ利用者のお金を扱っているのだから。

10月から消費税が増税される。それに伴ってキャッシュレス決済争いは更に激化すると言われている。それは消費者としてはもちろん歓迎であるが、これからも便利さとお得さ、そして高度のセキュリティーを保ったサービスが持続してくれることを強く願っている。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

お金と価値。

「お金は価値」である。これは誰もが認めるところであろう。しかし「価値はお金」か?人によってはお金こそ絶対的な価値であり、「価値=お金」と豪語する人もいるであろう。しかし多くの人は、価値は必ずしもお金ではない、価値とお金は重なる部分はあるものの、別物であると認識しているのではないだろうか。

お金と価値は重なる部分がある。あるいはお金は価値の真部分集合であるとも考えられる。しかし本当に大事なのは、お金と価値の重なる部分ではなく、その重ならない部分、すなわちお金ではない価値ではないだろうか。このお金ではない価値というものは、人生の充実感に大きく関わってくる。そしてお金ではない価値を保持しているからこそ、お金自体の価値もより大きなものになる。

お金ではない価値の部分が大きい人は、お金を含めて価値の総量は圧倒的に大きくなると僕は考えている。例えば、人生を懸けるようなものがあれば、それはお金ではないはずだ。しかしもちろん、そこにお金が関わっていても全然良い。お金が関わる、すなわち人生を懸けているものを仕事にすると言う事は、最高にチャレンジングなことである。例え現在はまだお金になっていなくてもいい。しかし将来、その人生を懸けていることが大きなお金となって帰ってくるのならば、それを目標に挑戦し続けるのもいいではないか!

お金は決してバカにしてはならない。しかしお金が全てになってもいけない。お金の威力を存分に発揮しながらも、お金ではない価値を守り抜き、そして謳歌する。これが僕の目指す人生像の一部だ。もちろん、人それぞれ多様な人生像があってよい。人によってはお金が全てだと言う人もいるだろうが、それはそれで良いと思っている。そのような人はお金を得るために大きなチャレンジをしているかもしれない。それはそれでエキサイティングではないか!

僕は学問と言う最大の価値を発見した。それに人生を懸けてみようと心に決めている。紆余曲折あってまだ結果は出ていないが、もうすぐ出せるはず!そう強く感じている。

素敵なパソコン♪

スマホが圧倒的な存在感を示す現在においても、何か作業をするとなるとパソコンは欠かせない。スマホもコンピューターである事には変わりないのでスマホでもできない事はないが、やはり作業効率から言うとパソコンにはまだまだかなわない。

パソコンを買う時、どのような基準で製品を選ぶであろうか?男性ならスペックを重要視する人が多いであろうし、女性ならデザインを重要視する人が多いようだ。僕自身、確かにスペックは非常に考慮するが、最近はそれ以上にデザインを重要視している。そしてもう一つ加えるのならばコスパかも知れない。

作業効率だけを考えるとスペックだけを考えれば良いと思うかもしれないが、しかしデザインは作業効率を上げる大きな要素だ。なぜならお洒落なパソコンを前にして取り組めるかどうかと言う事は効率にも大きく関わるし、さらにクリエイティブな事に取り組むのであればそこでの気分などが大きくパフォーマンスを左右する。さらに人前でプレゼンをするとなると、パソコンのデザイン一つで聴衆の受けるイメージは大きく変わるかもしれない。なので、デザインがお洒落かどうかと言う事は、非常に重要なポイントである。

昨日、新しいパソコンを注文した。「HP Spectre x360 13」というタイプのパソコンだ。なぜこのパソコンを選んだかと言うと、スペック、デザイン、コスパの全てが最高であると感じたからだ。特にデザインは秀逸である。以前のブログで、次はMacを買おうと思うと書いたと思うが、それをも吹き飛ばすくらいのお洒落なデザインである。スペックは、CPU:Core i7、メインメモリ:16GB、ストレージ:1TB SSD、だ。スペックもかなり最強である。そして価格もかなり頑張ってくれている。買う前に実物を見ようと梅田ヨドバシカメラに足を運んだが、その時はまだ他のモデルと迷っていた。しかし実物を見て店員と色々と雑談をした後は、もうこれしかないと即決であった。

パソコンが家に届くのはもう少し後になりそうだが、商品が家に届いたらパソコンをレビューしてみようかと思う。ああ、商品が届くのが待ち遠しい・・・。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。

夏休み(お知らせ)。

今日から一週間ほど、夏休みとしてブログの更新を休止しようと思います。
一週間後に再開しますので、今後ともよろしくお願いします。

それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

一流とは?

社会では「一流とは何か?」と言う事がしばしば取り上げられる。僕のブログでもたまに一流と言う言葉を取り上げている。ではそもそも一流とは何か?

一流と言う言葉は、大きく二つの対象に使われる。一つは物に対して、もう一つは人間に対してだ。ブランド品に対して、一流ブランドだとか二流ブランドだとか言われることが多い。僕自身、ブランドに対しては全く否定的ではないし、確かに一流ブランドというものは物としても本当に一流であることが多い。しかし勘違いしてはならない事は、一流ブランドを持っている人が必ずしも一流の人間ではないと言う事だ。どのような物を持ち、どのような物を身に付ければ“外見的”に一流なのか?それはその人にふさわしい物を身に付ける事である。だからエルメスを身に付けている婦人より、ユニクロを着ているアクティブな女性の方がはるかに一流で魅力的だと感じることも多い。もちろん、精力的に活動し、それによってお金を稼ぎ、そのお金でエルメスを買って身に付けているのならばその人にふさわしく、一流の物を身に付けた一流の人間だと言える。ある意味、一流ブランドは人を選ぶ。それはお金を持っているかと言う事では全くなく、その人の生き方・人間性が一流か?と言う事である。

では一流の人間になるためにはどうすればいいか?決して一流ブランド品を持っていたり稀有な体験をしているから一流という訳ではなく、一流の人間が一流の物を身付けているから価値があるのである。お金を持っている三流人間が一流ブランドを身に付けている事ほど痛いものはない。

人間が一流かどうかと言う事は、生き方・人間性・思想に由来する。常に人生に対して挑戦し続けているか?人に対して思いやりを持ち、困っている人を助けることが出来るか?深い思考によって物事を考えることが出来るか?一流とはそのような事である。もちろん僕自身がそのように完璧な人間か?と言われれば完璧ではないが、自分が出来る範囲の事だけでもそのような人間に近づきたいと思っている。

生き方を見れば、その人が何流かは大体分かる。見かけだけの張りぼてか?あるいは外見からは想像できないくらいの精力的な生き方をしている立派な人間か?もちろん、人間性も外見も両方立派であれば非常に素敵だ。

一流の人間は大体仕事にこだわっている。二流は趣味にこだわる。一流は趣味さえも仕事にしてしまうたくましさがある。ただ、決していくら稼いでいるかと言う事が問題である訳ではない。趣味と仕事は覚悟が違うと言うことである。覚悟を持って物事に取り組めているかと言うことである。

ゴルフ・全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したが、彼女は常にスマイルを出し続け、考え込んでいる様子は微塵も感じさせなかった。そこに一流を超える“超一流”を感じる。超一流は、生き方でも魅せ、結果でも魅せるのである。もちろん、そのような結果を出せる選手は一大会一人だけに限られる訳だから、そんなにボコボコ出現する訳ではない。しかし人間性は誰でも磨ける。まずは自分自身の人間性で魅せられる人間になることが目指す所ではないだろうか?もちろん人間であるからには、良い所もあれば良くないところもある。良くないところを矯正しても魅せる人間にはなれない。良くないところがあっても、良い所をさらにレベルアップし魅せて行くことが大事ではないだろうか。

内容を伴っていない言葉にこだわるから、全く前に進まない。日韓関係。

現在、日韓関係は悪化の一途をたどっている。僕自身もそれについて言いたいことはいろいろあるが、そこはまず置いておこう。ここでは、そもそも何がここまで問題をこじらしているのか?その原因となっている二つの言葉を取り上げようと思う。

一つ目は「謝罪」と言う言葉だ。韓国は日本に対して執拗に謝罪を要求している。しかしこの韓国の言う「謝罪」と言う言葉にはほとんど具体性がない。日本の政治家が言葉で謝っても、韓国は更に批判する。お金を出しても批判する。なぜならこの「謝罪」と言う言葉は何を意味するかと言う事については全く語られず、批判するためのツールに成り下がっているに過ぎないからだ。すなわち、この「謝罪」と言う言葉には中身がない。中身がないものを持ち出しても解決するはずがないのである。

二つ目は「未来志向」と言う言葉だ。もちろん、この「未来志向」と言う言葉の概念についてはおおよそ誰もがイメージしているだろう。しかし、日韓関係においてはこの「未来志向」という言葉が形骸化している。やはり何を持って未来志向的な行動かが明確に示されていないのだ。だから何をしても未来志向にならない。日本政府はかなり未来志向的に問題に取り組んでいる。しかし一つ言うならば、何を持って未来志向的な行動なのかを、行動する前に明示しなければならない。それをしないと、何をしても未来志向だとは認識されない。もちろん、そのようなことをしたからと言って解決する保証はない。韓国と言う国は条約を反故にし、ゴールポストを動かし続けるような国だ。そのような事をし続ければ、日韓関係云々と言う以前に韓国の国際的信用の低下につながると思うのだが。他国の事ながら余計な心配をしてしまう。

現在、日本の政治は安倍一強だ。そのことについて批判もあるが、それは日本国民が選挙によって選択した道でもある。確かに一強であるが故の問題も山積しているが、逆に一強だからこそできる事もあるはずだ。(何も憲法改正だけを念頭に置いて言っている訳ではない。)国際関係、特に日米関係では、今の所安倍一強が力を発揮しているようだ。もちろん、これまで上手く行ったからと言って、これからも上手く行くと言う保証はないが。

とにかく、現在の日韓関係はあまりにも不毛すぎる。そのような状況を解決するためにも、韓国の言う「謝罪」「未来志向」という中身のない言葉にこだわることはそろそろ止めにしなければならない。

共産主義国家?日本。

日本は資本主義国家・民主主義国家である。少なくとも建前上はそうなっている。選挙は公平に行われるし、経済は資本主義の原則に則って行われる。確かに民主主義、資本主義である。

そして何より日本人・日本社会は公平・平等を最重視する。これはこれでいいことかもしれない。しかしそれも度が過ぎれば、共産主義的システムに傾く。最近の日本社会は、いや、昔からかもしれないが、このような共産主義的システム、共産主義的文化に傾いているのではないかと思うことが良くある。

日本の賃金は年功序列で横並びとよく言われる。最近は徐々に変わりつつあるが、これも日本の部分共産主義的側面ではないかと思う。しかしそれはまだいい。日本人全体の思考が過度な横並び思想になり、文化的に共産主義的になって来ているところが気になる。日本に旅行に来る中国人達の中には、「日本に来て本当の共産主義を見た」と言っている人も少なくないと言う。中国では思想の自由が制限され、とてもじゃないが自由主義とは言えないが、経済システム・社会システムはかなり自由主義・資本主義的になって来ている。もちろん、中国では思想の自由が確保されていないので、それに比べると日本はある程度思想の自由があると言え、一応自由主義国家であると言える。(ただし完全か?と言えば断言できない。)

日本は中国とは逆行して、システムがどんどん共産主義的になっているように思える。現政権を支持するかどうかはともかく、自民一強・安倍一強である。富める者は急速に富んで行き、才能や人間性が端に追いやられている。弱者を救うことは非常に良いが、現在のセーフティーネットが本当に弱者を救い切れているかどうかは疑問である。そしてそのようなセーフティーネットを食い物にするどうしようもない人たちがいる。多くの弱者達は、自分が弱者であるが故、声を上げる事さえできない。政府・自治体が能動的に弱者を救おうとしなければ弱者は救えない。しかし、政府・自治体はコストのかかるセーフティーネットの行使を極力避けようとしている。

現在は一部の人たちが大きな富を持ち、弱者とは言えない普通の人が多数おり、ある程度多数の弱者が悲鳴を上げている。しかし日本の共産主義的傾向が進行すると、それらの普通の人たちが“平等”に弱者になってしまう。ほぼ全員が弱者である国が弱者を救う事は出来ない。なので弱者が普通の生活が出来るようになり、普通の人がさらにより良い生活が出来るようにならなければならない。もちろん、現在の弱者と普通の人のレベルが逆転しても良い。現在の弱者が努力して大逆転するのも大いにありだ。むしろそのような事が可能な世の中にならなければならない。

日本と言う国は、どれだけ成果を挙げたかと言う事が評価される国ではなく、どれだけ失敗しないかと言う事によって評価される国だ。そのような国で、国民が積極的に挑戦しようとなるはずがない。しかし、世の中を変えることが出来るのは間違いなく挑戦者だ。そのためには、積極的に挑戦しようとする者の足を引っ張るようなシステムにすべきではないと強く思う。しかし現実は、何も行動しようとしない従順な人たちには都合よく、挑戦者からは挑戦権を剥奪しようとしている。そしてそれは、弱者を救えない社会システムと大きく関わってきている。なぜなら、挑戦権のない社会は、弱者の再チャレンジの権利さえも奪うことを意味しているからだ。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

「楽しい」の先。

今、何かに真剣に取り組んでいる人は多いだろう。ではなぜ、その対象に真剣に取り組むのか?

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉があるように、楽しんで物事に取り組むことは非常に大切だ。そして人によっては、楽しむ事が一番の目的だと言う人も多いだろう。それも非常に素晴らしい事である。物事を極めて行くと、どんどん楽しくなる。その対象を理解し上手くできるようになれば、どんどん楽しくなる。ある意味、楽しさを感じると言う事は一つの到達点だと言えるかもしれない。

しかし物事を極めて行くと、その「楽しい」の先がある事に気が付く。スポーツに関しても学問に関しても、二流と一流の違いは、その先に気付くことではないかと僕は思っている。オリンピックで金メダルを取った選手が「非常に楽しめました」と言う事がよくある。その言葉は本当であろう。しかし、その金メダリストは、確実に「楽しいの先」を見通している。楽しいの先を見通しているからこそ、単に「楽しい」だけでは終わらせず、そのさらに上を目指せるのだ。テレビで金メダリストが言う「楽しめました」と言う言葉を聞いて、頂点に立つためには楽しむ事が全てだと勘違いする人がいるが、楽しむ事は必要条件であって、十分条件ではない。

では、「楽しい」の先とは何か?これは非常に難しい問題である。しかし一つ言えることは、本質を見ることに関係していると言う事である。本質を理解することは最大の喜びであり、また「楽しい」以上の快感である。しかし簡単には本質は理解できない。やはりかなりの修業を積まなければならない。そのような修業は決して楽なものではない。もしかしたら楽しくも何でもないこともあるかもしれない。しかし嫌ではないのだ。進んでそのような状況に身を置こうとしてしまう。なぜそのような状況にわざわざ身を置こうとするのか?それは「楽しい」の先を見ているからだ。「楽しい」の先とは何か?これは誰かが教える事ではなく、自分で気付くことだ。そして自力でそれを見通すしかない。

しかし初めは、楽しむという事が非常に重要だ。スポーツや学問を始めた子供なら、楽しむ事以上に重要な事はない。しかしそれを真剣に究めようと思うのならば、「楽しい」の先に気付くことは避けられないと思う。それに気付けば、あとはそこにたどり着くまでのビジョンを基に細部を詰めて行くだけだ。

心臓に毛を生やす。

僕は人生を積極的に、そして攻撃的に挑戦して行こうと前進している。そのような姿勢と安定は相反するものかもしれない。僕自身も安定を望んでいる訳では全くなく、むしろ人生に安定を求めたら自分の人生は終わりだと思っている。

しかし、そのように挑戦するためには、精神的には圧倒的に安定していることが必要だ。どんなことにも動じない精神力、そして圧倒的な余裕を身に付けなければならない。僕自身、数年前と比べると、かなり精神的な安定と余裕を身に付けて来れたと思う。しかしまだまだ完全ではない。僕の目指す所にはまだまだ達していない。しかしこれから、その目指す所にある精神力まで達する自信はある。そのためにこれからは心臓にどんどん毛を生やしていかなければならない。

心臓に毛を生やすとは面白い表現だと思うが、何なら脳にまで毛を生やして行こうと思っている。もちろん、頭に毛を生やし続けることも非常に重要である。精神は脳に宿る。ならば脳に毛を生やすと最強ではないか!心臓に毛を生やすことが出来れば、脳にも毛を生やすことが出来る。そのような毛だらけの精神を身に付けるために精神力を上げて行こう。

今現時点ではいろいろと苦しい事には間違いないが、ただ非常に充実している。目の前には明るい未来しかない。ただその明るい未来を完全に実現させるためには、まだまだ心臓に毛が足りない。挑戦し続けるために、どんどん精神的余裕を身に付けて行かなければならない。僕がまず実現すべきことはそのような圧倒的な精神力だと非常に感じている。そしてそれは実現可能だと確信している。

本の読み方、「専門書は2回読む」。

僕は平均よりはかなり本を読んでいる方だとは思うが、それらの本を読んで行くうちに自分なりの本の読み方というものを会得してきた。一般書に関してははっきり言ってどうでもよいと思っているので、軽く読む時もあればじっくりと読む時もある。そんなに読み方にこだわりは持っていない。

問題は専門書(論文を含む)の読み方である。僕は専門書をかなり買いためているので、はっきり言って全ての専門書を読破するのは不可能だ。そもそも専門書というものは読破するためにあるのではない。本に書かれている知見を基に、自分の構想を実現するためにある。だから専門書の読破にこだわることは無意味だ。しかしもちろん、じっくりと読破する専門書もある。しかし多くの専門書は、必要な知見を修得すれば、それで十分なのである。必要ない記述の所を読むのに力を入れるのなら、その力を他の専門書の必要な部分に向ける方が良い。

昔、僕の恩師の大学教授が、「本を最初から最後まで読もうとするのは素人だ。」と言っていた。学生のうちはどうしても「読破感」を求めてしまうので、最初から最後まで読もうとする。途中で読むのを止めるのは、必要な所を修得したからではなく、リタイヤが原因であることが多い。まあ、リタイヤすると言う事は、よっぽど無意味で退屈だからなのかもしれない。本当に必要だと思えば、何が何でも読み続けようとするものだ。

専門書を読む時は、一度目はかなり速いスピードで読み飛ばす。そして全体の概観を掴むことを重視する。数式の厳密な計算にもこだわらない。そして二度目はじっくりと細部を詰める。もちろん、計算も全て確認する。一度目の読書で概観を掴んでいれば、二度目は意外とすんなりと入るものだ。一度目の読書で概観を掴んでいるかいないかで、理解は大きく変わる。一度目から熱心に細かい計算をしていれば、それが何のための計算かわからなくなることがある。自分のやっている計算の意味を掴むためにも、一度目の速読は必要だ。

僕の専門書の読み方はこんな感じだ。もちろん、このような僕のスタイルは一夜にして確立された訳ではなく、長い時間をかけて確立されたものだ。そして僕に合っているスタイルが、他の人に対しても合っているとは限らない。時間をかけて、自分独自のスタイルを確立することが重要なのである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

高橋政代博士、民間企業に移籍。

理化学研究所の高橋政代博士が、理研から民間企業へ移籍したと言うニュースが報じられた。高橋政代博士はiPS細胞を用いた眼科再生治療研究の第一人者で、iPS細胞治療の臨床応用に関しても世界で初めて成功している。高橋博士の民間企業への移籍は何を意味しているのか?そしてこれから基礎研究はどのように進むのか?少し考えてみたいと思う。

もっとも、僕は医療に関して全くの部外者であり、医療の専門家でも何でもないので、再生医療の未来なんて言う大それた事は何も言えない。ただ研究者としての立場からは何等か言えることがあると思い、少し自分の意見を書こうと思う。

日本の研究者は大きく二つに分けられる。公的機関の研究者と民間企業の研究者だ。数学や理論物理ならフリーの研究者というのも可能である。高橋博士は公的機関から民間企業へと渡ることになった。公的機関から民間企業へと移籍すると言う事は、公的機関にいては何か不都合があったのだろう。それは何か?それは大きく二つにに分けられる。一つは研究遂行に関する事。医学研究ならばしっかりとした施設が必要だし、それらを含めて多額の研究費も必要になる。理研がそれらを満たしていないとは考えにくいが、高橋博士の構想に照らし合わせるとそれらを満たしていなかったのではと考えられる。あるいは例え理研がそれらを満たしていても、オファーのあった民間企業がそれ以上の研究費と優れた施設を保持していたのかもしれない。それならばほとんどの研究者はその民間企業へと移籍するはずだ。高橋博士がこれからその優れた企業で、これまで以上の優れた研究成果を挙げることを強く祈るばかりである。なぜなら、高橋博士の研究成果は、医療と言う形で社会利益へと直で結び付くからである。

もう一つは、個人的な利益である。個人的利益とは、一言で言うと報酬、そして地位や名誉だ。日本では特にこのような面を軽視しがちだ。ひどい場合には、「研究者は好きな事をしているから、お金はいらないだろ」と言われることもある。バカヤロー!研究者だって人間だ。だから人権もあるし、成果に対して対価を得る権利もある。日本では、いや、世界でもそうだが、研究結果がたどり着く最終工程、つまり製品化や医療行為に対してお金が集まる仕組みになっている。だから企業のトップが儲かる訳であり、医者が儲かる訳である。同じ医者でも、基礎医学研究者は基本的には儲からない。だからお金が欲しい医学部生は、医学研究者ではなく医者になり、最終的には開業医になろうとする。では、多くの開業医と、山中伸弥教授や高橋政代博士などの基礎医学研究者ではどちらが偉大か?百人いれば99人は同じ答えを出すだろう。(もちろん、優秀で偉大な開業医もたくさんいる。)高橋博士が個人的にどうであったかは僕には知る由はないが、研究者にとっても報酬や地位名誉は非常に重要である。

多くの研究は一見金銭的利益には結びつかない。もしかしたら社会的貢献からも非常に遠い位置に見えるかもしれない。しかしそれは多くの本質を見逃している。まず研究結果というものは人類すべての知の財産であり、人間社会に多大な貢献をしている。そして金銭的利益に関しては、それが一年後に金銭的利益に結び付くかと言えば絶望的であるが、10年後に結び付く可能性はそれなりにあり、50年後、100年後にはほぼ確実に結びついている。しかしその時にはほとんどの研究者は息絶えているだろう。だから、研究者がまだ息をしている間にそれなりの対価を与えることが必要だ。高橋博士の移籍はその実現例であったのかもしれない。いや、そう思いたい。今回の高橋博士の例のように、基礎研究者が民間で活躍し報酬を得られる仕組みを積極的に作って行きたいものである。高橋博士の場合は医学と言う医療に直結する分野だから実現したが、数学者がその基礎研究を民間企業で行い、報酬を得、地位と名誉を得られる日は来るのだろうか?少しだけ期待してみよう。