月別アーカイブ: 6月 2019

変えるべき事と、変えてはならない事。

物事を進める時、何を変えるか?あるいは何を変えないか?という事が大きな問題になる。しかし多くの場合、決断者が変えるべきだと決断すれば全てを変える方向へと動き、変えてはならないと決断すれば全てを変えない方向へと動く。しかし一番重要な事は、変えるべき事と変えてはならないことを区別することだ。

実は「変えない」という決断も非常に勇気のいる決断だ。なぜなら多くの人は問題にぶつかった時、変えるという前提で物事を進めがちになるからだ。なのでなかなか「変えないべきだ」という決断が出来ない。もちろん、変えるべきであることも多々ある。そのような事に対してはどんどん変えていかなければならない。

伝統というものは、不変であることを前提にしている。なので、伝統を変えるという事は非常に勇気のいる事だ。もちろん、伝統というものはそう簡単に変えるべきではない。なので伝統に関して考える時は熟考しなければならない。しかし、伝統と言えども決して不変なものではない。伝統も時代によって常々軌道修正されている。そのような軌道修正は、意識的にされることもあるし無意識的にされることもある。

人生というものは、毎日軌道修正の繰り返しである。日常において目にしたことを基に軌道修正し、あるいは本を読んで仕入れた知識を基に軌道修正することもある。しかし軌道修正するくらいならあまり決断はいらないが、時には大きく変革しなければならない時もある。しかし変えてはならないことまで変革してはいけない。そのような判断力を身に付けるためには読書も役に立つこともあろうし、あるいは専門分野の専門的思考が威力を発揮することもある。しかし、ただ知識を仕入れるだけではダメだ。そこに思考という加工を加えないと知識は自分の手足とはならないのだ。

広く、深く!

知見を追究する時、広く浅くか、狭く深くの二極に大別されることが多い。しかし実際には狭く浅く、そして広く深くというものももちろんある。狭く浅くは論外だが、意外と広く深くという選択肢は見落とされがちだ。もちろん、広く深くを追究することは容易なことではない。しかし、広く深くを追究することは人生において最もエキサイティングなチャレンジだ。

もちろん、全ての事に対して深く追究する事は、人間の寿命が有限であることから不可能だ。しかし、専門の事においては徹底的に深く、そして一般的な事に対しては徹底的に広くという事は可能である。もちろん、専門は一つのことだけでなくてもよい。第二専門、第三専門があってもよい。第一専門が数学と物理なら、第二専門が哲学・思想、第三専門が歴史学・社会科学などとしてよい。そこで大事な事は、第一専門では誰にも負けないナンバーワンになることだ。第一専門で徹底的な深さを身に付けることが、あらゆることに対してのジェネラリスト、すなわち広さを身に付ける原動力になる。

「広く」と「深く」は決して相反することではないし、大谷翔平の二刀流のように両立しうることだ。しかしプロ野球の世界で二刀流に成功しているのが現時点では大谷翔平だけであるように、決して簡単ではない。しかしそれは出来ないことの理由にはならない。なので、広く深くを目指そうと思えば、それなりの覚悟と行動、そして努力が必要である。もしかしたらリスクも取らなければならないかもしれない。しかし、それに成功した時にはそれなりの対価が得られるはずだ。とは言え、対価を得ることが一番の目的ではなく、自分に対する人間としての挑戦が一番の目的である。

あらゆる分野で、スペシャリストかつジェネラリストであるような人間がボコボコと出て来るようなことがあれば理想だが、それには社会がもう少し寛容である必要がある。大谷翔平選手がいた日本ハム球団が二刀流に寛容であったように。日本においては厳しい状況ではあるが、広く深くという究極の挑戦に挑んでみよう!

大切な書物。

僕は人に比べてかなり多くの書物を持っている。絶版になっている専門書などはかなり高額になることも多く、そのような書物を全て売り払えば高級車が買えるのではないかと思う。しかし何があっても生きているうちは書物を売り払うことはないであろう。なぜなら、書物は僕の人生の生命線であり、それらの書物を売り払うことは命を売り払うのに等しいからだ。

なぜ書物がそんなに大切なのか?それは、数学や物理の研究をするのには専門書や論文が必須だし、生きる上では社会に関する様々な情報を仕入れることが必要だからである。そのような知識を仕入れるのに必要な書物は、ない金を払ってでも購入するが、必要のない本や雑誌は適当に立ち読みなどをして済ませる。

その人の本棚を見ればその人の人となりが分かると言うが、さらに言えば、本棚はその人の第二の脳だと言える。本棚に置かれた書物達は、その人の脳の中身をさらしているのである。そして例え自分の記憶の中に残っていなくても、手に届く位置にある本を手にとって知識を確認できれば、それはその人の保持している知識であると言える。

失われた30年と言われる不況につられて、現在も出版不況だと言われている。不況時代において何を節約するかと言った時に、まず節約するのがどうやら書籍購入代であるようだ。それに対して、スマホなどの通信費は年々増加している。情報化社会と言われる現代においては、そのような傾向は避けられないのかも知れない。しかし数千円の専門書一冊あれば、それだけで一年分の知識を補えると僕は思っている。もちろん、ちょっとした読み物であれば数時間で読み切れてしまうが、一年かけて一冊の専門書を読むことによって身に付けられる思考力は、百冊の読み物にも勝ると思っている。人生のバイブルに一冊の専門書を指定して過ごすのも悪くない人生だと僕は強く感じる。

どん底を忘れない。

短くない人生を生きていれば、山あり谷あり、様々な状況に出くわす。その中でも、谷にいる時の方が感受性が高まり、少しの事に対してもその大切さ、幸せを感じることが出来るような気がする。そしていつかは山にたどり着くこともあろうが、そのような時に谷、いや、底にいた時の苦しみを忘れずに、取り組むべきことに取り組めるありがたさを感じ、猛烈に突き進みたいものである。

谷と闇は違う。闇にいては先が全く見えないが、谷からは山の頂上が見えることがある。あるいは頂上が見えなくても中腹ぐらいは見えるかもしれない。そして運が良ければ頂上までのルートも見えるかもしれない。ルートとはすなわち展望である。ただ、ルートが見えていても、その道を登るための登山技術が必要だ。そしてそのようなスキルは、山が高くなればなるほど高度なものが求められる。そしてスキルを身に付けるためには努力しかない。

もし頂上が見えているのならば、日々コツコツと積み重ねるに当たってのモチベーションにもなる。そして時には、どん底の頃を思い出し、今取り組める状態である事が恵まれている事に気が付く。今は山の中腹かもしれない。しかし頂上が見えているのならばもう少し頑張ってみよう。頂上を見失わないように。頂上に行くまでは実感は湧かないが、もしかしたら今は頂上に非常に近いところまで来ているかもしれない。何とか今を切り抜けてみよう!

「知ること」ではなく、「創ること」。

現在は情報過多社会であると言われている。知りたいことがあればネット検索によって瞬時に表示することが出来る。そして社会においてはビッグデータというものが大きな価値を持ち、社会の行方まで決めてしまいそうな勢いである。では現代において情報の価値は上がったのか?それとも下がったのか?

もちろん、情報と言っても様々であるので、一括りで「情報の価値」と言ってもこれまた様々である。ただ一つ言えることは、ネット検索で瞬時に得られる情報などは何の価値もないと言う事だ。しかしそのような何の価値もない情報を価値のある情報に変えることも可能である。それは、得られた情報に思考という作業を加えて創造することである。従って「情報を知る」のではなく、「新たな情報を創る」のである。それが出来ると、ありふれた無価値な情報も、自分独自の価値ある情報へと変貌する。

得られる情報などは、国家機密とかでない限り誰でもそう変わりはない。ネット検索によって得られる情報は言うまでもないが、書籍に載っている情報も基本的には誰もが手に入れられる状態にある。なので得られる情報自体には何の価値もないことが分かる。ただ。書籍に書かれている情報を得るためには、ある程度の能動的なアクションが必要である。まずは書籍を手に入れて、そして「読む」というアクションを起こさなければならない。そういう意味では、ネット検索で得られる情報よりも書籍を読んで得られる情報の方が若干価値があると言えないこともない。しかしそれは、ネット検索によって得られる情報の価値が0.1くらいだとしたら、書籍を読んで得られる情報の価値は0.5というくらいのものである。しかしそこに「思考」という加工を加えると。その価値は100まで跳ね上がる。そのような事を繰り返し行っているのが、数学や物理学という学問だと言える。

「知ること」から「創ること」への脱皮は簡単な事ではないかもしれないが、小学校から大学まで繰り返されていることはこのような事であると思う。知ったかぶりには何の価値もない。しかし「創ったかぶり」(と言う言葉があるかどうかは知らないが)になることを目標にして生きるとこには大きな価値があると考えている。ビジネスも学問も創ったかぶり競争である。そしてそのような創ったかぶりな人間を、独創的人間と言うのである。

他人ではなく、まずは自分がどう納得するかだ!

社会の中で生きている限り、他人からの評価からは逃げられない。学校での評価、会社での評価、人間関係の中での評価など、他人からの評価はいたるところに存在する。なのでどうしても他人の眼というものは気になるものだ。もちろん僕だって気にはなる。しかし過度に他人の眼を気にすることは、自分の進むべき道を誤らせるのではないかと考えている。

他人からの評価と言う以前に、まずは自分自身によって評価をしなければならない。どんなことも、まずは自分が納得できなければそこから大きく進展させることは難しい。自分が納得して、初めて他人からの評価へと移れるのである。自分が納得するためには、まずは自分が納得できることに取り組まなければならない。しかしそのためには、自分で物事を判断し、評価できる眼を持たなければならない。しかしそのような眼、そのような判断力を身に付けるためには、自己思考力を持たなければならない。何事も、自分の頭で考えるという事が初めの一歩になる。

世間の評価とは、意外と偏見に満ちている。あるいは流行にとらわれていると言って良い。そしてもちろん、自分の判断というものも偏見にとらわれている。偏見というものは人間の存在するところならどこにも存在する。偏見をなくそうとはよく言うが、正しくは「偏見を克服する」と言った方が良いかもしれない。しかしそのような偏見に押しつぶされそうになることも多々ある。そのような時に力になるのが、自分自身による自分自身の評価だ。自分自身の評価が正しくされ、それに納得できていると、それが窮地を切り抜ける羅針盤となる。自分がどのような方向へ進めば良いのか?四方八方ある方向性の中のどちらに進めば良いかということは難しい判断であるが、自分自身の自己判断力によってある程度絞り込まれるはずだ。

他人からの評価と自分自身の評価というものは、社会を生きるに当たっての、そして自分の人生を進めるに当たっての両輪である。しかし世間の眼や流行ばかりに目を奪われていると、正しい自己判断が出来なくなる。そして自分が他人を正しく判断するためにも、まずは自分を正しく判断できる人間にならなければならない。そして自分自身で正しい判断を行い、自分自身が納得できると、後になってそうは後悔することはないはずだ。

マイナーリーガー。

マイナーリーガーという地位は非常に微妙だ。マイナーリーガーもプロ野球選手とは言われているが、その待遇はある意味素人より厳しい。あるマイナーリーガーは、「球場でプレーしている選手より、球場でポップコーンを売っているアルバイトの方が給料が良い」とも言っている。そして現実に示されている給料を見ると、全くその通りである。メジャーリーガーの平均年収は数億円とも言われているが、マイナーリーガーはバイト以下である。しかしこのことは、アメリカンドリームと言われるものが今でもアメリカに根強く存在する証だとも言える。

自分が取り組んでいる事においてプロになろうと思えば、どの業界でもマイナーリーグ的な所を通らなければならない。マイナーリーガーとは可能性の塊である。しかし、マイナーリーガーになろうと思えば、かなりの覚悟も必要である。実力云々と言う以前に、覚悟の問題で脱落する人がほとんどだ。なので、まず強い覚悟を持つという事が一つ目の大きな実力であると言える。バイト以下の状況に耐えられるか?そこがプロへの出発点である。

しかし日本はある意味かなり甘い。ほとんどの人が中間層にひしめき合っている。一昔前は「一億総中流社会」とも比喩されていたが、今では全てがその二割減であると言えるかもしれない。しかしその二割減のレベルにほとんどの人がひしめき合っている。そこから上はほとんどいないが、下はそこそこいる。そのような状況であると言えるのではないだろうか?しかし中流でもそこそこ食べて行ける。しかしプロを目指そうと思うと、マイナーリーガーを経なければならない。しかしマイナーリーガーになることはリスクが高すぎる。なので中流的ポジションを維持しようとする。

この様に自分で選んで、そしてリスクを避けて中流にいるにもかかわらず、上流への批判意識は強い。もちろん、上流の人たちが全て大きなリスクを取って来たかと言えばそうではないとは思うが、少なくともプロと言われる人はかなりリスクを取って来たはずだ。

僕は、まだ明確には先が見えていないマイナーリーガーから、メジャーのトップが見えてその足場にいるマイナーリーガーになることが出来た。あとは足場を一歩一歩構築して行き、枠組みを埋めて行くだけだ!

明日死ぬかもしれないから、今日やらなければ!

別に明日死ぬことはないとは思うけど、明日死ぬ確率は誰しもゼロではない。もちろん60年後まで生き延びているかもしれないが、確実に言えることは、人間の寿命は有限なので、誰しもいつかは死を迎えるという事だ。だからそれを前提に物事を進めなければならない。しかし成し遂げるべきことが、今日一日で出来る訳ではない。一日一日の積み重ねが成し遂げるべきことへの成果として表れる。だから「明日死ぬかもしれないから、今日積み重ねるべきことを積み重ねることが大事だ」と言えるのかもしれない。

しかし、一日一日物事を積み重ねるという事は、根気がなければできない。あるいは鈍感であることも必要かもしれない。僕はかなり鈍感なので、あまり気にせずに一日一日積み重ねることが出来ると思っている。鈍感力というのも意外と力になるものだ。

もちろん、一日一日積み重ねるためにはゴールが見えていないといけない。ゴールが見えていないと何をしてよいのかも判断できない。そしてゴールまでのビジョンを持つことも大切である。しかしゴールはそれを達成した時、スタートに変わる。そのようにゴールとスタートを繰り返すことが出来れば、物事はどんどん上手く回って行くものだと思う。

すべきことを毎日積み重ねるだけであるが、そのような繰り返しを実行できることが強さに結び付くのだと思う。毎日の繰り返しと言うと退屈に思えるかもしれないが、それが自分のすべきことだと認識していれば、それがやりがいにもなる。物事を成し遂げるためにはそのようなルーティンが大切である。「継続は力なり」という“継続”の必要性をどこまで認識し、どこまで実行できるか?そこに未来の自分がかかっている。

屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ!

世の中では、物事を論理的に説明しようとすると、「それは屁理屈だ」と反論する人がいる。では、その様に反論する人がより道理的な事を言っているかと言えば、ほとんどの場合全く理に適ったことを言っていない。むしろ、理に適ったことを言えないので、「屁理屈だ」という言葉でそれまでの相手の論理を全否定しようとする。

しかし僕は、「屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ」と思っている。なぜなら、屁理屈は理屈への出発点であり、理屈は論理の原点であるからである。理屈が言えない人は皆、論理を語ることが出来ない。

しかし人間社会においては、論理で語れないこともたくさんある。世の中や人間関係は論理ではない。しかしそのような論理でないところを理解するためにも、論理的思考力は必要である。論理的に物事を考えられない人は、論理で語れないことも理解できない。僕自身、普段は物事を論理的に考えることを出来るだけ避けている。そして論理で語れないことを大切にしている。しかしそう考えられるのも、自分に論理というバックグラウンドがあるからだと思っている。

論理的に考えられない人が論理でないことを語り出したら、全てが崩壊する。論理的であること、そして論理的でないことを全て成り立たせるためにも、論理的バックグラウンドは必要である。もし論理など必要ないと言うのなら、人間とその他の生物の違いもなくなってしまう。もしそうなら、人間はオオカミと同じ生活をしているはずだ。しかし現実には人間には独自の生活様式が存在する。その根源は、理性、知性というものを人間が保持している事にあり、理性や知性は論理、すなわち理屈なしには語れない。屁理屈に始まって、それを知性にまで高めることが出来れば、物事の捉え方が大きく変わるはずだ。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。

記録なんて、ちっぽけなもの。

大谷翔平選手を見ていてそう思う。大谷選手は、打者に専念すればホームラン王を取れる可能性を秘めているし、投手に専念すればサイヤング賞を取れる可能性を秘めている。野球評論家の中にも、打者に専念した方が良いとか投手に専念した方が良いとかいろいろと声が上がっている。もちろん、どちらかに専念すれば様々な記録を残すことが出来るだろう。しかし僕を含め、多くの人はそのような記録ではなく、二刀流という前人未到の挑戦を目撃したいのではないだろうか?

そのような事を考えると、打者としての記録や投手としての記録なんてちっぽけなものに思えてくる。大谷選手は、記録を作るのではなく、新しい記録部門を創出することこそふさわしいのではないだろうか?大谷選手の出現により、二刀流に関する新記録部門が出来ればそれほど面白い事はない。なぜなら、ホームラン王と言えども10年あれば10人出て来ることになる。最多勝投手だって同じである。しかし大谷選手が記録部門を作れば、それは大谷選手によって創られたと永遠に語り継がれることになる。

賞を取ることは非常に意義がある。しかし毎年与えられる賞なら10年で10人出て来る訳であって、新しい受賞者によって次々と上塗りされる訳である。もちろん、イチロー選手の最多安打記録のように、唯一の記録も存在する。そのような事を考えると、イチロー選手の成した仕事の大きさに改めて驚がくする。

イチロー選手がメジャーで次々と記録を打ち立てていた頃、少なくとも日本人でこれに匹敵する記録を残せる選手は出ないのではと誰もが思った。しかしイチロー選手が引退したと時を同じくして、大谷選手がそれに匹敵するような活躍をしようとしている。大谷選手は誰もが憧れるスターだ。しかし憧れることは簡単でも、それを目指すことは簡単にできない。さらにそれを成し遂げる事はほとんどの人は出来ない。しかし今日本に必要なのは、あらゆる分野で大谷級のホームランを飛ばす人材ではないだろうか?なぜか日本人は初めからそんなことは不可能だと決めつけてしまう。他人に対しても、自分に対しても。しかし、大谷級を目指す人が一人でも多く出て来るような土壌を作ることが必要である。そのような人の中から、一人か、あるいは二人か、大谷級のホームランを飛ばせる人が出て来るのではないだろうか。

「無思想」の怖さ。

思想を持つことに対して、どう思っているだろうか?思想は人々を自由にする可能性を秘めており、人間が自律的に活動するためには思想を持つことが不可欠だ。その一方、世界のある地域では過激思想派と言われる人たちが紛争やテロを起こしている。すなわちそれらのいわゆる過激思想と言われているものが、人々を不幸に陥れている。人によっては思想と言えば過激思想を連想する人もいるかもしれないが、僕に言わせれば、そのような過激思想は非常に陳腐なものであり、思想とは言えないものである。なので過激派を思想と結び付ける事には僕は大きく違和感を覚える。そもそも、過激思想をたどって行けば、それは一部の人の単なるエゴに過ぎないことが分かる。

では、無思想についてはどうであろうか?実は無思想というものは非常に大きな危険性を秘めている。その典型的な実例が第二次大戦中のナチスである。ナチスの幹部であり、数百万人のユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだアイヒマンは、その行為から考えるととてつもない極悪人に思える。しかし戦後、イスラエル当局が捕まえてみると、アイヒマンは極悪人という印象とは程遠い「無思想」な人間だったという。無思想であるが故に、事務的にユダヤ人を拘束し、機械的にユダヤ人を収容所へと送っていたという。すなわち、アイヒマンは何も考えない無思想な人間であったからこそ、あれほどまで残虐な行為を行えたのだろうと考えられている。

アイヒマンの実例から見えてくるものは、無思想、そして思考停止することの怖さである。ある意味、自分なりの思想を持つという事が人間らしさであると言える。無思想とは極論を言うと、非人間的人間であると言える。無思想は何も生み出さない。そしてそれは時にはナチスのような残虐な側面を見せる。しかし多くの人は、自分は特に思想は持っていないが、そんな残虐な事はしないと思っているだろう。では、自分は選挙の時にはしっかりと投票に行っているだろうか?思想とはそのような日常から生まれるものである。選挙で投票するとは、自分の意思表示であり、思想の表現である。その反面、選挙に対する無関心は無思想の表現だと言える。だからどの党のどの候補にでもいいから、自分でしっかりと思考して投票することが重要なのである。投票は国民に与えられた国政、地方政治に対する最大の思想表現なのである。そしてそのような「投票」という思想表現が政治を動かし、世の中を良い方向へと変えて行ける可能性を作るのである。

しかし現実を見ると、世の中には無思想な人があまりにも多い。さらに日本では、思想表現をする人を毛嫌いして排除しようという風潮さえある。しかし本当に危険なのは、思想を表現することではなく、むしろ無思想な方なのである。例え日常の小さなことに対してでもいいから、自分でしっかりと思考して自己表現することが非常に重要なのである。

僕の強み、僕の面白さ。

頂点を極める人の多くは、途中で何らかの挫折があるにしても、全体的に見れば調子良く進んでいる人ではないだろうか?テレビなどで成功者を特集した番組を見ると、大概途中で大きな挫折をしたというのがお決まりのパターンだ。しかし僕から見れば、「そんなのは挫折でも何でもなく、一つの失敗に過ぎないのでは」と思うことがよくある。もちろん、成功者がこれまで全て上手く行ってここまで来たと言ったら話にならない。なので「挫折したけど、それを乗り越えてきた」と言いたいのだろう。しかしそこそこの失敗(挫折)などは誰でもある。なのでわざわざ「挫折を乗り越えてここまで来た」という話を作ることもないのではないかと思う。

僕自身、これまでどうだったか?一言で言うと、致命的な出来事はあった。ただし結果論から言うと、致命“的”であって、致命傷ではなかった。なぜなら、僕は今生きている訳だし、現在人生の中で最も意欲的な時期を送っているからだ。そしてこれが僕という人間の最も面白い所であり、強みでもあると思う。なぜなら、致命的な状態になり、どん底の状態を経験しながらも、今世界の頂点を本気で目指している。学問の世界で頂点を目指すとはあまり使われない言葉であるが、そのようなレベルの結果を出すべく進んでおり、勝算もある。

学問の世界で、ここまで致命的な状況に陥り、そこから這い上がった人はいないのではないかと思う。予定調和という言葉からは程遠い道のりである。最も打ち込むべき時期である大学・大学院時代に打ち込める状態ではなかった。しかし今はほぼ万全の状態だ。だから今はとことん攻めている。しかしそれでもまだ僕は満足していない。もっと調子を上げないといけないと思っている。そして今の自分ならそれが出来ると思っている。

このような道のりを歩み、研究に突き進んでいる研究者は他にいないのではと思う。そしてこれまでの道のりもあり、ポジション的には非常に苦しい位置にいる。色々な面で今は非常に苦しい。しかし今、非常にエキサイティングな人生を満喫している。苦しさと刺激的楽しさは両立するのである。とは言え、このような人生は命がけでもある。何も比喩で言っているのではなく、本当に命を懸けている。しかしだからこそ、ここまで攻めた人生を送れるのだと思う。

今、一つ目の結果に手が届くところに来ていると実感している。もちろん、もしそこに届かなければ文字通り命取りである。そして僕は貪欲なので、一つ目の結果を出せれば、そこからさらに前に進む用意がある。とにかく今は非常にエキサイティングなのである。いつか安定することはあるのだろうか?と思うが、安定など来ないことを願う。いつまでも人生を攻め続けて行きたいと思っている。

遠回り。

僕は英語に対してずっと苦手意識がある。“苦手意識”ではなく、“苦手”と言った方が正しいかもしれない。英語の読み書きリスニング、全て苦手である。とは言え、科学における標準言語は英語であるので、英語が出来ないと論文を読むことも書くこともできない。なので必要に迫られて科学英語論文は日常的に読む。しかし読めるのは科学論文や専門書の英語だけで、子供が読むような童話英語は逆に読めない。

しかしこのままではダメだ。科学を知りたければ、まず英語をマスターするところから始めなければならない。もちろん、今のままでも論文英語は読める。しかし完璧に英語をマスターしている訳ではないので、読むスピードも遅いし、英文理解も浅い。なのでまず、英語を理解することによって科学を攻撃的に攻めようと思い、最近英語を勉強し直している。

しかし、英語のし直しはこれが初めてではない。これまで幾度も英語に挑戦したが、なかなかマスター出来ずに挫折を続けてきた。どの英文法の本を読んでもなかなか理解できない。そして初めの数十ページを読んで折れるの繰り返しだった。

ところが最近、一冊の英文法の書物に出会ったのだが、これが非常に分かりやすい。論理より感覚に訴えて来る書物だ。しかしその感覚が非常にツボを突いていて、結果論的にはそれまで読んで来た書物よりも論理的であるように思える。全533ページのなかなか大部の書物だが、初等的な所から少し踏み込んだところまで感覚的に、しかし論理的に書かれている。これまで幾度も英文法に挑戦し挫折してきた僕にとっては、目から鱗の一冊である。参考のためにここにその書物を紹介しておく。

(「総合英語 FACTBOOK  これからの英文法」 大西泰斗/ポール・マクベイ著 桐原書店)中学生でもわかるような、初等的な所から書かれた良本である。

急がば回れ!まずは英語を理解して、科学論文を攻めよう!

お金のかかる科学。

科学には、お金のかかる科学とお金のかからない科学が存在する。数学や理論物理などの理論系はお金のかからない科学の代表であろう。そしてそれらの科学は、やろうと思えば一人で実行できる。そのような意味で手軽な科学だと言えない訳ではないが、だからと言って簡単な科学である訳では全くない。お金がかからない分、頭脳が圧倒的に必要になる。おそらく科学の中で一番頭を使うのが、数学と理論物理ではないだろうか?お金がかからない分、やろうと思えば中学生でも研究できるのではないだろうか?しかし間口は広くても、それを実行できる人は非常に限られてくるのではないかと思う。

物理においても、実験物理となると途端にお金がかかることがある。特に加速器などを使用する素粒子実験はお金がかかる科学の代表と言える。現在、東北地方に建設が計画されている加速器の建設金額は数千億円と言われる。これは国際プロジェクトなので全てが日本が負担する訳ではないが、とにかく巨額である。このような巨額科学プロジェクトを、費用対効果だけで評価してはとても実行できるものではない。科学の価値というものは費用対効果だけではなく、純粋な科学的価値という側面もある。しかしこれの難しい所は、誰もが科学的価値を認識できる訳ではないということである。むしろ科学的価値を認識できない人の方が圧倒的に多い。それらの人にどう理解してもらうかは、科学に関わる人の重要な課題である。

そして科学的価値というものは、研究費などの金額に比例しない。書籍と紙と鉛筆だけで出来るお金のかからない科学の中にも、圧倒的な科学的価値を持つものも多く存在する。それらの代表が相対性理論であろう。アインシュタインは紙と鉛筆だけで理論を完成させた。しかしその理論の影響力は圧倒的である。数千億かかる巨大プロジェクトよりも圧倒的に価値がある。とは言え、そのような巨大な価値を生み出せる科学者というものは、百年に数人と言ったところだろうか。

現代科学の多くは多額のお金がかかり、世間においても科学はお金がかかると言った認識が浸透しているのではないだろうか?もちろん、お金がある方が大きな成果を生み出せる科学も多くある。むしろそのような科学の方が圧倒的多数ではないかと思う。そういう意味では世間の認識は正しいと言える。しかしそれは結果論であって。科学の価値はそれにかかる金額に比例しない。そしてそこから生まれる儲けの金額とも関係ない。儲けの金額は、科学的価値ではなくビジネス的価値である。科学の価値を純粋に判断できる価値観を持つことは、世の中のあらゆるものが持つ本質的価値を見抜く力に通じるものがある。物事の本質を見抜く目を養うためにも、科学そのものを理解し、それらの価値を判断できる力を付けることが必要ではないだろうか?そして世間一般の人たちがそのような力を付けることは、ビジネス的な利益を含めて大きく国益にも貢献するはずだ。

常識を疑う。

人間というものは、日々常識に基づいて生きている。常識通りに生きることが良いか悪いかは別としても、日常生活において毎回常識を疑って行動していれば何も取り組めなくなるし、進むものも進まなくなる。従って常識を知るという事は人間にとって必要不可欠なものだ。

しかし、常に常識が正しいわけではない。別に重要ではない事に対して深く疑う必要はないかもしれないが、自分の生きる進路に関わる事や自分の深い信念に関わることに対しては、それが本当に正しい事か?あるいは本当にそうすべきか?という事を熟考しなければならない。そうすれば、意外とこれまでの常識が正しくなかったり的外れであることに気付く。そしてそれが正しくないことに気付けばそれはチャンスだ。なぜなら自分がそれを本当に正しい事に導ける可能性が出て来るし、新しい発見につながることがあるからだ。

科学研究というものは、まずは常識を疑うことから始まる。というより、常識通りにしか出来なければ、単なるこれまでの常識の確認にしか過ぎない。科学とは常識の覆しの繰り返しである。だから、これまでに積み重ねられて来た知識の習得より、これからのビジョンの方がはるかに大事である。知識があり計算能力に優れていても、ビジョンのない者は結果を出すことはできない。ところが日本においては、ビジョンを持つことの重要性を指摘する人があまりにも少ない。それに対して、受験勉強の重要性を認識している人は多いが、受験勉強とはこれまでの知識の習得であり、それだけでは何も未来を切り開けないのである。

常識を疑うことはかなりエネルギーがいる。ある意味、常識に従うことの方がはるかに楽なのである。世の中では常識を知っているか?知らないか?という事が人間を判断する基準にされることが多いが、それ以上に重要なのは常識を疑うことが出来るエネルギーがあるか?ということである。そして新しい荒野を切り開くことが出来るのは往往として常識を疑うことが出来る人間である。常識を疑いどこまで真理に迫れるか?それは人間が生きる上で非常にエキサイティングな挑戦であると言える。

なぜ笑う?

ラグビーW杯100日前イベントで、前回のW杯で活躍した五郎丸歩氏が「日本が優勝します」と言ったところ、会場から笑いが起こったという。僕はこのような嘲笑に対して怒りさえ覚える。そもそも当事者たちが努力して汗を流しながら上を目指しているところに、傍観者たちが「そんな事出来るはずはない」と言える資格はあるのだろうか?当事者たちは本気で優勝を目指していると思う。もしかしたら当事者の中にも、ベスト4に残れば良いと思っている人もいるかもしれないが、プロの現役プレーヤーとして優勝を目指すことは自然な事だし、当然の事でもある。

今回の出来事を見て、サッカーの本田圭佑選手の事を思い出した。本田圭佑選手も、W杯の度に「優勝を目指す」と言っていた。そしてその時にも周りの傍観者たちは、本田選手の発言に対して嘲笑していた。努力をしているのは傍観者ではなくプレーヤーである。そしてそれらのプレーヤーが優勝を目指していることを、傍観者が否定するような社会に対して、果たして未来を期待できるだろうか?

僕が目指しているところは、周りから見てとてつもなく高い所にあるように見えるのだろうと思う。そしてそのような目標を持つことに対して、否定されたりバカにされたりすることは多い。しかし自分の将来を一番見通せるのは自分自身である。もちろん、何の努力もせずに、何の根拠もなしに、とてつもなく高い目標を掲げるのは明らかにおかしい。しかし自分は努力を行い、そして具体的なビジョンをもち、それらを基に達成できるという勝算を持っているのである。同じように、あるいはそれ以上に努力して実績を挙げている人から「まだまだ足りない」と言われるのならまだわかるが、平々凡々に当たり障りなく生きている人から嘲笑される筋合いはない。

僕は五郎丸氏や本田圭佑氏の発言を本気で信じている。もしかしたらそれが達成できる確率は1%かもしれない。しかし可能性は確実にあるのだ。それを当事者たちが本気で言うのなら、それを信じる価値はある。彼らに言わせれば、人間は二通りに分けられると言うのかもしれない。頂点を目指す人と、そうでない人。そして頂点を目指している人が頂点を目指せる環境を作ることが大事なのではないだろうか?僕は彼らを、そして自分を本気で信じている。

ベンチャーヒューマン。

多くの人間は、歳を取るごとにチャレンジ精神が薄れて行くようだ。それはもしかしたら、守るべきものが増えて行き、人生も守りに入るからなのかもしれない。とは言え、守りの人生が悪い訳ではないと思う。時には何かを守ることが攻める事よりも難しいこともある。特に家族などの人間を守ることは大変だ。守るべきものを守る。この当たり前のようなことを当たり前に出来る人間は尊敬に値する。

しかし、守るべきものも特にないのに、人生を守りに入っても仕方がない。そのような時にはやはりとことん攻めるべきだ。企業にベンチャー企業というものがあるように、人間もにもベンチャー精神が必要だ。自分がベンチャーヒューマンだと思うならば、とにかくチャレンジを繰り返し、多くの失敗を経験し、そこから大きな成功を掴まなくてはならない。

もちろん、守るべきものがあってもベンチャー精神を持つことは必要だ。そして時には守るべきものを守るために攻めなければならない時もある。攻めることが出来ない人は、守ることも出来ないと僕は考えている。ベンチャーとは何も若者だけのものではない。例え中年であっても、ベンチャー精神を持つことは大きな力になる。歳を取って死ぬ直前までチャレンジし続ける。そのようなベンチャーヒューマンであり続けたいと僕は考えている。

世の中の人間を見ていると、大きく二極化しているように感じる。失敗を恐れずにチャレンジを繰り返すベンチャーヒューマンと、自分を守る事ばかりに専念する人間とに。人間は何のために生きるのか?そのような事を追究すると、やはり常に挑戦し続けるべきではないか?という結論にたどり着く。少なくとも僕はそう思うのである。

心の余裕。

現代社会はストレス社会とも言われ、心の余裕を持つのは簡単ではないのかもしれない。しかし、心の余裕を持つことによって視野が広がり、そこから創造的な発展へとつながるのではないのかと常々思っている。

頭脳をフル活用して、精神の全てをつぎ込むのは理想的かもしれない。しかし全てをつぎ込んでも、さらに余裕があればなおさら良い。余裕を持つとはある意味オーバースペックを保持することであり、普段は使わないが、いざという時にはさらに有り余る能力があるぞという余裕が非常に重要ではないのではないかと思う。

パソコンでは、ストレージと呼ばれる記憶領域がある。最近は何テラとも言われる大容量のストレージを持つパソコンも多くなったが、日常生活でパソコンを使う限りではそんな大容量のストレージを使うことはほとんどない。しかし、ストレージの余裕があるほど処理能力は速くなる。そういう意味では、オーバースペックというものは能力を最大限に発揮する活力源だとも言える。そしてそのような余裕から来る潜在能力というものは、あらゆる事に対して力を発揮する。

精神的な余裕を持つ男は格好いい。僕もそんな男になりたいと思っているが、細かな事が気になったりもしてなかなかそのようになれない自分がいる。しかし、自分という人間が日々進化しているという実感もある。そのような進化の中、余裕を持てる男に少しずつ近づいているのではないかという実感もある。

今は自分という人間のストレージ(とメモリ)の容量を増やし、余裕領域を広げて行くことに注力している。そしてここぞという時にはそのような能力をフルに生かし、最大限の力を発揮できるようにしなければならない。少ない要領でやり繰りするのではなく、オーバースペックの余裕を持てる人間になろうと日々精進している今日この頃である。

学問と芸術。

学問と芸術、この二つの取り合わせに対してどのような印象を受けるだろうか?もしかしたらほとんどの人は、学問と芸術は全く違う対照的なものと思うかもしれない。しかし学問とは芸術的側面も持ち合わせており、この二つは切っても切り離せない関係であるように僕は思える。

絵画を見る時、「美」という感性は大事だ。もちろん「美」以外にも多くの判断基準があるだろう。しかし「美」はその最も大きな判断基準であるように思える。そして数学や物理においても「美」という判断基準は非常に大事である。ある理論が価値のある理論か?という判断をする時に、数学者や物理学者は美的センスをフルに働かす。さらに理論の方向性を決定する時に、「美しいのはどの方向か?」という事を見抜き、正しい方向へと進むことも多々ある。アインシュタインは理論の美というものを非常に大事にしていたと言われる。実際に、相対性理論は非常に美し理論である。素晴らしい理論には往往として美を備えている。

この様に、学問は芸術的側面を備えている。学者は数学や物理の理論を構築するに際して、芸術作品を創造するような感覚を覚えることがある。このようなレベルになると、芸術と学問を区別することもバカバカしくなる。極論を言うと「学問は芸術である」とでもなるのだろうか?学問が芸術であったとしても、その逆に、芸術が学問なのかは僕にはわからない。もしかしたら学問を追究するように芸術を究める芸術家もいるのかもしれない。

はっきりと言えることは、学問と芸術は相関性があるという事だ。それは学問を究めれば究める程はっきりとしてくる。学問の研究者には芸術に対しての理解が深い人が多いように思える。一つの分野だけの殻に閉じこもっている人の多くは陳腐だ。学問の中にある芸術的側面を捉え、それによって学問研究を遂行する感性を持つことは非常に大事である。

転んでもただでは起きぬ、鋼のメンタル。

転んだり失敗した時にどう思うだろうか?もちろん、転んだらそこから起き上がろうとする。その時どこを目指して起き上がろうとするのか?多くの人は転ぶ前の状態を目指して起き上がろうとするのではないだろうか?もちろん、それでも大きな復活と言えるのかもしれない。しかしそのもう一段上を目指すのも大きな手ではないだろうか?

そのもう一段上とは、転んで復活する時に、転ぶ前よりさらに上を目指すという事である。転ぶ前と同じなら、転ばなかったのとそう大差はない。しかし転ぶことによって学ぶこと、気づくことはいくつかあるはずだ。それらの事を生かすと転ぶ前よりステップアップすることは不可能ではないはずだ。

ただ、そのためには鋼のメンタルが必要だ。僕自身、特に鋼のメンタルを持っている訳ではないが、今鋼のメンタルを持っていないからと言って、そのような事が不可能だとは思っていない。今持っていないのならばこれから身に付ければ良い。もちろそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないはずだ。

転ばないでそのまま行けば、鋼のメンタルを身に付けるきっかけは訪れない。すなわち転んだことは、鋼のメンタルを身に付けるチャンスなのである。もちろん、一回の失敗だけで大きくメンタルを強化することは難しいかもしれない。それなら失敗を繰り返せばいい。失敗を繰り返すことによって、その度メンタルを強化すればよいのである。

失敗は大きなチャンスである。しかし失敗をネガティブな事と捉えている人があまりにも多い。失敗をどう捉えるかによって、その後の人生は大きく変わる。いくつもの失敗を一つの大きな成功へ結びつけるために、失敗を飛躍のきっかけにしたいところである。

失敗ドンと来い!

最初なのに、最後の力を振り絞っているような・・・。

力を振り絞ると言っても、毎日全力で力を出し切れている訳ではない。調子が良い時は大きく前に進むが、調子が良くない時はどうしても停滞してしまう。人生なんて山あり谷ありなので、常に絶好調という訳には行かない。

人間というものは二つに分けられる。これからの人か、これまでの人か。この事に年齢は関係ない。歳を取っていてもこれからの人は少なからずいる。その一方、年齢は若くてもこれまでの人はかなりいるように思える。では、これからの人とこれまでの人は何が違うのか?それは挑戦をしているかどうかという事だと思う。あるいは向上するために努力をしているかどうかだと思う。もちろん、これからの人の未来は明るい。そしてこれまでの人のこれからは余生あるいは惰性なのかもしれない。

人間には寿命があるので、年齢が全く関係ないとは言えない。歳を取っていると、死ぬまでの年月は確実に少なくなっている。しかし死ぬまでの時間が少ないからと言って、未来がないという訳ではない。目標を持ち、それに突き進んでいれば、未来は自ずと明るくなる。もちろん、体力的にも精神的にも苦しいかもしれない。しかし自分の選んだ道を進んでいるのなら、明るい未来が一層明るく見えてくる。

結果を出せれば、そのことについては初めての結果になる。そしてその先もあるのでそれだけでは終われない。しかし何だか最後の力を振り絞っているように思える。ここで力を振り絞って結果を出さなければ、その先には何もない。なので力を振り絞るということ以外の選択肢はない。僕の精神は最近ますます若くなってきているようだ。

最適解と厳密解。

科学を理解するとは、科学には何が出来ないかを理解することである。科学を理解している人は、科学には何が出来ないかを理解している。しかし科学を理解していない人は、科学で何でもできると思っている。これはAIにも言えることであり、AIを理解している人は、AIには何が出来ないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。では現在のAIには何が出来て、何が出来ないのだろうか?

数学や物理学は、“厳密解”の学問である。数学者は数個の定義から多くの事を厳密に導いて行く。これは完全論理である。この様な事は人間だからできることであり、AIにはほとんどできない。それはなぜか?それを知るにはAIの仕組みを知らなければならない。しかし難しい事はいらない。僕だってAIの専門家である訳ではない。概要を知るだけでもかなりのことが分かる。

AIを動かすには、まず膨大なビッグデータが必要である。このデータの数が多ければ多いほど精密な結論を導くことが出来る。このような道筋は数学とは対照的である。数学が厳密解の学問であるのに対し、AIはビッグデータから“最適解”を導いているのである。よって、AIに数個の定義を見せても、そこからは何も出来ない。意外とAIは論理に弱いのである。

AIと言えば、最近は将棋AIが話題になる。この将棋AIもやはり最善手と言われる最適解を探しているのである。なので厳密解ではないから、AIだって負けることがある。もちろん、人間の棋士だって厳密解を出せるわけではない。もし厳密解を出せるのなら百戦百勝である。

AIで何でもできると思っている人は、AIの事を何もわかっていない。現在ではむしろ人間の方が万能なのである。人間は物を持ち上げることも出来るし、数学も文学も出来る。そして料理も出来る。まだまだ人間も捨てたものではない!

自分のプラットフォームを持つことが大事!

現在、世界のシステムを支配していると言われるGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に共通するのは、この全てがインフラのプラットフォームを握っているという事だ。プラットフォームを握るとは言い換えると、物事の根幹を握るという事だ。根幹とはある意味本質であり、すなわち現代社会の本質を知ろうと思えば、GAFAが何を支配しているかを知らなければならない。GAFAの力が圧倒的に大きくなりすぎた現在の社会システムには大きな批判があるが、このような状況を変えるためにもGAFAの支配するシステムを知り尽くさなければならない。

現代社会のプラットフォームはGAFAであると言えるが、自分という人間に対しても明確なプラットフォームを持つことは重要だ。これはすなわち、自分という人間の根本的枠組みであり、そのような枠組みをはっきりと形成しないと人間性という中身を埋めて行くことはできない。

しかし、このような人間的枠組みというものは、はっきりと認識することが難しい。少なくとも簡単に目で見えるものではない。目で見えないものをどう捉えるか?という事が非常に重要になる。人間的プラットフォームを認識できなければ、どうしても表面的な事に終始してしまうことになる。すなわち根幹ではなく枝葉末節的なことにとらわれてしまうのである。枝葉は根幹から伸ばさなければならない。根幹のない枝葉などはすぐに枯れ落ちてしまう。

根幹をしっかりと形作るか?枝葉などの表面的な事を繕うか?そのどちらを選ぶかは自分自身にかかっている。自分という人間のプラットフォームを構築することが出来ると、中身は自然と埋まって行くはずだ。自分という人間を豊かなものにしたければ、まずは明確な枠組みを構築することから始めなければならない。

山里亮太さん、結婚おめでとう!

お笑い芸人の山里亮太さんと、女優の蒼井優さんが結婚をされた。僕は以前から山里亮太さんが大好きで、テレビで見せる山里亮太さんの多彩な顔にはいつも引き込まれる。山里亮太さんの結婚には、一ファンの僕としても非常に嬉しく、祝福を送りたい。

山里亮太さんは非常に多彩な人だ。お笑い芸人でありながら、硬派な話題にも鋭く対応する。軟派な話題から硬派な話題まで幅広くこなす山里さんの対応力には舌を巻いてしまう。

山里さんは様々なテレビ番組に出演されているが、僕が一番好きな番組は、金曜日の夜中(関西地方)に流されている番組だ。その番組では、山里さんと池上彰さんが生徒と先生のような形で議論するという形式で進められてるが、山里さんが質問する際にも視聴者がその話題の問題点が分かるように話される。山里さんの話は非常に分かりやすいのだ。ただお笑いの話を延々とするのではなく、問題点が非常に整理されている。この様に整理して話せる人はなかなかおらず、山里さんは非常に聡明な方だという印象を強く受ける。

今回の結婚によって山里さんの話術と話の中身のレベルが一層高くなることを楽しみにして、これからの活躍を強く願うばかりである。

強度を上げる。

先ほど、全仏テニス・錦織圭対ナダルの試合を少しだけ観た。そこで解説者が、「ナダルは非常に強度の高い練習をしており、本番より練習の方が入らないくらいだ」と言っていた。これはおそらく、練習で120%の力を出して、本番で100%の力を発揮するためではないかと思う。やはり練習をまともにできない者が、本番で100%の力を発揮することはありえないのだと思う。

調子の良い時は物事がはかどるが、調子の乗らない時はどうしてもはかどらない。はかどる時は徹底的に推し進めて120%の力を出せばいい。しかし調子の乗らない時にどのように取り組むかが問題である。調子の乗らない時でも100%の力を発揮したい。いや、80%でもいい。何もしないよりはましだ。とにかく少しでも前に進めたい。しかしどうしても、調子の悪い時は一度休んで、調子が良くなった時に全力を出せばいいと思ってしまう。しかしそのような考えだと、調子が戻った時も100%の力を出すのは不可能だ。いつも全力で最善を尽くしたい。

その一方、野球の先発投手では常に100%の力を出すことは不可能だ。むしろ平均で70%くらいの力をコンスタントに出すことが求められる。とは言え、ここぞという時は120%の力を出すことが求められる。それが実行できるのが、ヤンキースの田中将大投手であり、巨人の菅野智之投手である。先発投手のように長期戦になるとそのようなペース配分が重要であるが、それはもちろんいつでも120%の力を出せる事が前提だ。

プロスポーツ選手から学び取れることは沢山ある。純粋にスポーツ観戦を楽しむのもよいが、自分の専門をプロとして極めようと思うのならば、同じプロとしてプロスポーツ選手から取り組み方や戦略の立て方を学び取るのも一つの手である。そして何事もそのような視点で物事を見ることが大切であると思う。

川崎の無差別殺傷事件について。

現在、川崎での無差別殺傷事件について広く議論されている。なぜ容疑者はこのような事件を起こしたのか?事件を防ぐ手立てはなかったのか?この事件について考えるべきことは尽きない。

今一番問題になっている意見は「自殺するのなら一人で死ねばいい」というものだ。この意見がどのように問題なのか?これに対する僕の意見を書いてみる。

この事件の容疑者は、事件後自殺をした。従って初めから自分は死ぬつもりで事件を起こしたと思われる。ではそれなら、この容疑者は一人で死ねば問題はなかったのか?それは全く違うし、問題の争点が完全にずれている。なぜならこの事件が起きたのは、この容疑者を自殺にまで追い込んだことにあり、「容疑者の自殺=無差別殺傷事件」という構図が成り立つからである。すなわち事件を防ぐためには、そもそも容疑者の自殺を防ぐことが必要であったのだと考えられる。

ならば、容疑者を自殺へと追い込んだものは何だったのか?家庭の事情、社会的事情、それとも容疑者の人間性なのか?それは今となっては分からない。しかし一つの事情だけでなく、これらの複数の要因が重なって起きたのではないかと考えられる。この中で最も考えなければならないことは、社会的事情であろう。社会の在り方次第では、家庭の事情や人間性の問題も乗り越えられた可能性がある。特に日本は再チャレンジが非常に難しいという固有の事情がある。このことは、多くの人間を追い詰める原因として十分だ。これは言い換えると、たまたま上手く行けば全てが上手く行くが、たまたま上手く行かないことがあると全てが上手く行かない可能性があるという事だ。もちろん人によっては、何度上手く行かなくてもめげずに何度も立ち上がれる人がいる。逆に、些細な失敗が原因で立ち上がれない人もいる。どちらの人間が素晴らしという事ではなくて、これは人間の多様性の問題であり、多様性が存在することは非常に重要な事である。現在は少子化が問題になっており、至る所で子供を産むことが重要だと言われているが、そのような社会の中でも子供を産まずに色々と貢献できる人も社会にとって大事である。さらには社会貢献だけでなく、学問、芸術などで独自の存在感を発揮する人もいる。このような全ての人が大事なのである。

川崎の事件はただ単に容疑者だけの問題でなく、社会の問題だと考えなければならない。「一人で死ねばいい」という世論は、巡り巡って自分の首を絞めることになるのではないかと僕は考えている。容疑者を追い詰めている要因は、社会に生きる全ての人を追い詰める要因である可能性が高い。このような世論は、度々取り上げられる「自己責任」という世論にも通じるものがある。これらの事は自分には関係ないと思うかもしれないが、社会全体を支配する圧力を通じて自分にも影響を与える問題であると認識することが重要ではないだろうか?

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

微妙に現実的なラインを突いてくるほど、くだらないものはない!

何かを求める時に、そのラインは現実的かどうか?そのような事を考えることは重要である。現実的ではない、絶対に無理な所にラインを設定しても、目標にも何にもならない。しかし世の中を見ていると、そのような事があまりにも多い。そして高い所にラインを設定するのにも、“他人”から見て現実的な所に落とすのも非常にくだらないと思っている。とは言っても、やみくもに非現実的な所を目指せと言っているのではない。重要なのは“他人”から見て非現実的な事が、“自分”にとって必ずしも非現実とは限らないという事だ。

僕は何を言いたいのか?それは「他人が非現実的だと思うような事でも、本気で成し遂げようと思い、そして実際に成し遂げる事が重要だ」ということだ。例えば自分の年収や結婚相手に対する希望年収を「微妙に現実的なライン」に置いてはないだろうか?例えば、「500万は少し少ない。しかし1億は絶対に無理だ。非現実的だ。だから1000万を求めよう」と。僕自身、収入に特にこだわりがある訳ではない。しかしそのような中途半端なこだわりや希望は非常にくだらないと思っているのである。

なぜこのようなことを書いたのか?別にお金の事を言いたいのではない。自分が人生を懸けている目標について言いたいのだ。中途半端な目標を持つのは非常にくだらない。他人が非現実的だと言うくらいのレベルの事を成し遂げる事に価値があるのだ。他人が非現実的だと言うのならば、それは非常に価値がある事に取り組んでいるのだろう。もちろん、それが自分にとっては現実的であることが重要だ。

今僕は面白い問題に取り組んでいる。数理物理の大きな問題だ。他人は非現実的だと思うかもしれない。しかし僕には解決への道のりが見えている(と自分では確信している)。苦しいが楽しい道のりである。日々ペンと紙で格闘し続け、非現実を現実に仕上げなければならないと思っている。

結果を出すまでは飲まなくてもいい!

僕はお酒は結構好きな方だ。しかもかなり強い。なので飲もうと思えばかなり飲める。しかしお酒などは飲まないに越したことはないと考えている。なので、最近はたまに飲むくらいに留めている。しかし、このたまに飲むのが厄介者だ。最近は体質的に依存傾向が強く、二日連続で飲んだだけで苦しくなる。量的にはそんなに飲んでいない。缶ビール一本とかそのくらいだ。

体質的にこのようになったからには、お酒との付き合い方も考えなければならない。一週間に一回だけでも、数日間は苦しい。なので、思い切って断酒することにした。幸い、現在は依存症でも体の病気でも何でもない。はっきり言って最近はかなり健康だ。そのような健康なうちに、断酒を決行すべきだと考えた。

もちろん、体への影響だけを考えてのものではない。今やるべきことは、数理物理の研究で結果を出すことだ。そのためにまず改善すべきことは何か?と考えると、今はお酒は飲むべきでないという結論にたどり着く。少なくとも、結果を出すまでは一滴も飲まないと決めた。もしお酒を飲みたいのならば、結果を出してから飲めばよい。極めて簡単な論理である。

お酒を飲んでいる時間は楽しい。しかしお酒を飲むことによって犠牲にしていることがあるのならば、そこは考え直した方が良い。お酒を飲むことによるメリットとデメリットを秤にかけ、メリットが大きい方を取るべきだ。そしてメリットが大きい方は、お酒を飲まない方だと僕は結論を出した。

とにかく少しでも早く今取り組んでいることで結果を出して、その時、高級ワインの一本でも開けよう!