月別アーカイブ: 5月 2019

組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。

スポーツと学問。

現在、テニスの全仏オープンが行われている。僕はスポーツを見るのが大好きなのでスポーツのテレビ観戦をよくするが、先ほども錦織圭選手の試合をテレビで観戦していた。

スポーツと学問は全く違うものと捉えている人も多いかもしれないが。僕は学問とスポーツは非常に近親的なものだと感じている。学問の研究をスポーツ的な感覚で打ち込んでいる人も多いし、もしかしたらスポーツを学問的な追究だと捉えている選手もいるのかもしれない。学問とは一種のゲームと捉えることが出来るので、そういう意味ではスポーツと学問は類似する部分は多いのかもしれない。

僕はこのように、学問をスポーツやゲームのように捉える事は非常に大事な事だと考えている。学問とは山に籠って仙人のように打ち込むだけのものではない。学問と言えども社会的に交流された中に存在するのである。昔、「超対称性はスポーツである」と誰かが言ったと聞いたことがある。超対称性とは、素粒子論などに関係する物理学である。確かに超対称性はまだ実験的にははっきりと確証が得られていないところがあり、ある意味スポーツやゲームと捉えないと進めない部分がある。そう考えれば、数学なども将棋と同じように、ルールに則ったゲームと捉えないと進めない部分がある。

しかし、ゲームというものは100%ルールに従わなければならないが、学問は往々にしてルールから外れることがある。そしてそのようなルールから外れたところに学問の面白さや大きな飛躍が存在する。数学をルールと論理に則ったゲームだと思っている人も多いかもしれないが、数学的定義などは非常に自由なものであり、定義をどう定めるかというところに数学的センスが大きく表れる。

学問もスポーツも、一種の自己表現であると僕は考えている。おそらく錦織圭選手もテニスを通じてどこまで自己を表現できるかという事に挑戦しているのだと思う。僕も数理物理を通じてどこまで自己を極めることが出来るかということに挑戦し続け、自己を表現して行きたいと思っている。

自分の限界の少し超えたところ。

人間である以上、何事も限界というものがある。限界を超えた状態を続けると過労死などの問題が起こるが、自分をどれくらいの状態で維持しどこを目指すかといった時、僕は自分の限界の少し超えたところを目安に持って行きたいと思っている。とは言え、そのような高レベルな所で維持することは難しい。なのでそれくらいの所に目標を置くと、ちょうどいい所に落ち着く。

自分の限界を上げることは永遠の命題である。油断をすればすぐに限界が下がってしまう。下がるのはすぐだが、上げるのは難しい。そこを根気良く挑戦し続けて、少しずつ上げて行かなければならない。

自分の限界を上げることが出来ると、より高い所から物事を俯瞰することが出来る。そして自分に何が足りないかという事がはっきりする。そのような事がどんどんわかって来るので、やるべきこともどんどん増えてくる。物事というものは、進めば進むほどやるべきことが増えるものだ。ある意味エンドレスである。そこをどのようにエンドへ持ってくるか?これは非常に重要な問題である。中間地点で一時的なエンドを作るか?全てをやり切って真のエンドを作るか?あるいは諦めてエンドにするか?この様に選択肢はいろいろあるが、果たしてどのエンドを選ぶのであろうか?

僕は今、一時的なエンドの置きどころを探っている。とは言え、妥協はしたくない。なので高い所でエンドを置こうと思っているので、そこへ行く準備だけでも膨大な量になる。しかしビジョンがはっきりとしているのでモチベーションを維持することが出来ている。現在かなりきつい状況に置かれているが、成し遂げる自信は大いにある。なので今は一歩一歩、いや、三歩三歩くらいで少し急ぎながら前進しようと思う。

受験勉強は役に立つ?立たない?

受験勉強は本当に役に立つのか?多くの人が考える問題であろう。この問いに対して僕は「役に立つ」とも「役に立たない」とも断言できない。その理由を書こうと思う。

「役に立つものもあれば、役に立たないものもある」と言えば当たり前の事になる。では「役に立つ」とはどういう事か?それを考えなければならない。高校以下の学校での勉強は、実用から要請されたものというより、人間観を養成して基礎的思考力を身に付けることが目的だと言ったほうが良いであろう。すなわち、勉強によって視野が広がったならば、勉強が役に立ったと言える。では具体的に勉強の何が、どの教科が役に立つのか?と考えた時に、それは教科の内容よりも、学ぶ者の意識に関わることであることが分かる。同じことを学んでも、それが役に立つ人と役に立たない人がいる。すなわち、どのような意識を持って学ぶか?という事が重要なのである。

受験勉強も同じである。全く役に立たないことをわざわざ勉強させることなどあり得ない。何らかの役に立つから勉強をさせるのである。しかし実際は、勉強が全く役に立っていない人もいる。これはやはり意識の問題である。受験勉強に関しても、ただ単に学校に合格するためだけにやっているのでは、学校に入った後は全く役に立たないことになる。「受験勉強」をするのではなく「学問を修める」ことが重要なのである。学生にこのような意識を持たせることは非常に重要である。しかし一部の学校では相変わらず「受験に合格させる」ためだけに勉強をさせている。そのような教育こそ不毛以外の何物でもない。それは「学生のため」の勉強ではなく「学校のため」の勉強と言える。

受験勉強を、「受験が終わったからもう関係ない」と捨て去るのは、人生を捨て去るも同然だ。勉強は、受験が終わってから、あるいは社会に出てからが勝負なのである。受験勉強を有益にするのも無駄にするのも自分次第、自分の意識の持ちようにかかっている。そして学校の教師は、勉強を教える前にこのような事を教えなければならない。しかしこのような視点で受験勉強を捉える事は、まだまだ社会的には欠けているように思える。

明日の事を考えずに、今日の事と明後日の事を考える。

僕は物事や人生の事を考える時、短期的展望と長期的展望を重視している。その一方、中期的展望はそんなに重視していない。もちろん、短期的展望、中期的展望、長期的展望の全てを考えることが大事なのかもしれないが、優先順位から言うと、長期的展望を最重視し、中期的展望を後回しにしている。これが本当に正しいかどうかは分からないが、現在の僕の思考はこのようになっている。

なぜ中期的展望を考えないか?それは、初めから中期的展望を考えるのではなく、長期的展望を前倒しにして中期的展望へと持っていくことが理想だと考えているからだ。しかし実際は、短期的展望でさえ時間がかかり、長期的展望になることも多々ある。なかなか計画通りには行かないものである。

しかし、短期とか長期とかの区別はどうでもいい。重要なのは何事も展望、つまりビジョンを持つことが大事なのだ。しかし現実は、目の前の事しか見えず、展望を全く持てない人が多い。iPS細胞の山中伸弥教授は「VW」、つまり「ビジョン&ワークハード」が大事だとよく言われている。どうやら日本人は、ワークハードは得意でもビジョンを持つことが得意でないみたいだ。何事も一方だけから見るのではなく、多角的に物事や人生を考えることが大事なのである。

僕自身、ワークハードが決定的に欠けていると自覚している。ワークハードをしようと思えば、心身のコンディションを高いレベルで維持することが大事である。最近、僕のコンディションも高いレベルで維持できつつあると感じている。そのようなコンディションをフルに生かすべく日々試行錯誤している。それが実行できれば、後は結果を出すのみである。一日でも早く結果を出すべくワークハードをこなしたいと考えている。

人生、楽しんだもん勝ちだ!

同じ生きるなら、苦しむより楽しんだ方がはるかに良い。しかし常に楽しんで暮らせるわけではない。時には死ぬほど苦しい時もあるし、我慢しなければならない時もある。しかしそうでない時は出来るだけ楽しんで暮らした方が良い。

楽しめないのには二つの理由がある。一つは、今取り組まなければならないことが苦である事、もう一つは精神的に楽しめない状況になっていることだ。今取り組んでいることが苦しい場合は、それを乗り越えることが出来れば楽しいことが待っていることが多い。将来の成功のための修行といった場合だ。実はこのような苦しみにはもう一つの気持ちが伴う。それは「やりがい」だ。やりがいがあれば苦しい事も乗り越えられることが多い。従って、何をするかとなった場合、やりがいを感じられることに取り組むことが重要だ。やりがいもなく、ただ単に苦しいだけならストレスがたまり自滅してしまう。やりがいを感じられれば、体力的・精神的に苦しくても、それと同時に楽しむ事も出来る。

精神的に楽しめない状況になっている場合は、自分を変える必要がある。自分が何にストレスを感じ、何をすれば実力を発揮できるか?そのように自分を見極め試行錯誤することが必要だ。とにかく自分を徹底的に調べ尽くさなければならない。しかしこれはすぐに成果が上がるものではない。長ければ数年以上かかることもある。僕も数年、いやそれ以上に徹底的に自分に対して試行錯誤をしてきた。そのようなことが出来たのは、自分に大きく絶対的な目標があったからだ。この目標がなければ大きな壁を乗り越えることが出来なかっただろう。僕自身、ストレス耐性は低いとは言え、精神的にはかなり強くなったと思う。

人生とは楽しんだもん勝ちだ。しかし、「楽しむ」という事と「楽をする」という事は全然違う。楽しむためには大きな苦しみを伴うことが少なくない。しかしそのような楽しむための苦しみは「やりがい」と感じられる。時にはやりたくないことをやらざるを得ないことも多々あるだろう。例えば、何かやりたいことがあるが、それをやるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために全くやりがいのない事をやらざるを得ないことがある。しかしそこで稼いだお金は自分のやりたいことにつながるではないか!それならば、やりたくないことでお金を稼ぐことも全く無駄ではない。そしてその先に、やりたいことでお金を稼ぐ道があれば最高ではないか!

この様に、人生における全てのものは時系列的につながっている。無駄だと思ったことが後になって無駄ではなかったことに気付く。苦しんで壁を乗り越えたことは必ず財産になる。人生を究極的に楽しむためにも、無駄なように見えて決して無駄ではないことをこなし、本当成し遂げたいことを成し遂げようではないか!

一つの失敗で、その人を全否定する日本。

「日本」と書いたが、多かれ少なかれどこの国でもそのようなところあると思う。しかし日本ではそのような傾向が強いように感じる。アメリカでは四度の破産を繰り返した者が大統領にまで上り詰めている。日本ではとても考えられない事だ。何度失敗しても立ち上がり上を目指す。そのような者に非常に寛容なのがアメリカという国なのかもしれない。それに対して日本は、可もなく不可もなく、失敗はしていないが特に大きな結果も残していない、そのような者が生き残る社会になっている。その結果、誰もが挑戦を避けるように生きている。挑戦するというリスクを避け、何もしないという無リスクを選ぶ。そして権利だけを主張する。何ともおかしな話である。

そのような日本社会の中で、逆境に立ち向かっている者の象徴がホリエモンだと思う。ホリエモンは失敗を恐れずに、考えたらすぐに行動を起こす人だ。確かに失敗も犯すかもしれない。過去には逮捕までされ刑務所にも入れられていた。しかし出獄して再出発したホリエモンは、再び成功を掴んでいる。そのようなホリエモンに対し、僻みの眼で見る人は少なくない。しかし、挑戦もせず、リスクも取らず、可もなく不可もなくという人間がホリエモンの成功に対してとやかく言う権利はない。ホリエモンこそ自らの力で成功を手にした人物なのである。それに対して、可もなく不可もなくという人ほど組織や肩書だけで物事を通そうとする。すなわち自力というものが全くないと言える。まさしく他力本願である。

成功を成し遂げるためには、幾たびの失敗を繰り返すことは必須である。しかし日本の社会はその失敗というものを容認しようとしない。そのような国に大きな成功が成し遂げられるはずはない。それでも日本の世の中には成功はいくつかある。しかしそれは、ホリエモンのように、強い向かい風を正面から受け止め、逆境から立ち上がった少数の人間によるものである。

集団の力や組織の力は確かに無視できない。日本では「力を合わせて」という言葉がよく使われる。しかし実際は、挑戦する個人の力が圧倒的なのである。失敗すれば個人のせい、成功すれば皆の力によるもの。そのように解釈される日本社会は挑戦者には全く割に合わないものであるし、生きにくくもある。しかしそのような事を、出来ない理由にしてもしょうがない。日本であってもアメリカであっても、後退するという選択肢はなく、前に進むしかないのだから。

姓名の順。

河野太郎外相が各国報道機関に対して、日本人の人名を「姓→名」の順番に表記するように要請した。この姓名の順番に対しては賛否両論あると思うが、僕はこの「姓→名」の順番にすることは大賛成だ。僕は元々この順番ですべきだと昔から思っていた。もちろん海外では「名→姓」の順が標準的だが、日本人の名に関しては「姓→名」の順にするのが筋だと思う。

外国人が日本に来て、名前を「姓→名」に変える人など一人もいない。阪神ファンなら誰でも「ランディー・バース」と呼ぶはずだ。誰も「バース・ランディー」とはよばない。(ちなみにバースは正式には「バス」という名前らしいが、いろいろあって球団登録名はバースになったらしい。)それなら日本人も海外では「Kihara Yasuaki」と表記すべきだ。

そしてもう一つの理由は、実はこちらの理由の方が圧倒的に重要だと思うのだが、日本においては「姓→名」だと主張することが、日本の文化を海外に広めるのに大きく影響していると考えるからだ。この「姓→名」の順番が、日本の一つの文化・風習を表している。日本の文化を世界に広めようという機運が高まる中、名前を海外の風習に合わせるのは非常におかしな話である。さらにおかしなことに、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のことを、日本のメディアは「ショーヘイ・オータニ」と記述している。何とも自虐的な話である。

僕のブログは「(Kihara,Yasuaki)のブログ」とタイトルを付けている。これには以上書いたような姓名順に対する僕の想いを込めて付けている。確かに世界標準という概念はあるが、何でも海外の風習に合わせれば良いというものではない。主張すべきところは主張しなければならない。今回の新たな、しかし本来の姓名順が海外でも定着することを祈るばかりである。

この後十年に懸けている。

現在の日本の平均寿命は約80年。人生100年時代とも言われている。人間の平均寿命が伸びる事は良いことかもしれない。しかし人生が長くなるにつれて、1年1年の濃さが薄くなっているのならそれはそれで考え物だ。濃い人生を持続することは簡単な事ではない。それを1年10年と続けることは、半端な気持ちでは成し遂げる事は出来ない。80年の人生は非常に長いが、油断をすれば数年数十年などあっという間に過ぎ去ってしまう。

近年、若者の間でキャリア形成という考えが流行っている。人生80年の中でどうキャリアを築いて行くか?そのような事は悪い事ではないと思う。しかし人間である以上、自分がいつ死ぬかもわからない。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。そう考えると、数十年単位で人生を考えると同時に、今日全力で生きることも忘れてはいけない。

僕自身、長生きしようとは考えていない。もちろん長生きできればそれはそれでいいのだが、まずは今生きることに全精力をつぎ込もうと思っている。特にこの後十年に僕の全てを懸けようと思っている。現在僕が取り組んでいる問題は、一日二日で成し遂げられるものではない。しかし十年あればその根幹となる部分は達成できると思っている。まずは確実に十年生きて、確実にその根幹部分を構築して行こうと思っている。もちろん、それは簡単な事ではない。なのでその他の事を我慢しなければならないこともあろうし、時間の使い方も考えなければならない。もし我慢できないことがあれば、今取り組んでいる問題の解決に成功してからで良いと思っている。成功すれば色々な意味ではじけることが出来るであろう。

十年というスパンはちょうどいい。長すぎず、短すぎず。一つの問題に取り組むには良い時間的指標になる。この十年に懸けているという事は、この十年で成し遂げられなければ自分の人生はないという事だ。人間、一つぐらいそれくらいの覚悟を持って取り組むことがあってもよい。そのような覚悟が自分の人生の密度を濃くしてくれる。これからの人生は非常に面白くなりそうだ!

死刑とは、教育の無力な一側面を表している。

中学生殺害の犯人の控訴取り下げによって、被告の死刑が確定した。死刑の是非に関しては現在世界的に議論の的になっているが、今回の被告の死刑確定に関しても、いろいろと考えることはあるのではないだろうか?

教育とは、人間の育成である。さらに、教育が国を支えていると言っても過言ではない。現在の日本は小学校から中学校までは義務教育となっており、おそらくほぼすべての市民がこれらの教育を受けている。これらの義務教育の年限は9年と非常に長い。9年あれば色々なことが出来る。人によってはとてつもなく大きな飛躍をすることも可能であろう。

しかしその一方、今回の被告のような人間が現れるのも現実である。この被告もおそらく最低でも9年の義務教育を受けたことであろう。もしかしたら高校にも行っていたのかもしれない。それならば合計12年である。そのような9年、もしくは12年の教育を受けた者が、結果として何の落ち度もない将来のある二人の中学生を殺害したことになる。この者が受けた長年の教育とはいったいなんだったのだろうか?

もちろん、ほとんどの者は殺人など犯さない。なのでこの殺人犯の例は非常に特殊だといえる。しかしその殺人犯が9年以上の教育を受けていたことも事実である。もちろん、算数・理科・国語・社会の授業が直接良い影響を与えるとは思わない。しかし間接的には人間形成に非常に大きな影響を与えると思う。なぜなら、算数などの勉強は、ただ単に計算技術を身に付けるだけのものではなく、大きな世界観を形成することに役立つからである。数学に打ち込む者の世界観は非常に豊富だ。これは間違いないであろう。そしておそらく、国語や社会だって世界観の形成に大きく影響を与えるであろう。本当に数学が出来る人間に、数学は出来るけど人間が出来ていないなんてことは基本ありえない。もしそういう人がいたら、その人の数学は単なる張りぼてであると思って良い。学問とはそういうものである。

なぜ、今回の殺人事件の被告には教育が無力だったのか?これは非常に深い問題であり、真剣に深く考えなければならない。そしてこの問いを考えることは、日本で教育を受ける全ての人に大きな影響を与える。ただ単に被告の死刑が確定したという事実を伝えるだけでは駄目だ。この事に対して深く考証して教育現場にフィードバックして行かなければならない。