月別アーカイブ: 5月 2019

組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。

スポーツと学問。

現在、テニスの全仏オープンが行われている。僕はスポーツを見るのが大好きなのでスポーツのテレビ観戦をよくするが、先ほども錦織圭選手の試合をテレビで観戦していた。

スポーツと学問は全く違うものと捉えている人も多いかもしれないが。僕は学問とスポーツは非常に近親的なものだと感じている。学問の研究をスポーツ的な感覚で打ち込んでいる人も多いし、もしかしたらスポーツを学問的な追究だと捉えている選手もいるのかもしれない。学問とは一種のゲームと捉えることが出来るので、そういう意味ではスポーツと学問は類似する部分は多いのかもしれない。

僕はこのように、学問をスポーツやゲームのように捉える事は非常に大事な事だと考えている。学問とは山に籠って仙人のように打ち込むだけのものではない。学問と言えども社会的に交流された中に存在するのである。昔、「超対称性はスポーツである」と誰かが言ったと聞いたことがある。超対称性とは、素粒子論などに関係する物理学である。確かに超対称性はまだ実験的にははっきりと確証が得られていないところがあり、ある意味スポーツやゲームと捉えないと進めない部分がある。そう考えれば、数学なども将棋と同じように、ルールに則ったゲームと捉えないと進めない部分がある。

しかし、ゲームというものは100%ルールに従わなければならないが、学問は往々にしてルールから外れることがある。そしてそのようなルールから外れたところに学問の面白さや大きな飛躍が存在する。数学をルールと論理に則ったゲームだと思っている人も多いかもしれないが、数学的定義などは非常に自由なものであり、定義をどう定めるかというところに数学的センスが大きく表れる。

学問もスポーツも、一種の自己表現であると僕は考えている。おそらく錦織圭選手もテニスを通じてどこまで自己を表現できるかという事に挑戦しているのだと思う。僕も数理物理を通じてどこまで自己を極めることが出来るかということに挑戦し続け、自己を表現して行きたいと思っている。

自分の限界の少し超えたところ。

人間である以上、何事も限界というものがある。限界を超えた状態を続けると過労死などの問題が起こるが、自分をどれくらいの状態で維持しどこを目指すかといった時、僕は自分の限界の少し超えたところを目安に持って行きたいと思っている。とは言え、そのような高レベルな所で維持することは難しい。なのでそれくらいの所に目標を置くと、ちょうどいい所に落ち着く。

自分の限界を上げることは永遠の命題である。油断をすればすぐに限界が下がってしまう。下がるのはすぐだが、上げるのは難しい。そこを根気良く挑戦し続けて、少しずつ上げて行かなければならない。

自分の限界を上げることが出来ると、より高い所から物事を俯瞰することが出来る。そして自分に何が足りないかという事がはっきりする。そのような事がどんどんわかって来るので、やるべきこともどんどん増えてくる。物事というものは、進めば進むほどやるべきことが増えるものだ。ある意味エンドレスである。そこをどのようにエンドへ持ってくるか?これは非常に重要な問題である。中間地点で一時的なエンドを作るか?全てをやり切って真のエンドを作るか?あるいは諦めてエンドにするか?この様に選択肢はいろいろあるが、果たしてどのエンドを選ぶのであろうか?

僕は今、一時的なエンドの置きどころを探っている。とは言え、妥協はしたくない。なので高い所でエンドを置こうと思っているので、そこへ行く準備だけでも膨大な量になる。しかしビジョンがはっきりとしているのでモチベーションを維持することが出来ている。現在かなりきつい状況に置かれているが、成し遂げる自信は大いにある。なので今は一歩一歩、いや、三歩三歩くらいで少し急ぎながら前進しようと思う。

受験勉強は役に立つ?立たない?

受験勉強は本当に役に立つのか?多くの人が考える問題であろう。この問いに対して僕は「役に立つ」とも「役に立たない」とも断言できない。その理由を書こうと思う。

「役に立つものもあれば、役に立たないものもある」と言えば当たり前の事になる。では「役に立つ」とはどういう事か?それを考えなければならない。高校以下の学校での勉強は、実用から要請されたものというより、人間観を養成して基礎的思考力を身に付けることが目的だと言ったほうが良いであろう。すなわち、勉強によって視野が広がったならば、勉強が役に立ったと言える。では具体的に勉強の何が、どの教科が役に立つのか?と考えた時に、それは教科の内容よりも、学ぶ者の意識に関わることであることが分かる。同じことを学んでも、それが役に立つ人と役に立たない人がいる。すなわち、どのような意識を持って学ぶか?という事が重要なのである。

受験勉強も同じである。全く役に立たないことをわざわざ勉強させることなどあり得ない。何らかの役に立つから勉強をさせるのである。しかし実際は、勉強が全く役に立っていない人もいる。これはやはり意識の問題である。受験勉強に関しても、ただ単に学校に合格するためだけにやっているのでは、学校に入った後は全く役に立たないことになる。「受験勉強」をするのではなく「学問を修める」ことが重要なのである。学生にこのような意識を持たせることは非常に重要である。しかし一部の学校では相変わらず「受験に合格させる」ためだけに勉強をさせている。そのような教育こそ不毛以外の何物でもない。それは「学生のため」の勉強ではなく「学校のため」の勉強と言える。

受験勉強を、「受験が終わったからもう関係ない」と捨て去るのは、人生を捨て去るも同然だ。勉強は、受験が終わってから、あるいは社会に出てからが勝負なのである。受験勉強を有益にするのも無駄にするのも自分次第、自分の意識の持ちようにかかっている。そして学校の教師は、勉強を教える前にこのような事を教えなければならない。しかしこのような視点で受験勉強を捉える事は、まだまだ社会的には欠けているように思える。

明日の事を考えずに、今日の事と明後日の事を考える。

僕は物事や人生の事を考える時、短期的展望と長期的展望を重視している。その一方、中期的展望はそんなに重視していない。もちろん、短期的展望、中期的展望、長期的展望の全てを考えることが大事なのかもしれないが、優先順位から言うと、長期的展望を最重視し、中期的展望を後回しにしている。これが本当に正しいかどうかは分からないが、現在の僕の思考はこのようになっている。

なぜ中期的展望を考えないか?それは、初めから中期的展望を考えるのではなく、長期的展望を前倒しにして中期的展望へと持っていくことが理想だと考えているからだ。しかし実際は、短期的展望でさえ時間がかかり、長期的展望になることも多々ある。なかなか計画通りには行かないものである。

しかし、短期とか長期とかの区別はどうでもいい。重要なのは何事も展望、つまりビジョンを持つことが大事なのだ。しかし現実は、目の前の事しか見えず、展望を全く持てない人が多い。iPS細胞の山中伸弥教授は「VW」、つまり「ビジョン&ワークハード」が大事だとよく言われている。どうやら日本人は、ワークハードは得意でもビジョンを持つことが得意でないみたいだ。何事も一方だけから見るのではなく、多角的に物事や人生を考えることが大事なのである。

僕自身、ワークハードが決定的に欠けていると自覚している。ワークハードをしようと思えば、心身のコンディションを高いレベルで維持することが大事である。最近、僕のコンディションも高いレベルで維持できつつあると感じている。そのようなコンディションをフルに生かすべく日々試行錯誤している。それが実行できれば、後は結果を出すのみである。一日でも早く結果を出すべくワークハードをこなしたいと考えている。

人生、楽しんだもん勝ちだ!

同じ生きるなら、苦しむより楽しんだ方がはるかに良い。しかし常に楽しんで暮らせるわけではない。時には死ぬほど苦しい時もあるし、我慢しなければならない時もある。しかしそうでない時は出来るだけ楽しんで暮らした方が良い。

楽しめないのには二つの理由がある。一つは、今取り組まなければならないことが苦である事、もう一つは精神的に楽しめない状況になっていることだ。今取り組んでいることが苦しい場合は、それを乗り越えることが出来れば楽しいことが待っていることが多い。将来の成功のための修行といった場合だ。実はこのような苦しみにはもう一つの気持ちが伴う。それは「やりがい」だ。やりがいがあれば苦しい事も乗り越えられることが多い。従って、何をするかとなった場合、やりがいを感じられることに取り組むことが重要だ。やりがいもなく、ただ単に苦しいだけならストレスがたまり自滅してしまう。やりがいを感じられれば、体力的・精神的に苦しくても、それと同時に楽しむ事も出来る。

精神的に楽しめない状況になっている場合は、自分を変える必要がある。自分が何にストレスを感じ、何をすれば実力を発揮できるか?そのように自分を見極め試行錯誤することが必要だ。とにかく自分を徹底的に調べ尽くさなければならない。しかしこれはすぐに成果が上がるものではない。長ければ数年以上かかることもある。僕も数年、いやそれ以上に徹底的に自分に対して試行錯誤をしてきた。そのようなことが出来たのは、自分に大きく絶対的な目標があったからだ。この目標がなければ大きな壁を乗り越えることが出来なかっただろう。僕自身、ストレス耐性は低いとは言え、精神的にはかなり強くなったと思う。

人生とは楽しんだもん勝ちだ。しかし、「楽しむ」という事と「楽をする」という事は全然違う。楽しむためには大きな苦しみを伴うことが少なくない。しかしそのような楽しむための苦しみは「やりがい」と感じられる。時にはやりたくないことをやらざるを得ないことも多々あるだろう。例えば、何かやりたいことがあるが、それをやるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために全くやりがいのない事をやらざるを得ないことがある。しかしそこで稼いだお金は自分のやりたいことにつながるではないか!それならば、やりたくないことでお金を稼ぐことも全く無駄ではない。そしてその先に、やりたいことでお金を稼ぐ道があれば最高ではないか!

この様に、人生における全てのものは時系列的につながっている。無駄だと思ったことが後になって無駄ではなかったことに気付く。苦しんで壁を乗り越えたことは必ず財産になる。人生を究極的に楽しむためにも、無駄なように見えて決して無駄ではないことをこなし、本当成し遂げたいことを成し遂げようではないか!

一つの失敗で、その人を全否定する日本。

「日本」と書いたが、多かれ少なかれどこの国でもそのようなところあると思う。しかし日本ではそのような傾向が強いように感じる。アメリカでは四度の破産を繰り返した者が大統領にまで上り詰めている。日本ではとても考えられない事だ。何度失敗しても立ち上がり上を目指す。そのような者に非常に寛容なのがアメリカという国なのかもしれない。それに対して日本は、可もなく不可もなく、失敗はしていないが特に大きな結果も残していない、そのような者が生き残る社会になっている。その結果、誰もが挑戦を避けるように生きている。挑戦するというリスクを避け、何もしないという無リスクを選ぶ。そして権利だけを主張する。何ともおかしな話である。

そのような日本社会の中で、逆境に立ち向かっている者の象徴がホリエモンだと思う。ホリエモンは失敗を恐れずに、考えたらすぐに行動を起こす人だ。確かに失敗も犯すかもしれない。過去には逮捕までされ刑務所にも入れられていた。しかし出獄して再出発したホリエモンは、再び成功を掴んでいる。そのようなホリエモンに対し、僻みの眼で見る人は少なくない。しかし、挑戦もせず、リスクも取らず、可もなく不可もなくという人間がホリエモンの成功に対してとやかく言う権利はない。ホリエモンこそ自らの力で成功を手にした人物なのである。それに対して、可もなく不可もなくという人ほど組織や肩書だけで物事を通そうとする。すなわち自力というものが全くないと言える。まさしく他力本願である。

成功を成し遂げるためには、幾たびの失敗を繰り返すことは必須である。しかし日本の社会はその失敗というものを容認しようとしない。そのような国に大きな成功が成し遂げられるはずはない。それでも日本の世の中には成功はいくつかある。しかしそれは、ホリエモンのように、強い向かい風を正面から受け止め、逆境から立ち上がった少数の人間によるものである。

集団の力や組織の力は確かに無視できない。日本では「力を合わせて」という言葉がよく使われる。しかし実際は、挑戦する個人の力が圧倒的なのである。失敗すれば個人のせい、成功すれば皆の力によるもの。そのように解釈される日本社会は挑戦者には全く割に合わないものであるし、生きにくくもある。しかしそのような事を、出来ない理由にしてもしょうがない。日本であってもアメリカであっても、後退するという選択肢はなく、前に進むしかないのだから。

姓名の順。

河野太郎外相が各国報道機関に対して、日本人の人名を「姓→名」の順番に表記するように要請した。この姓名の順番に対しては賛否両論あると思うが、僕はこの「姓→名」の順番にすることは大賛成だ。僕は元々この順番ですべきだと昔から思っていた。もちろん海外では「名→姓」の順が標準的だが、日本人の名に関しては「姓→名」の順にするのが筋だと思う。

外国人が日本に来て、名前を「姓→名」に変える人など一人もいない。阪神ファンなら誰でも「ランディー・バース」と呼ぶはずだ。誰も「バース・ランディー」とはよばない。(ちなみにバースは正式には「バス」という名前らしいが、いろいろあって球団登録名はバースになったらしい。)それなら日本人も海外では「Kihara Yasuaki」と表記すべきだ。

そしてもう一つの理由は、実はこちらの理由の方が圧倒的に重要だと思うのだが、日本においては「姓→名」だと主張することが、日本の文化を海外に広めるのに大きく影響していると考えるからだ。この「姓→名」の順番が、日本の一つの文化・風習を表している。日本の文化を世界に広めようという機運が高まる中、名前を海外の風習に合わせるのは非常におかしな話である。さらにおかしなことに、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のことを、日本のメディアは「ショーヘイ・オータニ」と記述している。何とも自虐的な話である。

僕のブログは「(Kihara,Yasuaki)のブログ」とタイトルを付けている。これには以上書いたような姓名順に対する僕の想いを込めて付けている。確かに世界標準という概念はあるが、何でも海外の風習に合わせれば良いというものではない。主張すべきところは主張しなければならない。今回の新たな、しかし本来の姓名順が海外でも定着することを祈るばかりである。

この後十年に懸けている。

現在の日本の平均寿命は約80年。人生100年時代とも言われている。人間の平均寿命が伸びる事は良いことかもしれない。しかし人生が長くなるにつれて、1年1年の濃さが薄くなっているのならそれはそれで考え物だ。濃い人生を持続することは簡単な事ではない。それを1年10年と続けることは、半端な気持ちでは成し遂げる事は出来ない。80年の人生は非常に長いが、油断をすれば数年数十年などあっという間に過ぎ去ってしまう。

近年、若者の間でキャリア形成という考えが流行っている。人生80年の中でどうキャリアを築いて行くか?そのような事は悪い事ではないと思う。しかし人間である以上、自分がいつ死ぬかもわからない。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。そう考えると、数十年単位で人生を考えると同時に、今日全力で生きることも忘れてはいけない。

僕自身、長生きしようとは考えていない。もちろん長生きできればそれはそれでいいのだが、まずは今生きることに全精力をつぎ込もうと思っている。特にこの後十年に僕の全てを懸けようと思っている。現在僕が取り組んでいる問題は、一日二日で成し遂げられるものではない。しかし十年あればその根幹となる部分は達成できると思っている。まずは確実に十年生きて、確実にその根幹部分を構築して行こうと思っている。もちろん、それは簡単な事ではない。なのでその他の事を我慢しなければならないこともあろうし、時間の使い方も考えなければならない。もし我慢できないことがあれば、今取り組んでいる問題の解決に成功してからで良いと思っている。成功すれば色々な意味ではじけることが出来るであろう。

十年というスパンはちょうどいい。長すぎず、短すぎず。一つの問題に取り組むには良い時間的指標になる。この十年に懸けているという事は、この十年で成し遂げられなければ自分の人生はないという事だ。人間、一つぐらいそれくらいの覚悟を持って取り組むことがあってもよい。そのような覚悟が自分の人生の密度を濃くしてくれる。これからの人生は非常に面白くなりそうだ!

死刑とは、教育の無力な一側面を表している。

中学生殺害の犯人の控訴取り下げによって、被告の死刑が確定した。死刑の是非に関しては現在世界的に議論の的になっているが、今回の被告の死刑確定に関しても、いろいろと考えることはあるのではないだろうか?

教育とは、人間の育成である。さらに、教育が国を支えていると言っても過言ではない。現在の日本は小学校から中学校までは義務教育となっており、おそらくほぼすべての市民がこれらの教育を受けている。これらの義務教育の年限は9年と非常に長い。9年あれば色々なことが出来る。人によってはとてつもなく大きな飛躍をすることも可能であろう。

しかしその一方、今回の被告のような人間が現れるのも現実である。この被告もおそらく最低でも9年の義務教育を受けたことであろう。もしかしたら高校にも行っていたのかもしれない。それならば合計12年である。そのような9年、もしくは12年の教育を受けた者が、結果として何の落ち度もない将来のある二人の中学生を殺害したことになる。この者が受けた長年の教育とはいったいなんだったのだろうか?

もちろん、ほとんどの者は殺人など犯さない。なのでこの殺人犯の例は非常に特殊だといえる。しかしその殺人犯が9年以上の教育を受けていたことも事実である。もちろん、算数・理科・国語・社会の授業が直接良い影響を与えるとは思わない。しかし間接的には人間形成に非常に大きな影響を与えると思う。なぜなら、算数などの勉強は、ただ単に計算技術を身に付けるだけのものではなく、大きな世界観を形成することに役立つからである。数学に打ち込む者の世界観は非常に豊富だ。これは間違いないであろう。そしておそらく、国語や社会だって世界観の形成に大きく影響を与えるであろう。本当に数学が出来る人間に、数学は出来るけど人間が出来ていないなんてことは基本ありえない。もしそういう人がいたら、その人の数学は単なる張りぼてであると思って良い。学問とはそういうものである。

なぜ、今回の殺人事件の被告には教育が無力だったのか?これは非常に深い問題であり、真剣に深く考えなければならない。そしてこの問いを考えることは、日本で教育を受ける全ての人に大きな影響を与える。ただ単に被告の死刑が確定したという事実を伝えるだけでは駄目だ。この事に対して深く考証して教育現場にフィードバックして行かなければならない。

自分改革。

人間というものは、その気になれば変われるものなのかもしれない。ただし、周りが変えようとしても自分が変わろうと思わなければ何も変わらない。もちろん、長年続けてきた自分というものは簡単に変えられないが、強い信念に基づいて実行すれば何とか変われるものである。

僕は今、自分改革をしようとしている。なぜそのような事をしようと思ったかというと、今までの自分のままでは限界があると感じたからだ。もちろん、簡単に変えられるとは思っていない。まずは自分で自分を変えようという強い意志が必要だし、そしてただ単に思うだけではなく行動しなければならない。しかしこの行動というものが非常に難しい。これまで意識的にも無意識的にも避けていたことに取り組まないと前には進まない。しかし最近、ようやくこのような事を実行できるようになった。実行するまでは非常に大きな障壁があるように感じていたが、その壁を乗り越えると後は何とか進めそうだ。

しかし油断すると、すぐに元に戻ってしまう。意識的に取り組み続けることが重要だ。そもそも「改革」というものは非常に大きなものである。「変更」は出来ても「改革」まではなかなか成し遂げられない。自分を変えるだけなのに、それが非常に難しい。しかしこれからの事を考えると、改革する価値は非常に大きい。自分が何を成し遂げようとしているのか?そしてそれを成し遂げるためにはどうすれば良いのか?そう考えた時、自分を改革することは必要不可欠だと考えるようになった。

改革とは非常に大きなものに思えるが、胆は根幹となる一つの事を変えることだ。その根幹部分を変えることが出来れば、後は芋づる式に解決して行く。そして全てが良い方向へと進む。今、僕が取り組んでいる問題を解決するために、まずは自分を変えて効果的に取り組んで行く必要があると強く思っている。それが今の僕の自分改革の原動力だ。

人に迷惑をかけていいという発想。

日本人は、いや、日本人だけではないかもしれないが、人に迷惑をかけてはいけないという意識が強いように感じる。もちろん、迷惑をかけないに越したことはない。そして出来るだけ人に迷惑をかけないで生きるぞと思うことは非常にいいことだ。しかし、そのような「人に迷惑をかけてはいけない」という意識を他人に過度に押し付けるのは問題であるように思う。迷惑をかけてはいけないという意識の押し付けが、その人を追い詰めることがあるからだ。結論から言うと、ある程度の迷惑はかけても良いと思う。それぐらいの社会的ゆとりは許さなければならない。

なぜある程度の迷惑はかけてもよいのか?それは多少迷惑をかけても良いという意識が、それ以上のメリットをもたらすからだ。特に創造的な活動を行っている人は、どうしてもある程度の迷惑をかけることは避けられない。そこで絶対に迷惑をかけてはならないと制約を付けてしまうと、何の結果も出せなくなってしまう。小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えないのだ。結局、人に迷惑をかけてはならないと押し付けることが、周り巡って自分にダメージとして帰ってくる。物事とは大局的に捉えることが重要なのである。

自分本位の考えではなく、もっと幅広く思考してみることが大事だ。そうしてみると、ある程度の迷惑はかけてもよいのではと思えてくる。自分も少しくらい迷惑をかけられてもよい。人に絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、自分には絶対に迷惑をかけるなという思考の裏返しなのである。従って、絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、非常に自分本位な思考なのである。この様な考えをしていると、何でも自分のためと思考が進み、他人を助けることが出来なくなる。

最近、人が困っていても助けないという人が多くなったとよく聞く。そこで助けないとは、そのことに関わらないということである。関わらなければ、そこで責任は生じない。従って、自分がその人に迷惑をかけていないという事になる。果たしてそれで良いのか?このように考えると、多少の迷惑をかけても良いという意識が社会の中にある方が、世の中ははるかに良くなるのではないかと思えてくるのだが・・・。

スランプから脱出か?

僕はここ半年ほど、スランプに陥っていた。原因はストレスだ。苦しい事はそんなに気にはしないが、ストレスによってパフォーマンスが低下するのなら、それは絶対に避けたい。この半年ほど、スランプからどう脱出するか試行錯誤しもがき苦しんだが、今になってやっと脱出する見通しが立ってきた。

ストレスは百害あって一利なしだ。なのでストレスは何が何でも絶対に避けなければならない。僕自身、ストレス耐性は非常に弱い方だ。それはどうやら意志の強さとは関係ないようだ。自分がどのような場面でストレスを受けやすいか?そのような事を考えながら未来の行動を予測して実行することが重要かもしれない。

しかし、現代社会ではストレスを100%避けることは不可能だ。なので最低限のストレスで抑えることが重要だ。それと同時にストレス耐性を上げる事も重要かもしれないが、僕はどうすればストレス耐性を上げられるか、全くわからない。

とは言え、現在スランプから脱出できそう(できた?)なので、この調子を持続しつつ今取り組んでいることをしっかりと仕上げたい。僕が今取り組んでいることは非常に大きく難しい事ではあるが、スランプを脱出したことによって成功確率が60%から90%に上がったと思っている。後は細部を埋めるべく努力するだけだ!

保険・保証中毒。

世の中には保険・保証が溢れている。保険・保証があるから安心して物事に取り組んだりすることが出来る。社会において、保険や保証は非常に大事なものだ。

しかし、この保険や保証がある事が当たり前になった社会において、世の中の人は保険・保証中毒になってはいないだろうか?保険や保証がないと動かない。保険や保証がないと安心できない。確かに保険や保証は安心をもたらすであろう。しかし時には保険がなくても前に進めなければならない時がある。さらに言えば、人生に対して常に保険を求めていればチャレンジなど全くできない。もちろん、保険がないと動かないというのも一つの手かもしれない。しかしそのような人が、チャレンジする人間に対して言及する権利は全くない。保険を求めている人に、チャレンジする人間の意志など理解できるはずはないのだから。

チャレンジというものは、時には命さえも懸けなければならないことがある。チャレンジとは危険地帯に出向くことであるとも言える。保険を求めることは安全地帯に留まる事である。危険地帯に出向く人と安全地帯に留まる人を同列に扱うことはできない。

もちろん、どうでもいい事に対してまで危険にさらす必要はない。そのような事に対しては保険を掛ければ良い。しかし、何事に対しても保険がないと動けないのは人間の精神的には健全ではないと僕は思っている。しかし近年の世の中には保険を掛けないと動けない人があまりにも多い。あまりにも多いがために社会システムまでもが保険を前提とした仕組みになって来ている。これは社会の在り方として正常なのか?病んでいるのか?どちらにしても、チャレンジする人をもう少しサポートするような仕組みが出来てもよいのではないだろうか。

数学とは本質を抽出して行く作業だ!

数学というものに対する認識は人それぞれ違うと思う。しかし人それぞれ違うとは言え、それぞれが数学というものに対してどのようなものかという認識を持つことは大切だ。もしかしたら人によっては、レジで計算するために必要なものだというくらいの軽い認識かも知れない。しかしそのような認識でも何も持たないよりかははるかにましだ。

研究レベルの数学に対しても、数学者の数学に対する認識はそれぞれ違うと思う。しかしそのような違いがあるからこそ、多様性のある数学の世界というものが出来上がる。そして一人の研究者にとっても、数学というものに対する解釈の仕方は複数あるかもしれない。僕自身もいくつかの解釈を持っている。なので表題の「数学とは本質を抽出して行く作業だ」というものは、その一つと捉えてもらいたい。

数学というものに取り組む時、「本質は何か?」という問いは非常に重要である。数学の深化とは、本質を切り出していく方向へ進むことである。もちろん数学の中にも純粋数学や応用数学と言われるそれぞれ毛並みの違う分野がある。特に応用数学に関しては、純粋数学によって切り出された本質を具象化する方向へ進むものである。とは言え、数学の本質を抽出して行く作業はどのようなものでも必要不可欠な作業だ。なので、数学を「本質を抽出して行く作業」だと捉える事は的外れなものではないと思う。

近年、学問がますます実用重視になって来ているように思う。お金に結び付く応用研究に重点が置かれ、すぐには実用化されない基礎研究が軽視されている。その基礎研究の究極が数学である。しかし、応用研究というものは、基礎研究の成果の上に成り立っている。従って、現在の基礎研究軽視は将来の応用研究から出る実用化にも大きく影響してくる。もちろん企業の開発現場であればそのような事もわからない訳ではないが、教育現場での基礎学問軽視は非常に問題があるように思える。

現在の社会の中には、「役に立つものを出せ!役に立たないものはいらない!」という圧力があるように強く感じる。学校現場でもそうである。社会に直接役に立つものか、受験に利用できる事に重点が置かれているのではないだろうか?そのような社会や教育現場の短絡的な風潮に危機感を感じているのは僕だけではないはずだ。

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?

回復したようだ。

ここ三日ほどの不調から回復したようだ。なのでまた明日からは良い記事を書ければと強く思っている。(本当は「今日から」と言わなければならないところだが・・・。)

ところで話は変わるが、どこにお金をかけるかということは、その人の人間性やセンスが非常に表れる。そしてもちろん、どれだけお金を持っているかということによっても大きく変わる。近年は失われた二十年の影響か、いかに節約するか?いかにお金を貯めるか?ということに世間の話題の中心が行っているように感じる。もちろん、無駄な出費を控えてお金を貯めることは重要だ。しかしそれ以上に大事なのは、お金を出すべきところで思い切って出すという事だ。そもそも、お金を貯める目的も、出すべきところで出せるようにするという事である。なので、お金を貯めるスキルを身に付けると同時に、お金を出すセンスというものを身に付けなければならない。

僕自身も無駄な出費は極力控えようと思っているが、出すべきところでは惜しまず出すということを心がけている。その中でも、書籍にかけるお金は極力惜しみなく使っている。贅沢などはお金に余裕が出来てからでいい。その時を楽しみにしている。今は自分の未来に対する投資に集中している。

しかし、ただ単にお金を出して自分に投資すればいいという訳ではない。その投資を最大限活用しなければならない。例えば、書籍に投資をするのならば、投資をした後にその書籍を縦横無尽に生かさなければならない。「お金+努力」が最大の成果を発揮する肝である。

同じ条件でも、どう考え、どう捉えるかによって、その後の進路は大きく変わる。お金も同じで、どこに自己投資すべきか?という判断次第でその後の自分の未来が大きく変わる。お金をただ単に貯めるだけでは非常にもったいない。今使うべきところで使い、それで成果を挙げ未来に回収すればよいだけの話である。お金に対する考えは、本当に人間性が表れるものだ。

毎日書きたい気持ちはあるが・・・。

毎日ブログをアップするのは僕の日々のワークになっている。毎日ブログを書き、毎日アップすることは、日々のリズムを整えるのにも一役買っている。しかし、時には調子が乗らずになかなか記事が書けない時もある。記事のストックもない。そのような時に無理に書いて質の悪い記事を出すのも本意ではない。なので一日くらい記事を書くのを休もうかとも思うが、休めば休んだで何だか気持ちが悪い。ならば少し譲歩して、調子が乗らず記事が書けないこと、それを記事にしようと今記事を書いている。本意ではないが・・・。

まぁ、一時的に調子が乗らなくても大概二、三日すればまた意欲も湧いてくると思うので大丈夫だとは思うが、不安な気持ちも少しある。記事が書けないだけならいいが、数学や物理が出来ないのはかなりつらい。ここは我慢のしどきか・・・。

とは言え、少しでも早く調子を戻すのに越したことはないので、いろいろ試行錯誤してみようと思う。自分の調子をコントロールするのも大きな実力である。これまで調子の悪い時もいろいろと乗り切ってきたので、これくらいのことはすぐに乗り切れるとは思うのだが・・・。

スマホから距離を置こう!

最近、スマホを最新型のiPhoneに変えた。最新型に変えたならそれを思う存分に使いこなしたいと思うところだが、僕はこれを機にスマホから距離を置こうと思っている。そのために毎月のギガ数を少なく抑えることにした。

ところで、最近のスマホは年々性能が飛躍してきている。そのような性能をフルに使おうと思うと、一日中スマホ漬けになってしまう。そのようなスマホ愛用者の言い分は次のようなものであろう。

・最新の動画を観ないともったいない。
→しかし動画を観る事に費やしている時間の方がもったいない。

・最新の機能を使わないともったいない。
→しかし機能を使わなくても何も減らない。

そのような事を思いながら、最近スマホ上からYouTubeアプリを削除した。やはり僕も軽いスマホ中毒にかかっていたようで、YouTubeアプリを削除してから動画視聴時間を削減することに成功した。本当に動画視聴時間は無駄である。特にロングスリーパーである僕にとっては、時間を有効に活用しなければ人以上の事をするのは難しい。

新しいスマホに変えるのをきっかけに、スマホの利用の仕方、そして時間の使い方を一度見直すのも大きな手である。普通の人とは逆行する考えかも知れないが、そのような所から差を付けないと上は目指せないと非常に痛感している。

感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

無理をすること。

最近は無理をしすぎないことが何に対しても大事だとよく言われる。確かに無理をして心身の調子を崩してしまえば元も子もないし、無理をせずにコンスタントに継続することが何より大事である。しかし、ここぞという時には無理をして力を最大限に発揮することも大事である。コンスタントに継続する中でも波がある。無理をしなければならない時と、力を抜いて休止すべき時、それらの緩急を上手くつけてこそ物事というものは前に進むものである。

とは言え、無理をし続けることは避けなければならない。無理をし続けることはパフォーマンスの効率を落とし、結果的にはマイナスになる。もちろん休んでばかりでもいけない。力の緩急を上手く付けるためにはそれなりのスキルが必要であるが、生きていく上では絶対に必要なスキルである。そのようなスキルは経験と思考によって獲得するしかない。思考無き努力は何の前進ももたらさない。

僕自身も試行錯誤によって考察する毎日である。無理をし続けることは良くないが、一時的にでも無理が出来るというのはある意味健康な証拠である。無理をしなければならない時に無理が出来ないのは非常に苦しいものである。少しずつコンディションを高めて行って、少しでも無理を継続できる頑丈な身体と精神を構築することが、今の僕の大きな目標である。

好不調の波をどう抑えるか。

僕はかなり好不調の波が激しい。しかし事を成し遂げようと思うと、ただ単に努力するだけではなく自分の調子も高いレベルで維持しなければならない。そのためには、自分の体と心を十分に知り尽くしていなければならない。

調子を整える努力はいろいろとしている。その中でも、お酒とコーヒーを出来るだけ控えることには細心の注意を払っている。お酒が調子を左右することは分かりやすいが、僕の場合コーヒーもかなり調子を左右することに最近気づいた。しかし僕は大のコーヒー党なのでそう簡単にはやめられない。なので、一日一杯だけと決めて何とか抑えている。

やはり歳を重ねると、自分の心身をコントロールすることが難しくなってくる。なので、どれだけ自分をコントロールできるかがこれからの人生の鍵となる。もし自分をコントロールできないのならば、それには三つの理由が考えられる。一つ目はそもそも自分の心身が故障がちであるということ、二つ目は力が溢れすぎて暴れ馬のようにコントロールが難しいということ、三つ目は操縦者つまり自分の意志に問題があるということ。僕の場合は全部当てはまるような気がする。何とも難しい人間である。しかし現在は自分をコントロールしきれる自信はある。何とかコントロールして現在の難しい局面を乗り切って行こう。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

小さな損を取って、大きな益を取る。

目の前の事しか見ていないと、物事の大局観が付かない。では大局観を付けるにはどうすればいいか?それは回り道をすることである。そして多くの失敗を繰り返すこと。どうしても失敗をしないで最短距離を取りたくなるものかもしれないが、失敗をしない最短距離というものは多くの場合既定路線であると言える。一度既定路線から脱線して冒険や挑戦を繰り返すことによって広い視野、すなわち大局観が身に付く。

では、大局観を身に付ける一番の目的は何か?それは「小さな損を取って、大きな益を取る」ことである。小さな益というものは、近視眼的に見えるものである。すなわち、大局観がなければ大きな益が見えない。そしてしばしば、大きな益を取るためにはそれまでに小さな損を取り続けることが要求される。小さな損を取るとは、ある意味投資であるとも言える。もちろん時には大きな投資をしなければならない時もあるが、自分の人間としての発展を目指すのならば自己投資は避けて通れない。

僕が一番重要視している自己投資は、書物に対するものである。はっきり言って現在余裕がある訳ではないが、書物や論文に対しては湯水のように投資している。そしてそれらの書物を効果的に使っているかと言えばそうではない。しかし書物がマイナスになることはない。小さくてもプラスか、最悪でもゼロである。もちろん、その前提には日々の書物との格闘がある。結果を出すべく、日々数式との格闘である。

最近、努力がネガティブに捉えられているように思えてならない。努力をしても成功する保証はないのに、なぜするんだ!というものから、努力というものをブラックに捉えられることさえある。確かに現在の社会においては、努力を無理に強要すべきではないかもしれない。努力をするもしないも個々の自由である。しかし大きな成功者の99%は努力している。学問に関しては100%だ。自発的な努力と強要を混同してはいけない。強要されてするのは努力とは言えない。僕自身も努力を他人に強要しようとは全く思わないが、自分が努力する自由は確保しなければならい。

記憶ではなく、思考を!

学問と言っても記憶力がものを言う学問から思考力がものを言う学問までいろいろあるが、数学や物理は、記憶力の学問ではなく完全に思考の学問である。とは言え、もちろん記憶力があるに越したことはない。しかし記憶力がなくても最高の結果を残すことは可能だ。記憶力が重要になる学問もある事はあるが、それでも思考力がいらない学問はおそらくない。学問とは思考してナンボの世界である。

日常生活においては、あるいは仕事の世界においても、記憶力だけで乗り切れる分野はあると思う。確かに記憶力が日本の誰よりも優れているというレベルであったら、それだけで飯が食って行けるし、ある分野ではトップに行けるかもしれない。しかしそのような日本トップレベルの記憶力の持ち主でない限り、必ず思考力は求められる。しかし、記憶力というものはすぐに分かるような明確な指標があるが、思考力というものは非常に多様なものであるので一目でその能力を感じ取ることは難しいかもしれない。もちろん見る人が見れば、思考力があるかどうかは一発でわかる。しかしそれでも見落とされている思考力がある可能性は否定できない。例えば文章力がなくても数理的思考力は優れているかもしれない。そしてそのような多様性がまた面白い所である。

世の中では、賢い生き方をすることが良いという風潮がある。しかし僕はこのような風潮は非常に危険だと思っている。なぜなら、思考して生きる事と、賢い生き方をするという事は全く別問題だからである。賢い生き方とは、型にはまった生き方である可能性がある。あるいは皆と同じことをしてはみ出したりしないか、ということである。そしてそこには思考が存在しない可能性がある。もちろん、思考して賢い生き方をすれば良いのかもしれないが、僕は思考するバカになりたいと思っている。思考するバカは面白いと信じているからだ。

とは言え、現在、そして死ぬまで数学や物理の研究に取り組むことはやめないだろう。なぜなら、そこには思考する面白さが凝縮されているからだ。数学や物理の研究は究極的な思考である。物事に取り組むならば、究極を目指すべきだと思う。しかし現実は、多くの人が普通の中の普通、つまり現状維持に苦心している。それらの違いは価値観の違いによるものなのかもしれないが、どうせ生きるのなら最高の結果を残したいと思うのは僕だけだろうか?

強い!

僕は強い人間になることの重要性を非常に感じている。では、強いとはどういう事か?もちろん、腕の力が強いとかいう問題ではない。人間的、精神的な強さだ。もちろん、体力的に強ければそれはそれでいい。体力的に弱いよりも強い方が良いに決まっている。体力的な強さはトレーニング機器でも使って厳密に測定できるが、精神的強さはそんなに簡単に測定できるものではない。さらに精神的強さは、非常に多様的な側面がある。ある一つの事に強さを発揮しても、他の事に関しては弱いかもしれない。しかしそのような精神的多様性にこそ、人間の面白さが詰まっていると言える。

僕自身はお世辞にも強い人間だとは言えない。しかしある特定のことに関しては、誰よりも強いという自負はある。自分が成し遂げようとすることに対しての信念や意志の強さ、そのような事に関しては誰にも負けない。しかしこの世の中、結果を出してナンボの世界である。思うだけなら誰にでもできる。重要なのは、決心して、そしてそれを行動に移して、そして結果を出すことである。口で説明するより、結果を出して示した方が明らかだ。結果を出せば説得力も違う。ある意味、結果を出す人間が強いと言えるのかもしれない。

現在の僕の強さは、まだ主観的なものだ。それを客観的強さに変えなければならない。今、非常に面白い問題に取り組んでいる。そしてその問題を解決する糸口は自分なりには見えている。しかし、そこまでたどり着く環境は決してやさしいものではない。色々な所に抵抗勢力がある。抵抗勢力がなければとも思うが、何に取り組むに当たっても抵抗勢力というものはあるのかもしれない。皆、抵抗勢力にぶつかって戦っている。しかし、このような無駄な抵抗勢力はどうかならないものかとも思う。しかし、それを含めて社会というものかもしれない。

物事を成し遂げるためには、頭脳、体力、そして精神力が必要だ。そのどれが欠けても最高地点には到達できない。それは学問に対しても同じだ。ただ単に考えているだけでは思うような結果は出せない。なぜなら、研究者自身も人間の一人であり、社会に生きている人間の一人であるからである。しかし、世の中というものは非常に疲れるものである。精神的にもかなりきつい。しかし、そのような事を嘆いてばかりでは何も進まない。今、自分が置かれている現状の中でいかに乗り切るか。乗り切った先にあるのは何かまだわからないけど、すごく面白い世界、そして人生が待ち受けているように思えてならない。

日本は自分で自分の足を引っ張っていないか?

最近、日本の社会を見て強く思うことがある。別に海外の事に熟知している訳ではないので日本の事だけとは断言できないが、少なくとも日本の社会については明らかにおかしいと思うことがいくつかある。そしてそれらの事によって、日本は自分で自分の足を引っ張っているのではないかと強く感じる。

一つ目は、日本社会の常識や習わしから来ること。もう一つは法整備から来ることだ。そのどちらにもかかわることだが、日本は先端的、前衛的な取り組みに対しては非常に冷たい。そして時にはそのような前衛的な取り組みをしている人を犯罪者扱いをする。例えば、ファイル共有ソフトWinnyを開発した東大の研究者がその最たる例であろう。Winnyは確かに問題を抱えたソフトであるが、それらの基幹技術は現在、仮想通貨にも共通するところがあると言われている。Winny開発者の逮捕は日本のITの進歩を遅らせた可能性があるし、現在GAFAに大きく遅れている現状はこのような最先端技術者を逮捕してしまうような日本の社会的意識に帰着するのではないかと感じる。

ITで覇権を握りたいという日本の願望は分かるが、社会的意識や行動を見るとこれと逆行するような動きをしていることが分かる。ITで覇権を握りたいと本気で思っているのならば、プログラミング教育などのような小手先の手段だけを変えるのではなく、まずはその背後にある社会的意識を変えることが必要である。(もちろん、プログラミング教育を否定する気は毛頭ない。)

今の日本はぶれ過ぎている。理念がはっきりとしていない。ただ単に「経済を発展させたい」それだけである。そのためにITを高めよう、プログラミングに力を入れよう、ということでは、一時的な表面的変化は起こせるが、根本的発展は望めない。それこそ小手先の手段で、目の前の事しか見ていない。もちろん、政界も財界も長期的視野で物事を考えたいとは思っているのだろう。しかし現実はそれが出来ていない。そのような長期的な発展を考えるのならば、まずは私利私欲、会社利会社欲、更には国益を度外視した視点で物事を考えなければならない。自分の事、自分たちの事だけを考えていては、自分達さえも持続的発展をさせることが出来ないだろう。

人間を見たい!

近年、AIが発達しており、人間に変わってAIが活動することも一部の分野で見られている。特に将棋AIが話題になっているが、AIが強いかどうかということと、それに魅力を感じるかということは全く別問題である。今若くしてトップ棋士にまで上り詰めた藤井聡太七段は確かに強いが、将棋AIと藤井七段のどちらが強いかと言えば、どうやら将棋AIの方が強いみたいだ。しかし魅力という点では、おそらくほとんどの人が藤井七段の方に感じるだろう。将棋に関しても、「人間」がプレーするということに魅力を感じるのである。

しかし逆に言えば、人間がすることに魅力を感じない分野においては、おそらく全てコンピューターや機械に取って代われると言うことが出来る。すなわち、これからの時代を生き抜くには二つの方法がある。一つはコンピューターよりも高いパフォーマンスを発揮すること。もう一つはコンピューターにない人間的魅力を発揮することだ。この二つのどちらかを実行することが出来れば、これからの時代を生き抜けることが出来るだろう。

今、コンピューター全盛期の時代にあって、人間の価値というものが再認識されているのではないだろうか。AIなどのコンピューターの性能が飛躍的に上がった現在にあって、人間はどうあるべきか?何をすべきか?さらにはどう生きるべきか?と言う事を深く考えることが求められている。逆に言えば、何も考えずにその場しのぎの軽い生き方をしていれば、次世代を乗り切れないと言える。

これらのことから、AIが発達して便利になると言われている次代は、人間にとって普通に生きる事さえ厳しい時代になると言える。しかし深く考えて生きれば、必ず乗り越えられる。これからの時代、それぞれの人間がどう生きているかという事が深く問われることになるだろう。

区切りを上手く利用する。

平成大晦日から令和初日にかけて、風邪を引いて少し寝込んでしまった。この平成と令和の区切りを利用して気持ちを整理しようと思っていたが、不発に終わることになった。

一年の中には区切りとなる日が何日かある。とは言っても、区切りの日だからと言って特別何か大きな変化がある訳ではない。しかしそのような区切りの日を逆手にとって、自分の気持ちを入れ替えるのは大きな手だ。そのような日を利用して気分転換が出来るのなら、それは非常に大きなスキルになる。この平成と令和の区切りの日をただ単に騒ぐだけではなく、令和において何を成し遂げるかという事を心に決めることが出来れば非常に前向きに生きて行くことが出来る。

僕自身も、この令和元年の間に成し遂げようと思っていることがある。非常に大きなことなので決して簡単ではないが、自分の努力次第で何とか成し遂げられると手ごたえをつかんでいるのでコツコツと積み上げて行こうと思う。

この様な自分の節目の年になりそうなときに、ちょうど令和に変わったのも何かの縁だ。僕のために令和に変わった訳では全くないが、そこは自分の都合良くとらえて、令和に変わったのは僕自身に変化をもたらすためだと勝手に思いたい。

自分の気持ちや思考をコントロールすることは非常に大事である。しかし人間の思考というものは大概世間の常識にとらわれている。もちろん世間の常識というものは無意味なものではないが、そこに自分の自由な思考を取り入れないと自分の人間性を反映したオリジナルなものは出来ない。そのようなオリジナルな表現を目指して、時代の区切りを上手く利用したいものである。

令和の始まりへ。

2019年5月1日、令和が幕を開けた。新たな象徴天皇のもとでのスタートだが、自分自身、そして国も社会も、さらには世界が良くなっていくことを願ってやまない。

僕の生き方は、令和になっても大きく変わらないだろう。しかし社会は確実に変わる。そこで、自分が時代に合わせて変えるべき事と変えるべきでないことをはっきりとさせなければならない。

人間というものは、一番大切なものを持ち続けていれば何とか生きることが出来る。もちろん現実はそれ一つだけで生きることはできないが、逆にたくさんのものを持っていても、一番大事なものが何かという事を認識できなければ苦しくなる。

では、令和の日本にとって一番大切なものは何か?もちろんそのような質問に対して簡単に答えが出るものではない。そのような答えが分かっていれば何も苦労しないだろう。さらに、政治的な事か?経済的な事か?あるいはエンターテイメント的な事か?ということによって答えは変わってくる。

近年は何かとITに関することが注目を浴びている。それは科学技術的にも、経済的にも、さらにはエンターテイメント的にも。しかしそのような視点はあくまで現時点での視点だ。三十年後はどうなっているのかわからないので、現時点だけでの視点で物事を考えるのは長期的視点で見れば危険だ。短期的視点、中期的視点、長期的視点での三本立てで考えなければならない

人間個人にとってもそれは同じだ。三本立てで考えないと人生を通じて最高のパフォーマンスは発揮できない。しかし一発屋になるのも、それはそれで一つの手であり一つの生き方だ。いや、むしろ一発でも大きいものを当てればそれは人生において大きな成果だと言える。

ただ、平成が終わって令和の時代になったからには令和の人間にならなければならない。平成の人間のまま過去の自分にとらわれてはならない。しかしいわゆる昭和の古い人間にとって、令和の人間になることはそう簡単ではない。特に過去の栄光がある人間にとってはなおさらだ。しかし過去の栄光にとらわれない人間にとっては大きなチャンスである。栄光は過去に見るのではなく、未来に見なければならない。