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令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。

自分の取り組む分野の当事者としてどうあるべきか?

ここ2年程、将棋界では藤井聡太七段の活躍に沸いている。僕自身は将棋界の当事者でも何でもないので、一観衆として藤井七段の活躍を楽しんでいるが、プロ棋士にとっては他人事ではない。谷川浩司九段は若手に対して「君たちは悔しくないのか」と発破をかけているが、藤井七段以外のプロ棋士にとっては屈辱以外の何物でもないはずだ。藤井七段のような凄い棋士が出てきたと喜んでいるプロ棋士はいないはずだ。

多くの人は何かしらの専門分野に取り組んでいる。そしてその中の一部はプロと言われる人であろう。そのような自分の取り組んでいる専門分野のプロにとっては、凄い同業者に対して手放しで褒め称えて良いはずがない。凄い同業者がいれば、それを超えるために腕を磨くことに専念しなければならない。

僕自身も、学生時代までは同じ分野を専門とする一流学者に対して憧れを持っていたことがある。そして過去の偉人に対して尊敬の念を抱いていた。しかし今は違う。同じ専門分野に憧れの人などいない。凄い人がいれば、それを越えなければならないと思っている。学問は決して順位を争うものではない。しかしだからと言って現在の地位に甘んじていいはずがない。やはりその分野に打ち込むからには、どのような分野であっても頂点を目指すべきだ。

ここ数年、僕はこのような意識が強くなってきている。普通は歳を取ればそのような意識がなくなっていくものかもしれない。しかし僕は以前、調子を壊したりして思うように打ち込むことが出来なかった。しかし今は万全の状態に近づいている。そして今なら自分の目指す所へ届くことが出来ると思っている。だからこそ、今は同じ分野に憧れの人などいない。もちろん、他分野には尊敬している人はたくさんいる。山中伸弥教授や大谷翔平選手、そして大坂なおみ選手などだ。そして自分の打ち込んでいる分野でそれらの人に引けを取らないくらいのプレーヤーにならなければならないと思っている。こんなことを言うとバカにされるかもしれないが、僕は本気だ。

もちろん、頂点を目指したからと言って、全ての人が頂点に立てるわけではない。トップに行けるのは一握りの人だけだ。しかし初めからそんなのは無理だと思っていれば、100%達成できない。しかしバカになって本気でそこを目指せば0.1%くらいは可能性が開けるかもしれない。この0.1%を高いと見るか?低いと見るか?その見方次第で後の人生が大きく変わる。0.1%を1%に、そして10%、50%と上げて行くために努力を続ける。そのような先の見えない努力が出来るバカであることが、目標を達成するための一番の資質だと思っている。

本屋を巡る。

僕は本屋巡りをほぼ毎日の日課としている。専門書や洋書は大型書店やAmazonで購入するので、近所の本屋さんでは新書や文庫本、雑誌などをメインに立ち読みしたり購入したりしている。最近は新書の購入が多いが、新刊本をチェックしたり掘り出し物を見つけるのは日常のささやかな楽しみである。

人間の興味などは突然変わるものではないので、本屋に行くと大体毎回同じコーナーに陣取る事になる。それはそれでいいのだが、少し気分を変えて普段自分が足を運ばないようなコーナーに行くのも非常に良い。意外とそういう所に新しい発見があったりして、新しい世界が広がることがある。僕ならば最近は経済書コーナーや法学書コーナーに足を運ぶことがあるが、以前はそのようなコーナーは無視していたところであり、そこに足を運ぶことにより新しい見地を得られることになった。興味のレパートリーを増やすと抱えるものが多くなり大変であるが、その重さは自分の人間性の幅に比例するものであり、それを抱え続けることにより知的基礎体力が付いていくことになる。

気になった本は、お金が許す限りどんどん買えば良いと思っている。僕もこれまで相当な量の本を買い、本棚には専門書をはじめ様々な本が並んでいるが、例えそれらの本を全て読まなくても、背後の本棚に広がる本たちは自分の知性のバックグラウンドだと思っている。本棚を見ると、大体その人の興味や嗜好、知性がうかがえる。そしてそれらの本は、いざという時に自分の窮地を救ってくれる相棒でもある。

近年は極度の出版不況であると言われている。出版不況という事はそれだけ人々が本を買っていないという事であり、それは国全体の知性の低下につながってくると考えられる。お金がない時に何を節約するか?それは人それぞれ様々であろうが、もしかしたら多くの人はそのような時に本代を節約するのかもしれない。しかし自分の人間性の立脚する基礎となるものは書物であり、本代は決して無駄にはならないと考えている。節約する中でも、本代は何が何でも死守したいものである。

加点法か?減点法か?

評価の仕方には大きく分けて加点法と減点法がある。それに伴って、加点法の世界で評価される人間と減点法の世界で評価される人間は全く違うと言っていい。どちらが良いかという話ではないかもしれないが、僕自身は加点法の世界で身を立てようと思っている人間であって、減点法の世界では全く生きることが出来ないと思っている。

減点法の世界の代表は、何と言っても公務員であろう。公務員の世界ではどれだけ失敗をしないかが評価の対象になる。キャリア官僚の世界の出世競争は熾烈だが、トップに君臨する事務次官がどのような実績を残したかわからない人がほとんどだ。極論を言うと、公務員に大きな実績は求められていない。どれだけそつなくこなすか?それが出来る人が公務員として有能な職員だと言えるだろう。

数学や理論物理の研究の世界は、圧倒的に加点法の世界だと僕は思っている。とは言え、研究ポストなどの選考では減点法が幅を利かせているようにも感じるが、研究者としての研究能力の評価は100%加点法だと思っている。ただ、加点法によって評価されようと思っているのならば、中途半端な成果では話にならない。圧倒的な成果を上げないと加点法によって圧倒的な評価を勝ち取ることはできない。平均的な研究レベルの研究者に対しては、むしろ減点法で評価されているように感じる。

加点法の一番の魅力は、ホームランが可能な事、再チャレンジが可能な事だ。減点法の世界にホームランも再チャレンジもない。しかし日本の社会は広く減点主義が取られているように感じる。大した実績がなくても、失敗をしない人が大きな顔をして道の真ん中を歩いている国だ。そのような現状を見て、大人から若者まで如何にして失敗しないで乗り切るかという事ばかり考えている。それは逆に言うと、大きな挑戦を全くしないという事である。もちろん、日本でも大きな挑戦に挑む若者は少なからずいる。しかしそれらの人は、その大きな実績を挙げるまで全く見向きもされないことが多い。支援もない。孤軍奮闘である。

日本において加点法で生きて行こうと思えば、相当の覚悟がいる。しかし加点法で生きて行こうと思っている人は、何とか苦しい中間地点を乗り切ってその先にある風景を目にしなければならない。それは生きるか死ぬかの究極の勝負である。しかし、そんな極限状況であっても、それが刺激的でやめられないのが加点法の世界でホームランを打とうと打ち込む挑戦的人間ではないだろうか?

得るために捨てるもの。

人間は全てのものを得ることはできない。時には二つのものを得ることも許されず、一つのものを得るために捨てなければならないものがある。そのような時、どちらを取ろうか迷うこともあるかもしれないが、自分にとって一番大事なものが何かをしっかりと認識していれば、それに迷うこともない。

得るべきものを得るには、時間も労力もかかる。しかしそのような時間と労力も含めて財産になるのだ。それを認識していないと、なぜこんなに苦労をしなければいけないのかと悩むことになる。

得るべきものを得るための過程は、苦しくて楽しいものである。時には脇見をして周りの人間をうらやましく思うこともあるかもしれないが、自分が一番大切だと思ったことに進んでいるのなら、その大切なものを得た暁にはそれ以上のものが待ち受けている可能性がある。そう思うと、今の苦しくて楽しい道のりが快感にもなる。結果を楽しみにするのも大切だが、できれば道のりも楽しみたいものである。

人生とはある意味投資である。将来の成功、将来に得るべきものを得るために、時間、労力、お金を投資する。そして得るために捨てるものも投資だと言える。投資とは、自分が目指す未来の自分になるためにつぎ込むものであり、そして投資であるからにはつぎ込んだもの以上のリターンを得なければならない。全てが上手く行くとは限らないが、失敗さえも次の成功へと結びつけるたくましさが必要である。

得るために捨てるべきものを捨てることが大事だが、もし二兎追うべきだと判断したのならばそれもありだと思うし、それは非常に挑戦的な取り組みだ。大谷翔平選手のように二兎追って二兎得ることは非常に困難な挑戦だが、長い人生的スパンで考えれば三兎でも百兎でも追えばいいと思っている。

大問題に取り組んで見えること。

学問においては、問題に取り組み解決することが一つの目標になる。問題には大きなものから小さなものまで様々あるが、大問題に取り組むことは大きな覚悟がいる。大きな問題であるほど難しい問題であることが多く、したがって簡単には解決できない。もし解決できたとしても、それまでの道のりは長く時間もかかる。問題によっては人生を懸けるというくらいの覚悟がないと立ち向かえないものも少なくないであろう。

しかし当たり前の事であるが、大きな問題であるほど、解決した時の評価や実績は大きくなる。もちろん、大問題に立ち向かいながら小さな問題に取り組むことも出来るし、また大問題を解くに当たってもその過程は小さな問題の解決の積み重ねである事も多い。フェルマーの大定理を証明したワイルズも、それに取り掛かるに当たっては相当な覚悟があったと何かで見たことがある。大問題に取り組めるかどうかは、才能云々というよりも、覚悟だとか楽観性だとかいう人間性に大きく関わってくるものだと強く感じる。

大問題に取り組んでみると、それまでとは全く違った世界が見えてくる。それは学問的な事であったり、日常において見える景色、そして人生観の変革といったものだ。問題が解決した時、景色がどれだけ変わるかは解決してみないとわからないが、取り組むだけでもあらゆるものの見方が変わってくる。それに伴って人生も変わる。自分がどのように生きて行くべきか?そのような人生目標も明確に見えてくる。大問題なんて難しくて解けるわけがないと取り組む前からあきらめるのではなく、まずは問題に取り組まないと何もわからないし何も見えてこない。問題に真剣に向き合えば、解決への道筋が見えてくることもある。取り組むかどうか考える前に、まずは実行してみることが大事である。

もし何に取り組むか迷っているのならば、そこは迷わず難しい方を選ぶのも手だ。なぜなら難しい問題であればあるほど、見えてくる景色や世界観が広くなるからだ。もちろん、難しいか?という以前に、重要な問題である必要はある。難しく重要である問題に秘められている世界は、底なしに深いものである。どこまで深く迫れるか?それは非常にエキサイティングな挑戦であり、人生を懸けるに値する問題である。

物事を確率で考える。

物事を考える時、成功するか?失敗するか?あるいは良いか?悪いか?と二者択一で考えてしまうことが多い。しかし多くの物事は二者択一で考えられるほど単純ではないし、黒か?白か?ということに対してはほとんどの場合グレーである。しかし、グレーと言っても、白に近いグレーから黒に近いグレーまで色の濃さは様々である。ではグレー領域を判断するにはどうすれば良いか?それは正確に確率を読むことである。

金融の世界では、商品が上がるか?下がるか?という判断は確率によってされる。金融に携わる人にとっては確率論は必須の知識であるし、金融の世界で判断する際には確率微分方程式が使われると言われている。(アメリカの金融街、ウォールストリートで一番有名な日本人は、数学者(確率論)の伊藤清だと言われている。)

単純に考えれば、実行するかしないかの判断の分かれ目は、50%ラインにあると考えられる。しかしそれはあくまで非常に単純に考えた時の話で、成功率が99%でないとしてはならないこともあれば、1%に賭けるべき時もある。しかしどちらにしろ、確率を正確に読まなければならないことには変わりはない。

もちろん、日々の生活の中で全ての事に対して確率で判断して行動すべきだとは思わないが、物事を思考する時に確率的な考察を取り入れる事は多くの場合有用だと考えられる。と言う僕は、意外と確率的な判断はあまりしないような気がする・・・・。

確率論とは数学の一分野であり、数学的理解なしには確率的考察は出来ない。もちろん、専門的なルベーグ積分を使って、とまでは言わないが、日常で数学的思考が有用であることはこのような事からも理解できるであろう。

リスクの取り方。

リスクとは一言で言うと危険ということかもしれない。しかしリスクという危険には、それを乗り越えた時に大きなメリットがある。人間にはリスクを取れる人とリスクを取れない人の二通り人がいる。僕は圧倒的にリスクを取る人間である。とは言っても、投資などの金銭的なリスクを取る訳ではない。もちろん広く考えると金銭的なリスクも取っているのだが、それ以上に人生のリスクを取ることを心がけている。

何に対してリスクを取るのか?それは人それぞれ様々であろう。仕事でのリスク、日常生活や人付き合いでのリスク、あるいは恋愛でのリスクかもしれない。もちろん、普段から常にリスクを取り続ける必要はないかもしれない。しかしここぞという時にリスクを取れるかという事は、自分の人生を確立するためにも必要である。

ではリスクを取らなかったら失敗しないか?と言えばそうではない。実はリスクを取らないという事は、大きなリスクになりうる。それならば同じ危険性を背負うのならばリスクを取って挑戦したほうが良い。挑戦して仮に失敗しても、悔いは残らないであろう。

リスクを取る時、躊躇をすることは多々ある。しかし中途半端にリスクを取ってしまえば、危険を背負いながら失敗するという最悪な結果になってしまう。リスクを取る時には全力で取り組むことが必要である。そのためには、念入りな準備が必要だ。リスクを取るからには、何が何でも成功をしなければならない。そのための努力を惜しんでは絶対にダメだ。

リスクといった事を考える時には、どうしても負の側面を考えがちだ。しかし現在自分が置かれている立場を脱却するためには、リスクを取ることが不可欠な事もありうる。それは人生を進めるにおいてかもしれないし、金銭的な事かもしれない。そのような人生の危機において、悲観的になるばかりではなく、ある程度楽観することが必要だ。そして人生を楽しむ事、自分が取り組んでいる事、自分が懸けていることを楽しむ事、これが重要である。しかし楽しむ事というのは決して楽な事ではない。時には楽しむためにその何倍も苦しむこともある。しかしその上で掴んだ自分の人生は格別なものである。その格別な人生を手に入れるため、今苦しんで努力すればいいと考えている。

分析だけでは解決しない。

勝負に敗れた時、その敗因を分析しようとする。分析することは確かに重要だ。しかし分析をどれだけしても解決しないこともある。例えばスポーツで敗れた時にもその原因を分析しようとするであろう。しかし自分の力を強くしないと根本的解決にはならない。分析三割、実行七割というのが原則であろう。

21日、統一地方選挙及び衆院補選があった。衆院の二つの補選では両方で自民党が敗れることになった。安倍政権の下で圧倒的な強さを誇った自民党であったが、今回の敗戦にはそのほころびが見える。二階幹事長は「敗因分析を急ぐ」と言っているそうだが、僕にはこの敗戦が分析によって解決するかといえば疑問に思う。なぜなら、分析によって解決するのは下層部への問題であって、より上部の問題に対しては分析だけで簡単に解決できるものではないからだ。

敗因分析以上の効果をもたらすのは、根本的理念の変革、及び根本的制度の変革である。しかしこれらの改革は大きな効果をもたらす可能性がある一方、大打撃を与える可能性もある。諸刃の剣である。理念に関してはそう簡単に変えるべきものではないし、その理念を貫き通すことによって信用も生まれる。今回の敗戦に関しても、理念の変更が大きな原因になったとは僕は考えてはいない。むしろ根本的制度の改革が裏目に出たのではと考えている。もちろん、社会的制度の変革などもあるが、一番大きなのは自民党総裁任期の変更であろう。もちろん、これ以外にもいろいろと原因はあるかもしれない。しかし次期参院選までに立て直すのは至難の業であろう。さらに分析だけで乗り切ろうと思えば、これは不可能だと言わざるを得ない。

自民党が次期参院選で立て直すには、分析以外の取り組みが鍵になって来る。特にインパクトのある標語的な政策を打ち出すのなら、それは次期参院選では効果的かもしれないが、持続性という観点で見れば賢い策とは思えない。もちろん、外的要因によって情勢が大きく変わる可能性もなくはない。これから政府与党がどのような動きに出るのか、注目してみたい。

判断に必要な「勘」とは?

勘で物事を判断することはよくある事だ。しかし一言で「勘」と言っても、それには色々な種類がある。勘と言えばもちろん直感に基づくものだが、しかしそれは決していい加減な判断ではない。もちろん、何の根拠もなく判断するようなことを「山勘」と呼ぶが、重要なのはそのような根拠のない勘ではなく、論理と計算に基づく勘だ。

論理と勘とは一見相反するようなことに思えるかもしれないが、優れた勘とは経験と論理に基づいていることが多い。論理による緻密な計算が、勘をより冴えたものにする。勘で判断する前までは、綿密な論理と計算によるシミュレーションが必要だ。最終判断をする際に総合的に判断する根拠を勘と言うのである。従って、最終判断の場面だけを見ればその判断の根拠が見えず、一見何の根拠もないいい加減な勘に見えるかもしれない。しかしそれは傍から目線であり、判断をする本人にとっては決してそのようないい加減な勘であってはならない。

数学や物理においても、勘が重要な判断基準になることがよくある。右に行くべきか、左に行くべきか?学問においてはそのような事は論理で決定されそうに思えるが、意外と研究者は鋭敏な勘を働かして判断をしている。もちろん、研究者の勘は根拠の塊からできている。何十年という論理的訓練の末に出来上がるのが、研究者の鋭敏な勘というものだ。もちろん、それが100%正しいとは限らないが、そのような鋭敏な勘の連続が最終地点までの重要な道標になることが多い。

数学や物理において、勘というものに非常に近い感覚が「美的感覚」である。数学理論、物理理論にも美しいという判断基準がある。美しい理論は大概真理を物語っている。よく美しい理論の代表として取り上げられるのが、相対性理論だ。アインシュタインの美的感覚は非常に鋭いものがある。美しいかどうかという判断に基づいて理論を構築することは決して不可能ではない。もちろん、細部を埋める計算は泥臭いものになるが、完成品は美的な光にあふれている。一般相対性理論のアインシュタイン方程式は、シンプルで力強く、そして非常に美しい。

勘を磨くことは決して容易な道ではない。計算も経験も必要であり、感覚も研ぎ澄まさなければならない。そしてある程度天性のものもあるかもしれない。しかし、物事を極めようとすると、そのような勘を磨くことは避けて通れない道である。そしてそのためには、徹底的に論理と計算を究めなければならない。

徹底的に構造論。

物事を考える時には、いろいろなアプローチがある。例えば物理理論では現象論だとか反応論などというものがあるが、自分がどのアプローチを取るかという事は重要であるし、それでいて一つのアプローチにこだわらずに広い視点を持つことが重要である。

僕が最近重点的に取り組んでいるのは、構造論的アプローチだ。物事の構造に焦点を当てたアプローチだが、ただ構造論と言っても分野ごとに内容は大きく異なる。20世紀の数学では、フランスを中心とした数学者集団ブルバキによって構造主義というものが推し進められたが、別にブルバキを意識したものではない。結果的に重なる所はあるかもしれないが、抽象代数学などに取り組めば構造論・構造主義という考えは自然と出て来る思想である。

目の前の問題しか眼中になく場当たりに取り組んで行くのは、構造主義とは対照的なアプローチであろう。一つの問題に取り組むに当たっても、構造論的に取り組めばより深い真理が見えてくるし、問題をより広く捉えることが出来る。構造論的なアプローチを徹底的に推し進めるのは、ある意味プロとしての本流であろう。それは何も学問に対してだけではなく、スポーツでもビジネスでも同じだと思う。場当たり的に対処すれば、その時には小さな解決に成功するかもしれないが、持続的な発展は望めない。

構造論を究めるためには、物事を論理的に捉える事が不可欠である。数学はそのような場の究極である。ブルバキ主義が意識されなくなった現代においても、ブルバキ的な構造主義は脈々と続いている。社会的な事においても、構造論的な視点から見てみると物事を大局的に捉えることが出来る。今何かに取り組んでいるのならば、構造論的な視点で見て基礎から構築して行くことは長い目で見れば得るところは非常に大きいと思われる。

空気を読みすぎない。

ある程度空気を読むことは物事を円滑に進める上で必要だが、過度に空気を読み過ぎるのはどうかと強く感じる。日本では空気を読むことはある程度素養として見られるところがあり、空気を読まない人は「空気を読めない奴」と言って非難の対象になる。空気を読み続けることによって大きなミスをなくすことはできるかもしれないが、その一方、それは大きな変革を起こさなければならない時には大きな妨げになる。

空気を読むことは、現状維持を目指すうえでは必要であるように思える。しかし、現状維持を目指して現状維持ができることはほとんどなく、現状維持の行きつく先はほとんどの場合没落である。そのような没落への道を避けるためにも、空気を破って現状打破をすることが必要である。

物事にはバランスが必要である。空気を読むことは一種のバランス構築技術と思うかもしれないが、空気を読み過ぎるというのもそれはそれで非常にバランスに欠ける事である。片方に偏り続けた一種の偏重バランスを崩すためには、空気を破ることが必要である。もし、現在何かに行き詰っているのならば、そこでこれまでの空気を読まずに破ることが必要である。

空気を読むことは一つのスキルと言える。しかし空気を読み過ぎないというのはさらに高度なスキルである。空気を破るべきところで破れるか?それは人間の度量に大きく関わってくることだと思う。没落への道を避けるためにも、時には空気を読まないという事が必要であり、覚悟を持って空気を破る必要がある。確かにこれまで空気を読み続けて切り抜けてきた人にとっては簡単な事ではない。しかしこれまで空気を読むスキルを身に付けて来て、そこにさらに空気を破る技術と覚悟を持つことが出来れば、人間としてもさらに一段上に上がれるはずだ。

感覚と論理。

感覚的な事と論理的な事は相反することのように思っている人もいるかもしれないが、感覚と論理はむしろ相補的、すなわち相補うような存在であると僕は考えている。物事を論理的に考えることは重要であるが、論理ばかりに目が行ってしまっていれば物事の本質を見失うことがある。重要なのは、論理からいかに感覚を掴むかということである。

ここで例を取り上げる。物理理論である電磁気学では、最も基礎となるマクスウェルの方程式と呼ばれる四つの方程式がある。そこではdiv、grad、rot、という三つの記号が出て来る。これらの記号は偏微分を使って数学的に厳密に表現することが出来る。しかしこれらの数式を覚えるだけではマクスウェル方程式の本質は掴めない。重要なのは、div(ダイバージェンス)を「発散」、grad(グラディエント)を「傾き」、rot(ローテーション)を「回転」と感覚的に捉える事である。この様に感覚的に捉えることが出来れば、後はそれらの感覚を基に容易に式変形が出来る。

日常では感覚は五感で捉えられることが多いが、数学や科学においては論理によって感覚を捉えるのである。論理と感覚を縦横無尽に使うことが出来れば、日常においても大きなスキルになるし、学問においては真の理解に結び付けることが出来、さらにそこから新し理論を構築することが出来るであろう。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

死なない事。

誰だって死にたくはないはずだ。しかし誰だって必ず死は訪れる。それが早いか遅いかというだけだ。そして死には二つある。「肉体の死」、そして「精神の死」だ。肉体の死は自分ではコントロールできない部分も多々ある。もちろん昨今は医療が非常に発達し、ちょっとやそっとでは死なないかもしれない。日本人の平均寿命も非常に高いレベルにある。なので普段はあまり(肉体の)死を意識することも少ないかもしれない。

問題は「精神の死」だ。精神の死はかなり自分でコントロールできる。しかし若くても精神が死んでいる人もいるし、年老いても精神が生き生きしている人もいる。何を持って精神の死と言うかは難しいが、精神が活発に生きているとはどういう事かとはいくつか言えることがある。一つは「挑戦し続けているか?」ということだ。全く挑戦することもなく保身の事ばかり考えている人は、完全に精神は死んでいる。人が100の窮地に立たされているのに、自分の1の利益を守るためにその人を助けない。そのような人はもう精神が死んでいるとさえ言えない。

その場では自分の利益を確保していると思っていても、人の犠牲の上に成り立つ利益は長く続かない。なぜなら周りの人はそれを見ているからだ。世間では「いかにリスクを取らずに利益を上げるか?」という事ばかり注視されいるが、ローリスクとは意外と割に合わないものだ。ローリスク・ローリターン、人生においてそれでいいと思う人はそれでいいが、人生とはリスクを取り続けて成長して行くものだと思う。すなわち、人生においてリスクを全く取らない人というのも精神が死んでいると言える。

精神的に生き続けて成長して行くためにも、絶対に肉体は死んではいけない。肉体的に生き続け、人間的にも成長し発展し続ける。死の直前まで精神的に発展し続ける人間になれるか?これは一人の人間として大きな挑戦だと思う。

安っぽい個性はいらない!

近年、日本でも徐々に集団主義から個人主義に変わって来ており、それに伴って「個性」と言う言葉が氾濫しつつある。それぞれが一人の人間として個性を出すことは非常に大事である。しかし世の中の多くの人は個性というものを履き違えているように思えてならない。

個性を出すと言えば、真っ先に服装の話が出てくる。確かに服装は一番目に映る所であり、ちょっとした変化でもわかりやすい。なので個性を出そうと思うと、服装で個性を出そうという人が多く出て来る。そこで奇抜な服装をしたり、派手なアクセサリーを付けたがるが、僕はそれが果たして個性なのか?と非常に疑問に思う。僕自身はこのような見かけだけの変化は個性でも何でもなく、例え個性だとしても非常に安っぽい個性に思えてならない。

僕が個性とはこうあるべきだと思うものを一文で表現するとこうだ。男なら「ビシッとジャストサイズのスーツを着て、人間の中身から深い個性を出す」、これぞ男の個性だと思う。女性なら、それは女性に考えてもらおう。個性とは外見から出すものではなく、人間の中身からにじみ出るものなのである。もちろん、身なりはきちんとしていた方が良い。そういう意味でビシッとジャストサイズのスーツを着るべきだ。もちろんスーツでなくても良い。仕事着ならそれでもいいし、ソフトカジュアルな服でもいいと思う。服装によってマイナスイメージが付くのは良くないが、服装は引き算で考えた方が良い。

そのようにビシッとスーツを着れば、後は自分の人間性の勝負である。それはただ単に性格的なものだけではない。仕事や人生において打ち込むべきにものに真剣に打ち込む姿、大きな飛躍を得るためにリスクを取る覚悟、楽な方に逃げないで厳しい選択肢を選択する判断、そのような人間性における総合力が個性となって表れるのである。

もちろん、外見で個性を出すことを否定するつもりはない。ただ外見で個性を出す場合、それなりのセンスが必要である。ただこれが簡単なものではない。方向性を間違ってしまうと安っぽい個性になってしまうのだ。

安っぽい個性しか出せない人は、安っぽい人間だと思われてしまう。個性の「個」は個人という意味である。すなわち個性とは人間に由来するものであって、物に由来するものではない。人間としての総合力を上げて強烈な個性を出すべきである。しかしこのような個性は一朝一夕では出来上がらない。これまで自分がどのように人生を歩んで来たかが魅力的な個性を身に付けられるかどうかに大きく関わってくる。

精神は自由で、行動には規律?

僕は人間には二つの自由が大事だと考えている。一つは精神の自由、もう一つは行動の自由だ。この二つの自由はそれぞれ独立しているものではなく、精神の自由は行動の自由を確保されてこそ成り立つものだと思う。従って、行動の自由を制限すれば、そこから精神の自由度も低くなってしまうことになる。

しかし、行動の自由を他人から侵されることは極力避けなければならないが、自分で自分の行動を律することはある程度必要だ。そうしないと、お酒を飲みだすと止めどもなく飲んでしまうことになるし、他人にも大きな迷惑を掛けてしまうことになる。そしてその先にあるのは自滅である。信念に基づく自由は大切だが、自由を逆手にとって暴挙に出てしまうことは避けなければならない。そのためには自分の行動にある程度規律を定めることが必要なのである。

ところが、この塩梅が難しい。自由と規律は言葉の意味で言えば相反するものであり、一方を重視すれば他方が軽視される。お酒を飲む自由は欲しいが、お酒に溺れるのは良くない。やはり事を成し遂げるためには、自由と規律を上手くコントロールすることが必要である。

僕自身も出来た人間ではないから、どうしても同じ失敗を繰り返してしまう。多くの失敗をすることは悪い事ではないが、同じ失敗を繰り返すのは考え物だ。しかし同じ失敗を繰り返す中でも、どこまでなら失敗せずに済み、どれ以上すれば失敗してしまうか?という線引きをどこですべきかという事がわかってくる。権利と義務がセットで語られるように、自由と規律もセットで語られるべきものかもしれない。結論を言うと、自由人であり続けるためには、自分を律することが必要だということだ。

基本的思考。

同じ人間の思考・思想がころころと変わることはありえないし、もしそんな人がいれば他人から全く信用されない。人間の基本的思考、すなわちその人の根本的な考えというものは人生を通じて大きくは変わることはないので、言い回しは変わっても言っていることの本質はほとんど変わらない。今日、記事を書こうと思って、何となく過去に書いたことのあるようなタイトルだったので念のためにブログ内検索をしてみると、案の定、過去に同じタイトルで記事を書いていた。同じタイトルでも記事内容は違うものになるのでそれでもいいかとは思ったが、そのタイトルで書くのはやめることにした。

基本的思考なんていう言葉があるのかどうかわからないが、人間にはそれぞれ芯となる部分がある(と思われる)ので、その芯となる部分にあたる思考・思想と言う意味で基本的思考という言葉を書くことにした。僕自身、常に不変な基本的思考というものは強くあり、表面的な所は変わっても、行動原理はその基本的思考にある。なので自分の行動パターンというのもは大概同じものになることが多い。別に意識はしていないが、自分の行動そのものがルーティンのようになっている。

そのようにルーティンというものは基本的思考から出て来るものだとは思うが、逆に意識的にルーティンを作り、思想を固めて行くというのもありだ。自分の目指すところがあるが今の自分にはまだ何か足りないところがある。そのような時、その足りないところを形作るためにルーティンを定め行動原理を作り、自分を高めて行くのだ。それが出来る人間はかなり強いと思う。

ただその場の思い付きや、楽をしたいという考えだけで行動していれば、自分という人間に対して人間性を構築することはできない。信念というものは決して楽をするためにあるのではなく、苦しい思いをすることも多々ある。しかし自分がこうありたいと思う自分があるのならば、まず自分の基本的思考が何なのかということをしっかりと認識してルーティンを確立することが必要だ。

“ものつくり”国家、日本。それが良いのか?悪いのか?

日本は昔から「ものつくり国家」と言われてきた。現在でも高品位なものを作ることに関しては秀でているし、実際「made in japan」というブランドは現在でも広く通用する。これまで日本の「ものつくり」というものに日本人は大きな自信と誇りを感じていたが、現在そのような「ものつくり」に対する大きな自信があらゆることに対して影を落としているように感じる。

ハードとソフトを区別するのならば、ものつくりとはハードである。そして日本はものつくりに絶大な自信を持っているように、ハードに関しては今でも世界でトップレベルである。しかしソフトに関しては日本の一人負けの感がある。ものつくりのハードにこだわるあまり、ソフトに対する力が欠けていたのではないだろうか?

ハードは目の前の机に置いてはっきりと見ることが出来る。しかしソフトは机の上に置くことも出来なければ、現物としてもなかなか認識しづらい。ソフトとはある意味「設計図」である。昔なら紙の上に書かれた図であり、現代ならコンピューター上に書き込まれるプログラミングである。これらの紙やプログラミング画面自体に全く価値はない。価値は紙の上の、あるいはコンピューター上の「情報」にあるのである。これらの重要性を認識するためには、目に見えない価値を感じなければならない。それらの価値を認識するにはものつくりの価値を認識するだけでは足りず、時にはものつくりの価値へのこだわりが情報の価値を見ることに対して盲目的にさせる。今日本に必要なのは、このような目に見えない価値を認識する力ではないだろうか?

ものつくりはそれはそれで素晴らしい。しかしこれからは「もの」と「情報」、すなわち「ハード」と「ソフト」の双方の重要性を認識する必要がある。ものつくり国家から脱却するのではなく、さらにソフトの強みを付け加える必要があるのである。これはコンピューターソフトに対してだけではなく、全ての目に見えない価値を作り上げることであることは言うまでもない。

ブラックホールが直接観測されたようだが。

4月10日、国際的な研究チームが、ブラックホールを直接的に観測することに成功したことが報道された。最近はブラックホールというものが完全に市民権を得て日常的にも話題になることが多いが、これまではブラックホールの存在は間接的にしか観測されておらず、今回の観測が初の直接的観測となったようだ。

ブラックホール存在はアインシュタインの一般相対性理論からの帰結として出て来るが、相対論から初めてブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールのことはあまりよく知られていないように感じる。今回の直接的観測は大きな成果かも知れないが、それは重要性からという以上に、興味の大きさから来るものだと感じないわけではない。重要性という観点で言えば、チャンドラセカールの理論の方が圧倒的に大きい。しかし大理論の常と言うか、チャンドラセカールが理論的にブラックホールを発見した当時は周りの研究者からはほとんど受け入れられなかったという。もちろん、今となってはチャンドラセカールに対する評価は絶大だが。

本質的に重要な成果は、多くの場合すぐには受け入れられない。なので大理論を目指すには、同時に小さな結果を出し続けることが要求される。それが出来ないと自滅することになるかもしれないので、結果が出て評価されるのが先か?自滅するのが先か?という争いになる。

成果の大小は研究費の大きさに必ずしも比例しない。今回のブラックホールの直接観測には多くの研究者と多くの観測施設が関わっていたようだが、おそらくかかったお金も膨大であろう。しかしブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールは、おそらく紙とペンだけでこの重要な結果を出したと思われる。ペンの力は偉大である。そして科学では往々にして、ほとんどお金をかけずにペンだけで大理論が出される。もちろん研究している分野によってかかるお金はまちまちだが、研究結果は必ずしも研究費に比例しないことは認識しておくべきである。もちろん、研究者が生活できるくらいの最低限のお金は必要だが。

数学の基礎の基礎。

「基礎」と言っても、初歩という訳では全くない。「土台」という意味である。数学の土台に当たるところは、数学基礎論(数理論理学)である。数学基礎論が数学の一番の土台である割には、数学科の学生でも基礎論を修得している人は少ないであろう。僕もその修得していない人のうちの一人だが、数学をやっていて基礎をたどって行くとやはり基礎論になるので、最近、基礎論が気になっている。

基礎論の金字塔は何と言っても「ゲーデルの不完全性定理」であろう。これはすごく単純に誤解を恐れずに言えば「数学にはバグがある」ということだが、そもそもここで言う「数学」とは何か?数学の定義とは何か?ということが問題になってくる。ここで言う数学とは通称「ZFC」(ツェルメロ・フランケル体系に選択公理を付け加えたもの)のことだ。ZFCは基礎論や数理論理学をやっている人以外には馴染みのないものだが、ZFCがどのようなものくらいかは知っておいた方が良いかもしれない。

数学基礎論は数理論理学とも言われるように、数学よりも論理学に近いかもしれない。数理論理学者のことを「ロジシャン」と言うらしい。数学はロジックだけでは発展しないが、数理論理学を進めるのは99%ロジックなのかもしれない。

数理物理を研究しようと思うと、当たり前の事だが応用数学だけでなく純粋数学も必要だ。その純粋数学の基礎を突き詰めると数理論理学になる。従って数理論理学を勉強することは数学者にとっても理論物理学者にとっても非常に有益であるに違いない。最近、数理論理学の専門書をチェックしたので注文しようと思う。ゲーデルの論文の日本語訳も手元にあるが、「原論文でも」と思ったが、原論文がドイツ語であるので歯が立たない。まぁ、日本語でも英語でもいい。とにかく原典に当たることが重要だ。研究にも利用できるような気が(少し)する。

数学は非常に広い。しかし本質を知るにつれて既知の数学が少し窮屈になってきた。しかし未知の数学は恐ろしく広いはずだ。その証拠に数学の発展はエンドレスに続いている。既知の数学を勉強して理解するのは難しくないかもしれないが、未知の結果を出すのには骨が折れる。まぁ、何本骨が折れても目標とする結果が出れば良いのだが。

幹は本質だけど、花がないと誰も振り向かない。

本質を掴むことは非常に重要だ。しかし幹となる本質だけ取り出しても、その幹がどれだけ重要かなかなか理解されない。本質となる幹は、花を咲かせてこそ初めて重要性が理解されるのである。

最近、数学に取り組んでいてそのような事を強く感じる。数学の中で幹となるのは三つほどの概念なのである。その三つほどの概念の下に次に重要な概念がいくつか付随する。そしてさらにその下に次に重要な概念が。この様に数学的構造は系統樹的に連なっている。そして言うまでもなくその系統樹を概観して理解することは非常に重要だが、それを概観するだけでは何も生まれない。そこから手を動かして計算することが重要なのである。計算して細部を埋めることによって、系統樹に新たな部分が追加される。

数学的視点はあらゆることに応用できる。それはビジネスであったり、日常生活であったり、人間関係であったり。それらの構造と相互作用の骨格は、かなりの部分が共通する。だからこそ、一つの事を極めてその本質を掴めば、それが他の事に応用できるのである。プロのジェネラリストになる一番の方法は、プロのスペシャリストになることなのである。

プロのスペシャリストになって、そのことに対する本質を掴む。それで良いのだが、それだけでは誰も見向きはしない。そこに花を咲かせること、それが実績になるのである。しかし花を咲かせることだけに気が行って最短コースをたどる事ばかりを考えると、意外に大きな壁にぶつかってゴールにたどり着けない。本質を掴むという作業は一朝一夕では完成しないが、そのように遠回りしてみると意外にゴールまでたどり着けるものかもしれない。

七人敵に回して、三人味方にするくらいが。

誰でも自分の周りの人が味方であった方が良いと思うかもしれない。しかし何に関しても周りの全ての人が味方であるということはほぼありえない。逆に周りの人全てが味方であるといった状況ならば、それはある意味危険信号であると思った方が良い。もちろん全ての人を敵に回す必要はないが、七人敵に回して三人味方にするくらいがちょうどいい。

時には敵というのもありがたい存在である。敵がいるからこそ、自分の欠点、自分に足りないものは何かということに気付くことが多い。もし敵に対して憎しみしかなければ、それは自分には何かが足りないということだ。過去の自分にもそういうことは多々あった。おそらく今でもそういうことはあるのだろうが、しかし敵によって気付かされることも多い。七人の敵によって自分の欠点を補い、三人の味方によって後押しされる。その十人はまさしく自分の周りの世界の縮図である。

周りの人がイエスマンばかりだと、ある意味非常に楽である。しかしそのような状況は全てにおいて危険であり、何の発展ももたらさない。しかし権力を持ってしまうとどうしてもイエスマンばかりになり、また本人もそれを求めてしまう。従って自分で意識しないと理想的な状況は作れない。

敵が七人以上いるとかなりきついし、逆に敵が少なすぎると惰性で動いてしまう。このバランスは非常に難しいところである。そしてそのような環境は自分で作ろうと思って作れるものではなかなかない。しかし確実に自分の人間性が影響するところである。日常では自分の事を考えるだけで精一杯であるかもしれないが、少し余裕が出来たら自分の周りの人間環境にも気を付けてみるのも良いかもしれない。

洒落者。

洒落者とは辞書で引くと、単に「お洒落」というだけではなく、「粋な人」という意味もある。僕の考えるところでは、この洒落者のお洒落とは、「外見がお洒落」であると同時に「内面もお洒落」ということではないだろうか?外見も内面も両方とも洒落ているとは素敵な事ではないか!

お洒落とは流行を取り入れることだと思う人もいるだろうが、僕はむしろ不変的なお洒落を重視している。これは内面に関して言うと、信念だとか芯というものではないだろうか。このような何事にも動じない人間はあらゆることに強さを発揮するし、頼もしさも感じるであろう。人の顔色ばかりをうかがって判断する人に魅力を感じる人はいない。もちろん時にはこのような動じない人は強い批判にさらされることもある。しかしそれが本当に理に適うことならば、時間が経てば多くの人に受け入れられるであろう。

お洒落とは決して自分本位の事ではない。お洒落とは自己満足三割、周りからの目線七割なのである。すなわち周りの人間からの目線を考えられない人は、洒落者にはなれない。とは言え、ここで書いた割合は場合によって変動する。その時々で自己満足の割合と周りからの目線の割合を上手くコントロールすることが重要である。

そして時には自己満足十割を貫くべき時もある。またそれとは逆に周りからの目線十割にすべき時もあるかもしれない。そこでそれを徹底的に決断を下せる者が洒落者である。外見も内面も徹底的に洒落者になれるか?そこに人間としての魅力が詰まっているのだと思う。そう考えると、なぜお洒落な人が魅力的なのかが理解できる。

三歩先を読む。

先を見ることは大事であるが、今を切り抜けなければ先はない。よってどうしても現在の事だけを見て全てを判断してしまう人が多い。もちろん多くの人は先の事も見ているとは思うが、ほとんどの場合先を守ることを考えて、先を挑戦する人は少ないように思える。

三歩先を見る、あるいは三歩先を読むためには当然のことながら、一歩先、二歩先を熟知しなければならない。そしてもちろん、三歩先がやって来るかどうかも分からない。しかしそのやって来るかどうかわからない三歩先を見ることに意義があるのである。そのようなやって来るかどうかわからない三歩先のことなど、ほとんどの人は考えようとはしない。だからこそ、そこで三歩先を読むことによって大きなアドバンテージを得られることになる。

三歩先とはかなり先の未来になる。現代の激変する世の中にあっては、少し先の未来でもどうなるかは想像するのは困難であり、三歩先を読んだところでほとんどの場合その通りにはならないであろう。しかしそれでいいのである。逆に読んだとおりにしかならないのであれば、それは大したことは考えていなかったという証拠である。激動する中で、その場その場で修正を掛けて行けばよいのである。そうすれば元々考えていたことではなかったことかもしれないが、修正を繰り返す中で読みは的中するのである。

三歩先までたどり着くまでに、あらゆることに遭遇するであろう。その中で新たな問題、新たな課題が見つかり、新たな発見があるだろう。問題が増えることは喜ばしいことである。なぜなら、一つの問題だけを解決するより、二つの問題を解決する方がより大きな成果になる。さらに大きな問題を複数保持することによって、あらゆる変化に対応できる。これがダメならこれでどうだと畳み込んで行けばよいのである。

僕の場合、現在大きな問題を二つ保持している。どちらも非常にエキサイティングな問題だ。その問題を解決すべき日々格闘している。もちろん机の前でペンを持って書物や論文と格闘するという、見る人によっては非常に地味な作業に思えるものであるが、これが非常に面白く刺激的でエキサイティングなのである。理論の三歩先を読むことは意外に簡単でも、それを実行して成し遂げるのは非常に骨の折れる作業である。しかしそのような事に取り組む価値は十分あると考えている。

人生の延長線上にある三歩先を見れば、自ずと自分の進むべき道は見えてくる。そして不思議にも自分の人生の全てが意味あるものに思えてくる。いや、そうして進むことによって自分の人生に意味付けをしていくのかもしれない。それができれば人生が非常に豊富になり、そして非常にエキサイティングになって来る。

学問は役に立つのか?立たないのか?

学問は役に立つのか?立たないのか?このような疑問は小学生から大人まで多くの人が一度は疑問に持つことだと思う。そのような問いにどう答えるか?僕ならば一言「役に立たない」と答えるのみだ。しかし僕のその一言の中には非常に深い意味が込められている。

もし学問は役に立たず、学問をする意味がないと本気で考える人がいるならば、その人は学問をする必要はないと僕は思っている。学問が役に立つと思えず、する必要もないと考える人が、嫌々やる事ほど無意味なものはない。それは学問を究極的に究めようと思っている僕だからこそそう思う。

しかし、僕は学問を究める意味は非常に大きいと考えている。そして「役に立たない=する必要もない」という等式が成り立つほど単純な問題ではない。役に立たない、しかしやる意味は大いにあると考えるのである。そして特に、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということも忘れてはいけない。役に立たないからやらないという姿勢では、社会は全く発展しない。現代の非常に発達した社会は、役に立たないかもしれないけどやってみようという先人たちの努力がなし得たものである。

僕は「役に立つか?立たないか?」という問いほど無意味なものはないと思っている。価値判断を、役に立つか?立たないか?という視点でしか見れない人の思想は総じて薄っぺらだ。物事の深さは役に立つかどうかとはほぼ無関係だし、それは学問においても同じだ。そしてもし本気で役に立つことをしたいと思うならば、まずは学問に打ち込み自分に人間としての広さと深さを作ることが重要である。もちろん、学問を究めなくても役に立つことはできる。しかし役に立つことの基盤を築くには、学問的思考が必要である。学問的思考がなければ、表面的な事に終始してしまう。

そして僕がここまで言ってきた「学問」という言葉は、何も数学・英語・理科・社会・国語だけではない。人間的哲学だとか経済的な事も含まれる。何も学校で習うことだけが学問ではないのだ。だから学校に行かなくても学問を究めることはできる。逆に大学に行っていても学問が出来ない人は多い。

これらの学問は習うより「ものにする」と言った方が正しいかもしれない。学問をどれだけものにできるか?それは自分の人間としての広さと深さに直結するものである。

ちょっとのミスも許されない?

ミスはあるよりか無い方が良いのかもしれない。この事は100人いれば99人は同意するであろう。確かに積極的に前に出て行き、その結果ミスがなければ完璧である。その一方、「ミスがない=何もしていない」と言えることも多々ある。それよりかは多少ミスをしながらでも積極的に行動して行く方が良い。行動しない事には何も生まれない。

とは言え、現代社会、特に日本ではますますミスを許さない風潮が強くなって来ているように感じる。そしてミスを予防するためにどんどん無難志向になって来ている。無難な選択ばかりすればもちろん大きな成功はありえない。それどころかミスを恐れるあまり選んだ方法が、さらにミスを呼ぶこともある。まさしく負の連鎖だ。今の日本はまさしくこの負の連鎖に陥っている。社会も、人間も。

少しのミスは大目に見るくらいの寛容さが必要であると強く感じる。特に日本は寛容さが低いと他の国からも見られているようである。日本に居ればそれが当たり前に感じ、あまり実感しないのかもしれない。僕自身も他国の事ははっきりとわからないが、海外から見てそう見えるのならば多分にそういう傾向があるのだろう。

人生というものは切り開いて行くものだと僕は思っている。もちろん人生に対する認識は人それぞれ違うであろうが、自分の人生を他人がひいたレールに乗って自動的に進むのはどうであろうかと思う。もしかしたら、いったんレールに乗ればミスは極力避けられるのかもしれない。しかしミスは恥ずべきものではない。時にはミスは行動した証であり、誇るべきものでもある。ミスをしない人間に発展はない。(もちろんミスをしないで何でも成し遂げる人がいれば別だが。)

一の成功の裏には百の失敗がある。失敗をしないで成功をしようと考える人は多いが、そのような事は99%不可能である。失敗を買ってでも前に出るくらいの心構えがなければ、目指すべき大きな成功はありえない。

令和に向けて、頑張る!

最近、頑張りたいけど頑張れない。そんな悶々とした日々を過ごしている。しかし一か月後には令和という新しい時代が来る。この令和という時代を自分のものにするためにも、今はなんとか頑張らなければいけない。令和になってから頑張るのもいいが、令和までの約一か月、それに向けて助走をつけたいものである。平成という時代は明らかに僕のものではなかった。だからこそ令和をものにしないと自分の人生が成り立たない。僕は令和に生きる人間なのである。

頑張るためにいろいろと努力はしている(つもりである)。お酒を飲むのも極力控えているし、筋トレやジョギングをして体調も整えている。しかしどうも万全だという状態ではない。何をするにも努力は必要である。「努力」と「意志」、この二つが成功への原動力だと思っている。それが出来るように試行錯誤してみよう。そうすれば何とかできるはずだ。

元号を定める会議に、僕の尊敬する山中伸弥教授が参加されていた。令和という元号の決定にそのような尊敬する人物が関わっていたことは、これも何かの縁だと思って令和を思いっきり生きてみたい。何だか非常に都合の良い解釈だが、このように都合良く解釈して自分を高めることも必要だと思う。山中教授、ありがとう!

まずは今できる努力を!何もしないよりか少しでも努力する方が良い。そして少し努力するよりたくさん努力する方が良い。いきなり0から100にはできない。しかし行動することは今すぐできるはずだ。まずは机の前に座ってペンを持ち、本を片手に思考する。別に僕はジャーナリストではないが、ペンは僕の武器だ!手元にはもう15年程使い続けている万年筆がある。この万年筆こそ僕の人生を変えてくれると思っている。しかし令和に向けてペンを新調するのも良いかもしれない。しかし大事なのは、ペンがどうこうではなくて、自分の頭脳である。自分がどこまで進めるか?そのような挑戦は常に続けようと心に決めている。

「令和」、いい響きだ。

「令和」、この言葉を聞いたとき、僕は非常に心地よい気持ちに襲われた。「令」という文字が非常に可憐な印象をもたらし、そして平和の「和」だ。この言葉を聞いただけでも良い時代になりそうだし、絶対に良い時代になるはずだ。

平成の30年、二度の震災があるなど日本は災難に見舞われたが、僕個人的にも地獄のような時代であった。それは平成に入って間もなく訪れ、平成が終わろうという今、そこから脱出できそうである。それだけに令和という時代にすごく光を感じるし、絶対に輝く時代にするという思いは強い。

何度見てもこの「令和」という文字は良い。響きも良い。この二文字を見ているだけでこれから本当に良い時代になりそうだ。僕は昭和に生まれ、平成を過ごし、令和を生きようとしている。しかし人生が終わる時どの時代を生きたかと問われれば、胸を張って令和を生きたと言いたい。

今日は長々と論を書くつもりはない。ただただ令和という時代に期待を持ち、日本にとっても僕にとっても良い時代になることを望むだけである。いや、望むだけで良くはならない。自ら動かなければ時代は切り開けない。一か月後の令和という時代の幕開けが待ち遠しい。

妥協。

妥協は出来るだけしたくはないが、時には妥協すべき時もある。ある事について妥協せずに自分を貫こうと思っていたが、それを貫くためには体力も気力もお金もいる。巨大なストレスも襲ってくる。そのような状況の中でここ最近いたが、いろいろと打開策を考えたところ、ここは少し妥協すべきだという結論に至った。妥協せざる負えない事は非常に悔しいが、しかし妥協することが最善の策であることもある。妥協うんぬんということより、今自分にとっては最善の策を取るべきだということだ。

もちろん、妥協せずに自分を貫くことによって少し社会を変えられる可能性もあった。しかしそれを貫くとその前に自分が自滅する可能性も大いにあった。自滅しては元も子もない。従ってここは妥協一択である。このように妥協してみると、時には妥協するのも悪くないと感じる。僕自身はこれまで妥協しないのがトレードマークであったが、そこは仕方がない。今回妥協することによって精神的な衛生面でも非常に良くなり、物事が大きく進みそうである。

自分にとって何が一番必要か?そこを強く自覚しておかなければならない。自分にとって一番大事な事は妥協すべきではない。しかし一番大事な事を守るために、二番目三番目の事を妥協するという選択肢はありだ。いつも精神を張りつめて少し神経質になっていたところがあったが、ここは妥協して少し心にゆとりを持たせ、一番大事な事に力を集中させようと思う。