月別アーカイブ: 3月 2019

キーワード。

キーワードを提示されていると何かと便利だ。数学の論文にも最初にキーワードが提示されているものがあり、そのキーワードを見ると本文に何が書かれているか大まかな内容が想像できる。それだけに、キーワードを提示する人は慎重に吟味しなければならない。

そして大事なのは、キーワードは本質を突いていなければならないということだ。逆に言うと、本質でないものはキーワードではない。これは当たり前の話で、キーワードの「キー」という言葉は言うまでもなく「鍵」ということなので、鍵になっていないキーワードなどありえない。そしてキーワードは複数個あっても良いが、少数でそれらを連立すると全体像が見えるものでなければならない。

なぜここでキーワードのことを書いたのか?それは数学に関して思い描くことがあって、そこでキーワードになるのが三つの言葉である事を痛感したからである。どのような分野にも構造が存在する(と思われる)。その構造とはどのような構造なのか?それを一言で表したのがキーワードだ。それらの事は、数学に限らず、哲学、文学、歴史など、あらゆる分野に対して言えることだろう。そしてそれらに対して提示されているキーワードの本質を理解した時、その分野の70%を理解できたと言える。残りの30%はそれらの組み合わせである。

キーワードがあると便利でわかりやすい。しかしだからと言って、キーワードを簡単に理解できる訳ではない。キーワードは本質であるからこそ、本質を理解しないとキーワードを理解できない。キーワードを見て中身の概観を知って、そして中身を見てキーワードの本質を知る。すなわち入口はキーワードであって、出口もキーワードであるということなのである。

本質的な変化と、本質的な不変性。

変化する事と変わらない事、どちらが重要かと言えばどちらとも重要だ。しかしこれでは答えになっていない。どのような変化が必要でどのような事を変えないでいるべきか?一言で言えば“本質的”な変化が必要であり、“本質的”な事を不変にすべきだということだ。

しかしこの「本質的」という言葉は簡単に理解できる人が少ないようだ。本質的な事を理解するためには本質を見抜く目が必要であり、この目を持っている人にとっては容易に見抜けることでも、この目を持っていない人には表面的な事しか見えない。「本質的」とは大雑把に言うと「重要である」とも言えるが、本質を見抜くことが出来なければ重要な問題に取り組むことが出来ず、いくらやっても大きな成果にはつながらない。

自分が人間として成長するためには本質的な変化をし続けることが必要であり、そのためには挑戦し続けることが必要だ。ここでも間違ってはならないことは、表面的な変化を追い求めない事だ。本質的な変化は自分の個性を際立たせるが、表面的な変化は人間性を消し去ってしまう。この事はファッションを例にとってみればわかりやすい。よく個性を出すために奇抜なファッションをしたりする人がいる。しかしこのような安易な変化は全く個性的ではあらず、むしろ没個性的だと言える。奇抜な事が個性だと考えるステレオタイプな思考こそ没個性的なのである。むしろベーシックなスーツをビシッと着こなす方が、よほど内部の人間性を際立たせ個性的である。

本質的な変化を追究し、本質的不変なものを守り続ける。そのような生き方を継続することこそが人間としての個性を作っていくのだと思う。本質を見抜くことは簡単ではないかもしれないが、自分の人間性を豊かにするためには、まずは本質を見抜く目を鍛えなければならない。

日本において「挑戦」とは?

28日、池上彰氏のテレビ番組で、村上ファンドの村上世彰氏が「チャレンジする人を叩くような世の中であってはならない」と言っていた。十数年前、村上氏は悪者のレッテルを貼られ、世間から強いバッシングを受けていた。しかし現在、村上氏は再び(どちらかと言うと良い意味で)注目を浴びている。当時村上氏がどのような悪い事をしたのか?その内容を言える人は当時も今もほとんどいないと思う。しかし法的に引っかかることを行い、メディアでバッシングを受けていたから当然悪い人だろうというくらいの認識だろう。そんな僕自身も、村上氏の功罪を詳しく知っている訳ではないが、ただ一つ言えることは、村上氏は人がしないことをしていた、言葉を変えるとチャレンジをしていたと言うことであろう。それが良かったか悪かったかはともかく。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われている。出る杭とは言葉を変えると「挑戦する人」だ。世の中を変えるのは99%挑戦する人だ。挑戦しないとは言い換えると「現状維持」ということである。しかし現状維持を目指して現状維持に成功することはほとんどない。現状維持を目指すとは、没落への始まりである。それは社会的にも、経済的にも、人間的にも、そういう意味である。世の中とは現状を良くしていくというチャレンジによって継続されていくのだと思う。だから現在の社会が成り立っているのは、現状維持を目指している人が現状維持をしているからではなく、チャレンジしている人の行動によって発展しているからである。

現在、日本においても挑戦し続けている人はそれなりにいる。しかし成果を出す前までは、それらの多くの人が苦境に立たされているように感じる。もちろん無難にくぐり抜けて行けばそのような苦境に立たされずに済むであろう。しかし無難と挑戦はほとんどの場合相反する意味を持つ。社会を変えて発展させるのは挑戦する人なのに、それらの利益を享受するのは無難に過ごす人。そのような社会的構造を変えない限り、日本の発展はないと思う。そのようなほころびが国のあらゆるところに露呈しているのが現在の日本である。そして将来の日本はどうなるのか?想像に難くない。

現在僕が危険だと思っていることの一つが、日本人自身による日本称賛だ。現在のテレビ番組を見ると、「日本はこんなに凄い」という趣旨のテレビ番組が溢れている。これはある意味末期的症状と言える。今だからこそ、むしろ日本の危機的状況を指摘して変えるべきところを変えて行かなければならない。そしてそれが出来る人は、無難な人ではなく挑戦する人である。今真っ先に変えなければならないことは、挑戦する人が力を十分に発揮できる世の中にすることではないだろうか。

大学初年級の数学と小学校の算数。

理系における大学初年級の数学と言えば、線形代数、微分積分、集合・位相だ。これはどこの大学も大筋は変わらないと思う。特に数学科では大学1、2年でこの三教科を叩き込まれる。この三教科が簡単か難しいかはともかく、大学初年級でこれらの教科を理解することは可能かもしれない。しかし「“なぜ”この三教科を叩き込まれるのか?」ということを理解している人はほとんどいないと思う。しかしこの「なぜこの三教科を勉強するのか?」ということを理解することは、数学を修めるうえで一つの目標かも知れない。

学年が進んで行けば、群論・環論・体論の代数学や複素解析、関数解析、位相幾何学など様々な分野に進むことになる。しかしこれらの分野を理解して行けば、その根底にある構造は線形代数、微分積分、集合・位相にたどり着く事に気づく。だからこの三教科を理解しておけばその後の理解は容易になるし、理解していなければ数学の本質が掴めない。線形代数、微分積分、集合・位相は全ての数学の根幹なのである。

このような数学的構造はあらゆる分野に応用できるのではないかと僕は思う。物理学や工学はもちろんの事、生物学や経済学、さらには哲学まで、全ての根幹はここにあると考えている。数学は理系教科であり文系の人には必要ないと考えている人は多いだろう。しかし数学的思考は文系であろうが日常生活であろうがどこでも応用されるものである。特に全ての事柄において「構造」を見抜くには数学的視点は非常に有効である。

最後に一つ述べたいことは、小学校の算数はバカには出来ないと言うことだ。小学校の算数をバカにする人は、100%数学を理解していない。小学校の算数には数学の重要なエッセンスが凝縮されている。例えば(あえて専門用語で言うと)「可換」という概念や「測度」という概念、更には論理構造など、これらの大学レベルの高度な概念のエッセンスは全て小学校の算数に表れている。しかし肝心の小学教師がこれを全く理解していない。特にこれらを全く理解していない教師ほど、小学算数を誰でも教えられるとバカにしている。そして嘘を教えている。

初年級に叩き込まれるものには必ずその理由が存在する。大学初年級の数学にしても、小学算数にしてもそうだ。そしてここをしっかりと理解すれば、その後はそれらの組み合わせに過ぎない。ここでは算数・数学を例に取って言ったが、これらの事はあらゆる分野に当てはまる事である。初年級の学問をバカにしてはいけない。

人生の研究者。

イチローの引退から数日経ったが、今でもイチローの引退会見を思い出す。世界一の選手が日本人、そんな稀にも見ないような十数年のベースボール界だった。今、世界一になろうというスポーツ選手が何人かいる。フィギュアスケートの紀平梨花、卓球の張本智和と伊藤美誠、ジャンプの小林陵侑、そしてテニスの世界ランキング一位の大坂なおみ。一昔前までなら考えられなかったようなラッシュだ。

イチローは引退会見で、「野球の研究者」と言う言葉を使っていた。ここで言う研究者とは、おそらく哲学的な意味を追究すると言う意味であろう。イチローは野球に対して徹底的な研究者であった。そしてこのような哲学的追究の姿勢は、どの分野でも世界一を究めようとすると不可欠な要素だと思う。もちろん数学や科学を研究するに当たっても哲学的追求は必要だ。しかしスポーツ選手にしても学問研究者にしても、そこに気付いていない人は多い。しかし哲学から見えてくる科学とういうものもある。そこが見えないと各分野でのトップは狙えないと思う。

哲学と精神は密接な関係にある。健全な精神にしか哲学は宿らない。だからまずは健全な精神環境を作ることが大事だ。しかし現在は非常にストレスフルな時代だ。この様にストレスフルな環境だと健全な精神を構築するのは難しい。しかしそんなに簡単に環境を変えられるものではない。もちろん自分で変えられるところは変えて行かなければならないが、どうしようもない所は上手くそこを切り抜けて行かなければならない。非常に悩ましい問題である。

数学を研究すると言ったって、全ての人が数学を追究できる訳ではない。僕だって語学が非常に苦手なのでフランス文学を研究するなんてことはできない。しかし全ての人は人生の研究者になるべきだ。人生の意味、生き方、そして死に方など人間であるからには逃れられない全ての意味を追究し、人生を豊かにしていく。それができないと薄っぺらい人生になってしまう。決して良い生き方をすべきだという訳ではなくて、意味ある生き方をすべきなのである。僕は全ての人がこのような事を考えるべきだと思っているが、それは無理な願望なのだろうか。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

不可能を可能にする。

科学技術の発展とは、不可能を可能にすることかもしれない。そしてその「不可能を可能にする」とはあらゆる意味で非常に挑戦的であり、そのことを人生の目標にすることは人間としての大きな発展をもたらす。僕も今、不可能を可能にする挑戦をしている。何に関してそのような挑戦をしているかというと、それは一つの事ではなく複数の事に対してである。学問における挑戦、日常生活における挑戦、あるいは人付き合いにおける挑戦である。

そのような挑戦を成し遂げるためには、多方面の事に対して感覚を磨かなくてはいけない。頭脳における思考の感覚を研ぎ澄まさなければいけないし、精神的にも強くならなければいけない。そして外見も内面も魅力的にならなければいけない。もちろん人間であるからには歳を取って行く。野球選手なら身体能力の衰えによって引退する時が来る。イチロー選手でさえそれには逆らえず、先日引退を発表した。しかし精神というものは歳とはあまり関係ない。いくつになっても精神を研ぎ澄ましていくことは出来るし、逆にどれだけ若くても衰えて行く人もいる。外見に関してはもちろん若くはならないが、歳なら歳で魅力的な外見があるはずだ。そのような外見は単に見かけだけの装いだけでなく、生き方や振る舞いから醸し出されるものもあるだろう。従って、外見とは人間の中身も大きく表現されるものである。

不可能を可能にする挑戦、それは外見も精神的な内面も光らせる。だから小手先の事で繕うなどとするのではなく、そのように根本的な所から取り組まなければならない。時には失敗することもあろうし、嫌われることもあろう。しかしそれはそれでいいのである。僕はそのような失敗を大切にしている。不可能なことがすぐに全て可能になるはずはない。それを成し遂げるまでには気の遠くなるような失敗を繰り返すことになるであろう。そこを乗り越えていく原動力になるのは、明確なビジョンだ。ビジョンが芯を作る。ビジョンなき野望は張りぼてである。

実は可能であろう事を可能にすることもそんなに簡単な事ではない。当たり前のことを当たり前にすることの難しさは、プロスポーツ選手を見てもよくわかる。それが出来るプロが十人いるとすれば、不可能を可能に出来る人は更に一人二人である。しかしだからと言って初めからあきらめるわけにはいかない。もしビジョンがはっきりとしており出来る可能性があると思うならば、そのような可能性に挑戦するのも人生表現として一つの手段であると思う。

流行の問題ではなく、重要な問題に取り組む。

学問においても、流行というものが存在する。流行のテーマ、流行の問題など、その時々のトレンドがあり、そして同時に廃れて行くテーマもある。研究者の中にも、流行に過敏に反応し流行を追いかけ続けている人がいる。しかもこのように流行を追いかけている研究者が少なくないのだ。何も流行を追いかけることが悪い訳ではなく、それらのテーマが流行になるからにはそこには重要な理由があるはずだ。しかし流行の問題と重要な問題は必ずしもイコールではなく、時には本当に重要な問題が時代から無視されていることも多い。

流行の問題と重要な問題をどう捉えるか?流行とは変わりゆくものであり、重要なものは不変なものだと言える。また不変だからこそ重要だとも言えるのかもしれない。流行の問題に関しては何もしなくても取り組む者が続出する。しかし意外にも、重要な問題に取り組む者はいつの時代にも一定数いるが、そんなに爆発することはない。しかし重要なのは、流行の問題とは重要な問題を源流として発生することが多いということだ。

重要な問題なのに、なぜ取り組む人がそんなに多くないのか?それは問題の歴史に関係する。重要な問題はその問題が誕生してから長い年月が経っていることが多い。例えば幾何学のポアンカレ予想は約100年の歴史があった。1900年頃に問題が誕生し、2003年にペレルマン博士によって解決された。100年も解かれなかったということはかなりの難問であるということだ。それだけの難問であるから、その問題に取り組んでも何の結果も出ない危険性が高い。結果を出さなければ研究の世界では生き残れない。従って生き残るために結果が出そうな無難な問題に取り組む人が多くなるのである。

しかし重要な問題に人生を懸ける価値は非常に高い。もちろんなかなか結果が出ない危険性も高いが、結果が出れば非常に大きい。もちろん何の構想も当てもなく取り組むわけにはいかない。取り組むに当たっては解決へのビジョンだけははっきりとさせておかなければならない。しかしビジョンがはっきりとしているからと言って解決できるほど簡単ではないが、その骨格を基に細部を地道に埋めて行けば解決する可能性は十分にあると思う。あとは、「自分がやらなければ誰がやる」という執念を持って乗り切るしかない。

イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

理想論を実現化する力。

世の中では、「理想と現実は違う」とよく言われる。確かに理想と現実は大きく違うことが多いし、世間も「現実とはそんなものだ」と半ば諦めてそれを受け入れている。しかし現実をどれだけ理想に近づけられるかとういう施策は非常に挑戦的なものであり、完全に理想と一致させることは出来なくても、部分的に理想と一致させることは不可能ではない。

近年「人間力」という言葉がよく使われる。この人間力という言葉はあまりにも抽象的であいまいであり、どのようにも捉えることが出来る。つまり誰もが都合よく解釈して使用することが出来る。そういう意味で僕はこの言葉があまり好きではないが、ただそこを我慢して使うとすれば、現実をどれだけ理想に近づけることが出来るかということはそれぞれの人間力によるところではないだろうか。

おそらく多くの人には理想のあるべき姿があるのではないだろうか?しかし同時に多くの人は理想を実現化することを初めからあきらめている。一部の人は理想を実現化しようと努力しているが、そこで足かせになって来るのが「理想なんて無理だ」と初めからあきらめている勢力だ。理想を初めからあきらめている人は理想を実現化することは100%無理であるが、理想を実現化しようと努力している人はそれに30%くらい成功する可能性がある。ここで100%ではないから意味がないと放棄するのではなく、30%をものにするために行動をしたい。そうすればそれが40%、50%と上がってくる。

人間とは完全ではなく、また多種多様であるから、そのような社会を理想に完全に一致させることは不可能であり、また仮に理想と一致させて一様化することができるとすればそれはある意味非常に危険である。しかし自分自身の個人的な事に関してはそうではない。もちろん自分を完全に理想と一致させることはこれまた無理な事である。しかし自分自身に理想を持つことは人生の発展の原動力になり得る。どれだけ自分を理想に近づけられるかわからないが、自分が目標とするレベルに近づき到達するために一歩一歩進める事が出来れば、その一つ一つの一歩がそれ自身大きな意味を持つものだと思う。