月別アーカイブ: 3月 2019

キーワード。

キーワードを提示されていると何かと便利だ。数学の論文にも最初にキーワードが提示されているものがあり、そのキーワードを見ると本文に何が書かれているか大まかな内容が想像できる。それだけに、キーワードを提示する人は慎重に吟味しなければならない。

そして大事なのは、キーワードは本質を突いていなければならないということだ。逆に言うと、本質でないものはキーワードではない。これは当たり前の話で、キーワードの「キー」という言葉は言うまでもなく「鍵」ということなので、鍵になっていないキーワードなどありえない。そしてキーワードは複数個あっても良いが、少数でそれらを連立すると全体像が見えるものでなければならない。

なぜここでキーワードのことを書いたのか?それは数学に関して思い描くことがあって、そこでキーワードになるのが三つの言葉である事を痛感したからである。どのような分野にも構造が存在する(と思われる)。その構造とはどのような構造なのか?それを一言で表したのがキーワードだ。それらの事は、数学に限らず、哲学、文学、歴史など、あらゆる分野に対して言えることだろう。そしてそれらに対して提示されているキーワードの本質を理解した時、その分野の70%を理解できたと言える。残りの30%はそれらの組み合わせである。

キーワードがあると便利でわかりやすい。しかしだからと言って、キーワードを簡単に理解できる訳ではない。キーワードは本質であるからこそ、本質を理解しないとキーワードを理解できない。キーワードを見て中身の概観を知って、そして中身を見てキーワードの本質を知る。すなわち入口はキーワードであって、出口もキーワードであるということなのである。

本質的な変化と、本質的な不変性。

変化する事と変わらない事、どちらが重要かと言えばどちらとも重要だ。しかしこれでは答えになっていない。どのような変化が必要でどのような事を変えないでいるべきか?一言で言えば“本質的”な変化が必要であり、“本質的”な事を不変にすべきだということだ。

しかしこの「本質的」という言葉は簡単に理解できる人が少ないようだ。本質的な事を理解するためには本質を見抜く目が必要であり、この目を持っている人にとっては容易に見抜けることでも、この目を持っていない人には表面的な事しか見えない。「本質的」とは大雑把に言うと「重要である」とも言えるが、本質を見抜くことが出来なければ重要な問題に取り組むことが出来ず、いくらやっても大きな成果にはつながらない。

自分が人間として成長するためには本質的な変化をし続けることが必要であり、そのためには挑戦し続けることが必要だ。ここでも間違ってはならないことは、表面的な変化を追い求めない事だ。本質的な変化は自分の個性を際立たせるが、表面的な変化は人間性を消し去ってしまう。この事はファッションを例にとってみればわかりやすい。よく個性を出すために奇抜なファッションをしたりする人がいる。しかしこのような安易な変化は全く個性的ではあらず、むしろ没個性的だと言える。奇抜な事が個性だと考えるステレオタイプな思考こそ没個性的なのである。むしろベーシックなスーツをビシッと着こなす方が、よほど内部の人間性を際立たせ個性的である。

本質的な変化を追究し、本質的不変なものを守り続ける。そのような生き方を継続することこそが人間としての個性を作っていくのだと思う。本質を見抜くことは簡単ではないかもしれないが、自分の人間性を豊かにするためには、まずは本質を見抜く目を鍛えなければならない。

日本において「挑戦」とは?

28日、池上彰氏のテレビ番組で、村上ファンドの村上世彰氏が「チャレンジする人を叩くような世の中であってはならない」と言っていた。十数年前、村上氏は悪者のレッテルを貼られ、世間から強いバッシングを受けていた。しかし現在、村上氏は再び(どちらかと言うと良い意味で)注目を浴びている。当時村上氏がどのような悪い事をしたのか?その内容を言える人は当時も今もほとんどいないと思う。しかし法的に引っかかることを行い、メディアでバッシングを受けていたから当然悪い人だろうというくらいの認識だろう。そんな僕自身も、村上氏の功罪を詳しく知っている訳ではないが、ただ一つ言えることは、村上氏は人がしないことをしていた、言葉を変えるとチャレンジをしていたと言うことであろう。それが良かったか悪かったかはともかく。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われている。出る杭とは言葉を変えると「挑戦する人」だ。世の中を変えるのは99%挑戦する人だ。挑戦しないとは言い換えると「現状維持」ということである。しかし現状維持を目指して現状維持に成功することはほとんどない。現状維持を目指すとは、没落への始まりである。それは社会的にも、経済的にも、人間的にも、そういう意味である。世の中とは現状を良くしていくというチャレンジによって継続されていくのだと思う。だから現在の社会が成り立っているのは、現状維持を目指している人が現状維持をしているからではなく、チャレンジしている人の行動によって発展しているからである。

現在、日本においても挑戦し続けている人はそれなりにいる。しかし成果を出す前までは、それらの多くの人が苦境に立たされているように感じる。もちろん無難にくぐり抜けて行けばそのような苦境に立たされずに済むであろう。しかし無難と挑戦はほとんどの場合相反する意味を持つ。社会を変えて発展させるのは挑戦する人なのに、それらの利益を享受するのは無難に過ごす人。そのような社会的構造を変えない限り、日本の発展はないと思う。そのようなほころびが国のあらゆるところに露呈しているのが現在の日本である。そして将来の日本はどうなるのか?想像に難くない。

現在僕が危険だと思っていることの一つが、日本人自身による日本称賛だ。現在のテレビ番組を見ると、「日本はこんなに凄い」という趣旨のテレビ番組が溢れている。これはある意味末期的症状と言える。今だからこそ、むしろ日本の危機的状況を指摘して変えるべきところを変えて行かなければならない。そしてそれが出来る人は、無難な人ではなく挑戦する人である。今真っ先に変えなければならないことは、挑戦する人が力を十分に発揮できる世の中にすることではないだろうか。

大学初年級の数学と小学校の算数。

理系における大学初年級の数学と言えば、線形代数、微分積分、集合・位相だ。これはどこの大学も大筋は変わらないと思う。特に数学科では大学1、2年でこの三教科を叩き込まれる。この三教科が簡単か難しいかはともかく、大学初年級でこれらの教科を理解することは可能かもしれない。しかし「“なぜ”この三教科を叩き込まれるのか?」ということを理解している人はほとんどいないと思う。しかしこの「なぜこの三教科を勉強するのか?」ということを理解することは、数学を修めるうえで一つの目標かも知れない。

学年が進んで行けば、群論・環論・体論の代数学や複素解析、関数解析、位相幾何学など様々な分野に進むことになる。しかしこれらの分野を理解して行けば、その根底にある構造は線形代数、微分積分、集合・位相にたどり着く事に気づく。だからこの三教科を理解しておけばその後の理解は容易になるし、理解していなければ数学の本質が掴めない。線形代数、微分積分、集合・位相は全ての数学の根幹なのである。

このような数学的構造はあらゆる分野に応用できるのではないかと僕は思う。物理学や工学はもちろんの事、生物学や経済学、さらには哲学まで、全ての根幹はここにあると考えている。数学は理系教科であり文系の人には必要ないと考えている人は多いだろう。しかし数学的思考は文系であろうが日常生活であろうがどこでも応用されるものである。特に全ての事柄において「構造」を見抜くには数学的視点は非常に有効である。

最後に一つ述べたいことは、小学校の算数はバカには出来ないと言うことだ。小学校の算数をバカにする人は、100%数学を理解していない。小学校の算数には数学の重要なエッセンスが凝縮されている。例えば(あえて専門用語で言うと)「可換」という概念や「測度」という概念、更には論理構造など、これらの大学レベルの高度な概念のエッセンスは全て小学校の算数に表れている。しかし肝心の小学教師がこれを全く理解していない。特にこれらを全く理解していない教師ほど、小学算数を誰でも教えられるとバカにしている。そして嘘を教えている。

初年級に叩き込まれるものには必ずその理由が存在する。大学初年級の数学にしても、小学算数にしてもそうだ。そしてここをしっかりと理解すれば、その後はそれらの組み合わせに過ぎない。ここでは算数・数学を例に取って言ったが、これらの事はあらゆる分野に当てはまる事である。初年級の学問をバカにしてはいけない。

人生の研究者。

イチローの引退から数日経ったが、今でもイチローの引退会見を思い出す。世界一の選手が日本人、そんな稀にも見ないような十数年のベースボール界だった。今、世界一になろうというスポーツ選手が何人かいる。フィギュアスケートの紀平梨花、卓球の張本智和と伊藤美誠、ジャンプの小林陵侑、そしてテニスの世界ランキング一位の大坂なおみ。一昔前までなら考えられなかったようなラッシュだ。

イチローは引退会見で、「野球の研究者」と言う言葉を使っていた。ここで言う研究者とは、おそらく哲学的な意味を追究すると言う意味であろう。イチローは野球に対して徹底的な研究者であった。そしてこのような哲学的追究の姿勢は、どの分野でも世界一を究めようとすると不可欠な要素だと思う。もちろん数学や科学を研究するに当たっても哲学的追求は必要だ。しかしスポーツ選手にしても学問研究者にしても、そこに気付いていない人は多い。しかし哲学から見えてくる科学とういうものもある。そこが見えないと各分野でのトップは狙えないと思う。

哲学と精神は密接な関係にある。健全な精神にしか哲学は宿らない。だからまずは健全な精神環境を作ることが大事だ。しかし現在は非常にストレスフルな時代だ。この様にストレスフルな環境だと健全な精神を構築するのは難しい。しかしそんなに簡単に環境を変えられるものではない。もちろん自分で変えられるところは変えて行かなければならないが、どうしようもない所は上手くそこを切り抜けて行かなければならない。非常に悩ましい問題である。

数学を研究すると言ったって、全ての人が数学を追究できる訳ではない。僕だって語学が非常に苦手なのでフランス文学を研究するなんてことはできない。しかし全ての人は人生の研究者になるべきだ。人生の意味、生き方、そして死に方など人間であるからには逃れられない全ての意味を追究し、人生を豊かにしていく。それができないと薄っぺらい人生になってしまう。決して良い生き方をすべきだという訳ではなくて、意味ある生き方をすべきなのである。僕は全ての人がこのような事を考えるべきだと思っているが、それは無理な願望なのだろうか。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

不可能を可能にする。

科学技術の発展とは、不可能を可能にすることかもしれない。そしてその「不可能を可能にする」とはあらゆる意味で非常に挑戦的であり、そのことを人生の目標にすることは人間としての大きな発展をもたらす。僕も今、不可能を可能にする挑戦をしている。何に関してそのような挑戦をしているかというと、それは一つの事ではなく複数の事に対してである。学問における挑戦、日常生活における挑戦、あるいは人付き合いにおける挑戦である。

そのような挑戦を成し遂げるためには、多方面の事に対して感覚を磨かなくてはいけない。頭脳における思考の感覚を研ぎ澄まさなければいけないし、精神的にも強くならなければいけない。そして外見も内面も魅力的にならなければいけない。もちろん人間であるからには歳を取って行く。野球選手なら身体能力の衰えによって引退する時が来る。イチロー選手でさえそれには逆らえず、先日引退を発表した。しかし精神というものは歳とはあまり関係ない。いくつになっても精神を研ぎ澄ましていくことは出来るし、逆にどれだけ若くても衰えて行く人もいる。外見に関してはもちろん若くはならないが、歳なら歳で魅力的な外見があるはずだ。そのような外見は単に見かけだけの装いだけでなく、生き方や振る舞いから醸し出されるものもあるだろう。従って、外見とは人間の中身も大きく表現されるものである。

不可能を可能にする挑戦、それは外見も精神的な内面も光らせる。だから小手先の事で繕うなどとするのではなく、そのように根本的な所から取り組まなければならない。時には失敗することもあろうし、嫌われることもあろう。しかしそれはそれでいいのである。僕はそのような失敗を大切にしている。不可能なことがすぐに全て可能になるはずはない。それを成し遂げるまでには気の遠くなるような失敗を繰り返すことになるであろう。そこを乗り越えていく原動力になるのは、明確なビジョンだ。ビジョンが芯を作る。ビジョンなき野望は張りぼてである。

実は可能であろう事を可能にすることもそんなに簡単な事ではない。当たり前のことを当たり前にすることの難しさは、プロスポーツ選手を見てもよくわかる。それが出来るプロが十人いるとすれば、不可能を可能に出来る人は更に一人二人である。しかしだからと言って初めからあきらめるわけにはいかない。もしビジョンがはっきりとしており出来る可能性があると思うならば、そのような可能性に挑戦するのも人生表現として一つの手段であると思う。

流行の問題ではなく、重要な問題に取り組む。

学問においても、流行というものが存在する。流行のテーマ、流行の問題など、その時々のトレンドがあり、そして同時に廃れて行くテーマもある。研究者の中にも、流行に過敏に反応し流行を追いかけ続けている人がいる。しかもこのように流行を追いかけている研究者が少なくないのだ。何も流行を追いかけることが悪い訳ではなく、それらのテーマが流行になるからにはそこには重要な理由があるはずだ。しかし流行の問題と重要な問題は必ずしもイコールではなく、時には本当に重要な問題が時代から無視されていることも多い。

流行の問題と重要な問題をどう捉えるか?流行とは変わりゆくものであり、重要なものは不変なものだと言える。また不変だからこそ重要だとも言えるのかもしれない。流行の問題に関しては何もしなくても取り組む者が続出する。しかし意外にも、重要な問題に取り組む者はいつの時代にも一定数いるが、そんなに爆発することはない。しかし重要なのは、流行の問題とは重要な問題を源流として発生することが多いということだ。

重要な問題なのに、なぜ取り組む人がそんなに多くないのか?それは問題の歴史に関係する。重要な問題はその問題が誕生してから長い年月が経っていることが多い。例えば幾何学のポアンカレ予想は約100年の歴史があった。1900年頃に問題が誕生し、2003年にペレルマン博士によって解決された。100年も解かれなかったということはかなりの難問であるということだ。それだけの難問であるから、その問題に取り組んでも何の結果も出ない危険性が高い。結果を出さなければ研究の世界では生き残れない。従って生き残るために結果が出そうな無難な問題に取り組む人が多くなるのである。

しかし重要な問題に人生を懸ける価値は非常に高い。もちろんなかなか結果が出ない危険性も高いが、結果が出れば非常に大きい。もちろん何の構想も当てもなく取り組むわけにはいかない。取り組むに当たっては解決へのビジョンだけははっきりとさせておかなければならない。しかしビジョンがはっきりとしているからと言って解決できるほど簡単ではないが、その骨格を基に細部を地道に埋めて行けば解決する可能性は十分にあると思う。あとは、「自分がやらなければ誰がやる」という執念を持って乗り切るしかない。

イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

理想論を実現化する力。

世の中では、「理想と現実は違う」とよく言われる。確かに理想と現実は大きく違うことが多いし、世間も「現実とはそんなものだ」と半ば諦めてそれを受け入れている。しかし現実をどれだけ理想に近づけられるかとういう施策は非常に挑戦的なものであり、完全に理想と一致させることは出来なくても、部分的に理想と一致させることは不可能ではない。

近年「人間力」という言葉がよく使われる。この人間力という言葉はあまりにも抽象的であいまいであり、どのようにも捉えることが出来る。つまり誰もが都合よく解釈して使用することが出来る。そういう意味で僕はこの言葉があまり好きではないが、ただそこを我慢して使うとすれば、現実をどれだけ理想に近づけることが出来るかということはそれぞれの人間力によるところではないだろうか。

おそらく多くの人には理想のあるべき姿があるのではないだろうか?しかし同時に多くの人は理想を実現化することを初めからあきらめている。一部の人は理想を実現化しようと努力しているが、そこで足かせになって来るのが「理想なんて無理だ」と初めからあきらめている勢力だ。理想を初めからあきらめている人は理想を実現化することは100%無理であるが、理想を実現化しようと努力している人はそれに30%くらい成功する可能性がある。ここで100%ではないから意味がないと放棄するのではなく、30%をものにするために行動をしたい。そうすればそれが40%、50%と上がってくる。

人間とは完全ではなく、また多種多様であるから、そのような社会を理想に完全に一致させることは不可能であり、また仮に理想と一致させて一様化することができるとすればそれはある意味非常に危険である。しかし自分自身の個人的な事に関してはそうではない。もちろん自分を完全に理想と一致させることはこれまた無理な事である。しかし自分自身に理想を持つことは人生の発展の原動力になり得る。どれだけ自分を理想に近づけられるかわからないが、自分が目標とするレベルに近づき到達するために一歩一歩進める事が出来れば、その一つ一つの一歩がそれ自身大きな意味を持つものだと思う。

楽観主義で行こう!

大きな結果を残す人は総じて楽観主義だ。自分に対して厳しい姿勢で臨むのは良いが、周りの環境は自分の力だけで簡単に変えられるものではない。しかしそのような環境に対して悲観的になっても何のメリットもないし。そんな事よりある程度楽観的になって取り組むべきことに集中して取り組む方がはるかに生産的だ。

ネガティブな思考よりポジティブな思考の方が精神的にも良い影響を与えるし、そのようにポジティブな思考を行うためにも楽観的に考えることは必要だ。楽観的に考えたことが100%上手く行くかというと必ずしもそうではないが、悲観的にネガティブになって防衛するよりも、楽観的にポジティブに取り組む方が良い方向に転がる確率が圧倒的に高い。楽観主義は成功の源だと強く感じている。

僕自身、必ずしも楽観的になり切れている訳ではないし、ポジティブになり切れないこともたくさんあるが、そこは意識して楽観的にポジティブに考えるしかない。もし良くないことが起きた時は、その時になって対処すればよい。社会において不測の事態に備えることは大事だが、自分の人生において不測の事態に備えることはかなり不毛だ。先の心配より目の前のハードルをクリアすることに力を注がなければならない。

世の中は総じて公平なんかではないし、社会的にも道徳的にも全て正しい訳ではない。多くは先行者の利益のため、更には一世代前の人たちの価値観に基づいている。だからこそ次世代の人たちがそれを変えるべき行動を起こさなければならないが、実際にそのような行動を起こす人は一握りである。しかし現在の規範が絶対に変えられないものだと束縛されるのではなく、おかしい事は変えなければならない。さらに変えられるはずだと楽観的に行動を起こすことが大事である。防衛的な傍観者ではなく、楽観的な行動者になれるように思考を回していきたいものである。

打開策は挑戦だ!

「挑戦」という言葉は、これからの僕にとって一生ついてくるものかもしれない。昔はそんなに挑戦という言葉を意識しているつもりはなかったが、無意識の内にかなりの挑戦をしてきていたのかもしれない。しかし今考えると、以前の僕の挑戦はまだまだ甘かったとしか言えない。どこかで安定や逃げ道を考えていた節がある。しかし今は安定などを考えることはほとんどない。逃げ道は多少考えることはあるかもしれないが、もしそのような事を考えるのならば、それは僕自身の甘さだ。

最近は、挑戦という言葉が僕の人生におけるスローガンになっているように思える。背水の陣に追い込まれるのではなく、自ら背水の陣に飛び込んで行きたい。後ろにまだ陣地があると、そこで甘えが出て来てしまう。とは言え、僕自身いろいろと甘えのある人間ではあるが、学問に対してはそこそこストイックであると自負している。筋トレに関しても少しストイックだが。

今まで順調に人生を進めて来れているのならば、安定でも逃げ道でも何でも考えればよいと思う。しかし僕の人生なんて順調でも何でもない。なので現状を打開するためには挑戦をし続けるしかないのだ。もちろん、このような挑戦は諸刃の剣かもしれない。しかしそんなことはどうでもよいのだ。挑戦するしかないし、挑戦がしたいのだ。

とは言え、実は今が凄く面白い。数学が、物理が凄く面白いのだ。面白いからさらに挑戦しようと思えるのかもしれない。自分には厳しく、しかし周りの人には優しくありたい。厳しいのは自分に対してだけでいい。これからもずっと挑戦という言葉を意識して前に進みたいと思う。

成し遂げるべき目標を定めること。

目標というものは、大まかに二種類ある。一つは具体的な物事に対してそれを達成する事。もう一つは目標とする順位を定める事。僕は前者の目標を取るべきだと強く思っている。それはなぜかと言うと、順位的な目標を定めることは、具象性に欠けるからだ。例えば何かで世界一位を目指すとする。ではそのために何を始めればよいか?そこで具体的な行動が見えていれば良いが、それならば前者に帰結する。世界一位を目指しても100位までは行けるかもしれない。しかしそこから50位を目指してもそこまでが意外と遠く感じるだろう。そこから25位までは更に遠い。このように順位だけを見て追いかけたところで目標の順位は更に遠く感じるだろう。

では世界一位になるためにはどうすれば良いか?具体的に成し遂げる事柄を定めるのである。それに取り組んでいる時は順位などはどうでもよい。とにかく目の前の事を成し遂げる事に全力を尽くすのである。それに取り組み前に進んで行けば順位などは後からついてくる。順位などは追いかけるものではなく、後からついてくるものなのである。

もし高く大きな目標を持っているのならば、我慢すべきことも多く出て来るだろう。分かりやすい例で言うと、お酒を断つとかだ。もし目の前にお酒があって、それを飲むか飲まないかが成否を決めるのならば、90%の人はお酒を我慢できるであろう。しかしお酒を飲む事と事の成否の因果関係がはっきりと見えているものではない。なので実際は90%の人がお酒を飲んでしまう。事を成し遂げるかどうかは、残りの10%に入れるかどうかだ。

成し遂げるべきことが見えているとは、ある意味幸せな事だ。しかしそれは同時に苦しいものでもある。しかしその苦しさの先には、輝く光が見えている。この光を頼りに前に進んで行くことがやりがいなのである。そして最終的に、そのやりがいを達成へと変えることが出来れば感無量である。しかしそれに浸るのもそこそこにして、また一つ目指すべきものを見つけて前に進む。その繰り返しが人間を高みに上げてくのだと思う。

数学も科学も人生も、前を向いて一歩進めることを考えてみよう。

僕は常に前を向くことを心がけている。もちろん前を向いているからと言って、それによって必ずしも前進できるとは限らない。しかし不思議なもので、前を向けば前に進むし、後ろを向いていれば後退する(ことが多いように思える)。僕自身、かなり窮地に立たされたことは幾度かあったが、常に前を向いていたおかげでゆっくりながらも前進することが出来ている。

学問も同じだ。過去の結果について欠陥はないかというような後ろ向きの事ばかり考えていれば生産的な事は出来ないし、すこし荒々しくても積み重ねて行けば大まかな骨格は出来てくる。細部は骨格を作ってから埋めて行けばいいのである。

理論物理というものは自然を厳密に記述するものだ。しかし数学に比べれば理論物理の厳密性はまだまだ甘い。数学にもいろいろあるが、数学には論理の穴は許されない。はたから見ると、なぜそんな当たり前のことを回りくどく証明するのかと思えることもあるが、後々その回りくどいくらいの厳密性が重要な鍵となって来ることが多い。そのように発展した純粋数学は応用科学へ利用されることもあるし、逆に科学から発生した骨格を基にそれを厳密化して純粋数学が誕生することもある。その科学と数学の掛け合いがまた面白い。

数学や科学に後退はない。数学や科学は一方的に前に進むのみであり、数学が10年戻るなんてことは絶対にないのだ。人生も同じかもしれない。時間は過去に戻らないので前を向き前に進むしかないのだ。過去の事に思いを馳せたり悔やんだりすることは多々あるかもしれないが、そのような事は生産的な事をもたらせない。しかし未来は自分次第でいくらでも変えられる。とてつもなく良くすることもできるし、とてつもなく悪くなることもある。おそらくその分かれ道は前を向いているかそうでないかということだと思う。三歩進んで二歩下がる、それでいいのである。いきなり百歩進むなんてことはありえないし、もし百歩進んだと思い込んでいれば次は二百歩下がるかもしれない。一歩ずつ積み重ねてきた人生が一番の財産なのである。

数学は哲学、しかし哲学は数学ではない。

古代ギリシャでは、数学は哲学の一部門であった。もちろん科学も哲学の一部であった。それらの数学や科学は「自然哲学」と呼ばれていたみたいだ。すなわち、自然の仕組みを解明する科学は、自然に対する徹底的な思考、すなわち哲学なのである。しかし現代では科学と哲学はほぼ別部門になっている。

しかし現代でも、科学に対して哲学的な姿勢を求めることは重要ではないかと強く感じる。すなわち、数学や科学を「自然哲学」と捉えるのである。しかし何もマニアックな哲学と同じように捉える必要はない。大事なのは、数学や自然に対して「意志」を持って究明することである。数学はある意味ロジックであるが、しかしロジックだけで数学が成り立つ訳ではない。そこには数学者の意志や哲学が入魂されているし、計算だけならロジックだけで出来るかもしれないが、概念の定義などはロジックだけでできるものではない。

最近、ロジカルシンキングという言葉をたまに聞くが、数学においてはロジカルシンキングは当たり前の事であり、重要なのはロジカルシンキングを超えるところにある。数学的実態をどう視覚的に捉えるかとか、それまでにはなかったロジックを発明する必要もある。数学とは実に有機的で色鮮やかなものなのである。もし数学に対して無機的で機械的だと感じているのならば、それは数学の本質が見えていないということだ。

時には完全なロジックから、ロジック以上のものが生まれることもある。その代表が「ゲーデルの不完全性定理」であろう。ゲーデルの哲学がどんなものであったか?僕には知る由もないが、完全なロジシャンであるゲーデルであるからこそ、普通の数学者以上の有機的な偉大な哲学があったに違いない。

経済的な自由だけでなく、知の自由を広げることが大事だ!

自由とは21世紀における重要なキーワードになっている。自由経済、自由主義など自由という言葉は色々な所で使われているが、僕は現在使われている自由という言葉が経済的ビジネス的な意味だけに偏っているように思えてならない。

経済的な自由以上に重要なのは、精神の自由、学問の自由、知的追究の自由だ。しかしおかしなことに、知的追究の自由はむしろ低下しているように思えてならない。それは世論の風潮だけでなく、法的にも知的自由を制限する方向に動いている。

知的自由は一部の研究者だけに与えればよいのか?一般市民に対する知的自由を制限すれば学問のすそ野が狭まることは容易に考えられ、将来の日本の学問的レベルの低下につながる。もちろんそれに伴って日本の科学技術のレベルは低下し、ビジネス的にも大きく不利になることが容易に考えられる。日本は学問の自由を制限することによって自らの首を絞めているようなものだ。

そしてもう一つ重要なのは、学問の細分化により分野間に壁が出来ていることである。例えば大学で数学を研究している人は容易に数学的知識を収集することができるであろう。ではその数学研究者が医学の専門知識を入手したい時はどうすればよいのか?そのような時に医学の論文の入手を困難にさせれば、専門知識の普及は到底望めない。誰もが専門外の知識に対してもアクセスできる環境を作らなければならない。専門的知識は専門家だけのものではないのである。

国は研究者に対して巨額な研究費を投じている。もちろんその原資は税金だ。巨額の税金を投じて研究を行っているからには、そこから得られた知識は一般市民に還元しなければならない。しかし現状ではそれが出来ていない。もちろん市民も、科学研究など自分に関係ないと無関心になるのではなく、専門的研究結果に対して積極的なアプローチをしていかなければならない。専門的科学知識は国民、そして世界市民全体の財産なのである。

現在、日本の学問研究は低下の一途をたどっていると言われている。その原因は研究費の減少やお金につながる研究にしか投資しないからだとか言われている。しかし問題は更に根本的な所にあるように思える。そこに国と国民が気付かなければ、いくら研究費を増やしたところで国の研究レベルの底上げには全くつながらない。日本の研究者を海外に送り込むのではなく、海外の研究者に日本に行きたいと思わせることが重要であり、そのような世界の研究者の研究から得られた知識を国全体で共有して行かなければならない。まあ、今の日本の現状を見ればほとんど期待できないが。

数学や科学において、本質的に直感はあてにならない。

数学や科学においては、実に直感はあてにならないものである。例えば有限の数を数えるという直感が無限の数では全くあてにならないことを示したのが、集合論を創始したカントールである。さらに空間や時間というものが直感から得られるものとは全く違うことを示したのが、特殊相対性理論を構築したアインシュタインであった。

数学や科学を構築するにあたっての大原則が二つある。一つ目は概念の厳密な定義、二つ目が厳密な論理による展開である。この二つがないと、数学や科学の発展はありえない。なぜ古代ギリシャ時代のユークリッドは誰もが当たり前に思えることを、一見回りくどく思えるような論理で展開したのか?それは物事の本質を明らかにするためである。当たり前に思えることを論理的に基礎づけしてみると、当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことが明らかになる。そして本質は何で、それに付随するものは何かとういうことも白日の下にさらされる。2千年前のユークリッドの定式化なしに現代の科学の発展はありえないのである。

しかし19世紀の哲学者・ショーペンハウアーは「意志と表象としての世界」で、ユークリッドの議論を「義足を履くために足を切断するようなものだ」と言っている。ショーペンハウアーは「直感こそが一番正しいものだ」と論じているのである。さらに空間や時間に関する論理に至っては、その当時の科学的見識に照らし合わせても目を当てられないくらいひどいものである。ニュートンの科学的見識に照らし合わせてもショーペンハウアーの議論は幼稚なものであるが、「意志と表象としての世界」を出版したのは1918年なので、その十年以上前にはアインシュタインの特殊相対性理論と言われる時間と空間の物理学が世に出ている。ショーペンハウアーが不勉強だったのかとも思ったが、おそらく数学や科学に敵対心を持ち、それらを否定することに躍起になっていたのではないかと思われる。

僕は科学を専門としている人間の中では、かなり哲学を重視し好意を持っている方だと思っている。しかし最近、ショーペンハウアーをはじめとするドイツ哲学に失望している。そう言えば、微分積分学をニュートンと独立に発見したライプニッツは哲学者としても有名だ。ライプニッツの哲学に触れた訳ではないが、数学者であるライプニッツの哲学はおそらく自然科学的だと思われる。機会があればライプニッツの哲学にも踏み込んでみようと思う。

なぜ論理的である哲学で直感が重視されるのか?僕には理解できない。初めに述べた無限の数を扱う集合論や時間と空間を扱う相対性理論以上に、ミクロの世界を扱う量子論は反直観的だ。全てが直観とは反する振る舞いをする。科学では直感の呪縛から逃れることが大きな飛躍につながるのである。直観とは実にあてにならないものである。そう人間に気づかせてくれるのが、人間が科学を追究する一つの意義かも知れない。

科学者が哲学を論じる時。

科学者と哲学者はやはり立っている基盤が違うようである。ショーペンハウアーの著書を読んでも、意識の問題が19世紀の科学や医学に基づいて論じられている。もちろん現代の眼で見れば、19世紀の科学は甚だ不完全である。しかし一部の哲学者は、科学を否定しながらも中途半端な科学に基づいて持論を正当化しようとしている。もちろん最新の科学に基づいて論じてみても、現在の最新の科学が完全である訳ではない。しかし哲学は完璧を求めている。しかし不完全な科学をついばんで論じた哲学に完全性を求めるのは無理な話だ。

もちろん過去の哲学が全く無意味な訳ではない。しかし全く無意味な哲学も存在する。それも偉人と言われるような哲学者による哲学でも、現在の眼で見れば無意味だと思われるものは多い。根幹的哲学で不変でありうるものはいつの時代でも受け継いでいかなければならないが、常に更新し続けて行かなければならない哲学(特に科学的見識を取り入れているもの)も多く存在する。

そこで哲学者による哲学だけではなく、科学者による哲学が今必要ではないかと強く感じる。これはいわゆる「科学哲学」というものではなく、「科学者の眼から見た哲学」という意味である。科学者が科学の世界だけで閉じるのではなく、積極的に哲学的な領域にも踏み込むことが必要である。

古代ギリシャ時代には、自然哲学者(科学者)が哲学を論じ、哲学者が数学を論じていた。しかし現在では科学と哲学はほぼ分業制になっており、古代ギリシャの精神は消え去っている。今一度、古代ギリシャ的精神を現代によみがえらせる必要があるのではないかと強く感じる。AIなどの科学技術が一般化する中で、人間が人間である所以は何なのか?そのような事を最新の科学の知見に基づいて深く論じることが非常に重要である。

加速器実験、理論の力。

素粒子物理学の研究は、理論研究と並行して実験を行うことが必要である。しかしこの素粒子実験というものはとてつもない巨額の費用が必要になる。現在東北で進んでいる加速器計画の建設費は数千億円だという。もちろんこれらの加速器研究は国際研究であるので全て日本が負担する訳ではないだろうが、それにしても加速器研究にかかる研究費は桁違いである。これらの研究は実利があるかと言われれば、金銭的な実利は期待できない。しかしこのような金銭的実利ははっきり言って小さな問題であり、重要なのは人類の知に貢献できるかということだ。

現在、素粒子の理論研究はとてつもないレベルにまで進んでいる。しかしそれを確かめる実験はそう簡単には進まない。先述したように巨額の費用がかかるためだ。しかし実験で正しいことが証明されなければ科学は正しい進歩をすることはできない。間違った事を基に間違った理論が進む危険性も大いにあるからだ。現在非常に進んでいる素粒子理論が正しいとは限らない。これが正しいということを証明するには、理論という範疇を超えて実験で証明するしかないのだ。

しかし、先進的な素粒子理論以外にもするべき理論研究は他にもある。それらに対する研究費を出すべき人に投資できているか?一度精査する必要があるのではないだろうか。もちろん加速器実験に数千億円つぎ込むのも良い。しかしつぎ込むべき研究者に数百万円の研究費を出せているか?大きなプロジェクトだけではなく、足元もしっかりと見なければならない。

加速器の巨大プロジェクトを遂行するのは、日本をはじめとする先進国の責務だ。このような研究を遂行できる国力は誇るべきものである。しかし理論の力も見逃してはいけない。実験に比べると理論にかかる研究費などは微々たるものだ。そこにしっかりと研究費を投資出来れば、費用対効果は限りなく高い。しかし現在、基礎理論にしっかりと研究投資できているかと言えば疑問に感じるところがある。実験の大型プロジェクトを遂行するのも非常に意義があるが、数学などで理論的大型プロジェクトを遂行することもそれ以上の意義があると思うのだがどうだろうか?

グレーに行くリスクが取れない?

多くの人は何かと白黒を付けたがる。しかし実際はグレーな事も多々ある。それがむしろ自然な事だと思うのだが、グレーは悪い事だと捉えられる風潮を強く感じる。しかし僕自身はグレーは決して悪い事ではなく、むしろグレーゾーンに飛び込んで行くことも大事ではないかと強く思っている。

これらのことはビジネスにおいて顕著に見られる。ビジネスにおいてグレーとは良い悪いということではなく、合法か?違法か?ということである。しかし実際は合法か?違法か?ということは簡単に判断できないことも多い。危険性を過度に恐れてグレーゾーンに飛び込めない人や企業を多く見かける。完全な白になることが確定しないと飛び込んでいけないのだ。しかし欧米企業はグレーの使い方が上手い。グレーには確かにリスクがある。しかし大事なのはそれらのリスクを上回るメリットがあるかどうかだ。小さなデメリットを取って大きなメリットを取るということが大事だ。しかし日本では、デメリットを取らずメリットも取れないという身動きが取れない状態でいることが多い。

人間も同じだ。完全に真っ白な人に魅力はあるか?完全に真っ白ということは何もしていないということだ。何かの行動を起こすたびに汚れて行くことはごく自然な事だ。時には人のためにグレーゾーンに飛び込んで行くこともあるだろう。自分の保身の事ばかり考えて常に真っ白な安全地帯にいる人は、はっきり言って心は真っ黒だと言える。社会的に白黒グレーであるということと、心が白いか黒いかということは全く別である。

大事なのは、自分を守り過ぎないということだ。自分を守る事ばかり考えると、クレジットカードでいうところのスーパーホワイトになってしまう。社会というグレーな世界をいかに対処して生きて行くか?もちろん社会的にはグレーでもなんでもいいが、心は出来るだけ白くありたいものである。

Aさんの美容整形。

最近タレントのAさんの美容整形が話題になっている。美容整形に対しては賛否両論分かれるが、日本においてはネガティブな意見が多いように感じる。特に「親からもらった容姿を捨てるなんて」という意見もあるが、勉強を努力して道を開くのと同じで、美容整形をして未来を変えるのもかなりアリだと僕は思う。

僕自身は美容整形に対して特に肯定も否定もしないが、今回のAさんの美容整形に関しては肯定的に捉えている。Aさんの整形は金銭的にも数百万円かかっているとも言われ、施術もかなり大規模なものだ。大規模であるが故に、リスクも高いと言われている。今回の施術をするに当たっては相当な覚悟をしたはずだ。そして色々な意味で自分の未来を変えるという強い思いもあったはずだ。

確かに未来を変えたければ色々な手段がある。勉強を頑張るとか仕事を頑張るとか、できる事は身の回りにいろいろある。しかしそのような選択肢のうちの一つとして美容整形というものもあってもよいのではと思う。今回の美容整形の金額は巨額であり、その資金を稼ぐのも大変だ。その資金を稼ぐためにも努力をしているはずだ。Aさんは色々ある選択肢の中から美容整形という選択をしたというだけの話である。

未来を変えるため、自分を変えるためにはいろいろな手段がある。人間の内面は大切だが、外見も自分という人間の一側面である。そして美容整形して変えた外見も立派な自分自身だと思う。何もしないで現状維持する人より、ある意味行動的で立派だと思う。もし自分の現状を変えたければ、何か行動を起こさなければ始まらない。もちろん美容整形をする必要はなく、勉強でもスポーツでも何でもいい。考えたら即動いて、自分という人間をより高いレベルに上げられるように試行錯誤してみよう。

精神は生きて、肉体は死ぬ。

僕が一番恐れていることは、肉体が死ぬことではなく、精神が死ぬことである。もちろん肉体が死ねば、精神が宿る脳も死ぬことになる。なので精神が生きているとは肉体が生きていることが前提になるのかもしれないが、肉体が生きていても精神が死んでいることはよくある。しかし肉体が生きている限り、精神も活発に生きていなければならない。

しかしこのような考えは、僕個人の単なる思想に過ぎないのかもしれない。精神が死んでいようがそんなことはどうでもよいと思う人も世の中にはたくさんいる。むしろ精神が死んでいる方が楽かもしれない。楽して生きたければ自分の精神を殺せばよい。そのような人がいる一方、絶対に精神を殺せない人もいる。楽して生きたいとかそういう次元の話ではないのだ。自分という一人の人間の精神を発揮するために、苦しかろうが大変だろうがそのような道を自ら選択するのである。

精神は肉体に付随する。しかし人間において精神は肉体の上位に位置する。このような位置関係は人間特有のものである。他の生物ではおそらく精神が肉体より上に来ることはないだろうし、そもそも精神というものがあるかどうかも分からない。つまり精神を生きさせるということは、自分が人間であるが故のことなのである。なので精神なんてどうでもよいという人は、もう人間とは呼べない。

人間の精神活動により科学は発達してきた。つまり科学とは人間が存在してのものである。しかし現代では人間が科学に支配されているように思えてならない。人間の精神も技術に支配監視されている。もし、「科学は何のためにあるのか?」と問われて「便利に、快適にするためにある」としか答えられない人はかなり危険である。そのような人は精神を失いかけている危険性がある。もしそのようにしか答えられないのならば、科学の本質について考え直し、それに伴う精神の重要性を認識する必要があると僕は強く感じる。

知識が足りない!

前日のブログで教養について書いたが、自分自身どれくらい教養的知識があるかと言われれば、僕が目指しているレベルには大きく足りないと強く感じている。もちろん、大学時代には人より勉強してきたという自負はあるし、様々な分野に関して色々と首を突っ込んでみたりしたが、やはり目指しているレベルには大きく及ばない。最近目を通した本庶佑博士の医学関連の論文を読んでも理解できないところは多いし、専門用語もわからないものが多い。確かに100%理解することは困難かもしれないが、専門外の事であっても95%くらいは理解したい。そのためには専門外の事にも積極的に勉強(修行?)していかなければならない。

では、専門の分野に対してはどうだろうか?ここで一つ大きな足かせが存在する。英語である。僕は語学が極めて苦手だ。もちろんこれまで様々な英語論文を読んで来たが、英語表現、さらに英文法や英単語がはっきりと理解できなくて取りこぼしてきたことも少なくない。専門の英単語はまず分かる。しかし一般英単語が分からないことがある。中学時代から英語を疎かにしてきたツケが今になって表れて来ている。しかし、勉強に対して今からでは遅いということは全くない。語学が出来ないのなら今から修得すればよい。何ならフランス語まで修得しようかとも思っている。(大学時代の第二外国語はフランス語を取ったが、さっぱり分からなかった。)

しかし、研究の合間に語学を勉強しようと思っても、そのようなタイミングを作れずに逃がしてしまう。だから週一日、何曜日は語学や教養などの専門外の勉強をしようと固定したほうが良いと思っている。幸い、最近は英語が大分論理的に捉えることが出来るようになっているので、ある程度は修得できるような気がする。

学問を思考するには知識と知恵が大事だ。ではそのどちらの方が大事かと言われれば、圧倒的に知恵の方が大事だ。しかし知恵を出すためにも最低限の知識が必要だ。知恵を出すためには記憶力はそんなに必要ではないかもしれないが、知識を頭の中に留めておくためにはある程度の記憶力が必要である。そこそこの知識を頭の中に取り込んで、それを思考という装置に通して知恵や見識を生み出していかなければならない。

どれくらいの教養を目指すか?

専門を究めないといけないのは当然のことだが、教養も非常に重要である。しかし目指す教養のレベルは人それぞれ違う。お話を聞くようなレベルなのか?解説書を読むくらいのレベルなのか?それとも論文を読むくらいのレベルなのか?僕は専門外の教養であっても、代表的な論文くらいは読むレベルでありたいと思っている。例えばノーベル賞受賞者の研究を知りたいのならば、その研究者の代表的論文くらいは読みたいと思っている。

ということで、2018年度ノーベル医学・生理学賞受賞者の本庶佑博士の論文を読もうと、本庶博士のホームページを訪ねた。そのホームページには全論文のリストがあったので目を通して見ると、なんと637本の論文リストがあった。とてもじゃないが全部読めないし、どれが一番重要な論文かもわからない。そこで代表論文と書かれたリストを目を通して見たが、これも数十本ある。おそらくどれも重要な論文ではあろうが、さすがに数十本目を通す力はない。本庶さんの論文を読みたいが、どれを読めばよいのかわからない、と迷っていてもしょうがないので、とりあえず重要そうな論文を一本ダウンロードしてみた。専門的な遺伝子名などはよくわからないが、とりあえず目を通して見ようと読んではいるが、さすがに正確には理解できそうにない。でも色々と論文を読んでいくと、少しずつ分かってくるのかもしれない。空いた時間で専門外の生物学・医学関係の論文に当たってみようと思う。

専門家はスペシャリストであり、教養家はある意味ジェネラリストであると言える。しかしジェネラリストであっても軸となる専門は必要だし、スペシャリストであっても幅広い教養は必要である。そしてどれくらいの教養を得るかと言った時、専門研究者のように実験をして新しい見地を得るまでは行かないが、論文を読んで専門的知識を得るくらいのことはした方が良いと考えている。

最近、何だか知識欲がかなり湧いて、専門外の分野に関しても色々な文献を当たっている。もちろん専門外の事は専門的知識がないことも多々あるので基礎的文献を読むことは必要だが、いきなり最先端の論文に当たるのもありだと思う。ここで重要なのは最先端に“触れる”ではダメなのだ。最先端を“理解”しなければならない。そしてもちろん、専門分野を追究することも怠ってはいけない。専門分野に関しては新しい知見を生み出すことが要求される。二刀流という言葉は少し違うような気がするが、専門と教養の二刀流になることが、科学に生きる人間には必須であるように強く感じている。

資本と頭脳。

現代社会では資本と頭脳は蜜月関係にある。資本のあるところに頭脳は集まり、そして頭脳は資本を得る。

現在、自動車業界では自動運転の覇権を巡って熾烈な争いが起きているが、その中でも特徴的なのが自動車メーカーとIT企業との連携だ。これにはもちろん自動運転にはITが欠かせないという側面があるが、それとは別に資本と頭脳を求めあっているとも言える。技術と資本を持っている大手自動車メーカーが、資本と頭脳を持っているIT企業を求めているという形だ。

では、現在どのくらい資本と頭脳が結びついているか?もちろんこのような抽象的な話に正確に答えを出すことはできないが、僕の独断と偏見ではおそらく頭脳の97%は巨大資本と結びついていると思われる。しかしこれは逆に言うと、3%はまだ資本に見出されていない、あるいはこの3%の頭脳は資本を必要としていないと言える。資本から隠れている3%の頭脳は、社会的に影響を与えることは少ないかもしれない。しかし人類文明に与える影響はある意味巨大である。

最高の頭脳に資本は必ずしも必要ではないとは言え、資本がこれらの頭脳を全く無視していることは大きな問題である。実際は無視というより見出す力がないと言えるが、その原因は前例至上主義と偏見であろう。しかし最高の頭脳は、前例にとらわれない大きさがあると言える。前例に収まる頭脳などは巨大な頭脳とは言えない。これらの隠れた3%の頭脳を見出すだけで、世の中の資本は3倍大きくなるし、人類文明のレベルは10倍高まるのではと僕は考えている。

脳と意識の科学のこれから。

20世紀後半からの科学では、人間の本質は脳であるという主張が強いように感じる。確かに心臓移植というものはあるが、仮に脳を移植するとすればそれはもう別人と言って良い。ある意味脳が本質的であるという意見は的を得ているが、脳も体がなければ生きていけない。そういう意味で、体は脳の付属品かと言えばそうは言い切れない部分がある。

しかし近年の科学の進歩は加速度的に速くなってきている。それに伴って、人間というものに対する見解も変化している。しかし脳の研究、さらに言えば意識の研究というものはまだ黎明期だと言える。意識の本質は何か?ということに対する科学的な答えはまだ99%出て来ていない。そもそも意識を科学するにはまず何から手を付ければよいか?ということさえはっきりしていないと言える。しかし始まったばかりながらも、意識の科学研究は確実に進歩している。

脳はある意味特別な臓器だと言えるが、元を正せば皮膚や心臓、血液などと同じように一個の受精卵を起源としている。そういう意味では心臓と脳を生物学的に100%区別することは出来ないのかもしれない。しかし99%区別することは出来るかもしれない。現時点での脳の研究、意識の研究は、人間やその他の動物などの脳を使って研究されている。しかし人間の脳に実際に極板を入れるなどということは倫理的に許されないから、研究者は試行錯誤して脳の本質を見出そうとしている。脳や意識の研究は、現代科学の中で最も困難で最も独創性のいる研究だと言える。

これからの科学研究によって、脳が他の臓器と違って神聖的な臓器だと言われる可能性もないわけではないが、これまでの流れを見ると最終的には、生物学的には根本的に他の臓器と何ら変わりがないと言われるような気がする。それ以上のことは生物学というより、脳のネットワーク的情報理論的なアプローチが取られるような気がする。脳という臓器にネットワークが乗っているという意味では脳は特別な臓器である。しかし「特別」と「神聖」は全く違う。この特別であるが神聖的でない脳という臓器の本質に迫ることは、人類にとって最もエキサイティングな挑戦だと言える。

過去との決別。

過去の事はもう関係ないと思っていても、やはりどこかで過去を引きずってしまう。僕自身は過去の自分に対して引きずることはあまりないが、過去の人間関係はかなり引きずってしまう。過去の中にも大事な事はいっぱいあるが、やはり生きるべきものは未来であって、過度に過去を引きずるのは得策ではない。今は過去のほぼすべてを捨て去って未来に目を向けることが非常に重要だろう。

過去は変えられない。だから変えられない過去を気にしても仕方がない。未来は自分の意志でいくらでも変えられる。今している努力も行動も、過去を変えるためにしているのではなくて、未来を変えるためにしているのだ。お金もそうである、今使うお金、今貯めているお金は、未来を変えるための資金だ。だから未来を変えるために、使うところでは徹底的にお金を使う。そして時間を使う。そういう意味で僕は未来に対して太っ腹だ!

過去と決別するうえでやはり一番難しいのは人間関係だ。過去に構築した人間関係を崩す必要は全くない。築き上げた人間関係は財産である。しかし人間関係を引きずってはいけない。切るべきところは切る、守るべきところは守る。そのような思いっきりが大事なのだと思う。

過去の自分には非常に苦しい時期があった。しかし今になってみれば、そのような苦しい時期を乗り越えたことは財産である。しかし過去は過去、これから生きるのは未来である。未来の自分にはあらゆる意味で自信がある。ただ時間がかかりすぎているのが欠点かもしれない。今、僕に目の前に見えている風景は明るい。その風景の中に一刻も早く入り込むために、努力、実行力、自分のマネジメントを行っていかなければならない。そのための一つの行動が、過去との決別であると考えている。

忘れることを、武器とする。

僕ははっきり言って記憶力は良くない。さっきブログで何を書いたっけ?とついさっき書いた記事の内容を忘れることもよくある。確かに記憶力が良ければそれはそれで良いが、だからと言って、記憶力が悪いことは必ずしも良くない事かと言えば、そうでもないと僕は考えている。それどころか、忘れるからこその良いこともいろいろあると思っている。

では忘れる事の何が良いか?一つ目は、忘れるべき事を忘れることが出来るということである。人間は全ての出来事を記憶すれば良いかと言えばそうではない。むしろ忘れたほうが良い情報も世の中には多々ある。嫌な事は忘れたいと思うのは自然であるし、自分に対してネガティブな影響を与える事は忘れた方が良い。もちろん覚えなければいけないことを忘れることは確かに良いとは言えないが、忘れたいことを忘れられないことは苦痛であろう。

二つ目は、過去の情報を忘れることによって、先入観が消える事だ。過去の事を全て覚えていれば、それらの情報にとらわれる発想しかできない危険性がある。もちろん過去の事を覚えていても、新しい発想が出来る人はそれなりにいるが、過去の出来事、過去の情報などから来る常識にとらわれて前に進めない人をよく見かける。過去の情報を忘れていれば、未来は全て白紙である。その白い紙にどのような絵を書き込むかということは、自分の意志によって自由に決めることが出来る。過去の情報により既に色が付いた紙を自分のものにするのは難しい。

もし記憶力が良くなくてすぐ忘れるというのならば、そのことについてネガティブに考え悩むより、逆に忘れることをポジティブに捉えて生きて行くほうが良い。記憶力と創造力は全く別物だと僕は考えている。記憶にこだわるより、いかに創造的に物事を構築して行くかということに目線を向けて、前に進んで行くことを心がけて行こう!

投資は人から言われてやるものではない。

投資に対しては色々な解釈があるが、どのような投資においても投資は人から言われてやるものではなく、自分が能動的に動いてやるものである。そしてどのような投資でも、リスクは必ず存在する。リスクがない投資などあり得ない。しかしリスクは他人が背負ってくれるものではなく、自分が全て背負うものである。だから責任は全て自分にある。自分が背負うリスクに対して、人の言うことに従って行うことは明らかにおかしい。

例えばお金を持っていれば銀行などから投資の話が来るかもしれない。老後のために投資をすべきだという話が舞い込んでくることはよくある話だ。しかし「老後のため」という言葉の裏には「必ず儲かる」というニュアンスで話していると思われる。少なくともそのような話に乗る人はそう思って投資をするのであろう。しかしそこでリスクの事は考えているか?おそらくほとんど考えてはいない。しかしもし投資して損をしても、銀行は「リスクがないとは一言も言っていない」と言うはずだ。リスクの話はしていないから、リスクがないとも言っていない。これは確かに間違ってはいない。全ては自己責任である。自己責任において投資するからこそ、リスクの話もしないような銀行員の話に乗るのではなく、自分で徹底的に調べて、リスクを承知の上で自ら証券会社に赴かなければならない。

金融の投資の話は非常に分かりやすいが(簡単に儲かるという話ではない)、人生における投資はさらに重要である。もちろん金銭的な面ではお金の投資より少額かもしれないが、人生の投資はお金と時間、そして自分の頭脳を著しく消費する。もちろん人生における投資も全て自己責任である。上手く行かなくて他人のせいにするなどということはあってはならない。金銭的にもお金の投資より少額ではあるかもしれないが、人生における投資はお金の投資以上にセンスが問われる。良質な知識を入手するためには新聞や書籍などに投資することは必要であるし、人間関係を築くのにも交際費が必要である。実はこれらの投資は本気で取り組むとかなりの金額になる。専門書は一冊一万円以上するものも少なくないので、百冊買えばそれで百万円である。しかしお金は富豪でない限り有限であると考えなければならない。この限られた金銭的資源をどのように分配するかということは吟味して考えなければならない。さらに時間に関してはどんな大富豪であっても平等に有限であるので、その分配はさらに熟考することが求められる。

近年はネットの発達などにより簡単に情報が手に入るようになったせいか、全てを外部に頼ろうとする風潮が強くなってきているように感じる。しかし本当に重要なのは、外部の情報ではなく「内部の思考」である。そしてその内部の思考によって行動を決断して行かなければならない。投資という行動決定においても、やはり能動的に自己決定し自己責任を負うということが一番重要になる。

どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すか?

自動車にはリミッターというものがかけられていることが多い。リミッターとはある速度以上出ないように制限を付ける事だ。もちろんリミッターをカットすれば限りなく速く(車の性能的な範囲内で)走ることが出来る。しかしリミッターをカットすれば危険性も増すし、レッドゾーンまで回し続ければ故障する危険性も圧倒的に高くなる。人間もあらゆるところで自分にリミッターをかけてセーブしている。しかし時にはリミッターを外し、自分の持てる才能を最大限に引き出すことが必要になる時がある。どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すかという判断は、人生の成否や人間性に非常に大きく関わってくる。

いつでもリミッターをかけていれば、従来の常識の範囲を超えることはできない。しかしリミッターを外せば危険性が増す。すなわち、リミッターの操作は人間としての生き方のセンスが最も問われるところである。リミッターを外し、壊れることを恐れる人も多いが、僕は度々壊れるのも良いのではと思っている。壊れたら修理をしてまた仕切り直しをすればよいのである。もちろん修理不可能なくらい壊れるのは良くないが、基本壊れること前提でリミッターを外し生きるという選択肢も大いにありである。

日本では常にリミッターをかけていることが良しという風潮がある。「失敗は悪」という考えが根強く残っている。それでもある程度の所まで行ける可能性は十分にあるが、壁にぶつかってどうしても越えられそうにない時は、リミッターを外す必要がある。そしてリミッターを外した時、車と同じく、その人の人間としての力が最も顕著に表れる。だから自分の力に自信がある人は積極的にリミッターを外すべきである。そうでないと宝の持ち腐れになってしまう。そもそも力のない人は、リミッターを外すかという状況に直面することはないのかもしれない。

リミッターを外すことは諸刃の剣である。しかし良い剣を持っているのならば、積極的に外して行くべきである。そうすれば失敗して傷を負うことも多々あるかもしれないが、それ以上の成果を得られる可能性が高い。リミッターを外すかどうか迷った時には、自分がそのレベルまで達したと自信を持ってよい。そして一度リミッターを外し勝負に出てみることによって、新たな境地に達することが出来るであろう。

どこまで「資本の論理」を受け入れるべきなのか?

現代社会のスタンダードシステムは間違いなく「資本主義」である。あるいは「民主主義」だと言える。20世紀には中国・ロシアを中心とする「共産主義」や「社会主義」といったシステムがあったが(もちろん現在もある)、誰が見ても成功したとは言えない。現在では中国までもが積極的に資本の論理を取り入れている。資本主義というものは一見成功したように見えるが、はたしてそれは本当に正しいのであろうか?

資本主義や民主主義は「正しい」とか「正義だ」とよく言われるが、資本主義であっても問題は山積している。貧富の格差の拡大や環境汚染、未来の事を考えない「現在至上主義」などが挙げられるが、これらの問題を解決するためには資本主義や民主主義というものを見返すことが必要だ。自由市場主義によって利益は最大化されると言われるが、総数が増えてもそれが一部に偏っていれば理想から離れている。民主主義は全ての民衆の意見を反映できると言われているが、結局多数意見だけがまかり通ってしまう。もちろん、社会主義、共産主義と比べればはるかにマシなシステムである。しかしだからと言ってこれからも従来のシステムのままで良いかと言われれば決してそうではないはずだ。

拝金主義でなくても、「お金はいくらあっても困ることはない」という考えを持つ人は多い。だから際限なくお金を求めてしまう。儲かる所に資本を集中させ、利益を上げる事を第一目標に掲げて行動を起こす。このような資本の論理に問題はないのか?と言われれば、現在あらゆるところで問題が露呈していると言える。まずは環境問題。経済最優先の行動や政策を実行するが故に、そこから発生する環境汚染には無頓着になってしまう。環境問題が重要な問題だと思いながらも、自分たちの利益を優先するが故に行動を起こせない。原発問題はその最たるものであろう。事故が起きてもまだ経済効率化の夢を見ている。資本主義と民主主義の行きついたところがそれである。

民主主義の理想は確かに悪くない。そして資本主義に関しても良いところはたくさんある。しかし今はそれを大幅に補正すべきではないだろうか?確かに民主主義、資本主義に代わる理念は簡単には出てこないかもしれない。だが今はそれらをバージョンアップすべきだ。現在のシステムのままだと、明らかに地球が持たない。自然が持たない。そして人間が持たない。ではどうすれば補正の指針を見つけられるのか?それは、人間が便利さばかりを追求することを自制することだ。いったん便利さを味わった人間は後には戻れない。そして人間はエンドレスに便利さを求めている。例えそれが破滅へと向かう道であっても。

今人間が見ている未来予想図は、どれを見ても限りなく便利な社会である。それに理想を持っている人も多いかもしれない。しかしそれが虹色の社会だと言えるのか?そのような社会で人間が人間らしく生きることが出来るのか?僕はどうしてもそうは思えない。そして現在に生きる人間が未来に生きる人間に対して負債を重ね続けるようなことはあってはならないことだ。現在至上主義から未来志向主義へと変革する必要があるのではないだろうか?