月別アーカイブ: 2月 2019

データを活用するか?データに依存するか?

近年、ますますデータの重要性が高まっている。特にビッグデータと言われる種類のものが様々な分野で活用され、またそのようなデータが高額で取引されているようである。これらのデータは全体の傾向を把握するのには向いているが、個人にとってこれらのデータとどう向き合うべきなのか?と考えさせられる。

僕自身はデータ万能主義には異を唱えている。とは言え、データの有用性を否定する訳ではない。データは確かに強力な武器である。ビジネスからスポーツまで、近年はデータが強力に威力を発揮している。だからデータが威力を発揮するところでは積極的にデータを活用すべきだと思う。

しかし個人が生きる上で、データをどれくらい活用すべきなのか?非常に考えさせられる。結論から言うと、「データを活用するのは良いが、データに依存すべきでない」ということだ。そして、データは必ずしも万能ではないということだ。もしデータが示唆することが100%正しければ、人間は何もしなくて良い。データに盲目的に従っていけばよいだけの話である。しかしこうは問屋が卸さない。データが完璧でも、データを解釈するのは人間である。もちろん最近は、AIによる医療画像診断などコンピューターが解釈しだしている。そういうことならデータを集めそれをコンピューターに診断してもらえば、それに盲目的に従えばよいのか?いや、必ずしもそうではない。そこに人間が生きるということの深さがある。

人間には自由意思がある。この自由意思というものを巡っても最近は議論があるようだが、少なくとも現時点では人間の自由意思を尊重すべきだと考えて良いだろう。自由意思が自由であるためには、データに盲目的にはなるべきではない。もちろんある程度活用するのは良いとは思うが、自分の内部で思考し出した結果が自由意思である。データに依存し自由意思を無くした人間は人間と言えるのか?僕はもうそれは人間ではないと考えている。例え人間だとしても、精神的には奴隷である。もちろん、何も考えないで楽に生きたいと考える人がいれば、奴隷になるのも一つの手かもしれない。しかし自分の意志に従って前に進もうとしている人は奴隷になるべきではない。これから人間はこう二極化してくるのではないだろうか?

データは万能ではない。いや、もしかしたら万能に近いこともあるだろうが、万能だからと言ってそれが即データに従うべきかと言えばそうではない。我々は人間である。自分が人間としてどう生きるべきか?以前ならそんなことを考えなくても人間らしく生きる事は出来たが、コンピューター解析が異常に発達したデータ万能社会においては、そのような事を真剣に考えて生きて行かなければ、人間性を失ってしまうことになる。

時には不調な時もあるさ!

好不調の波は誰にでもある。しかし人によってその波の大きさは違うようだ。波の変化が激しい人もいれば、かなりフラットに近い人もいる。できればフラットな方が良いが、重要な事は“高いレベルで”フラットにいることだ。低いレベルでフラットは誰が見ても良くない。

僕自身も結構波はあるので、できるだけ高いレベルでフラットにいれるように試行錯誤しているが、やはりそんなに簡単にはなれない。高いレベルでいるためには心身のコンディションを整えなければならない。そのためにお酒は出来るだけ飲まないとか、コーヒーも出来るだけ控えるとかの努力をしている。やはり頭脳を最高のコンディションで使って生きるためには、お酒などは飲まないに越したことはない。お酒を飲むことによってリラックス効果があるとか言われるが、お酒を飲まないでリラックスが出来ればそれが一番良い。

好調な時には大体何をやっても上手く行くし物事も進むが、悩みどころは不調な時にどう過ごすかということである。不調な時は何もしないでゆっくりすればいいとは思うが、それに甘んじて何もしないでいるとズルズルと滑り落ちて行くように思う。だから不調な時は不調な時なりにできる事をしようと思っているが、なかなかそう実行できないでいる。何とか良い解決策はないだろうか?

でも不調な時があるのは仕方がない。「時には不調な時もあるさ!」と開き直って羽を伸ばすのも良いかもしれない。今やる事は大事だが、時には「明日やろう」と思うのもいいかもしれない。

異分野との相乗効果。

僕は最近、専門外の事にも積極的に取り組もうとしている。例えば経済学や歴史などの学問から、筋トレやジョギングといったちょっとしたスポーツまで、できることは出来る限り挑戦しようと思っている。もちろん異分野の事に取り組もうと思っても、面白くなければ続かない。しかし経済学も歴史も非常に面白い。筋トレは体を引き締めるために必要だし、ジョギングをすると頭が良く働く。そしてこれらの事を行うことによって、専門の事に対しても相乗効果によって良い影響が表れている。

そして相乗効果を狙うのなら、できるだけ専門から離れていることを狙うほうが良い。学問を専門にしているのならばスポーツをやるとか、あるいは茶道なども良いかもしれない。さらに二刀流ではなく、三刀流、四刀流と手を広げるのも良い。もちろん手を広げ過ぎて専門が疎かになってはいけないが、しかし少し専門に影響が出るくらい手を広げるのが良いと僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は、大学時代ラグビーをやっていたそうだ。ラグビーとはまた激しいスポーツをやっていたものだと思うが、そのように専門とは全くかけ離れたことをすることによって、普段とは違う頭を使うものかもしれない。僕自身は学生時代は全くスポーツをやっていなかったが、今になって学生時代にスポーツに打ち込むべきだったと少し後悔している。とは言え、自分の過去について特にネガティブに思うことはほとんどないので、過去の自分はそれはそれで良いのだ。

スポーツをやって頭を活性化させて数学に打ち込む、というくらいの事をやっても良いのだと僕は最近思っている。学問だけに限っても、学際分野というのはいつの時代でも強い。スポーツでも十種競技というものがある。究極はそれぞれの競技だけを見てもトップである十種競技選手だと思う。実際の十種競技ではそれはかなり難しいが、専門を軸として手を広げて行けば、少なくとも専門に関してはトップである十種競技選手になれる可能性はあるのではないだろうか?

“自分を守らない”自己チュー。

誰かを守るということは非常に重要な事だ。それと同様に自分を守ることも非常に重要かもしれない。「命あっての物種」という言葉があるように、自分が生きていない限り何もできない。「生きるために自分を守る」ということは、人間に限らずどの生物でも言えることだ。

しかし自分を守るということは結果論であって、それ自体が一番の目的になってはいけない。自分を守る事ばかり考えていると、何もかもが死んで見えてしまう。自分以外の事が見えなくなる。他人の事を考えることが出来なくなる。自分の生命感を保つためには「自分を守らない」ということが大事なのである。

「自己チュー」は否定的に捉えられることが多いが、僕は自己チューも悪くないと思う。自分を守らないで殻を飛び出し前に進むためには、自己チューが不可欠だと考えているからである。自己チューはわがままではない。いや、わがままな自己チューな人も世の中にはたくさんいるが、自己チューになって自分の成し遂げる事を達成することが出来れば、それによって周りのたくさんの人を助けることが出来る。口だけやさしい事ばかり言って何もしない人は、はっきり言って害悪でしかない。真の幸せは、“自分を守らない”自己チューから生まれると僕は思っている。

自己チューは初めは必ず嫌われる。はっきり言ってこのバッシングはかなりきつい。状況的にも精神的にもかなり追い込まれる。しかしこの状況を脱するためには結果を出すしかない。自己チューになるなら徹底的に自己チューを貫き通し、それによって成功すればよいのである。しかし“自分を守るため”の自己チューにはなってはならない。そのような自己チューは百害あって一利なしだ。“自分を守らない”自己チューによって、自分の置かれている立場を変え、周りを幸せにして行こう!

世界が広がる?

現実の世界、つまり地球の広さは何千年経っても変わらない。しかし自分の頭の中の世界は思考の深さに応じていくらでも広がるし、また思考を怠ればどんどん狭くなっていく。よく自分の世界を広めるために世界を旅行するという人がいる。確かにそれは間違っていないだろう。しかし旅行で広がる世界なんてたかが知れている。それよりも思考によって広がる世界の方が圧倒的に広いのだ。何なら思考によって宇宙全体を飲み込むこともできる。しかし思考しなければ目の前の事さえ見えない。

世界を広める一番効果的な方法は、数学や物理を極める事だ。何なら生物学でもいい。生物学を究めることによって人体の細部に入り込むこともできる。化学は身の回りの現象を理解し、さらに面白い物を誕生させることが出来るかもしれない。地学を究めることによってこの地球を根本的に理解できるかもしれない。科学を理解するとは、自分の世界を圧倒的に広める事なのである。

科学を理解する時に大事な事は、マクロとミクロの双方から理解することだ。経済学でマクロ経済とミクロ経済があるように、科学の世界にもマクロとミクロがある。数学はそれがさらに顕著で、無限大と無限小までも厳密に扱ってしまう。マクロとミクロの両方から複眼的に世界を見ることによって、世界の広さは何十倍にも何百倍にもなる。単眼的思考は最弱であり、複眼的思考は最強である。

科学に哲学を持ち込めば最高である。世間では科学と哲学は相いれないものだという認識が強い。確かに科学と哲学は違う。科学の理論の中に哲学論理を持ち込むのは間違っている。しかし、科学に対する思考の中に哲学的要素を持ち込むことはいくらでもできる。というより、哲学無き科学は常に貧弱である。もし科学を究めようと思えば、広く学問を究めなければならない。超複眼的思考によって、誰もがまだ到達していない科学の頂に立つことを目指すことは、非常にエキサイティングである。

真理を見抜く、本質を見抜く。

僕にとって物事の表面的な事はどうでもいい。いや、時には表面的な美しさにも魅かれることがあるが、それ以上にそれらの奥に潜んでいる本質を見抜くことが重要である。そして本質を見抜くためには、真理を理解しなければならない。

しかし、意外と真理を見抜いている人は少ない。固定観念や常識にとらわれ、真の思考を放棄してしまうのだ。本質の理解は深い思考抜きにはあり得ない。そして一点だけを見ても何も見えないことが多い。複眼的にその周りから受ける相互作用を考慮しなければならない。

ではなぜ真理を、本質を、見抜かなければならないのか?もしかしたら問題を解決するためと答えるかもしれない。しかしそれ以上に重要なのは問題を見つけることだ。もし自分自身で問題を見つけることが出来れば、その問題の解決の70%は出来ていると見て良い。“自分”で問題を見つけることが大事なのである。

21世紀初め、数学者のペレルマン博士によってポアンカレ予想という未解決問題が解かれた。もちろん解いたのはペレルマン博士であるが、その100年前にこの予想を提示したポアンカレはこの問題の本質の70%を掴んでいたと言って良い。だからこそ、ペレルマン博士が解いた後もこの問題はペレルマンの定理とはあまり言われず、“ポアンカレ”予想と言われているのである。

世の中には陳腐な事象が溢れ返っている。その中から少数の本質的なものを選び出さなければならない。しかし、歴史や権威に基づいた“本物”と言われるものに騙されてはいけない。歴史や権威に基づくものを思考停止的に本物だと崇める風潮が見られることに僕は危惧している。本質とは自分自身の頭で徹底的に思考して見出されるものなのである。

歴史学。

学校では歴史を「日本史」と「世界史」に分けて学ぶことになっている。もちろん便利上、日本史と世界史に分けることは大きなメリットがあるだろう。しかし、学校を卒業し大人になった後になっても日本史と世界史の区別にこだわることは賢明ではない。日本という国も地理的には世界の一部であり、日本史も世界史の一部である。なので日本史と世界史を区別するのではなく、日本と世界の歴史の相互作用を考えることが非常に重要になる。

「歴史は何のために学ぶのか?」と問われた時、「歴史から現在に生きる人間の進むべき道を考える。」と答えることが既定路線になっている。あるいは個人としても「自分がどう生きるかということに対するヒントを得る」という答えも定番だ。しかし、歴史そのものが面白くなければ誰も学ばないであろう。それは自然科学と同じである。物理を研究している物理学者は、物理が面白くて仕方がないのだ。数学も然りである。そして、それらが人類の知のレベルを表しているということも無視してはいけない。さらに当然のことながら、それらは人間の役に立つ。学問の効用を一元的に述べることはできない。

そして学んだあとに来るのが「考える」ということである。学問をただ受動的に学ぶだけではなく、自分自身で「論」を考えてみよう。歴史を学べば、そこから新しい論が出て来る。自分自身の説を作るのもいい。それが学界の主流になる訳ではないかもしれないが、自分で出した論、自分で導いてできた説は、人から学んだ百の勉強よりもはるかに価値がある。そのように身に付けたスキルは、あらゆる所、あらゆる分野で役に立つであろう。

学校で習うスタンダードな歴史を修得することはもちろん良いが、そこから自分自身で解釈して、自分なりの歴史観というものを創造することは非常に重要である。よく歴史は暗記科目だと言われるが、そのように言う人は歴史の心の一片も修得できていないのである。

序盤は構想力、中盤は実行力、終盤は勢いで押し込む!

最初に物事に取り組む時には、まず構想をしっかりと立てることが大事だ。特に大きなことに取り組む時には、時間的にも作業的にも長丁場になる。そのような事に対しては途中で何段階ものステージを経ねばならず、それぞれの段階で何を行うのか?そしてそれらをどう組み合わせるのか?という全体の骨格をしっかりと構成しないと、出来上がったものがちぐはぐになってしまう。序盤は構想力の勝負になる。

しっかりとした骨格を構成した後は、その骨格に従いつつ具体的な実行に移ることになる。頭の中だけで終わらせず、まず動く。それは体を使うということかもしれないし、ペンを持つ手を動かすということかもしれない。とにかく行動しない事には始まらない。「考えたら、すぐ実行!」、これは当たり前の事だが、意外とこれが出来ない人が多い。あれこれと妄想するだけで全く動かない人。他人にはいろいろと口出しするが、自分は全くかかわろうとしない人。これらはある意味、自分は安全地帯にいようと考える事から出て来る行動だと言える。しかしこれらの人は、重要な事に気づいていない。それは「安全地帯にいる=現状維持を目指す=没落へと進む」ということだ。現在の安全地帯もいずれは危険地帯に変わる可能性は大いにある。むしろ危険に飛び込む事こそ、後に安全を手に入れられることにつながることもある。人生において新たな事に挑戦しない者は、人生をやり切ってもう何もすることはないという人だけでいい。挑戦しない若者、あるいは何も成し遂げていないのに挑戦しようとしない人は、廃人同然だ。

物事を実行しある程度形が出来上がったら、後は押し込んで仕上げるのみだ。仕上げるのにも実行は不可欠だが、そこまでたどり着いたということはかなり勢いがついている。その勢いに任せて最後の一押しをしよう。その一押しをしないと完成のタイミングを失うことになる。どこで完成させようかと考えるのではなく、今完成させるのである。しっかりと構想をし、積極的に実行していけば、かなりのものが出来ているはずだ。そこまで行けば自信を持っていい。そしてそれを完成させれば、さらに自信が持てる。そしてその自信を次のステージへのスッテップアップの足場とすればいい。

「構想→実行→完成」の一連の流れを頭に入れておけば、途中で迷った時にもすぐにそこから抜け出せる。しかしそれが出来ていなければ、「思い付き→その場だけの取り組み→形にならない」ということの繰り返しになってしまう。起承転結ではないが、物事にはそれぞれのステージでそれぞれの仕事がある。そして人生とはその流れの繰り返しである。しかしその繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングなものである。もし人生を面白く感じられないのならば、この流れを掴んでいない可能性が高い。人生のルーティンをしっかりと確立し、自分の形を作ることが非常に大切である。

複数の分野でプロになるべきだ!

大谷翔平はなぜ「投手としても超一流」で、「打者としても超一流」なのか?それは二刀流だからであると僕は考えている。何当たり前の事を言っているんだと言われそうだが、こういうことである。「投手に専念すればもっと良くなる」とか、「打者に専念すればもっと良くなる」とあらゆる人が口をそろえて言っている。しかし僕は、打者と投手の双方をすることによって、その相乗効果によってさらにレベルが上がっているのではないかと考えている。だから一本に絞ればさらに良くなるとは限らないし、一ファンとしても“二刀流”の大谷翔平を見たいと強く感じる。

学問においてプロとは何か?多くの人は一つの分野を極めている人だと言うかもしれない。特に日本社会では「プロ=専門家」という見方をされることが多い。しかし僕は一つの分野の殻の中に留まるべきではないと思う。それならば、「専門以外で趣味として他の学問をすればいい」と思うかもしれないが、僕はそれも甘いと思っている。専門以外の事でも、プロあるいはプロに限りなく近いセミプロになるべきだと思っている。数理物理学者ならば数学と物理だけを極めればよいという訳ではなく、他の学問、例えば哲学、生物学、歴史学、経済学、文学、語学など、あらゆる分野に関しても極めるべきだと思う。「趣味」ではダメなのである。複数の分野を極めることによって視野が広がり、本業においてもより本質を見抜くことが出来るようになる。

目指すは、「何学」のプロではなく、「学問」のプロであるべきだ。確かに生物学を極めると言っても、実験が出来る訳ではない。なので専門外の人間にとっては制限がある。しかし論文を読んで深く思考するくらいのことはしなければならない。しかしこのようなことを実行に移すためには、底なしの興味と好奇心が必要だ。どこまでそのような心を持てるか?という挑戦でもある。

僕自身が以上に書いたようなことを実行できているかと言えば、現在は「否」である。現時点では専門の事に関しても自分の納得できるところまでは行っていない。しかしこれからこのような事をどんどん実行して行こうと考えている。そのためには時間の使い方が一番の問題となる。しかし僕は時間の使い方が極端に下手だ。なので時間の使い方はこれからの僕の大きな課題だ。しかしこれからの進むべき道の広さと豊かさには心が躍る気がする。

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。

数式は大好きだが、数字は嫌いだ!

数学とは字のごとく数字の性質を扱う学問だが、高校までの数学とは違って大学以降の数学では意外と数字自体を扱うことは少ない。もちろん数学である以上、主人公は数字なのだが、その構造や演算の性質を記述する時は数字自体よりも数式で表す方が見通しが良くなり、一般性も高くなる。

タイトルで「数字は嫌いだ」と述べたが、ここで勘違いをしないでほしい。正確に書くと、「規則性のない数字、意味のない数字」が大嫌いだということである。だから数学で出てくる数字が嫌いなわけではない。簿記などのように何の規則性も数学的意味もない数字が大嫌いなのである。実際、数学に出て来る数字は非常に面白い。数学に出て来る数字と数式を縦横無尽に扱い、その性質を暴露することは非常に快感である。しかし簿記に出て来るような数字を見るとめまいがする。

なぜ近代数学は具体的な数字を扱うことが減ったのか?それは数学が高度な抽象理論なったことが原因である。昔は二次方程式の具体的な解を求めることが目的であった。それが「解の公式」という形で一段抽象化され、「5次方程式の解の公式が存在しない」というガロア理論へと高度に抽象化される。もちろん高度に抽象化された理論は難解かもしれないが、非常に豊富な内容を包摂する。そのような実り豊かな数学の世界を垣間見た数学者は、その世界からは抜け出せなくなる。それはいわば「数学中毒」と言えるかもしれない。しかしそのような中毒なら思う存分かかってみたいと思う。

世の中では抽象理論を敵視する風潮がある。抽象理論なんて何の役にも立たず、具体的な事象を示すことが大事だと。確かに社会で生きるためには具体性が最も重要なのかもしれない。しかし社会を高い視点で取りまとめる立場になるほど、抽象理論が威力を発揮する。商売をするには具体的な商品の値段が重要だが、経済政策を取りまとめる政府にとっては抽象理論が軸となる。数学も、身の回りで必要になる計算は具体的な数字の世界であるが、数学の世界の本質をより掘り下げるためには高度に抽象化した理論が必要になる。

物事をどれだけ抽象的に捉えることが出来るかということは、言い換えればその人の思考レベルを表していると言える。もし自分の生きる上でのホームグラウンド、あるいはテリトリーがはっきりしているのならば、そこでどれだけ思考や技術を抽象化できるかということに取り組むことは意味のある事である。さらに、もし自分がその世界のプロであるならば、抽象化の作業は欠かせない。抽象化の度合いはその人のステージなのである。

一般理論と特殊理論。

数学や物理理論は大きく一般理論と特殊理論に分けられる。もちろんその中間的な性質のものもあり、そう厳密に分けられる訳ではないが、大まかにはこのように分けられるであろう。一般理論には一般理論の面白さがあり、特殊理論には特殊理論の面白さがあるので、どちらが面白いかと一概に言える事ではないが、僕はどちらかというと一般理論の方が好きだ。

数学における特殊理論の代表は、特殊関数と言われる部類のものだろう。特殊関数とはある特殊な性質を持つ関数の事だが、僕は以前特殊関数にはほとんど興味がなかった。しかし最近ある事に気づいた。特殊理論と言われるものでも、それをどんどん掘り下げて追究して行くと一般理論にたどり着くのだ。特殊理論とは一般理論という大陸から離れた小島という捉えられ方をされることが多いが、その深い所ではその小島と一般理論大陸は強くつながっているのである。そこに特殊理論の醍醐味がある。最近はパンルヴェ方程式と言われる特殊な方程式が、百年近く経った今になって一般理論と結びつきそうだという研究結果もあるみたいだ。

ところで、“特殊”相対性理論はその名に反して最も“一般的”な物理理論と言える。“一般”相対性理論はそれに比べると少し特殊だ。物理理論においても、特殊な理論をさらに掘り下げると一般理論へと昇華することが多い。しかし数学と比べると、物理理論は一般理論とは言え特殊性が強いように感じる。最近では物理理論をきっかけに新しい数学理論が出来たり、その逆の事が起こったりということが日常茶飯事である。物理の枠組み、あるいは数学の枠組みということにこだわっていれば、数学と物理の間にまたがる本質的な仕事は出来ない時代なのだろうと強く感じる。

ここまで物理と数学における一般理論と特殊理論に関して述べたが、そのような構造は様々な所で見られる。経済でも「マクロ経済」と言われる一般理論のようなものから「ミクロ経済」と言われる特殊理論のようなものがある。ネットビジネスにおいても「プラットフォーマー」という一般的な部類から、プラットフォーマーが作った枠組みの中でどうビジネスを行うかという特殊な部類がある。そのような例を見ても、一般的な部類の方がその適用範囲の広さからより規模の大きい仕事が出来るようである。しかしプラットフォーマーのような一般的な仕事も、元を正せば非常に特殊な仕事から発展していることに気付く。なので一般的な部類で仕事をするにしても、特殊な仕事は無視できない。いかにして一般と特殊の間を行き来してその間の本質的なつながりを見抜くか?そのような本質を見抜いた時、仕事のスケールが飛躍的に大きくなることであろう。

人と違う道を進むのなら。

物事に対して何かの決断をする時、前例やデータを吟味して、マニュアルに則って進めるのが筋なのかもしれない。しかしそのようにするには、前例があり、データがあり、マニュアルがある事が前提となる。そしてそれらに則って行うということは、二番煎じ、三番煎じであるということである。しかし全く新しい所に全く新しい事を構築する時、多くの場合、前例もデータもマニュアルも存在しない。そこで頼るべきは自分の思考力のみである。人と違う道を進むのなら、徹底的に思考しなければならない。

人と違う道を進むということは、孤独である。しかし孤独というものは悪いものではない。孤独を愛せる者が自分独自の道を歩める。何やら社会では孤独ということが大問題になっている。僕には孤独の何が問題なのか全く理解できないが、これほど孤独が問題になるということは、孤独を愛せない人が大多数であるということなのかもしれない。孤独を愛し自分一人で道なき道を進めることは大きな強みである。大多数の人は無難な道を取ろうとする。それは孤独を愛せない事の裏返しである。孤独は悪い事であるどころか、むしろ自分を飛躍させる大チャンスである。多人数で戯れている限り、ブレークスルーは生まれない。

近年、「炎上」が度々話題になる。その内容は様々で、炎上するのももっともだと思える事から、なぜ炎上するのかわからない事もある。僕自身は炎上するのは全然かまわないと思っている。もし自分の信念に基づいて出た行動なら、何も炎上したからと言って謝る必要はない。僕が一番許せないのは、軽い考えを出して炎上して、すぐに謝罪することである。炎上内容以上に、すぐに謝罪するという軽さが許せない。そのような人はその程度の軽い人間なのであろう。自分の信念に基づいて人と違う道を進んでいる人にとって、むしろ二度や三度の炎上は受けるべきである。そのような炎上はむしろ誇りであると僕は思う。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われる。海外の事を詳しく知っている訳ではないが、それでも日本の「人と違う行動をする人を叩く」という風潮は異常に感じる。そのような中で独創性が生まれるわけがない。しかし実際は少ないながらも独創性を発揮する日本人がいる。そのような人間になるためには、相当自分の信念に自信を持ち、荒波の中にでも飛び込めるような人でなければならない。しかし、無難に過ごしながら最大の対価を得るためにはどうすればよいか?と多くの人は考える。一言で言えば「ノーリスク、ハイリターン」を求めていると言える。それが多くの日本人の現状である。

地球船宇宙号?

「宇宙船地球号」とは非常に的を得た命名である。その名前の中には、宇宙と比べた時の人間の存在の小ささが表現されている。しかし現在、情報社会が飛躍的に発達し、コンピューターは極度に高度化し、科学技術の発展も留まるところがない。そしてそれと同時に科学理論も常識では考えられないような展開を見せている。そのような現状の中、宇宙というものをどう捉えるかと考えた時、もしかしたら「地球船宇宙号」なんてこともあり得るのではないかとふと考えてしまう。

もちろん「地球船宇宙号」などというのは、考える僕のおごりかもしれない。いや、そうであってほしいと思う。人間はまだ月までしか到達していないし、あと数十年経っても太陽系の外には出ることはないかもしれない。しかし人間の知識は過去から未来まで宇宙全体を飲み込もうとしている。少なくとも物理理論はそのような領域に達している。宇宙の誕生の原理さえも解明しようと必死になっている。ただこれらの理論は検証することが非常に難しく、正しいかどうかを判定できないところがもどかしい気がする。

一昔前まで、人間が自然(地球)を支配するという思想があった。現在は人間も自然の一部であるという思想が強くなったが、技術的にはかなりコントロールすることが出来る。特に負の支配、つまり環境破壊に関しては、人間の行動を意識的にセーブしなければ一瞬にして地球を破壊できるレベルまで来ている。しかしその逆、つまり破壊したものを作り直すことは非常に難しい事業であり、お金も時間も膨大にかかる。そういう意味では人間が自然(地球)を支配するというのは幻想かもしれない。

しかし人間の知は無限であるような気がする。それは何も人間の知によって全てのことが出来るという意味ではなく、自然法則をエンドレスに理解できるということである。宇宙から素粒子まで、人間の知のスケールは果てしなく大きい。とは言え、まだまだ道半ばと言える。そのような人間の自然科学の知は、科学“技術”へと応用される。そこが面白い所であり、恐い所でもある。

科学技術というものは必ずしも豊かさだけをもたらすわけではなく、負の側面もある。特に現代技術ではそれが顕著だ。最近ではゲノム編集された子供が生まれたということが話題になった。一人の科学者だけなら完全に倫理観を守ることはできるが、科学者が何万といる中ではその中の何人かが倫理観に反した行動を取るともわからない。さらに科学技術者自身は社会の発展のためと思ってしていることでも、それが破滅を招くことも十分にあり得る。科学の発展は進化か?暴走か?それが実際に行ってみないとわからないところが科学技術展望の難しい所である。

背水の陣。

背水の陣とはある意味最後の手段と言えるが、背水の陣だからこその強みは無視できない。確かに後方に陣地がないために手段が限られてくる。現代社会ではいろいろな所で様々なメニューが用意され、市民は色々な選択肢の中から自分の好きな物を選ぶことが出来る。しかしそれが故に迷いが生じ、決断力が欠如してしまう。意外と選択肢が限られている方が目標をはっきりとすることが出来、迷いなくそれに集中することが出来る。背水の陣も同じで、進むべき道は正面しかなく選択肢が限られているために、強力に目標へと推し進めることが出来る。

背水の陣が意味することは、「失敗すると死ぬ」ということだ。実際に日常生活でそこまで追い込まれることはめったにないが、人生を懸けていることに取り組む時にはそのような状況もありえる。むしろ真剣に人生に向き合っている人ほど、そのような状況に遭遇するのかもしれない。なぜならそこには強い覚悟があるからである。覚悟がないということは、背水の陣で臨むということもないということだ。

人間というものは堕落しようと思えばエンドレスに堕落することが出来る。そこには意志も覚悟もない。しかし意志を持ち覚悟を持って生きている人間は、人生常に勝負である。堕落することは一瞬でも、上がることは容易ではない。一段上がるにも時間がかかる。将棋の藤井聡太氏の段はどんどん上がっていくが、それはおそらく普段の精力的な研究の賜物であろう。周りから見ていると簡単に上がっていくように錯覚してしまうが、実際はとんでもなく困難な道を進んでいるのだと思う。

初めは皆、「一歩進んで二歩下がる」というところから始まる。そこから「一歩進んで一歩下がる」、そして「二歩進んで一歩下がる」と少しずつ前進して行くのである。そして排水の陣では下がることはできない。つまり背水の陣ではどうあがいても「前に進む」か「死」という選択肢しかないのだ。確かに危険な橋を渡るようなものだが、そのような選択肢を選ぶ意志と覚悟を持って生きて行きたいと強く思っている。

構造が見えてくると面白い!

「神は細部に宿る」とはよく言うが、物事の本質というものは全体の構造を理解して初めて見えてくることが多い。そして本当の面白さは、そのような構造にこそあると僕は感じている。

とは言え、初見で全体の構造が理解できるほど簡単ではない。初めは細部の計算を行い少しずつその範囲を広めて行く。そしてそこに宿る様々な神を理解して行くうちに徐々に本質が見えてくる。これらの事は数学でも同じだ。代数構造、幾何構造、解析構造が見えてくると飛躍的に面白くなる。

世の中にも社会構造というものが存在する。そしてそのような社会構造の中に経済構造、集団構造、文化構造など様々な構造が混在している。この様に複雑に入り組んでいるからこそ社会構造は瞬時には理解できない。経済構造だけをとってもいまだに理解されていない機構は存在しており、だからこそ経済学は常に進化し続け新しい機構の発見が日々行われている。

「細部に宿る神」と「構造に宿る本質」を行き来しながら奥へと進んで行く。人間の思考の「深化」というものはそのようにして掘り下げられるものである。そして人間の思考の深さには限度がない。常に進み続ければ無限に深化して行くことが出来る。人間は深化によって進化して行くのである。深くて広いフィールドの一点からどのように全体を覆うか?そのための手法は一つではなく、それぞれの人間の思考と個性によって編み出された様々な手法によって無限の広がりを見せてくれる。人間の大きさは小さくとも、脳の中で繰り広げられる思考の広さと深さは無限大だ!

思考のベースを上げる。

自分の思考のベースをどこに置くかによって、その後の自分の人間としてのレベルが変わる。もし目標を低い所に置くのならばベース自体が低くても問題はないが、もし高い所に目標を置くのならばベースを高く設定しなければならない。しかしもちろんベースを高く設定するのならばそのレベルを維持するために多大な努力をしなければならないし、徹底的に思考し抜かなければならない。もし楽をしたいのならば、思考のベースも低く設定するしかない。

思考のベースをどこに置くかということは、最も人間性が現れるところである。自分の生き方、意識、行動の全てがベースの設定に反映される。どこにベースを置いているかということは見る人が見れば瞬時にわかるし、そのためその人に対する評価へと直結する。

ベースをどこに置くかということは、「下の上」を目指すか、「上の下」からスタートするかということでもある。「下の上」を目指せばその上はもうない。しかし「上の下」に居れば、上はさらに広がっている。「上の下」に居れば「上の上」つまり頂点も狙える。「下の上」に居れば、そのクラスの人からは羨望の眼差しで見られるかもしれないが、はっきり言ってそんな羨望の眼差しなどはどうでもいい。周りの眼ではなく、自分のレベルを上げることに注力すべきである。

上には上があるし、下には下がある。はっきり言って下はエンドレスであるが、上には世界一という上限がある。従って究極的にはそこを目指すべきであり、そこにいない限り常に上を目指して前に進むべきである。その地位に満足してよいのは、大坂なおみや紀平梨花といった世界一の人のみである。しかしこのような人も、油断をすればすぐに落ちて行く。しかし大坂なおみや紀平梨花はおそらく素晴らしい人間だと思うので、世界一になればその「世界一」というところにベースを置いて前に進んで行くであろう。そうなれば彼女らの世界一という地位はより盤石になる。

世界一でない限り、上には上がいる。そのような状況においては決して現在の自分の地位に満足すべきではない。自分のレベルが上がればベースをさらに高い所に設定し直して登らなければならない。楽をしてベースを下に設定してしまえば、後は没落するのみである。思考のベースの位置は、自分の人間性そのものである。

努力と心身のケア。

プロスポーツ選手はただ努力するだけではなく、心身のケアにも最大限の注意を払っている。心身は全ての行動の基礎になるものなので、心身に注意を払うことはスポーツ選手だけではなく皆が行うべきことである。

心身の「身」とは「身体」だけを思い浮かべるかもしれないが、「心」をつかさどる「脳」も身体の一部であるので、心と身は別物ではなく一体のものだと考えるべきである。心と身は常に連動しているのである。

学問は頭で考えるものだから身体のケアは必要ないとは決して考えてはならず、体を動かす仕事をしているから心のケアは必要ないとは決して考えてはならない。心と身の両方を高いコンディションで保ってこそ、取り組んでいる事柄で最高のパフォーマンスを発揮することができるのである。

大きな成果を出すためには、努力は必須である。しかしそれと同時に心身のコンディションにも注意を払うと、相乗効果で三倍にも四倍にも大きな成果を挙げることが出来る。もちろん心身の調子には好不調の波がある。好調な時には物事にも前向きに向き合えどんどん前に進めることが出来る。しかし不調な時にはどうしても後ろ向きになりがちであり、調子が良くないから今日はやめとこうとなってしまう。確かに不調な時には物事が全く進められないこともある。しかし例え物事が進まなくても、前向きに取り組み、悪いながらも少しでも前に進めるべきである。そのような時に大事なのは「どれだけ進んだか?」ではなく「どれだけ取り組んだか?」ということである。このような姿勢を持続すればこそ、好調な時に一気に前へと進めることが出来るのである。

四大陸選手権優勝!紀平梨花選手の体力と精神力に学ぶ。

2月8日(日本時間9日)に行われたフィギュアスケート・四大陸選手権で、紀平梨花選手が優勝した。ショートでは5位と出遅れたが、フリーで圧倒的な差をつけての勝利だ。僕は紀平選手のフリースケーティングのプログラム「Beautiful Storm」が大好きだ。曲も衣装も、もちろん紀平選手の演技も全てが美しく哲学的だ。なぜこのような素晴らしい演技が出来るのか?本人に聞くまでもなく、体力と精神力の全てが極められているからだろう。僕は全てのプロスポーツ選手をリスペクトしている。プロスポーツとは「極限への挑戦」だ。極限を極められない選手はプロの世界から去らねばならない。体力と精神力を極限状態に保ち続けられる者のみがプロの世界で生き延びられる。このようなプロスポーツ選手から我々が学び取ることが出来ることはたくさんある。

紀平選手から学び取れることの一つ目は、挽回力だ。今シーズンのほとんどの試合で、紀平選手はショートプログラムでミスをし出遅れている。しかしほぼすべての試合でそれを圧倒的なフリースケーティングで逆転している。ショートでミスをして出遅れればそれを引きずりそうな気もするが、紀平選手はショートのミスを逆に修正のチャンスと捉え、それを基にフリーでは最高以上の演技をしている。紀平選手にとってミスはネガティブな事ではなく、次へのステップの足場としてポジティブに捉えている。これは全ての人が学ぶべきことだ。失敗は決してネガティブな事ではない。むしろチャンスなのである。

二つ目は、安定力とトータルでの力だ。これまでショートでミスをしがちだとは言え、ショート、フリーでの合計ではほぼすべて勝利している。この安定感は圧倒的である。人間は誰しも調子の良い時と悪い時がある。しかしその好不調の波をいかに高いレベルで安定させるかということが非常に重要である。高いレベルでの安定感こそが紀平選手の実力だと言える。

三つ目は、圧倒的に高い精神力だ。今回、紀平選手は試合前に怪我をした。指の脱臼だそうだ。そのようなアクシデントの中でも紀平選手は圧倒的な力を発揮することが出来た。もちろん直接的な影響が少ない指のけがとは言え、精神的な影響は非常に大きいと思われる。普通ならけがをきっかけに負のスパイラルに陥るところだろうが、紀平選手からはそのような事は微塵も感じられなかった。おそらく精神面を完全にコントロールすることが出来ているのだろう。この様に、自分の精神を完全に自分の支配下に置けるかということは、最高のパフォーマンスを発揮するうえで非常に重要である。

紀平選手からは学び取れることが山ほどある。スポーツは科学技術などのように直接的に人間の生活に影響を与えるという訳ではないが、人間の心には多大な影響を与えることが出来る。それらの影響から人間の生き方が変わることもある。プロスポーツ選手の演技・プレーから何かを感じ取って、それを自分の生き方の向上につなげることが出来れば、自分を人間的に高い所へと持ち上げることが出来るであろう。

他人を信じるか?自分を信じ抜くか?

自分を信じ抜くということが出来ていない人が意外と多い。日本では他人の意見を尊重することが大事だと教えられ、それが人徳だとも言われている。そのこと自体は決して間違ってはいない。物事は多様であり、それらの多様性を大事にするためにも人の考えは尊重しなければならない。しかし尊重すべきは他人の「思考」の結果出てきた意見であって、既定路線をダダ流しするだけの言葉や固定観念から出てくる意見、そして自己保身のための言葉を認める事ではない。特にどこからか仕入れてきた情報を口からスピーカーのように流すだけの言葉なんてどうでもいい。

しかし、他人を信じることは大事だ。なぜなら人間にはどうしても自分だけでは出来ないことがあるからだ。自分が出来ないことは他人を信じるしかない。それに他人を疑ってばかりでは人間の器が小さくなるばかりだ。時には他人に行方を丸投げするくらいの心構えも必要だ。それは部下を信じ自分は責任だけを負う将校にも似ている。

しかし、自分で考えられることは出来る限り自分の思考で導き出すことが筋だ。特に自分の進むべき道は、自分で考え抜いて導き出さなければならない。他人の意見に従い、それで失敗して他人に責任を押し付けるなどということは論外である。自分で結論を出し、全ての責任は自分で負う。そのような行動の繰り返しによって人間は成長するのだと思う。逆に言えば、それが出来ない人は退化して行くということだ。

「自分を信じ抜く」ということは、「自分で全ての責任を負う」ということだ。つまり、自分で思考できない人間は、自分で責任を負うという決断さえもできないのである。安易に他人を信じるということは、自分の自我の放棄である。そして自分の人間性さえも無にしてしまう。自分が人間である限り、自分で思考し、自分で決断し、自分を信じ抜くべきである。極論を言えば、それが出来なければ人間でないということだ。そういう意味で人間である人がどれだけいるか?もしかしたら意外に少ないのかもしれない。

面白い事、発見!

最近、面白い理論を知った。数学の代数的な理論であるが、知ったというより「気付いた」と言った方が正確かもしれない。昔からその理論の存在は知っていたが、最近必要に迫られてその理論の専門書を読むと、びっくりするくらい面白い理論であることに気が付いた。以前の僕は代数学は専門外であると全く手を付けることはなかったが、いざ手を付けてみるとこれが非常に面白い!物事というものは、必要に迫られて取り組む方がより面白く感じられ、意外な発見をするものかもしれない。

僕は計算よりも構造に興味がある。その理論も計算理論というよりも構造理論だ。しかもその構造の理解の仕方が面白い。計算半分、図を半分という具合に、視覚的に構造を訴えてくる。そして理論の適用範囲が非常に広い。代数学の理論ではあるが、解析学、幾何学、そして数理物理学にも縦横無尽に利用されている。良い理論というものは、無限の適用範囲があるのかもしれない。

物事に取り組む時、壁を作るのは好ましくない。専門ではないからと言って初めから手を付けないのは、あらゆる意味で不生産的だ。必要なものは何でも取り組んで行く、そのような姿勢で取り組むことが大きな成果へとつながるのだと思う。専門にこだわり続けば永遠に蛸壺の中で過ごすことになってしまう。

僕は基本的には分野の区別というものをしない。数学と物理学という区別も意識しないし、最近は全く専門外と言えるかもしれない生物学の論文も読んだりしている。分野の壁とは人間が便利上の理由で人工的に作ったに過ぎない。そもそも自然に物理学と化学の境目なんて存在しない。化学と生物学も同じだ。分野の壁にこだわるのは非常にバカバカしいことである。

数理的自然と自然科学は全てが一体化して構成されている。数学の理解なしに物理学の理解はありえないし、物理学の理解なしに化学や生物学の理解はありえない。数理と自然科学を一体として理解する姿勢がなければ、科学の本質は永遠に理解できないだろう。

どのように稼ぐか?お金の価値に対する考察。

お金の価値とは何だろう?その一番単純な答えは、お金の額面である。一万円なら一万円の価値があるし、一億円なら一億円だ。しかし多くの人が気付いているように、人それぞれお金に対する感覚は違う。百万円を持っていても、それをすごく価値があると捉える人もいれば、はした金だと見下す人もいる。そもそもお金の価値というものは、誰が持つかによっても変わるし、どのように稼いだかによっても変わる。ここでは少しお金の価値というものについて考えよう。

「悪銭身に付かず」とは昔からある言葉だが、この言葉ほどお金の価値に対する本質を突いたものはない。悪銭、つまりどのような手段でお金を手に入れたかということによってお金の価値は大きく変わる。そもそも悪銭というものは額面に比べて全く価値がないということを言っているのである。価値がないからすぐになくなってしまう。悪銭の百万円は実はたった百円だったということなのである。

逆に自分の思想を人生において実行し、才能と努力によって手に入れたお金は莫大な価値がある。こちらの百万円は実は百億円なのである。だから簡単にはなくならない。そしてこのようなお金には、お金以外の価値も多くもたらしてくれる。例えば良質な人間関係とか、あるいは自信などの精神的な余裕とか。もしかしたらお金以外の価値の方が大きいかもしれない。

このような事から、僕はどのようにお金を稼ぐかという「手段」に徹底的にこだわる。実際に百億円のお金を稼ぐことは非常に難しいかもしれないが、百億円の「価値」を手に入れることは不可能ではない。重要なのはお金の額面ではなく価値なのである。世の中には「手段を選ばず」という考えが蔓延しているが、「お金をどのように稼ぐか?」という手段を選ぶことによって稼ぐことが出来る「価値」は大きく飛躍できると僕は考えている。

未来は今の自分の中にある。

自分は未来に希望を持っているだろうか?未来に希望があるかないかは、今の自分の意識によって決まる。未来に希望を見出せる人は、今の自分の中に熱烈な希望がある人だ。今の自分の中に希望がない人は、未来に希望が持てない。それは例え莫大なお金があろうが、今の生活に不自由をしていなかろうが、皆同じである。

希望は持とうと思って簡単に持てるものではない。希望を持つためにはまずは自分が能動的にならなければならない。そして挑戦をすることが必要だ。常に現状維持をすることばかり考えていては、いくらお金があっても未来に希望は持てない。そして現状維持を目指す先には、ほぼ必ず衰退が待っている。

人生は楽しむ事が大切だ。それと同時に苦しむことも非常に重要である。悲しみがあるから喜びをかみしめることが出来るのであって、悲しみがなければ喜びのありがたみがわからない。それと同様に、苦しみがあるから楽しさをかみしめることが出来るのである。すなわち、様々な事を体験しなければならないということである。そのように山あり谷ありの人生を歩んでいると様々な刺激を受け、そのような刺激の中に未来へのヒントが隠されているのである。そして刺激の多くは挑戦から生まれる。やはりいつになっても挑戦は重要である。

今は本当に苦しくても、未来を描ける人間は常に希望でいっぱいである。そしてそれは何も若者だけの特権ではない。いくつになっても希望は抱ける。もう若くはないからとか言っているのは単なる言い訳でしかない。若くないから希望を抱けないのではなく、挑戦しないから希望がないのである。希望に満ちた未来を創れるかどうかは今の自分にかかっている。未来に希望を抱くためには、今挑戦し続けるしかないのだ。

より深いレベルで!

理論には深さがある。表面的な所から土台となる部分まで、深度によってそれぞれが階層をなしている。最近の技術で言うと、プログラミング言語が典型的な例かもしれない。表面的なプログラミング言語からアセンブリ言語まで、それぞれがそれぞれの階層で役割を果たし、コンピューターをプログラムしている。

数学にも階層が存在する。どのように階層分けするかはそれぞれの数学者によって違ってくるが、おそらく一番深い所にあるのが数理論理学であろう。しかし数理論理学は数学というよりむしろ論理学の範疇にあると言え、一般の数学者にとっては近寄りがたい存在である。

余談であるが、数理論理学の定理であるゲーデルの不完全性定理は何とも不思議で壮大な定理である。不完全性定理は、今風に言えば「数学にはバグがある」とでも言うべきであろうか。数学は完全無欠な体系であると信じられていたのが、数学は不完全であるというのである。不完全性定理のゲーデルの論文の日本語訳は岩波文庫でも出ているが、通常の数学ではなく論理学的な流儀で書かれており、理解するのは簡単ではない。

ゲーデルの不完全性定理が数学の一番深い階層にある理論だとすると、一番表面的な所にあるのは応用数学ということになるであろうか。とは言え、応用数学という言葉を持ち出すのは適当ではないかもしれない。なぜなら応用数学とは理論名ではなく、さらにあまりにも言葉の適用範囲が広く的確に指定できない。

深い階層であればあるほど抽象的であり奥が深い。深い階層の数学には憧れもあるが、手ごわい相手でもある。20世紀の偉大な数学者であるジョン・フォン・ノイマンは、若い頃は基礎的な分野、つまり深い階層で研究しており、晩年はコンピューターのような表面的な階層に移って行ったようである。逆に表面的な階層から深い階層へと移る人もいる。深い階層と表面的な階層のどちらが偉いかという問題ではないが、どちらのテリトリーで研究するにしろ深い階層の存在を意識することは非常に重要であると思う。

二つの方法。

問題を解決するには二つの方法がある。一つは制限を付けて特殊化する方法。もう一つは制限を外して行き一般化する方法。どちらが良いかは臨機応変に考えなければならないが、僕自身は一般化して行く傾向がある。

制限を付けて特殊化して行くことのメリットは何か?それは問題を視覚化できやすくし、何を計算すればよいか見通しが良くなることである。しかしその一方、細分化されすぎて適用範囲が極度に狭まってしまう可能性が高い。

では、制限を外して一般化するメリットは何か?それは一般化されるが故に抽象的になり、適用範囲が圧倒的に広くなる可能性が高くなることである。しかし一歩間違えると自明な結果しか得られず、何の意味もなさなくなる可能性がある。

確実に結果を出そうと思えば、制限を付け特殊化して行くことが非常に有効である。しかしその結果自体はちっぽけなものになるであろう。一般化して行けば問題が壮大になり、あらゆる知識が必要になる。従って問題を解決するための準備が膨大な量にのぼり、準備だけで息切れしてしまう可能性がある。しかしもし結果が出れば非常に大きな成果になるであろう。

フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)受賞者の広中平祐が学界で問題提起した時、多くの数学者は制限を付けて特殊化して部分的に解決すべきだと言ったらしい。しかしこれまた偉大な数学者の岡潔は、むしろ制限を外して一般化して問題を解決すべきだと言ったという。その結果、広中平祐は一般化して問題を解決することに成功し、フィールズ賞を受賞したという。

問題を解決するに当たり、特殊化するか?一般化するか?これは取り組む問題にもよるが、それ以上にその人の思想が顕著に表れるところだと思う。しかしもし抽象化することに長けているのならば、一般化して問題を大きく捉えるべきだと僕は強く感じる。

自分の師匠は自分、自分の弟子は自分。

「自分の師匠は自分」とはどういうことか?それは自分の行動、自分の思考は、できるだけ自分の中で見つけ出すということだ。世の中では周りに見習い、周りの人の助言を重視しなければならないとよく言われている。もちろんそれ自体は間違ってはいない。しかし過度に周りの人の力に頼りすぎると、自分の思考力、自分の行動力が衰える一方だ。そしてさらに自分の個性というものが消滅して行く。もし同じものが出来上がるのならば、他力に頼って作った物よりも自力で作った物の方が圧倒的に価値が高い。仮にそれらの価値が社会的に同じだとしても、他力に頼って作る場合よりも自力で作った方がそれ以降の発展の余地ははるかに大きい。「自分の師匠は自分」とは「自力本願」だということだ。

「自分の弟子は自分」とはどういうことか?それは自分の作った物、自分の思考によって導いたものを、自分の中で受け継いでいくということだ。自分の事を世界で一番理解しているのは紛れもなく自分だ。だから自分の思考を一番上手く受け継ぐことが出来るのは自分であるはずだ。もちろん年老いて後がないという状況ならば、自分以外に後継者を探さなければならない。社長ならばある時期からは次期社長を育てなければならない。しかし一個人として物事に取り組み深い思考を重ねる中では、とことん自分にこだわった方が良い。そして自分の力が及ばない範囲の事は、他人が上手く解釈し新しい方向性を見出してくれるであろう。結局、「自分の弟子は自分」とは、これもやはり「自力本願」だということだ。

現代社会においては、周りに頼る物が多すぎるように感じる。わからないことがあればネット検索し、特に日本では「力を合わせて」と過度に協調性を重視する。もちろん自分一人で出来ないことは力を合わせればいいが、一人でできる事まで集団でしようとする。そのような状況では自主性が育つはずがない。そのような所は日本社会の大きな課題であるように思う。

日本においては組織に属していることが重視される。人と会うとまず初めにどこの組織に属しているかということを聞くことが習慣になっている。もちろん組織に属している事自体は何も悪くない。問題なのは。組織に属していないと何もできない人間になってしまうことだ。もちろん、組織に属していることで力を発揮する人も多くいる。しかし組織にこだわるが故に自己思考という概念が破たんしてはいないだろうか?組織に属していようがいまいが、自主性を持ち自己思考が出来る人間でなければならないのではと僕は強く感じる。

計算と論理構造。

論理構造を理解するためには計算が必要だが、逆に計算をすれば論理構造が理解できる訳ではない。細部を確認するには計算が非常に有効だが、論理構造を理解するためには大局的に見渡すことが必要であり、大局的構造の確認と細部の積み重ねの確認の双方を融合させることによって論理構造が理解できる。

数学や科学、そして社会においてよく見られるのが、極度の計算依存によって計算万能主義に陥ることだ。なぜ計算を行うのかという目的を考えた時、計算によって数値を出すこと以上に、計算の結果次の計算をどうすればよいかという進路を見つけ出すという意味合いが非常に重要だ。計算によって出した数値自体は数値以上のものではなく、その数値をどう解釈し次につなげるかということが重要なのである。

視野が狭いと、どうしても目の前の計算の沼地にはまってしまう。計算は集合をなし、構造を成している。その計算のなす構造を理解することが論理構造を理解するということなのである。家の建築設計をする時に、トイレだけを入念に設計しても全く成り立たない。一つの部屋だけを設計しても成り立たない。リビング、和室、トイレ、風呂を全て一つの設計の中に組み込んで“家”というものが成り立つのである。

家を建てようと思っている人がトイレ設計のスペシャリストになっても何もできない。もちろんスペシャリストにはスペシャリストの居場所があり意味があるのだろうが、全体を見渡して設計できるジェネラリストにならなければならない。しかしそのジェネラリストは家全体を見渡せるスペシャリストだとも言える。

世の中には細分化された仕切りの中のスペシャリストが多すぎる。しかし本当に重要なのは、全体の論理構造を理解できるジェネラリスト的なスペシャリストなのである。ミクロな計算だけではなく、マクロな計算ができるジェネラリスト的スペシャリストになり、全ての論理構造を見渡せる大局的な眼を持つことが必要である。

過去を捨てきれるか!

多かれ少なかれ、どうしても過去というものを引きずってしまう。僕自身も過去を引きずることはそこそこあり、過去の事で悩むこともたまにある。過去を大切にするのも一つの生き方ではあるが、過去をさっぱりと切り捨てるということも非常に重要ではないかと感じる。

前を見て未来に向かうためには、過去の出会いや行動を基に物事を構築することが必要になる。しかしそれらの過去にとらわれ比重が大きくなりすぎると、行動の全てが保守的になってしまう。挑戦とはある意味過去との決別だと言えるのかもしれない。

過去の事にこだわるよりも、未来の事に集中する方がはるかに構築的であり意義があると感じてはいるが、どうしても100%過去を切り捨てることが出来ない。過去を切り捨てることは僕の最重要課題なのかもしれない。過去を切り捨てるためには、ある程度情を切らなければならないが、情を全て捨てる必要はない。大切な情は常に握りしめていなければならないからだ。しかし不要な情は綺麗さっぱりと捨て去る方が良い。そしてこれからの新しい自分の構築と、新し出会いを作っていかなければならない。

過去を捨て切ることによって、強固な自分に成り切れると常々感じている。過去の自分よりも未来の自分、そして過去の出会いよりも未来の出会いを大切に作っていかなければならない。過去に生きる人間ではなく、未来に生きる人間に成り切るために過去を切り捨てる。そのような生き方をしていきたいが、簡単ではなさそうだ。