月別アーカイブ: 1月 2019

リスクを最大限に取る。

「リスクを最小化する」ということはよく聞く話であり、ほとんどの人が一番力を入れているところであろうが、僕は「リスクを最大限に取る」ということは人生戦略として非常に重要な事ではないかと考えている。もちろん全ての事においてリスクを大きく取る必要はない。しかし人生を懸けていることに対してリスクを最大限に取ることは、人生に大きな意義をもたらしてくれる。間違っても、お金の賭け事などのリスクを取るなどという非常にくだらないことを言っているのではない。

「リスクを最大限に取る」と一言で言ったが、実はこれは簡単にできる事ではない。リスクを最大限に取るためには緻密な計算も必要だし、物事の全体像と人生の全体像を見通すことが出来なければ実行できない。リスクを最小限にすることは目的も意味も非常に分かりやすく簡単に納得させることが出来るが、それに逆行することのように見えるリスクの最大化は多くの人には理解不能に見えるであろう。従ってこの事の意味は結果を出して納得させるしかない。

周りから見ていると一見バカな事に見えることがたくさんある。もちろんその中には本当にバカなことも多いが、一部には緻密に計算された上で覚悟を決めてリスクに飛び込んでいる人もいる。もちろんそれに失敗すれば周りからはバカだったと言われるところだが、そのようにリスクを最大限に取っている人生の挑戦者をバカ呼ばわりする安易な世間の風潮は、あまりにも軽率で愚かに感じる。

いかにしてリスクを最大限に取るか?その結論にたどり着くまでには多くの悩みを経て、さらに強い覚悟が必要である。そしてそのような精神的な事だけではなく、完璧に近い設計や計算も必要だ。しかし多くの事に対してはそれでも100%ではない。しかし物事には100%ということはない。完璧な学問と思われている科学実験においても100%ということはほとんどありえないのである。しかし100%でないから意味はないのかと言うと、それは全く違う。100%ではないから“リスク”と言う言葉があるのである。

リスクを少なくすることばかりを考えるのではなく、自分はどこまで大きなリスクを取れるのかという計算を行い挑戦することも非常に意義ある事であり、自分に人間としての大きな飛躍をもたらしてくれることであろう。

大本営(公式)情報と非公式情報とをどう解釈するか?

政府や官庁から発表される公式発表や企業などが発表する公式情報、つまり大本営情報と非公式情報をどう解釈し向き合うか?これは意外と難しい微妙な問題である。大本営情報だけに言及して行けば、全ての責任から逃れられるだろう。もし大本営情報が間違っていれば責任は発表した組織側にあり、受け取った方は騙された被害者となるからである。しかし大本営情報だけしか見なければ、全ての市民は思うように操られることになる。すなわち非公式の情報を入手することは生きて行く上で必要不可欠である。

しかし非公式情報の中にはどこの骨ともわからないものもたくさんある。信頼できる筋の情報もあれば、全く信用できない筋の情報もある。特にネット社会となった現在では、誰もが情報発信者になることが出来、情報の質というものを考えた時、非常に怪しい情報の方がはるかに多いことになる。そのような現在においては、やはり新聞などのメディアの質は相対的高くなり、信頼できる情報源として必要不可欠である。

もちろんフェイクニュースなどは論外であるが、フェイクニュースが世の中を動かすことがある現実を考えれば、情報の質に対する世の中の意識はかなり低いと言わざるを得ない。多くの情報を入手するという以前に、情報の質というものに目を光らせなければならない。とは言うものの、もちろん100%真偽を見抜くということは当事者でない限り不可能だ。しかし90%見抜くことは意識の持ちようで十分に可能である。

ではそのような意識を持ち真偽を見抜くためにはどうすればいいか?そのためにはやはり一次情報を確認するしかない。事実を確認する、あるいはサイエンスにおいては原論文に当たるということである。そのためには一次情報である大本営発表を確認することは不可欠であるが、時には大本営発表が偽物であることもある。それを見抜くためには社会全体の流れや概観、そして整合性を掴む必要がある。すなわち全体的な骨格と細部の両方を掴まなければならない。そのためにはただ情報をインプットするだけではなく、自分からアウトプットして行くことが必要だ。なぜならアウトプットするためには物事の概観と整合性を掴むことが必要不可欠だからである。

社会や物事の本質を掴むためにも、大本営発表と非公式発表の真偽を大局的な観点から判断し、知識を構成して行くことが必要である。

出来る気しかしない。ただコンディションは良くない。

出来る気しかしない。そんな時がある。そのような時はただ前に進むだけだ。しかし出来る気しかしないと言いながらも、コンディションは良くない。なのでまずはコンディションを高めなければならない。

なぜ出来る気しかしないのか?それはビジョンが固まっているからだ。そして今はその細部を埋めるための数学的技術を習得している。ただ現実として、その細部を埋めることが非常に難しい事であり、どれだけ時間がかかるかわからない。解析学、代数学、そして幾何学などのいくつかの分野を横断的に網羅している数学的技術は一朝一夕で身に付けられるものではない。専門書を読み、論文を読み、一つ一つ確かめて行かなければならない。英語が苦手な僕にとってはかなり大変な作業だ。

自分のコンディションが悪い時は、あえて取り組まないことにしている。本当は悪い時にも悪いなりに取り組むほうが良いのかもしれない。しかしそれがなかなか出来ない。調子が悪い時に1しか出来ないのなら、調子の良い時に10やろうと思ってしまう。実際、調子が良ければ10出来る。しかし常にそのように出来る状態ではない。色々と良い時と悪い時がある。そこが大きな悩みでもある。

しかしチャレンジングな問題と格闘するのは、非常にエキサイティングである。この刺激こそが大問題の醍醐味である。しかし悠長にしている暇はない。時間はあっという間に過ぎ去り待ってはくれない。何とか今年中にはと思っているが、これはもう自分との戦いだ。証明の骨組は出来ているが、中身が全然埋まらない。しかしすぐにとは行かないまでも、近い将来完成できると実感している。何しろ出来る気しかしないのだから。

人生において失敗をすることの大切さ。

多くの人は、失敗を極力避けようとする。「失敗はしないに越したことはない」そう思ってはいないだろうか?僕は失敗をすることは人生において欠かせないものだと思っているし、むしろ積極的に失敗に立ち向かうべきだと思う。これは何も失敗を正当化しようと思って言っているのではない。合理的に考えれば考える程、失敗はできるだけすべきだという結論になる。

なぜ失敗をすることが合理的なのか?もし失敗をしないで成功し続けた時に得られる利益を10とする。では失敗をすれば利益は10を大幅に下回るであろうか?僕はむしろそれを上回ると考えている。失敗を恐れず挑戦し続け、失敗と成功を繰り返すうち、総量は圧倒的に増え、利益は10を大幅に上回る。従って、失敗をすることは実は合理的であり、失敗をしないことはむしろ不合理的であると考えられる。さらに失敗を恐れるあまり、大きな行動に出られなくなり、結果が分かっている小さなことにしか取り組めないことになる。もちろんそれで納得できる人はそれでいいが、常に上を目指し前進しようとする人にはそのような事は全く納得できない。

僕自身もこれまで様々な失敗を経験してきた。それらを経て現在の自分がある訳だが、そのような自分がたどって来た道は今となっては全てが納得できるものだ。そしてこれからも多くの失敗を経験するであろう。その中で大きな成功を二つ三つと出せて行けばいいと思っている。

これまで多くの失敗を重ねてきた自分だからこそ、失敗の重要性は痛感している。もし全く失敗しない自分というものがいたら、それほど恐ろしいことはない。ただ、このように考えられるかどうかは思想や哲学的な影響が大きいのかもしれない。失敗を悪と考えるのか?失敗をその先の大きな成功への足掛かりと考えるのか?そのような考え方の違い一つで未来の自分の姿は大きく変わってくる。失敗は決して悪ではない。ただ失敗を単なる失敗で終わらせてはいけない。失敗に対して熟考しそれを踏み台にすれば、その先には必ず大きな成功があるに違いない。

全豪優勝、大坂なおみに究極の姿を見た!

大坂なおみがテニス・全豪オープンで優勝した。そして何より嬉しいのが世界ランク1位が確定したことだ。これまでは日本人トップ選手がいかにランク1位選手に勝つかということに注目されていたが、今はランク1位になってしまった。本当に空いた口がふさがらない。それと同時に日本人選手が一分野で世界トップに立ったことに同じ日本人として誇りに思う。

大坂なおみ選手は世界1位になったが、それは人間の目指す究極であり、また何かに打ち込んでいる人ならだれもが目指すべきところだと思う。しかし多くの人は「そんなのは絶対に無理に決まっている」と言って挑戦すらしない。もちろんそのような人にとっては、実力云々という以前の問題として可能性はゼロである。しかし頂点を目指している人には、0.1%、あるいは0.01%の可能性を秘めている。そしてその可能性を5%、10%と高めて行くのである。「そんなのは無理に決まっている」と言う人にバカにされる筋合いはない。頂点を目指している人は胸を張って目指せばよいのである。

もちろん、全ての人が頂点に立てるわけではない。頂点に立てるのは70億分の一なのである。しかしそれを目指す価値は大きい。しかしそれには大きなリスクも存在する。挑戦するにはそれだけの覚悟を持たなければならない。リスクを取れない人はまずそのスタートラインに立てない。成功すればその対価は非常に大きいが、失敗した時の代償も非常に大きい。そのような事に耐えられる覚悟が必要なのである。

僕は最近、人間とは若返ることが出来るということを実感している。もちろん肉体的には老化して行くのが自然の摂理であり、それは避けられない。しかし精神の老化は避けられるどころか逆に若返ることもできる。ではどうすれば精神を若返らせることが出来るのか?それは挑戦し続けることである。挑戦を止めた時点から精神は老化して行く。見かけは若くても中身は老人のような人間もいる。逆に肉体は老いても青年のような精神の持ち主もいる。外見のアンチエイジングに力を注ぐこと以上に、挑戦し続け精神の若返りに力を注ぐべきである。世界の頂点に挑戦し、世界の頂点に立った大坂なおみの精神は、究極的に若いに違いない!

自然、人間、最適化。

自然と人間の付き合い方は、人間が抱える最も大きな課題だ。大昔は自然が人間を支配し、人間はそれに従うしかなかった。そして農業革命、産業革命を経て、今は人間が自然を支配しようとしている。これまでのところは様々な悩みを抱えながらも、人間と自然は共生することが出来てきたように思える。しかしこれから数十年、数百年、人間と自然は共生することはできるだろうか?これはかなり難しい課題である。

なぜこれまで人間と自然は共生することが出来たのか?それは人間と自然の関係が常に最適化という補正を加えながらバランスを取ることが出来たからではないだろうか。例えばオゾンホールが社会問題化された時には人間がそれを補修しようとする行動に出た。自然破壊から環境問題まで、問題が深刻化した時には、人間が自然との共生の道を探るという行動を起こしてきた。ではなぜそのような補正が出来たのか?それは進化の速度がまだ遅く、それらの補正が進化の速度に追いついて行くことが出来たからである。しかし現在IT化が急速に進み、人間の環境の進化は劇的に速くなってきた。その速さに補正が追いつくことが出来るのか?これまでのペースで行けば確実に追い付かない。

しかし環境補正の技術も劇的に発展してきている。よって人間の環境発展と環境補正のバランスを取ることは可能であるように思える。しかしそれは危うい橋を渡るようなもので、一歩橋から足を踏み外すと破滅への道をたどってしまう。上手く人間と自然が最適化を図りながら共生していくことが出来るか?これからの最も大きな課題である。

科学技術、そしてITが極度に発達した現代においては、技術を発展させ環境を大きく変えることはそんなに難しい課題ではなくなった。しかし自然と人間の共生を図ることは格段に難しくなってきている。あらゆる意味で数十年後の未来を想像することは困難になってきている。右に進むのか?左に進むのか?現時点では判断できない。これからの時代において最も重要な事は科学技術の発展ではなく、人間の意識なのかもしれない。人間の意識一つで発展の道へ進むか、破滅への道へと進むか、どちらに行くかが決定される。

散り際の美学?

プロスポーツ選手が引退する際の姿は、大きく二つに分かれる。一つは「散り際の美学」を持ち出し余力がある中でやめる人、もう一つはボロボロになるまで現役を続ける人だ。もちろん人それぞれ考え方や哲学があるのでどちらがいいかという問題ではないが、僕はボロボロになるまで現役にこだわる人の方が大好きだし共感できる。そもそも僕には「散り際の美学」というものが理解できない。そんな辞める一瞬の格好よりも、いかに現役を続けるかという問題の方がより深く大きいと感じるからだ。

サッカーで言うと、中田英寿か三浦知良かということだと思う。もちろん三浦選手は現役を続けているが、今でも最前線でプレーしており決してボロボロではない。そのような姿はさらに魅力的でもある。もちろん中田選手は超一流プレーヤーである。そんな中田選手に対して言うことなどは何もない。しかし個人的には出来る限り現役を続けてほしかったというのが僕の本心だ。超一流プレーヤーだからこそなおさらそう思う。

現役を続けるかどうかという問題は。プロスポーツ選手だけではなくあらゆる分野で言えることかもしれない。学問を追究している人なら、リタイヤするのか?あるいは死ぬ直前まで続けるのか?そういうことである。アインシュタインの最後の言葉は「(研究ノートの)最後の紙を取ってくれ」というものであったらしい。それはどのような学問を究めている人にとっても理想的な姿と言える。そもそも学問の研究に引退などというものはないと僕は思っている。しかし研究環境の問題や心身の問題から、リタイヤせざるを得ない人も多いのかもしれない。

今注目されているのは、メジャーリーガーのイチロー選手であろう。つい先ほどニュースで、イチロー選手がマリナーズと“マイナー”契約をしたという記事を見た。もしイチロー選手が日本球界に復帰すれば、バリバリの一流選手として破格の待遇を受けることが出来たであろう。しかしイチロー選手は世界最高峰のメジャーリーグで挑戦し続けることを選んだ。そのような選択には賛否両論があるだろうが、イチロー選手のいつまでもトップを目指し続ける姿勢、そして妥協しない姿勢は、イチロー選手を人間としてより輝かせて見せる。僕はそのようなメジャーにこだわり続けるイチロー選手が大好きだ!

散り際の美学なんていらない!

コンディションをいかに整えて攻めるか?

調子の悪い時でも、何とか前に進めようと無理に物事に取り組まざるを得ない時もあるが、調子を整えることによって効率が二倍、三倍になるのなら、まずはコンディションを整えてから攻めるのも非常に大きな手だ。しかし、何もしないでコンディションが良くなるほど簡単ではない。コンディションを整えるのにも、それなりの努力は必要だ。

例えば今僕がコンディションを整えるためにしている(ちょっとした)努力とは、お酒を飲まないとか大好きなコーヒーを出来るだけ控えるということだ。それ以外にも、体のコンディションを整えるために筋トレなどは欠かさずにやっている。もちろんそれらの事を実行するのは初めはかなりきついが、それが慣れてきて普通になって来ると、精神的にも強くなり調子がどんどん良くなってくる。この様にして上げたコンディションは維持していきたいものである。

やはり歳を取ってくると、何かと不具合は出てくるものだ。若い頃はお酒を飲んでも何をしてもコンディションが悪くなることはなかったが、今はちょっとした事でコンディションを悪化させてしまう。何をするにも努力が必要だが、歳を取るとコンディションを整えることの必要性はより強く感じる。

サッカーの三浦知良選手は50歳を超えてもプロとして活躍している。この事は非常に驚異的であるが、おそらく技術的な問題よりも体のコンディションを維持することの方が圧倒的に重要な問題ではないかと思う。もちろん、三浦選手に備わっている心身が生まれつき強靭的だったということもあろうが、それを維持することに対する努力は絶大なものがあると想像できる。若かりし頃もナンバー1プレイヤーだったが、それをさらに維持している三浦選手のプロ意識には絶大な尊敬を抱く。

人それぞれピークの時期も大きさも違うが、それをどれだけ維持できるかということも人それぞれである。しかしピークの大きさもそれらの維持も、意識の持ちようと努力によって大きく上げることが出来る。それが出来るかどうかは、それこそ人生観だとか生きがいというものに関わってくることだと思う。それらを強い意志によって実行できる者が大きなピークを起こすことが出来、高いコンディションを保つことが出来るのだと強く感じる。

楽しむことが大事だ!

自分が楽しむ事は大事だし、周りの人が楽しんでいるのを見るのも楽しい。僕の大好きなYouTuber「釣りよかでしょう」の動画を観てすごく楽しいと感じるのは、釣りよかの人たちが心から楽しんでいる様子がひしひしと伝わるからだ。楽しんでいるからこそ伸びるし、物事がうまく回り始める。つまり、楽しむ事は全ての原動力の源だと言える。

しかし、勘違いをしてはいけない。「楽しむ」事と「楽をする」事は全く違う。本気で楽しむためには全力で取り組まなければならないし、楽しんでいるからこその苦労も非常に大きい。釣りよかさんたちが楽しい動画を届けてくれるのも、地道な動画編集などの苦労のおかげである。

そのような楽しさの正反対にあるのが「タダ乗り」だ。物事を楽しむためには、それなりの対価を払うことが必要だ。もちろん、YouTubeを見ることに、視聴している僕らがお金を払っている訳ではないが、釣りよかのような本当に楽しい動画に対しては、多額ではないにしろ払う価値があると思う。それくらい、釣りよか動画は質の良い楽しい動画を届けてくれる。

ただ本来は、お金を払うのではなくお金を稼ぐ側にならなければならない。楽しんでお金を稼ぐことが究極である。とは言え、初めから好きな事をやってお金がもらえる訳ではない。初めはどうしても初期投資が必要だ。YouTubeだって、撮影機材を揃えなければ動画を撮れない。スペックの良いパソコンがなければ動画編集はできない。いかにお金を払う側からお金をもらう側にまわるか?それはその人の手腕と努力にかかっている。

思いっきり楽しんで、思いっきり稼ぐ。そのような生き方は決して簡単ではなく、楽でもない。しかしそのような究極的な生き方を目指して、自分の進むべき道を進んで行くことはいつまでも忘れないでいたい。

リーマン予想が解けた?

去年終わり頃の朝日新聞デジタルのニュースの中に、「リーマン予想証明?」という記事があった。リーマン予想は少しでも数学をかじったことのある人なら、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう大問題だ。しかしこのような大問題は、解けたというニュースが流れては「間違っていた」と否定されることがほとんどであり、今回のニュースも怪しいものではと記事を見てみたら、その解いた数学者がなんとマイケル・アティヤ大先生だということでびっくり仰天した。

アティヤ先生は現在89歳で、数学者の間では「アティヤ・シンガーの指数定理」や「ADHM構成」など、知らない人はいないのではというくらい超一流数学者だ。僕の手元にも、アティヤの論文(指数定理関係など)は数編置いてある。ちなみに、アティヤ先生の専門は幾何学や数理物理学である。しかし今回のリーマン予想は(僕はそっちの方面には詳しくないが)、数論関係の問題なので、アティヤ先生のこれまでの専門とは少し畑違いなのではと僕は感じる。しかし一流数学者ほど分野の垣根にとらわれず、幅広く大きな業績を残すものである。

リーマン予想には僕はあまり詳しくないが、160年未解決であったらしい。まだアティヤ先生の証明が正しいとは確定していないが、現在査読が進行中であるようだ。そして誰もが、アティヤ先生ならあり得るかもと思っているに違いない。記事によると、アティヤ先生は別の(物理的)問題を考察する中で、副産物としてリーマン予想が解けたと言っているようだ。

果たして本当に解けたのかどうか?解けたのなら大きなことであるし、もし間違っていたのならリーマン予想に取り組む他の数学者にとっては希望が繋がれる。おそらく今年中には解けたのかどうかが一応確定するのではないかと思われる。

日本国憲法。

ジュンク堂でいろいろと本を眺めていると、岩波文庫から「日本国憲法」という表題の新刊が出ていた。振り返ってみると、憲法と言えば学生時代に習った事ぐらいしか知らないのではと思い、ここは一冊680円出して買うかと思い、購入することにした。家に帰って改めて目次を眺めると、日本国憲法以外にも大日本帝国憲法、パリ不戦条約、ポツダム宣言、降伏文書、日米安全保障条約など盛りだくさんな内容である。ここで重要なのは、この本が単なる解説書ではなく(解説も一部に載っているが)、原文がそのまま載っていることである。物事に当たる時、まずはやさしい解説書から入る人が多いが、原文に直接当たるということは最も重要な事である。

日本国憲法ははっきり言ってそんなに長くない。もちろん憲法は、国の根幹、基本原則を表したものだから、短く強く表明することが重要であり、長々と述べることは相応しくない。日本国憲法はこのような短い文章であり、読むのにそんなに労力もいらないと思うが、そのような事に今まで一度も当たってこなかった自分が恥ずかしい。もちろん読むこと自体には労力はいらないというものの、考えて行くと非常に深い問題であり、考えて解釈をし続けても終わりがない深い文章なのだろうと思う。

この本を眺めてまず思うのは、日本にとって天皇の存在はいかに重要であるかということである。日本国憲法も大日本帝国憲法も、第一章は「天皇」である。非常に歴史が長く権威がある天皇という存在を、いかに明治の仕組みの中で、あるいは戦後の仕組みの中で位置づけるかということは、明治の日本人の、そして戦後の昭和の日本人たちの知恵が凝縮されているのではないかと強く感じる。そしてそれらの知恵は大筋の所非常に上手く行っているのではないかと強く感じる。今年の5月からは新天皇が誕生する。新天皇の存在が平和な世の中を導いてくれることを深く願う。

日本人であるならば、日本国憲法を熟知することは必須なのかもしれない。しかし実際に熟知している人は(恥ずかしながら僕も含めて)多くはないのではないかと思う。しかし日本に住んでいる日本人である限り、「知らない」では済まされないのではと強く思う。日本国憲法は決して長くはなく、読むだけならそんなに時間はいらないはずだ。少し時間がある時に気軽に手にとって眺めるだけでも、日本という国に対する理解は一層深まるに違いない。

世界を大きく変えるのは、本質的に一人だ!

日本は全体主義で、協調を重んじる。そして何かを達成すれば皆が頑張ったからだと称え、誰かが成功すれば周りの人の支えがあったからだと労う。そのこと自体は間違っていないのかもしれないし、悪い事ではない。しかし日本における全体主義、協調主義は度が過ぎるようにも感じる。様々な世界において大きな変革が成し遂げられたとき、それを実行したのは集団であっても、その鍵となるのは多くの場合一人である。なのでその一人がいなければ物事は全く進まなかった可能性は大きい。

日本の協調重視社会においては、集団や組織が重視される反面、個が軽視される傾向にある。極端な場合では、組織に反して一人が成し遂げたこと、更には組織に足を引っ張られながらも個人が成し遂げたことでさえ、その功績が組織のものになることがある。それは企業の技術開発ではよくある話だ。青色発光ダイオードの技術開発に大きく貢献した中村修二博士の例はその代表である。日本でもそろそろ個の大きな力を認めるべきではないかと強く感じる。

日本では、「個の力は小さくても、皆が集まれば大きな力になる」と色々な所で言われる。確かにそのような事はあらゆるところで見られる。しかしそれは全てではない。個だからこそ大きな力を発揮できることもあるし、集団になったがために力と個性がなくなってしまうこともよくある。もちろん、個と言っても完全に一人だけで生きている訳ではないが、個の力に対する軽視は個から広がる変革に対しては足を引っ張るものでしかない。

物理や数学の歴史を見れば、大きな革命のほとんどは個から生まれたことが分かる。その代表例がアインシュタインの相対性理論である。逆に集団的研究から生まれたものは、少なくとも理論系では少ないと感じる。

「人間は一人で生きている訳ではないし、全ての事は人との関わりからから生まれる」などと言いたい人も多いとは思うが、問題はそのような次元の話では全くない。そのような言葉を全ての分野、全ての事柄に持ち込むと、個から発せられる力を潰し消すことになってしまうだろう。

人生の攻め。

人生の攻めとはいろいろと解釈できるが、一番大きなものは“努力”であろう。そして前を向き、保身に走らず、未知の世界を構築する。そのように考えた時、どう考えても僕は攻めの姿勢に成り切れていない。確かに普通の人と比べればかなり攻めている方だと思うが、僕が思うラインには全く到達できていない。そして単なる攻めではなく、“徹底的”な攻めに打ち込むことを心がけている。サッカーで言うとフォワード、そして目指すところはエースストライカーだ。

人生というものは決して順位ではない。人生において何位とかは単純に決められない。しかし時には順位にこだわらなければならない。その時は迷わず1位を目指すことにしている。なぜそのような事にこだわるのか?それは過去に2位3位を目指して失敗したことがあるからだ。しかし失敗を失敗で終わらせてはならない。失敗を次に進む糧にしなければならない。失敗が悪いのではない。失敗を教訓とできないことが悪いのだ。

サッカーの本田圭佑選手は、よくビッグマウスだと叩かれることが多い。しかし本田選手は常に1位を目指している。サッカー最高峰の舞台であるワールドカップでも優勝を目指すと口にしていた。僕はその姿勢はプロとして当然だと思う。もちろん実力的には可能性はかなり低いのかもしれない。しかし初めからベスト16を目指すと言う選手に何かを感じるだろうか?僕はそれは保身にしか感じられない。2018年のワールドカップでは日本はベスト16で終わった。しかしこれはベスト16を目指した選手がいたからそこまで行けたのだろうか?僕は優勝を目指していた本田圭佑選手のような人がいたからベスト16まで行けたのではないかと感じている。もちろん話はそんなに単純ではないが。

僕は目指すところを出来るだけ口にするようにしている。サッカーなら11人でプレーするので自分だけの力ではどうにもならないが、数学・物理は基本的に個人プレーである。なので自分の実力と努力次第ではどうにかなるはずだ。たとえバカだと思われてもいい。バカな生き方を目指しているのだから、バカだと言われることは本望だ。もちろん口だけではダメだ。口に出したことを実行しなければならない。口に出す覚悟とそれを実行に移す攻めが目標へ近づく原動力になるはずだ。

地震に対する意識が変わった日。

昨日の1月17日は、阪神大震災から24年目の日だったが、僕にとって、そしておそらく日本の多くの人にとって、地震に対する意識が変わって24年目の日ではなかったのではないだろうか。

僕はその時、神戸に住んでいたが、今では全くもってアホらしい話であるが、関西は地震が起こらない所だと信じ込んでいた。また関西で地震が起こらないことは、当時関西人の間では常識であったように記憶している。実際、阪神大震災が起こるまでの18年間の人生の中で、神戸で地震を感じたことは震度2程度の微弱な地震一回だけしか記憶にない。その一回は家のトイレに入っていた時に感じたので、なぜだか覚えている。そのような意識しかなかったので、大地震に対する心構えなど皆無であった。

しかし、阪神大震災後、日本は大地震時代に入る。いつどこで大地震が起こるか油断できない。日本に住んでいる限り、大地震の危険性からは逃れられないというのが現在の日本人の常識的な意識ではないだろうか?関西でも去年、大阪で大地震が起きた。地震を抑え込むことはできないので、人間の意識の方を変えるしかない。

阪神大震災が起こる24年前まで、地震の危険性と言えば首都圏直下型地震一辺倒だった。もちろん今でも首都圏直下型地震の危険性は高いのであろう。しかしそれは首都圏だけが特別なのではなく、広く日本全体の危険性の一部という認識ではないだろうか?静岡県を中心とした東海地震の危険性も、今では南海トラフ地震と名を変え、さらに九州周辺まで範囲を広げ、桁違いの危険性が認識されるようになった。もう日本に住んでいる限り、地震と共生するしかないのだろうか。地震が起こるということを前提に、いかに身を守るか?現在は防災というより、減災に重点が置かれるようになってきている。

プレートの境目に存在する日本列島に住んでいる限り、地震、そして火山からは正面から向き合って行かなければならなさそうだ。

時代によって変わる本質、変わらない本質。

よく「時代が変わったから」と言われ、納得させられることがある。しかし物事の本質は時代によってそう大きくは変わらないことが多い。時代によって変わるのは物事ではなく、人間の方だ。人間の受け取り方、理解、解釈が時代によって目まぐるしく変わるのである。

例えば、人間の死という現象自体はどの時代も変わらない。しかし時代の文化、認識、そして科学の発展によって、人間の死というものが持つ意味が大きく変わるのである。そのように、時代によって変わる本質だと思われているものは、大きく人間が介する物事が多い。人間が関与しているからこそ、本質が急激に変わったりするのである。

では科学の本質は時代によって変わるのか?これは非常に難しい問題である。もちろん、科学というものは常に発展し続けており、科学の本質と思われるものは時代によって大きく変わってくる。しかしこれも、科学を作っている人間の理解が変わっていると言える。自然科学の言う「自然」自体は時代によって変わるはずもないように思える。例えば運動方程式が時代によって変わることはない。科学の本質は「自然」の側にあるのであって、人間は「理解させていただいている」と言う方が正しい。

しかし、自然の側にも時代によって大きく本質が変わるものもある。その代表は「生命」である。生命というものは絶えず進化しており、数億年前の生命と現在の生命は構造的に大きく違うところがある。例えば、原核生物と真核生物では本質的に異なる部分が多い。とは言え、「生物」と言う意味で本質的に共通する部分も大きいが、これらの違いは時代の進化による本質の変化と見て良い。これらの変化は人間の理解の変化などと比べ物にならないような本質的変化である。

近年、コンピューターの進化が激しい。コンピューターはもちろん人工物であるが、その本質は情報理論的構造、及び論理構造であり、数学にかなり近い構造をしている。僕は、コンピューターの進化は、「第二の生命の変化」だと考えている。つまり、コンピューターの進化は時代によって変わる本質的変化だと言える。しかしその進化は超絶的に速い。生命が数億年かけて進化したようなことを、コンピューターは数年で成し遂げてしまう。コンピューターは単なる道具ではなく、一つの大きな科学的対象だと捉えるべきである。

本質を捉える際は、変わる本質と変わらない本質を見分けなければならない。そのことを理解しないと、物事の本質に踏み込んで理解することはできない。

寛容な社会?

今世界は寛容さを求められている。難民問題や性別問題などを解決して、誰もが安心して生きて行ける社会にならなければならない。日本は難民に対して閉鎖的だと言われ、性別問題に関してもかなり遅れていると言われている。そういう意味では日本はかなり閉鎖的だと言える。とは言え、世界的には寛容な社会へという潮流が大きく流れていると言える。

しかし何かが違うと感じるのは僕だけだろうか?もちろん難民に対して寛容な社会になることは(国家の利益的な問題はあるにしろ)必要不可欠なことであるし、性別関連の問題に対して差別や偏見をすることはあってはならない。しかし注意すべきことは、思考無き拡大解釈はしてはならないということだ。もともとは解決しなければならない問題であっても、その方向性を無批判に突き進めて行けば逆の意味で差別的かつ息苦しい社会になってしまう。問題を次の一歩へと進める時には、さらに進めるべきかと繰り返し思考しなければならない。決して思考停止的に拡大解釈を続けてはならない。

寛容な社会を作ることは非常に重要な事だ。しかし寛容化へと拡大解釈し続けてしまうとシーソーは反対側に傾き、再び不寛容で息苦しい社会になってしまう。社会政策はバランスが重要なのである。なので政治家などの社会政策施行者は常にその塩梅を見極めなければならない。

寛容な社会を作るためには、社会を構成する一人一人の人間の意識も重要になる。人々の意識が変わらなければ寛容な社会は作れない。一人一人の意識が社会を変え、国家を変える。そして世界が変わるのである。もちろん現時点ではどこの国家にもおかしいことはたくさんある。そしてそのようなおかしな部分はどんな時代になっても存在し続けるのかもしれない。しかしだからと言って、寛容さを追求することを怠っていはいけない。そしてその際には、方向性と塩梅を見極めながら常に立ち止まって熟考し、実行に移していかなければならない。

走り続け、たまには休憩。

走り続けたい!しかし人間のコンディションというものはいつも良好という訳ではなく、好不調の波はある。プロと言われる人は「いかに好不調の波を無くし、いかに良好なコンディションを保つか?」という問いに対して常に答え続けている人なのかもしれない。プロ野球を引退するベテランは、もちろん体力の衰えという理由が一番強いのかもしれないが、体が故障がちになりコンディションを保てなくなったという理由も良く聞く。絶頂のコンディションを発揮するというのは重要だが、それをいかに保つかということは更に重要であり、更に難しい問題だ。

今になっても心身との対話を続け、いかにコンディションを底上げするかということに対して試行錯誤している。「考えたら即行動!」これは何事に対しても言えることである。こうすべきだと思えば、とりあえず試してみる。それでも駄目なら次の手段を、という具合に次から次へと矢継ぎ早に思考を実行に移す。いつまでこの試行錯誤が続くかわからないが、とりあえず体力と気力が持つ限り続けて行こうと思う。目標の達成は近いのか?遠いのか?そんなことを考えていては気が持たないので、とにかく実行し続けてみる。

どんな人間にも、したい事としなければならない事がある。したい事だけをできれば幸せかと言えばそうではなく、しなければならない事と折り合いを付けて行く中で発見することも多々ある。それが人間というものだ。したい事をするために、しなければならない事をする。世界はそうなっているのだから、現時点ではそれに対して折り合いを付けなければならない。そのようにして階段を昇り続ければ、したい事に没頭できる環境が手に入る可能性は高い。

24時間走り続けることはできない。その証拠に、人間の体は一日数時間は必ず睡眠を取らなければならないようにできている。睡眠を全く取らなければその先にあるのは「死」だ。人間が生物である以上、たまに休憩を取らなければならない運命にある。いや、頻繁に休憩を取らなければならないのかもしれない。しかし休憩を取り過ぎては、取り組むことに没頭できなくなってしまう。何とも悩ましい問題である。

プライド。

プライドの是非については意見が分かれるところだ。プライドにこだわる人もいれば、プライドなどいらないという人もいる。確かに平穏に生きるためには、プライドなどはない方が良いのかもしれない。特にくだらないプライドは絶対に持つべきではない。しかし自分が自分らしく生きるために、さらに人間らしく生きるためには、必要なプライドも必ずあると僕は考えている。

自分が人間らしく生きることを放棄するならば、さらに言えばアメーバとして生きるのならば、プライドなどは一切持つ必要はない。そもそもアメーバに思考能力はないのだから、プライドなどはできるはずがない。プライドを持っているとはある意味人間である証拠である。しかし繰り返すようだが、不必要なプライドは持つべきではない。持つべきプライドを持つということが重要なのである。

持つべきプライドを持つということは、かなり強い意志が必要である。意志と持つべきプライドは直結する。そして意志は行動に直結するものだから、プライドは意志を介して行動に表れる。すなわち、プライドが全くなければ、それも行動に表れる。だからその人がどのような意志を持ち、どのようなプライドを持っているかは、行動を見れば瞬時に判断できる。意志も持つべきプライドもない人は、アメーバのような動きをしているはずだ。

僕には明確な意志がある。そして強いプライドもある。ただ必要なプライドだけを持っているかと言われれば、無駄なプライドもたくさん持ってしまっていることも事実だ。だから完全な人間からは程遠い。もちろん完全な人間になろうとは寸分も思っていないが、自分が目指そうと思っている人間像はある。そのような人間に近づくためには、無駄なプライドを捨てなければならないと感じている。そして持つべきプライドは死守する。

完全な人間にはならないし、なれもしないが、いろいろな意味でとことん面白い人間にはなりたいものである。

細部は忘れても、骨格は忘れるな!

これはある意味、僕の言い訳である。僕は記憶力が悪い。少し前に書いた記事、少し前に勉強したことをすぐに忘れてしまう。しかし物事には、忘れてもいいことと忘れてはならないことがある。例えば理論を構築する作業をしている人にとっては、細部は忘れていいが、骨格は忘れてはならない。もちろん細部も忘れないでいればそれに越したことはないが、細部というものは書物を見るなり何なりしてすぐに確認できる。しかし骨格というものは自分の頭の中で構築されるものなので、これはしっかりと頭の中に留めておかなければならない。

しかし僕は骨格までも忘れてしまいそうになることがある。そのような時は、過去にメモしたノートなどを見て記憶に留めるようにしている。また同じものを見ても、人によってそこからできる骨格は皆違ってくる。そういう意味で、出来上がった骨格というものはそれを作り出した人の個性だと言える。

細部だけを煮詰めても、そこから骨格は出来上がらない。骨格から細部を煮詰めるのである。骨格がなければ、ただ単に細部の寄せ集めになってしまう。そのような情報の寄せ集めなどは人間がしなくてもコンピューターにでもさせておけばよい。人間は人間にしかできないことをすべきなのである。

書物を読んでも何も出来上がらない。書物を読んで得られるのは基本的には情報だけなのである。大事なのは書物を読み進めながら、それを基に骨格を構築することなのである。それができない人は、情報蓄積人間でしかない。しかも情報の蓄積だけなら、人間はコンピューターに圧倒的に劣る。人間にしかできなくて、人間がすべきことは何か?そのような事を考えて進まないと、10年後には何のスキルもない人間になってしまう。

急がば回れ!周りから整えていく。

「急がば回れ!」とはよく聞く言葉だが、これがなかなか簡単にできない。どうしてもすぐに本題に取り組みたくなる。しかしそのような誘惑に勝って、周りから攻めて行くことも重要である。

スポーツ選手なら、どうしても技術的な事の修得に全力で取り組みたくなる。それはある意味間違ってはいない。しかしスポーツをするためにはそのための強靭な体が必要なので、体調管理、栄養管理などをしっかりと行い、さらに最近よく話題になる体幹なども鍛えなければならない。そのように周辺(しかし本質的な部分である)から整えて行き、核心に迫ることが重要である。僕自身も最近はあらゆるコンディションを整えることに気を使っている。やはり何事も人間が行う以上、精神と体力のコンディションを高いレベルで保つことが大事である。

数学や物理をやる上で、英語論文を読むことは避けられない。従ってまずは英語力を身に付ける必要がある。英語力がしっかりとしていないと論文の内容を100%掴むことは難しい。しかし僕は英語が非常に苦手である。なので英語論文を読む以前に英語力を身に付けないといけないと思っている。しかしそのような事になかなか取り組むことが出来ない。どうしても英語論文に書かれている数学的、物理的内容に手が伸びてしまうのだ。もちろん英語論文に書かれている英文法などはたかが知れている。なので読むことはそれなりにできる。しかし英語力に問題があると常々感じている。急がば回れと英語の勉強をするべきだが、なかなかそれができない。近道をしているようで、本当はそれが遠回りになっているのである。

何か一つの事に取り組む時、それだけをやれば良いという訳ではない。その周りにやるべき関連する事柄はたくさんあるのである。数学を研究するには英語力が必要なように、一見関係ないことも本当は本質的に関わっている。今、何かに対して打開できずにいるのならば、少し目線を変えてその周辺のことを整えるのも一つの手である。急がば回れ!とあらゆる道を視野に入れて攻めて行こう。

羽生善治九段は何を見ているのか?

前年末の竜王位陥落によって、羽生善治氏は無冠になった。とは言え、無冠になったから羽生氏は衰えたのかというと、決してそうではない。無冠になった今でも羽生氏は最高位の棋士の一人であることは間違いない。

最近、羽生善治氏のことが書かれた記事をいろいろ見て、少し思うところがあった。それは「羽生善治氏は将棋に何を見ているか?」ということだ。普通の棋士だと対局に勝つことに最大限の気力を注ぐだろう。それは羽生氏だって例外ではないと思う。しかし羽生氏は必ずしも勝利だけを見ているようではない。将棋の盤上に何かの世界を見ようとしているように思えてならないのだ。

将棋には最善手という概念がある。言葉通り、最も有利になる手の事である。当たり前の事であるが、最善手を指し続けることにより勝利が見えてくる。逆にミスは命取りになる。しかし羽生氏は最善手ではなく“実験手”を打つことがあるという。将来の可能性を探り広げるために、実験手を打ち新たな道を開拓するのだ。とは言え、実験手は確率的に言えば最善手ではないのかもしれないが、将来の可能性まで考えると羽生氏における、あるいは将棋界における最善手なのかもしれない。

話しを、羽生氏は何を見ているかということに戻そう。なぜ僕が羽生氏の見ている世界に興味があるのか?それは世界を見るということは、あらゆるプロ分野において言えることではないかと感じるからである。物理や数学においても、ただ計算しているだけではなく、構想と一連の計算による構築によってその人独自の世界が見えてくるからである。それは視覚的に見えるという意味もあるし、精神的に見えるという意味もある。そうだからこそ、トップ棋士の羽生氏には盤上にどのような世界が見えているのかが気になるのである。

もしかしたら、プロとアマチュアの違いは、そのような世界が見えるかどうかということなのかもしれない。おそらく世の中にあるほとんどのプロには、“視覚的”に世界が見えているのである。世界が見えると哲学が生まれ、ただ勝利する、あるいは結果を出すというだけでなく、その先にある広大な大地を切り開くことが出来るのであろう。

万人に理解されようとするな!

万人に理解されるような人生ほど薄っぺらくて退屈な人生はない。万人に理解されるということは、当たり障りのない事しかしていないということであり、現状維持だと言える。しかも現状維持を掲げて現状維持できることはほとんどない。飛躍を起こそうと思えば、万人の理解を超えることに挑戦しなければならない。

山中伸弥教授がiPS細胞誕生以前に、「皮膚細胞から万能細胞を作る」などと言ったら万人から鼻で笑われたであろう。そのような万人から理解されない状態から山中教授はiPS細胞作製という偉業を成し遂げた。もちろん人から理解されないことをすれば大きな成功を成し遂げられるかと言えばそうではない。むしろ失敗する確率の方が圧倒的に高いと言える。問題はそのような失敗をどう捉えるかだ。失敗を絶望と捉えるか?次への希望と捉えるか?それによってその後が大きく変わる。

実は人生なんて、本質的な部分では皆そうは変わらない。しかし現実は人によって天と地ほど違うように見える。その理由はいくつかあるかもしれないが、最も大きな部分は精神的な部分だ。とは言っても精神論を持ち出すわけではない。もっと単純に楽観的か悲観的かという類のことである。

頭脳の仕組みなんて、皆大きく変わらない。アインシュタインの脳が現存しているそうだが、どこを調べても大きく変わるところはないという。例え計算力が圧倒的に高くても、それだけで数学の研究ができるわけではない。結局は人生をどう捉えているかとかいう部分にたどり着く。人生をどう捉えるかということと数学の研究がどう結び付くか?多くの人はピンと来ないかもしれないが、そのような人生に対する精神的なモチベーションが学問の研究には大きく関わってくる。

万人に理解される生き方の方が圧倒的に楽かもしれない。しかしそれは何ももたらさない。人の理解からはみ出たところからイノベーションは生まれるのである。そこを理解しないと、何に対しても当たり障りのない現状維持に終始してしまう。そしてその先にあるのは没落である。

知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。

なぜバカな生き方を求めるのか?

僕は賢い生き方はしないと心がけている?バカな生き方をしようと思っている。ただ間違ってはならないのは、何も考えないでバカな生き方をするのと、考え抜いてバカな生き方をするのとは、意味が180度違うということである。バカな生き方をするのなら、賢い生き方をするのより何倍も考え抜いて生きなければならない。

では、なぜバカな生き方をしようとするのか?それは「生きるために生きる」ということをしないためだ。生きる事には意味がある。その意味を常に考え抜かなければならない。自分の生きる意味は何か?何のために生きるのか?そのことを考えて実行することによって、生きることに哲学が生まれる。

確かにお金は大事だ。しかし最近社会で話題になるのは、老後資金を蓄えるとか、“賢い”貯蓄の仕方、そしていかに効率良く“賢く”お金を儲けるかだ。そのような“賢い”生き方は何をもたらすのか?もちろんそれによって人生が有意義に意味のあるものになるのであれば言うことはない。しかしそれらの“賢い”生き方が「生命の浪費」というだけになってはないだろうか?

人間が生きるとは多様性の追求だと言える。そうならば多様な意味、多様な可能性も求めるべきではないだろうか?そのためにたどり着いた一つの結果が「バカな生き方をする」ということである。

一般的に言われる“賢い”とは、決して“知的”という意味ではない。本当の知性とは、生きる意味を明確に認識して、その人生の意味を最大限に発揮するために生きるということである。そのような事を考えると、今の社会はあらゆる意味で迷走しているのではないだろうか?

装飾とは?

「インスタ映え」という言葉が流行って久しい。インスタ映えを求めるということは一種の装飾と言えるが、人間の装飾は何かと言えば、その代表例はもちろん服装である。また、持ち物で装飾したり、人間関係で装飾したりといろいろあるが、何で装飾するかはその人の人間性が最も表れるところである。

目に見えるもので装飾することは全然悪い事ではないが、それ以上に大切なのは目に見えない装飾である。例えば人間そのものが醸し出す装飾や生き方から感じられる装飾、そして主義主張から感じられる装飾などである。それらの装飾は人間そのものであると言え、これらの人間性による装飾がないと、服装などの外見装飾は張りぼてになる。逆に言うと、魅力的な人間装飾が存分にあれば、外見装飾はそれをより一層輝かせることが出来る。

外見装飾とは副次的なものと捉える人もいるが、時には外見装飾が主役になることもある。世の中には装飾がないと成り立たないことも多い。多くの人間は外見装飾に行動を左右されるのはその表れである。しかしそれらの外見装飾に気を取られて人間装飾を磨くことを怠っては本末転倒だ。

結局は人間性から醸し出される装飾と外見装飾をバランスよく保つことが、人間をより魅力的に魅せるには重要であろう。もちろん外見装飾などに見向きもせずに人間装飾を圧倒的に輝かせるのは圧倒的に魅力的である。そのような人物には尊敬もするし、憧れもする。その一方、外見装飾も豊かにし、わかりやすい魅力も発揮したいという欲望にもかられる。しかし人間としての本質をしっかりと心得ていれば、そのように外見装飾にそれなりに力を入れるのも悪くない。

コーヒーとの付き合い方。

飲食との付き合い方は体や頭のコンディションを左右し、極論を言えば人生を左右する。飲食との付き合いのうちで一番重要なのは、アルコールとの付き合い方だろう。以前は適量のお酒は薬になるとよく言われていたが、最近の研究結果によるとお酒は微量でも悪くなることはあれ、良いことはないということがわかったらしい。確かに依存レベルになると誰が見ても問題があるとは思うが、たまに適量を飲むことによりストレスが解消されるのならそれも良いとは思うのだが、実際はかなり意識していないとアルコールの量が増えて行ってしまう。

プロスポーツ選手は食べ物の栄養にこだわっているという話はよく聞く。僕はアスリートではないので、食事がどれくらいアスリートのコンディションを左右するのかはよくわからないが、そのような食事に対する意識はある意味プロ意識の表れだと言えるだろう。

飲食の体に対する影響は分かりやすい話だが、体だけではなく頭脳への影響も非常に重要な話である。頭脳へのアルコールの影響は言うまでもないが、僕は最近コーヒーの影響に敏感になっている。コーヒーにはカフェインが入っており、適量のカフェインなら頭脳を覚醒させると言われるが、やはり度が過ぎると良くないようだ。もちろん人によって適量は変わってくるであろうが、何事も適量に抑えることが重要になる。

頭脳を最高のコンディションに保つためにはどうすれば良いか?適量のコーヒーと、適量のチョコレート(糖分)、そして適切な睡眠であろう。そうは頭では認識していても、これら三つを上手くまとめるのは意外に難しい。過度に気を使って疲れてはどうしようもないが、ある程度の健康マニアになることはメリットが多いのではないだろうか?

自己マインドコントロール。

マインドコントロールと言えば、日本では某大事件により非常にネガティブなイメージで捉えられているが、自分をマインドコントロールすることは非常に大切な事である。自分をマインドコントロールする、すなわち自分で自分を操れないと、目標へ近づくことはできない。

逆に自己をマインドコントロールできない状態は非常に危険である。自己マインドコントロールできないと、周りからマインドコントロールされる危険性が増える。他者からのマインドコントロールが危険な事は、過去の某大事件からも明らかだ。他者からマインドコントロールされないためにも、自己マインドコントロールをしっかりとすることが必要だ。

各分野でプロと言われるくらいのトップアスリートは、おそらく自己マインドコントロールが高度なレベルで取れている。そしてスポーツ選手だけでなく、あらゆる職業でも同じことが言えるだろう。欲望は時には必要だが、打ち込むべき事に打ち込む時は、欲望に流れるのではなく自己マインドコントロールによって統制されていなければならない。もちろん時には爆発することも必要かもしれない。しかし自己マインドコントロールされているかいないかで、爆発する質も方向も180度変わってしまう。

自分の掲げる高い目標に到達するためには、まずは自己マインドコントロールによって自己を統制することが必要であることに気付く。自己マインドコントロールができる状態は、人間性を高度に保った状態だと言える。自分が人間らしく、そして自分らしく個性を出すためにも、自己マインドコントロールは非常に重要である。

主義・主張を掲げる。

主義とは何か?それは信念の主張である。日本人は主張が下手だとよく言われる。日本ではなあなあの雰囲気で物事が決まる中、自分の意見を主張するとわがままだとか協調性がないと言われる。野茂英雄氏がメジャーリーグに挑戦した時、日本では野茂氏をわがままだとけなし酷評する人が圧倒的多数だった。無言の野茂氏がそれを跳ね飛ばすことが出来たのは、実力を発揮し結果を残したことによるのは言うまでもない。自分の主張に対する批判を跳ね飛ばすのは、結果を出すしかないのだ。

主義主張の背後には覚悟があり、それをわがままだと一蹴するのは早計だ。その一方、主義主張を勘違いする人も出て来ている。単に楽をしたいからとか自分の都合の良い解釈を言い放つのは主義主張とは言えない。野茂氏のメジャー挑戦は明らかに厳しい道への挑戦であり、自分の都合だけを通した訳でも何でもない。まさしく野茂氏の強い覚悟を感じる。

近年は日本でも個性が重要だという雰囲気も出来つつあり、昔に比べれば主義主張がしやすい環境になってきた。そのような中でも、主義主張を貫くにはエネルギーもいるし、人生に対するリスクや金銭的リスクも伴う。時には命に係わることもあるであろう。しかし自分の信念に嘘は付けない。とは言え、信念だけで物事が成功する訳ではない。そこには成功への明確なビジョンがなければならない。そして実力もなければならない。それらが一つにつながった時、主義主張に基づく挑戦は達成されるのである。

野茂氏のようなパイオニアがポンポン出てくる訳では決してない。しかしパイオニアとして挑戦しようとする若者、あるいは中年かもしれないが、それらの人が厳しい挑戦に立ち向かい、リスクを取りながら成し遂げようとする意志には、大きな敬意を払いたいと思う。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

孤独死の何が悪い!

近年問題になっていることの一つに、孤独死がある。孤独死が起こるたびにニュースが流れ、孤独死が問題であるような論調で語られる。しかし僕には孤独死の何が問題なのか理解できない。僕自身も死ぬ時は人に見取られたいと思ったことは全くなく、むしろひっそりと孤独死をしたいと思っている。

孤独死の問題は、孤独に死ぬこと自体が問題ではなく、生きがいが持てないことにあるのではないだろうか?大きな生きがいを持って生きていれば、今いかにして全力で生きるかということに力を尽くすことが大事であって、どのような形で死ぬかなどということは些細な事であることが分かる。さらに言えば、孤独死を問題にしてしまうような意識の方がはるかに問題ではないのかと感じる。

もちろん人によっては、死ぬ時の形にこだわる人もいるだろう。もしかしたらそのような人の方が多いのかもしれない。しかし繰り返すように、死ぬ時の形よりも生きる形の方がはるかに重要であり、死に方を考えるくらいなら「それまでいかにして生きるか」ということを考えた方がはるかに有機的である。

人生とは惰性で生きる事では決してない。もちろん皆真剣に生きているとは思うが、生きる行為が惰性になった途端、生物学的には生きていても精神は既に死んでいる。そして孤独死にこだわることは生物学的な死に焦点を当てたものであり、大事なのは生物学的な死の直前までいかに“精神的”な生命力を発揮するかということである。

死は誰にでも訪れる。そういう意味でどのように死ぬかということは誰もが考えることかもしれない。しかしそれは孤独死を問題視しすぎる事では決してないはずだ。死に方よりも、いかにして死の直前まで自分という人間の精神活動を行うかということに焦点を当てるべきだ。

哲学無き学問は総じて軽い。

あけましておめでとうございます。新年の挨拶は軽くこれくらいにして、2019年一本目のブログ記事に入ろうと思う。

物事に取り組んでいる人は、大きく二つに分けられる。哲学を持って取り組んでいる人と、哲学無き人。哲学を学問として取り組んでいる人以外は哲学などは無用だと思っている人も多いが、哲学を持って取り組むことは非常に意味のある重要な事である。哲学無き学問は総じて軽いし、学問以外でも哲学のない物事は中身が詰まっていない張りぼてである事が多い。哲学を持って取り組んでいるかどうかによって、出来上がるものが天と地ほど違ってくる。

数学や物理の研究においても、哲学を持って取り組むことは重要だ。哲学がなければ数学は単なる計算に過ぎない。単なる計算ならコンピューターにやらせておけばよい。哲学的な部分があるからこそ人間がやる意義があるのである。数学は誰がやっても同じ結果にたどり着くと思っている人がいるが、それは全く違う。哲学の違いによって右にも左にも行き得るのだ。そこが数学研究の本質である。

ではそもそも哲学とは何か?この答えは一つではないし、答えるのは非常に難しい。ただ一つ確実に言えることは、哲学は人間だけが持ち得るものだと言うことだ。そういう意味で、哲学は人間らしさであると言える。「いかにして生きるべきか?」という問いを突き詰めていけば、自然に哲学へとたどり着く。それと同様に、「いかにして数学の本質を追究していくか?」ということを突き詰めれば、数学的な哲学を構築する必要性に迫られるはずだ。真剣に学問を追究すれば、哲学は自然と出来上がってくるものである。

もし今取り組んでいることに対して深く理解したいとか、本質を突きたいと思えば、一度立ち止まってそのことに対する哲学を立てる必要がある。そして哲学を立てることが出来れば、物事と哲学が相互作用を始め、有機的な構築が出来るはずだ。