月別アーカイブ: 12月 2018

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

新しい学問。

近年、プログラミング教育が徐々に盛んになり、小学校でもプログラミングが授業に取り入れられると聞いた。プログラミングはまだ教科とはなっていないようだが、17世紀にニュートンによって物理学が新しい学問として確立されたように、21世紀の今、プログラミングも一つの学問として成立するのではないかと感じている。

僕自身はそんなにたいしてプログラミングが出来るわけではないが、現代においてプログラミングを知らないと言うことは、日常生活で数学を使わないから数学は必要ないとか海外に行かないから英語が必要ないと言っているのと同じことではないかと感じている。

僕が大学院時代に所属していた学科は数学系の学科だったが、同期にプログラミングを研究していた友人がいた。その友人は国立情報学研究所でも講師をしていたようだが、大学院時代の僕はプログラミングの素養がほとんどなかったので、プログラミングに興味を持つことはなかった。しかし今考えると、そのようなプログラミングを専門としている友人が身近にいたことを活用できたのではないかと悔やんでいる。

プログラミングが一つの学問として成立するためにはこれからより洗練にかつ構築的に構成して行かなければならないとは思うが、プログラミングの学問としての成立前夜の今だからこそ、かなりチャレンジングなテーマが至る所に転がっているのではないかと強く感じている。

情報耐性。

近年の社会は情報の嵐である。もちろん有用な情報も多いが、中には無駄な情報やフェイクニュースなどもたくさんある。そのような情報社会に対してどのように向き合っていくか?そして無駄な情報やフェイクニュースからどのように自分を守るか?そのような情報耐性を身に付けることが求められている。

情報耐性は、無駄な情報やフェイクニュースに対してだけではない。役に立つ情報や必要な情報に対しても、それらに過度に振り回されれば自分というものが確立できない。必要な情報に対してもその情報にどのように対処していくかということは重要である。

情報耐性を身に付ける第一歩として、情報の質を見極めるというスキルを身に付けることが必要だ。その情報の情報源はどこなのか?その情報は信頼できるか?そのような事を判定してから情報の有用性を判断しなければならない。また情報氾濫時代においては、ネットなどの情報をダダ流ししているだけでは知識人とは言えない。情報氾濫社会だからこそ自分独自の知見というものが重要になる。もう、一つ一つの情報自体にほとんど価値はない。

情報耐性を身に付けていないと、人間は社会の操り人形になってしまう。人間というものは、社会に属していると同時に一個人としての独立性も確立していなければならない。しかし現代人はますます社会やネットに対する属性を深めてきている。その証拠にスマホや携帯なしに生きることはできるかと考えると、精神的なネット依存の度合いを容易に感じられるだろう。今一度情報社会との向き合い方を真剣に考える必要があるだろう。

誰のために頑張るのか?

自分は誰のために頑張るのか?自分のためか?誰かのためか?どちらにしても何かを頑張るためには誰かのために頑張ることが必要だ。

最近の僕は、「自分のため」ということに対する比重が大きすぎていた。そのため、過度に自分を守ったり慎重になりすぎることがよくあった。そのような状況を脱出するためにはどうすればよいかと考えると、誰かのために頑張ることが必要だという結論になった。誰かのためとは誰のためなのかと言うと、身の回りの人であったり、もしかしたら世界で苦しんでいる人かもしれない。とにかく他人のために頑張るということが必要なのである。

誰かのために頑張る事と自分のために頑張ることは、異なることではない。自分のために頑張って成功することにより、他人を助けることが出来る。なので他人の事を考える前に自分の事を考えなければならない。そして他人を助けることが出来る人間になれるように精進しなければならない。

誰かのために頑張ることが自分のためになり、そしてそれによって自分が成功することによって他人を助けることが出来る。そのためには心もお金も必要であるが、誰かのために頑張って自分のすべきことを進めて行こう。

「過去に戻る」のではなく、「未来に進む」。

人生40年も生きていれば、過去の良かった時、悪かった時の事を振り返って、「あの頃に戻りたいな」とか「あの頃には絶対に戻りたくない」と思うことも多々ある。しかし現実として過去には絶対に戻れない訳だし、過去に戻るということはある意味「退化」と言える。もし過去に戻ることが「進化」なら、それは逆に言うと現在は退化している訳であるので、問題はかなり深刻だ。

それにしても世の中の進展は速すぎる。スマホなんて数年前の機種はすでに時代遅れだし、社会のシステムもすごい速さで変わっていく。そのような社会システムの進展について行くべきなのか?それともそんなことは気にするべきではないのか?悩むところだが、社会システムを気にしなければあっという間に仙人状態になってしまう。まあ、自分の人間としての軸をしっかりと持っていれば問題ないと思うが、ハイテク社会を素直に楽しめない自分がいる事には自分でも少し腹が立ってしまう。もっと世の中をエンジョイしたいものだ。

そんな僕にも、日常生活の中でエンジョイしているのがファッションだ。とは言っても現在はそんなに余裕があるわけではないので本屋でファッション雑誌立ち読みして色々と妄想するくらいだが、いろいろな面で余裕が出来たらその時は思いっきりファッションをエンジョイしたいと思っている。

社会の流れに身を任せるか?それともその流れに抗うか?そこには人の生き方や思想が大きく表れるとこだと思うが、僕自身はもう少し楽に考えればよいのではないかと反省してしまう。やはり何に関してもエンジョイできる事に越したことはない。しかし時にはストイックに追究することも必要だ。エンジョイすることとストイックに追求することをいかに両立するか?そのような二刀流の達人になることを目指して進んでみよう。

前例と挑戦。

日本は何かと前例にこだわるとよく言われる。前例主義に対しては批判的な意見が多いが、なぜか自分の事となると前例にこだわる人が多い。前例がないから無理だと諦めたり、人のやっていることに対してそんな事は前例がないからやらないほうが良いと助言したりする。とは言え、裁判においては公平性と法律の厳格性から前例を厳守することは言うまでもない。しかし自分の生き方を前例と照らし合わせて決めていれば、それは自分の人生ではなく他人の人生のコピーになってしまう。

前例主義と対比を成す言葉は「挑戦」だと僕は考えている。すなわち挑戦とは前例を打ち破ることから始まる。人生において挑戦を繰り返すことによって、自分の人生に個性というものが現れる。前例にこだわり挑戦ができない人は、自分の軸を確立していないからだ。前例に軸を置くなんてことは裁判の判決でない限りありえない。自分の軸を確立してこそ、その軸が示す指針により挑戦という手段に出ることが出来るのだ。

研究においても、確実な結果を出そうという意識が高い人ほど前例にこだわることが多い。確実な結果を出そうという意識には二種類ある。一つは挑戦のその先にある革新的な結果を出すために確実性を高める事。もう一つは失敗しないための確実性を高める事。前例にこだわるのは後者の方だ。確かに小さいながらも結果を出さないことにはポストにも就けないし、ポストに就けないということは研究ができないということにもつながる。特に生命科学や化学などの実験系では、ポストに就いて実験施設を確保しないと何もできない。しかし幸いなことに、数学や理論物理の研究はせいぜい専門書や論文を入手する資金を確保できれば何とか研究を実行できる。

前例を踏襲するのではなく、良き前例を作っていかなければならない。これを研究の言葉で言い換えると、新たなる流行を作るということになる。流行は追うのではなく作らなければならない。そのためには前例主義から脱却して挑戦を繰り返していくしかない。そしてどれだけ失敗を繰り返してきたか?失敗の数は恥ではなく勲章の数である。多くの失敗を繰り返さないと大きな成功はありえない。失敗ドンと来いだ!

二刀流!

最近は二刀流が何かと話題だ。二刀流と言えば真っ先にメジャーリーグの大谷翔平選手の名前が挙がる。大谷選手は、投手に専念すれば大リーグ一の投手になれる可能性があるし、打者に専念すれば大リーグ一の打者になれる可能性がある。そのようにあまりにも才能豊かな選手であるが故に、一本に絞るべきだと言う人が多い。しかし大谷選手の一番の魅力は、一番の打者、一番の投手と言う以前に、前代未聞の二刀流選手だということである。僕自身も大谷選手の二刀流を見続けたい気持ちは非常に大きい。一番であるという以上に「唯一」の二刀流大リーガー、大谷翔平を見たいのである。

大谷選手の価値は二刀流の大リーガーというだけではない。大谷選手の二刀流の成功によって、様々な分野で二刀流に挑戦する人が出ており、二刀流が注目を浴びている。日本には二刀流という言葉があると同時に、「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もある。これまでは二つの事を同時にするというと、そういう意見をされることが多かったのではないかと思う。しかし大谷翔平選手の成功により、二刀流が肯定的に捉えられるようになってきた。しかし二刀流には一兎も得ずという危険性は常に付きまとう。二刀流に挑戦するに当たっては、そのようなリスクにさらされることは覚悟しないといけない。

学問を追究するにおいては専門を定め、一兎を追うことに専念することが要求される。それ故、学者は「専門家」とも呼ばれる。しかし研究者にも二刀流がいても良いのではないかと思う。何なら三刀流、四刀流でもいい。特に人生においては何刀流にでもなるくらいの気構えが必要である。細分化された専門にこだわり重箱の隅を突くようなことは避けたい。重要な事を成し遂げるには、しばしばいくつにもわたる知識と知恵が必要になる。すなわち一つの刀では核心に迫れない。本質に迫るような仕事を成し遂げる人は、いくつもの刀を持っている。

大谷翔平はとてつもなく凄い人間になってしまったが、大谷翔平のように二刀流に挑むバカな人間が何人も現れれば、その中の一人や二人くらいは大谷選手に迫るくらい凄い人間になるのかもしれない。歴史を変える人間とは、そのようなバカな人間から出てくるものである。

僕は僕にしかできない生き方をすべきだ。

人の幸せな姿を見て、自分もそのように幸せになりたいと思う人は多いかもしれない。しかし僕はそうは全く思わない。人の幸せがあるなら、僕には僕なりの幸せがある。僕は僕にしかできない生き方をすべきだと常々思っている。

僕は良い意味でも悪い意味でも普通ではない。普通ではないから、人が普通にできる事が出来なかったりする。逆に普通ではないからこそ、人には出来ないことが出来る。人に幸せを与えることが出来ているかなどと大逸れたことは言えないかもしれないが、僕は僕なりのやり方で人に幸せを与えるべきだと思っている。そのように周りの人や多くの人に幸せを与えることが出来れば、僕自身も幸せである。

そしてそのように人に幸せを与えるためには、今は努力をしなければならないと思っている。努力とは一言で簡単に言えるが、もちろん簡単に努力ができるものではない。しかし簡単に努力ができるくらいにならねばと思っている。

僕には研究において非常に大きな目標がある。そのような大きな目標を言うと、人にはバカにされるかもしれない。しかし僕にとってはそのような目標に向かうことは体の一部となっており、普通のことである。非常にチャレンジングでエキサイティングな挑戦であり、それに向かって進むことは非常にわくわくさせてくれることである。

僕に数理物理という目標を与えてくれたことに感謝、そして人とは違う生き方をできる事に感謝。よし、頑張ろう!

スタンダードで自己表現をする。

自己表現をする時に、奇をてらう人は多い。例えばファッションにおいて個性を出すと言えば、大概の人は奇抜な物を身に付けることによって個性を出そうとする。確かに奇抜なものは目立ちやすいしわかりやすい。しかし奇抜なものによって安易に個性を出そうとするのは、僕は個性でも自己表現でも何でもないと思っている。奇をてらわないと表現できないのは、人間性のなさだ。

男性の基本的な服装はスーツだと思うが、スーツにおいて奇をてらうことは一番ナンセンスだと思う。スーツはネイビーかグレーのスタンダードスーツでいい。しかし不思議なことに同じネイビースーツを着ても様になる人とならない人がいる。ネイビースーツを着こなすためには自分の体というものを熟知していなければいけないし、長年着こなして様になるものである。

ファッションだけでなく、普段の振る舞い、そして学問に対する姿勢も同じである。スタンダードという基本を身に付け、それによって表現しなければならない。学問においては人のやらないことが大事だとよく言われる。それはもっともなことであり、人のやらないところからスタンダードを作っていかなければならない。人のやっていることはスタンダードではなく流行である。

スタンダードとは日本語で言うと「標準」ということであるが、実はスタンダードを極めることは非常に難しい。スタンダードを極め、次世代のスタンダードを作らなければならない。そしてスタンダードにおいて自己表現をするということは非常に難しいものである。そのような深い自己表現ができない人はすぐに奇をてらおうとする。人のやらない事、人のやらない手法で取り組むときは、それが後々スタンダードになりえるかということを考えなければならない。

表層と深層。

物事にも人間にも、表層と深層がある。表層とは主に第一印象で決まることであり、真相とは時間をかけて感じられるものである。人間の奥深さ、つまり深層が大事なのは誰もが思っていることであるが、だからと言って表層が全くいらないかと言えばそうではない。車を買う時に、性能が良ければ塗装はボロボロでいいと言う人はほとんどいない。人間においても奥深さを持つということは非常に重要な事であるが、人間性という深層を深めればその余力で表層にも気を使いたいものである。

学問にもファッションにも表層と深層がある。学問とファッションにおける表層とは、流行に乗ることである。学問に対して流行があるとはなかなかイメージできない人も多いかもしれないが、学問においてもその時々の流行はある。そして流行を追い続けている研究者は非常に多い。しかし学問においてもファッションにおいても、重要なのは自分のスタイルを確立することである。流行の理論、流行のファッションと言う以前に自分のものでなければならない。

もちろん、ファッションにおいても学問においても流行を徹底的に追うというのは一つの手ではある。それに長けている人はその手を徹底的に追究すればよい。しかし意外と本質とは流行とは発想を180度転換させたところにある事が多い。その典型的な例がアインシュタインの相対性理論であろう。

表層と深層は多くの場合補完し合うものである。しかし多くの場合は深層が本質的であり表層が枝葉となる。そして流行から流行は生まれず、流行は本質から生まれる。流行を作ることは並大抵の事ではないが、深層を掘り下げることにより、次世代の本質の尻尾を掴めるのではないかと常々考えている。