日別アーカイブ: 2018年12月7日

命が大事なのか?経済が大事なのか?

社会の機能において、経済の重要性は言うまでもない。現代社会においては、お金が回らないと生活そのものが成り立たなくなる。すなわち、経済が人の命を握っていると言っても過言ではない。

では、「人の命と経済のどちらが大事か?」と問われれば、ほとんどの人が人の命の方が大事だと言うだろう。このことは誰が考えても異論はない。しかし現在のエネルギー政策においては、必ずしもこの答えのように進むとは限らないようだ。人の命よりも経済の方が優先されることはよくある。このことは道義上は明らかに間違っている。しかし経済が多くの人の命を救う可能性があるということを考えれば、経済の重要性も考慮に入れなければならない。とは言え、無駄な犠牲を強いることは決してあってはならない。

エネルギー政策に携わっている政治家たちは、物もお金も、そして人間もマクロなレベルで考えることになるので、どうしても現場というものが見えにくくなるのかもしれない。もちろんそのような事を避けるために政治家は視察を頻繁に行っている。しかしそれで十分かと言われれば決して十分とは言えない。経済学にマクロとミクロがあるように、人間の動きにもマクロとミクロがある。この双方の視点を併用して施策を打ち出すことが大事であるが、実際にそれができる政治家は少数派であろう。

又聞きであるが、東日本大震災の時にビートたけしがこんな言葉を言っていたらしい。それは「2万人が死んだということが一件起きたのではない。一人が死んだということが2万件起きたのである。」確かにマクロ的な視点では、震災という出来事を一件の大きな事件とまとめようとしてしまう。しかしミクロ的な視点で見ると、そこには2万件という膨大な事件が日本各地で同時発生していたのである。何を主眼に置いて見るかによって、物事の捉え方は大きく変わる。何事も複眼的に見て判断しなければいけない。

時代の変化。良いのか?悪いのか?

時代の認識は常に変化している。昔良かったことが現在では悪い事だと言われることは多々ある。その逆もあるだろう。悪い事が時代が進むにつれて正されることは良い事だろう。しかし「なぜそうあるべきなのか?」という考察を全くせずに流れや雰囲気だけで変化して行くことには危険な事も多い。時には改悪されることもよくある。

そして最近の風潮で僕が危険だと思うことは「拡大解釈」だ。数学や物理では拡大解釈、あるいは一般化ということはよくされる。しかし拡大解釈や一般化をするに当たっては、その根拠、すなわち裏付けが必要である。同様に社会の風潮でも根拠や裏付けに当たる深い考察は絶対的に必要だ。考察のない拡大解釈は、多くの場合改悪につながる。

社会の方向性は良い方を向いていると思いたいが、現代社会の中にある風潮や認識を見ると、多くの改悪がなされていると言わざるを得ない。また、良い方向へと向かっていたとしても、度が過ぎると非常に生きづらい世の中になる。

メリットとデメリットは多くの場合同時に表れる。重要なのは、メリットとデメリットを天秤に掛けて判断することである。メリットだけを視野に入れメリットが1増えるとしても、デメリットが10増えればそれは本末転倒だ。物事は大局的に見て判断しなければならない。

僕がなぜこのような記事を書いたのか?それは現在の世の中が非常に生きづらい社会になっているのではないかと感じているからだ。確かに現代社会は非常に“便利”な世の中になっている。しかし便利だからと言って“生きやすい”という訳ではない。例えば昔はスマホもなく不便であるが故に一期一会を大切にしていた。しかし現代社会では安っぽい出会いが増えている。もちろんネット上でも大切な一期一会は存在するが、そのありがたみをなかなか感じられないでいるのではないだろうか?

技術は常に発展し続けている。しかしその技術の利用の仕方を間違えたり過度に依存しすぎると、本来人々を便利にさせるための技術が人々を生きづらくさせてしまう。そしてそのような事は技術だけではなく、風潮や人々の認識、そして規則にも言えることだ。