月別アーカイブ: 12月 2018

年末だからって?

2018年もついに終わり、大晦日だ。そして来年は平成が終わる。年末、そして平成末ということで、何か締めくくりをしたり振り返ったりと色々な所でされているが、よくよく考えてみると年末だから一年を振り返るというのもありきたりであり、予定調和のような気がする。なので今年は予定調和に逆らい、一年を振り返ることはしないことにしようと思う。しかし一年は振り返らないけど、来年の抱負なり目標は明確に定めたいと思う。

常に刺激を求め続け、人生において攻撃的姿勢で臨もうと思っているが、そのように心がけていてもつい守りに入ってしまうことがある。保身だけは絶対にしないぞと常に心がけているが、現在そうなり切れているかは少し疑問だ。守りの自分にオサラバして、飛躍を求め続けたいと思っている。本当に守りに入っている時の自分は凄く嫌いだ。

生きるとは人との関係において、あるいは社会においてどう生きるかということかもしれないが、最近僕が感じているのは自分とどう向き合うかだ。自分と向き合い自分を納得させることが出来る生き方をしないと、人との関係も思うように築けない。強いスポーツ選手ほど「自分との戦いだ」と言うが、人生目標を高い所に掲げていればやはり「自分との戦いだ」ということを強く感じる。

一年は振り返らないが、大晦日には来年一年間、そしてこの先十年間を強く見据えようと思う。自分には厳しく向き合おうと思うが、まだまだ甘い所もたくさんある。研究をする時は真剣に思いっきり打ち込み、遊ぶ時も真剣に思いっきり遊びたい。遊びというのは無駄ではなく、ある意味活力源だと思う。真剣に思いっきり遊べない奴は、本業にも真剣に向き合えないと思う。最強の遊び人であり、最強の研究者である、それが僕の目指すところだ。

法律は武器だ!

僕自身は法律に関してはどちらかと言うと疎い方で、詳しい訳でも何でもない。僕はいろいろな分野の学問に対して興味を持っているが、法学に関してはなかなか乗り気になれない。法文自体に自然法則がある訳でもなく、法文を読むことは現時点では苦痛でもある。

しかし最近は、法律は出来る限り理解すべきだと思っている。法律を知ることは生きる上で武器になる。ビジネスを行っている人にとっては、法律を理解することは必要不可欠であるし、ビジネスの勝者は多くの場合、法律を上手く活用し、時には法律の網を上手く掻い潜った者である。また社会をストレスなく生きるためには、法律を正確に理解し、自分流に解釈することが必要だと思う。

ここ最近、日産のカルロス・ゴーン元会長に対する検察の取り調べが話題になっている。ここで争点になっているのは、当たり前の事であるが違法性があるかどうかだ。一般市民にとってはゴーン氏がけしからんと良い悪いという物差しで見てしまうが、事件の争点は良い悪いではなく、合法か違法かということである。もちろん、悪い事をしないようにするために法律というものが制定されているのだが、必ずしも「良い=合法、悪い=違法」というわけではない。そこに法律の本質がある訳であって、上手く法律を活用できるかということが物事を進める上で重要になる。

法律は非常に膨大である。従って我々のような専門外の人間が法律を全て理解するのは不可能であるが、自分に関係する法律の根幹くらいは理解しなければならないと思う。しかし僕は現在そこまでは法律を理解できていない。それが故に無用な悩みを抱えてしまうこともある。ストレスフリーに生き、自由に自分の打ち込むべきことに集中するためにも、自分に関わる法律の最低限の事くらいは理解したいものである。

評価にさらされる実力世界に飛び込めるか?

1990年代から2000年代初頭の不況が長く続いた影響か、近年の日本人は極度の安定志向だ。好景気だと言われている現在でも公務員は人気だし、何かに取り組む時も保障やリスク回避を最優先に考えているように思える。もちろんそのような現在でも、自分の腕を信じて嵐の中に飛び込もうという人は少なからずいる。

リスクよりも、やりがいや達成感を求めて自分の信じる道へ進み、常にシビアに評価にさらされる世界というのも非常に魅力的であると思うのだが、このことを同感してくれる人はもしかしたら少ないのかもしれない。そのような世界に進んだ人に対しては「素晴らしいね」と声をかけても、いざ自分がそのような世界に飛び込むかということになると躊躇して避けるのではないだろうか。もちろん他人に対してリスクにさらされる世界に進めと言う気は毛頭ない。むしろほとんどの人には安全・安定な道へ進むことを薦めるし、そのように後押しをしたいと常々思っている。とは言え、全てのリスクを避け、常に安全地帯に居座ることが果たして良い選択なのかというと疑問に思うのだが。

結果を出すまでは何も得られない。しかし結果を出せばそれに対する対価を得る。そのようなシンプル極まりない原理の方が最も自然で道理に合っていると思うのだが、現実世界はどうもそうではないようだ。しかし実力世界で勝負しようという人にとっては、世界がおかしかろうがそのような事を過度に気にする必要はない。とにかく自分が成し遂げようとすることに全力を尽くすだけだ。

安全地帯にいるのもいいが、時には嵐の中に飛び込んで人生の勝負をかけるということも必要ではないだろうか?

学問を“道”と捉える。

日本には“道”という概念がある。柔道や剣道などのスポーツから、茶道や書道などの文化まで、日本の隅々まで道の概念は浸透している。外国人にとって道という概念を理解するのは非常に難しいことかもしれない。しかしほとんどの日本人は道という概念のイメージくらいは持っていると思われる。

学問を道と捉えられることはあまりない。その理由は、学問の多くは起源を欧米に持ち、その精神も欧米的に熟成されているからだと思われる。しかし日本人が学問を究める姿はどことなく道の雰囲気が漂っている。僕はそれは一つの極め方としてアリだと思っている。学問を道と捉えて極めるのは、おそらく日本人にしかできない。

その一方、欧米の学問スタイルにも大きな魅力がある。それは“徹底的に自由なスタイル”である。欧米の多くの学問は非常に自由である。自由であるが故に独創的な発想も生まれる。それに対して日本人は“こうあるべきだ”という固定観念を持ちがちである。もちろん“こうあるべきだ”と思っていることを追求するというのも一つの手だが、一つ間違えるとガチガチに固まり学問において最も重要な柔軟性を失ってしまう。

学問に対する取り組み姿勢としては“道”と捉えて精進することは非常に素晴らしいことだし、そのような日本人にしかできない姿勢を貫くべきだと思う。しかし思考の在り方は徹底的に自由でなければならない。そのように学問の“道”と“自由”を徹底的に極めることが、学問を進歩させるうえでの大きな突破口になると感じている。

文献の把握。

現在、取り組んでいるテーマに関しての文献を収集している。中には絶版になっている書物も多く、自然科学書専門古本書店に注文することも多い。先ほど、僕の研究において最も重要な書物を調べると、どうやら最近絶版になったようだが、ジュンク堂の在庫をネットで調べるとわずかに残っていたので、急きょ取り寄せの手続きをした。この書物は実は手元にあるのだが、かなり使い込んでボロボロになっており、さらに紛失すると大変な事になるので、予備として購入することにした。

学問をするにおいて、文献の把握は最も重要だ。実験系の科学だと言うまでもなく実験が最も重要だが、文献の把握はその次に重要だと言える。さらに理論系の学問においては言うまでもない。

論文や専門書を見る時、初めにリファレンス(引用文献や参考文献)をチェックすることが多い。リファレンスの一覧を見てその論文はどのような内容なのかをある程度把握できるし、リファレンスからリファレンスへとたどって行くこともよくある。特にその研究に関するオリジナルな文献に当たることは最も重要な作業である。

学問の研究をしていると、手元には膨大な文献が蓄積されていく。他の人が見たらどこに何の書物が置いているか全くわからないのではと思われるかもしれないが、研究者自身は数百冊ある専門書や論文などの文献の在り処は全て把握しており、瞬時に目当ての文献を手にすることが出来る。どの書物がどこに置いているかわからないというようでは全く話にならない。

研究者の中には書物をほとんど所有せずオリジナリティーの高い研究を行う人もいる。そのような人は相当独創的な人なのだろう。僕にはそのような真似は絶対にできないし、そのような研究者は非常に尊敬している。昔読んだ本に、大数学者である岩澤健吉博士に関する記事が載っていたが、その記事によると岩澤博士の本棚には数冊の書物しかなかったという。まさに驚異的である。

学問を研究するに当たって、研究スタイルは人それぞれだと思う。しかし岩澤博士のような驚異的な例外を除いては文献収集は必要不可欠な作業だ。目当ての文献を入手できるかどうかが結果に直結してくる。まさに「文献を制する者は、研究を制す」と言ってもいいだろう。文献を入手するための金銭と労力は絶対に惜しむべきではない。

同調圧力の中の相互監視社会。

日本は「絆」とか「力を合わせて」という美徳を持ち合わせている。と言いたいところだが、これは本当に美徳だろうか?震災が起きた時に協力し合う絆は確かに美徳であろう。しかし力を合わせて助け合うという一方、力を合わせていじめるということも至る所で見られる。自分と同じような人とは助け合う一方、異質なものを排除するという側面もある。良くも悪くもこれらは同調圧力のもたらす力だと言える。

今日本社会で最も怖いのが「相互監視」だ。犯罪者を監視するということにとどまらず、周りの人が人と違うことをしていないかということを常にチェックしている。またそれらの同調圧力の結果、「自分は皆と同じ振る舞いをしているか?」ということを常に気にし続けている。話す言葉はすべて当たり障りのない言葉だ。

なぜノーベル賞受賞者はノーベル賞を取れるのか?それは一言で言うと、皆と違うことをしているからだ。同調圧力の下では独創的結果などは100%生まれない。日本において独創性を発揮しようとすれば、何をやるかという以前にまずは同調圧力を跳ね飛ばすというところから始めなければならない。そのような精神力を持つことは決して容易ではない。しかし残念な事に、まずはそのような精神力から話を始めないといけない。それが現在の(昔からか?)日本の現状である。日本では確実に出る杭は打たれる。従って出すぎた杭になれるような飛び抜けた結果を出すか、皆と同じ普通の結果しか出さないかのどちらかしか生き残れない。

努力しないのが普通である集団の中では、努力する人が叩かれるという何とも悲惨な状況も存在している。皆がお互いに可能性の芽を潰しあっている。この様な社会に未来はあるのかと言えば、確実に未来はない。今まで上手く行ったからといって、これからも上手く行くとは限らない。同調圧力の中にある相互監視社会が何をもたらすか?そのことに対してもう少し想像力をたくましくしなければならない。

権力や政治力ではなく、実力で!

権力者が備えているべき力、それは実力である。しかし現実はどうやらそのようではない。政治力によって権力者になる人も多い。もちろん実力を発揮して上にのし上がる人も多いが、政治力だけによってのし上がれる世界というのは多くの場合歪んでいる。

もちろん政治力が全く悪かと言えばそうではなく、政治力が重要な実力になる世界もある。特に大きな組織では政治力によって組織の調和と調整を行うということが重要であることが多い。しかし例えばスポーツの世界では政治力などはほとんどいらないし、学問の世界でも厳格な実力の世界であるべきだ。しかしどのような世界でも政治力を持つ人が一定の力を得るという構造が見られる。

しかし例え政治力が必要な世界でも、初めは実力を磨くべきだ。技術者なら技術を、そして社会においても社交力や知識などを身に付けて行くべきだ。もちろんそれぞれの世界で必要になる力はそれだけではなく、実際はあらゆる力の総合力が必要になる。

ある一部の分野では世襲というものが根強く続いている。それはそれでいいのかもしれないが、僕はそのような世界とは対極的な位置にいる。そのようなポジションで生きている人間にとっては、付けるべき力は政治力ではなく実力である。実力の世界というものは非常に面白くエキサイティングだ。初めは何も約束がされていない。そのような地点からスタートしどこまで世界の本質に潜り込めるか?全ては自分の力にかかっている。あとは自分の意志をどこまで貫けるかだ!

自分を打破する!

無意識の内に自分で自分を束縛していることがよくある。自分を束縛することは暴走を防ぐというわずかなメリットもあるが、前に進むことを防いでしまうという大きなデメリットがある。これは大きな目標に向かって前進しようとする者にとっては致命的である。そのような束縛を打破することは緊急の課題である。

では自分を打破するためにはどうすればいいか?一つは意識を改革しなければならない。簡単に言うと、守りから攻めへの転換である。日常において自分を守ろうという過度な意識は、結果的には自分の可能性を消滅させてしまう。特に保身をすることは自滅へとつながる。このことは普段のテレビニュースを観ても明らかであろう。過度な守りは自分を守ることもできないのである。

その一方、「攻撃は最大の守りである」という言葉があるように、常に攻め続けないと自分を存続させることもできない。つまり攻めと守りというのは明確に分かれている訳ではなく、お互い常に連動しているものなのである。守りのための守りではなく、攻めのための守りという未来志向の動きに出なければならない。

今の悶々とした現状をどう打破すべきかと常々考えているが、そのためにはあらゆる意味で攻めを意識した行動に出るしかないと思う今日この頃である。

多趣味!

ここ数年、僕の興味の範囲は広がる一方だ。学問から文化、物や事、あらゆることに対して興味を持っている。これらの事に興味を持つことはある意味「多趣味」とも言えるが、ただ多趣味なことが良いのか悪いのかわからない。しかし現実として現在の僕は多趣味であり、このような自分を否定することもないと思うので、多趣味路線を貫こうかと思う。そして多趣味路線で行くのなら、徹底的に多趣味路線を極めようと思う。ただ、専門の数理物理をおろそかにしてはいけない。数理物理の研究を最優先に行い、それ以外の時間をあらゆる趣味につぎ込もうと思う。

趣味にはお金のかからないものからお金がべらぼうにかかるものまで様々ある。つまりお金をかけ出したらきりがないが、お金をかけなくてもできる趣味はたくさんある。特に学問はお金をかけなくてもある程度の所までは行ける。実験系の学問のように莫大な研究費が必要な学問はともかく、理論系の学問はせいぜい書籍代だけを確保すれば何とかなる。ただしとことん極めようとすれば理論系でもそれなりのお金はかかる。ある意味それだけのお金をかける覚悟というものが問われているのかもしれない。

趣味と欲はかなり相関関係があるように思える。欲があるからこそ様々な趣味に興味を持つことが出来るのだ。無欲(というより無気力)では、趣味に取り組もうという意欲も湧かない。欲に対して否定的な意見を持つ人もいるが、僕は欲は様々な事を成し遂げようとする大きな原動力になり得ると思う。欲によって前進できるのなら、いくらでも欲を持てばよい。欲を持ち、その欲をコントロールすることによって、自分という人間を次のステージへと進めることが出来る。

一つの事だけに集中し、それだけを極めるという仙人のような生き方は非常に魅力的であり尊敬に値するが、多趣味という生き方を極め、あらゆる知識やスキルを身に付けることも素晴らしいことだと僕は思う。多趣味というのも一つの人間性であり個性である。あらゆることに興味を持てるのならば、それを武器として自分を高めていくのも一つの意義のある生き方だと思う。

なぜ一喜一憂しないか?

タイトルに反するようだが、僕はかなり一喜一憂するお調子者だ。上手くいくと喜び、失敗するとその時は落胆する。そのように表面的には一喜一憂することは日常茶飯事だが、本質的な部分では一喜一憂しないように心がけている。ではなぜ一喜一憂しないことが大事なのか?それは本当に喜ぶのは一番大事なことが成功した時だけでよく、また物事の成否は長い目で見て判断することが大事だからである。

僕にも様々な欲があり、いろいろな事を成し遂げたいと思っている。しかし上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。僕はそのうちの9割は失敗しても良いと思っている。もしかしたら9割9分かもしれない。しかし本当に大事な一つの事、あるいは二つ三つの事だけ上手くいけばよいと思っている。そしてその本当に大事なことを成し遂げることが出来ればその時に思いっきり喜べばよい。

そのように本当に大事な事に対して喜ぶためには、一つ重要な事がある。それは物事の価値を見分けるということだ。あるいは言葉を変えると、優先順位を明確に付けられるかということである。優先順位を付けることが出来ないと、何が本当に重要で何が重要でないかということが判断できない。

一喜一憂しない冷静さと、本当に重要な事を成した時に爆発させる喜びの両方を持ち合わせることが非常に大事なのである。僕自身はいつもゲラゲラ(ヘラヘラ?)と笑っているが、自分にとって最も重要だと考えている事に対しては誰よりも真剣に向き合っているという自負はあるし、今はその最も重要な事を成し遂げる事に全力を尽くしたいと思っている。

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

新しい学問。

近年、プログラミング教育が徐々に盛んになり、小学校でもプログラミングが授業に取り入れられると聞いた。プログラミングはまだ教科とはなっていないようだが、17世紀にニュートンによって物理学が新しい学問として確立されたように、21世紀の今、プログラミングも一つの学問として成立するのではないかと感じている。

僕自身はそんなにたいしてプログラミングが出来るわけではないが、現代においてプログラミングを知らないと言うことは、日常生活で数学を使わないから数学は必要ないとか海外に行かないから英語が必要ないと言っているのと同じことではないかと感じている。

僕が大学院時代に所属していた学科は数学系の学科だったが、同期にプログラミングを研究していた友人がいた。その友人は国立情報学研究所でも講師をしていたようだが、大学院時代の僕はプログラミングの素養がほとんどなかったので、プログラミングに興味を持つことはなかった。しかし今考えると、そのようなプログラミングを専門としている友人が身近にいたことを活用できたのではないかと悔やんでいる。

プログラミングが一つの学問として成立するためにはこれからより洗練にかつ構築的に構成して行かなければならないとは思うが、プログラミングの学問としての成立前夜の今だからこそ、かなりチャレンジングなテーマが至る所に転がっているのではないかと強く感じている。

情報耐性。

近年の社会は情報の嵐である。もちろん有用な情報も多いが、中には無駄な情報やフェイクニュースなどもたくさんある。そのような情報社会に対してどのように向き合っていくか?そして無駄な情報やフェイクニュースからどのように自分を守るか?そのような情報耐性を身に付けることが求められている。

情報耐性は、無駄な情報やフェイクニュースに対してだけではない。役に立つ情報や必要な情報に対しても、それらに過度に振り回されれば自分というものが確立できない。必要な情報に対してもその情報にどのように対処していくかということは重要である。

情報耐性を身に付ける第一歩として、情報の質を見極めるというスキルを身に付けることが必要だ。その情報の情報源はどこなのか?その情報は信頼できるか?そのような事を判定してから情報の有用性を判断しなければならない。また情報氾濫時代においては、ネットなどの情報をダダ流ししているだけでは知識人とは言えない。情報氾濫社会だからこそ自分独自の知見というものが重要になる。もう、一つ一つの情報自体にほとんど価値はない。

情報耐性を身に付けていないと、人間は社会の操り人形になってしまう。人間というものは、社会に属していると同時に一個人としての独立性も確立していなければならない。しかし現代人はますます社会やネットに対する属性を深めてきている。その証拠にスマホや携帯なしに生きることはできるかと考えると、精神的なネット依存の度合いを容易に感じられるだろう。今一度情報社会との向き合い方を真剣に考える必要があるだろう。

誰のために頑張るのか?

自分は誰のために頑張るのか?自分のためか?誰かのためか?どちらにしても何かを頑張るためには誰かのために頑張ることが必要だ。

最近の僕は、「自分のため」ということに対する比重が大きすぎていた。そのため、過度に自分を守ったり慎重になりすぎることがよくあった。そのような状況を脱出するためにはどうすればよいかと考えると、誰かのために頑張ることが必要だという結論になった。誰かのためとは誰のためなのかと言うと、身の回りの人であったり、もしかしたら世界で苦しんでいる人かもしれない。とにかく他人のために頑張るということが必要なのである。

誰かのために頑張る事と自分のために頑張ることは、異なることではない。自分のために頑張って成功することにより、他人を助けることが出来る。なので他人の事を考える前に自分の事を考えなければならない。そして他人を助けることが出来る人間になれるように精進しなければならない。

誰かのために頑張ることが自分のためになり、そしてそれによって自分が成功することによって他人を助けることが出来る。そのためには心もお金も必要であるが、誰かのために頑張って自分のすべきことを進めて行こう。

「過去に戻る」のではなく、「未来に進む」。

人生40年も生きていれば、過去の良かった時、悪かった時の事を振り返って、「あの頃に戻りたいな」とか「あの頃には絶対に戻りたくない」と思うことも多々ある。しかし現実として過去には絶対に戻れない訳だし、過去に戻るということはある意味「退化」と言える。もし過去に戻ることが「進化」なら、それは逆に言うと現在は退化している訳であるので、問題はかなり深刻だ。

それにしても世の中の進展は速すぎる。スマホなんて数年前の機種はすでに時代遅れだし、社会のシステムもすごい速さで変わっていく。そのような社会システムの進展について行くべきなのか?それともそんなことは気にするべきではないのか?悩むところだが、社会システムを気にしなければあっという間に仙人状態になってしまう。まあ、自分の人間としての軸をしっかりと持っていれば問題ないと思うが、ハイテク社会を素直に楽しめない自分がいる事には自分でも少し腹が立ってしまう。もっと世の中をエンジョイしたいものだ。

そんな僕にも、日常生活の中でエンジョイしているのがファッションだ。とは言っても現在はそんなに余裕があるわけではないので本屋でファッション雑誌立ち読みして色々と妄想するくらいだが、いろいろな面で余裕が出来たらその時は思いっきりファッションをエンジョイしたいと思っている。

社会の流れに身を任せるか?それともその流れに抗うか?そこには人の生き方や思想が大きく表れるとこだと思うが、僕自身はもう少し楽に考えればよいのではないかと反省してしまう。やはり何に関してもエンジョイできる事に越したことはない。しかし時にはストイックに追究することも必要だ。エンジョイすることとストイックに追求することをいかに両立するか?そのような二刀流の達人になることを目指して進んでみよう。

前例と挑戦。

日本は何かと前例にこだわるとよく言われる。前例主義に対しては批判的な意見が多いが、なぜか自分の事となると前例にこだわる人が多い。前例がないから無理だと諦めたり、人のやっていることに対してそんな事は前例がないからやらないほうが良いと助言したりする。とは言え、裁判においては公平性と法律の厳格性から前例を厳守することは言うまでもない。しかし自分の生き方を前例と照らし合わせて決めていれば、それは自分の人生ではなく他人の人生のコピーになってしまう。

前例主義と対比を成す言葉は「挑戦」だと僕は考えている。すなわち挑戦とは前例を打ち破ることから始まる。人生において挑戦を繰り返すことによって、自分の人生に個性というものが現れる。前例にこだわり挑戦ができない人は、自分の軸を確立していないからだ。前例に軸を置くなんてことは裁判の判決でない限りありえない。自分の軸を確立してこそ、その軸が示す指針により挑戦という手段に出ることが出来るのだ。

研究においても、確実な結果を出そうという意識が高い人ほど前例にこだわることが多い。確実な結果を出そうという意識には二種類ある。一つは挑戦のその先にある革新的な結果を出すために確実性を高める事。もう一つは失敗しないための確実性を高める事。前例にこだわるのは後者の方だ。確かに小さいながらも結果を出さないことにはポストにも就けないし、ポストに就けないということは研究ができないということにもつながる。特に生命科学や化学などの実験系では、ポストに就いて実験施設を確保しないと何もできない。しかし幸いなことに、数学や理論物理の研究はせいぜい専門書や論文を入手する資金を確保できれば何とか研究を実行できる。

前例を踏襲するのではなく、良き前例を作っていかなければならない。これを研究の言葉で言い換えると、新たなる流行を作るということになる。流行は追うのではなく作らなければならない。そのためには前例主義から脱却して挑戦を繰り返していくしかない。そしてどれだけ失敗を繰り返してきたか?失敗の数は恥ではなく勲章の数である。多くの失敗を繰り返さないと大きな成功はありえない。失敗ドンと来いだ!

二刀流!

最近は二刀流が何かと話題だ。二刀流と言えば真っ先にメジャーリーグの大谷翔平選手の名前が挙がる。大谷選手は、投手に専念すれば大リーグ一の投手になれる可能性があるし、打者に専念すれば大リーグ一の打者になれる可能性がある。そのようにあまりにも才能豊かな選手であるが故に、一本に絞るべきだと言う人が多い。しかし大谷選手の一番の魅力は、一番の打者、一番の投手と言う以前に、前代未聞の二刀流選手だということである。僕自身も大谷選手の二刀流を見続けたい気持ちは非常に大きい。一番であるという以上に「唯一」の二刀流大リーガー、大谷翔平を見たいのである。

大谷選手の価値は二刀流の大リーガーというだけではない。大谷選手の二刀流の成功によって、様々な分野で二刀流に挑戦する人が出ており、二刀流が注目を浴びている。日本には二刀流という言葉があると同時に、「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もある。これまでは二つの事を同時にするというと、そういう意見をされることが多かったのではないかと思う。しかし大谷翔平選手の成功により、二刀流が肯定的に捉えられるようになってきた。しかし二刀流には一兎も得ずという危険性は常に付きまとう。二刀流に挑戦するに当たっては、そのようなリスクにさらされることは覚悟しないといけない。

学問を追究するにおいては専門を定め、一兎を追うことに専念することが要求される。それ故、学者は「専門家」とも呼ばれる。しかし研究者にも二刀流がいても良いのではないかと思う。何なら三刀流、四刀流でもいい。特に人生においては何刀流にでもなるくらいの気構えが必要である。細分化された専門にこだわり重箱の隅を突くようなことは避けたい。重要な事を成し遂げるには、しばしばいくつにもわたる知識と知恵が必要になる。すなわち一つの刀では核心に迫れない。本質に迫るような仕事を成し遂げる人は、いくつもの刀を持っている。

大谷翔平はとてつもなく凄い人間になってしまったが、大谷翔平のように二刀流に挑むバカな人間が何人も現れれば、その中の一人や二人くらいは大谷選手に迫るくらい凄い人間になるのかもしれない。歴史を変える人間とは、そのようなバカな人間から出てくるものである。

僕は僕にしかできない生き方をすべきだ。

人の幸せな姿を見て、自分もそのように幸せになりたいと思う人は多いかもしれない。しかし僕はそうは全く思わない。人の幸せがあるなら、僕には僕なりの幸せがある。僕は僕にしかできない生き方をすべきだと常々思っている。

僕は良い意味でも悪い意味でも普通ではない。普通ではないから、人が普通にできる事が出来なかったりする。逆に普通ではないからこそ、人には出来ないことが出来る。人に幸せを与えることが出来ているかなどと大逸れたことは言えないかもしれないが、僕は僕なりのやり方で人に幸せを与えるべきだと思っている。そのように周りの人や多くの人に幸せを与えることが出来れば、僕自身も幸せである。

そしてそのように人に幸せを与えるためには、今は努力をしなければならないと思っている。努力とは一言で簡単に言えるが、もちろん簡単に努力ができるものではない。しかし簡単に努力ができるくらいにならねばと思っている。

僕には研究において非常に大きな目標がある。そのような大きな目標を言うと、人にはバカにされるかもしれない。しかし僕にとってはそのような目標に向かうことは体の一部となっており、普通のことである。非常にチャレンジングでエキサイティングな挑戦であり、それに向かって進むことは非常にわくわくさせてくれることである。

僕に数理物理という目標を与えてくれたことに感謝、そして人とは違う生き方をできる事に感謝。よし、頑張ろう!

スタンダードで自己表現をする。

自己表現をする時に、奇をてらう人は多い。例えばファッションにおいて個性を出すと言えば、大概の人は奇抜な物を身に付けることによって個性を出そうとする。確かに奇抜なものは目立ちやすいしわかりやすい。しかし奇抜なものによって安易に個性を出そうとするのは、僕は個性でも自己表現でも何でもないと思っている。奇をてらわないと表現できないのは、人間性のなさだ。

男性の基本的な服装はスーツだと思うが、スーツにおいて奇をてらうことは一番ナンセンスだと思う。スーツはネイビーかグレーのスタンダードスーツでいい。しかし不思議なことに同じネイビースーツを着ても様になる人とならない人がいる。ネイビースーツを着こなすためには自分の体というものを熟知していなければいけないし、長年着こなして様になるものである。

ファッションだけでなく、普段の振る舞い、そして学問に対する姿勢も同じである。スタンダードという基本を身に付け、それによって表現しなければならない。学問においては人のやらないことが大事だとよく言われる。それはもっともなことであり、人のやらないところからスタンダードを作っていかなければならない。人のやっていることはスタンダードではなく流行である。

スタンダードとは日本語で言うと「標準」ということであるが、実はスタンダードを極めることは非常に難しい。スタンダードを極め、次世代のスタンダードを作らなければならない。そしてスタンダードにおいて自己表現をするということは非常に難しいものである。そのような深い自己表現ができない人はすぐに奇をてらおうとする。人のやらない事、人のやらない手法で取り組むときは、それが後々スタンダードになりえるかということを考えなければならない。

表層と深層。

物事にも人間にも、表層と深層がある。表層とは主に第一印象で決まることであり、真相とは時間をかけて感じられるものである。人間の奥深さ、つまり深層が大事なのは誰もが思っていることであるが、だからと言って表層が全くいらないかと言えばそうではない。車を買う時に、性能が良ければ塗装はボロボロでいいと言う人はほとんどいない。人間においても奥深さを持つということは非常に重要な事であるが、人間性という深層を深めればその余力で表層にも気を使いたいものである。

学問にもファッションにも表層と深層がある。学問とファッションにおける表層とは、流行に乗ることである。学問に対して流行があるとはなかなかイメージできない人も多いかもしれないが、学問においてもその時々の流行はある。そして流行を追い続けている研究者は非常に多い。しかし学問においてもファッションにおいても、重要なのは自分のスタイルを確立することである。流行の理論、流行のファッションと言う以前に自分のものでなければならない。

もちろん、ファッションにおいても学問においても流行を徹底的に追うというのは一つの手ではある。それに長けている人はその手を徹底的に追究すればよい。しかし意外と本質とは流行とは発想を180度転換させたところにある事が多い。その典型的な例がアインシュタインの相対性理論であろう。

表層と深層は多くの場合補完し合うものである。しかし多くの場合は深層が本質的であり表層が枝葉となる。そして流行から流行は生まれず、流行は本質から生まれる。流行を作ることは並大抵の事ではないが、深層を掘り下げることにより、次世代の本質の尻尾を掴めるのではないかと常々考えている。

才能、努力、運。

大きなことを成し遂げようと思えば、才能、努力、運の全てが揃っていなければならない。しかしこの三つは独立したものではなく、全てが連動している。才能とは努力ができる力であり、努力をすることによって運が巡ってくる。そして運を掴む才能が必要である。

先日、フィギュアスケートのグランプリファイナルがあり、女子シングルでは紀平梨花さんが優勝した。紀平梨花さんのスケーティングの才能は誰もが認めるところだが、その才能はおそらく努力の賜物であろう。そしてそのような努力と才能によって、グランプリシリーズ三戦全勝という運を掴み取ったのだと思う。

繰り返し言うようだが、運とは偶然ではない。努力ができない人間には200%運は巡ってこない。しかし努力ができるという才能を持った人には70%くらい運が巡ってくる。100%ではなく70%であるところが「運」という所以なのだ。そして自分の努力次第ではこれを80%、90%へと高めることができる。

人生は一筋縄ではいかない。そこが苦しく面白いところである。「努力は嘘をつかない」とよく言われる。これが100%本当かどうかは僕にはまだわからない。ただそれが本当であろうと嘘であろうと、今自分にできる事は努力しかない。努力が必ず報われるとは限らないから努力をしないというのは最もナンセンスな行為だ。少なくとも努力をした後には努力が残る。あとは自分を信じることができるかどうかだ。努力をしない人間は、自分を信じ抜くことができないのであろう。自分を信じ抜くことができるというのは大きな才能だと思う。

紀平梨花さんの活躍に刺激を受けて、自分の取り組んでいる事、自分の進むべき道を自信を持って進める事ができれば、それも自分という人間の大きな力だと思う。

自分は面白い人間か?

僕は常に面白い人間でありたいと思っている。では僕の言う面白い人間とはどのような人間か?それはお笑いのような面白さもあり、面白い生き方をしていることでもあり、また研究で重要な結果を出せる人間でもある。それ以外にも、お洒落な人間であることや挑戦し続けていることなど、言い出したらきりがない。

面白い人間は総じてリスキーである。なので無難な生き方をしたい人には、面白い生き方を薦めることはできない。面白い生き方をするためにはそれなりの覚悟がいる。僕はお金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは常にし続けている。お金のギャンブルをする人間ほど面白くない人間はいない。面白さとは先の見えない未来を開拓して行くことによって感じられるものなのである。

今僕は非常に面白い問題に取り組んでいる。その問題の解決に成功できれば、非常に面白い事になると思っている。そして面白さが面白さを呼ぶように、さらに面白い人間になれるのではないかと思う。ある意味、面白さを追求することは、人生を掘り下げる事でもある。別にお笑い芸人のような面白さがある必要はない。ただ人間としては非常に面白い人間であるべきだと思っている。

面白い人間になり切る前夜、どのように人生を模索して行くか?面白い人間の度合いは、それまでどのように人生を送って来たかにかかっている。

自分を克服する。

今僕が克服すべきものは、自分自身だと思っている。世の中には味方がいれば敵もいる。そしてそれは自分自身に対しても同じだ。自分が自分の一番の味方であると同時に、自分の中にも自分の敵がいる。そのような自分の中にいる敵を克服することは、緊急の課題である。

自分の外にいる敵は最悪そこから逃げればいいが、自分の中の敵からは絶対に逃げられないので、自分の中の敵は克服するしかない。自分の中の敵を克服することは決して簡単な事ではないが、自分自身を克服した先にはさらに高いステージの人生が待ち構えている。そのように一歩一歩ステージを上げて行く先から見える風景はどのようになっているのか?そのようなことを考えると、苦しいながらもわくわくした気持ちになる。

自由には二種類ある。一つは他人や社会から解放される自由、そしてもう一つは自分自身による束縛から解放される自由。意外と自分自身の思考が無意識のうちに束縛されていることが多い。しかしそのように自分自身の思考が束縛された状態では自由な発想が生まれるはずもない。

今自分が何かの目標に向かってそれを成し遂げようと思っているのならば、自分自身を徹底的に自由にしなければならない。そして自由の意味と生きる意味、そして目標に向かって生きていく意味などあらゆることを考え抜いて、自分だけの人生というものを構築して行きたいものである。

命が大事なのか?経済が大事なのか?

社会の機能において、経済の重要性は言うまでもない。現代社会においては、お金が回らないと生活そのものが成り立たなくなる。すなわち、経済が人の命を握っていると言っても過言ではない。

では、「人の命と経済のどちらが大事か?」と問われれば、ほとんどの人が人の命の方が大事だと言うだろう。このことは誰が考えても異論はない。しかし現在のエネルギー政策においては、必ずしもこの答えのように進むとは限らないようだ。人の命よりも経済の方が優先されることはよくある。このことは道義上は明らかに間違っている。しかし経済が多くの人の命を救う可能性があるということを考えれば、経済の重要性も考慮に入れなければならない。とは言え、無駄な犠牲を強いることは決してあってはならない。

エネルギー政策に携わっている政治家たちは、物もお金も、そして人間もマクロなレベルで考えることになるので、どうしても現場というものが見えにくくなるのかもしれない。もちろんそのような事を避けるために政治家は視察を頻繁に行っている。しかしそれで十分かと言われれば決して十分とは言えない。経済学にマクロとミクロがあるように、人間の動きにもマクロとミクロがある。この双方の視点を併用して施策を打ち出すことが大事であるが、実際にそれができる政治家は少数派であろう。

又聞きであるが、東日本大震災の時にビートたけしがこんな言葉を言っていたらしい。それは「2万人が死んだということが一件起きたのではない。一人が死んだということが2万件起きたのである。」確かにマクロ的な視点では、震災という出来事を一件の大きな事件とまとめようとしてしまう。しかしミクロ的な視点で見ると、そこには2万件という膨大な事件が日本各地で同時発生していたのである。何を主眼に置いて見るかによって、物事の捉え方は大きく変わる。何事も複眼的に見て判断しなければいけない。

時代の変化。良いのか?悪いのか?

時代の認識は常に変化している。昔良かったことが現在では悪い事だと言われることは多々ある。その逆もあるだろう。悪い事が時代が進むにつれて正されることは良い事だろう。しかし「なぜそうあるべきなのか?」という考察を全くせずに流れや雰囲気だけで変化して行くことには危険な事も多い。時には改悪されることもよくある。

そして最近の風潮で僕が危険だと思うことは「拡大解釈」だ。数学や物理では拡大解釈、あるいは一般化ということはよくされる。しかし拡大解釈や一般化をするに当たっては、その根拠、すなわち裏付けが必要である。同様に社会の風潮でも根拠や裏付けに当たる深い考察は絶対的に必要だ。考察のない拡大解釈は、多くの場合改悪につながる。

社会の方向性は良い方を向いていると思いたいが、現代社会の中にある風潮や認識を見ると、多くの改悪がなされていると言わざるを得ない。また、良い方向へと向かっていたとしても、度が過ぎると非常に生きづらい世の中になる。

メリットとデメリットは多くの場合同時に表れる。重要なのは、メリットとデメリットを天秤に掛けて判断することである。メリットだけを視野に入れメリットが1増えるとしても、デメリットが10増えればそれは本末転倒だ。物事は大局的に見て判断しなければならない。

僕がなぜこのような記事を書いたのか?それは現在の世の中が非常に生きづらい社会になっているのではないかと感じているからだ。確かに現代社会は非常に“便利”な世の中になっている。しかし便利だからと言って“生きやすい”という訳ではない。例えば昔はスマホもなく不便であるが故に一期一会を大切にしていた。しかし現代社会では安っぽい出会いが増えている。もちろんネット上でも大切な一期一会は存在するが、そのありがたみをなかなか感じられないでいるのではないだろうか?

技術は常に発展し続けている。しかしその技術の利用の仕方を間違えたり過度に依存しすぎると、本来人々を便利にさせるための技術が人々を生きづらくさせてしまう。そしてそのような事は技術だけではなく、風潮や人々の認識、そして規則にも言えることだ。

短期計画と、長期的展望。

焦っている時などは、つい目先の事ばかりに気が行ってしまうことがある。もちろんその時々の目先の事を処理することは非常に大事だ。目先の事をこなさないと次に進むことができないことも多い。しかし物事を長い目で見ることも非常に重要だ。特に大きなことを成し遂げようとしている場合は、目先の事に一喜一憂せずに長期的展望を持って物事を底上げすることが大事だ。

では目先の事とその先にある事ではどちらが大事か?言うまでもなく両方大事だ。短期計画と長期的展望の双方を照らし合わせて前に進むことが重要である。

長期的展望に基づいて実行するということは、ある意味持久走である。瞬発力だけでは大きなことは成し遂げられない。その一方、長い目で見て、どこでスパートをかけるか?そのように状況を読み、スパートをかける時はそこで全てをつぎ込む。そのような思いっきりの良さを持たなければならない。しかしスパートをかける時を間違えると、ゴールまでたどり着けない。つまり情熱と冷静な分析力を駆使して自分をコントロールしていかなければならない。

人生とは“送る”ものではなく“切り開く”ものだと僕は考えている。受動的に人生を送るのか?能動的に動いて人生を構築して行くのか?人生のオリジナリティというものは、能動的に動いてこそ発揮するのだと思う。

面白い、実に面白い。

人生も学問も、実に面白いものである。人生の何が面白いのか?学問の何が面白いのか?それは予想もしない展開が現れることである。人生も学問も、先が見えていれば実につまらないものである。結果が分かっているクジほどつまらないものはない。次の展開が読めないからこそ、努力をしてより良い展開を繰り広げようとするのである。

苦しい事と楽な事のどちらがいいか?と問われれば、多くの人は楽な方が選ぶかもしれない。楽して楽しい思いをすることができればそれはそれでいいのかもしれない。しかし本当に面白い事というのは、多くの場合苦しみから生まれる。「楽しみながら苦しむ」と表現すればよいだろうか。確かに無駄な事で苦しむ必要はない。しかし人生を懸けようとしている事で苦しむことはある程度必要である。

そしてもう一つ大事な事は「挑戦」である。挑戦のない人生程つまらないものはない。人生をレールに乗せるのではなく、人生というレールを作っていかなければならない。挑戦とは開拓なのである。人の背後で風を避けながら付いて行くのか?それとも常に先頭に立ち風を全身で浴びながら進んで行くのか?人それぞれ好きな方を選べばよいが、先頭に立ち全身で風を浴びないと見えない風景と喜びがある。そのような喜びを感じることができれば、人生も学問も実に面白いものになる。

先頭に立ち人生を開拓し、学問も開拓して行く。確かに苦しいことではあるが、そのように常に挑戦し開拓して行く姿勢を忘れずに進んで行きたいものである。

ピンチをチャンスに変える!

ピンチをチャンスに変えるとは、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるということだ。「ピンチの後にチャンスあり」とはよく言う言葉だが、同じことが起こっても、それをピンチのままで終わらす人とチャンスに変える人がいる。それは全てものの捉え方、思考の仕方の違いから来るものである。

ピンチになった時は、しばらく悩み苦しむことが多い。そしてそのような時に、その事ばかりを考えていれば、永久にピンチから脱することができない。ピンチの時に一度他の苦境のことに思考の対象を移すのである。すると、その苦境がなんてことないことのように思える。そのように他の苦境が解決すると、現在起きているピンチの事も自然に解決することがある。ピンチの時にそのピンチを脱する思考のルーティーンを確立することができると、精神を一段と強くすることができる。

こんな事を言いながらも、僕はかなり苦境に陥ることが多い。そしてそのような時にはネガティブになり悩むことが多い。しかしピンチを脱する思考のルーティーンが大分出来上がっているので、意外と早期にピンチを脱することができる。

確かに思考のルーティーンを確立するのは簡単な事ではないかもしれない。しかし試行錯誤してそのようなルーティーンを確立するための努力をすることは決して無駄ではない。そして思考のルーティーンを確立することができれば、ピンチが起こった時に「これはむしろチャンスだ」と思えるようになる。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきている。

十年くらい前からだろうか。世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきているように思える。なぜ十年前か?十年前というとちょうどスマホが世の中に出た頃だ。スマホに対する技術は凄い。そして現在もスマホに対する技術は年々向上している。しかしそのような新しい技術を凄いと感じたことはあるだろうか?ほとんどの人は「また新しい便利な機能が追加されたな」というくらいにしか思っていないと思う。

なぜ、世の中は科学に対する関心・感動を無くしたのか?それは現在の科学技術のほとんどがブラックボックス化されているからだ。技術の原理を知ろうにも、理解できるものではない。専門家でも畑が違えば理解することが困難だ。そういう意味で、スマホの科学に対する功罪は共に大きい。

一昔前までは、新しい技術が出れば「よくこんなものが出来たな」と感心したものだ。しかし現在は新しい技術が出来るのは当たり前となり、何の感動も覚えない。幼児でもスマホのスクリーンをタッチし、何の疑いも持たずにスクリーン上のキャラクターを操作している。

世の中の多くの人は、現在の科学技術の原理を微塵も知ろうとしない。スマホのように利用できて便利ならそれでいいのだ。科学の原理なんてどうだっていい。そう思っているのではないだろうか?

皮肉なことに、新しい技術が世の中に出る度に、世の中の人は科学技術に対して無関心になっていく。厳密に言うと二極化しているということだろうか?科学に大きく関心がある人、そして科学に全く関心のない人。この二極化は日を追うごとに顕著になってきている。

科学に無関心な人ほど、科学で何でもできると思っている。しかしそんなことは断じてないのだ。科学にできないことは山ほどある。科学を理解するとは、科学には何ができないかを理解することだ。コンピューターにできないことも山ほどある。まずは科学の限界と現在地を明確に理解し、ブラックボックスを覆う布を一枚でも多く剥いでいかなければならない。

手段が目的になってはダメだ!

僕自身は何かをしようとする時に、かなり手段にこだわる方だ。手段を選ぶか選ばないかということにはいろいろ意見はあるとは思うが、どのような手段を使って目的に到達するかということは非常に大事な事だと思っている。しかし手段をにこだわるとしても、手段自体が目的になってはいけない。あくまで目標を達成することが目的であって、手段は目的ではない。

目標に向かうに当たって、途中の道筋は柔軟に選ぶべきである。目標に向かう道筋をどのように選ぶかということは、その人の腕の見せ所である。目標に到達する前でも、道筋を見ればその人の考え方や力量がある程度見えるものである。とは言え、結果が全てという側面もあるので、結果を出した後になってその人の取った道筋や手段が評価の対象になる。

道筋を柔軟に変えることが大事と言ったが、時には目標自体を柔軟に変えることも大事である。しかし間違ってはならないのは、目標を変えるということと妥協をするということは全く違うということだ。科学研究においても、一つの目標に対して行き詰った時は、一度目標を変えることによってそのような状況を打開するのも一つの手だ。そして変えた目標を解決した後にまた元の目標に戻れば良い。そのような道を取ることによって、意外と視界が開けてくることがあるものだ。

人生の中では、大きな目標、中くらいの目標、小さな目標と、それぞれ階層分けされていると思う。大きな目標とは人生を懸けるに値する目標だ。しかし多くの人は、現実を目の当たりにして目標を小さくしていく傾向にある。しかし少数の人は、一つ一つの目標を達成して行き、さらに大きな目標へとステップアップして行く。そのような人は、人生とは挑戦の繰り返しであると捉えているのだと思う。

僕自身がこれまでどれだけの目標を達成してきたかと言われると甚だ疑問だが、少数の要所要所では曲がりなりにも最低限の目標を達成してきたつもりである。とは言っても、そのような過去の結果に対しては全く満足も納得もしていない。幸い僕の目標は時を経つごとに大きくなってきている。そして最近は手応えも感じている。後は自分が納得できる結果を出すだけである。