月別アーカイブ: 11月 2018

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

苦しみも、乗り越えれば財産になる。

人生は山あり谷あり。楽しい時があれば苦しい時もある。苦しい時は本当に死にたいと思ったりもするが、そのような本当に苦しい時を乗り超えた後ではその苦しみは財産になる。

苦しみを乗り越えるためにはどうすればいいか?その一つの解決法は、「今を見すぎず、未来を見る」ということである。今を楽しむことも大事だが、将来のもっと大きい楽しみは自分に莫大なエネルギーをもたらす。過去にこだわる人に現在はない。そして今を生きる人よりも将来を生きる人の方がエネルギーに満ち溢れている。

僕にはそんなに大した過去はないし、過去を考えたところで何の解決にもならない。しかし僕の未来には大きな自信がある。そして常に未来を生きる人間になることを心がけている。未来に生きると言っても、長生きをするということではない。僕が長生きをするかどうかなんて全くわからない。もし自分の命が長くないのならば、それまでの人生をどう輝かせるかが大事だ。そしてもし長生きをするのならば、その輝きを少しでも長く続けることが大事だ。

人生80年時代と言われているが、その80年が長いのか短いのか?人それぞれだろう。僕は80年は長いと思っている。しかし時間というのは過ぎ去るのは一瞬だ。80年は長いが、長いからと言って何もしないわけにはいかない。なので、未来を生きるとは言っても、まずは今を全力で生きる事がそのための一歩になる。

重要な古典的論文を読む。

研究者の多くは、最新の論文をチェックすることに労力をかけている。もちろん最先端の研究を推し進めるには、最先端の論文から新しい知識を得て、その先を築いていかなければならない。しかしそれは、枝葉の継ぎ足しであって、根幹となる部分の改革にはほとんどつながらないことが多い。

基礎を書き換えるためにはどうすればいいか?そのためには最新の論文ばかりに注目するのではなく、重要な古典的論文を読むことが必要になる。また、少し離れた分野の古典的論文を読むことも時には大きな力になる。最新の論文と重要な古典的論文をバランスよく修得することが必要だ。

僕は最近、重要な古典的論文を読むことを重視している。20世紀には様々な重要な論文が出されてきた。そのような革命的論文を一つ一つ習得していくのは非常に面白い。しかし忘れてはいけないのは、ただ習得するだけではなく次への研究へと生かさなければならない。

僕は最近、全く専門外の論文も読み始めた。例えば、山中伸弥教授のiPS細胞関連の論文などは非常に面白い。ただ専門外の論文には、わからない専門用語が多数出てきたり、その分野での英語の言い回しが分かり辛かったるする。しかしそのような困難も読み続けて行けばわかるようになるのだろう。専門外の人間が生物の実験をするなどということは全く持って無理だ。だからiPS細胞の論文を読むことは趣味の域を全く出ないのが悔しいが、その分数学や物理の専門の分野で力を発揮すればよい。

大型書店に行けば、日本語で書かれた専門書が多数置いてある。さらにAmazonを使えば、洋書も自由に手に入る。論文もネットで入手できるものが多い。そういう意味では、知識を修得するには非常に自由な時代になってきている。多くの知識を習得し、そこから自分の頭を使うことによって“知恵”へと昇華させることができれば、目的のものを構築して行く助けになるに違いない。

専門の王者、総合の王者。

専門の王者と総合の王者のどちらが偉いか?それは人それぞれかもしれないが、体操競技においては床のスペシャリストの白井健三選手よりも、総合の王者である内村航平の方が格が上のようだ。

学問においても、専門に細分化された分野でアクロバチックに凄技を繰り出す人がいる。その一方、物事を大局的に捉え大きな枠組みの中で理論を構成し、時にはその枠組みさえも越えてしまう人がいる。学問の世界でも、前者のような専門のスペシャリストよりも後者のような総合の王者の方がほとんどの場合格が上のようだ。

プロを目指す人は、まずは打ち込む分野において専門家になることが要求される。これは当然の事である。まずはそこに精通して理解を深めることによって、その周辺の知見も広がってくる。軸足を持たないことには全ての事においてブレが生じてしまう。専門を極めることが総合の王者になる第一歩なのである。

「広く浅く」では何も生み出すことができない。広い知識というものは、専門を極めてこそ威力を発揮するのである。「専門はとことん深く、そしてそれ以外の事にも広くそしてある程度深く」ということが大事なのである。そういう意味で、専門の王者と総合の王者はある程度同意語なのかもしれない。

問題を総合的、戦略的に考える重要性。

世の中にはあらゆる問題が溢れ返っている。社会問題、教育問題、国際問題など分野は様々だが、それらに対して場当たり的に対処していてはその場しのぎにしかならず、総合的、戦略的に取り組んでいかなければならない。

それは科学に対する問題でも同じだ。ある問題点が出て、そこだけを計算して数値を出しても、それはただの数値以上のものではない。その部分が全体の中でどういう位置づけか?そしてその問題を解決するためにはどのような道筋を立てるべきか?そのように問題を総合的、戦略的に考えていかないと永遠に穴の中で留まってしまうことになる。

近年の日本の政策を見ていると、何だかその場しのぎで済ましていることが多いように感じる。少なくとも、以前はある程度一貫した主張があったように思えるが、その時代は日本には経済的な余裕もあり、そういう意味では金銭的な基盤がしっかりとしていたから主張もある程度しっかりとしていたのかもしれない。とは言え、海外を眺めてみると、必ずしも金銭だけが物を言うようには思えない。お金が少なくてもしっかりとした主張をする国は存在する。

戦略のない対処は博打でしかない。上手くいけば運が良かった、上手くいかなければ運がなかったというようでは全く話にならない。確かに目標地点へ到達するまではかなりの失敗をするかもしれない。しかし重要なのは最終地点で成功するかということである。そのためには戦略的に物事を進め、途中では戦略的に失敗をし、最後で目標へ到達する。途中結果だけを見て物事を早計するようなことだけはあってはならない。

日本は良いのか?悪いのか?

最近テレビを観ていると、「日本はこんなにも凄い」ということを紹介する番組が多くなった。外国の人たちが「日本が凄い」と言ってくれるのは非常にありがたいが、日本人が自分で自分たちのことを称賛するのはいかがなものかと強く感じる。外国人が「日本が凄い」と言っているのを流す番組もあるが、その番組を企画・製作しているのは日本のテレビ局なので、結局日本人による自画自賛でしかない。

僕は日本で生まれ日本で育ち、生粋の日本人だと思っており、日本が好きだが、日本が本当に良い国か?と問われると、手放しでYesと言えない自分がいる。日本にずっと住んでいるからこそ、日本の良いとこ悪いとこが手に取るように感じる。

とは言っても、どこの国も良いとこ悪いとこはあるのかもしれない。世界で非常に住みやすい国だと称賛されている北欧でも、確かに国民に対する支援は手厚いが、それも高率の税金とのトレードオフの産物だ。どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。

日本が本当に良い国か?悪い国か?ということを判断するためには、一度日本を離れて日本という国を外側から眺めないといけないのかもしれない。もし外から見て本当に日本が良い国だと感じたら、その時日本の事を大いに称賛したいと思う。僕の心はどちらに傾くだろうか?

人間としてのメンテナンス。

車や電気製品のメンテナンスが重要であるように、人間もメンテナンスは必要である。中には屈強で全く病院にも縁がなく精神も肉体も常に万全であるという人もいるかもしれないが、多くの人は何かしらのメンテナンスをすることが必要になる。

女性なら美容などのメンテナンスを定期的に受けている人も多いかもしれないが、男性にとっても外見、内面のメンテナンスをすることを忘れてはいけない。ではなぜメンテナンスが必要なのか?それは日々の努力を最大限に発揮するためだ。日々努力している人にこそ、メンテナンスが重要になるのである。

例えば、好きな人と何とか付き合いたいと努力している人は、外見に対してのメンテナンスにも気を配るだろう。また、学問において何とか成果を挙げようと努力している人にとっては、まずは健康であることが重要であるし、精神面でも高いレベルで保たなければならない。

人間としてのメンテナンスはお金が必要であることもあるし、日々の意識の持ちようが大きく影響することもある。何か目標があり、それを成し遂げようと思えば、最終地点だけを見るのではなく、それまでの道のりを考えることも重要である。そしてその道のりの途中の各地点でメンテナンスを施すことによって、道のりを進むスピードも速くなることであろう。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。

今、本を買いまくっているけど、何か?

最近、本を買いまくっている。買っている本のほとんどは数学・物理関係の専門書だけど、周りの人から見ると「そんなに買ってどうするの?」と思われるかもしれない。しかし勝負に出る時はとことん出る!今は本を買うか買わないかが結果に直結すると考えているので、お金の許す限り必要な本はとことん買いまくっているのである。

本をそこまで買うと、消化するのも大変だ。なので必要な所をピンポイントで当たりたいところだが、やってみると最初から最後までマスターしたくなる。なので基本的文献はできるだけ全てをマスターするようにしているが、細分化されたところは不必要だと思われるところは飛ばして必要な所に直接当たるようにしている。

専門書というと洋書が大半だが、日本人にとって日本語で書かれた専門書は貴重だ。僕のような英語苦手人間にとっては、やはり和書の方が圧倒的に理解が進む。昔は「できるだけ洋書で」と思っていた時があったが、今は和書でできるところはとことん和書を参照にして進めている。世界的に見て、英語で書かれた専門書の次に多いのは和書だと聞いたことがある。確かに英語洋書にはかなわないが、日本語で書かれた専門書はかなり充実している。

お金の事を考えても、今本などに投資している何万円というお金を、将来何万倍にして取り返さなければならない。そのための研究に対するビジョンはほぼ固まっている。後は今買いまくっている本を基に細部を詰めていくことだ!

学問は面白い!

学問には二種類ある。一つは実用的価値があるもの。もう一つは純粋に学問的価値があるものである。実用的価値がある学問は分かりやすい。工学などは実用的価値の追究から生まれたもので、役に立つ技術を開発してこそ価値は上がる。それに対して理学(自然科学)は純粋に学問的価値を追究するところから始まり、本来は役に立つかどうかという所から距離を置いた所に存在する。

多くの人は、物事を役に立つかどうかということで判断しがちだ。しかしそのような物差しだけでは理学は存在しえない。哲学も同様である。役に立てるために哲学を追求するということも大いにあり得るが、カントが何かの役に立てるために批判三部作を創作したとは誰も考えないだろう。

しかし一つ注意しなければならないことがある。それは役に立つ科学は役に立たない科学から生まれるということだ。さらに言えば、役に立たない根本的科学の方が、役に立てるために考え出された工学よりも長い目で見れば圧倒的に役に立つということである。即物的工学というものは廃れるのも早いが、根本的科学は何百年と生き残ることになる。

僕は最近、学問の面白さというものを再発見している。それは科学に対してだけではない。哲学や経済学、歴史など、あらゆる分野の学問に対して魅力を感じるようになってきた。学問はいつになってもできる。だからいつになってもやらないか?それとも今すぐにやるか?人の判断は分かれると思うが、今やり、明日もやる。たまには息抜きも必要だが、学ぶというレベルを超えて最先端で学問を構築するプレイヤーになることができれば、物事を見渡す目は大きく変わるであろう。

生命の誕生は偶然か?必然か?

宇宙のある領域に生命が誕生する確率は何%なのか?この問いは地球上に住んでいる人間には難問である。なぜなら、少なくとも地球上には生命が100%存在しており、さらに知的生命体(人間)さえも100%存在している現実を毎日見せられている我々は、どうしてもこの確率を高く見積もってしまう。逆に地球上に存在する生命の現実を知らされていなければ、生命の存在、さらには知的生命体がその領域に誕生する確率は確実に0%と断定するだろう。しかし地球上に生命体、そして人類が存在する事実から、0%とは断言できない。

もし地球と同じ環境の惑星が存在すれば、そこには生命が誕生するであろうか?この答えは三種類ある。一つは100%、二つ目は0%、三つ目はその中間。この答えを出すために実験を行うことは不可能なので、人それぞれ言いたい放題である。しかしこのことの考察は、生命誕生のメカニズムを探るサイエンスにおいて非常に重要な問題である。近年は実験室で原始生命体を作ることに成功したとかいう話も聞くが、実験室と自然環境では設定に大きな隔たりがあり、実験室の結果をそのまま地球型惑星に拡張することはできない。

宇宙のある領域に生命、さらには知的生命体が誕生するかという問いは、「猿はタイプライターでシェイクスピアを打つことができるか?」という問いに似ていると僕は感じる。もし時間が無限にあれば、猿はいつかはシェイクスピアを打つことはできるであろう。しかし時間や宇宙空間は有限である。従って猿はシェイクスピアを打てる確率は限りなく0%に近い。生命誕生の問題も、時間や宇宙空間が無限であれば無限に生命体が誕生する。しかし時間や宇宙空間は有限である。さらにはこの問題の設定に「宇宙の“ある領域”」という制限まで付け加えた。この制限を設定に付け加えた理由は、地球上の知的生命体である人間が地球外生命体と接することが可能であるケースを想定するためである。

とは言え、地球上に生命体が誕生したことは奇跡であることは間違いない。さらには知的生命体である人間が誕生したことは、さらにそれとは比べ物にならないくらいの奇跡である。しかし、現在の人間が進もうとしている道はおかしくなってきていると僕は非常に危惧している。明らかにここ数年で人間の進化のパラダイムは大きな変化を遂げている。この変化が正常進化か?それとも異常への始まりか?このような事を危惧するのは僕が旧人類であるからだろうか?100年後の未来を開拓していく新人類の正常進化に大いに期待している。

突き詰めないと味わえない楽しさがある!

物事を突き詰めるのには多大な労力がいるし、それが好きな事であっても決して楽しい事ばかりではない。時には非常に苦しく、そのような幾たびの試練を乗り越えなければならない。そかしその先にある景色は、それを乗り越えた人にしか見えない。それは決してお金で買えるものではなく、また他人にやってもらうということもできない。

しかし物事を突き詰めた先には、その人にしか味わえない快感があるのだ。その快感を味わうために努力していると言っても過言ではない。それはある意味、アマチュアとプロとを隔てる岸壁とでもいうものだろうか。自分のレベルというのは、連続的に変化していくのではない。途中で必ず断層が生じるのだ。しかしその断層を乗り越えると、意外とその先はスムーズに行くことが多い。

現在は大学に行く人もかなり多くなってきた。しかし、目的意識を持たずに進学することほどもったいないことはない。お金を出して進学するからには、明確な目標を持って勉強に打ち込み、遊びも謳歌しなければならない。勉強をし続けることは生きていく上で非常に重要だが、勉強以外にも生きていく上で重要なことはたくさんある。そのようなこと全てに全力で打ち込み体当たりをすることが重要なのである。

物事を突き詰めた先にある景色を見るために、日々の課題をクリアし次のステージへと進んで行く。人生とはそのようなアクションの繰り返しだと思う。しかしこの繰り返しは決して退屈なものではなく、非常にエキサイティングな挑戦である。

視点の遠近法。

物事を解決するためには二つの視点が大事だ。一つは視点を近づけて物事を拡大してみる方法。もう一つは視点を引いて物事の大局的構造を見渡す方法だ。

物事を解析する時に、多くの人は視点を近づけて見ようとしがちだ。もちろんその方法も非常に有効であり、物事を拡大することによって細部が明らかになり、より詳細な解析が可能になる。しかしそれと同時に視点を遠ざけて全体を見渡すことの重要性を忘れてはならない。

多くの数学分野では、専門をより細分化し詳細な計算を実行するということが行われている。もちろんそのことによって多くの未知の事柄が明らかになり、研究が進むことであろう。しかし新しい分野というのは多くの場合、大局的に物事を捉える事から生まれる。もちろん詳細な計算はどの数学分野でも必須だが、大局的に捉えることなしに重要な結果はなかなか生まれない。

物事を捉えるときは、多くの場合複数の視点を持つことが重要になる。複数の視点を持つことによって物事の本質が立体的に浮かび上がる。三つ、四つの視点を持てればそれに越したことはないが、まずは遠近二つの視点を持つことを心がけなければならない。

物事を解析する目的は、何も数値をはじき出すことではない。数値を出すということは手段であり、最終的な目的は物事の本質を捉える事である。そこを勘違いすると永久に最終的な答えを出すことはできない。

自分には何が必要で、何が必要でないか?

生きていく上で絶対に欠かせないものはいくらかある。そのようなものは何が何でも手に入れなければならない。その一方、必要でないものもたくさんある。そのような必要のないものをいくらか持つことはある意味ゆとりとなるが、無駄なものを極力持たないということは非常に大事な事かもしれない。

僕が一番危険だと思う考えは「もらえるものは何でももらう」ということだ。これがなぜ危険なのか?それは「何が必要で何が無駄であるか」ということを全く認識していないからだ。タダでもらって損をすることはないと思われがちだが、実はもらって損をすることはたくさんある。逆に持たないことによって身軽になることもたくさんある。だから僕は道端でのティッシュ配りも極力もらわないようにしている。

ただ、無駄という曖昧さをいくらか作ることは非常に重要な事である。例えば浪費は極力しない方が良いかもしれないが、いくらかの浪費には意味がある。意味のある無駄と意味のない無駄を判断することが重要だ。

これまでの話に反するようだが、実は僕自身はかなり無駄の好きな人間だ。バカなことが好きであるし、賢い生き方はしたくないと考えている。それはなぜか問われれば、面白い生き方をしたいからである。賢い生き方を否定するわけではないが、面白い生き方をするためにはある程度バカになり切らなければならない。どこまでバカになり切れるか?そういうところにも人間の度量というものが大きく試されている。

身体と精神を高いレベルで保つ。

身体と精神は人間の両輪となって、生きていく原動力となる。しかし体力も精神も歳を取るにつれ老化するのが自然の摂理というものかもしれない。しかし生き方によっては、身体と精神の若さを保つことは不可能ではない。とは言っても、最近話題のアンチエイジングとかいう類のものではなく、身体の基礎体力、そして基礎的精神力をいかにして高いレベルで保つかということだ。

身体の若さを保つための特効薬はない。体力を高いレベルで保つためにはトレーニングをするしかない。ただしジムに行く必要は全くない。むしろジムなどというものには行かないということが重要な秘訣かもしれない。筋トレなどのトレーニングは、家でいくらでもできる。ダンベルさえあればいくらでも腕を鍛えることができるし、腕立て伏せ・腹筋をすればほぼ盤石である。さらに電車に乗る時に、駅の階段を二段飛ばしでダッシュすれば下半身も鍛えられる。プロスポーツ選手であればお金を払いジムに行って何時間も鍛える意義はあるが、我々一般人がトレーニングするに当たっては、いかに隙間時間を使って効率的にトレーニングするかとういうことが重要になる。そう考えればジムなどには行かない方が良いことは明らかだ。

精神の若さを保つためにはどうすればよいか?これも特効薬はない。しかし体力を保つためにトレーニングが必要なように、精神力を保つためにもトレーニングに当たるものがある。それは「挑戦」だ。常に未知のものに挑戦し、前に進むか。精神力を保つためにはこれしかない。多くの人は老化によって挑戦を避け守りに入ってしまう。しかし挑戦こそが最大の防御だとも言えるので、挑戦することにデメリットはほとんどない。確かに挑戦にはリスクというデメリットは付きものであり、挑戦せずに立ち止まるか、挑戦をして三歩進んで二歩下がるか、どちらを選ぶかは人それぞれであるが、僕は常に後者を選択することを心がけている。

今の僕は身体も精神もかなり若返っている。体力と精神力のどちらが欠けても最高のパフォーマンスを発揮することはできないと僕は考えている。確かに身体と精神力を高いレベルで保つためにはそれなりのトレーニングが必要だが、特別困難な事ではないと僕は思っている。自分の思考パターンの改善一つで身体と精神を高いレベルで保つことが可能になる。

数字ではないデータ。

現在のプロスポーツの世界はデータ社会である。その最先端を行っているのがプロ野球の世界であろう。投手の球速は昔から測定されているが、メジャーリーグの大谷翔平選手のニュースを見ていると、打球の飛んだ角度から打球の速さまで、様々なデータが紹介されている。その他にも、投球の回転軸や回転数までもが測定されている。

あらゆるデータを測定し活用することはもちろんメリットが大きいが、僕は必ずしもメリットばかりではないと感じている。例えばメンタル的な部分も大きな要素を占めるし、生きていく中では知らない方が良かったという情報も多々ある。大事なのは、自分がどのような情報を手に入れ、逆にどのような情報をシャットアウトするかという明確な基準を持つことだ。

そして大事なのは、データの中には数値で表せられない要素もたくさんあるということだ。さらに、数値的データも必ずしも完璧ではない。もし数値的データが完璧ならば、全ての人が上手くいっているはずだ。しかし現実はそうではない。

多くの人は「目に見えること」で評価しようとするが、それ以上に大事なのは「目に見えない部分を見る」ということだ。数字ではないデータをどれだけ把握しそれを基にコーディネートしていくか。そのことの重要性を理解していないと、数値的データに振り回されることになってしまう。

精神が勝つか?現実に負けるか?

精神的に瀬戸際に立たされている人は、世の中には少なからずいるだろう。そのような苦しい時には誰かに助けてもらいたいと思ったりもするが、精神的な苦しさは金銭のように数値的に明確化することもできないので、その苦しさを自分の中に抱え、自分で解決することが求められる。精神的な苦しさにセーフティーネットなどというものは存在しない。

何かに挑戦している時、結果が出る直前が一番苦しいのかもしれない。そこでもし結果が出なければもう後はない。しかしそのような崖っぷちに立たされているからこそ、通常以上の力を発揮することができるのかもしれない。

人それぞれ得意不得意があるので、他人が簡単にできる事ができなかったりする。逆に他人には絶対にできないことが自分にできることがある。もしそのようなことがあれば、それに人生を懸けるのも非常にエキサイティングである。ただし他人にそのような事を薦めてはいけない。そのような挑戦は非常にリスクが高く危険すぎる。

今年もあと約1カ月半。来年の中頃には平成という時代が終わる。次の年号がどうなるかはわからないが、自分自身の進むべき道を突き通し、何とか次の時代も生き延びたいものである。リスクのある危険な状態にあるにもかかわらず、ドキドキと非常に期待感を持っている自分もいる。自分の状況は非常に危機的な状況であるが、まあ大丈夫であろう。

万年筆。

僕は普段から万年筆を愛用している。はっきり言って、百円ボールペンやシャーペンでもほとんど不自由することはないのかもしれない。むしろ持ち歩くには、百円ペンの方が便利かもしれない。しかし僕が使っている万年筆は、すでに体の一部となり僕の人生に必要不可欠の一本となっている。

僕の万年筆は特に高価な物という訳ではないが、やはり愛用の一本にするためにはそれなりのものでなければならない。100円のペンではいくら長く使用していたとしても、なかなか愛用の一本にはなりえない。そういう意味では、初めの一本を選ぶときにはかなり吟味した方が良い。

万年筆には太文字のものが多く、店頭で人気なのも太文字の方が多いようだ。確かに太文字の万年筆の方が圧倒的に味がある。太文字の万年筆は、力加減によって様々な表現を出すことができる。しかし僕の万年筆は細文字だ。普段非常に小さい文字を書くことが多いので、細文字の万年筆は重宝している。例えばアインシュタイン方程式を書くには、テンソルの添え字がかなり小さい文字になるので、太文字のペンでは使い物にならない。とは言え、次の一本を買う時は、味のある太文字にしようかとも思っている。

作家などの文筆家は、やはり仕事道具となるペンにこだわる人が多いとは思うが、ただそれが飛びっきり高級なものであるとは思えない。やはり芸術品レベルの超高級万年筆は、実用的観点から見ても仕事ではあまり使い物にはならなさそうだ。僕自身も超高級万年筆が欲しいわけではない。それよりも自分の手足となって酷使に耐えることのできる一本が欲しいのだ。

今、ひそかに欲しいと思っている万年筆がある。しかしその万年筆を手に入れたとしても、現在使用し続けている手に馴染んだ万年筆は、壊れない限りは一生使い続けると思う。

学問を極める。

学問を研究している人の多くは、専門を定めてその専門分野を極めることを目標にしている。しかしトップクラスの研究者の多くは、専門分野以外の学問に対しても極めている人は少なくない。学問というものは一見関係のない分野に見えても、その基盤においてはかなり共通するところが多く、一つの分野を極めることが他分野を極めることにつながることが少なくないのだ。

学問に対する姿勢は人それぞれ違うが、一つの姿勢として学問なら何でもアリというのも非常に意味のある有効な手段だ。逆に一つの細分化された分野にこだわり過ぎると思想のたこつぼ化を招き、広い視野が保てなくなる危険性がある。

学問を究める事は非常に楽しくエキサイティングだ。万人がそのように感じるわけではないかもしれないが、少なくとも僕自身はそう感じているし、これまでそのようなエクスタシーに浸っている研究者を何人も見てきた。学問の発展はそのような人のエクスタシーから生まれるのだと僕は思っている。

学問の本質は専門化や細分化にあるのではなく、むしろ何でもありの複合化にある。少なくとも理系・文系などと隔離するのはナンセンスでしかない。とは言え、得意不得意があるのは仕方がないことだが、そこを克服するのも学問の研究には不可欠だ。という僕自身は“英語”という呪縛から全く抜け出せないでいるが、それも僕自身に課せられた試練なのかもしれない。

論。

論が立つのと、論の根っこを押さえるのは違う。論が立つ優秀な人は多い。論を立てるためにはかなりの知識を要するが、多くの知識を網羅し物事を解析できるからと言って、論の根っこを押さえられるものではない。論の根っこを押さえるとは、物事の要所を押さえることだ。つまり論を押さえるためには、知識を身に付けるだけではなく本質を掴まなければならない。

テレビ番組「朝まで生テレビ(テレビ朝日)」を見ていると、そのことがよくわかる。出演しているパネリストを見ていると、皆非常に論が立つ。多くの事を様々な方向から解析して見せる事には皆非常に長けている。しかし田原総一郎氏はそれだけではない。彼は論の根っこを常に押さえている。逆に言うと、非常に優秀な多くのパネリストたちは、論が立っても論の根っこを押さえていない人が多い。この番組は論の根っこを押さえている司会者・田原総一郎氏がいなければ成り立たないのだ。

ビジネスでもプレイヤーとしては優秀でも、管理職に昇格した途端平凡なマネージャーになってしまう人が多いとよく聞く。それは先ほどの論の話と同じで、マネージャーは物事の根っこを押さえる事が重要だが、それができていないからだと思われる。プレイヤーとマネージャーには異なった資質が要求される。

論を立てるためには勉強すればいい。しかし論の根っこを掴むためには単に勉強すればよいというものではない。勉強する論の奥にある本質を見抜かなければならない。では物事の本質を見抜くためにはどうすればいいか?そのための明確な訓練があるかどうかはわからないが、とにかくただ単に知識を吸収するだけではなく、とことん考え抜くことが必要だということは明らかだ。

内面は外見を上回っていなければならない。

たまに「外見は関係ない」という人がいる。しかし僕はそれは違うと思っている。正確には「内面は外見を上回っていなければならない」ということだと僕は考えている。

僕自身、身なりなどの外見には気を使う方だと思う。外見にも結構高いハードルを掲げるように心がけている。(それがどれだけ実行できているかはともかく。)ではなぜ外見に高いハードルを掲げようとするのか?それは内面がその外見を上回るくらいに持っていくことを目指しているからだ。つまり外見に対する高いハードルは同時に、内面に対するそれ以上高いハードルでもあるのだ。

もし内面が外見を下回っていれば、それは単なる見かけ倒しであり、張りぼてである。それを防ぐためには二通りの方法しかない。一つは内面の低さを隠すために外見をそれ以上低くすること。もう一つは外見のハードルを上げ内面をそれ以上に高めることだ。

もちろん、外見が質素であっても素晴らし内面を持つ人はたくさんいる。しかし僕がこれまでに出会った「人間は内面だ」と口に出す人は、内面もほぼ例外なくみすぼらしかった。立派な内面を持つ人は「人間は内面で勝負だ」とは絶対に言わない。

外見が質素であることは全く悪いことではなく、むしろ素晴らしいことである。そのように質素な外見を貫くことは一つの強い信念であり、外見に向ける気力を内面に向け内面を磨くことは非常に素晴らしいことである。しかし人間が実世界で生きている以上、まず人間の目に飛び込んでくるのは外見であることは紛れもない事実である。なので外見を高めイメージ戦略を行うのは非常に意味のあることだ。まずは外見によって自分のイメージを相手に伝え、その上で内面をアピールすることができれば自分の魅了は二倍にも三倍にもなるのだと思う。

不完全な知識で物事を判断することの危険性。

物事を判断するに当たっては、過大評価することなく、かつ過小評価することもなく、正確に判断することが重要である。そのように正確に判断するためには、それに対する知識を正確かつ完全に認識することが必要である。さらにそれに基づく思考を正確に行うことが重要であることは言うまでもない。

不完全な知識に基づいて判断するとどうなるか?自然、そこには想像的な要素が大きく入り込むことになる。想像することは重要かもしれないが、可能な限り現実に基づいて判断を下さなければならない。もちろん、どのような判断に対しても知識が100%完全であることはありえないので、どうしてもある程度の想像が必要にはなるが、危険なのは想像が妄想に変わることである。妄想に基づく判断は99%間違っていると考えなければならない。想像と妄想は全くの別物である。

物事を判断する時、最悪のケースを想定することが重要だとよく言われる。確かにケースによっては最悪のケースを想定することは必要だろう。例えば地震・津波の被害想定、鳥インフルエンザなどの感染症被害における対策などは最悪のケースを想定することが絶対である。しかし個人が取るべき道を選択するに当たっては、最悪のケースを想定することは圧倒的にデメリットが大きい。特に悪いケースを想定することによって身動きが取れなくなってしまう危険性が大である。

物事を判断する時の有用な手段として、リスクとリターンを天秤にかけるという手段がある。ほとんどの場合、リスクというものはどうしても避けられない。大事なのはリスクを上回るリターンが得られるかということだ。99のリスクを取って100のリターンを得る判断ができるか?しかし残念なことに、そのような判断を下せる人は多くない。

時には100のリスクを取って1を得るという手段に出ざるを得ないことがある。通常ならこれはほとんど暴挙と言わざるを得ない。しかし人生の中にはこのような勝負に出るべき時が必ず存在する。しかしその1は単なる1ではない。限りなく輝くダイヤモンドのような1なのである。このような勝負に出ることができるかどうか?それは人間の器というものに大きく関係してくることだろう。

とは言え、通常においてはできるだけ的確に判断を下し、メリットを最大限にすることが重要であることは言うまでもない。そのために不確定要素をできるだけ排除し、完全な知識に基づく考察により判断することが求められる。

社会的思想の観点から見た自由。

シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放されて、しばらく経った。安田純平氏の拘束・解放に当たって日本国民として考える事、思うことはいろいろある。

まず重要な事は、安田氏は大手メディアの所属ではなくフリーのジャーナリストだということだ。紛争地で犠牲になるジャーナリストのほとんどはフリージャーナリストだ。これは何も大手メディアの危機管理がしっかりとしているという訳ではなく、むしろ大手ジャーナリストは危険地には入らず、身の危険がある取材はフリージャーナリストが一手に引き受けているという現実からだ。言い方を変えると、大手メディアは自分の手を汚さず、安全地帯でぬくぬくとしていると言える。

そして最も重要な事は、今回のような事案が発生すると日本国内で必ず発生する「自己責任論」だ。自己責任論を叫ぶ国民の言いようは一見理があるように思えるが、その根底には非常に危険な思想が横たわっている。はっきり言ってこのような事は思想と呼ぶに値しないものであるが。

日本では皆がしないことをする人に対しては非常に風当たりが強い。このことは何もジャーナリストに対してだけではない。科学研究でも同じだ。ある程度確立された分野内で、ある程度他人が行った研究を追従する。そして人がしないことをする人に対して「意味がない」「絶対にうまくいかない」と盲目的に批判する。そしてノーベル賞を取った途端に手のひら返しだ。

もし皆がしないことを誰もしなくなったらどうなるのか?そのような世界に持続的な発展はない。このことが最も顕著に表れているのが、FAGA(Facebook、Apple、Google、Amazon)が支配する現在の社会構造だろう。このような社会構造に日本が乗り遅れたのは、何もITの重要性に気付かなかったからではない。皆のしないことをせずに他人の事を追従することしか考えない日本人的思考であると僕は考えている。これではもしITの次に来るパラダイムが訪れても日本はその主役にはなれないだろう。

少し話はずれたが、安田氏への自己責任論的批判には、誰もしないことへの批判に対する構造的問題が存在する。そして言うまでもなく、自由への放棄でもある。ある記事でこのようなことが書かれていた。「この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。」(プレジデントオンライン・元木昌彦氏の記事)

一体この国にある自由とは何なのだろうか?確かに日本という国は世界的に見れば自由な国である。国家システム的な視点から見れば自由かもしれない。しかし問題は社会的思想から見た自由である。今回の安田氏の解放に対して政府が自己責任論を言っている訳ではない。国に自己責任論などという法律はどこにもないのに、多くの国民が自ら自己責任論を主張している。僕はそのような社会的思想は国民が自らの首を絞めつける行為だと考えている。自己責任論を叫んでいる人たちは、「自分はそんなことをしない。だから自分には関係ない」とでも思っているのかもしれない。しかし社会的思想はあらゆるところで繋がっている。今回の安田氏の行動は、我々市民の生活に密接に関係していることだと気付かなければならない。

多くの日本人が自ら自由を放棄し、自らの首を絞めつけようとしている。そのような国の50年後、100年後にどのような自由が確保できているか?はっきり言って見通しは暗いものだと言わざるを得ない。

なぜルーティン化することが必要か。

決まりきった手続きや順序の事を「ルーティン」と言う。最近よく使われる言葉だ。以前僕は「ルーティーン」と伸ばして言っていたが、英語で書くと「routine」と書き、どうやら「ルーティン」や「ルーチン」の方が近いらしい。とは言え、こんなことはどうでもいい。

ルーティンと言えば、メジャーリーグのイチロー選手や、前田健太投手のマエケン体操が有名だ。僕自身のルーティンは、朝起きるとすぐに食パンを焼きホットミルクを入れて飲むというところだろうか。それから毎日の筋トレもルーティンかもしれない。

日常にルーティンを作ることは大きなメリットがあると僕は考えている。ルーティンを作ることによって日常のリズムを作ることができる。そして毎日同じルーティンを行うことによって、自分自身の些細な変化、好不調、違和感などを捉えることができ、それに合った対応を取ることができる。好調だと感じた時は、エンジンの出力を上げて最大のパフォーマンスを出すことができる。

ルーティンには前向きなルーティンと堕落につながるルーティンがあると僕は考えている。僕自身も前向きなルーティンをどんどん作ろうと思っているが、堕落的なルーティンを作ってしまうこともある。例えばYouTube動画をつい見てしまうとかお酒を飲むとかというものだが、この様な堕落的ルーティンは自分でコントロールできるうちに抜け出さなければならない。

大きな目標があるのなら、そのために何をしなければならないかということをしっかりと認識しなければならない。そしてそのことをより効率的に実行するために、ルーティンを構築することは非常に有用な手段である。

ミクロの世界とマクロの世界。

最近、少しだけ経済学をかじっている。(勉強したというほどでもない。)よく知られているように、経済学にはミクロ経済とマクロ経済がある。ミクロ経済は個人や個々の企業の動きを基に解析する学問で、マクロ経済は国家間などの大きなレベルでの経済を解析する学問である。

経済学にミクロとマクロがあるように、あらゆる学問でもミクロ的分野とマクロ的分野がある。その最たる例が物理学であろう。物理学ではミクロの世界を扱う量子論から、宇宙的スケールを扱う一般相対性理論まである。もちろんほとんどの物理学者は専門を定めて研究を行っているが、量子論と一般相対性理論の両方の素養があることは必要不可欠である。

物事を追究するにはミクロかマクロのどちらかに特化して細分化していけばいいが、本質を掴むためにはミクロとマクロの双方から物事を俯瞰することが重要になる。これは学問だけに限らず、あらゆることに言えることだ。

しかし近年は物事を扱うスケールが巨大化し、全てを俯瞰することは現実として不可能になってきている。しかし物事を広く見渡す視点は今でも重要である。しかも、「広く浅く」ではダメだ。重要なのは「広く、そしてある程度深く」である。さらにもちろんそれだけではダメで、「かつ専門は徹底的に深く」ということを付け加えなければならない。

専門を深く追究することを軸とし、世界のことを幅広くある程度深く理解する。そのような素養を身に付けると、ミクロの世界を覗く顕微鏡とマクロの世界を見渡す望遠鏡を上手く使い分けることにより、物事の本質がより鮮明に見ることができるであろう。

勝負をかける時はとことん前に出る!

物事には「ここぞ!」という瞬間が必ず存在する。その瞬間を逃すとしばらくは勝機は訪れない。そのような瞬間を感じた時は、とことん前に出ることが大事だ。間違っても中途半端な姿勢を取り、勝機を逃してはならない。

勝機だと感じた瞬間には、時間とお金もとことんつぎ込むべきだ。確かに時間とお金を全てつぎ込むのはリスクであり賭けである。しかしとことんリスクを取ることでしかそれ以上の成果を得ることはできない。

理論の研究にかかるお金などはたかが知れている。専門書も高額だといっても、せいぜい一冊一万円前後だ。実験系の研究だと数千万円かかる研究も世の中には多く存在する。

僕は最近、連日高額な専門書を購入している。和書はジュンク堂で、洋書はアマゾンで購入しているが、たかがとは言え、やはり一冊一万円前後する専門書を購入するのには少々迷う。しかし結局は毎回購入するというパターンになる。やはり勝負の時にたかが本などの購入に迷ってはいられない。今、勝機を見出している。

専門書は平均して300ページ程あるものが多い。しかし間違っても300ページ全てをガッツリ身に付けようと思ってはいけない。必要なのはどの部分かということを見抜いて、ポイントを押さえることが必要である。最初から最後まで理解しようというのは勉強である。研究は300ページの中の1ページでも役に立てば御の字なのである。

先ほど、羽生結弦選手のスケートをテレビで観た。今季世界最高得点で優勝を果たしたが、やはり羽生選手の勝負強さは半端ではない。研究者とスポーツ選手の勝負は見かけは全く違うのかもしれないが、共通するところも多くあるのではないかと思っている。

勝機を見出した時に勝負をかけてとことん前に出る。その先の世界がどう広がるのか?非常に楽しみである。

解釈の自由度。

良い思想、良い哲学というものには解釈の自由度がある。そのような思想哲学は書いた人の意志だけではなく、受け取る人間の意志によっても意味は大きく変わってくる。すなわち受け取る人は、その意志によってさらに新たな思想や哲学を構築して行くことができる。

一見画一的に見える数学や物理の理論にも、解釈の自由度は大きく存在する。同じ理論を見ても、考える人によって見える世界が大きく違う。数学や物理理論というものは思っている以上に自由な世界なのである。

解釈の自由度があるということは、受け取る人の力量が大きく問われるということである。受け取る人の思考力がなければ、解釈の自由度は逆に焦点が全く定まらないぼやけた世界にしか映らない。逆に受け取る人の哲学的基盤がしっかりとしていれば、そこから自分的な明確な解釈が可能になる。

解釈の自由度がない世界というものは、ある意味レベルの低い世界と言える。そしてそのような世界は総じて硬直的である。解釈の自由度は思考や人間性に豊かさをもたらす。優れた数学理論や物理理論に魅了されるのは、その世界の景色が美しく豊かであるが故である。

今自分が何かに打ち込んでいるのならば、そこに潜むより深い解釈を追求することが自分に人間性の高さと豊かさをもたらすことになるだろう。

自由人とは?

自由人とは好きな事を好き勝手にやっているだけの人ではない。だから好き勝手に遊んでいる人などはとても自由人とは呼べない。では自由人の“自由”とは何に対しての自由なのか?それは思考や発想、そして行動の自由である。自由に行動するためにはその根底に自由な発想がなければならない。だからこれらの自由はセットであると考えた方が良い。

自分がその道で自由人であるためには、行動の自由と精神の自由を確保しなければならない。このことは一見簡単なように思えるが、実はこれが簡単にできない。何らかの束縛を受け、自分で自分を束縛してしまうのである。もちろん中には簡単に自由人であることを成し遂げてしまう人もいる。そのような人は自由人としての才能がある人なのかもしれない。しかし我々のような人は、常に「自由であるとはどういうことか?自由であるためにはどうすればいいか?」ということを自問自答しなければならない。

自由人とは、「リスクを取り、それ以上のメリットを得る生き方」だと僕は思っている。人生は一度しかないのだから、常に瞬間を悔いなく生きなければならない。しかし“悔いのない選択”を行うということは、多くの場合リスクを取ることである。そしてそのリスクがメリットに変わった時、人間は自由になれるのである。

このような行動的及び精神的自由人になるためには、生きる意味を常に意識して目標に向かわなければならない。簡単な生き方ではないが、それでも考え抜いてそのような自由を手に入れる価値はある。

批判されてナンボ。

自分の意見や行動に対して、100%の人から賛成されるということはほとんどない。もし誰からも批判や反対がなければ、それは何もしていないか当たり障りのない事しかしていないかのどちらかだ。そういう意味でも批判を受けるということは肯定的な意味合いもある。

人が歩んだことのない道を開拓する時には、反対意見は必ず生じる。100%賛成されることはなくても、100%反対されることはあり得る。もちろんそれが無謀な暴挙ならば言語道断だが、明確なビジョンを持って自分に勝算があると判断したのならば反対を押し切って踏み出るのも手だ。

物事を判断する時に、好き嫌いでは判断してはいけないとよく言われる。確かに論理的な判断を下すに当たっては好き嫌いは持ち込むべきではない。ただ好き嫌いという判断にも一理はある。それが自分の進むべき道に対しての判断ならば、好き嫌いという要素は非常に重要である。それによって自分自身のパフォーマンスが大きく変わるからだ。

最近の世の中は、批判に対して過敏になりすぎているように思える。もし自分が正しいと思って取った道ならば、少々の批判などに左右されてはいけない。また、それだけ批判を浴びているということは、それだけ注目を浴びているということである。逆にその注目を逆手にとって利用してやろうというくらいの手段を取った方が良い。

「批判どんと来い!」くらいの心構えを持って、周りからの批判の圧を逆に利用するくらいの重みを自分の中に作るために、どんどんと心臓に毛を生やしていきたいものである。

職人であること。

人間としてどうあるべきか?その答えはいくつかあると思うが、その中でも「職人であること」は非常に重要だ。職人と言えばマニアックな手仕事を思い浮かべるかもしれないが、プロスポーツ選手も職人であるし、学者も職人と言える。またこのようなプロ職以外にも、自分の仕事や打ち込んでいることにプロ意識を持って取り組んでいる人も職人と言えるかもしれない。

では、なぜ職人であることが重要なのか?それは職人であることから来る知恵や見識を持つことがあらゆるところで不可欠であるからである。さらにその人独自の技術も持ち合わせていることだろう。テレビなどを見ていると、畑違いの人が他の事に対して意見を言っていることがある。それは例え畑違いであっても、その人が持っているプロ職人としての知見を軸にして、あらゆることにその知見が対応できるからだ。職人としての知見は、専門分野以外でも大きく発揮できる。

逆に、職人でなく幅広い“知識”(知恵ではない)を持っている人の意見や考えは総じて陳腐だ。そのような人の多くの知識は、職人の一つの知恵にもかなわない。

高校までの授業とは違って、大学では学部学科が専門的に分かれている。その中で専門外の事も学びながら専門の知識や技術を身に付けていく。これらの事は専門職人としての知見を身に付ける上では大きな力になる。そして大学を卒業した後は多くの人が大学の専門とはほとんど関係のない職に就くとは思うが、大学で学んだ専門知識と教養を軸としてあらゆることに対応することができるだろう。しかし大学を就職するための肩書としてしか考えてないのならば、大学などには行かずに就職予備校に行ったほうが良い。

プロ職人になるためには、何より実践が大事である。理論や技術を学びそれを適用して実践してみる。職人として極めるためにはそれしかない。しかしそれ以外の教養的知識があれば、それも大きな助けになるであろう。