月別アーカイブ: 10月 2018

大学は何のためにあるのだろうか?

近年、大学への進学率は非常に高くなっており、とりあえず大学に行くという人も多いだろう。もちろんそれは悪いことでは全くないが、しかしその一方、大学に何をするために行くか?また、大学は何のためにあるのか?という議論が社会でほとんど行われていないことに危機感を感じる。

大学は何のためにあるのか?と聞かれたら、多くの人は学問を修めるためにあると答えるだろう。しかし体育大学などではスポーツがメインであるように、学問以外の目的のためにある大学もある。(もちろん体育を学問的に研究されてもいるが。)また、専門職大学(大学院)のように、実務を目的とした大学も存在する。なので、大学の主目的が学問であると一概に答えることはできない。

近年、益々顕著になりつつあるのが、大学の就職予備校化だ。このことに異論がある人も多いであろうが、現実は就職が最大目的だという人の方が圧倒的多数であろう。もちろん、希望する職種を目指して大学で学問に励むという頼もしい強者も多くいるが、その一方、大学の授業そっちのけで就職活動に埋没する人には疑問を感じる。

もちろん、大学で学問を学ぶ力と就職してから必要になる力はかなり違う。なので、就職するために大学で真剣に学ぶ必要はないという声も聞かれるかもしれない。しかしそれなら、そもそも大学に行く必要は全くない。大学が就職予備校と化す前に、就職予備校というものを本当に作ればよいのではないかと強く感じる。それは就職予備校というものに対してのネガティブな意見ではなく、就職予備校で徹底的に実用的知識及び行動力を身に付けるというポジティブな意見からだ。大学に行くのなら、学問に励みつつ就職活動を遂行してほしいと強く願う。

僕の身の周りであった出来事であるが、現実として学問に真剣に励んでいる人がそれが故に就職にあぶれ、ゼミ中に教室の後ろで携帯をいじくっている人が就職活動に励み日の目を見るということが至る所で見られた。これは大学及び社会の構造的欠陥ではないかと強く感じる。

とは言え、好きで学問を修め研究を行っている人にとっては、このような事はあまり気にしないのかもしれない。大学でサボって上手く就職した人も、仕事で成果を出せれば大学時代のことなどは小さな問題なのかもしれない。とにかく自分がすべきことを見つけ、それにまい進することができれば、その人にとっても社会にとっても大きな財産になるのではないかと強く感じる。

今すべきことに対して、一歩でも前に進むことを考え行動していく。これができれば人生に対してそう大きく迷うこともないのではないだろうか。

(過度な)整理整頓は必要ない!

子供の頃から整理整頓をしなければいけないと教えられた人は少なくないと思う。おそらく学校では例外なく整理整頓をしろと強制されてきたであろう。普段から几帳面に整理整頓ができる人はいいが、僕のように整理整頓が苦手な人にとっては苦痛でしかなかった。

しかし、僕は身の回りのものをある程度散らかすということは大事なことだと思っている。世の中というものは、すべてが整理されている訳ではない。混沌とした中で何がどこにあるのか?そしてその中で本質的な所はどこか?このような事を認識する嗅覚は混沌と散らかった中で養われるものだ。

身の回りを整理整頓すること以上に大事なのは、頭の思考を整理整頓することだ。そして相反することのようだが、頭の整理整頓は身の回りの物をある程度散らかすということから養われる。残念なことに、身の回りを(過度に)整理整頓している人は、頭の思考回路の本質的な整理整頓に欠け、形式的な整理に終始している人が多いように感じる。

ここで一つ実例を挙げよう。僕が大学院時代に接した研究者の中には非常に優秀な研究者が何人かいた。その中の一人にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を取るのではないかと言われていた優れた数学者がいた。その数学者の頭の思考回路は非常に明晰だ。しかしその一方、研究室の机の上は専門書が山積みでプリントや論文が溢れかえっていた。一体この数学者はどこで研究をするのだろうと不思議に思っていたが、器用に場所を見つけ、次から次へと重要な論文を書き上げていた。その数学者の印象は僕の中に強烈に焼き付けられている。

確かに自分の活動するフィールドによって求められる能力は違う。だから人によっては整理整頓をすることは非常に重要であろう。(というより、このような人の方が圧倒的に多いかもしれない。)あくまで僕の個人的な実感であるが、数学や物理などの究極的にクリエイティブな分野では、「散らかった中でどのように物事を試行錯誤し俯瞰するか?」という能力が求められる。しかし常に(過度に?)整理整頓された環境ではそのような試行錯誤を行う環境に乏しいし、また本質的でないところに気をとらわれ過ぎてしまう危険性がある。

身の回りの物の整理整頓よりも、頭の中の整理整頓の方が圧倒的に重要である!

頑張れる、頑張ろう!

最近は、頑張るということがなぜかネガティブな意味で捉えられることがあり、少し寂しい思いがする。頑張らずにどう生きるか?それも一つの生き方としてはありなのかもしれないが、大きな目標へと進んでいる人間にとって頑張ることは必要不可欠だ。他人に絶対に頑張れとは言わないが、自分が頑張ることに関しては誰も責めることはできない。

最近、僕の内面に関して少し変化があった。少し前のブログでも僕がコーヒー中毒であることを言ったが、最近、コーヒーを飲む量を大幅に減量し、カフェイン中毒からの脱皮を目指している。

現在はコーヒー中毒から抜け出す途上であるが、カフェインの摂取を大幅に減らしたところ、精神的な面を含む内面に関して変化があった。明らかに思考パターンなどの精神的な面で良い方向へと変化してきているのである。そしてカフェイン中毒から抜け出すことにより心身の調子も良くなり、いろいろとさらに頑張れるような気になってきたのである。

これまでは頑張ろうと思っても、頑張り切れないことがよくあった。しかし今はこれまで以上に頑張れる気がする。ならば頑張るしかない!一日コーヒー7杯飲んでいたところを、一日1杯に抑えた。するとその1杯がこれまで以上に元気をもたらしてくれる。睡眠の質も明らかに良くなった。これらの変化は自分自身の試行錯誤の成果だと思っている。やはり考えながら生きるということは非常に重要である。

今は頑張れる!ならば頑張ろう!期限は2019年12月31日!絶対にこれまでに結果を出すと決めている。

日本に居ながら、日本にいない。

江戸時代まで、日本人にとって日本が全てであった。そして明治に開国してから地球上の世界が全てになった。現在も、数える程の人間が宇宙に行ったとは言え、人間の活動は事実上地球上に留まっている。

飛行機などの交通が発達して、海外に飛び立つことはそんなに難しいことではなくなった。世界を飛び回るビジネスマンから科学者、そしてジェットセッターと言われる人が多くいる。

そして現在は次のステージに突入した。ITの発達により瞬時に(仮想的に)世界を飛び回ることが可能になったのだ。すなわち、日本に居ながら世界的な活動を行うことが可能になったのである。

しかし本当に大事なことは、飛行機で物理的に世界を巡ることではなく、世界を思想で包むことである。科学においてもビジネスにおいても、世界を包むレベルで活動することが求められるのである。

日本に居ながら、日本に居ない。そのような考えで世界的レベルの活動を行うことも十分可能だが、僕自身も物理的に海外に行き、世界的な評価の下で研究活動を行いたいと強く思っている。またそれは現在の大きな目標でもある。

過去に誇れるものはない!

人間は三つに分けられる。過去に生きる人、未来に生きる人、そして現在に生きる人。僕自身は完全に未来に生きる人だと思っている。もちろん現在を生きている訳だから、現在を悔いなく生きることは非常に重要だ。そして過去に生きた出来事は事実なのだから、過去に生きた歴史は変えられない。

しかし、どこを見て生きるかということは非常に重要である。そこで僕が心に留めているのは、「過去を見過ぎず、過去に生きない」ということだ。過去を見るとは、過去の学歴、過去の交際、過去に手に入れたものなど、過去の栄光を誇ることだ。あるいは過去の暗い人生を卑下することかもしれない。

僕には過去に誇れるものはないし、過去を卑下することもない。現在の自分にとって過去は歴史的事実でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。そして最も重要な事は、過去の事実は変えられないとういうことだ。だから過去に引きずられることはデメリットしかないと考えている。

しかし未来は変えられる。ならば未来を自分の目指す方向へと変えることに注力すべきだ。過去の栄光を誇るのではなく、未来の栄光を胸に秘めるべきだ。未来があるからこそ、現在の生き方に対して試行錯誤できる。

未来を生きることができれば、「今、人生が面白い」と心の底から思うことができる!

自然体でなくていい。

自然体でいることが大事だという話をよく聞く。たしかに自然体でいることにより素の自分が出せることになり、精神的にも対外的な印象に関しても非常に良い効果が出せるように思える。しかし僕は、「自然体であることが自然」ではなく、「自然体でないことの方が自然」ではないかと感じる。

自然体でいることに神経を尖らせ、むしろ自然体が自然でなくなることがよくある。そのような時は、「自然体でなくていい。むしろ自然体でない自分を出すことが自然だ」という発想の転換を行うことが、あらゆることに良い影響を与える。

そもそも、人間が裸ではなく服を着て生活をするように、自分を装って表現することは自然な事である。自然体ではない自分を装うことは、むしろ自分という人間の自己表現だと言える。大事なのは、自然体から脱皮して、いかに自分を良い方向へ作るかということである。

普段の人ごみの中でもまれていくと、自分が自分で無くなっていくような感覚にとらわれることがある。しかしそれは、自分で無くなっていくのではなく、単に自分が変化しているだけなのである。そのような変化した自分も、自分そのものなのである。だから、自然体でない自分というものは、一種の自分の変化だと言える。

ただし、自分の変化の方向は、成長する方向へ向けなければならない。しかし現実は、退化する方向へ変化する人も多い。自然体でない自分を作るということは、自分に対するプロデュースである。いかにセンスのあるプロデューサーになるか?自然体でない自分を構築するのもなかなか面白い挑戦である。

自分を守る。

僕の人生は非常に攻撃的であると思っている。他人から見てどう見えるかはわからないが、何事にも積極的に出て行こうと思っている。しかしそのように出るためにも、自分という存在は確立していなければならない。自分が確立していなければ出るものも出られない。

「攻める」という言葉からは対極的にあるようだが、僕は「自分を守る」ということも大事だと思っている。自分を確立するための第一歩は、自分を守ることから始まるからだ。

攻めていくということは、周りから攻められるということでもある。攻められるのだから、自分を守る術を持たなければならない。しかし剣と鎧のバランスは非常に重要である。

昔、ドラゴンクエスト(現在も続編は出ている)というロールプレイングゲームにはまっていたことがある。剣で攻撃力を上げ、鎧で防御を固め、戦い経験値を上げていく。今思えば非常に良くできたゲームである。僕らが生きているこの世の中は、モンスターを倒すわけではないが、一種のリアルロールプレイングゲームだとみなすことができる。そのような現実世界の世界観を詰め込んでいたからこそ、ドラクエはヒットしたのだろうか?

話しは戻るが、自分の守り方には二種類あると思う。一つは攻撃的な守り、もう一つは消極的な守り。消極的な守りは自分の世界観を狭め、知的活動も退化していく。攻撃的な守りによって自分を高め、どのような険しい世界に打って出ても攻めていけるようなタフな自分を作りたいと常々思っている。

仮に逃げるとしたら、「研究に」だ!

普段生きていれば、時には逃げたくなる時もある。今やっていることに対して、これが果たして意味のあるものか?と思い、くじけそうになる。そのような現実に対してどう対処すべきか?あるいはどこに逃げるのか?

「逃げる」という言葉にはネガティブなイメージが付きまとうが、同じ逃げるにしても、どこに逃げるかによってその意味合いは大きく変わる。破滅的な方向へ逃げるのか?それとも建設的な方向へ逃げるのか?そのどちらに逃げるかによって、その人の人間性が試されると僕は思っている。

そのどちらに逃げるのが良いか?僕はそれをバネにして建設的な方向へ逃げることを心がけている。その建設的な方向とは、僕の場合は数理物理の研究に逃げるということだ。数理物理とは僕にとって生きがいであるが、同時に避難地でもある。ここに行けばまず大丈夫という絶対的な安堵感がある。とは言え、時にはそこにこだわるがあまり非常に苦しい立場に立たされることもある。それはそれで試練と受け止め、乗り越えていかなければならない。

では破滅的な方向とは何か?例えばお酒に逃げるとか取り組んでいることを投げ出すとかいろいろあると思う。では破滅的な方向へ逃げることは悪いことなのか?僕はそうは思わない。時には破滅的な方向へ逃げるのもいい。自分が完全に破滅しない程度に逃げるのは良いと思う。そしてそこからリスタートし建設的な道を歩めばよいのである。

生きていればいろいろと苦しいこともある。そのような時に研究に逃げられるようにその避難地は確保しておきたい。一番苦しいのはその避難地がなくなることだから。

健康マニア。

企業のトップになるような人は、健康マニアが多いという話を聞いたことがある。やはり企業のトップとして最高のパフォーマンスを発揮するためには、何を差し置いても健康であることが一番重要であるということかもしれない。

誰しもが健康でありたいとは思っているだろうが、健康マニアか?と言われるとマニアというほどではないと答えるだろう。しかし先頭に立って物事を突破するためには、何事においてもマニアだと言われるような突出するくらいの覚悟を持っていなければならない。もちろん本業ではマニアよりもさらに上のプロフェッショナルというレベルの事が要求される。しかし本業以外に関してもセミプロになるくらいの考えがなくてはいけない。あるいはそれが嫌ならばゼロでいる方が良い。中途半端に何となくというのが一番得るものがない。

近年はネットが発達し、一般的な情報はすぐに手に入るようになってきた。このようなネットの力を利用しない手はない。健康に関する情報なども、ネットや雑誌を利用してどんどん入手すればいい。しかしネット情報というものは玉石混在している。そのため、偽情報に振り回されることだけは避けなければならない。情報の真偽を見分ける方法はいくつかあるが、まずは情報の発信源は信頼の置けるところか?そして複数のソースから確認する、ということくらいはしなければならない。

現代の健康マニアへの道は情報戦である。いかに“信頼”のある“多くの”情報を手に入れるかということに尽きる。そのような情報を手に入れた後は、それを基に自分流にアレンジし実行するだけである。健康マニアになって、トップを目指そう!

ノーベル賞から一般人が学ぶべきこと。

先日は本庶佑教授のノーベル医学・生理学賞受賞で盛り上がったが、ノーベル賞を一夜騒ぎのお祭りで終わらせるのではなく、科学者でない一般人にとってもノーベル賞から学ぶべきこと、考えるべきことはいろいろある。

ノーベル賞から学ぶべき最も重要な事は、基礎科学は本来、役に立つかどうかで評価されるものではないということだ。確かに重要な科学的成果が人々の役に立つことは往々にしてある。しかし役に立つかどうかということは科学の一側面しか表していないのである。特にノーベル賞受賞対象となる基礎科学は、極論を言うと役に立つかどうかということとは全く関係ない。実際、2017年のノーベル物理学賞受賞対象となった重力波は、少なくとも現段階では全く役に立つめどは立っていない。しかしそれでも科学的価値は絶大なのである。

科学は役に立たないと意味がないと思っている人は、“科学”と“科学技術”を混同しているのではないか?科学技術は確かに役に立たないと意味がないのかもしれない。しかし科学の価値は、役に立つかどうかという所とは全く別次元の所にある。役に立つかどうかという物差しとは全く違う物差しが必要なのである。

以前僕のブログで、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを書いた。これは僕が百歩譲って書いた論である。百歩譲って科学の価値を役に立つかどうかということに置いたとしても、役に立たない科学は重要だということである。

今週はノーベル賞の発表が続くノーベルウィークであるが、今一度、役に立つかどうかという尺度とは違った観点から科学を眺めてもらいたいと強く願う。